感染症と生活習慣病
村上陽一郎『死ねない時代の哲学』(文春新書)という本を読み始めた。まず医学の歴史を科学史として語る。近代医学の確立からまだ日は浅い。そしてその流れとしての現代医学の実情を論じていく。そこで感染症と生活習慣病について述べた後に、医療従事者と患者との関係の変化が論じられて興味深い。まさに私が生活習慣病患者だからである。
以下に一部引用する。
感染症が死亡原因の主役から退き、結果として、高齢化に伴う病気が替わってその場を占めるようになったわけです。
感染症の治療では、治療の主体はあくまで医療の側にあります。医療者が患者を自らの傘下に囲い込み、一定の治療時間が経って、不幸にして死の転帰を辿る場合もないわけではありませんが、他方根治すればその囲い込みから解放する。治療はそのようなパターンで行われてきました。
ところが戦う相手が生活習慣病ということになると、このパターンは不可能になります。いわゆる「寛解」(根治ではないが、症状がおおむね収まる状態)まではあり得ても、「根治」の状態を迎えることはありません。「これで医療からは解放されますよ、よかったね」といわれる時間は永遠に来ないのです。
この場合、患者を医療の側が完全に囲い込む時間というのは、あったとしてもごくわずかです。患者は、ほとんどの時間を、社会の中で普通に生活しながら、医療の指導下ではあっても、自分の責任で治療を続けなければなりません。
薬を服むか服まないか、ということも患者に任されます。定期的に検査を受けることも、処方箋を薬局へ持参して薬を受け取ることも、すべて患者の意志次第です。最終的にその病気で死ぬかどうかはともかく、死ぬまで医療機関と縁が切れなくなってしまうのが、普通の意味での生活習慣病です。
自宅死から病院死へ変わったことが死の社会層を大きく変化させたのと同じように、生活習慣病が重要な疾病なった時点で、医療と患者との関係、医療をめぐる構造も大きな変化を遂げました。
このあとなにが変わったのかが論じられていくが、ここまでとする。「患者様」といういささか鳥肌が立つような呼ばれ方をするようになったことから、その変化は事実として理解できる、とだけつけ加えておく。
生活習慣病が、人が長生きするようになったことによって増えたものだといえないことはないが、現代では若い人も生活習慣病に罹患する人が増加している。どうして成人病と言わなくなり、生活習慣病というようになったのか。それが理由らしい。すべてとはいわないが、生活習慣病は豊かさがもたらしたものであるようだ。
この本を読んでいるのは、病気と死、人生の最後の迎え方について、考える参考になりそうに思うからだ。とうぜん、死の自己決定について最も詳しく論じているようで、そこにも興味がある。
こんにちは
いつかは断言できませんが、恐らくがんが治る病気になる日が来るでしょうから、それ以降の人類の脅威になる疾病は生活習慣病と認知症になるでしょう。
特に認知症は本人の責任でかかる病気ではなく(恐らく脳の老化か何かによる器質の変化が原因でしょう)その転帰は悲惨なことが殆どですから、余計そうなったらどうするか?と言う普段からの覚悟は必要になるかと思います。流石に「私が認知症になったら殺してくれ」と言われてもそれを聞く事は出来ませんが、やはり普段から「そうなったらどうするか?」と言う覚悟は必要でしょう。そのためには安楽死を含む尊厳死。言ってしまえば自己決定権の行使を法律で保証することが論議として必要になると思います。
では、
shinzei拝
投稿: shinzei | 2023年10月12日 (木) 14時17分
shinzei様
本来寿命が短ければ発現せずに終わるのに、長生きできるようになったことであらわれる病気というものがあります。
そういう病気が発現せずに終わる人は運がいいということでしょうね。
私も認知症を自覚したときにどうするか、しばしば考えますが、進行したらもう考えることもできなくなると思うと恐ろしいです。
すでに生活習慣病である糖尿病を抱えて、一生病院とつきあわなければなりません。
しかし考えようによっては定期的に自分の体のメンテナンスをしてもらっているようなものであり、ありがたいことでもあります。
投稿: OKCHAN | 2023年10月12日 (木) 17時13分