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2023年12月 8日 (金)

無作法と批評性

 内田樹の『街場の成熟論』(文藝春秋)から。

 

 銀行の窓口でも、コンビニのレジでも、信じられないほど無作法な口のききかたをする人に日常的に出会う。

 

 「無作法に振る舞っている人間は正しいからそうしているのである」という推論は間違っている。

 

 ほとんどの場合、過剰に無作法に振る舞っている人間は自分の言い分が論理的には破綻を抱え込んでいることを実は知っている。だからそれを見抜かれぬ為に、相手に考える時間を与えないように怒声を張り上げるのである。

 

 先日、定期検診のために通院している病院で、大声で看護師などに自分の要求を求めている老人を見た。「早く医師の診断を受けさせろ!」といい、「あなたの予約時間はまだ30分先だからお待ちください」と言われても、「何分後になるか医師に確認してこい」、「次は私の番にしろ、私は忙しいのだ」などと喚いている。まだ七十より少し前のシルバーグレイの男で、身なりは尋常、というより少し高級なものを身につけて、見た目は紳士然としているから、いっそう違和感を感じさせる。看護師たちがなにやら怖がっている風なので、よくその目を見て理由がわかった。理非曲直を語る相手ではないようだ。

 

 「過剰な無作法」と精神の混濁は同じものではないか、と感じた。

 

 内田樹はこう若者に語りかける。

 

 若い人たちに申し上げたいのは、「無作法」と「批評性」を混同しないで欲しいということである。

 

 無作法の強度と言明の真理性の間には相関がないということだ。
 
 「批評的でありながらも礼儀正しい語り口」というものがこの世に存在するということである。

 

 マスコミやネットで批評らしきものの言葉の無作法さばかりを目にしていれば、それが「批評」だと思い込んでしまうことはあるだろう。世の中、見聞きするものはそういうものばかり。少し礼儀正しい文章や言葉を探してそれを学ぶ必要があるのだが、まずそれに気づくことができるかどうか。

 

 礼儀とは相手に対するリスペクトから発する。リスペクトを損得でしか考えることができない若者の話ばかり聞かされていて、お節介をする気にもなれない。

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コメント

何度も内田樹の言説に絡んで申し訳ありません。
例示された「無作法」は単なる言いがかりであって
「批評性」というほど大げさなものでないのでは?
この安易な短絡こそが「左派知識人」の面目躍如だと思う次第です。

ss4910様
もちろん、だから無作法と批評性は違うから混同するな、といっているのだとおもいますよ。
病院の例は私が経験したことです。
実際に無作法を批評だと思っているような人を見ることがあります。
社会を批判しているようで、実は自分自身の快不快を語っているように見えます。
そこに他者の快不快を意識している様子は見られません。

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