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2023年12月 5日 (火)

学ぶということについて

 レトリックという言葉が好きで、私は技巧的言辞、という日本語としてイメージしている。カタカナ語辞典には、文章表現の効果を高めるための技術とか、うまい言い回し、などと書いてあった。そのレトリックを駆使した文章を読むのももちろん好きである。私もそういう文章がすらすら書けたらいいなと思うけれど、試してみると、回りくどい、といわれてしまう。レトリックを使うことで、伝えたいことがわかりやすくならなければ、使うのは却って読み難くなるだけである。 

 

 内田樹の文章を、私はレトリックに満ちたものだと認識している。ぐるぐると思考を回しながら自分の考えを理解させていく。こういうのを「左派系の知識人の言説には胡散臭さがつきまとう」と評する向きもあるだろう。たしかに左派系の知識人特有の言い回しというものがありそうだ。ただ、それがなにを言いたいのかよくわからないものが多く、わかりにくさで煙に巻いているだけのものばかりといってもいい。そんなものは、私はレトリックとは思わない。

 

 これでは本題に入れないのでこれまでとする。

 

 内田樹は「学ぶ」というのは一言で言えば「別人になること」である、という。

 

 その意味を「呉下の阿蒙」という話から説き進めていく。「士別れて三日、すなわちさらに刮目して相待すべし」という言葉を生んだ話だ。私も父からこの話を聞いたことがある。

 

 三国志の時代の呉の国に呂蒙という将軍がいた。勇猛な武人であったが、惜しいかな学問がない。主君の孫権が「将軍に学問があれば」と嘆じたのに発憤して、呂蒙はそれから学問に励んだ。しばらくして魯粛が久しぶりに呂蒙に会ってみると、その学問の深さ見識の広さはかつての彼とは別人であった、という有名な話である。

 

 人間が知的に成長するというのは「別人になること」だという知見は私に取っては不思議なものではない。

 

そこから内田樹は論を展開する。

 

 知的成長ということを現代人は「知識の量的拡大」というふうに考えている。人間としてはなにも変わっていないのだが、脳内の情報ストックが増えている状態を「成長」と呼び習わしている。  

 

 でもそれは「学び」とは違う。学びとは「入れ物」自体が変わることだからである。「刮目」してまみえないと同一性が確信できないほどに人間が変わることだからである。

 

 このあとさまざまに挿話をつづけながら、教育が商取引になってしまった現状を批判するのである。そのことは別の話だが、たしかに教育が商取引になり、消費者としての生徒学生が「学び」を得られずにいることは、そもそもの学ぶということが見失われているからだろうという視点には大いに賛同する。

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コメント

残念ながら内田樹の著作にはまだ接していまませんが
レトリックという言葉からすぐに思い浮かんだのが花田清輝。
彼の行文はまさに絢爛たる「技巧的言辞」そのもの。
『復興期の精神』は座右の書のひとつです。

ss4910様
たしかに花田清輝の文章はレトリックに満ちていましたね。
それほどたくさん読んではいませんが。
『復興期の精神』はちょっとだけ読み囓りました。

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