『快の打ち出の小槌』
1970年代後半から、朝日出版社はレクチャーブックというシリーズを一期十巻ずつ、三期にわたって全三十冊出版した。そのうち興味のあまりなかったものを除いて二十冊ほどを書店で目についたごとに買い集めた。読みやすいものも、歯ごたえがありすぎて読み切れないものもあったが一通り目だけは通した。
年末に別の本を探していて、本を詰めこんである押し入れでこのシリーズを見つけたので揃えてみたら十二冊しかない。処分してしまったのか、どこかにまだ紛れているのか。買ったはずで、もう一度読みたい本(岸田秀・伊丹十三『保育器の中の大人』など)が見あたらないのが残念ではあるが、今回は叮嚀に一冊ずつ読み進めている。いま三冊目を読了したところで、それが『日本人の精神分析講義』というテーマの、『快の打ち出の小槌』という本である。ここでは佐々木孝次という精神分析学、特にラカンに詳しくて実際にラカンに師事もした専門家に、普通の心理学者よりもはるかに心理学に詳しい伊丹十三が鋭い質問を繰り出し、しばしば佐々木孝次に『なるほど』と言わしめている。
この本のたたき台になるのが実は上にあげた『保育器の中の大人』という本なので、今回それが事前に読めないのは少し残念であった。高校生くらいのころから心理学に興味をもっていて、フロイトの『精神分析学』などを読み囓って、「まだ高校生には早い」、などと教師に云われたりした。その後もわからないなりにいろいろ読んできたので、ちょっと難解なこの本もなんとか読み切ることができた。読み切ったけれど分かったのは半分もない・・・いや、もっと少ししかわからなかった。用語は普通の人よりはわかっているから、性的な用語の頻出もそのまま専門用語として読むことはできるが、やはり私なりのバカの壁があるのだ。
しかしわからなくても読み進めるという、エネルギーを著しく消耗する作業をしていると、たまにぽつりぽつりと以前わからなかったことに光明がさすように意味が見えてきたりすることがあり、それが嬉しい。たぶんもう二回くらい読むとかなり理路が見えるかもしれない。
伊丹十三のあとがきに、ポイントを突いた一文があるので引用する。
講義のなかでも念を押されていることであるが、もう一度繰り返しておきたいのは、幼児とか母親とか父親とかいう言葉が、人間の機能をさす言葉として使われているということである。佐々木さんによれば人間には三つの種類があり、それは自分と母親とそれ以外の人であるという。私はそれを若干変型して、幼児と母親と父親であると解釈した。この場合、母親とは幼児の不快を解消してくれる人である。幼児とは他者を母親として期待する者、他者に対して、自分の不快を解消してくれる者としての期待を向けるような存在である。父親とは他者を母親扱いせぬ者、従って、本来自分で耐えるべき不快に自分で耐える者であり、これをべつにの言葉でいうなら、エディプスを通過した幼児であるといってもよいし、去勢ということを知った幼児、すなわち、母親が他者であることを知った幼児、というふうに考えてもよい。いずれにしても、幼児、母親、父親は人間の三つのあり方であって、年齢や性別に直接関係のないことをもう一度念を押しておきたい。
繰り返すが、この文章はこの本のエッセンスを語っている。
伊丹十三は硬軟両分野への探求心が旺盛で、
知識の吸収力の高さには驚くばかり。
彼が精神分析に興味を持ったのは
たしか岸田秀の『ものぐさ精神分析』(1977年)だったと思います。
多芸多才を体現したような人物でした。
不審な早逝には残念というしかありません。
投稿: ss4910 | 2024年1月27日 (土) 13時49分
ss4910様
文庫本になっていた彼のエッセイを、若いころ片端から読んだものです。
料理や酒についての文章を読んで、自分も真似したりしました。
彼が裏社会の人間に追い詰められて、ついに死ぬに至ったのは、私も心から残念に思います。
ところで岸田秀の『ものぐさ精神分析』は私も読みましたが、生かじりのままで、今回この本を読んだのを機に、もう一度はじめから読みたい気がしました。
しかしそこまで手を広げている余裕がちょっとありません。
投稿: OKCHAN | 2024年1月27日 (土) 16時18分
私の書棚にも伊丹十三の作品が数冊ありますが、完読したものがありません。
伊丹十三って亡くなったのですね。知りませんでした。
新聞、雑誌では派手な記事ではなかったようですね?それとも私個人が忙しい時期だったかも。。。
手持ちの著書が何冊かありますが、供養として読まなければと思います。
投稿: オキヨ | 2024年1月28日 (日) 14時39分
おキヨ様
調べると、死んだのは1997年ですからずいぶん前のことです。
飛び降り自殺のような死に方ですが、死ぬ理由が不明確で、いまだに不審死と見る人が多いようです。
ずいぶん騒がれたはずですが、その報道を見なかったようですね。
私は彼のエッセイが好きで、知識も豊富だし知的好奇心も旺盛な人なので一目置いていて、とても残念に思いました。
彼の監督した映画作品にはそれほど思い入れはありませんでしたが、俳優としての彼は好きでした。
投稿: OKCHAN | 2024年1月28日 (日) 14時51分