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2023年12月15日 (金)

広瀬記念館

日田は、豊前、豊後、筑前、筑後、肥後の各地に境を接し、大山川、玖珠川、筑後川、山国川などによって四方に通ずる、古くからの交通の要衝であった。(廣瀬資料館のパンフレットより)

豊臣秀吉はここを直轄の支配地とし、徳川幕府も一時は譜代藩の領地としたが後に天領とした。つまり代官支配としたのである(後に郡代)。代官支配というと黄門様に出てくるような悪代官を想像するが、実は有能で清廉な人物が幕府から選ばれて赴任するので、悪代官はほとんどいなかった。天領は大名支配地よりも税金が安いことが多いので、人々は暮らしやすかったし繁栄した。とくにこの日田は豊かな場所であった。

廣瀬家は掛屋を業務としていた。掛屋は幕府や拡販の公金の出納・管理を行っていた。つまり金融業である。日田商人は流通を握り、商業を担うとともに代官所と各藩の公用を取り次ぐ役目を持ち、そのうちの最も有力な商人が掛屋となった。日田の掛屋は求めに応じて九州各藩に貸し付けを行い、莫大な利益を得ていた。この貸金を「日田金」といった。

廣瀬家五代目の廣瀬三郎右衛門(号・桃秋)の息子として生まれた広瀬淡窓は将来病弱で、学問を志すことにして家督を継がずに六代目を弟の久兵衛に託した。この広瀬淡窓の名前は承知していたが、詳しく知ったのは葉室麟の小説による。以前から日田を訪ねたいという思いが強くなり、遠路やってきたのだ。

廣瀬資料館は廣瀬家について、そしてそれとともに日田天領についてのことを知るための場所である。

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廣瀬家住宅。壁は漆喰の白壁を上塗りしない質素なものだったという。写真ではわからないが雨が降っている。ときどき強く降った。

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邸内あちこちに、小さいけれどよく手入れのされた庭園がある。

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広瀬淡窓。学者であり、学塾の咸宜園(かんぎえん)を開いた。咸宜園には日本全国から多くの塾生が集まり、全国に散っていった。かれらは後に明治の世を支える役割を担った。

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妹の秋子(ときこ)。病弱な兄の淡窓を親身で看病した。後に宮廷に仕える。すぐれた女性だったのだろう。

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廣瀬家六代目を継いだ久兵衛。淡窓の咸宜園を支えたのは彼であり、また日田天領の繁栄もかれが支えた。

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邸内から庭を臨む。

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淡窓の座右の銘。身を低く持し、心は高く持つ、という意味かと思う。

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淡窓の英彦山(ひこさん)を讃する詩。健は淡窓の本名。

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掛屋の帳場。

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両替は金融業の掛屋として大事な仕事だった。

周辺は御幸通り、上町通りなど見所が多いのだが、本降りの雨なので少しだけ歩いたけれど早々に宿へ向かった。翌日再チャレンジして写真を撮るつもり。さて天候は・・・。

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コメント

以前から広瀬旭荘という人物に興味を持っていたんですが
彼は淡窓の弟で年の差はなんと25歳。
旭荘は京・大坂・江戸の三都比較も有名ですね。
広瀬淡窓の記念館があることは初めて知りました。
一度訪ねたいものです。

ss4910様
廣瀬旭窓は若くして咸宜園を継ぎましたが、勤王の志が強くて、咸宜園の学風や日田が天領であることにたいしてなじめずに、大阪へ出て自ら大阪咸宜園を開塾しています。
詩人としては淡窓よりもすぐれているとされますが、教育者としては評価の分かれるところです。
時代のなせることだったのかも知れません。

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