ヤジ馬
ヤジ馬の楽しみは、ふだん見られないものを見るという楽しみである。そのことがしばしば誰かの迷惑になろうとも、好奇心の方が上回ってわれもわれもと押し寄せてしまう。そして、あとで見たことを、見ることのできなかった人に自慢そうに話すという楽しみもある。
ネットで評判の店に押しかける、行列する、ハロウィーンの人出が多いのを見に行く、それらもある意味でヤジ馬の行為と言って良いだろう。ただ、最近の傾向として、好奇心が本当に動いての行動ではなく、そこに行ってきた、というのを友人ばかりではなく、インスタグラムなどで自慢することが主な動機になっているように思う。とにかく他人の評価が何より行動の動機なのではないか。しかもそれを大々的に取り上げるマスコミもマッチポンプである。自分で火をつけながら、「渋谷には集まらないように」などという。
前回のブログは言葉足らずの点もあったと思うが、世の中が、特に若者がそのような動機で集団行動をしているように見えるのが愚かしく感じられることが根底にあっての曾野綾子への賛同だった。
もちろんそんな集団行動に参加しない若者もたぶん多いだろうと思う。私もそうだったから。しかしそういう若者はマスコミは取り上げないから、まるで騒ぎを起こす若者が普通みたいに扱う。成人式の乱痴気騒ぎなど、マスコミが演出したものだといいたくなくなる。報じてもらうために騒いでいるのが見え見えではないか。
若者がひとりではおとなしいのに、数人集まるとバカ声を出し、ヒンシュクを買うような行動をしたりする。そのときの、騒いでいる若者をよく見ると、周囲の反応をおどおどと見ているのがわかる。周りが顔をしかめるのを確認し、仲間にどうだ、俺はここまでバカなことをやれるのだ、という顔をする。仲間も内心はどうか知らないが感心して見せたりして真似をする。バカの悪循環だ。
他人の目を気にするのは特に日本人の性格だが、むかしは恥ずかしいことはみっともないことだと、親に、そして世間に教えられたが、今は誰もそんなことを教えない。親はこどもの個性を尊重しなければならぬとばかりに自己主張を教え込み、教師も世間も見て見ぬ振りをする。ヤジ馬も好奇心から発するのではなく、自己主張のための行動に変わったようである。
こんなことを書いていると、ではお前のブログはなんなのだ、という矛盾に気づかされる。独り言のつもりが自己主張になってはいないか。人に読んでもらうことを期待するのは自己主張ではないのか。ブログをやめようかな。でも人間には自己主張がないと他人とコミュニケーションが成り立たないのだから仕方がないのだ。問題は自分というものがちゃんとあっての自己主張かどうかということだろう。
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