歴史の淘汰圧
集英社の『アジア人物史』というシリーズの月報に内田樹が寄せた文章が『街場の成熟論』に収録されていた。
歴史の風雪に耐えたものだけが生き残り、歴史の淘汰圧に耐えきれなかったものは消えてゆく。よくそう言われる。でも、それほど軽々しくこのような命題に頷いてよいのだろうか。私は懐疑的である。
この書き出しの言葉に私は賛同する。
歴史の淘汰圧は常に正しく、残るべきものは必ず残り、消えるべきものは必ず消える。歴史という審級は過たず残るものと消えるものを判別するという信憑のことを「歴史主義」と仮に呼ぶとする。「歴史は絶対精神の顕現過程である」とか「歴史は真理が不可逆的に全体化していく過程である」 とか「歴史は鉄の法則性に貫かれている」とかいう考え方をする人たちのことを私は「歴史主義者」と呼ぶ。私が勝手にそう命名しているだけで、別に一般性を請求する気はない。そして、これもまた個人の感想であるが、私は歴史主義に対してかなり懐疑的である。
「・・・の時代は終わった」とか「これからは・・・の時代だ」とかいう広告代理店が好む言葉づかいは典型的に歴史主義的なものである。だがThe latest is the best「一番新しいものが最高だ」というのは、少し考えればわかるけれど、まったく事実ではない。
このあと歴史家の役割について考えを述べた後に、司馬遷の『史記』の列伝の冒頭、『伯夷列伝』を取り上げて、司馬遷が「天道は是か非か」 と記したことを論じている。私も歴史主義に対してはこの言葉をすぐ連想する。そしてこの伯夷叔斉のことを記して残した司馬遷の行為こそが歴史家としての役割そのものではないか、という言葉に賛同する。むかしはどうしてこのような人のことを列伝の冒頭に取り上げたのかわからなかったものだ。いまはちょっとだけわかる。
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