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2024年1月

2024年1月31日 (水)

『維新と敗戦』

 先崎彰容(せんざきあきなか)『維新と敗戦』(晶文社)という本を読了した。昨日取りあげた『哲学に何ができるか』と並行して読んでいて、並行していたから、よりこの本の語る意味が胸に届いた。副題として『学びなおし近代日本思想史』とある。前半は明治大正昭和のさまざまな時代について、真剣に考察と意見を述べてきた人たちについての概略の紹介と、それぞれの考えについての著者の解釈が加えられている。さらにその人について知りたい場合、参考になる本が各人三册ずつコメント付きで推奨されている。後半は随筆風の、彼の思索の跡を書き記したもの。

 

 どうして先崎彰容はこのような本を書いたのか。それは現代の日本と日本人について、足許から見直す必要があると考えたからだ。ここにとりあげられた人たちが、何と格闘していたのか、そのことを掘り下げることによって、自分の生き方、考え方をどう捉え直すかをひとりでも多くの人に考えて欲しいという熱い思いがあってのことだ。『維新と敗戦』というタイトルは、現代が明治維新や敗戦という時代と同じぐらい価値観の見直しを迫られるような、そのような大きな時代の曲がり角にあるのではないかと言う意味である。

 

 保守の論客としてみられる先崎彰容が、そういう枠で見てはいささか違うのだということを知ることもできる。丁寧に読めば、日本人の価値観を変えさせるほどのことが述べられているのだが、それは敢えてここに書かないことにする。本を読んで得心しないと結論だけ知っても胸に届かないと思うからだ。

 

 表題としてあげられているだけでも23人、福沢諭吉、中江兆民、石川啄木に始まって、丸山真男、江藤淳、三島由紀夫、柳田國男、高坂正堯などが名を連ねている。紹介された参考書のなかから、読んで見たい本を抜き出したらたちまち二十册近くなった。

 

 どうして若いときにこういう本をもっと真剣に読んでこなかったのだろう。つまらない本ばかりを読んできた。いまさらながら悔やまれるがまだわずかながら時間はある。わかったことを手がかりに、らせん階段をもう少しだけ登ろうかと思う。景色がいまより多少は遠くまで見えてくると好いが。

とまらない

 韓国の出生率がとどまることなく下がり続けている。こういうものはどこかでとまるものだと思っていたが、そうではなさそうなことに驚いている。そういう日本だって出生率は低くて少子化が進んでいるが、下がり方は、韓国よりかなりマシだ。

 

 理由は何なのだろう。確かなことは、子どもを産まなくてもいいや、と思う女性が増えたということで、そのことが女性に社会的なプレッシャーとして働かないらしいということだろう。子どもを産むことがあたりまえだ、という意識を持って始めて出産育児という女性にとって大きな負担になることに耐えられる。何しろ子供を持つことの喜びは持たなければほんとうには分かるはずがないのだから、親や廻りから常にそう吹きこまれて始めてそういう思いが形成されるのだろう。たぶん韓国は女の子にそのような働きかけが少ない社会になってしまったということではないか。そういう理由なら、下がった出生率を上げるというのは至難の業だ。

 

 そういえば、親の世話を子供が看る、という文化が、儒教文化といわれる韓国からどんどん失われているらしいことが不思議な気もしていたが、そもそも韓国の儒教文化というのは形式面ばかりが大きいようだったから、それが簡単に失われたのかも知れない。それなら高齢者は社会が看ていくしかないので、その準備を急いで調えないと手遅れになる。

 

 こんなことを言うのも、日本だって他人事ではないからで、子供を作らない若者は親の面倒も看ないようになって行くように思うからだ。子供を育てて始めて親のありがたみ、恩を知るということは多いにある。その順送りで社会は成り立ち継続してきた。その継続は一度断ち切れたらもう戻らない気がする。何ごとも社会におまかせ、不満は御上にぶつけるという生き方は、結果的にさいごはすべて自分が引き受けるしかないことにつながっていることを、たぶんまだ気がついていないのだろうなあ。

 

 考えても仕方がないことながら、その背景の時代思考様式というものを色々な側面から考えている。成り行きは成り行きとして、なぜなのか知りたいという気持ちがあるではないか。

 

 蛇足ながら、子供を育てるのは大変だが、嬉しいこともたくさんある。それに、子供が幼いときの思い出は人生の宝物で、かけがえのないものだと思う。

カイゼンの行き過ぎ

 トヨタグループの企業で相次ぎ不正問題が起きているのはどうしてなのだろう。これは私のささやかな経験からの、根拠のあいまいな妄言であるが、トヨタの「カイゼン」が原因ではないかと思う。トヨタの下請けに対するカイゼン要求は極めて厳しいものがある。コスト削減、品質向上などに、それ以上はとても無理だ、と悲鳴を上げると、では我が社から人を派遣して問題点を洗い直しましょう、といわれる。ビシビシと指摘があり、出来ないことも出来るようにしてくれる。そういう厳しい対応をしないとトヨタとともに仕事をしていくことはできないのだ。そうしてトヨタは競合会社に勝ち続けてきたのだ。

 

 それに対応できるゆとりがあるあいだはそれでよかった。しかしとことん追求されて少しのゆとりもなくなったとき、さすがにいくら何でも、という状態になるのだが、要求に応えられないのなら応えられる会社に発注を替えます、と脅される。出来ないことを出来なければ会社が成り立たないところまで追い込まれることもあっただろう。現役時代、カイゼンのためにやってくるトヨタの派遣員は鬼のようだという下請け会社の歎きを聞いたことは一度や二度ではないのだ。

 

 しからばどうするか、出来ないことを出来たことにする、という対応をしてしまうところがあったのではないか。それでなんとかなったのなら楽なものだ。一度それで味を占めればいつの間にかそれが常態化して・・・という図式が私には見えてしまうのだ。だから仕方がなかったなどとはけっしていわないが、多少の同情は禁じ得ない気がする。だからこそのトヨタ本体の反省が必要な気がする。長い間の積み重ねの結果だから、根は深いのではないか。

2024年1月30日 (火)

限度

 政治にもっと関心を持たなければならないと思うけれど、連日の報道にいささか食傷気味である。芸能界の松本問題、能登地震と合わせて、ほかのニュースが肩身が狭くなっている。もちろんガザの問題やウクライナも取りあげられるが、ニュースの切り口がいつも同じなので昨日と今日の違いは、ただ死者の数の問題だけになっているようだ。

 

 地震はともかく、物事は一度起こると、行くところまで行くしかないのだな、と思う。戦争も緊張関係の歯止めがはずれると、途中で止めるのは不可能になる。どちらかが白旗を揚げるまで続く。止めるタイミングがないわけではなかった気もするが、それが出来るはずだったアメリカが生かさず殺さずの方針でいたから、却って火の手は大きくなった。アメリカというのはいつもこのような中途半端な介入をする。誰が考えたって、イスラエルの攻撃は限度を超えていると思うが、イスラエルがそう思わない限り攻撃は終わらない。

 

 歯止めがはずれるという事態が繰り返されると、歯止めがいっそうはずれやすくなるおそれがある。中国が勘違いしなければよいが・・・という声は多い。北朝鮮はそれ以上に危険な水域にいるように見える。権力者には都合の良い見通ししか耳に入らないものだ。「戦えば勝ちます!」と軍部は言い続けているだろう。軍部とはそういうものだというのは、日本の戦争への歴史を学んだものにとってあまりにも明らかだ。

 

 限度といえば、自民党の違法行為はおごれる権力が腐敗することを改めて知らしめてくれた。政治にはダークな部分がある、というのは誰にも自明のことで、ただそれが問題として取りあげられるほどの蔓延となってはこれはいつか暴露されてしまう。私の印象(事実かどうか知らない)では、安倍派の塩谷座長がちょろりと裏金を認めるような発言をしてしまったのが発端だったような気がする。政治評論家の誰かが、あんなことを言ってしまえば検察は動かざるを得なくなってしまう、えらいことになりそうだ、とこの問題が騒ぎになる前にいっていた。さすがに専門家だと思った覚えがある。その予言通りの展開が間もなくして始まった。塩谷氏のような人を座長にしている安倍晋三亡き後の安倍派という派閥が如何に脆弱か、それを見せられている。

 

 有能だと思われる面々がならんでいるのにこんなことになってしまった。一度限度を超えてしまったものは元に戻せない。責任ある立場の者は雁首を揃えて下野するしかおさまらないだろう。そうして捲土重来を期するしかないのだ。その覚悟のある人もいると思うが、他のひとのことを慮って身動きが取れないのだと思う。すでになんとかなる次元を超えてしまったのだ。その自覚がどれだけあるのだろうか。岸田首相は野党の質問に、にやけていたという報道もあった。自分を引きずり下ろしそうな人たち(もちろん野党などでは無い)がみな力を失っていることが嬉しくてたまらないのではないか、と私には思えるし、多分そうなのではないか。もしその通りなら、このひとはやはり何ごとも他人事なのだろう。責任者がその責任を他人事だと思えば、その重責なんか軽いものなのだろう。

『哲学に何ができるか』

 『哲学に何ができるか』は、レクチャーブックシリーズの一冊で、哲学者の廣松渉に五木寛之が講義を受けるという形の対談である。『現代哲学講義』と副題がつけられていて、現代哲学は難解なのでそれを分かりやすく対談のなかで知ることが出来るのではないかと期待したのだが、少し前に言葉の問題でいささか瑕瑾を指摘したときに感じた予感が悪い方に当たってしまった。昔なら半分読んだところで放り出していただろう。昨晩水難に遭ったのはこの本である。ところでレクチャーブックシリーズは三期三十冊と以前書いたが、第四期も第五期もあるらしい。もっとあるかも知れない。読みたくてもいまは古いシリーズだから古本屋で一部見つかる程度だろう。

 

 以下のようなところを抜粋してこの本の性格を知ってもらおう。

 

廣松 それに体制内的な大枠をはみ出すような思想になると、これは弾圧とかメディアが制限されているとかそういう事情もあってのことですけれど、もっと本質的には、認識というものの歴史的・社会的な相対性、存在拘束性が問題になる。体制内的発想の枠組み、つまりその社会の下部構造に見合うような発想のパラダイム、これを超えるというのは容易なことじゃないので、大多数の人間が体制外圧的な思想を固めるということは不可能だと思うんです。
このことが、たとえば議会主義で革命がやれるか、相対的には少数者による暴力革命たらざるをえないかといったアクチュアルな問題にもつながっていく。議会制民主主義というのは啓蒙主義的な大前提の上に成り立っているわけで、議会を通じて革命ができるのか、暴力革命しかないのか、この対立は小手先の政治技術の次元ではなく、認識論、ひいては世界観の次元にわたる意見の対立ですよね。

 

五木 議会を通じての革命か、暴力によるそれか。選択は常にそのようにあるんでしょうが、いずれにしても単なる教養としての哲学ではなく、アクチュアルな変革のための哲学が強く要求されているのではないでしょうか。

 

おやおや、なんか現代哲学入門には思えないぞ。

 

とどめは、

 

廣松 サルトルが、マルクス主義は現代の歴史的段階では「乗り超え不可能な哲学」であると言っておりますけれども、・・・そして、「マルクス主義を乗り超えたつもりの哲学でも、現段階では、マルクスによってすでに言われていることとか、批判的に克服されているものか、そのいずれでしかない」と彼は言いますけれど・・・この点では至言だと思いますね。将来には、もちろん、マルクス主義は乗り超えられるでしょう。しかし、言葉の厳密な意味で、「近代から現代へ」という歴史段階では、言いかえれば「資本主義から共産主義へ」の歴史的転換の段階では、マルクス主義はパラダイムとしては乗り超え不可能であり、その意味において「現代哲学」の名に真に価するものはパラダイムとしてマルクス主義である。私としてはそう考える次第である。

 

 この本の出だしでは近代哲学から現代哲学への概観を語っているが、基本的に上に取りあげたような哲学の視点からなので、多少読み囓った(読み囓って跳ね返された)私の現代哲学についての感覚とはいささか異なる。そして中盤に至るやほとんどがマルクス主義についての滔々たる説明で、五木寛之は相槌すら打つ間がないのが見て取れる。

 

 それにしても我ながらよく最後まで読み切れたなあ。マルクス主義が至上の哲学とは知らなかったなあ。廣松渉が切って捨てていたけれど、私は実存哲学でいいや。いまやサルトルなんか読む人はいないだろう。流行り物だった気がする。この本が水難に遭ったのは、もしかして私の無意識のなせる技か。

 ところで五木寛之は自分が参加した射爆場反対の内灘闘争を手柄顔に繰り返し語っているが、臼井吉見がその内灘闘争について現地を再三訪れ、地元の人にもインタビューして詳細にレポートしていて、その闘争というのが如何にしょぼいものだったか報告している。内灘は今回の能登地震で液状化の被害が甚大だったところである。その五木寛之もいまはお年を召したので仏様におすがりしているようだ。

転ぶ

 昨晩、風呂場で転んだ。肘を浴槽の縁で打っただけであるが、ちょっとショックだった。風呂を少し熱めにして浴槽で本を読んでいた。夢中で読んでいて、気がついたら少しのぼせ気味だなと思ったので外へ出ようと立ち上がり、浴槽の縁を跨ごうとしたときに立ちくらみして倒れたのだ。少し酩酊していたことも禍している。

 

 一番の被害は読んでいた本で、すぐ拾い上げたけれど濡れてしまった。放っておくと貼り付いてしまうので、貼り付かないように水分を拭き取りながらページを叮嚀にめくる。さいわい読むことはできる状態になった。270ページほどの本で220ページまで読み進めていたからもう少しだけだ。その本のことは読み終えてから次回のブログに書く。

2024年1月29日 (月)

ルールは守る

 ほぼ一週間、減食と休酒をしていたので食材を買い足しておらず、冷蔵庫がスカスカになっていた。病院から帰って空腹を満たして一息入れてから買い出しに行った。酒が飲みたいが、特別な日以外は五時前には飲まないと決めているのでそのルールに従う。特別な日とは、正月と、誰か相手がいるときだ。おおむねルールは守れている。旅先ではルールは緩くしているが、たいてい運転するので飲むことはできない。旅先の六角精児にあこがれるばかりである。

 

 今週末は毎年恒例の蔵開きがある。友人四人が来るし、弟もやって来て、総勢六人で行く。その弟が週半ばから我が家に滞在するので部屋を片付けなければならない。弟の嫁さんはきれい好きで、いつも弟の家は片付いている。弟もそれに合わせるから、それと較べてわが家は雑然として汚らしく見えるだろう。それは仕方がないが、少しでも居心地よくしてもらいたいからちょっと掃除を始めた。掃除を始めると如何に汚いか思い知らされて哀しくなる。何か美味しいものでも一緒に食べようと思うし、どこかに一緒に出かけようとも思う。鍋でもしようか。

 

 それはともかく、さあ、これからつまみをいくつか作って休酒開けを祝うことにしよう。

予想通り

 糖尿病検診の血液検査の結果は予想通り。わずかな悪化で、心配したほど悪くはない。美人の女医さん(私には女医さんはみな美人に見える)は、「正月を挟んだこの時期は寒いし、食べものも少しリッチになるので血糖値が悪くなる人が多いです、それを自覚しているのであれば、これで善しとしましょう」、とのご託宣であった。見た目はクールな先生だがやさしいのだ。摂生しようという気にさせてくれる。わたしはきつく言われると反発するが、やさしくいわれると素直になる。

 

 このところ歩いていないので病院までの二十分の道のりが遠かったが、余裕を見て出かけたら思ったよりも早く着いた。歩くスピードはそれほど落ちていないようだ。月曜日の病院は混んでいることが多くて、今日も座る場所を探さなければならないほどだったが、診察の長い人がいなかったせいか、予約時間の半ばでよばれていつも以上にスムーズに終わった。読みかけの本二冊を持参したが、かろうじて一冊をほぼ読み終えただけであった。スムーズだと本があまり読めないのが少々残念。

 

 これから食事の仕度をして空腹を解消し、洗濯をするつもり。それからスカスカの冷蔵庫を補充するために買い出しである。今日は快晴、気持ちの好い日だ。

あいかわらず泥縄

 今日はこれから糖尿病内科の定期検診に出掛ける。空腹時血糖を計るから昨晩から絶食しているので空腹だ。あいかわらず泥縄式に、この一週間ほど休酒をしているが、血糖値はどうだろうか。それでは普段の血糖値が計れないではないかと言われそうだが、この何年かずっとそうしているからそれでいいのだ。空腹時血糖はともかく、hA1cという測定値は一ヶ月ほどの血糖値の履歴を見るので、一週間程度の休酒はさほど測定値に影響がない。休酒をするのに合わせて食べる量も減らすので、体重が少し落ちる。そちらの方が自分にとっては必要なことに思っているし、一週間の休酒ができるということは、自分がアルコールに依存していないことの確認にもなるのだ。

 

 朝一番に血液をとられて検尿もして、その結果が出次第医師の診察がある。結果がなかなか出なかったり、前の人の進み具合によってずいぶん待たされることもある。女のひとはおおむね時間がかかる。糖尿病の人は年寄りが多いから、たいていくどい。医師も大変だ。私は楽な患者だと思う。結果が悪くても良くてもすぐ済む。待ち時間は長いが、持参した本に集中できれば無駄にはならない。本に飽きればあたりを眺めて、さまざまなひとを観察していても面白い。腹の立つこともあるが、人の振り見てわが振り直せ、を思いだすこともあるからこれも無駄ではない。

 

 晩の酒の解禁が楽しみだ。

2024年1月28日 (日)

苦笑

 いま読んでいる本の一節に苦笑させられた。

 

 ここ数年、「現代日本は危機である」という言葉にたびたび出会い、私は辟易している。いつの時代であれ、知識人にとって現代は危機であろう。なぜなら社会に危機的課題がない限り、警鐘を鳴らすことを稼業とする知識人は商売が成り立たないからだ。時代に批判と否定の言葉をつらねることが、彼らの生業を支えている。まことしやかに時代の危機を叫び、それに気づかない大衆(?)を軽蔑、罵倒していない限り、彼らは飯を食い損ねる。

 

 これは私がいま集中的に読んでいる何人かのひとりである先崎彰容の『維新と敗戦』(晶文社)という本の一節である。半分ほど読み進んだところだ。苦笑したのはそのような知識人たちの言説に乗って、知識人でもない私も「日本は危機的だ」、「日本の未来は悲観的だ」、などとこのブログに書いているからだ。もちろん先崎彰容もその知識人のひとりであることも事実である。ただ、先崎彰容はこのように書く自分自身を、自分が指摘する知識人のひとりだと自覚していることだけは間違いがない。

 

 この本が彼の本の五冊目で、未読の手持ちはあと一冊、さらに二冊ほど読みたい本があるのだが、取り寄せるのは少し先にするかどうか迷っている。いま読んでいる本については読了したら報告する。とにかく彼の本を読むと、自分の見えていたもの、思っていたものが少し変わることだけは確かなので、読むのが楽しい。彼の本は、彼の思索の跡をたどることによって、自分では歯ごたえがありすぎてかみ切れなかったものを理解することができるというありがたさがある。そういうところは私にとって森本哲郎に似ている。この本の中で読んでおくべきであると紹介されている本がたくさんあって、十冊くらい読みたい本があり、取り寄せたくなっている。こうして身の程知らずに手を広げすぎて、鼠花火みたいになって燃えつきていくのが見えるようだ。

北欧ミステリードラマ三昧

 この三日ほど、読書したり北欧ドラマを観たりと、いつもよりもすこしせわしない。何しろ二種類、全八回のドラマと全六回のドラマを一気に観たりしていた。夜更かしして、そのために今朝も朝寝坊した。

 

 ドラマのひとつは『レベッカ・マーティンソン』シリーズの第2シーズン全八回。前後編で一話となっていて、だから全部で四話である。ストックホルムでやり手の弁護士として活躍していたレベッカは、両親の相次ぐ死などもあり、故郷の山間部の小さな町を捨てて帰ることもほとんどなかったが、育ててくれた祖母の死の知らせで久しぶりにその町に帰り、事件に遭遇して・・・というのが第1シーズンの発端だった。とにかくそのレベッカの美貌であることにまず惹かれたが、このレベッカという女性はとにかく気が強い。警察や法的規制を無視してひたすら暴走していく。第1シーズンでは、それがそもそも彼女のトラウマが原因であることも次第にわかるように作られていた。そして現地でにくからず思える男性にも出会い、一時的な帰郷のはずが居座ることになり、彼女の暴走が端緒となって事件は解決した。

 

 今回見た第2シーズンでは配役が変わっていた。前回ほどの美貌ではない女優が演じていたが、その気の強さ、暴走ぶりに似合うタイプであり、最初は慣れないので違和感があったが、役柄には適している俳優で物語の進展とともになじむことができた。彼女は町の検事として採用されて警察に常駐し、ときに捜査にも参加している。そうして彼女なりのやり方でいつものように直感で暴走し、その結果事件を解決してしまう。ただ過去を見つめ直していくとともにトラウマが少しずつ解消されて、その暴走には多少の節度が生じている。それに彼女の直感にはそれなりの根拠もないではない。恋人になりかけた男は彼女と距離を置き、別の女性と暮らし始めているのだが、その男との関係も紆余曲折する。この男も前回と配役が代わっているし、確か前回は身体に一部不自由を抱えていたはずだが、今回はそういう設定は消滅しているようだ。縦糸横糸がいろいろ交錯して、ドラマは見飽きない。こういう、ある面で自分勝手な女性が私は嫌いなのだが、同時に強い女性は好きなので、彼女にいつの間にか感情移入してしまう。

 

 とにかく山や草原の景色や雪景色の映像の素晴らしさがこのドラマの一番の魅力であることもつけ加えておく。

 

 もうひとつは、『エンド・オブ・サマー 消えた少年』という北欧ドラマで、全六回、全体で一つの話である。五歳の時に行方不明になった弟のいる心理士の女性が主人公で、集団セラピーを仕事にしているが、多少本人自身も問題を抱えている。彼女の、弟失踪時の記憶が彼女を苦しめているのだ。弟が行方不明になってしばらくしてから母は湖で入水自殺をするのだが、それを彼女は目撃していた。

 

 弟ではないかと彼女が思った青年の出現に動揺して真相を見直そうとするという、現在進行形の物語の展開と、繰り返し繰り返し反復される過去の彼女の記憶の映像が交互に描かれていく(ただし、一つ新しい事実がわかる度にその映像はより詳細に描き換えられていく)。彼女も故郷をほとんど捨てた状態だったが、真相を知るために故郷へ戻る。彼女には故郷へ逃げ帰らなければならない別の理由もあった。故郷には少し年の離れた兄がいて、警察官をしている。父もいて、弟らしき少年がいるという話に激しく動揺する。当時、少年を誘拐したのではないか、殺害したのではないかと疑われた男がいて、捜査が行われたが証拠はでず、釈放されるが、その直後に失踪してこの男も行方不明となっていた。

 

 弟らしき男が彼女と前後するように真相を求めて動きまわっていることが分かって来る。むかしから町を牛耳っている死んだ母の兄、つまり主人公の伯父は町全体に不穏な空気が生ずることを嫌い、男の正体を知ろうと関与してくる。やがて男の正体がわかって・・・。

 

 最後に事件の驚くべき真相が明らかになるのだが、気もちのよい治まり方ではない。それでも彼女は自分のトラウマを克服し、自らの生き方を選んで再び歩き出す。全体に北欧ドラマらしいダークな色調の映像で、物語もひたすら暗い。西洋の、特に北欧のむき出しの、オブラートのない人間関係というのが日本人にはちょっと辛いところがある。日本人でよかった。

2024年1月27日 (土)

歯は大事だぞ

 首から上で唯一歯だけは丈夫だったから、歯医者とは縁がほとんど無かった。それがある時期からお世話になるようになって、いまは定期的に検診を受けている。処置したあとに歯石除去などのクリーンアップをしてもらうととても気持ちが好い。そのたびに歯の磨き方をもう少し念入りにするようにいわれる。友人と旅行に行ったりすると、私の歯磨きが簡単なのに呆れられたりしたから、磨きかたが雑なのである。

 

 父も歯が丈夫で、六十過ぎまで虫歯が一本もなかったが、歯槽膿漏になった。父もたぶん何十年ぶりで(もしかしたら生まれて初めて)歯医者に通うようになったようだ。そのときに、私に「歯は大事だぞ、歯はちゃんと磨かなければいけないぞ」としみじみといったのが忘れられない。父は97歳の誕生日過ぎまで生きたから、歯が丈夫だったことがさいわいしていたのかも知れない。歯が丈夫なら消化器官に負担をかけないで済む、そしてそれがひいては内臓全体にも負担をかけないことにつながっていたのではないか。

 

 歯槽膿漏や虫歯菌が糖尿病と関係しているらしいといわれる。それを歯医者のポスターで教えられて、だんだん歯磨きを叮嚀にするようになった。朝晩だけだったのが、毎食後に磨くようになった。そうしたら歯医者のクリーンアップのときに注意されなくなった。鏡で歯を見ると、心持ち歯が白くなってきたような気もする。糖尿病も良くなると好いが。

『快の打ち出の小槌』

 1970年代後半から、朝日出版社はレクチャーブックというシリーズを一期十巻ずつ、三期にわたって全三十冊出版した。そのうち興味のあまりなかったものを除いて二十冊ほどを書店で目についたごとに買い集めた。読みやすいものも、歯ごたえがありすぎて読み切れないものもあったが一通り目だけは通した。

 

 年末に別の本を探していて、本を詰めこんである押し入れでこのシリーズを見つけたので揃えてみたら十二冊しかない。処分してしまったのか、どこかにまだ紛れているのか。買ったはずで、もう一度読みたい本(岸田秀・伊丹十三『保育器の中の大人』など)が見あたらないのが残念ではあるが、今回は叮嚀に一冊ずつ読み進めている。いま三冊目を読了したところで、それが『日本人の精神分析講義』というテーマの、『快の打ち出の小槌』という本である。ここでは佐々木孝次という精神分析学、特にラカンに詳しくて実際にラカンに師事もした専門家に、普通の心理学者よりもはるかに心理学に詳しい伊丹十三が鋭い質問を繰り出し、しばしば佐々木孝次に『なるほど』と言わしめている。

 

 この本のたたき台になるのが実は上にあげた『保育器の中の大人』という本なので、今回それが事前に読めないのは少し残念であった。高校生くらいのころから心理学に興味をもっていて、フロイトの『精神分析学』などを読み囓って、「まだ高校生には早い」、などと教師に云われたりした。その後もわからないなりにいろいろ読んできたので、ちょっと難解なこの本もなんとか読み切ることができた。読み切ったけれど分かったのは半分もない・・・いや、もっと少ししかわからなかった。用語は普通の人よりはわかっているから、性的な用語の頻出もそのまま専門用語として読むことはできるが、やはり私なりのバカの壁があるのだ。

 

 しかしわからなくても読み進めるという、エネルギーを著しく消耗する作業をしていると、たまにぽつりぽつりと以前わからなかったことに光明がさすように意味が見えてきたりすることがあり、それが嬉しい。たぶんもう二回くらい読むとかなり理路が見えるかもしれない。

 

 伊丹十三のあとがきに、ポイントを突いた一文があるので引用する。

 

講義のなかでも念を押されていることであるが、もう一度繰り返しておきたいのは、幼児とか母親とか父親とかいう言葉が、人間の機能をさす言葉として使われているということである。佐々木さんによれば人間には三つの種類があり、それは自分と母親とそれ以外の人であるという。私はそれを若干変型して、幼児と母親と父親であると解釈した。この場合、母親とは幼児の不快を解消してくれる人である。幼児とは他者を母親として期待する者、他者に対して、自分の不快を解消してくれる者としての期待を向けるような存在である。父親とは他者を母親扱いせぬ者、従って、本来自分で耐えるべき不快に自分で耐える者であり、これをべつにの言葉でいうなら、エディプスを通過した幼児であるといってもよいし、去勢ということを知った幼児、すなわち、母親が他者であることを知った幼児、というふうに考えてもよい。いずれにしても、幼児、母親、父親は人間の三つのあり方であって、年齢や性別に直接関係のないことをもう一度念を押しておきたい。

 

 繰り返すが、この文章はこの本のエッセンスを語っている。

士大夫

 ある本(廣松渉という哲学者と五木寛之の対談『哲学に何ができるか』、レクチャーブックの現代哲学講義という本)を読んでいてびっくりした。びっくりしたのは、会話の中に出て来た士大夫に「しだゆう」とふりがなされていたからだ。私はむかしから「したいふ」と読んでいた。あわてて手許の岩波国語辞典を引いてみると「したいふ」も「しだゆう」もない。肝腎なときに役に立たない。棚から広辞苑をとりだして引いてみたら、「したいふ」はあったが、「しだゆう」はない。広辞苑が正しいとすれば、私は間違っていなかったということだ。

 

 太夫を「たゆう」と読むのは自然である。日本ではそういう読みで使う場合も多いからだ。もちろん「たいふ」と読む場合もある。そして「士大夫」は「したいふ」としか読めないはずで、これは中国の士と太夫(たいふ)を表す。もともとは科挙によって官を得た高級官僚を表し、のちに知識層を表す言葉として広く使われる。中国の歴史の本を読めば頻繁に出て来る言葉だ。しかし当たり前の言葉過ぎて、ふりがなを振ってあることはほとんどないから、最初に勘違いして「しだゆう」などと覚えてしまえば間違いに気づけない。私がびっくりしたのは自分が間違って記憶していたと思ったからだ。

 

 今回はたまたま私が正しかったが、そうでないことも頻繁にあるから気をつけないと恥をかく。もし気がついたらどんどん指摘して欲しい。過ちては則ち改むるに憚ることなかれ、である。

2024年1月26日 (金)

おもしろくない

 ここ数日、BSフジのプライムニュースは日本の政治の問題ばかりがテーマになっていて、おもしろくなさそうなので観ない。おもしろい、というのは、私なりにそのことについて興味が湧いて自分なりに考えてみたくなるかどうかということである。岸田首相はあいかわらず「・・・と考えなければならない」「・・・をしなければならない」と繰り返していて、このひとは、「私はこうします」といったつもりでいるらしいが、そう聞こえない。そう聞こえなければそのつもりがあるとは思われないのはとうぜんである。野党は今回の政治の問題を自分の問題と考えているとはとても感じられず、攻勢のチャンスとしか考えていないようで、自分の問題として考えざるを得ない自民党のほうが、よほど問題に直面させられて変わらざるを得ないでいるのは皮肉だ。変わらなければならないのは自民党はもちろん、野党も、だと思うのだが。

 

 岸田首相は四月に国賓としてアメリカに招かれるそうである。アメリカ訪問のついでにトランプにでも会ってきたらどうだろう。バイデンに失礼かも知れないが、いちかばちかである。ところで、岸田首相は政権延命のために安倍派を叩き潰そうと画策しているように見えて、見苦しい。それが党内の反発を招いていまに自分が潰されるのではないか。国賓で行く前に自分が退場しなければならなくなったらみっともないことだが、あり得ないことではなさそうだ。それとも国賓で行くということが延命の命綱だと思っているのだろうか。

雑感

 朝のNHKニュースで、発達障害の児童が増えていると報じていた。ほんとうなのだろうか。発達障害の児童はたぶんどんな時代にもいたのだろうし、その割合もたぶん一定割合いるのだと思っていた。それが増加しているということにはどんな理由があるのか。何か病的に発達障害をもたらす何かがあるのだろうか。社会が発達障害の児童を増やしてでもいるというのだろうか。そんなものがないとしたら(たぶんないと思う)、それは見逃されていた児童が認定されるようになったということかも知れないし、発達障害と認定される基準が変わったという可能性もある。どちらにしても、そういう児童には手篤い対処が必要だというのがニュースの趣旨のようであった。そのためには人的、資金的援助が必要なことはいうまでもない。発達障害の児童だけではなく、世の中には手篤い対処が必要なことがそれこそ「増えて」いるようだ。

 

 財界人の代表が中国を訪問し、李強首相と面談した。四年ぶりの訪問団の中国訪問で、前回は昨年急死した李克強首相と面談したそうだ。日本側からは反スパイ法についての危惧などを伝えたそうだが、伝えただけで伝わらなかっただろうと思うのは私だけではないだろう。中国との経済協力を維持することで、中国進出企業の社員が不当に拘束されたときに、この代表団はどう責任をとるのだろうか。責任などないのだから責任を感じたりしないのだろう。すでに不当に拘束されている人がいて、解放される気配がないのに友好を謳うのは無責任な気がするのは私がおかしいのだろうか。

 

 そういえば、李強首相はどうも干されかけているという情報もある。中央政治局幹部の会合など、大事な会議に参加できていないという。それはいつも李強首相が外遊しているときらしいので、参加できないのはとうぜんともいえるが、出席すべき大事な会議が、彼が外遊しているときを狙って続けて行われているという話もある。彼との当てにならない口約束は、二重の意味で軽いと思わなければならないだろう。

要介護者予備軍として

 人間は長生きになりすぎているのかも知れない。長生きしすぎた年寄りがあふれてきたために、波及的に少子化が進行している、なんていうことがありはしないか。

 

 介護施設事業者の倒産が続出しているという。採算が合わないし、人も集まらないらしい。利益が出なければ給料だって十分に払えない。いままでは人のために働くことを生きがいと考える人がいて、その人たちに支えられてきたけれど、それに報いるのに社会はなにをしてきたというのか。自衛隊員、警察官、教員、介護施設職員、消防員など、社会を支えてくれている人たちがどんどん人員不足になっているという。

 

 損得を至上とする価値観の社会では、そういう仕事を選ぶのは賢くないと思われているのだろうか。そういう仕事をする人たちへの敬意のなさは、ずいぶん前から目に余るものがあった。その上の、そういう人たちへの待遇への配慮の欠如は病的なほどである。なにもする仕事がなくて仕方がないから介護職員になる、などということが公然と囁かれていた。そういう人間に介護される不幸は想像すると怖ろしい。

 

 寝たきりになったときの母の介護はさいわい手篤くて、とても世話になった。そのときに介護保健師や介護士、介護タクシーの運転士、ケアマネージャーなどといろいろ話す機会があって、いまある状況を予感させるようなことばかり聞かされた気がする。母はまだ手篤い介護が受けられて、母も私たちもおおいにありがたいことであった。いまならどうだろうか。

 

 前にも書いたが、今年で団塊の世代はすべて後期高齢者になる。要介護者がますます増える。それなのに要介護施設も介護者もどんどん減っている。それならどうするか考えなければならないし、対策を立てなければならないと思うけれど、そんな危機感など要介護者予備軍の私には世の中からちっとも感じられない。そんなところに金をかけるのはコスパが悪いのだろう。リターンがないのだから捨てる方が得なのだろう。悪意はないが、成り行きの棄老がこれから進行するようだ。現代の姨捨山か。

 

 リターンのないところを支えてくれる人たちに対しては敬意を払い、それなりの手厚い報酬を得てもらうのが健全なことで、それが損なわれれば社会は不安が増大するばかりで混乱が生ずるもとだと思うが、目先の損得のほうが大事なのだろう。日本もみすぼらしく、醜い国になったものだ。これが道徳教育排除の結果だと見るのはうがち過ぎか。

2024年1月25日 (木)

ゴミ袋

 独り暮らしだからゴミは少ないはずなのに、ゴミ袋があっという間にいっぱいなる気がしている。私は、食材はどうしても食べられないところ以外は食べてしまうので、生ゴミは極めて少ない。それが証拠にいっぱいになったゴミ袋は軽い。ほとんどは食材やらなにやらを包んでいた包装である。重さはともかく、嵩は中身よりはるかに大きい。洗って再利用できそうなものもないではないが、そんなものはひとつかふたつあれば良いから、もったいないけれど捨てるしかない。

 

 子どものころは、父が薪で風呂を焚くのが趣味だったので、紙のゴミは焚きつけなどで燃やすことができた。あの焚き口に座り込んで火を見ているときの父の幸せそうな顔を思いだす。せめて薪ストーブでもあれば紙のゴミを燃やせるが、マンションではかなわないことで、もし一軒家だったとしても、いまは世間がうるさいから無理か。

 

 ゴミの多くがプラスチックだ。これは自分では燃やせないし、かさばるものばかりで嵩を小さくすることもできにくい。ゴミ袋には空気がたっぷり入っている。プラスチックには千差万別あって、ペットボトルのようにほぼ単一の原料なら回収して再生も可能だが、それ以外のバラバラの原料のものはコストから考えて燃やす以外には手がないらしく、私の住む街ではペットボトル以外は燃えるゴミとして出すことになっている。

 

 人間がどんどん増え続け、増え続ければそれ以上にゴミが出て、そのゴミを処理すればますます地球温暖化は進行する。いつかは限界を超えると警鐘が鳴らされているが、すでにその限界は超えてしまっているようで、あとは人間を減らすしかない。だからこその少子化であるなら少子化は止められるはずがない。少子化ではないところは戦争で減らそうというのが神の意志か。ゴミからとんでもないところに話が飛んだが、つながっている気もする。

AIに品位を

 若くても年寄りでも、品位のある話し方の人とそれが出来ない人がいる。テレビでレポーターが一般の人にマイクを向けると、それがよくわかる。自分が誰に向かって話しているのか、そのことに頭が回らないのか、そもそも家族や友人に話す言葉と他人に対して語ることばの使い分けができないだけなのか。

 

 品位というのはお上品にしゃべるということではない。相手に対して然るべき敬意を持って話すということで、それを礼儀という。礼儀はへりくだるということではない。相手との適正な距離をとるためであり、それが互いを安全にするふるまいのことだと思う。

 

 品位を持って話す人は美しい。ため口でしゃべる若者は愚かさ丸出しに見える。そうしてテレビのインタビューはそのような愚かそうな若者ばかりを若者の代表して選別して放送しているように思える。そう思うのは、私がたまたま知り合う若者はおおむね私より品位のある話し方をする人ばかりで、ため口をきいたりしないからだ。

 

 仲間言葉や符丁言葉を常用するのがあたりまえの若者を普通の若者であるとマスコミはプロパガンダしているように見える。どんどん勘違いする若者が増えるだろう。そうでないことを教えるのは、今はもうAIに頼るしかないのではないか。AIに品位のある語り口を持たせるようにして欲しい。それに接することで、愚かな若者のうちの少しは話し方を修正できる若者もいるのではないか。

補足:「愚か」というのは、臆病なくせに無防備だということをいっている。礼儀とは他者との適正な距離を置くことで、その距離感を持たないことを愚かだというのである。距離とは他者との物理的、そして心理的な距離ということで、人は相手に対するとき、互いの安全をはかるために適正な距離を保つのが自然のふるまいなのである。それを考えなくてよい相手を仲間と呼ぶのだが、仲間と他者との区別がつかないのを愚かというのである。統合失調という精神疾患は、その距離感が混乱しているものであるという。だから遠く離れてそこにいない人の声が聞こえるという幻聴という症状が起こるのであろう。

空きを作る

 ハードディスクに録りためた映画やドラマは、観るよりも録画する方が多いからだんだん空きが少なくなってきた。以前集中して観続けたらだいぶ空きができたのだが、気がついたらまた元の木阿弥である。以前は残したいものはBD(ブルーレイディスク)に移していたが、そのBDもたまりにたまってしまったので、いまはBDに移すのはやめている。ハードディスクに録ったものを消化し、BDも観なければいけない。

 

 WOWOWの番組表から選別するのだけれど、それを以前よりは少なくして、映画は以前二十本ほどだったのを、十本程度に厳選しているつもりだけれど、その枠を少し越えているかも知れない。昨日と本日は外へ出るような陽気ではなさそうなので、本はあまり読まずにドラマと映画を観て空きを作ることにしている。

 それにしても映画を観るのはけっこうエネルギーを必要とする。それに眼がくたびれる。

2024年1月24日 (水)

立ち往生

 雪が降っている。こういうときはよほどの用事があっても車で出掛けるのは控えなければならない。雪用のタイヤを履いていても、大雪のときは思ってもいない事態に遭遇する恐れがある。昨晩からの大雪により、名神高速の関ヶ原周辺で立ち往生が起きているようだ。その先頭はトラックのようだが、まさかノーマルタイヤだったりしないだろうなあ。何万台のうちのたった一台の不心得者のお陰でこういうことが起きたりする。ましてや関ヶ原のあたりは坂道が多いから、一度停まってしまうと動き出せなく恐れが大きい。こうなるととうぶん通行はできなくなるだろう。

 

 雪が降ること、しかも大雪の恐れがあることは繰り返しさまざまなメディアから報じられていて、うんざりするほど見聞きしていたが、一番気をつけなければいけない不心得者ほどそういう情報を知ろうとしない。「雪がそんなにひどいとは思わなかった」などという。似たようなことを繰り返し見せられてきた。一番知らなければならない人間ほど伝わらないのがこういう情報だ。たいてい「思わなかった」「知らなかった」などという。雪のことだけをいっているわけではないのはご明察の通り。

そういえば原発事故のあと、東京電力のトップは「思わなかった」「予測できなかった」といって無罪になっていたなあ。

キュリー夫人の映画

 『キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱』という2020年のイギリス映画を観た。主演はイギリス出身でハリウッド女優のロザムンド・パイク。この女優の出演する映画はずいぶんむかしからしばしば観ていて、やさしそうな面立ちなのに勁さを合わせもつという役が似合う。こういう顔立ちが好きであり、この映画も彼女が主演でなければ観なかったかも知れない。それにしても少し歳をとった。ずいぶん前からのなじみなのだからあたりまえだけど。

 

 基本的にキュリー夫人の伝記という体裁ではあるが、ポーランド生まれの彼女がピエール・キュリーと出会うあたりから以後の話が主体で、彼女の矜持の高さ、頑固さが強調されている。勿論それくらいでなければ、女性が男性の格下とみるのがあたりまえの時代に科学的な成果を上げるなどということはできなかったはずだ。ポーランド生まれでユダヤ人であることを理由にした迫害がどれほど彼女を苦しめたのか、察するにあまりある。しかしそれに対する反発が彼女の情熱のエネルギーにもなっていたという面もある。

 

 この映画がただの伝記映画で終わらないで、観る値打ちがあるものにしているのが、彼女が切り開いた科学的功績の延長に、人類が踏み込むべきだったかどうか、という領域があることをフラッシュバックの手法で挿入して表していることだ。出来てしまったものはなかった昔に戻せない、という山本夏彦の名言をあらためて想起させられる。とはいえ彼女が切り開かなければ他のひとがしていただけのことだろう。

 

 彼女の自宅の前に集まって、彼女に罵声を浴びせる大衆という名の愚人たちはいつの世にもいる。テレビの画面のなかに溢れている。

雪が降っている

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夜明け前に風が強くなったらしく、北向きの窓が鳴っていた。昨晩、夜更かししたのでそのまま二度寝して、ゆっくりの朝を迎えてから外を見ると白くなっている。外は暗い。外の写真を撮ったあと、次第に雪が強くなっている。あたりが真っ白になった。

昨日午後は娘が土産を抱えてやって来た。亭主の実家が四国なので、その土産で、いつになくいろいろたくさんある。娘の酒好きの義父が体調を崩しているというので心配していたが、だいぶ回復して、思ったより元気だったそうだ。ただ、絶対やめないといっていた煙草をやめ、酒もほとんど飲まなくなったそうだ。

毎年贈っていた新酒も今年はやめておいたほうが良さそうだ。

二人で妻に頼まれていたものを買いに行く。やはり娘は女だけに選ぶまでいろいろ叮嚀に捜し回り、違う店にも行き、私のようにぞんざいに決めたりしない。それでも時間があったので喫茶店でよもやま話をしたあとに妻の病院へ行く。前回もそうだったが、マスクの上に病院のマスクを二重にかけ、手袋をし、青いビニールの手術着みたいな外衣を着せられる。完全防御での面会だ。二度三度とコロナのクラスター感染があったから、仕方がない。妻との面会はいつものように咬み合わないが、それなりに元気そうなのでよしとする。

娘はあたりまえだけれどどんどんちゃんとした大人になっているようで、それが嬉しかった。

2024年1月23日 (火)

やめられない

 イスラエルのネタニアフ首相はガザへの攻撃をやめるつもりはないと明言している。イスラエルという国家や国民のことを考えての判断だとは思えない。彼は戦争指導者としての首相という役割を続けることで、免責特権により免れている罪がいくつもあると以前報じられていたはずだ。それにそもそも戦争に勝ったとしても、戦争遂行者は国民に犠牲を強いることになるから、戦争が終わった時点で退陣を余儀なくされる。ネタニアフは戦争が終わると、自分の社会的立場を失うことが明らかで、だから戦争を続けなければならない。やめられないのだろう。そんな個人的理由で、ガザでは日々多くの市民が殺され続けていると思うと怒りを禁じ得ない。アメリカはそのネタニアフをとめられるのにとめていない。

 

 世界の紛争は多くの弾薬や兵器を損耗させる。損耗したら作らなければならない。供給する会社は大忙しだ。ここまで需要に合わせて頑張ってきたのだから、戦争や紛争が解決してしまったら困るだろう。やめないで続けて欲しいと強く願っているだろう。陰謀論が蔓延するのも宜なるかな、である。

敬意

 他者に対するに敬意を持ってする、というのは礼儀の基本だが、礼儀は打ち倒すべき旧弊だという教育が行き届いた結果、その教育を最も信奉する者たちで構成されるマスコミによって駆逐されつつある。礼儀を失えば敬意も失われるのは成り行きであろう。自己が肥大化し、損得を基準にして考える者にとっては、敬意とは負け犬の態度であるかのように扱われる。

 

 マスコミの慇懃無礼な皇室への態度などその典型的な現れだろう。芸人に対する場合との区別のなさは、差別駆逐を金科玉条とする彼らにとってはまったく不思議なことではない。その皇室を極端に神格化したりして、歴史の宝箱にしまい込まずにひきずり出すのも、実は同じ心性かも知れない。櫻井よしこに危惧を感じる。ところで、日本の安寧を日本人の総意を代表して祈る、という最も大事な役割を、皇室が果たしているのかどうかも気になるところだ。コロナ禍の時の天皇にその祈りを感じなかったのは、マスコミが報じなかったからか。

 

 今年、団塊の世代はすべて後期高齢者になる。高齢者は少し前の若者であって、観念にあるような、礼儀をわきまえた高齢者ではなくなっている。日教組の日本人の意識変革の大計画は既に成った。日本人は新・日本人になった。そう思って世の中を見ている。日本人は他の国と同様、ひたすらバラバラになっていくだろう。

明日は雪らしい

 ここ尾張西部は今晩から気温がグッと下がって、明日は雪らしい。この地区も一度降雪があったらしいが、私はまだ今年の雪を見ていない。琵琶湖を越え、伊吹山から風に乗って雪が吹き下ろすと、その風が関ヶ原、大垣と抜けて、この尾張地区に雪を降らせる。娘と妻の病院に行く日を今日にしておいてよかった。

 

 アメリカ共和党の大統領候補はほぼトランプに決まりそうだ。私から見ればとんでもない人物に見えるし、日本の報道も、アメリかのメディアでさえもそのような人物にしか見えない映像を見せてくれている。それなのに、トランプがこれだけ圧倒的な支持を受けているというのはどういうことなのかがわからない。彼を支持する人々がおかしいのか、マスメディアが実像を伝えていないのか、それともほかに理由があるのだろうか。ただの支持ではなく、熱狂的な支持にすら見えるのは、集団催眠にでも罹っているというのだろうか。

 

 その結果を想像すれば、アメリカの表舞台からの撤退だろうか。世界の問題からアメリカは手をひく、とトランプは公言している。アメリカ自身が直接的に関わるものだけに対処すれば良いと考えているように見える。グローバリズムというパラダイム(その時代の共通概念)が終わるということだろうか。グローバリズムでアメリカは繁栄したと思うが、それを放棄したときアメリカの繁栄も終わるのではないか。グローバリズムによってアメリカファーストが可能だったのではないか。

 

 アメリカは世界でのさばりすぎた。実は世界のさまざまな紛争におかしな介入をし続けたことの結果が、いまの世界のさらなる不安定を招いたと言えないことはない。面倒になったからもう介入はやめる、というのは自分勝手だが、アメリカそのものの衰退はもう避けようがなくて、もういいや、と表舞台からの退場をアメリカ国民が選んだということなのだろう。つっかえ棒のなくなった世界がどうなるのか、ポストグローバリズムはどんなものになって、世界はどう激変するのだろう。

2024年1月22日 (月)

久しぶりに森進一

 少し読書に倦んだので音楽を聴きながら遊び部屋で久しぶりにゲームをしていた。十年やり続けているシミュレーションゲームだが、初めての局面が現れて驚いた。まだチャレンジできていないフェイズもあるのだ。

 

 音楽は、久しぶりに森進一のベストアルバムのCDなどを聴いた。なかなか好い。若いときはこういう歌手は聴く気がしなかったのだが、たまたま少しのあいだ附き合った女性が「森進一が好きだ」というので、聴いてみたら、意外と心に沁みるので驚いた。私は歌謡曲などは歌詞で聴くところがある。ただ歌詞だけ読めばどうということのないフレーズが、メロディーと歌手の歌唱力でまったく違う世界、思ってもいなかった感情の世界に誘ってくれる。そういう曲は名曲と言ってよく、森進一の歌には意外とそういう名曲が多いのだ。

 

 アルバムのなかから拾えば、『哀しみの器』、『北の蛍』、『冬のリヴィエラ』、『襟裳岬』、『ゆうすげの恋』、『新宿みなと町』など、もともとの歌が好いともいえるが、やはり森進一が歌うから素晴らしいのだと思う。

 

 この中で特に思い入れがあるのが『北の蛍』だ。これは『北の蛍』という同名の映画の主題曲で、樺戸集治監(かばとしゅうちかん)が舞台の、仲代達矢主演、岩下志麻や露口茂、成田三樹夫、夏木勲が共演した、私の高く評価している映画だ。監督は大好きな五社英雄。歌を聴いていると映画のシーンが浮かんでくる。もう一度この映画を観たくなった。

『闇の中の夢想』

 このところ本が気持ちよく読めている。そんなことをわざわざいうのは、この数年、読書スランプが続いていて、読みたい気持があるのに読書への集中力が湧かず、読むスピードが著しく低下しているからだ。それでもときどき猛烈に読めてしまうときもあるから、加齢による衰えというよりも、オーバーヒートのせいのような気持もしている。読む意欲が減退したのではなく、昂進しすぎて気が散って集中できないようなのだ。だから集中力が低下したな、と思ったら別の本に読み替える、という読み方にした。一冊一冊は遅々として進まないものの、いつかは読み終わるもので、それに、読みかけの本も最後になると加速して読み進められる。

 

 一冊が一気に読み進められるときは、却ってオーバーヒートがおさまっているときだと気がついた。いろいろ試行錯誤して読み方を自分なりに納得したので、昨年暮れから自分の調子に合わせて比較的に好いペースで読めているというわけだ。

 

 朝日出版社のレクチャーブックシリーズの一冊、映画学講義と題して作家の埴谷雄高と小川国夫が対談したのがこの『闇の中の夢想』という本である。あとがきによれば、二人の対談は四日間続けられたそうで、前半は年齢が二十歳ほど歳上の埴谷雄高が主に戦前の映画を語り、リバイバルでその一端を知る小川国夫が合いの手を入れながら拝聴するという対談になっている。四日間の対談の後半は戦後の映画で、主客交替したらしいが、この本は前半の対談のまとめである。

 

 古いスチール写真が収められていて、画版リストが添えられているものの、対談のどの部分と照合しているのかがよくわからない。なにしろ映画大好きな私でも戦前の映画についてはほとんど映画雑誌や映画好きの作家の随筆などで知るのみなのであるから。だから無限に繰り出される、作品、監督、俳優、脚本など映画全般についての博覧強記の埴谷雄高の繰り出す情報はすさまじく、圧倒されてしまう。自らを痴呆老人などと自嘲するが、こんなに記憶力が鮮明でどこが痴呆なものか。それとも好きなものの記憶は最後まで維持されるということなのだろうか。それなら有難いことだ。

 

 知らないことだらけで、ここでとりあげられた映画を観る機会もほとんどないだろうが、二人の映画に対する熱愛がこの本を読了させてくれた。

 

 何でもないシーンが鮮明に記憶に残る、という経験が語られているが、私もそういうことがいくつかある。自分だけのそういう記憶は貴重なもので、案外自分自身を形成している大事な要素かも知れない。

北東北

 津軽半島や下北半島などを走り回るのは、ほんとうに旅をした気持になれて好きである。遠いから日数も必要で、現役時代は行くことが出来なかった。リタイアしてから都合四回行った。三四年に一度は出掛けていることになる。

 

 テレビで司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの、『北のまほろば』を取りあげた番組を観た。ずいぶん昔にも十三湊を主題にしながらドキュメント的に取りあげたものがあったが、それとは別の令和版で、佐々木蔵之介が実際に訪ね歩いていた。

 

 北東北については思い入れがありすぎで、こういう番組を観ているとまた行きたくなってしまう。青森の三内丸山遺跡や各地に残る縄文の遺跡や痕跡、津軽半島突端の竜飛岬、下北の恐山や仏ヶ浦を始め、また行きたいところが山のようにある。

 

 どういうわけか弘前には学生時代に一度行ったきりで、リタイア後には通過するだけである。格闘技の部活をしていて、部活仲間のひとりが弘前出身だった。小柄で非力な男だったが、真面目で淡々とケイコをしていて、いつの間にかシャープな技を繰り出すようになっていた。彼の実家を訪ねてそのときに弘前城を見て一目で気に入った。卒業後には手紙のやりとりもしばらくしたが、いつの間にか互いに音信不通になった。それ以来弘前を歩いていないので、無性に行きたくなっている。

 

 番組では五所川原(正確には金木)の斜陽館が取りあげられていた。津軽といえば太宰治で、彼の著作にも『津軽』という文章があり、それが紹介された。棚からその本を引っ張り出して序編だけ拾い読みした。彼の文章がここまでしみ通るように読めたのは久しぶりな気がする。きちんと最初から読み直そうと思う。

 

 橘南谿の『東西遊記』や菅江真澄の『遊覧記』などの紀行文でも、北東北のくだりは心に沁みる。菅江真澄の足跡を訪ねて男鹿半島から北上したこともある。もう一度読み直しながらゆっくり旅をしたいと思うが、さて、どうしようか。なにしろそのあとに六角精児の『呑み鉄本線日本旅』の日南線の再放送を観て、南九州に行きたいなあ、などと思ったりしているのだから、どうなるかわからない。

2024年1月21日 (日)

『真夜中の栗』

 気になる著者の本をつい検索してしまう。最近は小川糸、梨木香歩、先崎彰容、宮本輝、養老孟司、ジェフリー・ディーバーなどの未読の本を見つけて、つい何冊か購入してしまった。検索してよかったのは、小川糸の『ツバキ文具店』シリーズの三作目、『椿の恋文』という本を見つけたことだった。すぐにも読みたい気持ちを抑えて、一緒に購入した彼女の日記エッセー、『真夜中の栗』(幻冬舎文庫)のほうから読み始めた。

 

 ベルリンでの生活を始めて七年あまりの、2019年の一年の日々を綴ったものだ。彼女の目から見えるベルリンやときどき尋ねるヨーロッパのほかの国々の景色や人情を追体験させてもらう。彼女がこういう生き方を選んだことについてはさまざまな文章から断片的に承知しているが、そういう悩みの基盤があっての成長なのだということもわかる気がする。この本でもふるさとの山形を訪ねたときの文章のなかにそれがうかがえる。正面からそういう経験を受け入れるためには長い時間が必要なのだ。

 

 それと、彼女の本では『食堂かたつむり』だけではなく、料理のレシピがふんだんに書き込まれていて、この本にも試してみたいな、と思うものがいくつも出てくる。ケーキなどのスイーツは別として、簡単なものは自分にもできそうだから作ってみたいと思う。ただし、彼女も強調しているように、素材が確かでないと味に感激できないかも知れない。まあ、私は彼女ほど繊細な味覚を持ち合わせていないから大丈夫か。

『ダーウィンを超えて』

 朝日出版社のレクチャーブックシリーズの一冊、今西進化論講義『ダーウィンを超えて』を一月あまりかけてようやく読み終えた。この本は、思想家の吉本隆明が生物学者(そういう括りでは語りきれない人だけれど)の今西錦司に、ダーウィンの進化論を批判をする今西進化論を問うことで、進化論というものについて知り、考え、そして難解な吉本隆明自身の世界観もわかりやすく知ることができるという、とても値打ちのある本だ。

 

 今西錦司の考え方は、批判するダーウィンにおおきく影響を受けている。先達の考えをたたき台に、自分の実証的な生物学を重ねて、自らの世界観を作り上げたのだからとうぜんである。まだダーウィンの時代には知られていなかったことが、いまはわかっているのだから、それをもとに批判してかまわないし、過去のものを金科玉条にしている方がおかしい。

 

 今西錦司は科学そのものが西洋の思想、考え方を基礎にして成り立っていることの偏りを指摘する。吉本隆明が講義を傾聴するというよりも、エンゲルスの思想を道具に今西錦司に戦いを挑んでいるという図式で、ときに今西錦司は「何を言いたいのかわからん」などと一蹴しているのが愉快である。

 

 エンゲルスの思想こそまさに西洋の考え方そのものでもある。西洋思想と東洋思想の違いは、自然と人間との向き合い方、位置づけの違いという面に現れている。人間は神に選ばれた特別な存在だという考えと、人間も生き物のひとつにすぎず、自然に含まれるものであるという考えの隔たりは大きい。そう思いながら、しかしいまの日本は長い間の西洋思想を原点とした教育の刷り込みで、似而非(えせ)西洋人になりつつあるともいえる。養老孟司が頭だけで考えるな、自然にふれあえ、身体で感じろと繰り返しいうのは、そういう現代日本への危惧に発しているように思う。

 

 そういうさまざまなことを考える道具として、この本は古い本(1978年出版)だが再読に価した。

思いだす

 今朝は残ったおもちでしばらくぶりに雑煮を作る。できあがったので食べようとして、ふと忘れものをしている気がした。大事なことである。ずいぶん久しく「いただきます」、「ごちそうさまでした」と声に出していない。子供のとき、両親から、「いま食事が食べられるのはお父さんのお陰、食べものをつくったり、獲ったりしてくれている人のお陰だから、その人たちにいただきますをいいなさい」と教えられた。独りでいても無意識にいえていたことをこのごろ忘れていたのだ。

 

 それはそのまま食べることがおろそかになることにつながっている気がする。人に「ありがとう」というのも同じだろう。「ありがとう」がいえない、呼ばれても返事をしない、まともな挨拶ができないひとのいかに多いことか。むかしはこんなにひどくなかった。そういう人もいたけれど、みんなに軽蔑されていた。いまはそれがあたりまえになりつつある。人権というスローガンのもとで個人が尊重されて、社会のなかの一員という意識が薄れ、つながる力のもとである挨拶がおろそかになっていく。

 

 大げさだけれど、そこにいない人への感謝の挨拶である「いただきます」、「ごちそうさま」ができなくなっていた自分に気がついた。

2024年1月20日 (土)

好きだから買うというより買うことが好き

 コロナ禍の前は、週に一度は本屋を二三軒まわって本を買い、月に一度は鶴舞(名古屋市内、大きな公園がある)まで出掛けて古本屋の棚を物色していた。それがコロナ禍でほとんど本屋へ行くことがなくなり、Amazonや古書組合から取り寄せることが多くなった。本屋へ出掛ければ知らない本に出会うことがあったが、取り寄せでは、どうしてもなじみの人の本を選ぶことが多くなる。もう読むスピードと集中力は昔のようではなくなって、手を広げるのはやめた方が良いのだが、新しいものに出会う楽しみがなくなったのはさみしい。だから月一度くらい再び本屋へ出掛けるようになった。気がつくと両手に本を抱えてレジの前に立っているのに気がつく。

 

 物理的に読める本の数と、新たに購入する本の数を比べれば、明らかに購入する本の方が多い。だから未読の本がどんどんたまっていく。馬鹿なことだと思うけれど、いつか読もうと思ってつい買ってしまう。それなら図書館などで借りれば良いではないかといわれたりするが、ずいぶん前から図書館は利用しなくなった。それだけ経済的に余裕ができて本を大人買いする愉しみを覚えてしまったからだ。つまり、本が欲しくて買ってはいるのだが、喜びは本を買うこと、そこに積んで今度はどれを読もうかと眺めることそのことがなにより快感になってしまってやめられないということのようだ。この病は治りそうにない。

『死ねない時代の哲学』

 村上陽一郎『死ねない時代の哲学』(文春新書)という本を読んだ。「死ねない」というのは、管に繋がれたままただ肉体が形だけ生きている延命治療の象徴という意味もあるし、現代が死そのものを自分の問題として考えられていないことを指してもいるのかなと思う。目を背けている、背けさせられているといってもいい。目を背けて考えないのならそれは存在しないに近い。存在しなければ、ほんとうはあってもないことになっているのだから「死ねない」のである。

 

 人間はさまざまなときとところで決定をおこなう。その積み重ねが自分のたどってきた人生だ。他人に指示されたりアドバイスで決めたにしても、最後に決めているのは自分である。自己決定であり、自己責任である。では「死」についてはどうなのか。自分の死に方は自分で決められるのか。尊厳死、安楽死について深く考え、世界のさまざまな国の考え方、そして日本の現状、さらに終末期医療について深く掘り下げて哲学的に考察したのがこの本だ。

 

 読み飛ばしてしまったけれど、自分の問題として、そして家族の問題として私なりに考えては来たことを、さらにもう少し深く考えてみたいところも多かった。少し間を置いて再読したい。日本の現状についてはやや感情的な、ときにヒステリックな延命論がそれらの問題を考えるときの邪魔になっていることを著者は憂えているが、私も同感である。ただ、自己の死を「自己決定権」などという言い方で論ぜられる傾向があることにも著者は警鐘を鳴らしている。死に方を決定するのは権利なのか、という指摘は重い。

 

 何ごとも「人権」などで論じる風潮にいささかうんざりしている。日本の権利の主張には、しばしば自分だけがいて他人はいない。だから常に損得がまつわりついて見える。考えてみれば自分が死んでしまったあとのことは自分とは無関係で、自分の死を考えるとは、つまり死ぬまでのことを考えるということで、それは生きている自分、その自分がどう生きるかということでしかない。

 

 長いさめない眠りにつく、その眠りのつき方について、徹底的に考察したこの本を読み、自分の終末までの生き方を考える、ということが「死」を考えることでもあるのかも知れない。遅かれ早かれ必ずお迎えは来るのだ。できれば苦しまずに楽に最後を迎えたいと思う。さいわい現代は苦痛緩和ケアが進んでいるらしいから有難い。私は回復の見込みがないのに行う延命治療はして欲しくない。

楽屋裏、まだやめどきではない

 ブログを書くことが楽しいこともあるし、何も書くことがなくて、それでも次を書かなければと思って少し重荷に感じることもある。本を読んだり、ドラマや映画を観たあとにそのことを書くのはそれほど面倒なことではない。感じたことを書けば良いだけで、読んだとか、観たということの備忘録みたいなものだ。問題はそういう枠のないもので、精神力の蓄積が放出されすぎて空っぽになって、色々な情報から思考が生み出されなくなるときだ。それは充電を待つしかない。もともとザル頭な上に容量が小さいから仕方がない。そういうときはなにもしないでぼんやりしている。寝ているわけではないのに時間がいつの間にか過ぎていたりする。無駄な時間だと思っていたが、どうも自分には必須の時間だと気がついて、この頃はそのぼんやりする時間を大事に考えている。

 

 さまざまなきっかけで頭にキーワードが浮かび、連想が生ずるとブログに書けそうな気がする。そのまま書くことはあまりない。メモができる状態であれば、そのキーワードと連想したことのヒントを書いておく。そのまま頭の片隅に転がしておくと、書けるときと書くことが膨らまないでしぼんでしまうものとに分かれる。メモを観てもそもそもなにを考えたのかわからないことも多い。

 

 いざ書き始めるとたいていなにも考えずに書き進められる。構成を考えたことはほとんどない。書いたあとで少しいじることもあるが、見直すのは誤字脱字の訂正程度である。細部にこだわり出すとブログに時間がかかりすぎてしまうから、文章に不満でもあきらめる。だから満足することはめったにない。たまに少しマシなものが書けたと思うときほど、いいね!が少ないのは面白い。たぶん独りよがりな文章になっているのだろう、自分ではわからない。

 

 書き出すと途中で横道へ逸れていくことがしばしばあって、最初に決めた表題とは関係がない文章になったりする。それがさいわい表題に関連したものと、脇道から生じたものの二つになればさいわいで、そういうものはあとで「自分はこんなことを考えていたのか」などと思ったりする。意識の下の方、無意識と意識の境目から湧き出しているのかな、などと思う。ブログを書く楽しみ、意欲はそういうものを感じるときにあって、たぶんそれがなくなったらブログのやめどきかなと思うが、いまのところ大丈夫そうである。

『「他人」の壁』

 『「他人」の壁』(SB新書)は養老孟司と精神科医の名越康文の対談本。帯には「話せばわかる」はやっぱり大ウソ!とある。誤解がないようにいえば、「話してわかる」こともないわけではない。ただ、話したから自分の考えが伝わったと思うのは違うのではないかということが繰り返し書かれているのがこの本だということだ。

 

 少し前にこのブログに言葉は抽象だ、と書いた。言葉はコミュニケーションの道具だとも書いたが、その道具としての言葉は人それぞれに意味するものが違うもので、だから思い込みや誤解も生ずる。伝えたことが少しも伝わらないことは普通にあることで、それがほんの少しでも伝われば御の字であるのがコミュニケーションなのだ。

 

 どうしてそうなのか。そもそも自分と他人は違う。その自分すら昨日と今日では違うものだ。人は日々変わる、そして世界も日々変わる。同じだと思いこんでいるから「話せばわかる」などと思うのだ。

 

 何度も書いているからまたかと思われそうだが、私は、自分と他人とは違うのだ、ということに気がついたことで、ものを識るということに気がついた。それを教えてくれたのは森本哲郎の本だった。いかに世の中の人はそのことに気がついていないのか、気がついてみると不思議な気がする。気がつくことで気がつく前の自分とは変わった。私は変わったのだ。

 

 この本を読んで自分と他人は違う、ということに気がつける人がほんの一握りでもいれば良いなあと思う。そんなことは当たり前ではないかと思う人はまだ気がついていないのだと思う。繰り返しいう、他人(ひと)は自分とは違う。違うからコミュニケーションが必要で、伝わらないことを覚悟の上、承知の上で伝えようとしたとき、初めて何かが伝わることがある、ということだ。こんなに一生懸命自分が誠意を持って伝えようとしているのにわかってもらえない、と嘆く人が多い。

2024年1月19日 (金)

予定がいっぱい

 予定がいっぱいといったって、現役時代からすればわずかだ。それでも普段はなにも用事のないことの方が多いので、いくつか重なってくるととても多く感じる。

 

 来週は、入院中の妻に頼まれたものを娘と買いに行き(女物なので娘に頼まないとわからない)、その足で二人で面会する予定。娘の都合もあり面会の予約が少し先なので、支払いが遅くならないよう今日も病院に行くつもり。その次の週には糖尿病内科の定期検診があり、別の日に泌尿器科の定期検診、そのあと二月早々に弟が来て数日泊まる予定。今回はひとりで来る。二月初めにいつもの蔵開きがあるので参加するのだ。そのための連絡手配はすでに済んだ。私を入れて六人がエントリーする。

 

 蔵開きのあとに先日治療した奥歯の歯科検診があり、そのあとには正月に来なかった息子夫婦がやってくる。さらにそのあとには眼科の検診と視力の最終検査を行う。それでいまの目に合う眼鏡を作り直すつもりである。一つは新調、一つは予備としていまのもののレンズだけ替えるつもり。

 

 どこかへ出掛けたい気もしていたけれど、新しいパソコンや眼鏡の新調、妻の入院費など、いろいろ重なるので近場の日帰り程度にとどめようと思う。といってもいつ気が変わるかわからない。

 

 そういえば親しくしていた先輩(兄貴分の人とは違う)からずいぶん久しぶり(五年以上会っていない)に、春になったらいつも船橋で会う先輩とふたりで名古屋へ行くからよろしく、と連絡をもらった。とても嬉しいし楽しみだ。声をかけておくように頼まれた、共通の友人である犬山にいる先輩に連絡した。好いなあ、久しぶりにみんなで会える。嬉しい。自分で思っていたよりも友達がいるのだと、そのことをいまさらながらありがたいことだと思った。

秘密兵器

 毎月半ばにガスの検針があって、冬の暖房はガスファンヒーターをメインに使うこともあり、この時期はガス代が跳ね上がる。少し遅めにあった今月の検針票を見ると、意外なことにいつもの年の三分の一である。いつもはガスファンヒーターを二台使うのが、今年は一台のみにして、しかもつけている時間も短くしているからとうぜんではあるのだが、たぶんそれが出来ているのは暖冬だからだろう。二台目の暖房は寝室にしている遊び部屋で使う。

 

 そこで囲碁やシミュレーションゲームをするので暖房するのだが、今年はほとんどゲームをしていない。それに、もしゲームをするにしても今年は秘密兵器がある。両足が足首の上まですっぽり入る電気あんかを見つけて購入したのだ。こういうものがあれば、と思っていたらちゃんとあったのだ。説明書のたどたどしい日本語から見て中国製らしいが、使えれば別にかまわない。思ったよりも安い。温度設定も何段階かあって、タイマーもついていて自動的に切れるから安心だ。実際に使用してみると、一番低い温度設定でも十分温かい。あとは上にそれなりのものを着込めば寒くない。ただ、快適だからとゲームを始めると夢中になってしまい、読書やドラマや映画鑑賞をする時間がなくなるので、いまは控えている。

 

 そういえば眼を温めてマッサージするゴーグル式の器械を買って愛用していたが、白内障の手術をしたのでずっと使うのをやめていた。眼の酷使は続いているので久しぶりに使ってみようか。

遅れる方が有利なこともある

 このことはずいぶん昔に書いたことがあるが、どうして第二次世界大戦後に、敗戦国だった日本やドイツの工業生産が戦勝国以上に成長発展を遂げたか、ということである。それは敗戦国ではほとんどの工場が破壊されてしまい、一から作り直すことになったからである。そのときに、最新の知見をもとに生産性の良い設備を建設した。ところが戦勝国では古い設備が生きていることが多いから、それを改廃することなくその設備で生産を行う。とうぜん生産性は低く、性能も劣るものが造られていく。鉄鋼などはその際たるものだった。

 

 韓国も朝鮮戦争によって壊滅的な状態になったから、最新の設備で復興を成し遂げようと努力した。そのときに朝鮮戦争の特需で経済的に回復していた日本から、日韓協定締結の条件の一つとして巨額のお金が渡されたことが韓国の現在の反映の礎であることは御承知の通り(韓国はそれを認めたくないようだが)。鉄鋼業、造船業などは日本の支援のもとに急成長し、日本を凌駕していった。

 

 このように遅れていったものは、最新のものを導入することができて却って競争力を持つことができる。敗戦国はそういう利点があって成長した。ただし同じ条件でもそのような設備投資や技術革新の努力を怠れば衰退没落していくだけである。

 

 トランプにはそういう流れなど見えていない。日本や韓国や中国がズルをした、アメリカのお陰をこうむりながら恩を仇で返した、と言う認識であるように見える。そういう国はアメリカの敵だと心の中では思っているだろう。トランプを説得して正しい認識を求めるのは不可能だ。聞く耳を持たない人間には百万言を費やしてもなにも伝わらない。そうしてそんな聞く耳を持たない厖大な支持者が彼を支えている。アメリカの衰退する未来が見えるようだ。

 

 翻って、日本の失われた30年とはなんだったのか。アメリカ以上の無策が続いた。日本が好景気で蓄えた資産をただ食いつぶし、多くの経営者が設備投資も人的投資もせず、浮いた金を利益だと勘違いしていた。そんな会社が成長したり繁栄したりするはずがない。気がつけば浮いた金は使い切れずにため込んだもののその金の使い道もわからず、楽をするためにズルをすることを覚えて、それから抜けられなくなった会社がいくつも生まれてしまった。そのことは産業界ばかりではなく、政界も同様だったらしいことがいま明らかにされている。芸能界のスキャンダル、それも過去のものが暴露されて豚を殺す騒ぎになっている。日本は隘路にいるらしい。いや袋小路か。

 

 余談だが、大きな災害のあと、地域産業は壊滅的な打撃を受けると地域経済はマイナス成長となるが、数年経つと他地域以上のプラス成長に転ずるというデータがあるそうだ。つまり災害により生産性の低い会社が撤退消滅し、自力のあるところが新しい設備を打ち立てて競争力を持つようになるからだろうという。中国の馬鹿なインフルエンサーだかなんだかが、今回の能登大地震を福島原発の処理水を流したことへの天罰だ、などとほざいたそうだが、そんなことを取りあげる必要もなく腹を立てる気にもならない。ただ、災害をスプリングボードにする、という意欲を持って復興を行えば、新しい未来もあろうと思う。不条理ではあるが、天はそのための試練をあたえたのかも知れないと思い直し、人気とりではない金の使い方を考えて欲しいものだ。

2024年1月18日 (木)

無電柱化

 今度の能登大地震の映像では、傾いたり倒れたりした電柱が映し出されていた。これでは電気も止まるだろうと思う。いままでの震災では、電線の地中化などが進んだところほどインフラ復旧が早かった、とテレビで言っていた。電気、水道、そして電話線などの通信線を集中的に地中化することは景観、メンテナンスの維持にとても有効であるといわれ続けてきた。

 

 掘っては埋め、掘っては埋め、というのが日本の道路工事である。道路の補修、水道管の入れ替え等々さまざまな工事が互いに関連せずにつぎつぎに行われるから四六時中工事をしているように思える。名古屋ではデザイン博を前に主要道路の電線の地中化を進めた。場所によっては道路をコンクリート化してインフラを地中化したから、工事期間は長かったものの、その後その道路はあまり掘りかえさずに快適である。しかしそれでも名古屋市の無電柱化率は7%あまりである。東京都は名古屋以上に電柱の撤去を進めていて、大都市では一番進んでいるとはいえ一割を越えた程度らしい。日本は先進国ではもっとも無電柱化の遅れた国である。

 

 無電柱化は災害対策になる。そのことがわかっているのにそれが遅々として進まない。東日本大震災の復興で果たしてそのような工事が優先されてきたのかどうか疑問を感じる。あまり意味の無いところに無駄金は使われていないだろうか。ちなみに全国で無電柱化が必要だと叫ばれながら、なんと、昨年も電柱の撤去された本数よりも、新しく設置された電柱のほうが多かったそうである。

 

 同じようなことを繰り返すようだが、使うべき金を使わずに怠けてきたことのツケを災害のたびに払わされてきて、それを反省する声は聞かれるものの、その後それが改善されたかどうか検証されたのを見聞きしたことがない。言いっ放しで同じことを繰り返す。たまりにたまったそのツケを誰が払うのか。

無意識

 言葉は抽象である。抽象が示すものはそのものではない。目の前のリンゴを「リンゴ」といっても、言葉のリンゴは目の前のリンゴそのものではない。それが証拠にリンゴという言葉は食べられない。写真だって映像だってリアルであってもリンゴそのものではないから食べられない。言葉の問題は奥が深いから、とても私の手に負えないからここまでとするが、問題は無意識ということである。

 

 人間の意識というのは無意識という大海に浮かぶ小島のようなものなのだという。つまり無意識の方がはるかに大きいのだ。わかる気がする。人間は感覚で、たとえば視覚で、聴覚で、味覚で、触覚で、嗅覚で外界を認識し、それを記憶する。それはたぶんほかの生き物も同様だろう。その認識は言葉で記憶されるものではないだろう。言葉は何かを他者に伝達する手段として発達したものだ。表情や発声や仕草、気配で動物たちはコミュニケーションを行うが、より多くのことを伝えるのに言葉が有効だったから発達していったのだろうといわれている。

 

 人間の脳はどんどん進化して大きくなっていることは、発掘されたさまざまな年代の原生人類の化石を時代順に観れば歴然としているようだ。そして言葉がいつから使われ出したのか。脳の発達と言葉は相関があると考えられ、言葉の発達とともに脳も大きくなってきたのだ、というのが常識的な考え方だったのだが、実は言葉が使われ出したのは脳がずいぶん大きくなってからではないかというのが最近の研究である(今西錦司の本で読んだ)。脳が大きくなることが、言葉よりも先行していたらしいのだ。

 

 ここからは全くの私の妄想である。人間は外界から得た五感による情報を記憶して蓄えるという能力を高める方向に進化した。それが生存の維持に有効だったからだ。そうして脳は記憶装置として大きくなっていく。非力である人間は集団で行動する。集団行動をするには知性とコミュニケーション能力が必要である。ネアンデルタール人とクロマニヨン人では集団の大きさが違ったという。ネアンデルタール人は少数集団しか形成できなかった。そのことが身体能力には優れていたのに、ネアンデルタール人の滅亡につながったようだ。

 

 そのコミュニケーション力、知識の蓄積と世代間伝達などには言葉が必須で、言葉が発せられるようになり、急速に発達したのではないか。

 

 問題は言葉が抽象であるということである。もともと言葉以前に蓄えられた記憶も情報の集積で、その情報も抽象である。人間はその情報の混沌を互いに関係づけ、以前起きたことといま起きていることを比較して次を推定するという作業を頭の中で行っている。いまAIに行わせようとしているのはそれと同じことである。AIは情報の海からたくさんの予測を行い、確率的な最適予測を選び出している。それを結果と照合してさらに最適選択の確率を上げる、という繰り返しを行っているのだ。

 

 情報とは言葉である。人間は言語を使用するが、機械は機械の言葉を使用する。つまり抽象でものを考えている。そして人間は言葉以前のさまざまな情報を無意識という海から汲み上げている。その無意識というものも五感から取り込んだ抽象だ。そして言葉はそぎ落としたものに復讐される。無意識は常に人間の意識の水面下で「それは違うぞ!」と囁く。人間の不安、生きることの不安の原点はここにありはしないか。二重の抽象の世界が人間の知性を支えている。AIにとっての無意識は厖大な情報の蓄積で、AIはそこからの囁きを聞くことがあるのだろうか。

 

 無意識についてはフロイトの著作があって若いときに読み囓った。精神的な不安定さを生み出すメカニズムを無意識を原点に語っていた。それらのことがいろいろからまり合って思いだされ、結局何が言いたいのかわからなくなった。せっかくここまで考えたのだから、迷子のままこの辺りでウロウロすることにする。

『なぜエヴァンズに頼まなかったのか?』

 少し前に放映されて録画していた、アガサ・クリスティー原作の英国ミステリードラマ『なぜエヴァンズに頼まなかったのか?』を観た。こういう物語を創作するアガサの想像力にはいまさらながら敬服する。崖から落ちて瀕死の人物が最期に発した言葉が「なぜエヴァンズに頼まなかったのか?」であったことから、その言葉を聴き取った青年がその不可解な言葉の謎を追究していく、という全三回のドラマで、まったく手がかりのない、そもそも死んだ人物が誰であるかも分からない雲を掴む謎を、元海軍出身でいまは定職らしい定職のない青年と、その幼なじみの伯爵令嬢が解き明かしていく。

 

 謎が解けていくのは、犯人がその犯行の真相を隠すために暗殺者を使って彼らを害しようとするからだ。その犠牲になってしまう人もでる。さいわい主人公たちは辛くもその危難を乗り越えるのだが、敢えて敵地に乗り込むという冒険をしたために絶体絶命の危機に陥る。最期は期待通りの事件解決、ハッピーエンドになるから好い気持ちでドラマを観終わることができた。それにしても「なぜエヴァンズに頼まなかったのか?」という不思議な言葉の真相には思わずうならされて納得させられてしまう。  

 

 次の英国初のアガサ・クリスティーのドラマが待ち遠しい。

2024年1月17日 (水)

思考の原点

 バタフライエフェクトというNHKのドキュメント番組があって、なかなか興味深くおもしろいものが多い。今回見たのは銭学森と習近平という二人の人物に焦点を当てたものだった。銭学森は日中戦争前に、精華大学を出てからアメリカに留学してそのままとどまり、アメリカのロケット開発の第一人者として貢献した人物だ。後に赤狩りによってその貢献を無にされ、周恩来の働きで中国に帰る。中国のミサイル技術、ロケット技術の多くはこの銭学森に負うところが大きい。天才だったのだ。アメリカが銭学森を追放したことによって失ったもの、中国が手に入れたものがどれほどのものだったのかを思う。日本には銭学森はいないのだろうか。近頃のロケット打ち上げのたびの不具合は日本人として少し哀しい。

 

 もう一人の習近平については知っていることも多いが、改めてまとめて番組でその情報を提示されると、この頃考えている習近平の思考の原点のようなものが、必ずしも私の妄想ばかりではないような気がしてきた。

 

 習近平の父親は共産党の重鎮の一人で建国に貢献したが失脚し(たぶん毛沢東の仕組んだ権力争いによるものだろう)、文化大革命では紅衛兵たちに激しい攻撃に遭う。その息子である習近平も同様の仕打ちを受けた。そして下放(学生は地方の農家などで労働を学ばされた)により延安で苦難の日々を送った。彼には紅衛兵たちの集団暴動の恐ろしさが体にも心にも強く染みついたものと思われる。

 

 一度失脚した権力者の子弟は、不遇が運命づけられるのが中国だが、習近平は奇跡的に共産党入党を果たし這い上がる。そして彼は天安門事件を目の当たりにする。その彼の目には天安門前広場の前に蝟集した学生や労働者たちの姿は、彼の恐怖する文化大革命の時の紅衛兵たちの姿に重なって見えていたのではないか。

 

 だから彼にとって国民が集団で行動することが何よりも恐ろしい。それを抑えることが何よりも優先する。だから軍隊以上に公安(治安維持のため)に予算をつぎ込み、国民の監視を強化し、敵対する大きな権力をしらみつぶしにしていく。彼にとってIT企業も軍部も金融のトップもすべて敵に見えているのではないか。

 

 さらに彼がのし上がる足がかりとして長年在籍したのが福建省であったということがもう一つのポイントである(このことはすくなくない専門家が指摘している)。福建省の目の前に海を挟んで存在するのが台湾である。ほかの政治家とは違って、台湾統一は習近平にとってこころの底からの解決すべき懸案なのである。

 

 彼が経済にあまり重きを置かないのは経済音痴だからだといわれる。それはその通りなのだろうが、彼にとって経済は優先事項ではないのだと思う。それよりも大衆がいかにまとまって力を持つことがないようにするのか、それが優先なのだと思う。不動産バブルがはじけて不満が爆発するといっても、実は不動産投資で金持ちになったのは中国国民のうちの一握りであって、それを怨嗟の目で見ていた一般大衆の方がずっと多いのではないか。しからば不動産バブルがはじけたからといって、それが大きな大衆運動にはつながらないと考えているのではないか。

 

 そしてもしその予測が外れたとき、国民の目をそらすためには習近平念願の懸案事項解決が待っている。

取り返しがつかなくなる前に

 メイン使用のノートパソコンはSSDが寿命らしく、ご臨終(繰り返し再起動し、異音がして使い物にならない。SSDの換装もありだが、キーボードにも異常があり愛想が尽きている)となり、その前に使用していた予備パソコンを引っ張り出して使用している。これがとても遅い。立ち上がって普通に使えるようになるまでに数分かかるし、いくつも開くと機嫌を損ねてますます遅くなる。そうなると発熱するのでアルミのクーラーの上で使用している。

 

 ところがこちらもときどきかすかに異音がするようになった。こちらはハードディスクがクラッシュする前兆の音で、なじみがある(十年以上使用しているのだから当然か)。過去の経験から、まだ軽微だからしばらく大丈夫だと思うが、取り返しがつかなくなる前に新しいパソコンを用意しなければならない。実は別にデスクトップもあるのだが、こちらはもちろん旅に携行できない。

 

 というわけで、昨日14インチのノートパソコンを手配した。これもSSDだから高速アクセスが可能だ。出来合ではなく、不要なものは極力なしにして最低限装備の安上がりのものをオーダーメードした。一週間くらいで送られてくる。しばらく設定で遊べるだろう。それを期にこれからLANなどをいろいろ新しくしたいとも思うが考慮中である。

 

 調べるとSSDは高速だけれど寿命は最悪五年くらいと、HDより短いようである。それを前提に今後を考えなければならないと思っている。

『隋の煬帝』

 眠れないときのために、枕元に睡眠薬がわりとして宮崎市定の『随の煬帝』(中公文庫)をおいて少しずつ読み進めていたが、案外おもしろい。この本にはほかに『隋代史雑考』という論文が収録されていて、『隋の煬帝』の方は読み終えたので、少しずつそちらも読み進めてはいるものの、専門家ではないと無理で、私ではほとんど歯が立たない。

 

 隋といえば、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として送ったことで知られているから、日本人にもなじみのある王朝だ。ただ、隋が中国全土を統一した歴史を知る人はあまり多くないだろう。漢という王朝が衰退して魏呉蜀の三国志の時代となる。最終的に魏が残るが、その魏も司馬氏に簒奪されて晋という国になり、それが四分五裂して南北朝時代が続く。中国がたくさんの国に分かれて短期間にいくつもの国が盛衰した。特に北方は異民族の国が盛衰した。それを五胡十六国という。中国史好きには一番おもしろい時代ともいえる。

 

 その北方の国の一つから派生して、ついに四分五裂した中国を統一したのが隋という国で、統一したのは文帝、その息子が煬帝(ようだい)である。どうして「ようてい」ではなく「ようだい」と読むのかは理由がない。昔からの慣例である。そして煬帝で隋は滅びてしまう。その後が唐の時代であることは誰でも承知のことと思う。

 

 隋の煬帝といえば「史上最も悪名が高い」とされているが、その実像はどうであったのか。それを宮崎市定が様々な資料を原点から見直して考察し、書き下ろしたのがこの本である。だから従来の歴史書の人物像と重なる部分と異なる部分があるものと思う。

 

 そうなると比較して読みたくなるが、いろいろ手を広げすぎているところで収拾がつかなくなっている。とりあえず川勝義雄『魏晋南北朝』(講談社学術文庫)という本が本棚にあるので脇の本の山に加えておくことにする。さらに、以前読んでとてもおもしろかった三崎良章『五胡十六国』(東方書店)も参考書として並べておくことにしよう。

 

 宮崎市定はただ史実を書き連ねるだけではなく、歴史というものや社会、人間についての鋭い洞察にとんだ言葉が書き込まれているので、読んでいてなるほど、と思わせてくれる。最も感銘を受け、教えられることの多かったのが『アジア史概説』(中公文庫)という本だった。東洋史に少しでも興味のある人は是非読むことをおすすめしたい。

2024年1月16日 (火)

承知の上

 中国経済の実態がいろいろ取りざたされている。中国政府が発表する統計値を元にして判断すれば、中国経済は底堅く、巨大な人口による内需に支えられていてびくともしていないという見立てになる。日本の公的機関などの多くはそちらの立場に立つ。経済評論家などもその見立てにたつものが多い。しかし、中国の現地に情報源を持つ一部評論家は、全く違う評価をしている。

 

 感情的な中国崩壊論を唱える人と似て見えるので、またか、と思われたりするが、実際の情報を元にしたものは傾聴に値するものもあるのではないか。現実に中国の不動産業が惨憺たる状況であることを否定する人はいない。そしてそれに対して中国政府は対策を講じてはいるが、不十分であることを否定する人もいない。そして若者の失業率が20%を超えていることを否定する人はいない。さらに世界が、そして日本までもが物価が上昇している中で、中国だけは政府発表でもわずかな上昇、実態はデフレ状態であることは否定しようがない。

 

 だから中国の発表する統計値はいささか眉につばする必要があることは、その統計値を利用してそれを根拠に現状を説明する人たちも承知の上なのだろうと思う。しかしそれを否定してしまうと根拠のない想像力の加わった分析になるから仕方がない。だからその分析を鵜呑みにしないで中国を見ていくしかない。

 

 ところでその想像力を持って中国経済の動向を見ると、中国政府、習近平政権は本気で中国経済を立て直そうとは考えていないように見える。立て直したいという思いはあるのだろうが、それが最優先事項だとは考えていない、というのが正しい見方だろうか。

 

 中国の国民が不満を抱くとしたら不動産投資その他による貧富の差の拡大が原因だと習近平は考えているのではないか。中国全体の豊かさよりも、不満の増大を防ぐことを優先すべきだと考えているのではないか。もしそれによってみんなが貧しくなろうとも、不平等は緩和、さらに解消する。それこそが共産主義の本義であると習近平は考えているのではないか。そう見立てると、案外私は得心がいってしまう。習近平も承知の上なのだ、と思うのである。

2024年1月15日 (月)

熱田神宮(2)

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熱田神宮拝殿。二礼二拍手一礼してご挨拶。

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右手にはおみくじ売り場。

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左手横から奥の本殿がちらりと見えた。

熱田神宮は本殿を取り囲むように高い塀が巡らされていて、中に入らない限りほとんど本殿は見えない。その塀の外側はこころの小道という小径となっていて、その周囲は熱田の森と呼ばれる。左手から時計回りをする。

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右の壁の向こうが本殿。

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ここが本殿の真後ろに当たるところ。

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ぐるりと回って熱田の森の中を歩く。右手高台には小さな社などがある。

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こういう立派な古木が何本かある。

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人が行列している。

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どうして列んでいたのか、これを読めばわかる。いつもよりも人が多い。

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花を写している人がいるのでまねをしてみた。

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どう見ても梅ではなく桜に見える。一月なんだけど。

何となくからだがダル重なので、この後そのまま帰路についた。

以前なら金山あたりで散策するところである。衰えた。

明日は確かココログのメンテナンス日のはずだったなあ。

熱田神宮(1)

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名鉄の神宮前駅の前の横断歩道の上から、熱田神宮の森を見下ろす。入り口の鳥居は画面左手へ回り込んだところにある。右側から通り抜ける道もあるが、鳥居側へまわる。さいわい、天気はまあまあながら、風があって、その風がとても冷たい。

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熱田神宮の鳥居。

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鳥居の柱に榊があるのに初めて気がついた。いつも気がついては忘れている気もする。正面で拝礼して鳥居をくぐる。

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参道。広々している。今日は休日ではないはずだが、人は多い。

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いつもカラスはいるが、今日はことのほか多いように感じた。騒がしい。何か理由があるのだろうか。

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この大灯籠は写真で見るよりずっと大きい。それでも木に隠れて気づかずに通り過ぎてしまう人が多い。

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この左手には手洗い場があるが、うまく写真が撮れなかった。手を清めて神木の大楠を見る。いつもいく新酒会の酒蔵は三重県なので、この愛知県酒造組合には属さない。

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この大楠にはいつも圧倒される。これだけの木なら神気がないはずがない。

もう熱田神宮の拝殿は近い。

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大楠のすぐ先にいつも生け花が展示されている。今回は六点あったが、その一つを選んで撮影。

次回は拝殿と神宮の森を。

アフターコロナ

 まだコロナ禍が終焉を迎えたわけではなくて、波状的に再燃を繰り返しながら減衰し、ついにウイルスと共存するという安定期になるまでにはまだ長い時間が必要だろう。中国ではコロナの新型感染者がいま再び増加しているという情報もある。

 

 村上陽一郎編の『コロナ後の世界を生きる』(岩波新書)という本を読んだ。二十五人の論客が新型コロナについて論じている。その論点はそれぞれの専門の視点から語られていて、社会学的、歴史的、疫学的など様々で、中にはきわめてユニークな視点の文章もあって大変おもしろかった。

 

 実はこの本が緊急出版されたのは2020年の六月である。いま見れば、まだまだコロナの猖獗はこれからという時期であり、コロナ後を論ずるにはコロナ禍全体が見えていないのだが、一時的に下火になったように見えた時期であった。この後コロナは変化して第二波が世界をおそった。「緊急」という意味はコロナが世界に広がって半年、その経緯と本質をどうとらえるか、様々な分野の人に五月までの時点を一区切りとして文章にするよう依頼し、村上陽一郎がまとめたからである。この時点では、まだコロナが収束したと考えられていたわけではない。

 

 それぞれの文章を元に私なりによく考えたいものがいくつかあったのだが、それについてはもしうまく頭の中でまとまったら改めて書いてみたいと思う。明記しておくべきことは、2010年頃に、すでにこのようなパンデミックが予想されていて、それに対する対策案も日本の国会に提出され、それが承認されているということだ。そしてそれがただ店ざらしになったままで、その対策とは逆のことが平然と進められ、PCR検査の不備と遅れをもたらし、あの医療崩壊、保健所の対応不能の事態を招いたということだ。

 

 日本は常に起きたことに対する検証が行われない国であることをここでも痛感した。だから失敗に学ばず、同じ失敗を繰り返す。それでも何とかなってきたことこそが、次にもっと大きな災厄につながるかもしれないと思うと恐ろしい。

 

 私は毎年1月15日に熱田神宮に参拝に行くことにしている。名古屋に移ってから、よほどよんどころない事情がない限りずっと続けているから、もう四十年近くになる。昼前には出かけようと思う。

2024年1月14日 (日)

能登を想う

 ここ数年、能登に地震が頻発し続けていて、気にはしていたが、昨年の大きな地震でエネルギーの放出も終わり、その後の地震はその減衰しつつある余震だと考えていた。だから昨年の11月に弟夫婦と妹の四人で能登巡りをして、穴水の海岸高台の小さなホテルに泊まり、牡蠣のフルコースを食べたりした。

 

 学生時代に友人と日本海を二週間ほど寝袋かついでの野宿旅をしたが、そのときに能登にも二泊した。このときの二泊は、穴水の後輩の家と、さらにその親戚の家に泊めてもらい、ごちそうもいただき、畳の上で寝ることもできるという思い出深い旅だった。あまつさえその親戚の人の車で能登の先端まで案内していただいた。

 

 名古屋に転居してからは能登は東京からよりは遙かに近くなり、折りがあれば訪ねていたし、五十を過ぎてからは十年ほど金沢に単身赴任したから、能登はますます近くなった。年に二回くらいは能登を走り回ったものだ。得意先もあるから仕事ではもっと多く訪ねている。ほとんど半島は知らないところがあまりないほど知っているつもりだ。だから今回の大地震では被害に遭われた人たちのことはもちろん他人事と思えず心配だが、自分の知っている場所がどうなったのかもとても気になっている。

 

 いくつかあげるとすれば、その一つは今のところ何も情報のない輪島の少し先の南惣美術館だ。個人の美術館で蔵に逸品がぎっしりと収められている。学生の時に教えられて、それ以来何度訪ねただろう。本当は弟たちにも見せたかったが、思いのほか時間を食って寄れなかったのが悔やまれる。絵画や書や金属製の仏増などは無事だろうが、古九谷の焼き物などにすばらしいものがあって、それがどうなっているのか心配だ。

 

 そのすぐ近くにある時国家も寄るつもりだったが、来客が少ないから昨年の秋はじめ頃から閉館していた。その時国家の大きな茅葺きの建物が倒壊しているのを昨夕初めて映像で見せられた。誠に残念に思う。

 

 輪島の港の大きな駐車場のそばにあったキリコ会館はどうなったのだろうか。海のすぐ前だし、震源地にも近い。建物の倒壊はなかったと思うが、キリコは縦長のものだから多くが倒れたのではないか。また、厳門の洞窟がどうなったのか、あの海岸は最大四メートルも隆起したというから景色は大きく変貌してしまっただろう。また、輪島門前町の総持寺は以前の大地震で多くの建物が倒壊し、ようやく再建がすんだところだったのに、再び多くの建物が倒壊したようだ。傷ましい。

 

 能登最北端、狼煙の灯台やその周辺、さらに断崖の上から見下ろせるランプの宿などはどうなったのだろうか。被害がなかったとはとても思えないが、そこへのアクセスは道路が寸断されているようだから、消息がわかるのはずいぶん先のことになりそうだ。

 

 先般の能登の旅で、宿に入る前に夕方の能登島(通称軍艦島)を兄弟で見ることができた。昨年の地震で一部崩落したけれど、おおむね原形はとどめていた。ところが今回の大地震で手前部分は完全に崩壊し、後ろ部分だけがかろうじて元の形を残しているのをテレビで見た。もう二度と元には戻らない。あの姿を見ることはかなわないのだ。

 

 その近くに恋路海岸というところがあり、目の前に小さな島がある。学生時代には友人と二人でその島まで泳いで往復した思い出がある。どうなっただろうか。そしてその恋路海岸のすぐ山の手に造り酒屋の宗源がある。能登の酒はいろいろあるが、私にはまず宗源が思い出されるし、ここで利き酒をさせもらったこともある。多くの蔵が甚大な被害を受けたらしいが、宗源はどうだったのだろうか。新酒の仕込みの真っ最中であっただろうし、酒好き日本酒好きの身としては心が痛む。

 

 能登への思い入れが強く深くあるのできりがない。亡くなった人のご冥福を祈りながら、きりがないのでここまでとする。

続・楽しむために

 平家物語の冒頭に取り上げられた名前で私の知らない名前もあるが、知っている人もいる。全く知らなくても注釈を見れば断片はわかるが、どうしてここでその人物が取り上げられたのか、詳しくはわからない。もちろんわからなければ調べればいいのだが、いちいち調べていたら、いつまでたっても先に進めないことになってしまう。平家物語を楽しんでいられない。

 

 このように、楽しむためにも、書かれたものについて考えるのにも、そこに書かれた人物や出来事について知らなければ、楽しむことも考えることもできにくい。しばしば若者は、調べればわかることはいちいち覚えなくてもいい、とうそぶくが、それがただ怠惰であることのいいわけでしかないことが多い。

 

 ものを考える手がかりとしての知識を道具として持たずに、世の中について自分自身の考えや判断ができるはずがない。テレビは当然知っていていいことを知らない若者を取り上げて、あたかもそれが一般的であるかのように思わせてしまう弊害を生んでいる。知らない人は置いておいて、きちんと知識のある、それなりの言葉で語ったものだけを取り上げるようにすれば、やはりものを知らなければならないと皆が思うようになるはずなのに。

 

 大宅壮一が、テレビの黎明期にすでに、テレビを一億総白痴化をもたらすものと喝破したけれど、いまその白痴化の効用が全国に行き渡ったようである。芸人が自分がバカであることを他人に見せて商売にしているのを勘違いして、バカでいいんだと信じている若者のいかに多いことか。バカを演じるのはバカにはできないのに、ただのバカがバカを見せていて、その若者がどんどん中年になり、老人になり、世の中で幅をきかせている。もちろんテレビ大好き人間の私もその毒にまみれている。

 

 今更だけれど、私はいままでの不勉強を恥じて、手遅れを承知でいまとりあえず一歩二歩を歩み出したところなのだ。だから人をバカ呼ばわりは本当はできないのだけれど、恥を忍んであえていう。考えるためには絶対に必要な知識というものがある。特に歴史は何より大事なことなのにそれを日本の教育は怠ってきたように思う。それはたまたまではなくて、意図的な怠惰だったように見える。大げさだけれど、その結果として日本のいまの衰退があるのかもしれない。

楽しむために

 『平家物語』を少しずつ味わいながら読み進めているが、それを楽しむために、それなりの素養、知識が必要であることを実感している。私は高校時代、古典が苦手で、いつも赤点すれすれだった。どこがおもしろいのか皆目わからなかった。いま思えば日本語で書かれていると思っていたのが間違いだった。日本語に似ているが、外国語なのだ、ただし似ているぶん、手がかりのある言葉で書かれているのだと思ったら良かったのだ。いまはそうしている。わからないのは当たり前だと思えば、わかろうとすることができる。

 

 言葉は慣れである。読み慣れれば、わからないところはわかったところを手がかり足がかりにして理解できることもある。ほとんどちんぷんかんぷんでも一つずつわかるようになれば、次第にそういうことができるようになる。たくさん読み、そして繰り返し読めばいいのだ。わかればだんだんおもしろくなる。

 

 問題は冒頭にあげた素養、知識の問題である。『平家物語』でいえば、たとえば冒頭の『祇園精舎』の文章で、

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 

から始まる文章は誰でも知っている。

 

そしてすぐその後に続くところ、

 

 遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山・・・

 

と続く。さらに、

 

 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼・・・

 

ここで取り上げられた人名がどんな時代の、どんなことをした、どんな人だったのかわかるだろうか。それがわからなければ、この平清盛を頂点とする平氏の盛衰についての、『平家物語』の語り手の思いが本当の意味でわかりようがないのである。

 

 長くなったので、次にする。次回はこのことから、「知識と、楽しむことと考えること」について考える。

2024年1月13日 (土)

あふひ

 古い本を読んでいたら、葵に「あふひ」と旧仮名遣いのふりがながつけられていた。思い立って、昨日から脇に控えさせていた三省堂明解語源辞典を開いてみたら、『説文解字(せつもんかいじ・中国最古の漢字字典)』を引用して、「あふ」は「あふぐ(仰ぐ)」の意で、「ひ」は「日」の意としている。用例として、『枕草子』六六・『草は』に

 

 「唐葵、日の影にしたがひて傾くこそ、草木といふべくもあらぬ心なれ」とあって、アオイが太陽を追うと信じられていたことを示す、としている。

 

 さて、それでは枕草子を実際に開いてみよう。私の持っている小学館の日本古典文学全集の『枕草子』では、六六は『里は』になっている。そして『草は』は次の六七である。「草は菖蒲。菰。葵(あふひ)。・・・」となっているのだが、語源辞典に引用された文章は見当たらない。少し読み進めてみたら、七〇『草の花は』の文章の最後の方に『唐葵は、取りわきて見えねど、日の影にしたがひて・・・」とあった。ようやく見つけた。

 

 ここで問題は、この、日の影に従うのは「唐葵」だということである。詳しくは調べていないが、徳川家の紋の葵はフタバアオイで、唐葵とは違うものであるということだ。葉の形も違う。唐葵はつまりタチアオイのことのようである。いわゆるフタバアオイは背の低い草で、どう見ても日を追うとは思えない。「あふひ」はタチアオイ、唐葵のことであるということになる。そういえば日を追うとされる「ひまわり」は「向日葵」と書く。向日葵も葵なのか。

 

 ここまで来て、なんだかよくわからなくなってしまった。枕草子では葵と唐葵を違う段に書き分けているのだから違うのだろうか。六七には葵の様子が書かれていないので判然としないのである。植物に詳しい人なら常識なのかもしれないが、私は植物に哀しいほど疎い。

 

 物事にちょっとこだわると、たちまちこんなにいろいろなことが引き出されてちょっとおもしろい。簡単にわかったつもりになってはいけないようだ。

『黒い森殺人事件』

 フランスのミステリードラマにはあまりなじみはなかったが、『アストリッドとラファエル』という番組でそのおもしろさを教えられた。もうすぐNHKで第四シーズンが始まるからとても楽しみにしている。そういえば最近もジェラルド・ドパルデューの主演したメグレ警視ものの映画(『メグレ警視と若い女の死』)を観たが、おもしろかった。ドパルデューはいまスキャンダルで大変だが、この人の出る映画を何本か観ていて、どれも好きである。『グリーン・カード』や『ヴィドック』などは劇場で観ていて忘れがたい。こういう美男子でない俳優といえば、好きな俳優がたくさんいて、その中にリノ・バンチュラがいて、彼が主演の『ラムの大通り』といえば最高の映画であって・・・横道へどんどんそれて行ってしまった。

 

 『黒い森殺人事件』はフランスのミステリードラマ。フランスとドイツの国境のドイツ側、黒い森と呼ばれる森の中で、埋められていた死体が次々に発掘された。全部で十二体。すべて殺害されたとおぼしき成人男性で、十年以上にわたって犯行が続けられたと推定された。ドイツ警察により、まず身元の確認が進められる。この事件に、交通事故で記憶が不確かになって苦しんでいるフランスの女性判事が絡んでくる。この黒い森のそばで事故に遭い、断片的な記憶がこの事件と関わりがありそうなことを示してしているのだが、その強引な割り込み方は捜査の邪魔になるばかりで、しかも彼女の家族もそのことで振り回される。

 

 五里霧中に見えたこの事件も、端緒がつかめてからは薄紙をはぐように全貌が明らかになっていく。全四回のこのドラマでは、第二回の終わりにはほぼ犯人が判明してしまう。犯人とフランスの女性判事とその娘が絡んで危機が訪れるが、犯人が射殺されて事件は解決したかに見える。しかしどうしてもその犯人の犯行とは思われない遺体もあって、犯人の背後にもっと大きな黒い影が立ち現れてくる。ここからはフランス社会独特の社会的な問題をテーマとした話に変わっていく。そしてすべてを仕切っていた驚くべき黒幕が明らかになってドラマは終わるのだが、どうもすべて終わった感じがしない。片付いていないこともいくつか残ったままなのだ。まさか続編が作られたりしないと思うのだが・・・。

注目、台湾総統選挙

 本日は台湾総統選挙と総選挙がある。台湾の国民が中国との関係をどう考えているのかを占う選挙になるとみられているので、その結果には強い関心がある。日本政府は公的には台湾を国家として認めていないので台湾の国民とはいわないが、私は公的な立場にはないし、何度も台湾に行って、台湾を中国の一部ではなく台湾という国だと思っているので、台湾国民と呼ぶことにする。こういうことを公言すれば、中国には行くことができなくなる。台湾を独立させようとする勢力として扱われるからである。昔のように何度も中国を旅していた時代なら極力注意するところだが、もう行くことはないと思い決めているのでいまは気にしない。

 

 現在の総統である民進党の蔡英文の前に総統だった中国国民党の馬英九が、つい先日、習近平を礼賛し、台湾は中国と統一した方がいい、と公言したという。こういう選挙前の微妙な時期にこういうことばが台湾の国民にどのような影響を与えるだろうか。国民党候補の侯友宜はその打ち消しに躍起になっていたということなので、国民党にとってはまずい結果を招くことになったかもしれない。

 

 台湾と日本の時差は一時間で、本日中に総統選の結果が判明するとみられている。たぶん民進党の頼清徳が勝利するだろう。問題は総選挙の方で、近年はねじれ状態が続いていて、民進党が第一党になるのも難しいのではないかとみられている。こちらも注目に値するところだ。

 

 年末にはアメリカ大統領が誰になるかが決まる。台湾の命運が左右される。そのときに大事なことは台湾国民の事態に対する覚悟だろう。それこそが中国の出方を決めるものになると思う。日本にとって、それは他人事ではない。

2024年1月12日 (金)

まるで『裸の王様』?

 私は『裸の王様』という言葉に少し敏感なところがある。

 

 ジャニーズ問題など、まさにそういうところがあるではないか。みんな『裸の王様』だと思っていても、「王様は裸だ!」なんていわなかった。そもそも芸能界なんてそんなもの、と思うけれど、みんなが「王様は裸だ」などと言い出したら成り立たないのが芸能界だといえないことはない。

 

 ネットで週刊現代の記事らしきものの引用で、松本人志が「裸の王様」だったという記事の見出しを見た。みんな大人だからわかっていたけれどいわなかったのだろうなあ。一度誰かが言い出すと、誰もが言い出す。

 

 これこそお笑いではないか。

 芸人の多くが口をつぐんでいる、などという見出しも見た。当たり前ではないか。自分の足下を崩してしまう。

バランスをとる

 気がついたら体のバランスをとるのが下手になりつつあって、暗いところなどでは視界による補正ができないのでよろけやすくなった。筋力の衰えで踏ん張りもききにくくなり、わかっているのにうっかりするとよろけることがある。無意識でできていたことが、歳をとると何事も意識して行わないといけなくなるようだ。物事の見方も体も、バランスは大事である。

 

 自民党の刷新のための会合が開かれた。パーティ券の裏金問題を派閥の問題ととらえるかどうか、派閥あっての問題なのだから派閥をどうするかが議論されるのは当然とも思えるが、そう思う議員もそうでない議員もいる。自民党総裁である岸田首相が選んだ刷新会議の顔ぶれが相変わらず各派閥、そして無派閥の勢力バランスに対応している、ということを問題視して批判する向きがあるようだ。しかし、これを無派閥の議員たちだけの顔ぶれの会議にしたときに、何か決定したところで、それに派閥派の議員が納得するだろうか。重大な決定をするためにはそれこそバランスをとった顔ぶれにする必要があるのではないか。

 

 この批判は、たとえば内閣改造の時の顔ぶれが、派閥のバランスの上にあることの批判と同様の思考で行われているが違うのではないか。内閣は適材適所の人物を選ぶべきで、派閥のバランスで選ぶのは間違っている、という指摘は至極当然のことである。そういうことは仕事のしやすさなどから多少はあっても、バランスが優先すべきことではない。

 

 しかし今回は全党あげて自民党をどうするか、という問題なのであって、その中で党内からバランスをとった選定をしたことに異を唱えるのはいかがかと思う。バランスをとるのが当たり前ではないか。

話題になるという商売

 女子フィギアの本田真凛が引退会見を開いた。報道陣が45社も集まったという。それだけ話題性があると思ったのだろう。それを『女性自身』がとりあげて、その会見の様子や経歴、そもそもフィギアの選手とはどういうものかなどをいろいろ書いた後に、「そもそも彼女はそれほどほどの成績を残していない」「芸能人みたいだ」「最下位で引退会見?」などなどネットに書かれていた批判のコメントを取り上げている。果たしてそんなものがあったのか、『女性自身』が作り出したコメントなのかは知らない。

 

 この記事が書きたいのはまさにこの部分かと思う。そもそも本田真凛またはその周辺がこのような大々的な会見を開いたのも、そしてそれに多くの報道陣が集まったのも、彼女がこれから元フィギア選手としてタレント活動をしますというお披露目会見であることは誰にでも明らかなことだ。それを批判する人もいますよ、という形で『女性自身』という週刊誌は話題に色を添えたということで、そういう形の方がニュースに取り上げられるというもくろみなのだろう。そしてそのことを取り上げる私もそれに乗らされているわけだ。

 

 話題に反発して見せたり、批判されている人間に同情を示して逆張りすることによって話題をとる、という話題の取り方など、人は様々な形で話題をとろうとする。それで商売になるらしい。そのなんだか得体の知れない商売にいそしむ顔ぶれの代表がテレビやネットにあふれているが、しばしばそれに目を引かれてしまうのは商売がうまいからなのだろう。まねするつもりはないが影響を受けてしまいそうだ。気をつけよう。

2024年1月11日 (木)

暇つぶし

 ぼんやり辞書の棚を眺めていたら、語源辞典と類語辞典が並んでいる。以前はおもしろがって時々利用していたが、いまはほとんど開かない。語源辞典はともかく、類語辞典は引き方が難しい。五十音順ではなく、特殊なグループ分けになっていて、一応見出し語から引けるけれども必要なときにはうまく使えずにもどかしい。それきりになっていたのだが、暇に任せてそれぞれの辞書をただの読み物として読んでみるとなかなかおもしろい。言葉というものの奥行きや関係性が、ちょっとだけれどもざる頭にも見えてくる。

 

 辞書の「はじめに」の部分に、この辞書を編纂した人の、どういう使い方をしてほしいか、どんな基準で言葉を選んだのか、その辞書に込めた厚い思いが書かれていて、棚に眠らせておくのは申し訳ない思いがした。

 

 『平家物語(講談社学術文庫版)』全四巻が届いた。出だしの名調子は私でも記憶している。ちゃんと全部読めるだろうか。積まれた本の山がまた高くなった。

雑感

 いつものように何をするでもなくぼんやりしている。本(『コロナ後の世界を生きる』)を読んでも十ページあまり読んだら息切れしてしまう。ドキュメント(『世紀の巨大工事』)を観て、昨晩の『相棒』を観て、気がついたらもう昼である。何かしなければならないと思うけれど、では何をしなければならないのかと考えると、特に何も思い浮かばない。出かけるのも寒いしなあ。

 

 能登島の水族館のジンベエザメが二頭とも死んだという。昨年11月に観てきたばかりだ。ほかにもたくさん魚が死んだことだろう。海獣たちは大丈夫なのだろうか。緊急事態だからといって海に放つというわけにもいかなかったのだろう。かわいそうに。

 

 緊急事態用の古いパソコンは何とか動いているが、とにかく動作が遅い。無理に次々に画面を開くと動きがしばらく停止してしまってかえって無駄な時間を食う。いままでできていたことがスムーズにできないのはストレスである。いろいろなパソコンをネットで調べて比較検討をしている。ハイスペックにするか、普通レベルでよしとするか。もちろんできればハイスペックにしたいが、それで寿命が短かったら目も当てられない。消耗品と考える方がいいのだろうか。

 

 積んである本を読み切っていないのに、またアマゾンで本を何冊も取り寄せてしまった。ほかのことはたいてい我慢できるのに、本を買うことは止められない。病気である。午後は散歩でもしないと体がなまっておかしくなりそうだ。近場の神社にでも行ってこようか。

八代亜紀

 八代亜紀の訃報で、彼女が1950年(昭和25年)生まれであることを知った。私と同年生まれである。なんだか他人事と思われない気持ちがした。ファンというほどではないが、好きな歌がいくつかある。私が日本映画で最も好きな映画、高倉健主演の『駅 STATION』では、『舟歌』が叙情を盛り上げる重要な役割をしていて忘れがたい。挿入されるだんちょね節の一節が哀愁を感じさせる。そういえばペギー葉山の歌にもよさこい節が効果的に使われていた。どちらも歌のうまい人でなければ歌えない歌になっていると思う。

 

 会社の後輩で八代亜紀の大ファンだという男がいた。いまどんな気持ちでいるだろうか。まだ彼女が有名になる前にどさ回りを続けていた頃、少し年上の友人が夜汽車で隣り合わせになり、苦労話を聞いたといっていた。そのときにはこんなに有名になるとは思わなかったそうだ。その人も身を持ち崩して疎遠になり、いまはどうしているか知らない。

 

 五六年前、デジタル音源で聴くジャズがことのほか好きになって、そのことを知った若い友人が浜松のジャズフェスティバルに誘ってくれた。ヤマハホールで聴いた生のジャズはすばらしくて感激したが、そのときに八代亜紀がゲストで呼ばれていた。彼女のジャズを初めて聴いた。それよりも少し長い彼女の語りがあって、いろいろなことに前向きな彼女の思いのようなものを感じた。

 

 彼女の訃報から、いろいろ縁のある人のことも思い出したりした。冥福を祈る。

2024年1月10日 (水)

最大のリスク

 昨晩のNHKのニュースでも取り上げられていたが、アメリカのある調査会社の発表によると、2024年の十大リスクのトップが「大統領選によるアメリカの政治的分断」なのだそうだ。二位にはパレスチナ自治区のガザ問題に端を発する中東情勢、三位にはウクライナ問題が挙げられているという。私もその見立てに賛同する。それぞれは個別の問題ではなく、今後互いに大きく関係することになるだろう。

 

 今のところアメリカ大統領の有力候補はバイデンとトランプの二人だ。バイデンの高齢であることを危惧する声は内外で高いのに、民主党には替わりうる人物の名前が挙がらないのはどういうことか。翻って共和党はそれなりの候補の名前が挙がっているが、信じがたいことに、やはりトランプが圧倒的に強いらしい。トランプには様々な逆風が吹いているが、その逆風こそが彼にとっては実は追い風になっているように見える。そうなると、もう神がかり的な話になってしまっていかんともしがたい。

 

 私は分断のリスクよりも、トランプが大統領になることのリスクの方が世界にとって最大のリスクではないかと想像している。彼にとってアメリカ以外はすべて敵と見ているように思える。正当な競争に勝った相手でも、アメリカにとって不利益なら悪であり、敵である。ずるいことをして勝った、と主張するのは目に見えている。再び大統領にになったらアメリカが輸入するものはすべでどこからの国であろうと10%の関税をかけるのだと公言している。これはアメリカの国民は輸入品はすべて10%高くなることにつながるけれど、その関税でアメリカ企業を優遇し、アメリカで作るようにすればそれでいいという考えなのであろう。それで成り立つのかどうか知らない。

 

 さらにウクライナでも、中東でも、極東でも、どこで何が起きてもアメリカには関係ないという考えだから、アメリカの金をどんどん引き上げていくだろう。その結果がどうなるか、考えると恐ろしい。日本はどうなるか考えると恐ろしい。これがリスクでなくて何がリスクだろう。

 

 当然世界経済は大波乱となるだろう。もちろんここまで悲観的になる必要はないかもしれない。しかし最悪を考えておかないといけない気がしている。

減らないようにするには

 有識者の集まりが、このままでは日本の人口は減り続け、2060年には国力維持可能の分水嶺の8000万人を切ってしまう、と警告を発した。そのためにはその2060年までに出生率を現在の1.27を2.07にしなければならないと提言した。

 

 なるほどそうなのか。しかしこれってただ、「人口が減り続けないようにするためには人口を増やさないといけない」といっているだけのことではないのか。それは確かにその通りだけれど、正しいことをいえば問題が解決するわけではない。あたりまえすぎて(ばかばかしすぎて)目が眩む。

 

 少子高齢化で福祉予算が厖大な金額になっているツケを先送りにして、それを若い人たちに負わせる形にしておいて、将来に希望を持ってもらおう、大丈夫だから安心して子どもを生んでもらいましょう、といっているだけではないか。どうして不安なのか理解できていない若者が多いとしても、不安は現実に感じられているのであって、それが解消される当てがなければ若者に希望が持てるはずがないではないか。

 

 いまちっとも改善しない出生率1.27を2.07にしなければ大変だ、といったって無理に決まっているわけで、つまり将来の日本は大変だ、ということのようである。そんな先まで私は生きていないから他人事だけれど。そういえばその有識者たちももちろん若者ではないし、そんな先まで生きていないだろう。

 

 無理なら無理だと覚悟して、現状の少子化が継続しても何とか成り立つ国のあり方を考える方がずっと現実的というものではないのだろうか。豊かな暮らしをしているおおぜいの年寄りも、いつまでもいるわけではなくていまにこの世から退場する。少しマシになるだろう。若者は一握りを除いて多くが豊かさを享受していないし、すでに豊かでない暮らしに慣れているのではないか。その結果の少子化だろう。それなら少しの豊かさは希望につながる可能性はある。賃金をまず上げろ、というのがそのための方策だろう。答えはわかっているのではないのか。

よってたつところ

 昨日のBSフジプライムニュースは櫻井よしこと先崎彰容(せんざきあきなか)日大教授がゲストで、現在の日本と日本人についてどんな問題があり、どうすればいいのかについて論じていた。先崎日大教授の認識は私の大いに共感するものであるが、それは彼の本を何冊か読んでいることから彼の影響がないとはいえない。共感するところが大いにあるから彼の著作を読んだのであるが・・・。彼は今の、SNSでの発言が力を持つような事態を強く憂えていた。ほとんど掃いて捨てるような気配さえあった。

 

 櫻井よしこが、日本人が自信を失っていることを憂えていて、日本はまだまだそれほどみすぼらしい国ではないのだから、もう少し自信を持ってほしいと訴えていた。彼女は二千年になんなんとする万世一系の天皇の元にある日本という国柄を称揚していたが、それはたぶん今のほとんどの日本人の心を打たないような気がする。二人が口をそろえて、日本人の歴史の知識のなさは目を覆うものがある、ということについては確かであるが、それと皇室尊崇の念は、なかなかつなげられないのではないだろうか。ましてや二千年のながきを連呼していたが、少し皇室の出発点をサバ読みしていないか。それに皇室が日本人の心の礎であり続けた、というのもオーバーな気がする。

 

 先崎日大教授が、日本が太平洋戦争に負けたのが1945年であるといえる学生はせいぜい二割だろう、といっていた。二割が知らないのではなく、二割くらいしか知らないというのである。そしてそれが昭和二十年であたることなどほとんど知らないだろうといい、櫻井よしこはそれに驚いていた。櫻井よしこは、日本がアメリカと戦争をした、というと驚く若者がいて、「それでどっちが勝ったんですか?」と聞かれて驚いたが、彼女はそれがその若者がたまたま無知であるからだと認識していてようで、大学生の多くが歴史に無知であることに深刻な驚きを感じたようだ。

 

 教育の問題がかくも深刻であるのだから、歴史教育、道徳教育を見直さなければならない、と櫻井よしこは強調していたが、先崎教授はもうそれは徒労に終わりそうであると嘆いてみせる。「教師があきらめてどうする!」と櫻井よしこは叱咤していたが、私も心ある教師ほど絶望しているだろうな、という気がする。もし一生懸命生徒学生に歴史教育をしたらどんなリアクションがあるか、想像できるではないか。

 

 戦争反対を声高に言うことが正義なら、どうしてその憎むべき戦争を日本が起こしたのか、どんな背景があり、どういう経緯で戦争に至ったのか、学校で教えられなくても自分で知ることはいくらでもできる。自分のよってたつところを知るには、自分の国の歴史を知りたいと思わない方がどうかしていると思うが、思わないのである。日本の衰退の理由を教えられた気がした。

2024年1月 9日 (火)

『容疑者』

 WOWOWで放映されたイギリスのミステリードラマ『容疑者 ねじれた犯罪心理』(全五回)を見た。さすがにミステリーの本場のドラマで見応えがあり、楽しめた。主人公は心理療法士という精神に問題を抱えている人のケアをする仕事をしている。ある日、彼が治療していた女性の死体が発見される。その死体には、致命傷とはならない程度の傷と致命傷を含めて21カ所の傷があった。

 

 身元確認をした彼はその後次第に犯人として追い詰められていく。しかも彼にはある事情でその犯行のあったと思われる時間にアリバイがなかった。次々に証拠らしきものが見つかり、彼が自分の無実を証明するために行動した先で新たな死体が発見される。全五話のうち、最終回の第五話の途中まで、警察は彼の主張を全く認めない。真犯人がいるとすれば、その罠があまりに巧妙だからだ。

 

 主人公が犯人ではないかと疑う男がいる。彼の患者であり、彼は21という数字に異常にこだわっていたからだ。主人公が警察から逃亡しながらいろいろ独自に調べた先にその男の影が見えてくるのだが、警察の調べでは犯罪の起きた時点でのその男のアリバイは鉄壁であった。

 

 なぜ主人公が犯人として追われているのか、どんな恨みがあって彼が罠にはめられたのか。それがわかったときに明らかになったのは、実はもっと多くの人が殺されているという真実だった。そして彼と彼の家族に危機が迫る。

 

 サイコパスの話は好みが分かれると思うけれど、私は好きである。

日本経済の行方

 昨晩のBSフジプライムニュースは日本経済がテーマで、論客四人が持論を展開していて面白かった。先週の各党党首の話は見ていてちっとも面白くなかったから、見続ける気にならずに録画をすぐ消したのとは大違いだ。それぞれの違いには根本的な認識の違い(たとえば消費税についてなど)があるが、それぞれに根拠とデータに基づいている。政治家の、根拠もデータもあまり明らかではない、感情的な物言いとはまるで違う。

 

 バブル崩壊後の日本経済について総括し、岸田首相の経済対策を論じ、なにを優先すべきを語り合い、そして対策が適切であればどうなるのか、不適切であればどうなるのか、その予測も語られていた。

 

 他の国が賃金も経済成長も成し遂げていたこの三十年間に、日本だけが取り残されたのはなぜだったのか、その解析は各人違っていたけれど、おおむねのところ、日本が世界に先駆けて急速に人口減少モードに陥ってしまったこと、過剰な価格競争で人的投資、設備投資を怠り続けたこと、弱者救済の名目で生産性の低い中小企業の延命を助け続けてその効果がまったくなかったことなどがあげられていた。

 

 人的投資も設備投資も怠ったお陰で、多くの企業はバブル崩壊前よりもはるかに利益があがっている。経営者はそれが自分の手柄と勘違いしているのではないか、というのは私が以前から繰り返しブログに書いてきたことだ。いま日本経済を健全な成長軌道に戻すには、賃金を上げることが必要で、まずできることはそれしかないといってもいいと、論客たちも口を揃える。人手不足であり、しかも価格転嫁がようやく進んできたいま、賃金を上げずにいつあげるのか、それが日本経済の分岐点になるだろう。

 

 論客たちも言っていたが、そのためにもまず、公務員の給料を上げること、また介護などの仕事に関係する人たちの待遇を大幅に改善することだろう。『まず隗より始めよ』である。とうぜん正義の味方の野党やマスコミは挙げて反対するだろう。国民がこんなに困窮しているのに公務員の給料を上げるとはなにごとか、と喚くだろう。しかしできることから始めなければ物事は始まらない。政府は一般企業の給料を上げることはできない。役所や介護職の人などに優秀な人たちが集まることで、企業は人を集めるためには賃金を上げなければならないという事実を思い知るだろう。それが出来るかどうかが今年の分水嶺となるだろうと云う見立てに私も賛同する。

蒸し返す

 ずいぶん前のことだが、芸人の演目に障碍者の真似をして笑いをとるものがあった。正直なところ面白かったので笑った。そういうものを笑うことに後ろめたい気持は少しも無かった。いまだったらとんでもないこととして社会的に退場するところまで追い詰められるだろう。法的制裁が科されるかも知れない。ドラマや映画でも、障碍者になりすまして危機を免れたり騙したりというシーンを見ることがある。いまにそういうシーンは許されなくなるかも知れない。

 

 その芸人が誰だったのか記憶が無いが、もしいま有名になっていて、過去のそのような芸で受けていたということを蒸し返して非難する者がいたら、たちまち大騒ぎになるだろう。してしまったことはなかったことにはできない。時代が変わった、ということを許さないのがいわゆるそういう正義の味方だからだ。週刊誌は、そういうネタを掘りかえしていけばいつでも話題を作れるから、打ち出の小槌か宝箱を抱えているようなものだ。

 

 毒舌を吐くことを芸風にする芸人がいる。普通の人はそこまでいわないことをいうから、そこまでいえない人たちの心をくすぐって大いに受けるし面白いと思われる。社会的な良識を少し逸脱してみせる、というのがミソである。しかしその社会的良識の枠というのが時代とともに変わっていくから、以前は笑いで済んだことが、いまは笑いでは済まなくなるものも多い。もちろん毒舌芸人はそんなことは百も承知だから、時代に合わせて逸脱の枠を変更する。それが出来ない愚か者は世間に叩かれて退場していく。

 

 ところが、過去の言動を引っ張り出して来て、あのときこういった、こういうことをした、と取りあげられたらたまったものではない。どうもそういうことがあたりまえになりそうな風潮で、怖ろしい。いまに毒舌芸人は死滅するだろう。

(この記事は特定の事件や事実に関しての記述ではありません)・・・なんてね。

2024年1月 8日 (月)

『月の満ち欠け』

 佐藤正午の同名の直木賞受賞作を映画化した2022年の日本映画。主演は大泉洋で、有村架純、目黒蓮、伊藤沙莉などが出演している。輪廻ということ、生まれ変わりということをテーマにした映画で、ある意味でファンタジーであるが、かけがえのない者を失った人間が体験する不思議な物語である。内容を説明するとそのままネタばらしになりそうな映画なので、今回はあらすじは紹介しない。

 

 大泉洋はたくさんの映画に出演しているが、『青天の霹靂』や、『トワイライトささらさや』などという、やはり不思議な物語の映画が記憶に残っている。 器用な人で好き嫌いも分かれるだろうが、これらの映画での俳優としての私の評価はけっこう高得点である。そういえばこの『月の満ち欠け』での大事な役どころを演じた伊藤沙莉という女優が好い。表情が豊かでべたべたしたところがなく、私の好みである。

 

 つい二三日前に見たアニメ映画『カラフル(2010)』も生まれ変わりの物語で、どういうわけかこんなふうに似た物語りを観ることが重なることがあるのは不思議だ。

百家争鳴

 むかしはいまよりずっとクイズ番組か多かった気がする。「二重の扉」とか「ジェスチャー」とかいうクイズ番組があった。こんな番組を覚えているのは高齢者だけだろう。クイズ番組は問題を出す司会役と、回答者に人を選べれば安上がりでけっこう視聴率も稼げる。いまのクイズ番組は単に知識の量の競争だけで、調べればわかることを競ってもあまり面白くない。上の二つの番組は、わからない答えを、質問やそれに対する答えや観客の反応をもとに正解を絞り込んでいくというクイズで面白かった。

 

 絞り込まれていく過程で知性の差が出る。私がしばしば単純に腹を立てていたのは、絞り込まれた枠の外側の答えを答える回答者だった。いくつかのヒントが重ねられたのに、明らかにヒントの外側を答えていれば絞り込みは崩壊する。それを笑うということも番組の面白さなのだというのは、ある程度成長してから知った。自分はあんなに愚かではない、と思うのは快感なのだ。

 

 いま世間はみんながクイズ番組の回答者になって、ああでもない、こうでもないといっている。しかもそれを世間に知らせる場所があり、みながそれを見ることができる。さまざまな出来事に対するコメントが、しばしば論点とずれているものもあって、それが今度は新たな批判につながっていく。その批判が個人的なバッシングへと繋がり、大合唱になり、そうかと思えば敢えて逆張りして炎上狙いの意見を述べる者もいる。炎上させることで常に売名を狙うのを商売にしている人間もいて、にぎやかなことだ。

 

 世の中は目立ちたがり屋と恥知らずが幅を利かせているようだ。ネット社会とはそういうものなのか。どんどんそれがエスカレートしていくのだろうか。

2024年1月 7日 (日)

ニュース雑感

 羽田の事故で、貨物室にあずけられていた動物は飛行機とともに焼死した。それを悼む気持はたいがいの人にあることだろう。石田ゆり子がそれを悼んでなんとか救出できなかったのか、乗客室に持ち込むような方法が今後取れないのだろうか、というのはその気持ちの故のことだろう。しかし脱出用のシューターは着の身着のままで使用するものであり、もしペットをケージで抱えていても、ケージが障害になりかねないから抱えて逃げることはできない。そのことに思いが及ばないのは愚かではあるが、そう教えてやればいいことで、人間よりペットを優先するのか、の如きバッシングは大人げない気もしている。

 

 れいわ新撰組の代表・山本太郎が、レンタカーで地震で被災した能登に入ったという。いまは迅速な支援のために不用な能登への移動は控えるように、という政府の要請に反しているのかいないのか、評価がいろいろあるようだ。東日本大震災のときの菅直人首相の福島原発への訪問は、どう見ても邪魔をしにいったようにしか見えなかったが、それに似ているといえばいえる。同じことをしても美談に見えたり愚かな行為に見えたりするものだが、私には売名行為にしか見えなかった。地元が彼の訪問を「よく来てくれた!」と感激して受け入れたとはとても思えないからだ。

 

ダウンタウンの松本人志がなにやら言ったとかいわないとかで、一部で騒ぎになっているらしいが、もともとダウンタウンというコンビが大嫌いだからどうでも良い。どうでも良いことを敢えて取りあげるのは、それぐらい嫌いだということだ。

 

 秋篠宮妃・紀子様が年末から体調不良だという。コロナやインフルエンザではないというが、精神的な疲労が身体の不調になっているのではないかと心配である。マスコミ、特に一部女性週刊誌の紀子様への不愉快な報道の仕方は目に余るものがある。それはそれを読んであることないことを楽しむ読者がいるからではあるが、親はどんな娘でも心配なものである。その気持ちを踏みにじるかのような報道が野放しであることに怒りを感じる。

 

 ニューヨーク州がトランプ前大統領に、不動産価値を操作して不正な利得をあげた、として三億七千万ドル(約535億円)の返還を請求したという。すでに提訴は行われており、当初は二億五千万ドルだった金額が増額になったものだそうだ。返還しなければならないとして、選挙を戦えるのだろうか。もちろん違法な訴えとして踏み倒すだろうけれど。

頭と心臓に負担

 メイン使用のノートパソコンの不具合に振り回されている。思いついたりネットで調べた手立てをいろいろ試している。かなり危ないチャレンジもしたが、勝手に再起動するのはとまらないし、その頻度がますます高くなってきた。そのうえ再起動の際などに異音がするようになったから、どうもご臨終のような気がする。いちおうまだ動いている古いノートパソコンとデスクトップがあるので、ネットを見ることもブログを書くことも可能であるが、古いから動作が遅く、使いにくい。予算計画を立てて新しいパソコン購入の検討が必要だと覚悟する。ただし、いまは頭が熱いので、後悔しないためにしばらくほとぼりを冷ましてからにしようと思う。それにしても正月早々の内外の問題は頭と心臓に負担だ。

 

 そういうときには読書に集中できないので、録りためてハードディスク満杯になりかけているドラマや映画を観て気晴らしをしている。穏やかなものよりも刺激の強いものの方が気が紛れるのだが、刺激が強すぎると心臓に負担がかかる気がする。何だか心臓の興奮状態が今までにない、少し強めな気がするのは気のせいか。

 

 いま養老孟司のいっていることと今西錦司のいっていることとが頭の中でぐるぐる廻っている。個別ということ、身体と頭というテーマと、全体、つまり自然界や社会の、ひいては宇宙のシステムということだ。このことはとうぶんの間考えるテーマになりそうだ。まったく相反するように見えて、実は同じことに収斂するような気もしている。まだ説明できるレベルではまったくない。ただ、先日「自己が肥大化しすぎて」などと書いたことばに関係がないこともない。どうしていまの世界がこんな状態なのか、それをそういう視点から考えられれば好いと思っている。

『カラフル(2010)』

 アニメ映画『カラフル(2010)』を観た。森絵都原作のこの作品は以前に一度実写版もつくられているので『(2010)』がついている。冥界で投げやりな気持でいる「ぼく」は、天使らしき少年から、君にはもう一度生きるチャンスがあたえられた、と告げられる。そのための試練として自分の犯した大罪を思いだすこと、という命題をあたえられる。そんなチャンスはいらないと一度は断るが、強引に下界に下ろされる。そもそも過去の記憶がまったくない「ぼく」には、自分が罪を犯したといわれてもその記憶が無いのである。

 

 こうして「ぼく」は、服薬自殺をして病院のベッドで臨終を迎えた中学三年生・小林真として再生する。死を告げられた真のそばには両親と兄がいた。奇跡に喜ぶ母親。そもそも真としての記憶がないので、どう対処していいか分からない「ぼく」は成り行きにまかせる。こうして真としての生活が始まる。

 

 真という少年がどういう少年なのか、家族はどういう人間たちなのか、次第に知るようになった「ぼく」は学校に再び通い出す。そうして真がどういう少年だったのかをさらに知っていくが、それに合わせようというのではなく、他人事として好きなように生き始める。投げやりであることがかえって強さにつながるという不思議な事態が起きていく。

 

 彼は果たして命題をクリアし、仮ではなくほんとうに生き返ることができるのか。答えは観ていけばたいていの人は「ぼく」よりも先にわかると思うけれど、それがささやかな感動を生むのはお決まりのことで、それが気持ちが好い。だれでも自分を他人として見ると生きるのが楽になることがあるかも知れない。そういえば営業を始めてすぐのころに、先輩から、人に会うときは仕事をしている別の自分として演技すると楽だ、と教えられた。その通りだった。自分を自分として追い詰めては苦しくなるものだ。

2024年1月 6日 (土)

『FALL フォール』

 『FALL フォール』という2022年のアメリカ映画を観た。心臓に良くない。私は高いところが人並みに恐いという程度で、高所恐怖症ではないが、この映画は怖かった。その怖さに耐えられずに途中で観るのをやめようかと思ったほどだ。この映画をスリラー映画と分類するのも宜なるかなである。

 

 映画は高さ600メートルの、老朽化して危険なので間もなく撤去される予定の鉄塔に女性二人が登頂するという映画である。ところが二人の登頂の負荷により、鉄の梯子は破損がひどくなり、ついには登ってきた梯子が破損して落下してしまい尖塔の部分から降りられなくなる・・・というストーリーである。二人は手を尽くして下へ降りようとしたり、下界との連絡を試みたりするのであるが。

 

 このメインストーリーに至る前に、プロローグで絶壁登頂のシーンがあるのだが、そこからもう恐いのである。どうしてこんなところに登ろうとするのかまったく信じられない思いがするが、鉄塔登頂シーンはそれを越えて、登るはじめからはるかに恐い。試みはことごとく失敗し、これでもかとばかりに危機がつぎつぎに訪れる。

 

 高いところを撮った映画が嫌いではない。『高層プロフェッショナル』や『クリフハンガー』などはお気に入りの映画でその高さを楽しめたけれど、そんなレベルの優しい映画ではないので、観るときは覚悟して観たほうがいい。

『落日』

 湊かなえの小説を原作とするWOWOWドラマ『落日』(全四話)を観た。出演は北川景子、吉岡里帆など。北川景子については偏見があり、私は評判のように美人とは思えないのだが、それは多分に似た顔立ちであまり印象の良くない人の思い出が影響しているのかも知れない。だからどちらかといえば嫌いだったのだが、このドラマで多少修正された。思いだしたくない過去から目を背けずに、真実を明らかにすることで乗り越えようとする女性を好演していたと思う。

 

 新人の女性監督(北川景子)は一作目にして海外の映画賞を取り実力が高く買われていた。その彼女が二作目のテーマにしようとしたのが十五年前の一家三人殺害事件だった。犯人は一家の長男(竹内涼真)で、妹を刺殺したあと家に放火し、両親共々焼き殺した罪ですでに死刑判決が確定して死刑執行を待つ身である。彼女は周囲の反対を押し切って著名脚本家(黒木瞳)の助手で、まだ採用されたシナリオが一本だけという新人の脚本家(吉岡理帆)に脚本を依頼する。

 

 彼女に依頼したのは、事件の起きた笹塚町の出身であることで、地理的知識があること、そして事件の関係者に尋ねやすいだろうということであった。そして・・・監督自身もその笹塚町の出身者であり、実は幼いときに事件のあった家族とわずかながら関わりがあった。殺された一家の、当時高校三年生の妹、犯人の青年の人となり、表に見えていた顔と実際の人格などが関係者との面談から次第に見えてくる。

 

 そして彼女たちの想像を超えて事件が彼女たち自身の過去とも深く関わっていたことがわかっていくとともに、驚くべき背景の真実が明らかになる。

 

 ミステリーとしてはとても上出来で、楽しめた。

 

 一昨日からどこにも出かけず、本も読まずに何本か映画を観ていた。『サバイブ 極限死闘』という2022年のアメリカ映画が、題名から想像できないようなかなりできの良いサバイバル映画であった。死にとりつかれた女性が極限状況で生きる力を湧き上がらせていくという仕立ては面白い。出だしはしばらく延々と治療のサナトリウムにいる彼女の異常な精神状態を見せられてうんざりするかも知れないが、後半が素晴らしいので我慢する必要がある。ほかに二本ほど観たが、駄作ではないがとりたてて取りあげるほどのこともないものなので省く。

信用ということ

 信用は目に見えない力だという信奉があったはずだが、現代は信用などというものはお人好しのたわごとだと思われるようになったらしい。信用よりも目先の損得の時代のようだ。中国やイスラムでは信用などと言うものは存在しないかのように見えるけれど、実は信用が最も重視される社会だという。ただしその信用は身内に対してのみ存在する。身内でないものを信用することなどけっしてしない。信用できるものとできないものが峻別されている。

 

 ヨーロッパやアメリカは契約社会だ。神との間に契約が交わされているという信仰を信じている。だから聖書は新約聖書とか旧約聖書のように約束という言葉を含んでいる。信用とは約束を守ることだ。だから欧米は契約や法を、なにより犯さざるべき重要なものと考える。

 

 日本にはそう言う確たるものがなくあいまいである。むかしはあったけれど、いまは失われたような気がする。約束は他者と交わす。約束の前では自己と他者は同格であろう。ところが自己が肥大化しすぎると、その約束が自己都合で軽くなる。信用の意味が軽くなり、力を失ってしまった。戦後教育は自己の肥大化を刷り込み続けたことで信用を形骸化させた。

 

 そのことの結果が、企業の相次ぐ不祥事発覚であろう。信用が大事だと思う気持ちを失えばこうなるだろう、という結果を繰り返し見せられている。

 

 その信用を回復するとか、信頼を取り戻さなければならないとか、どこかの首相が会見の度に口ぐせのように語っている。ますます信用や信頼が軽くなっていくようである。

2024年1月 5日 (金)

発熱する

 朝一番で歯医者に行った。だいぶ前から不調の右下奥歯が暮れに割れて、そのせいか多少歯茎が化膿しているが、痛みはほとんどない。直に硬いものをその歯で噛むときだけ痛い。歯医者は「神経はまだ健在で、そこまで侵されてはいないので、できる限りこの歯の延命に努めましょう」という。詰め物をとり、歯のなかと周辺をきれいに掃除消毒を行い、上の歯と当たりにくいように削り、詰め物をした。

 

 「歯茎の化膿はこれで治まっていくと思います。痛みが出るようならすぐ来て下さい、治療して痛み止めの薬を出します。少し間隔をとったあとにその後の様子を見ましょう」とのことで次の予約をした。詰めたセメントが固まるまで硬いものは食べられない。食べてもいいといわれても一日くらいは我慢した方が詰め物はきちんと固まるような気もしている。これでしばらく安心だ。それにしてもこの歯医者は安易に神経を抜いたり、歯を抜いたりしない。そういう点で有難い。

 

 発熱したのは私ではなくパソコンである。メインのパソコンが不調なので、古いパソコン(acer)を引っ張り出して現役復帰させているが、帰宅してスイッチを入れて作業してしばらくしたら馬鹿に熱くなっている。このパソコンは発熱するのである。発熱を続けたり繰り返したりすればパソコンは劣化するらしい。こちらもおだぶつになってしまう。その発熱対策用にファン付きのアルミの冷却台を持っているので、それを引っ張り出して来た。冷却をターボレベルにして、それに乗せて使用したら熱が下がったようだ。このパソコン用の熱さまシートである。

 

 しかしこれはあくまで応急処置で、気持ちも落ち着いたのでメインパソコンの具合をこれからチェックして様子を見たいと思っている。

思わないのだろうか

 あけがた夢を見た。あまり気持ちの好い夢ではなかった。体調が万全ではないのだろうか。今朝は違うが、いまだに仕事の夢を見ることがある。そのときに思うのは、すべきことをほんとうにしたのか、という悔いがいまだに残っているのだなあということだ。それでも人に後ろ指をさされるようなほどのことをした覚えはない。それでもこころに疚しさが深く傷のように残っているのだ。

 

 キリスト教では、神様はいつでも見ている、という。人は神様から自分の罪を隠すことはできない。「天知る、地知る、己知る」という言葉もある。人が知らないとしても、必ず知っているものがいると思えば、してはならないことはしないものだ。もし知られれば、なにより親が悲しむと思う。親孝行という言葉が空しくなって久しい。それとともに親が悲しむなどということもなくなってしまったのか。

 

 世襲議員が増えたら不正が増えた、などということはないのだろうか。世襲議員を支えている者たちが地元でのさばる、などという話も聞く。議員を支えることが利権になれば金が必要になるのは自然の成り行きだろう。世襲ということは不正をしてもその行為を「親が悲しむ」ということはないのかも知れない。なにしろ親も似たようなことをしている、ということもあるだろうから。

 

 ダイハツの不正行為の発覚は、数ある不正の一つに過ぎず、またか、と云うしかないというのが情けない。不正行為をした人たちはこんなことをしていることが明らかになったら、親が悲しむ、と思わなかったのだろうか。

 

 地震で被災者が苦しんでいるときに、デマを流して喜んでいる馬鹿者がいる。匿名であることを利用した犯罪だ。デジタルで行った行為は記録が残るはずだと思うが、どうなのだろう。それなら必ず犯人を捜し出すことが出来るのではないのか。摘発してその名を世間に公表し、万民に報せて、本人に.そしてみんなに「隠しても知られるものだ」ということを教えなければならないのではないか。そう言う犯人にも普通の人と同じような人権があるというのだろうか。いまの社会の仕組みは被害者より犯罪者のほうの人権を保護するらしい、などと思われている。 それでは犯罪者は減らないだろう。

2024年1月 4日 (木)

ちょっとひと息

 午前中は不調パソコンの応急処置をしていた。その後もしばしば勝手に再起動することが続いていたが、次第にその間隔が長くなっていまは小康状態にある。どういうきっかけで勝手に再起動するのかよくわからないが、今のままではストレスがあって使用に耐えない。

 昨夕は娘が来て楽しく会食した。無口で愛想のあまりない娘だが、さすがに最近は人並みになってきた。もともと気持ちに険悪なものをもっているわけではなく、その表現があまり得意ではないだけなのは承知している。「お腹いっぱいになった、ありがとう、また来る」と言って帰っていった。用事を頼んだので今月半ば過ぎにまた来ることになっている。娘はほとんど飲まなかったが、私は相手があるのが嬉しくてだいぶ飲みすぎてしまった。

 くたびれて集中力もなくなり、本を読む気がせず、録画していたドラマを観た。NHKBSの時代劇『あきない世傳 金と銀』というドラマで、あの『みをつくし料理帖』の原作者、高田郁の原作であり、主演が小芝風花であることに期待して観始めたら、これが当たりであった。まだ三回目までの放送で、これから話が盛り上がっていきそうだ。『みをつくし料理帖』でもそうだったけれど、江戸時代の女性が毅然と生きている姿に感情移入して好い気持ちになる。頑張れよ、と言う気持ちになる。そうしてそのような女性に悪意で向かう人間と、その美質を見抜いてきちんと応対するのは、いつの時代でも同じ構図かと思う。

 小芝風花はとても好感の持てる俳優になった。名優とまではいわないが、どんどん成長している気がする。俳優は演じる役柄で好感を持たれるところはあるけれど、好感が持てるはずの役柄を演じながら、却って嫌いになることもある。役柄でだけ評価が定まるというわけではないようだ。

できることを

 パソコンの不調が深刻であることがわかってきたので、午前中に手持ちの空いていたハードディスクにデータなどをコピーする作業を行っていた。コピーしている間に再起動したらディスクを傷めないかと心配したが、幸い区切りのところでの再起動であったので事なきを得た。写真ファイルがかなりあったが、全体ではなく、ひとつひとつのファイルをコピーしていくことにした。それなら被害があっても部分にとどまる。

 拝見している方々のブログへのアクセス、つまりお気に入りのリストもコピーした。ほかの様々な設定をどうするのか、それをこれからチェックしていかなければならない。出費にはなるが、新しいパソコンを買うしかないだろうと覚悟している。いま応急的に使っている古いラップトップは重くて遅くて、長く使うと熱くなってくるから、こちらもいつお陀仏になるかわからないのだ。

 それにしてもこのパソコン(NEC製)はSSD搭載で、動作は軽快であり気に入っていたのに、昨年あたりから一部のキーが不調で、キーボードの掃除もしたが回復せず、仕方なく外付けのキーボードを繋いでいた。再起動の際に、デバイスに問題がある、という表示をしていたのが、ときどきディスクに問題がある、と言う表示がまじるようになった。SSDの寿命ではないかと推察している。ハードディスクの異常なら異音がするが、SSDはなにも音がしないからわからない。

 地震や飛行機事故に続いてこんどは手許のトラブルである。作業にイライラしていることもあり、少しくたびれた。

 それにしてもDELLや東芝のパソコンと違って、NEC製は信用していたのに、中国が絡んだらお粗末なことになった、と不快な思いがしている。

対処不能

パソコンがふたたび不調になって、再起動を勝手にする頻度が次第に高くなって長時間の使用に耐えない。
ふうちゃん組さんが教えてくれた状況によく似ている。
たぶんディスクが寿命なのかも知れない。
可能な限り待避できるものを待避してこのパソコンをあきらめなければならないようだ。
幸い古いパソコンがまだ生きているのでそちらでしばらくカバーするつもりである。

2024年1月 3日 (水)

歯が割れる

 右下の一番奥の歯が縦に割れた。治療中の歯で、神経を抜いて金属をかぶせるかどうするか、医者に問われていた歯だ。こうなると割れ目から菌が入ってしまうおそれが大だから、完全な処置をするしかないようだ。周辺の歯茎が少し腫れたりしてその兆候も出ているけれど、今のところ痛みなどはない。こまめに口中の消毒と歯磨きをしている。なにしろいまは歯医者は正月休みだ。

 

 実はその懸念があったので、歯医者の休み明けの五日の朝一番で見てもらう予約を暮れにしてある。そのときには特に異常はなかったが、予感がしていたので正解であった。なんとかそれまであと二日、保ってくれるとありがたい。毎回歯医者に「Oさんは噛む力が強いから」といわれているが、今回もいわれるだろう。いわれたからってどうしようがあるわけでもない。

 

娘が来る

 午後、娘が年賀にやってくる。ちょっとした正月らしい料理を用意するために準備をしている。暮れに、入院している病院で妻と面会した時に頼まれたことがあり、娘に相談しなければならないこともある。

 

 だいたい月に一回くらい娘はやってくるが、正月はまた別だ。月に一度は会うのに、会うとずいぶんしばらくぶりに会う気がして、顔を見ると嬉しい。亭主の親が体調がよくないと聞いているので、正月は実家の四国へ行ったのではないかと思うが詳しく聞いていない。

復元する

 暮れから、メインに使っているパソコンが不調である。突然再起動するようになったのだ。長時間問題ない時もあるが、短時間で再起動することもある。ブログの下書きをして文章がある程度できたところで再起動されると、とうぜんのことにすべて消滅する。がっくりする。頻繁に保存しないとならない。再起動する直前に「デバイスに問題があるから再起動します」という文章があらわれるが詳しく読む前に再起動してしまうので詳細がよくわからない。それを手がかりにデバイスをひとつひとつチェックしてもどれが問題なのかわからない。もともとそれほどの知識があるわけでもないから途方に暮れた。

 

 昨年暮れに何があったのか考えてみると、Windowsのアップデートを指示に従って行っている。もしやと思ってそのアップデートの前へ復元してみた。復元までに思った以上に時間を要しているので不安になったが、それをすませて以降、勝手な再起動は今のところ起きていない。アップデートのときになにかまずい操作を加えたのかも知れないが、わからない。

 

 不安は残るが、なんとかこのまま問題なく動いて欲しいところだ。

2024年1月 2日 (火)

『草花たちの静かな誓い』

 宮本輝『草花たちの静かな誓い』(集英社文庫)という本を読了した。宮本輝の未読の本を昨年何冊か取り寄せてあり、その一冊を久しぶりに手にしたが、この人の本は読み出すといつものように一気に読めてしまう。今回は舞台がロサンゼルスで、ミステリー風の仕立てになっている。

 

 アメリカに住んでいた叔母が久しぶりに日本を訪れて旅をしている最中に修善寺で急死する。主人公の小幡弦矢はアメリカに留学した経験があり、叔母にも世話になったので、その後始末をするが、叔母の資産管理をしていた弁護士事務所からロスへ来るよう要請される。勤めていた会社を辞めて、外資系の会社の内定をもらって正式の就職を待っていた弦矢はロサンゼルスに向かう。

 

 叔母の夫は大きな会社の経営者だったが、少し前にその夫も病死し、叔母は独りで高級住宅街に住んでいた。夫婦には一人娘がいたが、六歳の時に病死したと聞かされていた。ところが、実はその娘は病死ではなく、行方不明だったことを知らされる。そして叔母は弦矢に総ての資産を相続させるという遺言書を残していた。しかし、その遺言書には書き換えられ削除した文言があること、さらに叔母は謎めいたさまざまなものを残していることを知る。

 

 叔母夫婦の娘が生きているならその娘が正当な遺産相続者である。弦矢はその娘を探すことをある私立探偵に依頼する。

 

 ここからその娘の失踪(ほぼ誘拐と推定されているが、身代金の要求もなく、手がかりもまったくないために警察では迷宮入りとして処理されている)の経緯の解析、調査が物語の縦糸になっていくのだが、実は緯糸(よこいと)の、庭園の草花、公園のさまざまな植物などが丁寧に詳しく描かれていき、それが実は宮本輝の最も書きたかったことであるように思える。

 

 植物を活き活きと描く梨木香歩に、その植物の素晴らしさを教えられ、その彼女が書評した『秘密の花園』があまりにも魅力的に紹介されていたので読みたくなり、大晦日に読んだところである。題名通りに庭園の植物の様子が魅力的に描かれている小説であった。そうしてたまたま手にとったのが、この宮本輝の『草花たちの静かな誓い』であったというのは、不思議な連環を感じる。

年賀の電話をもらう

 昨夕の大地震ではこの愛知県西部地区も大きく揺れた。余震を感じたあとに本震の揺れが続き、次第にその揺れが大きくなっていくのが不気味だった。阪神淡路大震災のときとよく似た揺れであり、よほどの大地震であろうと思いながら、おさまってからテレビをつけて能登での大きな地震であることを知った。

 

 昨年十一月終わりに弟夫婦と妹と四人で能登を一回りした。輪島も歩いたし、珠洲の見附島も見て、能登島を遠望できる穴水の宿に泊まった。輪島の朝市あたりは大火で大変なことになったようである。見附島も大きく崩壊したらしい。歩いたばかりのところの大きな被害は他人事としてみることができない。心が痛む。

 

 元旦には息子夫婦から年賀の電話をもらったが、今日二日にはときどき一緒に旅行に行く大阪の兄貴分のひとから年賀の電話をもらった。年賀状は出さないことにした、と何年か前に案内をもらっていたが、私からはもちろん賀状は出している。その賀状がついたから、という電話である。暮れには久しぶりに訪ねるつもりだったが失礼していた。今月中にはこちらから挨拶にうかがうつもりである。そのついでに親友を呼び出して、いつものように天王寺で飲もうかと思う。先輩はこの歳になっても私が甘えることのできる唯一の大事な人である。いつまでも元気でいて欲しい。

 

 年の初めが大変なことになったが、一度あることは二度あるともいうから、南海、東南海地震の不安が現実味を帯びて感じられてきた。避けられないことというものがこの世にある。人間の力のおよばないものはあるのだ。しかしそれを祖先の人たちは乗り越え、乗り越えして来たのだ。平安な日々をありがたいものだと思って大事に過ごさなければ、などといまは思っている。いつまでそれを忘れずに過ごせるだろうか。

『秘密の花園』

 バーネットの『秘密の花園』(新潮文庫)を大晦日の晩に読了した。ラストに目頭が熱くなって、だれも見ていないのに我ながら恥ずかしい気がした。このざる頭爺さんは意外と感激屋なのだ。これも成長物語、脱皮の物語だ。なにかを知ることで変身する、というのは物語だけの話ではない。現実にあることを知っているつもりだ。だから感激する。変身するのは自分の中からであって、外部はそのきっかけを与えるに過ぎない。そのことがわかっていない人が多い。

 

 早めに読み終わったので早めに床についた。その前にテレビをつけようかと思ったが、どの局もただやかましいだけだろうと思ってやめた。そのときに、もし紅白の最中に大きな地震でもあったらNHKはどうするのだろう、などとチラリと考えた。まさか正月早々にあんな大きな地震があるとは思いもせず、驚いた。

 

 寝床で、少し前に取り寄せた宮本輝の『草花との静かな誓い』(集英社文庫)という本を開いたら、期待通り面白い。今年最初に読了する本になるだろう。読了したら報告する。

2024年1月 1日 (月)

揺れた

 最初はわずかな揺れだったが、ふつうの地震ではないと直観した。神戸地震のときの揺れに似ていたからだ。思った通り、少しして違う揺れ方に変わり、その揺れが大きくなっていき、その揺れがずいぶんしばらく続いた。

 

 テレビをつけたらこの地震ではなく、そのすこし前の地震のニュースを報じていた。そのあともこちらでは微震ではあるが、地震が繰り返し起きていた。津波も起きている。たぶん本当の被害については明日にならないと判明しないだろう。輪島では火事も起きているようである。11月の終わりに兄弟旅行で能登を走り回ったばかりなので、なんだかよその地震だという気がしない。被害がそれほど大きくなければよいが。

いささか酩酊

昼間からの酒をいただいていささか酩酊している。お屠蘇代わりに飲んだのは、息子が送ってくれた広島県呉の『雨後の月』の純米大吟醸。美味い。雑煮を作り、お重に形ばかりながらおせちを詰める。

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今朝の日の出。

朝食後、ひと息入れてから、ビールをいただき、こんどは賀茂鶴の純米吟醸『一滴入魂』という酒を飲む。これも広島の酒だ。親しい叔父が昔広島に住んでいて、この酒をいつも飲んでいた。いまも健在である。今日は出石焼(白磁・松の模様が彫り込んである)のぐい呑みで飲む。卓上にはいちおうかぞえると十三品ならんでいる。

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朝の光がベランダの柵を光らせていた。

息子夫婦から年賀の電話があった。なんだかふわふわしたやりとりになったが、それも正月として好いものだ。

新年のおよろこびを申し上げます。

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新年明けましておめでとうございます。


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毎年正月、恒例の自画像です。

そしてこのあと、私は・・・


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こうなります。


正月は朝から酒が飲めて至福の心持ちです。

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