念願の咸宜園を訪ねる
当時日本一といわれた学塾、咸宜園(かんぎえん)を訪ねる。開塾は広瀬淡窓。多いときは一年に230人の新入塾を受け入れていた。6~7年で学を修めるのがふつうなので、常に千人前後の塾生がいたことになる。
咸とはことごとく、宜はよろしいという意味である。塾生は入塾時にすべて平等であり、身分は問わない。その代わり成績によって進級する。いつまでたっても進級できない者もいたようだ。入塾生は全国からやってくる。幕府や藩や寺から優秀な者が選ばれて来ることが多い。束脩(学費)は年二分(一両の半分)。それで足りるはずがないので、その補填を廣瀬家がまかなっていた。評判が評判を呼び、全国から入塾者が集まった。
明治になって閉塾するまでに約五千人が学んだ。大村益次郎や高野長英が有名だが、明治政府や医学、教育界に貢献した人たちも多い。
入り口。
建物は十以上あったようでとても広かった。全寮制。
こういう建物の跡があちこちに残っている。
ぐるりを回る。この建物は再建修理されたもの。
別の建物を見に行く。あとでこれが広瀬淡窓の接客や入塾者を受け入れる場所だと教えてもらった。
教えてくれた方は「つまりこれは校長室みたいなものです」とおっしゃった。
この左手奥で、スーツ姿の人が竹ぼうきで庭掃除をしていた。
声をかけたら「時間があるなら少し説明をしましょうか」といわれ、座敷に上がるように促された。
それか30分以上、システム、教育理念などについての詳細な説明をしていただいた。葉室麟もたびたび訪ねていたようで、彼にも説明をしたという。「ほとんどご存じのことばかりのようでしたが、あるところからくわっと目を見開いてこちらを見つめました」といった。「休道の詩」という広瀬淡窓の漢詩を説明したときだという。広瀬淡窓は、その詩を侵入塾者の胸に向かって打ち込むように聞かせたそうだ。
そういって説明してくれたのは廣瀬資料館の常務理事で館長の中島さんだ。詩の意味の説明のあと、私に向かって、朗々とその漢詩の詩吟をうたった。私の胸にも届いた。
お願いして写真を撮らせてもらった。後ろの紙のパネルなどは私に説明するために引っ張り出してくれたもの。本当にありがとうございました。お蔭で訪ねた甲斐があって、忘れられない思い出となった。
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