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2024年2月

2024年2月29日 (木)

馬瀬川

星宮神社を後にして粥川沿いに下る。郡上美並へ戻り、そこから国道百五十六号線を郡上方向に北上する。郡上八幡の市内の手前で右折すると大滝鍾乳洞へ曲がる道があり、カーブの多いその道を走って大滝鍾乳洞を通り過ぎると下呂へ行く国道二百五十六号線に合流する。しばらく行くと美山鍾乳洞の前を通る。この辺は大小の鍾乳洞がある。洞窟好きだから、大滝鍾乳洞も美山鍾乳洞も入ったことがある。

そのまま進めば和良という地区に出る。ここには巨石の霊地、戸隠神社があって特にここの重ね岩は見物だが、何度も見ているのでそれを横目にしてパス。すぐ近くに鬼の首がまつられている念興寺と言う寺がある。もちろん藤原高光か誰かに退治された鬼の首であろう。ここは気になりながらまだ立ち寄っていない。この二百五十六号線は魅力的な道なのだ。

さらに進めばそのまま国道四十一号線に出るが、ずっと手前の馬瀬川を渡ったあたりでその上流方向、岩屋ダム方向に北上する。その途中に金山巨石群という、これも見事な巨石がゴロゴロする場所がある。巨石好きとしてはここだけは立ち寄りたいところだったが、ロケか何かしているらしくて、普段はほとんど車の居ない小さな駐車場がたくさんの車で塞がれている。残念だがあきらめて通過する。

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そのまま北上すれば岩屋ダムへ至る。写真はダム湖側から見たロックフィル式の岩屋ダム。少し前から小雪がちらついていた。外気温2℃、寒い。

ダム湖を過ぎてさらに北上、馬瀬川の流れが見下ろせる場所があったので何枚か撮影した。

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馬瀬川は西ウレ峠を源流とするらしい。いつも紅葉の写真を撮りに行く、せせらぎ街道にある分水嶺の峠だ。

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見上げれば山は冬枯れの景色。例年なら雪のあるところだろう。

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上流方向。この先の方に宿がある。

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大きな石がゴロゴロある。

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流れが美しいのでぼんやり見ていたら、からだが冷え切ってしまった。早く宿へ行って湯に浸からなければ。というのが二十七日の夕方のことだった。

星宮神社とふるさと館

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とって返して粥川の森を抜ければ星宮神社の本殿が木の間からのぞける。

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やってきた方を振り返る。こういう道、好いなあ。

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本来の、鳥居のある入り口。

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美並ふるさと館はこの地方の民芸の歴史と円空仏の展示を行っている。星宮神社と粥川寺とこのふるさと館は同じ境内の中にある。

円空は竹ヶ鼻(岐阜県羽島市)生まれ、というのが定説だが、ここではこの瓢ヶ岳山中の木地師の家の生まれだとされている。ふるさと館の説明では、伊吹山や白山を経巡って修行の後、この粥川寺で得度した。

このふるさと館には初期の小さな人形風の彫り物から後期の物などたくさんの円空仏が列んでいる。初期のものの中に惟高親王の像があったのが目についた。惟高親王は木地師の祖とされていることは、以前ブログに紹介した。前回触れたけれど、高賀神社の横にも円空仏の立派な記念館がある。このあたりは確かに円空が木像を彫りまくっていた場所なのだと思う。

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参道に列ぶ石灯籠。駐車場は右手下の粥川を渡った対岸にある。

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駐車場のそばにあった板書き。藤原の高光の子孫は粥川姓に変わってここに住んだようだ。

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ふるさと館は写真撮影禁止なので、駐車場横にあったものを撮らせてもらう。ただし野ざらしなので、円空が彫ったものではないと思う。

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駐車場横に名水を汲める場所がある。

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説明書き。

これにて粥川と星宮神社を後にした。

居心地が好い

 今いる宿は、いわゆる日帰り温泉、スパに併設されている宿泊場所である。以前来たことがある。部屋に入ったら浴衣は特大が用意されていた。フロントでの説明がほとんどなかったからどうしたことかと思ったら、以前来たことが認識されているようである。だから特大の浴衣だけが用意されていた。後はわかるでしょ、というわけで、確かにすべて承知している。

 

 部屋も十畳あり、その外側のテーブルと椅子の用意された板の間も広い。一人には贅沢な広さである。トイレも広くてうるさくない。なによりである。食事は若い人には少し物足らないかもしれないが、今の私には十分である。昨晩は豚シャブで、肉が結構多くておいしかった。仲居さんのあしらいも手際が良くて気持ちが好い。円空好きの友人と、ここへ泊まって円空にゆかりの場所を訪ね歩いたら喜ぶだろう。今度声をかけてみよう。いつもならこの辺はこの時期雪の積もっているところだが、今年は周辺の山にすら雪がない。

 

 足のむくみがしばらくまえから軽くなったり重くなったりしていたが、二日でむくみはまったくなくなった。深湯に長く浸かっていたのが効果があったようだ。もっと何日か滞在したいところだが、本日帰る。途中で地酒でも買って帰ることにしよう。また心身の不調の時に来ることにしよう。私にこの湯は合っているようだ。

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宿の部屋正面。

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左手。

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右手。

昨日昼前に撮った部屋の窓からの景色。冬枯れだけれど雪がない。

2024年2月28日 (水)

大難

 難事というのは誰にとっての難事かによって、大難だったり、小事だったり、他人事だったりする。

 自民党の裏金問題が露見したことは、自民党にとっての大難であろうが、国民にとっては難事ではない。今まで自民党議員が、法律にも違反している、してはならないことをしてきたことは問題であるが、それが露見したことは慶事ですらある。問題は、そのようなしてはならないずるいことをしていた議員たちが、してきたことをなかったようにできないかとうろたえて、その人たちがするべき事をせずに居座ろうとしていることであろう。

 するべき事とは何か。その裏金がどう使われたのか詳細を明らかにして、それは間違っていたと認め、今後はもうしません、と頭を下げることであろう。そうしてもし同じような過ちをしたらどんな処罰も受けます、と約束することだろう。信頼関係が損なわれたのだから、ここは約束ではなく契約か。つまり契約書として法律に明記すると言うことだ。

 そんなことは小学生でもわかることで、いくら明らかにしたくないことがあろうとも、事ここに至ってはそれしか方法はない。それで許されるかどうかを争点とする選挙をして、国民に引き続きの議員としての仕事継続をお願いするしかないだろう。そんな自明のことが岸田首相にはわからないかのようで、そういう首相を戴いている、それこそ国民にとっての大難だ。

 野党の言い分を聞いていると、国民の大難だ、などと騒いでいるが、私はいささか違う気がしている。これで衆議院を解散して、果たして野党はどれほど勝てるのか、政権交代に至る程のことがありそうか。それこそ大山鳴動して鼠一匹、自民党一強がほとんど揺らがなければ、それこそ野党にとっての大難であろう。前回の政権交代の時には、民主党が政権を取れば何かが変わるかもしれないと期待されて大勝した。その結果、せいぜいなんとか仕分けという名の茶番劇と、蓮舫議員の「二番ではだめなんですか」という迷言だけが残された。今回、国民は野党に何か期待するものがあるだろうか。問題を政権交代のチャンスと捉えるのは勝手だが、政権交代した後に何があるのか見えないのにどうして期待できるのだろうか。まず何をするのか、わかるように言ってくれ。

 追伸:これを昼前に書いておいたが、後でニュースを見たら、岸田首相が自ら政倫審に出席して、公開で行うようにすると述べたらしい。小学生でもわかることに、さすがに気がついたらしいが、主旨は変わらないのでそのままとした。出席者がその意向通りに動くかどうか、反発して首相を引きずり下ろそうとするか、それはこれからのことである。

 さらに安倍派の西村氏が率先して総理の言うとおり、公開の政倫審に出席の意向を示したらしい。そうしたらほかの出席予定者もぞろぞろとそれに従うと言っているらしい。こういうときは、一番最初の人だけを評価するもので、私は西村氏を評価したい。

 

子供が死なないように

 ウズラの卵を詰まらせて子供が死んだ。それに対して鈴木紗理奈が「給食だけではなく、どこでこういうことが起こるかわからないから、親は子供にはよく噛んで食べるように教えた方が良い」と言ったそうだ。年寄りだけではなく、まともな大人ならみんなそう思ったはずで、どう考えても私には正論に思える。

 

 ところがびっくり、正論に見えているが、顰蹙を買っているというネット記事を見て仰天した。誰かがそう言っている、という記事に見せて、記事を書いている当人がそう言っているようにも思うが詳しいことは知らない。どうして顰蹙を買うのか。「子供が悪いかのように聞こえる」と非難されているのだそうだ。鈴木紗理奈が、子供が悪い、といっていると思う人間がどこに居るというのだ。そう思うなら思う方がおかしい。鈴木紗理奈は、今回の不幸な事故がまた起こらないようにするには、周りがいくら対策しても限界がある、それより子供がよく噛むように習慣づけられればその方が効果があるのではないか、といっていて、これは誠にその通りだから、私は正論と言ったのだ。

 

 子供が死なないように、という思いから鈴木紗理奈が語ったことを曲解していることに、激しい怒りを覚えた。何でも他者の責任につなげることで何か利益を得ようというのか、自ら守ってはいけないのか。

粥川

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長良川沿いの道を長良川に注ぎ込む支流の粥川の合流部を左折して粥川沿いに遡上する。県道三百十五号線はセンターラインのない、ところどころ車がすれ違うことが困難な細い道である。長良川は源流を大日岳に発するが、粥川は瓢ヶ岳(ふくべがたけ)に発する。

写真のように粥川はウナギが生息しているが捕獲は厳禁。罰が当たる。瓢ヶ岳は鬼や怪物の棲んでいたところで、それを朝廷の命により、藤原高光が退治した。そのことは長良川の別の支流、板取川の上流にある高賀神社に詳しい。以前訪ねてそれをブログに書いた。ここから山を越した西側に当たる。その怪物退治の時にウナギが案内したという伝説があり、それ以来この粥川地域ではウナギを捕獲することはずっと禁忌とされてきたのである。

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曲がり角に近いところに二宮金次郎の像がある。近頃見るのは珍しい。その後ろが粥川の淵になっている。

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初夏にはここを鮎が群れをなしているのが見える。ウナギは見たことがない。

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粥川の森の駐車場へ車を置いて森を少し歩く。右手奥には円空ふるさと館や、星宮神社、粥川寺などがあるが、回り道してその先の所にちょっと立ち寄る。

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こんな苔むした石碑がある。かなり大きな物だが、なんと刻まれているのかよくわからない。ここを曲がって粥川にかかる小さな橋を渡る。

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橋の上から粥川の源流を見上げる。あたりは樹々が鬱蒼としていて暗い。

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橋を渡って突き当たりで左右に道が分かれる。右へ行けば星宮神社、左は那比新宮神社。那比新宮神社は高賀六社の一つというから、行ってみたい気もするが、ただし那比新宮まで七キロ、車で行くとしてもほとんどすれ違うのが困難な道のようで、残念だがこわくて行く気になれない。その左の方へ少しだけ歩く。

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矢納が淵の石碑。暗いので手ぶれした。

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これが矢納が淵。実際はもっとずっと暗い。何枚か写真を撮ったが、感度を上げずに撮ったのでなんとかまともなのはこの一枚だけだった。もっと下まで降りられるが、誰もいないと怖い。下まで降りると右手奥にもっと大きな滝が見える。藤原高光は魔物を退治した後、案内してくれたウナギをここに放ち、村人たちにウナギを捕ることを禁じたという。

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矢納が淵とは魔物退治の後に矢を洗って納めたからだという。淵の前には神明神社がある。小ぶりの社だが、こういう所にあると神韻を感じる。

引き返して星宮神社に向かう。

最良の方法

 岸田首相が政倫審について、自分が総裁である自民党に対し、最良の方法で対処するように指示したという。その指示したという最良の方法が伝えられていないので、その方法というのがわからない。肝心なのは何が最良の方法だと岸田首相が考えているのかだろうと思うが、それを明らかにしてほしいものだ。

 まさかそれを自民党のみんなで考えろ、という指示ではないだろうと思うが、もしそうならそれは指示とは言わないのではないか。せめて私はこう思うがどうだろうか、くらいのたたき台を出さなければ、てんでんが自分の意見を言い合って、いつまでたっても結論など出るわけがない。今の様子を見ているとそう思わざるを得ないが、それならこの人は指導者として問題ありだろう。

 自民党には大事かもしれないが、世界には様々にそれとは比べものにならない大事があって、そのような火の粉がいつ日本にかかってくるかわからない。それこそ本物の大事で、それに対処することは岸田首相には到底期待できないだろう。まさか任期終了までこんな他人事みたいな態度を続けていくつもりなのだろうか。それしかできないほど無能力なのか。あえて火の粉をかぶる、責任をとるのがリーダー、指導者なのだということを知らないのだろうか。

 もしかしたら彼は深く後悔しているかもしれない。首相になんてならなければ良かったと。それすら考えていないで保身に走っているのなら、救いがたい。

長良川

気温の変化が大きいせいか、なんとなく心身が不調である。温泉に行こう!と決めればすぐ宿を予約する。

一度行ったことのある、下呂から一山越えたところにある温泉を予約した。

二十七日の朝、出発しようとしたら体が重い。出かけるのに逡巡していたら、十一時近くなった。本来は国道四十一号線を北上するのだが、長良川沿いに国道百五十六号線を北上した。関のあたりが混むから、一宮から美濃までは東海北陸道に乗る。とりあえずの目的地は星宮神社という所。

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うまく写真が撮れなかったのだが、ソフトクリームという旗がちょうど重なって、一瞬「ソフトソフトクリーム」と読めたのだ。そのときは面白いと思ったのだけれど・・・。

いつもなら洲原神社にご挨拶するのだが、今日はパス。郡上美並の手前で国道百五十六号線と別れ、長良川の対岸を走る。

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激しい流れの所もあるし、いつもの長良川ブルーの流れもある。この川はいつ見ても美しい。

途中から粥川という支流沿いに遡る。円空仏の里である。

 

2024年2月27日 (火)

『菊花の約(きっかのちぎり)』

 中島みゆきの歌だったと思う。愛しさが過ぎれば憎さに変わる、というけれど、それは違う、憎さに変わるのは愛しさが足らないからだ、という意味の歌詞があった。

 

 上田秋成『雨月物語』の中の『菊花の約』という物語を読んで、約束ということについて考えさせられた。約束は契約に似ているが本質的に違うのではないか。約束は相互の信頼の元になされ、契約は不信の元になされるのだと思う。日本人は契約を約束だと勘違いしてその区別が理解できない。契約とは裏切りが常態の時に交わされる、相手を裏切れないような条件を決めて拘束するものだ。信用、信頼ということが信じられる関係だからこそ、約束が交わされるのではないか。

 

 尼子経久の名前などが出てくるから、戦国時代の後半の頃のことであろう、今の兵庫県の加古川あたりに、丈部左門(たけべさもん)という若い学者が質素に暮らしていた。知人の家を訪ねたとき、旅に病んで倒れた男が仰臥しているのを知り、介抱する。手厚い介護で一命を取り留めた男は松江生まれの赤穴宗右衛門(あかなそうえもん)であると名乗る。互いの人格、見識に触れて親交を深め、互いに兄弟の契りを結ぶ。赤名は用事を抱えての旅であった。その用事を済ませて必ず帰る、と約束する。その約束の日を左門に問われると重陽の日(陰暦九月九日)には必ず、と答える。

 

 やがてその日が来る。朝から、まだかまだかと待つ左門だが、赤穴は現れない。約束を違えるような男ではないはずなのにどうしたことか、と諦めかけて夜の戸締まりを仕掛けたとき、闇の中から亡霊のように赤名が現れる。

 

 そのように見えたのも道理で、彼は用事先の富田城で幽閉されてしまい、帰ることができなくなって、自死して、一日で百里、千里を行くという魂となって約束に間に合うように帰ってきたのだ。そのいきさつが亡霊によって語られる。最後は左門が敵討ちをするが、それは話の締めに必要だったことで、物語のポイントは幽閉に関わることと、約束を果たすと言うことである。ここでは相手の信頼に応えたくても、どうしてもそれがかなわない状況と、そのために命を投げ出すという話である。

 

 私は、約束しあえる相手としか約束をしない。信頼していない相手との約束は形だけである。本当に信頼している相手との約束は、もし果たされなかったときには、相手に何かどうしても約束を果たせない事情があったのであろう、とまず考える。そして相手を心配する。

 

 もし相手が約束を守れたはずなのに、それが軽んじられたことがわかればそれまでである。信頼による約束を守れないでその信頼を失えば、以後は約束できる間柄にはならないというだけのことだ。信頼を失うことを軽んじることは私はできないけれど、結果的にそうなったことがないわけではない。痛恨の極みであると感じたこともあるが、命をかけて約束を守ることまではできない。普通はできないから、あえてそれを行った話が物語になるのだろう。

有王

 鬼界ヶ島に独り取り残された俊寛僧都の後日談が『平家物語』に記されている。俊寛に目をかけられていた有王(ありおう)という若者が、赦免されて都に戻った少将成定や平判官康頼の姿を見て、どうして俊寛僧都だけが帰らないのか不審に耐えずに、親にも許しを得ずに鬼界ヶ島を訪ねる旅に出る。ようやくのこと鬼界ヶ島にたどり着いた有王は俊寛の居場所を尋ね歩くが、島の人間の言葉はわかりにくく、海辺や高台の岩場を何日もさまよい、ある亡霊のような人物に出会う。その場面について、こちらは現代語訳を引用する。

 

 ある朝、磯の方から、蜻蛉(かげろう)などのようにやせ衰えた者が一人、よろめきながら出てきた。もとは法師であったと見えて、髪は上向きに生いたち、いろいろな藻屑がからみついて、まるでやぶの茂みをかぶったようである。関節の骨があらわに見えて、皮膚はたるみ、身につけているものは、絹か布かも区別もわからない。片手にあらめをさげ、片手には魚を持って、歩こうとはしていたが、ほとんど進めず、よろよろとして出てきた。「都で多くの乞食(こつじき)を見たが、このような者はまだ見たことがない。諸(もろもろ)の阿修羅らは、大海辺に居るといい、修羅の三悪四趣は深山大海のほとりにあると、仏陀が説かれたが、知らぬまに私は餓鬼道に迷いこんだのであろうか」と思ううちに、双方ともにだんだん歩み寄って、近づいた。もし、このような者でも自分の主人の御行方を知っていることがあるかもしれぬと、
「お尋ねしたい」
と言うと、
「何事か」
と答えた。 
「ここに都から流されなさった、」法勝寺(ほっしょうじ)の執行御房(しゅぎょうごぼう)と申す方の、御行方を知っているか」
と問うと、有王はあまりの変わりように見忘れていたが、僧都はどうして忘れられよう、
「わたしこそ、それだ」
と言いもはてず、手に持っていた物を投げ捨てて、砂上に倒れ伏した。それで有王は自分の主人の行方を知りえたのであった。

 

 俊寛は、すでに息子が疱瘡にかかって六歳で、続いて妻も気落ちして衰弱して死んだことを知らされる。ただ一人今は十二歳の娘が生きていて、その文が有王から渡される。赦免され、生きて家族に会うことがもはやかなわないと知った俊寛は、生きる気力を失ってしまい、食も絶ち、程なく有王の手の中で息を引き取ってしまう。資料によれば、没したのは三十七歳だという。哀れである。

短髪

 以前髪を短く刈り上げたので、しばらく床屋に行かずにいた。髪はそれほど長くならなくても、襟足などがしっかり伸びてしまったので、我ながら見苦しい。風が冷たかったが、昨日ようやく重い腰を上げて床屋に行った。今回も思い切ってスポーツ刈りくらいの短髪にした。さっぱりしたが、帰り道は頭が涼しいというよりも寒かった。電車で一駅、歩いて三十分近くかかる床屋なので、行きは電車で、帰りは歩いて帰った。たいした距離を歩いたわけではないのにいつになく息苦しく感じたのは我ながら情けない。運動不足のせいで、心臓に問題があるわけではないと思いたいが、最近脈が時々飛ぶようで、ちょっと気になっている。

 

 花粉症の症状が五六年前から出ているが、幸いあまりひどくならず、眼の周りのかゆみとくしゃみ、鼻水が出る程度である。風で花粉が飛んでいたのだろう、帰ったら眼がかゆいし、しゃみが何度も出た。これから鬱陶しいなあ。自分のメンテナンスのため、行ったことのある近場の温泉に浸かりに行くことにした。

2024年2月26日 (月)

不正流出

 メインで使っているカード会社から、私のカード情報が第三者に不正流出している懸念があることが判明した、という書類が届いた。不正利用防止のために直ちにカードを再発行するよう要請されたので、すぐに手続きをした。この書類自体がフェイクということも万一あるかもしれないが、そこまでされたら仕方がない、使用を打ち切るだけだ。

 

 それにしても再発行して新しいカードが手元に来るまでは十日間程カードが使えないそうだ。しばらくネットでの買い物は別のカードを使うしかない。そちらは大丈夫なのだろうか。面倒なのは、そのカードで登録している先、例えばアマゾンなどに新しいカードを連絡しなければならないということだ。どことどこにしなければならないかよくわからない。本当に面倒だなあ。不正利用が判明したら補償するというが、今のところその形跡はなさそうなのはさいわいだ。

『ワーテルロー』

 歴史、特に西洋史には疎いので、ナポレオンにもワーテルローの戦いについても詳しく知らなかった。大分以前に録画した映画を検索したら、『ワーテルロー』という1970年の映画があったので見た。台詞は主に全編英語で語られているが、制作はイタリアとソビエトであり、監督もソビエトの人。俳優はナポレオンをロッド・スタイガーが、ウェリントン公をクリストファー・プラマー、ちょい役だがルイ十八世をオーソン・ウェルズが演じるなど、名優がぞろぞろ出ている大作である。撮影には当時のソ連軍が全面的に協力し、フランス、イギリス(イングランド、スコットランド、アイルランドなど)、ドイツ(プロシア)、オランダ軍総勢二十万人が激突したワーテルローの戦いをそのまま再現している。

 

 ロシアとの戦いで敗れたナポレオンは、周辺諸国の反撃に遭い、皇帝退位を余儀なくされて地中海のエルバ島へ流される。しかし一年足らずでエルバ島を脱出、当初千名程度の軍はたちまちに膨大な数に膨れ上がり、王位にあったルイ十八世を追放して再び皇帝として返り咲く。

 

 各国がフランスに宣戦布告し、その乾坤一擲の戦いとなったのがワーテルローだった。天候不順、ナポレオンの心身不調、軍の統率の乱れなどから、ナポレオンの天才的軍略が生かされず、戦いは消耗戦の様相を呈し、帰趨を決するのは所在不明のプロシャ軍の動きにかかることになる。それまで同盟軍が持ちこたえられるのか。

 

 とにかく当時の戦い方の人的消耗の激しさなどが忠実に再現されていて、その迫力に圧倒される。ロッド・スタイガーのナポレオンは当初違和感を感じるが、見ているうちにナポレオンそのものに見えてくる。そのカリスマ性の魔法まで乗り移ったかのようだ。そしてクリストファー・プラマーのウェリントン公は、まさに英国貴族そのものの、ややスノッブながら窮地でも達観した軽さを持った人柄を見事に演じていた。

 

 これほど大量の人員と経費を掛けた映画はもう作ることは不可能ではないかと思う。見応えあり。

俊寛僧都

 『平家物語』巻の一の後半で、鹿の谷(鹿ヶ谷)での平家打倒の謀議が行われる。実際の兵力も、戦いの作戦もない粗略なものだったが、それが密告によって清盛に知られてしまう。首魁とされたのは大納言藤原成親で、さらに息子の少将成経、平判官康頼、俊寛僧都などをはじめ、多数が捕らわれた。巻の二では、清盛の息子の重盛の赦免の懇請や、成経を女婿とする平教経などの助命嘆願もむなしく、大納言藤原成親は殺され、成経、康頼、俊寛の三人はそろって絶海の孤島の鬼界ヶ島に島流しとなる。そして巻の三では高倉天皇の中宮徳子(後の建礼門院・清盛の娘)の懐妊出産を期に、大々的な恩赦が行われる。そして藤原成経と平康頼は平清盛によって赦免状が下されたのだがそこには俊寛の名は記載されていなかった。

 

そのくだりを一部引用する。
赦免船が船出するところである。

 

 既に舟出(いだ)すべしとて、ひしめきあへば、僧都乗ツてはおりつ、おりては乗(ッ)つ、あらまし事をぞし給ひける。少将の形見には、よるの衾(ふすま・夜具)、康頼入道の形見には、一部の法花経をぞとどめける。ともづなといておし出(いだ)せば、僧都綱にとりつき、腰になり脇になり、たけの立つまではひかれて出づ。たけも及ばずなりければ、舟に取りつき、
「さていかにおのおの、俊寛をば遂に捨てはて給ふか。是程とこそ思わざりつれ、日比(ひごろ)の情も今は何ならず。ただ理をまげて乗せ給え。せめては九国の地まで」
とくどかれけれども、都の御使(おつかひ)、
「いかにもかなひ候まじ」
とて、取りつき給へる手を引きのけて、舟をばつひに漕ぎ出(いだ)す。 僧都せん方なさに、渚にあがり倒れふし、をさなき者の、めのとや母などをしたふやうに、足ずりをして、
「是乗せてゆけ、具してゆけ」
と、をめきさけべども、漕ぎ行く舟の習ひにて、跡は白浪ばかりなり。いまだ遠からぬ舟なれども、涙に暮れて見えざりければ、僧都たかき所に走りあがり、沖の方をぞまねきける。
(後略)

 

とくに注釈なしでもその情景はわかると思う。

 

 確か謡曲に『俊寛』という曲があったはずだと思って調べたら、四番目物に、まさにこの情景が描かれたものがあった。ワキが赦免舟の御使で、シテが俊寛となっている。確証はないが世阿弥作とされているようだ。わたしは、想像にあまりあるけれども、ついこの俊寛の心持ちに感情移入してしまうのだ。

2024年2月25日 (日)

一日一本

 リタイアしたら、映画を一日一本見て、本を二日に一冊くらい読めたら好いなと思っていたけれど、実際にはせいぜい月に映画を十本、本は三日に一冊がせいぜいである。毎日が日曜日なのにどうしてこれだけかと思うが、やはり映画を見るにも本を読むにもそれなりのエネルギーが必要で、夢中で見て、夢中で読むので、疲れるのである。若いときはそんな疲れは感じなかったけれど、やはり歳である。でも同時に歳のわりにはそこそこだとも思う。

 

 面白そうだと思う映画を、主に契約しているWOWOWのプログラムから選んで録画している。本数はすなわち時間をためることでもあり、過剰にあっても消化しきれないのに、つい録画本数が多くなるのは生来私がケチだからだ。さすがにそれがわかってきて、いまは月に十本くらいにおさまって、消化と録画がバランスしている。つまり過去にためたものはなかなか見ることができていない。しかも見やすい軽いものから見るから、どっしりと腰を据えてみたいものほど後回しで、傑作らしいのを見そびれているのもあさましい。

 

 本の方は、以前は娯楽本、時代小説やミステリー、SFなどが多かったが、いまは評論、歴史書、昔の紀行文、古典などが多いから、当然それほど読み飛ばせるはずもなく、冊数ではなく内容だと見極めている。もうつまらない本を読む余裕はないのだ。それにしても同じ本を二度三度読む。それはいろいろ読んでいるうちに知らなかったことを知ることで、以前見えなかったものが見えてきて、繰り返し読むほどにその世界が明るくなるからだ。たくさんも読みたいし、深くも読みたい。それには人生は短すぎるし、それにつけても、過去どうしてあのように無駄に生きたかと悔やまれたりしている。

 

 『平家物語』巻の二を読み終えて、巻の三に入った。俊寛に関するくだりが、子供の時にも強く印象に残ったが、いま読んでひとしおである。次回はそのことについて。

『ハルカの光』

 NHKの連続ドラマ『ハルカの光』全五回が終了した。照明がテーマという珍しいもので、一話三十分で誠に手頃でありながら一話ごとに余韻の残る好いドラマだった。これは再放送らしい。主演の黒島結菜は朝ドラの主演もしていたけれど、絵に描いたような自己チュータイプに見えて好感が持てなかったが、その見かけのまま、何かにのめり込む役柄をはまり役で演じていて、こういう女性の良さを見直させてくれた。

 

 好きなものにのめり込む人は他人の感覚に対する共感を持ちにくい。自分の好きなものを押しつけてしまうところがある。ところがその中に、そこまで言うのだから好いものなのかもしれない、と思わせる純粋さが伝わることがある。そのとき、本物の心の通い合いが起きる。意識せずに相手の琴線に触れているのだ。だからドラマは黒島結菜の自己チューさを受け止めうるだけの相手役を必要とする。各回渋い名優(イッセー尾形もその一人)が登場してその人の人生を、蘊蓄付きの素晴らしい照明器具が浮かび上がらせる。

 

 最終回は彼女の明かりへのこだわりの原点である船の明かりがすべてを締めてくれた。

『ブラックライト』

 『ブラックライト』は2022年のアメリカ映画。主演はリーアム・ニーソンで、この人が出る映画にまず外れはない。この映画も面白かったが、考えてみると彼の演じる役柄はどれも似たところがあり、多くが同じ映画を見ているような気がする。それでも面白いのだから不満はないが、堂々巡りをさせられている気になるのは否めない。

 

 FBIの、通称フィクサーと呼ばれるトラヴィス(リーアム・ニーソン)は、潜入捜査官が危機に陥ると派遣され、救出するという任務に長年就いている。その場その場で瞬時に対応策をとり、見事に役目をこなしてきたが、そろそろ引退を考えていた。そんなとき、若い潜入捜査官のダスティを救出し、思いがけないFBIの暗部をほのめかされるが、その情報をリークしようとしたダスティはトラヴィスの目の前で殺されてしまう。長年の友人でもあるFBIの長官に真偽を尋ね、ダスティの話が本当らしいと直感したトラヴィスは一方的に引退を宣言するのだが、その直後に娘と孫が行方不明になる。

 

 体力の衰えを知力でカバーしながら、孤軍奮闘するというのは最近のリーアム・ニーソンの役どころである。つい感情移入する。こういう話ばかりが映画になっているところを見ると、FBIとかCIAというのは魔物の巣窟に思えてくるが、本当はどうなのだろう。そういう面もないわけではないというところなのだろうか。

2024年2月24日 (土)

お誘い

 映画やドラマでおいしそうに酒を飲んでいるシーンを見せられると、つい喉が鳴る。お酒が私を呼んでいる気がする。ビールのCMなんか、いかにもうまそうに飲んで見せるから、全身が酒を求めてもだえる心地がする。それでも夕方五時前には飲まないと決めているので、そのルールには従う。我慢したときほど一口目のうまさは格別だから、我慢することにも値打ちはある。空腹は最良のコック、というではないか。お誘いに安易に乗らないのは、意地や臆病だけが理由ではないのだ。

『リプレイスメント・キラー』

 『リプレイスメント・キラー』は1998年のアメリカ映画で、主演のチョウ・ユンファのハリウッド進出第一作目の作品。

 

 香港マフィアの首領の息子が麻薬取引の現場で警察に踏み込まれ、銃撃戦の末に射殺される。父親のミスター・ウェイは復讐のために凄腕のスナイパーであるジョン・リーを呼び寄せる。しかしその復讐のターゲットをスコープに捉えながらジョンは引き鉄を引くことができなかった。命令を拒否したことになったジョンは自分自身だけではなく、自分の家族も危険にさらされることを覚悟する。なぜ引き鉄を引かなかったのは重要なポイントで、後で理由が明かされる。

 

 ここからジョンと香港マフィア、そして警察の三つ巴の壮絶な戦いが始まる。再三の襲撃を辛くも切り抜けたジョンに対し、ミスター・ウェイは凄腕の殺し屋を呼び寄せる。もはや逃げるばかりでは生き延びるすべがないこと、自分が死ねば家族も守れないことから、ジョンの反撃が開始される。

 

 暗殺者に感情移入するのは映画の世界だからこそで、それを違和感なく感じさせるには、演じる俳優が魅力的でなければならない。そういう意味でチョウ・ユンファは魅力的だ。彼を有名にしたのは『男たちの挽歌』シリーズだが、私はまだ見ていない。初めて彼の映画を見たのは『グリーン・デスティニー』という作品である。ミシェル・ヨーやチャン・ツイィーも出ていた。チャン・ツイィーを初めて見たのもこの映画だった。『グリーン・デスティニー』は2002年の映画だから、『リプレイスメント・キラー』よりも後の映画ということになる。

 

 それにしてもチョウ・ユンファの存在感は圧倒的で、高倉健に近い(私にとっては高倉健の方が上位)。ちょっと劇団ひとりに似ている気がするが、そんなことをいうとファンから怒られるかな。

興味がないのに眼に入る

 イギリス王室の話には、日本の皇室の話以上にあまり興味はないのだが、週刊誌をはじめとして様々にニュースになるので眼に入る機会が多い。これは報道する側のバイアスがあると思うので、本当のところはどうだかわかりようがないが、眼に入った記事だけからの印象ではヘンリー王子とメーガン妃にあまり善い感情を持てない。

 

 メーガン妃がイギリス王室に意趣を持っていることだけは強く感じられるが、ヘンリー王子はそこまでの反感はなさそうで、メーガン妃に引きづられているというところだろうかと思う。そうなればますますメーガン妃は意地になり、エスカレートしていき、ついにはヘンリー王子がそれについて行けなくなり・・・という図式が見えてきたように思うが、どうなのだろうか。

 

 あることないことを書き立てて家族の不和をあおるというマスコミがいるのは、それを読みたい読者を期待してのことで、あまり良いことではないのだが、そういうことばかりに興味を持つ人というのが少なからずいるのであって、それでそういうことを報じるマスコミが成り立っている。芸能記者同様、この世の醜業というべきか。

2024年2月23日 (金)

『地球の尻尾を摑む』

 年内に手持ちのものを読みきろうとしているレクチャーブックシリーズの一冊、人類学者の青木保と作家の青野聰の対談本『地球の尻尾を摑む』を読了した。副題というか、対談のテーマは文化人類学講義である。冒頭に、青木保の『タイの僧院にて』という本が話題になる。青木保は研究のためもあって、自らタイで僧侶となり僧院で半年暮らすという体験をした、その生活を書いた本である。巻末にその一部の文章が引用されていて無性に読みたくなったが、こうして手を広げて果てしがないことも承知しているので、いまは取り寄せるのを我慢している。

 

 代わりに棚に列んでいる昭和文学全集に青野聰の小説が三編ほど収録されているので、読みやすそうな短いものだけでも読んでみようかと思っている。また、レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』も引用されている。こちらは若い頃わかりもせずに読んだ記憶があるが、読んだことだけ覚えていて内容の記憶は皆無である。これはほかでも度々言及されている本で、いつか読み直したいと思っている。持っていたはずの本はどこへ行ったのだろう。処分したのだろうか。

 

 青野聰のあとがきの文章から、はじめの一部を引用する。

 

 文化人類学では人間の営みのすべてが研究の対象になるそうである。今日は空気の薄い高地、明日は熱帯のジャングル。耳にはモーツァルト、眼にはスパイ小説。左手に計算機、右手に未発表の原稿用紙一万枚の論文・・・。様々な土地に住む人々の文化を、角度こそ違え、同じように人間に関心を持っている者を刺激せずにはおかない形で言葉化する文化人類学者を、僕は現代の学問のヒーローのように思ってきた。
 美しき貪欲。青木保さんはまさに文化人類学者だ、何でも知っている。問いかければ、たちどころに、やや早口で整然と答えてくれる。知の領域に日々咲く花を、見栄えのしないものから派手なものまで等しく眼を配っている。(後略)

 

 青野聰も若い頃、十数年世界を放浪して、「日本に帰国しても海外亡命者であり続けることは可能か」(by加藤典洋)などと評されている作家なのである。共通の知見、グランドを持つ二人が打てば響くようなやりとりを楽しく重ねていることがこの本を読んでいるとよくわかる。

思いのほかに面白い

 始まったばかりのNHKのドラマ『舟を編む』の第一回の録画を見た。とりあえず録画して、面白かったら二回目以降も見ようと思っていたら、思いのほかに面白い。

 

 ブログを書くことを日々の習慣にするようになってから、しばしば書き言葉でものを考えるようになっているのを、自分でも面白いことだと思っている。ではそうなる前にものを考えるときはどうだったのか。いまと違うと思うが、思い出そうとしても意識していなかったことだからか思い出せない。よく考えてみれば、以前は自分だけに向けて考えていて、いまは自分以外の他者も想定していることではないかと思ったりする。

 

 そうなると言葉にこだわることになる。なるべく誤解のない適切な言葉を選ぼうと意識するようになる。時々は辞書を引く。辞書を引いて言葉の意味を初めて知ることもある。辞書によってずいぶん違うらしいという知識はあったが、比較したことはあまりないから実感として知っているわけではない。その辞書を編纂するということの面白さ、大変さがドラマになっているので、このドラマに興味と面白さを感じて期待している。言葉の海こそ人間の営為の集大成でもあるように思う。

 

「悪い言葉があるわけではありません」「言葉の使い方、選び方が悪いと、悪い言葉になるのです」「言葉は何かを他者に伝えたいという切実な思いから生まれるのです」、これらのドラマの中の台詞に共感する。マスコミの言葉狩りの傲岸不遜、言葉への軽視に改めて怒りを感じる。

腹が立った

 夜中に足がつった。三度つった。最初は右足、次は左足、三度目は両足がつった。「コムレケア」という漢方薬を飲めば治まるのはわかっていたが、なんだか腹が立って起き出さなかった。痛みに腹が立っているのだが、痛みが治まっても腹が立っている。痛む自分の体に腹が立っているようだ。腹が立つ理由にならない。どうも自分自身に腹が立っているらしい。眠れなくなった。

 

 意のままにならない、そして自分でしようと思ったことをしない自分に焦れているらしい。そう納得したらしばらくして再び眠りについた。

2024年2月22日 (木)

本日は

 本日は、ぼんやりデー。終日ぼんやりしていた。ぼんやりするのも必要だと思っていたら、ぼんやりは認知症への道だと脅された。本当だろうか。私の場合、頭のエンジンのパワーが小さいのに気が多いので、あれもしたいこれもしたい、あれもしなければこれもしなければ、と過剰にその小さなエンジンをふかすので、燃料切れとオーバーヒートを頻繁に起こす。ときどきぼんやりしないと精神的に変調を来しかねないのである。

 

 だからぼんやりするのは認知症への道ではなく、あれこれしたいことがなくなったときこそ危ないのだ、などと自分を納得させている。しかし認知症になったらそれに気がつけなくなるのだから、そもそも心配しても始まらないのだ。

地位を金で買う

 愛知県の教育界で金品の授受があったことが露見し、騒ぎになったが、結局事実がはっきり確定できたらしいのは名古屋市だけだった。河村市長をはじめとした第三者委員会で継続調査が行われているという。校長になるためには最低いくら、などという基準があることは昔から公然たる秘密だったから、これが名古屋市以外ではそういう事実はなかった、ということが信じにくいが、もしかしたら世の中はそういうことを続けているとまずそうだ、と気がついてやめたのか、それとも口裏合わせがとてもうまくいっているのかそれはわからない。

 

 そもそもこういうことは必ず露見するものである。なりたい人の数がなれる役職より多ければ、選に漏れる人間が出てくるのは道理で、漏れたものは選ばれた人を妬み、内部告発をする。それを上手に隠すのがそういう組織であるのだが、それを暴くのが上手なマスコミという存在もある。マスコミはすべてわかっていて、一番効果的なタイミングでそれを公表するものだ。そういうきわどいことをしていても自分だけはなんとか罪を免れると思う愚か者が、いつまでものさばっていると今回の名古屋市のようなことになる。

 

 過去に遡れば、多分日本中の教育界に金品が動いていたのではないかと想像するのは考えすぎだろうか。それなら善いけど。

 

 自民党の裏金問題だって似たようなものだ。議員であり続けるための金を捻出するための裏金である。大臣にするための派閥の力を蓄えるための裏金である。つまり地位を金で買うのである。時にその方が話が早いこともあるけれど、あまりに地位と選ばれる人間がちぐはぐでおかしなことになると、自分がどうして選ばれないかと不満を持つ者が出てくる。そうなれば、してはいけないことが露見することになる。丸く収まっていたものが収まらなくなる。

 

 もともと自分の懐に入るはずのなかった金のことで、あまり騒ぐとさもしく見えるからほどほどでよしとしておいて、大事なことに着手してほしいものだ。

この世はまだら

 若いときから中国に興味を持ち、本も読み、中国へ度々行った。いまも中国を訪ねたい気持ちはあるが、どこも中国人であふれていて、あれでは訪ねたいところをゆっくり巡ることはできないと思うし、中国が好きだからこその批判的なことをブログに書いてきたので、出かけた先でどんな目に遭うかわからないと恐れてもいるので、行くことは諦めている。私ごときのわずかな数の読者のブログなど、歯牙にもかけないと思うけれど、中国はAIを駆使してキーワードから訪問者の発言をチェックしているともいう。AIは人を選ばないで言葉だけを選ぶから、どんな取り上げ方をされるかわからない。

 

 とはいえ中国についての興味は相変わらず豊富にあるから、中国のニュースには常に目が行く。以前はとんでもニュースというのか、日本ではあまり考えられないような面白いニュースがたくさんあって、それが中国人の性質を表したりして楽しめたものだが、いまはそれが激減している。私がよく見るネットニュースが取り上げないのか、それともそもそもそういうニュースが遮断されているのか、多分後者であろうと想像している。

 

 代わりに経済ニュースが増えているようだ。限られた情報からの憶測記事や予測記事が中国以外からたくさん報じられ、それと全く違う中国発のニュースが報じられて、同じ国の経済を報じながら楽観的なものと悲観的なものがあって矛盾しているのは、中国らしいといえば中国らしい。中国のように巨大な国を一つの指標で評価するのは困難なことで、どの部分を見て評価するのかによって全く違う答えが出てくるのは当然でもある。世界はまだらである。

 

 中国もまだらであるけれど全体として動いていく。その動きが衰退に向かうのか、繁栄を取り戻すのか、これは現実として軌跡を残していくはずで、それを注視している。中国の覇権主義的な傲慢とも見える行動を見ていると、悲観的な見通しに与したくなるところだが、果たしてどうなるのだろう。

2024年2月21日 (水)

『スープとイデオロギー』

 『スープとイデオロギー』はヤン・ヨンヒ監督・撮影による映画で、『ディア・ピョンヤン』、『愛しきソナ』、『かぞくのくに』に続く第四作目。在日である自分の家族を見つめる彼女のクールでありながら熱いまなざしは、どの作品もこちらの胸に強く響く。元々両親は済州島の出身であるが、大阪に住んで朝鮮総連のシンパとして活動し、金日成や金正日から勲章などももらっている。息子三人を北朝鮮に送り、家族をあげて自分の身を削るようにして仕送りを続けてきた。

 

 監督のヤン・ヨンヒは兄たちとは別れて両親とともに在日として日本で暮らしてきたが、彼女は両親のそのような活動を批判的に見続け、それを映像化してきたのだ。長兄は北朝鮮で心身をすり減らして死去したことは以前の映画で知っていた。その後、映画でありのままの北朝鮮を報じたために彼女は北朝鮮から入国を拒否されるようになったので、兄たちやその家族、姪のソナ(『愛しきソナ』)とも会うことができなくなった。今回のこの映画では、父親はすでに高齢で死去している。

 

 今回は、彼女が結婚した男性と母親との関係、そして済州島で何があったのか、どうして南の済州島出身の両親が北朝鮮シンパになったのかが描かれている。私は文京洙『済州島四・三事件』(平凡社)という本をずいぶん前に読んでいて、その本を手に済州島へ行ったことがあり、記念館も訪ねていて、ここで何があったのか、普通の日本人よりは詳しく承知している。

 

 そのこと、つまり1948年の大虐殺事件(殺された数は一万人とも三万人ともいう)をこの映画で初めて知った人も多いだろう。その事件についての聞き取り調査が行われ、母親も聞き取りを受けるのだが、そのすぐ後くらいからにわかに認知症の症状が進んでしまう。母親は婚約者が殺され、自分にも危険が迫ったことを知って、弟と幼い妹を連れて決死の覚悟で日本へ逃れたのだ。その母親と、夫と三人で四・三事件七十周年の済州島に赴くが、そのときには母親は自分がどこにいるのかも判然としない状態になっていた。

 

 朝鮮半島の悲劇についてはその当事者しかわからないことで、そのことを正しく教えられていたらいまの韓国の人の反日は違う様相を呈していたのではないかと想像する。いま李承晩の再評価の映画が作られて評判になっているようだが、こうして再び歴史が歪曲されていくのだろう。残念なことである。

けちくさい

 我ながらけちくさいと思う。昨日の朝、洗濯物を干しながらそう思った。パンツのゴムがへたって伸びてしまい、緩くなっているものがある。Vネックの下着のシャツの襟が伸びてだらりとしているものがある。新しいものもあるから捨てても良いようなものだけれど捨てられない。まだ着用することができると思うからで、旅に出るときなどには恥ずかしいから持参しないように注意する。いまの衣類はなかなか破れたりすり切れたりしないから、なかなか捨てられないのだ。

 

 旅先で持ち帰って良いタオルなどを持って帰る。いくら使い込んで洗い続けても、そういうタオルは合繊混だから破れたりしない。薄くなっても捨てられない。元々持っていたもの、もらったものも山ほどあるのでタオルは山のようにある。本屋によく行ったから、手提げ付きのしっかりした紙袋がたくさんある。一度にたくさん買うから手提げ紐付きの紙袋に入れてくれる。いまは有料だが昔はただでくれた。丁寧に二枚使ってくれたりする。これも重宝なものではあるが、そんなにたくさん必要なものでもないのに捨てられずに押し入れにたまっている。

 

 袋といえば、昔ただだったレジ袋をたたんでたくさん保存している。たたんだものを旅先などでゴミ入れや土産物を買うときに使う。これも使い切れないほどある。そういえば旅先で使い捨ての歯ブラシが置かれていて、それを持ち帰る。歯ブラシや歯磨きは専用のしっかりしたものを洗面具に入れているので、備え付けは使わないのに持ち帰る。二三度使ってみたりしてから、風呂や炊事場の細かいところや排水口の毛髪などを除去するのに重宝するが、これもそれほどたくさんいらない。これはさすがにたまりすぎたので、最近は持ち帰らなくなった。

 

 こういうわけで我ながらけちくさいなあと思う。

巻の一を読み終える

 六十の手習いというけれど、私の場合は七十の手習いで、七十を過ぎてから日本の古典を読み始めた。前にも書いたが、高校の時に古典は赤点すれすれであった。苦手だったのである。苦手だったのは古典そのものよりも、源氏物語フリークの教師が生理的に嫌いで、その陶酔したように源氏物語を語る姿を嫌悪していた。だいたい高校生に源氏物語を学ばせて、古典の面白さを感じるものがどれだけいるだろうか。実は古典は好きだった。中学から高校にかけて、上田秋成の『雨月物語』、岩波文庫の『醒睡笑』上下巻を読んで楽しんでいたし、高校生の頃は『今昔物語』の本朝世俗部を読んだりしていたのだから、面白さは承知していたのである。

 

 古典の教師のおかげで古典嫌いにしてもらったので、その後ほとんど読む機会がなかったが、七十になって急に興味がわいて、古典を読み始めたのだ。元々面白い話が好きだから、そういう話を系統立てて読もうと思い、『日本霊異記』をまず読み囓った。聖徳太子の縁起を読んで飛鳥の地を訪ね歩いたりした。続いて懐かしい『今昔物語』を読み、『宇治拾遺物語』を拾い読みし、『古今著聞集』を半分ほど読んだ。そのあと『方丈記』を初めて丁寧に読み通した。いまは『雨月物語』と『平家物語』を読んでいる。

 

 いま読んでいる講談社学術文庫版の『平家物語』全訳注は七百~八百ページ四冊の大部である。これを揃えて読もうと思ったのは、しばらく前に吉川英治の『新・平家物語』を底本にNHKで人形劇にしていたものの再放送を見たからである。とにかく面白かったけれど、自分の記憶や思い込みと違うので、少し首をかしげる部分もあって、確認したいこともあった。

 

 その第一巻は、原本の巻一から三が収められていて、その三分の一の巻一を読み終えた。原文を読み、その後現代語訳を読み、注を読んで原文を読み直す。最後に解説を読んで、その文章の意味を理解する。なかなかすいすい読むというわけにはいかないが、物語そのものが面白いから、なんとか読み進めることができている。最後まで読み切れたら自分を褒めてやりたいと思う。

 

 平安時代末期の貴族たちの領地や衣冠の争い、比叡山などをはじめとする寺社勢力の拡大、荘園と寺社の土地争いを背景に都は騒然としていたのだ。そういう背景の元に武士の力が必要とされ、保元平治の乱を経てついには平家が強大な権力を握り、藤原氏のように皇后を平家一族から送り込むようになった。様々な権力争いが崇徳天皇という怨霊を生むようになったことはしばらく前に書いた。後白河法皇はそういう中で登場し、平清盛と角錐することになるわけである。巻の一では寺社と朝廷との争いが激化し、その中で内裏が炎上して焼尽してしまうところで終わっている。

 

 清盛の長男の平重盛について、『平家物語』は正義の味方に描いているが、実像がどうであったのか、貴族の日記や史書などを引用して比較されていて興味深い。

2024年2月20日 (火)

陰謀論よりは

 陰謀論に似て、私には陰謀論よりも確からしい気がするものがある。武器メーカー、武器商人が世界の紛争に関与しているというのは、紛争には武器が必要であるから、間違いのないことである。武器の生産販売は、経済的にとても大きな分野でもあり、いまやIT、金融に匹敵するほどの金額が動いているのではないか、などと想像される。そしてそれが国家の財政にも影響するということになれば、その力が暗に政治の世界にも影響していると考えられるではないか。

 

 戦争屋がある面で世界を動かしているのではないか、というのは妄想ではなくて確からしいと思うのである。前回のブログに、トランプ再選後の世界についての予測めいたことを書いたけれど、佐藤優氏が言うように紛争は激化しなくなる、けれども紛争は増える、という予測は、まさに大きな需要はなくなるが数で稼げるようになるということで、それは自然とそうなるというよりも、そうなるようにあちこちで火がつけられていくだろうということを想像させる。

 

 世界が平和で安定することは戦争屋の嫌うことで、平和な世界は武器大量生産国にとっては悪夢の世界なのである。アメリカの介入とは、畢竟そういう動機から起こされていたのではないか。ハイそうです、とアメリカはいわないだろうけれど。

トランプ再選後

 トランプが大統領になるのがいやだからバイデンに投票する、という人が少なからずいたはずだが、その人たちもバイデンの老耄を目にして考えが変わりつつあるのではないか。それなら次の大統領にトランプが再選される可能性が大きいとみるしかない。トランプやバイデンよりはましだろう、という人がいまだに現れないのは、アメリカにとって幸せなことなのかどうなのか。アメリカ国民が自ら選ぶ道である。

 

 とにかくトランプの再選の可能性が高いのなら、トランプ再選後のアメリカ、トランプ再選後の世界について予測を立てて、それに備えなければならない。そのことを元外交官で評論家で作家の佐藤優氏が語ったことをネットニュースで読んだ。

 

 アメリカはイスラエル以外から手を引くことになるだろう。ウクライナはアメリカの支援を失い、戦争は早期に終結するだろう。このようにアメリカが介入することを放棄したことで世界は不安定化していく。当然紛争がいまより増加するが小規模にとどまり、紛争が激化することはなくなる。東アジアでは、台湾に対しての関与を低下させるから、もし有事があってもアメリカの兵士を送る可能性はなくなる(元々ないようにも思える)。当然日本に飛び火しても同様であろう。アメリカの後退によって再びリベラルという名の左派政権が韓国に誕生する可能性がある。韓国は再び反日に転じるであろう。

 

 トランプは、自分の国は自分で守れ、という方針だから、日本は自分の国を自分で守るための行動を進めなければならないし、東アジアや東南アジア、インドとの連携に一層努めなければならない。

 

 このような佐藤優氏の予測については概ね同感である。そもそも多くの国際紛争が拡大したのはアメリカの介入によることが多い。介入することで何を目指したのかが誰にもわからないことがしばしばあり、自国の力を誇示したいから介入するために介入しただけ、という結果に終わることが多く、その反省もなく、同じことの繰り返しをしている。今回のウクライナでも、自分でハシゴを外した格好になっているのに自覚がないのが恐ろしい。

 

 それができたのは、アメリカが世界で比肩するもののない強国だったからで、介入はもうやめる、というのは、もう介入する力はない、という表明でもある。その力に頼って生きてきた日本もアメリカが頼れないと自覚して、さてどうするかを考え、対処していかなければならない。

 

 ならないのだけれど、今の国会のていたらくを見ていると、こりゃだめだ、とドリフのコントの長さんの言葉が頭に浮かんでしまう。現実という、見たくないものを見ないために騒いでいるといえないこともない。貧すりゃ鈍するという。アメリカもロシアも中国も、そして日本も同様か。日本は右顧左眄して生きることに長けていたけれど、自分で考える、というのは苦手なようだ。最悪地獄を見るかもしれないが、それも冥土の土産か。

2024年2月19日 (月)

『レッド・ドラゴン』

 トマス・ハリスは寡作な作家なので、日本で翻訳されたものは最新作の一冊をのぞいてすべて読んだ。といっても大半がハンニバル・レクターシリーズである。この『レッド・ドラゴン』にもハンニバル・レクターが登場する。今回は原作ではなく、それを映画化したものを見た。『レッド・ドラゴン』は、あのアカデミー賞となった『羊たちの沈黙』に先行して書かれた小説で、『羊たちの沈黙』よりも大分早くに映画化されている。原作を読んですぐに見たが、できの良いものではなかった記憶がある。今回見たのは二度目の映画化、『羊たちの沈黙』に続いて作られた2002年のアメリカ・ドイツ映画で、ハンニバル・レクターをアンソニー・ホプキンスが演じており、原作に忠実に再現されている。この映画でレクター博士がどうして捕まったのかがわかる。

 

 原作にはウイリアム・ブレイクの詩と『巨大な赤い竜と太陽を着た女』という絵が添えられていて、この絵が重大なモチーフになっている。この本でウイリアム・ブレークのことを教えられた。いわゆるサイコキラーがどうして誕生するのか、それが納得させられてしまう作品で、そういう異常者の犯罪を怖いもの見たさで読ませてくれるのがトマス・ハリスの作品だ。それを見事に映画化したのが『羊たちの沈黙』で、『レッド・ドラゴン』はその前話ということになる。このシリーズの映画化は四作品あり、もちろんすべて見ている。

 

 こういう小説や映画が好きで困ったものである。

『ラストキング・オブ・スコットランド』

 大分前に録画していた映画『ラストキング・オブ・スコットランド』(2006年イギリス・アメリカ)を見た。主演はフォレスト・ウィテカーとジェームズ・マカボイ。フォレスト・ウィテカーが演じるのはウガンダの独裁者アミン大統領である。内容を想像させないこの不思議な題名の意味は映画を見ると理解できるが、説明で書くと冗長になるのでやめておく。

 

 弟と1970年の大阪万博を見に行った。人気のアメリカ館やソビエト館には長い行列が続いていて列ぶ気がしなかった。入れるところを次々に覗いていき、そのときにアフリカの国々の小さな展示館にも立ち寄った。多くが民族館の様相だったが、ウガンダだけは違っていて、近代化したウガンダの現在を誇示するものだった。教育、文化を大事にして民度を挙げることに成功したことが謳われていて、そういうウガンダという国を初めて知った。あまり立ち寄る人のいない展示場の片隅で、大柄の黒人が英字新聞を読みながらこちらをチラチラ見ていた。そのことが強く印象に残った。多分ウガンダの人であろう彼は、何を感じていたのだろう。

 

 その後にアミンが大統領になり、アフリカのダイアモンドと言われたウガンダを成長発展させたかに見えたが、次第に狂気に走り、独裁が暴走し始めたことが報道された。ウガンダについては常に意識してニュースを見ていたのでその報道に心を痛めていた。ウガンダはどうなったのか。

 

 映画では、たまたま辺地医療に飛び込んだスコットランド出身の青年医師が、大統領就任直後のアミンを治療したことで気に入られ、専属医師として、ついには顧問として身辺に常に従うことになる。その青年を演じていたのがジェームズ・マカボイで、彼の目を通して見えたアミンが描かれていくのだが、彼に見えるものと見えないものがあるのは当然のことで、最後に衝撃的な結末を迎える。

 

 イギリスは植民地としてのウガンダを、独立してからも手放さずに関与し続けたが、その光と影はウガンダという国にどう射していたのか。そして報じられたり映画に描かれていたアミンと現実のアミンはどう違うのか同じなのか、そんなことを考えさせられた。ウガンダは教育程度も高く都市部の近代化は進み、いまでもアフリカのダイヤモンドであることに変わりはない。その国の人々が少しでも幸福であることを願っている。

雨でも

 朝三時過ぎに目が覚めて、それから眠れなくなった。寝床でネットラジオをつけたり、アマゾンミュージックのネットストリーミングをした。久しぶりにアバの音楽を聴きながらぼんやり考えを巡らせていた。NHKの連続ドラマ『別れのホスピタル』が終末期医療について描いていて、死ぬということ、そこから当然ながら生きるということを考えさせてくれる。全四回の三回目が土曜の晩に放映され、次の土曜日が早くも最終回だ。主人公の看護師を岸井ゆきのが好演している。小川いと原作の『ライオンのおやつ』もホスピスが舞台で、忘れがたい。そういうことを考えているから眠れなくなったともいえる。母の臨終の時のことなどを思い出したりした。こういうことは考えたら何か答えがあるというものではなく、ただ必ずやってくるものをどう受け入れるかということなのだ。

 

 二月とはいえ気温が高いから、気分転換にどこかに出かけるのも好いが、今週はずっと雨模様らしい。トイレの壁に滋賀県全図が貼り付けてある。近いのにあまり詳しくない。地図の真ん中には琵琶湖がある。司馬遼太郎の『街道をゆく』は、まず近江から始まった。琵琶湖をただぐるりと回ったり、湖面に浮かぶ竹生島へ渡ったりした。最近では湖東三山や愛知川を遡って永源寺や木地師の里を訪ねたりした。先日は賤ヶ岳に登り、頂上から琵琶湖と余呉湖を見下ろしたりした。朽木の里に立ち寄って鯖寿司を買ったが、朽木は予告編だけであったから、春になったら朽木の古宿の中を散策しようと思っている。湖南三山や、水口城址などもいきたい。その辺は日帰りでいくことが可能だ。

 

 天気が良い日に思い立てばいつでもいける。どこを訪ねるか雨の中で計画を立てるのもまた一興だ。

2024年2月18日 (日)

『白峰』

 いま『平家物語』を読んでいる。どうして平氏が栄えたのか、その経緯には保元、平治の乱があることは承知しているが、あまり詳しく知らないし、調べたこともない。先日のブログに、『平家物語』から連想して子供の頃の読書の一つに『雨月物語』があることを書いた。脇に積んでいる本の山にこの本を引っ張り出して加え、読み始めた。いくつかの話が収められているが、一番最初が『白峰』という話である。これはほかの話と違って過去に丁寧に読んでいないから、ほとんど初めて読む。謡曲のように怨霊の登場する話である。『雨月物語』というのはそういう物語なのだ。能でいえばワキが西行、シテの怨霊が崇徳天皇である。私が怪異譚が好きなのは、ここに端を発していると言って良い。

 

 バラバラなようで話はつながっているのである。

 

 白峰とは四国香川県坂出市青海町にある山で、崇徳天皇の陵および御廟のあるところ。物語は東国からみちのくの、歌の枕詞の地を訪ね歩いた西行が、思い立って西に足を向け、西国の讃岐の地に庵を結んだところから語り出される。芭蕉の『奥の細道』は、西行のみちのくへの旅の足跡をたどった旅でもあったが、ここでは置いておく。

 

 その西行が白峰の山に新院(退位後の崇徳天皇の呼び名)の陵(みささぎ)があると聞いて登り、草に埋もれた石積みを見る。そこで経を唱え、歌を詠むと、その歌に応えて崇徳天皇の怨霊が現れる。そこでのやりとりを理解するには、保元平治の乱の原因と結果についての知識がないと崇徳天皇が怨霊となった理由もわからない。こうして平家物語の原点へ話はつながっているのである。

 

 崇徳天皇といえば、菅原道真、平将門とともに日本の三大怨霊とされる。その怨霊がどのように祟りをなしたのか、この物語は西行にとってはリアルタイムの話でもあることを承知して読まないとならない。西行はまさに平家物語の時代の人物なのだから。そして祟りの一つに自分に弓を引いた源義朝を殺させた、という下りがある。義朝は頼朝や義経の父親である。義朝は平治の乱で清盛に敗れ東国へ落ち延びる際に、知多の係累を頼ったが裏切られて殺された。その墓が野間大坊というところにあって、先日弟と訪ねたばかりだ。風呂場で暗殺されたのだが、もし木刀の一本でもあればむざむざと殺されなかったものを、と恨みの言葉を残しているのは有名な話だ。

 

 恨みが恨みを生んでいる。そういう時代だったのだ。崇徳天皇、保元、平治の乱について、もう少し調べてみようと思う。

『鏡の中のアメリカ』

 先崎彰容『鏡の中のアメリカ』(AKISHOBO)を読了した。副題が『分断社会に映る日本の自画像』となっているが、この人のほかの著作を多少読んでおかないとその意味はわかりにくいかもしれない。日本近代思想史哲学の研究者で日大教授の著者が2019年(コロナ禍になる前の年)に短期研修のためにアメリカに一ヶ月ほど滞在した時のことを書いた本である。紀行文ともいえるし、そのときに考えた記録でもある。なんとなく森本哲郎の著作を連想した。読んでいて様々なことが胸に届く。忘れがたい本の一冊になった。

 

 福沢諭吉や久米邦武が見た明治維新前後のアメリカ、そして江藤淳が留学して見た戦後のアメリカ、それらをベースにして先崎彰容自身が現に見ているアメリカを総合的に考察し、時間と空間を包括して日本とアメリカについて考えている。見えているアメリカをただ記述するのならただの紀行文だが、見えているアメリカという鏡を通して、見ている自分の中の日本を見るという思考は、日本の近代、西洋思想をどう捉えるか格闘した思想家たちを考えるとき、重要な視点だろう。

 

 ものを見る、見て考えるとき、見えているものがどのように見えているか考えることで、人は同時に自分自身を見つめ返す。見えているものをどう捉えるのか、ということは、自分自身の価値判断、思考に関わることだからだ。その作業こそが自分探しだといえないことはない。自分で自分のことをただ考えても何も見えないもので、何かを見て考えることで自分が見える、自分がどういう人間で、今どこにいるのかがわかるのだ。なるべくたくさんのものを見なければならない。自分はただ一点ではない。原点など常にある範囲で揺れ動くもので、刻々変わる。世界から影響を受ける。

 

 話が広がりすぎてしまったが、先崎彰容が取り上げて深く思考する先人とは、ただ西洋思想や科学技術を進んだものとして素直に受け入れ、それに融和していく者たちではなく、また攘夷思想のようにただ嫌悪して否定するものでもない人たちだ。日本の古来からある文化や民族性に価値を見いだしながら、西洋を否定するのではなく、それを乗り越えようとする者たちだ。それこそが彼のいう保守思想の持ち主ということだが、それは彼の著作をもっと読まないと納得しにくいかもしれない。

 

 鎖国日本の扉をこじ開けたのはアメリカであり、太平洋戦争の後、日本を占領統治したのもアメリカであり、現代の日本はアメリカという国に文明だけではなく文化や価値観を大きく依存している国であるという現実がある。そのアメリカを克服しない限り、日本の思想や文化は再びオリジナリティを持ち得ない。そのための模索をしているのが先崎彰容であり、そのためのアメリカ研修の旅だったのだ。

祇王(ぎおう)

 子供の時から本を読むのが好きで、そうそうは買ってもらえるわけもなく、学校の図書館の子供向けの本などを片端から読んだ。ジュール・ベルヌやコナン・ドイルの本などはずいぶん読んだものだ。小学校の高学年になって、少し中身の濃いものを読み出して、『国性爺合戦』や『源平盛衰記』『雨月物語』などを子供向けに書き直したものなどを面白く読んだことを覚えている。これらは買ってもらったか、正月のお年玉で自分で買った。『雨月物語』は大きくなって上田秋成の原文を二度ほど読んだ。これを書いているうちに久しぶりにまた読みたくなった。幸い棚にある。

 

 そんなことを思い出したのも、読み始めたところで中断していた『平家物語』を再び読み始めたからで、ようやく少し長い『祇王』の部分を読み終えた。祇王のことは、子供の時に祇王・祇女姉妹のこととして読んだことを覚えている。そのあとに鹿ヶ谷の謀議の話や、俊寛の島流しのことなども私の読んだ源平の物語の中に書かれていた。

 

 祇王の哀話、仏御前との立場の入れ替わりなど、清盛の人物像、傲慢な性格を際立たせるためのこの物語が妙に心に残っていた。今回、平家物語のこの下りを原文を元にじっくり読むと、しみじみとした味わいがある。解説によれば、元々の『平家物語』にはこの下りはなかったが、語り物として完成する中で、付け加えられたのだろうという。琵琶法師の語りを聴いたら多分その哀調は胸にしみるだろうと思う。ただし何を語っているかが理解できればだが。 

 

 それにしても出家して尼になったのが、祇王二十一歳、祇女十九歳、仏御前はなんと十七歳である。はかないことではないか。

2024年2月17日 (土)

雑感

 昨日、確定申告の窓口での受付が始まったらしい。野党の誰かが、窓口で一斉に混乱が起きる、と予言していたけれど、ニュースで報じた窓口の様子に混乱は見受けられなかった。もしちょっとでも混乱があれば大々的に報じられるだろうから、予言は外れたわけだ。日本国民は彼が予想するよりおとなしく礼儀正しいのだ。ただしその分怒りは内向しているのは確かだろう。

 

 日本のGDPの世界ランクが三位から四位に転落した、とマスコミは騒ぎ立てている。私から見れば、企業も政治もマスコミも国民も、ずっと転落する方へ、転落する方へと行動し続けた挙げ句の果ての結果であって、別に騒ぐに値する話ではない。今度はインドに抜かれて五位になるだろうし、さらに別の国に抜かれていくだろう。騒げば戻る話でもないし、騒ぐのは実は他人事だからだろう。

 

 資産家夫婦の四歳の次女が毒殺されたらしい事件は、おぞましい救いのない話で、見聞きして無力感を感じるばかりだ。殺された幼女はその目でどんな地獄を見つめていたのだろう。想像するにあまりある。この母親は、報道を見る限り精神的な病を抱えているらしく見える。多分それが理由で無罪になるだろうと思うとますます脱力感を感じる。

不審メール

 ある用途にだけ使っているクレジットカードがあり、月々そこから引き落とされる金額はそれほど多くない。そのカード会社から今月の利用金額の連絡と、セキュリティの確認のメールが送られてきた。金額がおかしい。それほど多額というほどでもないが、身に覚えのない金額である。よくメール発信元のアドレスを見ると、おかしなアドレスである。普段のものと違う。文面の中にも細部に不審なところがある。

 

 迷惑メール、詐欺メールであろう。金額が変だからとうっかり連絡する人がいるだろう。その先に何があるか考えると恐ろしい。敵は巧妙である。こういうものはどうにかならないのかと思う。デジタル社会のリスク、それについてのストレスは大きくて不愉快である。これもNTTの抜け作の結果か。

売名?

 ブラタモリがレギュラー番組ではなくなるという。大好きな番組であるだけに本当に残念だが、考えてみればタモリも高齢であり、長時間歩き回るのは負担も大きく、体にこたえていたことだろうと拝察する。いつもその博識なこと、好奇心旺盛で勉強熱心であることに敬意を感じ、見習わなければと思い続けていた。事前に情報があっての問いかけに対する見事な答えでもあろうけれど、それなりの記憶力と基礎知識があってこそできることである。ゲストの次の場所への案内に、「いきましょ、いきましょ」という、そのうれしそうな言い方にいつも好感を感じていた。

 

 そのブラタモリのアシスタントを務めた歴代の女性アナウンサーが、NHKの主要な番組のメインに出世しているという事実を見て、タモリの人を育てる能力を高く評価するネットのニュースもあった。その通りだと思う。タモリとの緊張感のあるやりとりの中で、自分を磨き一人前になっていった本人の努力もあろうし、そこにはそれを引き出したタモリの力も大いにあずかっていただろう。

 

 今のアシスタントの野口さんなどは私の嫌いなタイプの女性なのだが、ブラタモリを数回見るうちに次第に好感が持てるようになり、今はその受け答えが楽しく感じるほどになった。偏見を訂正する力がこの番組に、つまりタモリにあるということだろう。

 

 そんなとき、立憲民主党の小西議員とやらが、ブラタモリというバラエティ番組で好感が持たれたという理由だけでニュース番組のメインに配するというNHKの姿勢を批判した。ブラタモリについて話題になっているのを横目で見て、違う切り口から一言言って話題をとろうとしたと思われる。

 

 その批判の趣旨というか理由は、NHKのニュースというものは大事なもので、ブラタモリの好感度だけでそこに出ていた女性アナウンサーをニュース番組に抜擢するのはいかがかと思う、NHKのニュースが伝えるべきものを伝えていないように見えるのはそういう姿勢に問題があるからだ、ということのようであった。

 

 これに対していくつか賛同するコメントが寄せられたが、多くは何を言っているのだ、とんちんかんなことをいうな、という批判だったと、それを伝える記事は報じていた。多分立憲民主党の小西議員という人物は賛同のコメントを見て意を強くしたことであろう。こういう人物は批判を受け流す能力に長けているだろうから、批判そのものがそもそも存在しない。

 

 しかし、ブラタモリ出身で抜擢された女性アナウンサーに何かお粗末な出来事、失態があったというのだろうか。ニュース番組が大好きな私が見ていて、それらの女性アナウンサーはよくやっているという印象を受けることはあっても、その役割に本人の能力が不足していると感じたことはない。そもそも天下のNHKが配するに、能力不足を使うわけがないではないか。

 

 確かに各種のニュースの価値判断の軽重、優先順位にNHKはこの頃少しおかしいと思うことはある。しかしそれは女性アナウンサーが決めることではない。そのNHKを批判するためにブラタモリ出身の女性アナウンサーの起用を批判するのはどう考えてもこじつけがましい。こじつけがましいのは、話題に乗って話題を利用して受けを狙い売名につなげようとする魂胆が透けて見えてしまうからだ。そうして女性アナウンサーをあたかも劣ったもののように見たり、NHKを批判して体制批判だと勘違いしたりしているようだけれど、それならNHK以外の民放のニュースや女性アナウンサーをどう見ているのか。語るに落ちるとはこのことだ。

 

 ただニュースの報道姿勢を批判すればいいことを、こういうひねった批判から入るというのは、私には不愉快に思える。彼が立憲民主党だから立憲民主党がすべてそういう人物ばかりなのかと思われかねないぞ。とはいえ想像するに、立憲民主党議員各氏に訊いたら、よく言った、という人間がぞろぞろいるような気はするが。

2024年2月16日 (金)

酒のつまみ

 名古屋へ転勤する少し前に二年ほど新潟地区を担当することになった。前任から出張の拠点にする長岡の飲み屋を教えてもらった。その一軒の小さな居酒屋がお気に入りで、酒が好きで気の置けない得意先の人とよく飲みに行き、相手がいないときは独りで飲みに行った。

 

 日本中の銘酒が一升瓶で並べあり、飲みかけはその一升瓶のままでキープできる。飲み始めれば空けてしまうという剛の者も多い店だった。日本酒好きにはたまらない店だ。店は三十半ばの若い亭主とその妻女だけで切り盛りしていた。店は開いて間がなく、料理が大好きで店を始めたけれど、資金を補填するのに昼間は仕込み以外の時間を大工の手伝いなどをしているのだ、と店主は笑った。

 

 その店を思い出したのは、卓上の電熱ヒーターで樺太シシャモを焼いていたときだ。その店でよく食べたつまみの一つに油揚げにネギと納豆を詰めて焼いたもので、カリカリに焼いてもらったものをショウガ醤油で食べる。香ばしくておいしい。長岡の近くに栃尾という街があって、ここは油揚げが名物である。厚揚げに近いものからよく揚げてあるもの、特大のもの普通のものと千差万別で、店が多いから競争もあってとにかくおいしい。それを使うのだからそのつまみもうまい。

 

 ほかには大根を薄切りにして冷凍庫で一時間ほど冷やし、梅肉を薄くのせて二枚で挟んでシャリシャリするのを食べながら飲む。大根が好くないとうまくない。大根の味の違いがこれほどわかる食べ物はないと思う。それとイカのワタ(肝)をガーゼで包んで味噌床に付け、一日か二日したら取り出して冷凍庫で凍らせる。凍ったやつを食べる直前によく切れる包丁で薄くスライスしたものを食する。凍っているからできることだ。これはみるみるうちに融けていくので、飲みながら素早く食べなければドロドロになってしまう。この世にこれほどうまいつまみがあるか、というほどのものである。

 

 これはスルメイカのワタが一番適する、と店主はいっていた。新鮮なイカがないと作れない。私がのれんをくぐるのを見た店主は、わずかな仕草で今日はそのワタがあるかないかを知らせてくれる。大好きであることをよく承知してくれていた。どれも自分でも造れるような酒のつまみで、ただし、素材の味がすべてを決めるので、それを選ぶ眼力がなければならない。どれももちろん作ったことがあって、それなりに食べられたが、似て非なるものとなった。

 

 いまスーパーには五センチ角くらいの小ぶりの油揚げが売られていて、いかにもネギ納豆を詰めて焼くのに手頃である。卓上の電熱ヒーターで久しぶりにそれを作ってみようと思う。酒は新潟新発田の八海山にしようか。そういえば若い友人から福井の絞りたて原酒が届いたところだ。それと飲み比べも好いなあ。

謝罪のはがき

 一時期迷惑メールの猛攻が続いてうんざりしていたが、最近はごくたまにしか来なくなった。ところが数日前からぽつりぽつりとおかしげなメールがやってくるようになり、気分が悪い。

 

 そんなときにNTTから謝罪のはがきが送られてきた。私の個人情報が漏洩したのだという。氏名、住所、生年月日、メールアドレス、回線IDなどが漏洩したが、クレジット情報や、金融関係決済などの情報は漏洩していないそうだ。しかしそんなことわかったものではない。ただ二次被害が今のところ出ていないというだけのことだろう。

 

 迷惑メールの再増加がこの漏洩に関係していないのかどうか、こちらにはわかりようがない。漏洩したことの責任をどうとるのかこのはがきには記載されていない。何か起こっても、この漏洩との関係をこちらが立証しないといけないような気がする。責任をとらないならただ口だけのことで、再び同じようなことが起こるだろう。責任をとらなければならないとなると、漏洩そのものを隠蔽するかもしれない。

 

 こういうことが繰り返し起きているのに、ちっともなくならないという甘さは一体何なのだろう。「同様の事態を再び発生させないために努力します」という趣旨の挨拶が添えられているが、なぜ起きたのかが書かれていないし、多分わからないようだから、再び起きないようにできるなんて信用できるはずがない。

 

 「二度とこのようなことが起きないように・・・」とか「皆様にご心配とご迷惑をおかけして・・・」という決まり文句を見聞きすると、虫唾が走る。決まり文句を発する人間は大抵責任をとらないものだと相場が決まっている。

 

 そういえば、『北の国から』で菅原文太が「誠意って、なんですかね」と問いかける場面があって、その言葉が強烈に記憶に残っている。

文字の獲得

 文化人類学者の青木保と作家の青野聰の対談本を読み始めた。読みかけが何冊も積まれているのにまた新しい本を開いている。こういうときは本に集中できないときで、また集中できるまではこうして読み散らしながら潮合いを待つしかない。いま読んでいる部分での、文字を獲得したということについての人類の利得と喪失についてのやりとりが面白い。

 

青木 (前略)やはり文字を持つことで、どうも想像力の世界の方が退化するなじゃないかと思う。
青野 そうすると、内的宇宙が豊かだと適応能力に欠けるということはいえるかもしれませんね。(前略の部分を受けている)
(小略)
青木 もちろん文字を持っている方が進歩するんですよね。進歩はするけれども、想像力とか神話の方に伸びていく思考は退化するんじゃないかと考えたわけです。
青野 文字による思考力が妨げるのですね。
青木 そうです。森羅万象いろんなものに、みんな観念があるでしょう。
青野 神とか精霊とか。
青木 そういう観念性が薄らいでいく。文字というのはそれほどがっちりとした世界だと思うんですよね。
青野 説明づけていくし、定義しちゃう。
青木 それから一つの文字が想像力の世界を抑えている。言葉そのものがね。やっぱり話し言葉というのは非常に不正確だからこそ、逆にそこにいろんなことを感じる余地があるけれど、文字化するということは、すでに非常に拘束がある。拘束が強いからこそ、コミュニケーションの手段としては手堅いわけです。その辺が、文学は文字を媒介にして、想像力を逆に強くしようとする働きをもっている。それは、いまの話とはちょっと矛盾するようですが、文学の格闘というのはそういうところにあるんでしょうか。つまり文学は、はじめから文字という人間の感性を拘束するものを使って、想像力を刺激しようとする。その二律背反であるところに、美というか、喚起するものが出てくるんだと思います。

 

 そうだろうな、と思うことがこの後も続けられていく。音楽が、特にジャズなどが文字で形容しにくいことの意味も語られる。芸術全般がそうだろう。だからこその芸術の意味ともいえる。芸術は知識でも情報でもない。生成AIが芸術を創造できると思うのはそれこそ幻想だと思う。できるのは巧妙な模倣の寄せ集めだと思う。

 

 神話が文字の獲得とともに固定化してしまったということは確かなように思う。そのためにそこにあった魂のようなものが現代人には見えなくなっているかもしれない。各民族が持っていた神話は多くが巨大宗教に吸収され変形した。同時に、残った宗教そのものも変形されているが。

 

 私は文字にできない感応というものを信じる。その能力がかすかにでも残っていることをありがたいことだと思っている。

2024年2月15日 (木)

卓上で

 卓上で樺太シシャモ(カペリン)を焼きながら、それをつまみに酒を飲んだ。電熱ヒーター式の一人用の網焼きコンロで、小さな干物など、これで焼きながら飲む。こういうものがあることを弟に教えられた。以前釣り好きの先輩がイカを送ってくれて、一部を付け焼きにするのに活躍して以来、愛用している。焼いて食べるものなら何にでも使える。切り身の焼き魚ならこれでいけるが、鯖の塩焼きなどは、部屋中が鯖の煙と匂いだらけになるのでそれなりの覚悟が必要だ。二三日、匂いは消えない。

 

 鍋物でも、焼き物でも、鉄板焼きでも、いまは一人用のものがあるから、下ごしらえだけ済ませれば、至福の時間が過ごせる。好きなように食べ、好きなように好きなだけ飲み、極楽である。こんなに幸せでいいのかと思うくらいだ。

うれしい電話

 一回りくらい年下の友人が三人ほどいて、そういう友人がいることがとてもうれしい。付き合うのが面倒くさければ向こうから離れていくのは仕方がないと思うけれど、まだ現役でいそがしいのにわざわざ連絡して会いに来てくれたりする。その一人から電話をもらった。

 

 久しぶりの互いの消息を語り合い、共通の友人の話などをした。彼も私のブログを見ているらしいから、こちらの様子は承知している。それでも顔を見て話したい。時々は名古屋に寄ることもあるということなので、会えるようなら声をかけてもらう約束をした。私なりに会って好かったと思えるように内容のある生き方をしなければ、とあらためて思った。彼もしみじみと言っていたけれど、会えるときに親しい人と会う、ということの大事さを忘れないようにしようと私も思った。兄弟だって子供たちとだって、これから何回会えるかわからないのだから。

良いこともある

 パソコンが壊れ、新しくした。ネットが遅いのでルーターを新調した。どちらも出費がこたえたが、出費に見合うだけの効果もあった。日本語ソフトも最新のものに換えたら誤変換が大分減って、ストレスも少なくなった。プリンターのWifi設定を変えるのを忘れていたので慌てて設定し直した。私はハードコピーしたものを読まないと、書いてあることが頭に伝わりにくい。パソコンの画面だけだと二度三度読まないといけないし、ほとんどが頭を素通りしてしまう。印刷物を読んで考えるという長年の習慣から抜け出ることができない。プリンターは必需品である。よくプリントアウトする。紙は裏表使う。

 

 AVアンプのWifi設定がうまくできない。無線LANにすると受け付けてくれたり受け付けなかったりして、しかもスイッチを入れ替えるたびに設定し直さないといけない。古いアンプなので何かが邪魔しているようだ。試しに有線LANにしたら当たり前だがスムーズにつながる。ただLANケーブルが邪魔である。何が問題なのか探査中。

 

 娘に買ってもらった電気ケトルが壊れた。中を見ようとしたが、ネジが特殊で開けることができない。お茶や紅茶を飲むのになければ困る。仕方がないので買い換えた。早く沸くようになった気がする。安いものでささやかとはいえまた出費である。

 

 昨日、眼科で視力検査を受けた。両目とも視力1.2。しかもいま手持ちのめがねでほぼ最適な視力が得られているという。めがねを新調しなければならないと覚悟していたけれど、このままで問題ないという。出費を覚悟していたのにしなくてよくなった。良いこともある。

2024年2月14日 (水)

反省するかさせられるか

 小学校の四年生くらいの頃だったと思うが、クラスに自閉症の女の子が転校してきたことがある。普通の転校生のつもりでいろいろ話しかけたら、目を見開いて唇を震わせ、涙をポロリとこぼした。自閉症の人はそういうときの対応がとっさにできなくて混乱して苦痛を感じるのだ。驚いて、どうして泣くのだ、と強く言ったらさらに涙がこぼれた。そのときは自閉症ということについて知らなかったし、そのような注意も先生から聞いていたような記憶がない。そもそもその教師は少し鈍感なところのある教師で、私もいやな思いをさせられた記憶があるが、多分悪気はなかったのだろうと今ならわかる。

 

 私はこれはだめだ、と思ったけれど、別の子にしつこい子がいて、泣けば泣くほど嫌がらせをしているのを見て、不快に思った。けれど、止めなかった。二三ヶ月でその子はクラスからいなくなった。別に事情もあったのかもしれないが、耐えられなかったのだろうと思う。今でもそのことを思い出すのは、そのときの自分自身がいやな自分だった気がするからで、もっと優しくできたはずなのにと悔やまれる。いじめたつもりは毛頭なくても、彼女にとってはいじめだったのではないかと、繰り返し思い出しては反省し続けて、忘れることができない。

 

 こちらに悪意がなくても、相手が苦しんだのが見えたらそのことに後悔があるのがまともで、そこに反省する気持ちも起こる。同時に人というのは、事故など、自分が悪い結果を生んだときには、それについて必死で言い訳を考えるのものでもある。自分は悪くないと思いたいものである。そうしてその結果に直面したくないから隠蔽したり逃避したりする。実際に隠したり逃げたりしない人でも、なんとかならないかと思わない者はないだろう。

 

 そこで自己正当化のあまりに巧みな人は、相手が悪い社会が悪い、という論理で自分の責任を引き受けない。本気でそう思うから反省もない。何しろ自分は悪くないのだから。反省する人は反省するが、反省できない人がいて、ではその人に反省させるにはどうしたらよいのか。反省せざるを得ないように社会的な罰則というものがあって、その罰則が反省させることにつながるはずなのだが、どうもそれがそうではないことが多いようだ。

 

 だからこその社会的な制裁という名のネットでの非難につながっているようで、しかもそれが正義の名の下に行われ、それが相手を苦しめても反省がなくて、それを反省させるためには・・・。

ぼんやりは危険

 認知症への道にはいくつかの道があり、その一つがぼんやりとテレビを見続ける、というのがあって・・・という記事を見て、自分のことかと思った。気持ちには浮き沈みがあるもので、テンションの高い状態があれば、その分低いときもある。

 

 どうもこの頃テンションの高い状態のときがどんどん短くなり、低いとき、つまりぼんやりしている時間が多くなっている。意識してテンションを上げると疲れ方が大きくなっていて、その反動が大きいようだ。エネルギー容量が低下しているということのようで、それが認知症への道、ということなのだろう。

 

 頭で考えるだけのことが多すぎるのかもしれない。エネルギー容量を維持するにはもう少し体を動かすこと、出かけることを心がけたらいいのかもしれない。幸いもうすぐ暖かくなる。散歩、小旅行にいい季節がやってくる。体を動かそう、書を置いて出かけよう。

 

 本日は午後から眼科検診。いまちょっと目の調子が悪い。酷使しているという自覚はある。

受け狙い

 「やったふり」だの「スリーアウト」だの、新聞や週刊誌の見出しに使われることを意識したような言葉を野党の面々が発している。私にはどうしても受け狙いと感じられてしまう。古くは「疑惑のデパート」なんてのもあったなあ。辻元清美も結構正論だなあと思わせる分析をするところがあるのに、そういう受け狙いの言葉ばかりが目立つところが残念な気がする。野党はマスコミに属するようになったのか、とっくの昔から属していたのか。たまにわさびのきいた一発、というのも効果的ではあるが、多用されると不真面目に見えてしまう。

 

 立憲民主党の泉代表は、政権交代を目指す、と公言したけれど、評論家の誰かが、野党は本気で政権交代をしようとしているように見えないと苦言を呈していた。本気なら、批判非難とともに、政権交代したら自分たちは様々な政治課題についてこう考える、こうする、という具体的な表明があってしかるべきだが、それが見えないというのだ。全く同感である。自民党が下野した前回の政権交代の時には、野党はマニフェストとやらいうものを曲がりなりにも提示して見せていた。

 

 相手をたたき落とせばひとりでに政権が転がり込む、と考えているのだろうか。もしかしたら国民の怒りをあおり続ければそういうこともあるかもしれない。しかし転がり込んだ政権を維持できる能力があるのかどうか、危うい気がする。そう思ってくれている人たちがいるから大丈夫、と自民党は高をくくっているのだろうか。そういう人たちもあきれて前回同様に、お灸を据えるしかないと思い始めているかもしれない、と思わないのだろうか。どうも岸田首相にはそういう危機感が感じられない。一体どうなるのだろう。

2024年2月13日 (火)

残念なもの

 なくすはずがないのに探してもないものがたくさんあるが、特に残念なものがある。アンブローズ・ビアスの全集(たしか箱入りの五巻本)、グレアム・グリーンやロアルド・ダールのアンソロジー、河出書房版の世界文学全集の中の『風と共に去りぬ』(箱入り二巻本)など、大事にとっていたはずなのに実家を探しても自分の蔵書の山をかき分けて探してもどこにも見当たらない。大事な本だったから誰かに貸したとも思えないが忘れているのだろうか。

 

 それとアメリカ旅行に行ったときのフィルムが探しても見つからない。十本くらい撮ったはずだか、わずかに数十駒分のフィルムだけが見つかっただけである。ヨセミテ国立公園で撮った写真など、そこそこよく撮れていたはずなのに見つからないのは残念である。ほかにも記憶にあるのに見つからない写真がいろいろある。だらしがないからそういうことになるのだ、と母にあの世から笑われそうである。若い頃は何度か引っ越ししたので、そういうときに何かに紛れて失われたのだろうか。

 

 ビアスの傑作『アウル・クリーク橋の一事件』(『アウル・クリーク橋の出来事』と訳したものもある)など、今も全編の光景が頭に鮮明に記憶されている。手に入れようと思えば手に入るけれど、自分が大事にしていた本だからほしいので、あの全集をもう一度開きたい。

失敗の後始末

 見たくないのだけれど、民放各社のバラエティニュースが自民党の裏金問題を繰り返し報じるので、つい見てしまう。野党がうれしそうに騒いでいるのは、野党にはあまり金が流れ込まなかったから自分が潔白なのを喜んでいるだけで、もしたくさん金が集まれば果たして身ぎれいだったかどうかわかったものではない、などと思ってしまう。

 

 こういう問題は、発覚した後にそれをどう処理するのかが大事なことは言うまでもないことで、なかったことにしようとしたり、うやむやにしてほとぼりが冷めるのを待つ、などというのは最悪の対処で、その最悪の対処を自民党はしているように見える。元々旧統一境界問題で不信をもたれながらうやむやにしてきた経緯があるのだから、それに上塗りされたらさすがに国民も怒りが膨らんでいくことになる。それを見越しての民放各社の繰り返しの報道なのだろうと思う。

 

 岸田政権の危機感のなさは驚くほどで、どうしていいかわからなくてうろたえているだけなのか、国民を馬鹿にしているのかどちらか、いや両方なのだろう。彼にどうしたらよいかアドバイスする人が誰もいないのだろうか。政治評論家もさすがの醜態に唖然としているようで、普段擁護する人も擁護することができずにあきれ果てているようだ。

 

 こうなるとなるようになるしかないかもしれない。あの悪夢が再び繰り返されるかもしれない。それは政治家の問題であるとともに日本の国民そのものの問題なのだと、偉そうにいう私だってその国民であるからその責任をともに負うしかない。せっかく日本が多少は持ち直しかけたのを再び凋落させた、と岸田首相は後世に名を残すだろう。こういうときは最善を待つのではなく、とにかく今よりマシ、をまず選んで凋落に歯止めをかけるしかないと思うのだが・・・。立てば必ずたたかれるときではあるが、火中の栗を拾う人物はいないのか。

『アフターサン』

 『アフターサン』は2022年のイギリス・アメリカ映画。説明らしい説明がほとんどなく、ただ父と11歳の娘がリゾート地で夏の休暇を過ごしている映像が映し出されていく。わずかにその娘が大人になってから、その映像を見ているらしい、ということはなんとなくわかるが、その後父親がどうなったのか、その娘のその後の人生がどうだったのかについては想像するしかない。

 

 最初はホームビデオ風の映像だけが流れることに不思議な感じを抱くが、次第にそれぞれが何を感じ、何を考えているのか、それを自分の気持ちとしてみていることに気がつく。11歳という微妙な少女の揺れ動く気持ち、それを優しく見ている父親という図式の中に、父親の何か放心したような、思い詰めたような、寂しいような気持ちがじんわりと伝わってくる。母親が出てこないのは、すでに離婚または別居していて、娘は普段は母親と暮らしていて、今回の二人の休暇は互いに貴重なものであることは会話の中でわかるが、二人はそのことを深く突き詰めない。

 

 私の想像では、二度とこの父と娘はこのような時間が持てなかったのではないかと思う。それこそ父は行方不明になるか、ただ疎遠になったか、死んでしまったかしたような気配を感じるのである。しかしそれをこの映画では全く説明しない。いや、そう思わせるような、夜の海に向かって歩いて行く父親のわずかなシーンがあることはあった。不思議な余韻の残る映画だった。

 

 そういえば私も娘とそのような不思議な時間を持ったことがあるような気もする。娘はどうだろうか。かけがえがない時間とはそういうものなのかと思う。

2024年2月12日 (月)

多様性と差別

 多様性が前提の社会と差別は強く関係していると思う。アメリカ社会などは特にそうだろうと思う。しかしそれに比べれば遙かに均一な社会では、あえて多様性を求めようとするとわずかな差異を誇張することになり、結果的にそのわずかな差を差別として騒ぎ立てることになる。差別のないところに差別を作り出していることがしばしばあるような気がする。あまりよその国のまねをしてもいいことはないのではないか。

 

 それより均質であることの利点を生かし、分断しないことの幸せを享受する方がいい。そうしてそこから違いのあるものを少しずつ受け入れていけばいいのではないか。宗教だけではなく、日本はそういう意味で寛容な国だと思っていたのに、近頃は寛容の精神を失いつつあるようなのが残念だ。

責任の不在と匿名

 自分の意見や考えを他者に表明するときは、自分が誰であるのか明らかにするのが社会的にあるべきこと、ルールだと思う。そう思うけれど、私は匿名でブログを書いている。それは現在の社会がその人の意見をその人の意見として受け入れるという寛容を失って、自分との意見の違い、自分の正義感を元に激しく非難することが常態化しているからだ。批判するのは正義に根ざしているから正しい行為だと思い込んでいる人のなんと多いことか。人を傷つけてもそんなのは自業自得だとうそぶき、快感すら感じているらしい。

 

 そんな時代に自分の考えを実名で公言しても、標的とされればわずかな瑕瑾をついてボロボロにされてしまう。この世に完璧に正しいことなどないのだから、ケチ、いちゃもんをつけようと思えば言葉尻を捉えて批判するのは簡単だ。多くは匿名で、しかも人の尻馬に乗って行動する。匿名でないときは多くが売名行為に見えて、まともなものは一握り、というのが悲しい現実だ。

 

 責任ある言動は記名で発するのが正しい。だから自分のブログは匿名だから無責任であると非難されても仕方がない。私は打たれ弱いから、正義の批判に激しく動揺するだろう。だから臆病に自分の考えたことを当たらず障らずの書き方で書く。それにどんなことでも、そのことを当事者ではない自分が責任を持って発言するほど知っているわけではない。だからその時点でそこから見えたことから感じたことを記すのみだ。事実が後で変更になれば、もちろん見方考え方が変わるのも当然あり得る。

 

 しかし考えること、それを文章にすることは自分がこの世に興味を持ち、つながりを持つ手がかりなので、今のところやめるつもりはない。それにしてもあまりにも中傷誹謗の話が多くてうんざりしている。そういう人は大勢いると思う。匿名と犯罪、その暴力性についてもっと真剣に対処を考えないと、社会不安の元になるような気がしている。

 こうして書いた文章だって、非難しようとすればいくらでもケチのつけようがある。私ならこう非難する、というアイデアの二つや三つ、すぐ思い浮かぶ。幸い読む人はそれほど多くないから、悪意(私にとって)の人はたまにしかいないのが幸いだ。

血みどろ

 夜中に悪夢を見て目が覚めた。でもどんな夢だったかよく覚えていない。昨晩寝る前に『オオカミ狩り』という2022年の韓国映画を見たのがよくなかった。いわゆるスプラッター映画(血まみれ映画)で、出だしはともかく、人が泥人形が破壊されるみたいに次々に惨殺されて、画面が血みどろである。最初は凶悪犯の集団による殺戮だったのが、途中から旧日本軍に改造人間にされた超人(韓国人)まで現れて、今度は凶悪犯たちが文字通り破壊されていく。もうぐちゃぐちゃである。

 

 さらにその超人を超えた超人とそれに対抗する超人も現れて何が何だかわからない。旧日本軍が中国で人体実験をしたことは旧知の事実(ただし改造人間を作ったという話は聞いたことがない)なので、それを下敷きにしているのだろうが、さらにその技術を改良発展させた韓国の製薬会社だかなんだかがあるようで、そこから次々に生み出された超人がいるらしい。たぶん『バイオハザード』を意識しているのだろう。あれもある意味でスプラッター映画といえないことはない。こんなことでは地上の一般人間は皆殺しにされてしまう。大変だ。

 

 韓国映画の残酷描写はエスカレートしつくして、他の追随を許さないところまで来ているが、それも見る方がだんだん鈍感になっているからに違いない。映画の世界でだけならいいが、現実世界でも鈍感になる切れた人間が一万人に一人いてもおそろしい。そろそろ大概にしておかなければならない気がする。夜中に目が覚めたのはそういう夢を無意識が浄化しようとしたことによるのかもしれない。私はまだ健全だ・・・と思いたい。

2024年2月11日 (日)

WiFiルーターの交換と設定

 昼過ぎに、注文していたWiFiルーターが配達されたので、まず設定のマニュアルを精読した。いい加減に取り付けて、後で不注意な間違いに気づくことが多い。性能がちゃんと生かされなかったり、つながらなかったりする。急がば回れ、である。

 

 手順通りにいろいろな機器のスイッチを切ったり入れたりしてルーターを交換し、新しい設定でつないだ。デスクトップ、古いパソコン、新しいパソコン、スマホ、そしてAVアンプの接続を新しくした。珍しくスムーズに進んだのに、どういうわけかAVアンプだけ接続ができない。何が悪いのかもよくわからない。そこでAVアンプの現在の接続を無効にしてから電源を抜いて、リセットした。スイッチを切るだけではリセットされないのだ。そうしてやり直したら今度はうまくいった。

 

 LANで一番遅くてイライラするのがNASとのやりとりで、まずそれが改善されているのか確かめた。劇的に、というほどでもないが、かなり早くやりとりできるようになった。5Gの機器はすべて5Gに切り替わった。私にしては珍しくそれほど時間もかからずにルーターの交換が終了した。これからさらにいろいろ試してみることにする。これでネットストリーミングなどが一層快適に使えるだろう。

口内炎

 時々口の中を噛む。肥満がひどかったときは睡眠時無呼吸症候群で、一時的に呼吸が止まり、それが苦しくて(自分を目覚めさせるために)口の中を無意識に噛むことがあったが、もしかしてこのところ飲み過ぎることが増えて、体重もいささかリバウンドしたから、無呼吸症候群が再発したのだろうか。一昨日の晩に噛んだ頬の裏側が口内炎になった。口内炎というのは不快なものである。刺激の強いものや熱いものも痛みをもたらす。以前歯医者にもらった塗り薬があるが、一年くらい前のものだから使っていいやら悪いやら、迷っている。痛みがひどくなって治りそうもなかったら使うことにする。

 

 弟が数日滞在し、すぐその後に息子夫婦が来て、来てくれてうれしいからつい飲み過ぎてしまった。テンションが上がって平常心を失ってしまうのだ。その反動で今はテンションが低下して、何かをする意欲がわきにくい。祭りの後の寂しさもあり、当たり前に、つまりルーティンにしていたことが面倒である。こういうときは少し出かけて気晴らしするといいのだが、わかっていてもおっくうだ。

 

 先日の蔵開きのときに、何人かの方々に新酒を送った。汲み立ての原酒を密栓したもので、当日飲んだ気分のお裾分けである。ついたよ、という連絡が次々にあって、とてもうれしい。ただ、兄貴分の人はもう今回限りにしてくれという。大病をして、それは回復はしているけれど、ドクターストップもあり、奥様と愛娘からも飲むのを厳しく制限されている気配もある。互いに残念だが仕方がない。しばらくぶりに挨拶に行きたいのにまだかなわない。別の先輩は、違う先輩と連れ立って三月に名古屋へ行くからよろしくとのこと。ありがたいことである。会うのが楽しみだ。

三年で3500万円

 自民党の二階氏が三年間で3500万円の書籍代を収支報告書とかに記載したといって騒ぎになっている。一年間に十冊ですら本を読まない人には信じられないことであろうから騒ぎになる。ロバート・キャンベル氏も述べていたらしいが、新刊書だったらとんでもない冊数になり、置くところに困るだろう。ちょっとだけ本好きの私も気がつくと本を買ってしまって経済的に負担だし、何より本の置き場に困るからよくわかる。

 

 何より買いすぎれば読み切れない。買って飾るのが趣味か、それともせっせとブックオフに売りさばいているのだろうか。電子書籍を買ったのだ、それなら場所に困らない、というご親切な推察をいう人もいる。なるほど、それでは飾っておくことはできないから読むしかないので、それこそ寝る間がなかろうと心配になる。

 

 ただ、本の値段というのはわからないもので、古典籍や稀覯本など、特別な本はそれこそとんでもない値段がついていることがある。そういうものなら場合によって何百万円何千万円という本もある。それなら趣味と実益を兼ねて金を注ぎ込むことも可能だ。是非参考のために公表してもらいたいものだ。

 

 見た目だけでいうのはよくないと承知していても、そもそもお近づきになれない人だからあえて見た目でいえば、二階氏がどうしてあんなに力があるのか私には理解できない。中国政府筋にも人気があるらしいのも不思議だ。とても魅力的なお土産を用意して人に会うのだろうなあ、などと想像してしまう。まさか書籍を持参しているのではないだろうと思う。何しろ本は重いから。

2024年2月10日 (土)

最新の一太郎

 新しいパソコンの設定はすでに完了しているが、私が常用している日本語ソフトがまだ入っていないから、ブログは古いパソコンで書いてきた。最新の一太郎は昨日二月九日が新発売で、予約注文(割引がある)してあったが、昨晩配達されたところである。今朝は昨日の酒が残っていたのでそれが醒めるのを待ち、新しいパソコンにインストールした。このソフトは三台までインストールできるので、古いものもこれに換える予定である。試しに文章を打ち込んでみると、以前のものよりも誤変換が明らかに少なくなっているようなのでほっとした。ただ、最新の辞書、ATOKは一年ごとの契約更新が必要である。その都度費用が必要だが、代わりに一太郎のソフト代は安い。そして誤変換があれば自動的に申告できるシステムもあって、次の辞書更新に反映されるという。

 

 次はネットワークの更新、古くなったルーターを新しいものに換える予定で、いろいろ調べた上、自分の必要の範囲でなるべく高速のものを選定して発注した。思ったより高くない。これでNASにためてある写真や音楽ソフトが高速で読み書きできるようになれば、それぞれのパソコンには写真のデータを入れておかなくてすむ。どれだけ早くなるのか楽しみだ。期待外れでなければよいのだが。明日配達される予定なので、すべての機器のLANの設定を変更しなければならない。うまくできるかなあ。

フリーズを

 役所の窓口で係の人から、「こんな書類が送られているはずですが、それが必要だと書かれていませんでしたか、あれは持ってきましたか」、などといわれて、お年寄りが、「忘れた、なくした、わからない」、とくりかえし、ついには返答に窮してフリーズ状態になっているのを見た。

 

 フリーズをして立ち竦む高齢者
    やがて我が身か他人事でなし

 

などという下手くそな狂歌が思い浮かんだ。

 

 まだまだしっかりしなければ、独り暮らしでは誰も手助けしてくれないのだ。

 

 昨日、息子夫婦が広島からやってきた。正月に来られなかったので遅ればせの、わざわざの年始の挨拶である。顔を見ればうれしい。つまみとちょっとした料理を用意して歓談した。用意した酒と息子持参の酒をほぼ飲み尽くした。二人とも若いからせっせと食べてくれる。おいしいと言われればこちらもうれしい。あっという間に料理がほとんどなくなった。追加で作るものを考えていたけれど、酔ってもう作る気にならない。おなかいっぱい、などと言ってくれたけれど、多分物足らなかっただろう。今日名古屋を見物して広島に帰る。二人は夫婦が板について、仲が良さそうで結構なことである。

2024年2月 9日 (金)

少子化対策

 地方の過疎化と少子化は連動しているのだろうか。過疎化している地区には若者が少ないのだから少子化するのはとうぜんともいえる。それでも地方によっては少子化対策が功を奏して、人口減少の進行が減速しているところもあるというニュースを今朝のニュースで見た。それを参考に、とるべき手をほかの地方も取ることが必要だろう。

 

 それにしても予算が高齢者だけに重く使われているのが現在の社会の、とくに地方での実情である。少子化に予算を向けるためには高齢者向けのものを少し削って振り向けるか、収入増を計るしか方法はない。それが果たしてできるかどうか。

 

 そもそも若者の価値観が子どもを産み育てることにインセンティブ(意欲刺激 雑に言えば見返り)を感じなくなってしまっていることこそが問題であることを以前このブログに書いた。そうしていまの若者に新たに価値観の転換を刷り込むのはほとんど絶望的であることは、少子化対策があまり成果がないことでも分かる。

 

 すでに価値観ができあがった若者に考え直してもらうのが困難なら、まだそのような価値観を持たない子供に子供を持つことの喜びを教えることが有効ではないか、などとニュースを見ながら考えた。迂遠であるが、子供は現に子供であることで、自分の価値を重要であると教えられるわけだから、それが不快であるはずがない。もうそれくらいしか真に抜本的で有効な少子化対策はないのではないか。

 

 その子供たちが大人になるころにはいまの高齢者の多くは退場して、新しい高齢者はずいぶん減少しているから世界は少しいまとは違うのではないか。いまを何とかしたいがための少子化対策など、損得基準の発想で、それがそもそも子供を生むことを損か得かの問題にしてしまう。そうでない迂遠に見える方法こそがあるべき対策のような気がする。じいさん婆さんのための少子化対策など薄汚い。

ルーターに悩む

 私のマンションは築四十年を超えていて、いちおう光回線は使えるようになっているけれど、各戸別になって居らず、速度に限界がある。改善のため、最近戸別回線が入れられるようになったが、申し込みして工事が必要であり、さらに月々追加料金がかかる。自分の必要性がどこまでか考慮すると、その工事をすべきかどうかがよくわからない。

 

 遅いことで悩むほどのハードな使い方をしていないつもりだが、もっと早くならないかと調べていて、不満なのは回線の問題よりもLANのスピードの問題だということに気がついた。NASに溜めてある写真データなどとのとのやりとりが遅いのが一番のストレスである。いま使っているルーターはもう七八年かそれ以上むかしのもので、それがボトルネックになっているらしい。

 

 それならそれを新しくしようと思っているときに、ドコモのホームルーターという製品の案内を見た。これはマンションの光回線を使わずに、ドコモのWIFIを使って5Gで通信が可能だ。以前モバイルルーターを使っていたことがあり、その利便性はよく承知している。装置をコンセントに差し込むだけで工事は不用。そしてわが家はその5Gが使えるエリアにある。それなら現在の光回線並みかそれ以上が期待できて、しかもLANも劇的に改善されるのではないか。同じ金を使うならそれも選択肢であるが、装置が案外高価で、しかも月々の追加料金もかかる。

 

 金銭的に安く済むのは単純にルーターを新しくすることである。それぞれの特質がよくわからないので、いま、さらに調べているところだ。こんなことを悩むのは、パソコンを新しくしたので、それを生かしたいという気持があるからだ。といっても自分の必要よりもオーバースペックにしても意味が無い。もう少し勉強しなければ・・・。それがちょっと面倒ではあるがおもしろい。

 

 今日、午後から息子夫婦が広島からやってくる。その仕度をしなければ。

民主主義と社会の不安定

 民主主義が成り立つためには、一定の数の成熟した市民が存在する必要があるようだ。一定数とは大多数ではない。成熟した市民とは、社会と自分との関係を理解し、自分の社会的な役割を引き受けることをとうぜんと考える人のことだ。そういう人はそれほど多数ではなくても、必要な割合い存在することで社会を維持することができる。

 

 ベルリンの壁が崩壊したあとの東ヨーロッパで、民主化が成功した国と混乱して分裂したり、再び強権者による支配に戻ったりした国があったが、その違いはどこから来るのだろう。アラブの春で民主化の嵐が渦巻いたあとの北アフリカの国々の、どの国が民主化を達成できて、どの国が達成できなかったのだろう。どうして中国は天安門事件で民主化することができなかったのだろう。

 

 民主化運動は必ず社会の混乱をともなうように見えてしまうのはなぜなのだろう。日本や西欧の民主化された国とどこが違うのだろうか。

 

 民主主義の国のはずのアメリカがどうして分断が進んで、選挙で選ばれた大統領が敗退者から不正だと非難されるのだろう。選挙を否定して民主主義が成り立つのか。

 

 成熟した市民の割合がもともとない国には民主主義は成立し得ない。アメリカが民主主義を高らかにうたって世界に広めようとしたけれど、しばしば失敗するのはそういう理由だろう。いまやアメリカ自身が危ういことになっているようにさえ見える。

 

 独裁者とまでは言わなくても、ときに強権者が国を統治しないと社会が混乱して国民が不幸になってしまう国が世界中に溢れているように見える。その強権者が打ち倒されたあとは、それ以前よりたいてい混乱がひどくなるのを繰り返し見せられた。何だか民主主義という夢を見せられ続けたけれど、ほんとうにそれは目指すべきものなのだろうか。

 

 まず成熟した市民の育成が先であるように思うが、現代は損得が先立つ価値観の世界だから、成熟した市民、つまり大人はどんどん減っているのではないか。あながち習近平を批判ばかりもしていられない気もしてきた。少子高齢化と言うけれど、人間は増えすぎたのかも知れない。

2024年2月 8日 (木)

バタバタする

 入院している妻の医療費補助延長のための書類を申請してあったのだが、なかなか連絡が無い。従来のものはすでに期限切れになってしまったので、やきもきしていたら、ようやく市役所に取りに来るようにとの封書が届いた。明日息子夫婦が来るからいろいろ掃除をしたり買い出しをしたり準備したかったのに、そういうときに重なるからバタバタした。実はほかにも二つ用事が重なったので、午前中から書類作成や、手紙を出したりと忙しかった。

 

 市役所の窓口で用意した書類などを出したら、受け付けた若い男が要領を得ない応対で、腹が立った。頻りに隣で別の人と応対している女性にたすけを求めている。二月に新人、と云うはずもなく、ただの無能な若者らしい。用事が済んだ女性が応対してくれたが、ほとんど舌打ちしかねない目付きでその男を見ていた。判らないならその女性がすることを横で見て勉強すれば良いのに、席に座ってぼんやりしている。だからこいつはダメだな、と私は感じた。

 

 玉突きで、別の窓口にも用事もできて、そちらの用も片付ける。これでめでたく医療補助の関係書類はすべて整ったので安心した。窓口の女性に、妻のマイナンバーカードの作り方を教えてもらおうとしたら、それなら専門の詳しいものを寄越しますから、といわれて待つことしばし、こちらの状況を簡単に聞いてから必要な手順を書いたものを渡して、説明してくれた。本人の代わりに私が何をすればいいのか、面倒ではあるがやりようがあることが分かった。まずとにかく本人の写真が必要である。次回の面談で写真をとらせてもらえるかどうかが問題だが、何とかしなければならない。

 

 できないことは仕方がないが、やりようがあるなら面倒でもやるしかないということだ。

 

 まだまだ本日の用事は残っている。

どうなっていくのだろう

 六十歳で定年退職したとき、十分とはいえないもののそれなりの貯えを用意していた。年金だけで生活できるはずもないからその貯えから月々切り崩していくことになる。最初の十年で三分の一以上の貯えを費った。そのペースだと八十何歳かで貯えは底をつく。いまは半分以下になった。それをどう考えるか。まだそれなりにあるからまだ大丈夫と思うか、たいへんだ、これしか残っていない、何かあったらどうしようと思うか。

 

 同じ状況を、捉え方、考え方で楽観的になったり悲観的になったりする。

 

 いまの中国をどう見るのか。不動産のバブル崩壊はどうも確からしい。それによる中国のこれからをどう見るのか。中国自身は現状に問題は無く、順調にコロナ禍からの回復が進んでいる、と伝えている。不動産バブル対策もそれなりに対処しているつもりに見える。しかし欧米や日本では中国はピークを過ぎて衰退に向かっているという見方をするところが多い。さらに深刻に捉えて中国経済破綻、社会不安増大を予測するものもいる。

 

 中国の政府筋が「中国破綻論は何度も破綻している」などと述べたらしいが、今回こそは破綻するのではないかと、覇権主義的ないまの中国習近平政権に対して脅威を感じている人たちは期待する。

 

 これから中国はどうなっていくのだろうか。私も「期待」する一人として中国に注目している。

2024年2月 7日 (水)

頭の働きが弱っているときは

 このところスイッチの入っている時間が少なくて、それ以外はぼんやり・・・というか呆然としている。つまり頭の働きが弱っていて、集中して考えることができていないのだ。そういうときは、昔なら漫画を読んだり写真集や画集を開いたりしていた。いまは漫画はアニメ映画以外は観ないから、ゲームをしたリアクション映画を観たりする。

 

 『キング・オブ・キラーズ』という2023年のアメリカ・カナダ映画を観た。娘のために暗殺者同士の生き残りをかけたコンペティションに参加した主人公の闘いが描かれる。ストーリーはどうでもいいのだ。ただひたすらその殺し合いをプロレスでも観るように眺めている。殴られたり刺されたり撃たれたりの痛みはあたりまえだが感じない。それでもなんとなく気持にさざ波が立ち、刺激を受けて面白いと感じる。こういうバイオレンスを快感として感じるのも不健康なような、しかし怒りの感情の緩和につながるようなそんな気がしている。

 

 しかし殺し屋というのはみんな頑丈だなあ。

落ちこんではいけない穴

 野ツボに落ちる、などという最悪の穴への落ち込みはともかく、人生行路には落ちこむと災厄をもたらす穴がいくつも待ち受けているものらしい。陥穽へのやむを得ざる転落ということもむかしはあったのだろうが、今はそういうことはめったにない。不注意による転落がほとんどだ。

 

 太宰治の晩年の短篇をいくつか読んでいて、太宰はそういう落ちこんではいけない穴に自ら落ちこんだように思えた。這い上がろうともがくというより、穴の底でのたうちまわっているかのようだ。その穴の底にはさらに深淵へ開いた大きな穴があって、のたうちまわりながらその穴を覗きこんでいるように見えた。

 

 晩年、といったって彼が死んだのは1948年で、生まれたのが1908年だから四十前である。戦後脚光を浴び始めたばかりのころのことで、いま読んでいる短篇はその頃に書かれたものだ。破滅型、などと称されるのは、彼が自らその落ちこんではいけない穴にはまり込んで小説を書いたということだろうか。文学が、人生の深淵を覗きこんだところからしか書けないということなのだろうか。それを命がけの格闘というのだろうか。

 

 私は臆病で、人並み以上に穴に落ちないように注意して生きてきた人間だ。そういうものが少しつらくて、太宰の『斜陽』や『人間失格』を読むのを回避してきた気がする。

副作用だと思う

 薬がよく効く体質だと思う。だから病院で処方された薬はその効果を発揮して、年齢のわりにはいちおう元気でいられるのだと考えている。もちろん元気いっぱいでそもそもクスリと縁の無いお年よりは多い。羨ましいけれど元気である点は同じであるからそれでよしとしている。先日の蔵開きに集まった歳上、同年、やや歳下の仲間との会話では身体の調子についての話が多くなった。そういう年齢になった。

 

 その蔵開きで飲みすぎたせいか、下肢部がむくんでしまった。太りすぎていたころはしばしばそういう状態になったが、体重を落としてからはあまりむくむことはなかった。むくむ理由について思い当たることがある。飲みすぎて胃腸の調子が悪くなったから、胃腸薬を飲んだ。むかしから胃腸薬を飲むと足がむくむのである。身体の水の代謝が悪くなる。飲みすぎてむくんだのか、胃腸薬の副作用でむくんだのか。私は副作用ではないかと思う。

 

 胃腸の不調はすでにないし、とうぜん胃腸薬も服用していないから、次第にむくみはひきだしているが、期待よりゆっくりである。どうも薬が効きすぎる。

2024年2月 6日 (火)

『崖上のスパイ』

 映画『崖上のスパイ』は2021年の中国映画。監督と脚本はあのチャン・イーモウ。1934年の満州が舞台のスパイ映画で、ソ連から極秘任務で極寒の満州に送り込まれた四人のスパイの任務遂行の苦難を描く。

 

 すでに受け入れ側の裏切りによって、四人が送り込まれたことは特務機関によって察知されており、敵中に飛び込む形になった四人が知力を尽くして危難を乗り越えていく。虚々実々の駆け引きのなか、密かに彼らをバックアップする大物スパイがいた。

 

 その任務とはどんなものか、どういう手段が執られるのか、見ているうちに次第にわかるのだが、特務機関もすべてを疑ってかかるので、ハラハラどきどきの連続と云う事になる。駆け引きが多い分、ところどころ展開について行ききれずに分かりにくいところもあるが、おおむねおもしろかった。さすがチャン・イーモウである、映像が美しい。

太宰治『お伽草子』

 先般、太宰治の『津軽』と『惜別』を読んだ。それぞれちくま文庫の太宰治全集の第七巻に収められている。もうひとつ収められているのがこの『お伽草子』である。これでこの巻は読了。

 

 『お伽草子』は、『瘤取り』、『浦島さん』、『カチカチ山』、『舌切雀』の四篇からなる。それぞれ独特の太宰流の皮肉、世界観が毒気たっぷりに籠められていて、それがとても面白い。『舌切雀』の書き出しには、もう一篇『桃太郎』を書くつもりだった、書くとしたらこんな物語にしたいけれど、非力な自分には人口に膾炙しすぎたこの物語をそのように書くことは不可能だ、などと如何にも謙遜ふうに、しかし言いたいことはすべて言ってのけて済ましている。

 

 実は私が生まれて初めて太宰治を読んだのがこの『お伽草子』と『富岳百景』だった。『走れメロス』はなんと大学生になってからである。そして前にも書いたように、代表作の『斜陽』とか『人間失格』は未読なのである。手許に新しく第九巻を引っ張り出してある。そこに『斜陽』と『人間失格』その他短篇の多くが収められているので、これからボチボチ読もうと思う。

 

 ところでこの『お伽草子』のシニカルさは私の好むところであり、久しぶりに読んで実におもしろかった。ちょっと太宰の小賢しさがほの見えるところは好みの分かれるところだろう。これを照れから来ると思うか、スノッブによるものか、どう受けとるかによるのだろう。

2024年2月 5日 (月)

雨だから

 朝一番に歯医者の予約があった。行くときはまだ降り始めていなかったが、帰りには降られた。東京と違ってこちらは終日雨のようだ。数日弟が滞在していたので少し余分に飲み、さらに食べたので、体重が増え、足が少しむくみ気味である。水分を落とさなければならない。サウナなんかが好いのだけれど、わざわざ出かける気にならない。

 

 今日は雨だから録りためたドラマや映画の消化に努めた。映画は『アフター・ヤン』と『サイド・バイ・サイド 隣にいる人』という二本を鑑賞。両方とも不思議な映画であった。

 

 『アフター・ヤン』は2021年のアメリカ映画で、主演はコリン・ファレル。近未来の家族を描いたSF映画であり、特にドラマチックな展開があるわけではなく、静かな映画である。家族のひとりでもあるアンドロイドが動作しなくなり、その修繕を行おうと主人公がいろいろ苦労するのだが、そのメモリーを解析するうちに思いがけない履歴が明らかになる。家族とはなんなのか、人間と機械はどう違うのか、AIが想像を超えて進歩したときの世界を舞台に、そういう問いが突きつけられていく。好みが分かれる映画だろう。私はSF好きだからいちおう合格。

 

 もう一本の『サイド・バイ・サイド 隣にいる人』は2023年の日本映画。監督・脚本・原案はすべて伊藤ちひろ。主演は坂口健太郎。これは『アフター・ヤン』よりもさらに不思議な映画。不思議な能力を持つ青年が主人公で、彼が関わる人との交流が淡々としていて、こちらもドラマらしいドラマ展開はないのだが、解釈がいかようにも出来る映画になっている。冒頭、バスの後ろの席に主人公と金髪の青年がならんで座っているのだが、座り方が如何にもおかしい。普通はそれなりの距離を置いて坐るものだが密着しているのである。窓側の主人公には外部の光が当たって光の差し方でその顔の明るさも変化するのに、隣の男は同じ状態でうす暗い。ああ、これは霊か何かであろうなあ、と予感させる。

 

 存在、生と死など、ずいぶん深刻な問題をさらりと、しかも淡々と描いていくので、途中までは明らかだったはずなのに、次第に登場人物の誰が生きている人で誰が死んだ人なのかが混乱する。でもそもそも生と死なんてそんなものだともいえるなあ、などと納得してみていたりする。そう思えない人にとってはこの映画はわけがわからないと云って腹を立てるかも知れない。市川実日子がいつもながら素晴らしい。この映画の私の評価点は高い。

ふるさとへ廻る六部は

 昨日の日曜日の朝の『小さな旅』というNHKの番組では、山形県の戸沢村が紹介されていた。父のふるさとである村は最上川の支流を遡ったところにあり、いまはこの戸沢村に併合されている。この支流が合流するのが古口というところで、最上川船下りの出発点だ。その辺り一帯が戸沢村になる。父の両親や先祖の墓もそこにあったが、父が存命中に千葉に移した。父のふるさとのあたりを二度ほど訪ねたが、父の生家はすでになく、今は知人もいないので誰かを訪ねるということもない。それでも番組で見ればそれなりになつかしい。

 

 自分自身の生まれ育った街もたまに訪ねる。訪ねたからどうということもないのだが、自分がある期間暮らしたことのあるところ、縁のあるところなどへ無性に行きたくなったりする。若いときはそんな気持などなかった気がする。可愛がってもらい、世話になった祖父母にも晩年にもっと顔を見せに行けばよかったと、いまは悔やまれるが若いころはそういうことに思いが至らなかった。

 

 ふるさとへ廻る六部は気の弱り、という古川柳は藤沢周平によって教えられた。歳をとって自分が存在していたということを確認に行くような気分になるのは、そういうものなのかと思う。最近は新しいところばかりではなく、行ったことのあるところにも繰り返し行くようになっている。なじむほどまた行きたくなる。そうして新たな何かをなにも見つけられないことに不思議な気持になったりする。海外へ行くことがなくなったのもそういうことかと思う。かわりに本を読む。

2024年2月 4日 (日)

知多行

二日の日に弟と知多へ行った。野間大坊と岩屋寺、そして羽豆岬を歩いた。

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岩屋寺の一切経堂。この右手の石段を登ると石仏がたくさんいる。後ろ姿は弟。

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好い顔をしている個性的な石仏が何十とある。

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岩屋寺のすぐ近く、通称狸寺にあるリアルな石像。出征兵士の似姿をリアルに模したものらしい。

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岩屋寺から谷筋を少しだけ歩いて行くと奥の院がある。そこにあった不動明王。

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両面宿儺の像かと思われる。個性的。

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知多半島の先端、羽豆岬の高台に登って海を見る。左手は伊良湖岬、右手は伊勢である。

このあと魚を買って帰った。

酩酊

 昨日は蔵開きに行ってきた。私のグループは総勢六人、みな見かけは老けたけれど元気である。天気がよくて風もなく、いままでで一番温かい蔵開きであった。絞りたての酒をタンクから柄杓で汲んでくれる。まだ炭酸が抜けていないから微かな酸味を感じさせるけれど、それが美味さにつながる。日本酒というのはほんとうに美味しいものだと心から思う。

 友人達と歓談して心地のよい酩酊をした。かなり酔ったのに、帰ってからまた弟と鶏の水炊きなどをして酒を飲み直した。用意してあった酒がなくなった。お陰でまだ今朝は酔いが残っている。だから二日酔いだけれど呑みすぎの二日酔いの不快感はない。もう少ししたらそうなるかも知れない。

2024年2月 3日 (土)

隠せばなくなる

 休酒を終えていい調子で飲んで風呂場で転倒したりした。それなのに、少し前から弟が来ているので連日鍋など作って二人で楽しく酒を飲んでいたら、胃腸がすこしくたびれてきたようだ。

 昨日は二人で知多へ行った。あいにくの曇り空だったから海の色がさえなかったが、思っていたあたりを見て回ることができた。帰りに、魚広場(鮮魚や乾物などの店がある)でそこそこの型の鯛と蛤を購入した。鯛は塩焼きで、ハマグリは寄せ鍋の具にした。さすがに酒は二人ともあまり飲めなかった。それに今日は新酒会の日なので飲みすぎたら体がもたない。

 ネットニュースを眺めていたら、中国では経済が減速していてこのままでは大変だ、政府の抜本的な対策が必要だ、という論調の記事が出ると、しばらくすると消されるという状態になっているという。事実をもとに対策が必要なはずだが、事実がなければ対策は必要ではない。隠せば事実がなくなる、というのが中国政府の考えなのだろうか。習近平政権はちょっと変だ。

 今日はおいしいお酒を飲みに行く。それ以上に楽しみなのが久しぶりに友人たちと会って歓談することだ。胃腸よ、がんばれ!

 

2024年2月 2日 (金)

『惜別』

 太宰治の『惜別』という長編小説を読了した。太宰の本は若いころ少しだけ読んだけれど、読んだのは短いものや、『富岳百景』、『走れメロス』、『御伽草子』などで、有名な『斜陽』や『人間失格』はいまだに読んでいない。いろいろ昭和文学の書評を読んでいると、太宰を読まなければいけない気になって、少し前にちくま文庫の『太宰治全集』全十巻を購入して棚に並べてある。短いものを拾い読みしていたが、『北のまほろば』という番組から太宰治の『津軽』という小説(全集の第七巻にあった)を読むに至ったことはすでに書いた。

 

 そのあとにおさめられていたのがこの『惜別』で、ある老医師の、仙台医専時代の周樹人との交遊の回想という仕立てになっている。周樹人といえばもちろん魯迅のことである。だから藤野先生も登場する。魯迅の全集(全六巻)も同じくちくま文庫で揃えていて、先日理由があって『藤野先生』を読み直したばかりなので、何だか不思議な巡り合わせを感じる。この魯迅全集は竹内好がひとりで翻訳編集を行った。そしてその竹内好が、この『惜別』に思いを寄せてくれたこともあとがきに記されていて、ちょっと嬉しい気がした。何しろ読んだばかりの先崎彰容の取りあげた、時代と格闘した人たちのひとりにこの竹内好も取りあげられていたからだ。

 

 この小説の出来は素晴らしい。太宰治がどれだけの作家であったのか、『津軽』を読み、この『惜別』を読んで初めて心の底から理解した。これで近々『斜陽』や『人間失格』を読む気になった。

私は変わる

 アイデンティティということばがいまはごく当たり前に使われる。哲学的には自己同一化、と訳される。それより先に私はアイデンティフィケーションという言葉を英語の課題図書によって知った。辞書を見ると、自己同一化作用とあった。何のことやらわからない。そのあといくどもこの言葉に出会うことで、アイデンティティを確立することかな、とおぼろげに理解した。自分は自分であり、他のひととは違うということの認識でもあり、自分が確立して常に同一であるからこそ他を一定に認識できることかと思った。

 

 アイデンティティが統合されていないから統合失調症という病名がつけられる。むかしは分裂症といった。統合失調症はある専門家によれば、距離認識の病だ、という。どういうことかわかってくると、なるほどと思うようになった。精神科の病の特徴的な症状が、そこにいない人や存在しない人の声が聞こえるという幻聴である。相手がはるかに離れているのに聞こえるというのは距離が混乱しているからだと考えることができる。空間だけではなく、時間的な距離も混乱しているからすでに死んだ人の声すら聞こえてしまう。そして相手の思っていることが相手の言葉として聞こえてしまう。もちろん相手がそう思っているかどうか分からない。

 

 だから人はアイデンティティを確立しなければならないのだ、というのが西洋的な考えである。自己と他者を峻別し、個人を至上のものとし、そこから世界を把握しなければならない。そう迫られるから、若者は自分がまだ自己確立不十分だという不安に駆られて自分探しを始めるというわけだ。個性尊重、自分だけの花を持てと言われる。個性とはなんなのか、よく考えるとわかったようでわからない。何しろ自分自身だってよくわからないのだから。

 

 自己確立してもう確固として変わらない自分が存在するという確信に疑問を投げかけるのが養老孟司だ。自分は変わるではないか、という。身体だって変化する。一年前の自分といまの自分がどれほど変わったか、高齢化すればいやでもわかる。心や知性、認識の問題だ、などと言われたって、私など本を読んで「なるほど」と思う度にものの見え方が変わっている。私は変わる。とうぜん意見だって変わる。全然自己確立なんてしていないのか、それとも自己確立などと言う言葉がそもそも幻想なのではないか、などとこのごろ思うようになった。

2024年2月 1日 (木)

『津軽』

 太宰治の『津軽』を読む。司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズから、『北のまほろば』を新しく紀行ドキュメントにしていたのを観て、その中で太宰治の『津軽』の文章も紹介されていた。五所川原の立ちネブタ、そして太宰の出身地・金木に斜陽館を訪ねたこともある。津軽半島を北上して、竜飛岬にも二度行った。

 

 太宰治の『津軽』は初めて読む。脇に大判の青森県の道路地図帳を置いて、書かれている場所をなぞって読んだ。通ったこと、泊まったことのある場所があるから、位置関係や風景、その雰囲気はおぼろげにわかる。橘南𧮾の『東遊記』の文章も引用されていたりして、再び訪ね歩きたい思いがつのった。

 

 今年は必ずまた行くと心に決めた。

 午後、千葉から弟がやってくる。いつもは車だが、今回はひとりなので新幹線でくる。そのあとの名鉄はわかりにくいので、これから名古屋駅まで迎えに行く。少し前まで今日の天気は雨の予報だったが、その心配は無さそうだ。せっかくだから一緒に熱田神宮にでもお参りしようかと考えている。明日は知多か琵琶湖にでもドライブに行くつもりだ。

 

 いろいろ四方山話でもしよう。弟は聞き上手なので主に私が話すことになるだろう。私が話をしたことがしばらくあとに弟の言葉に出て来たりしてちょっと嬉しいこともある。部屋を片付けようと気になっていたけれど、弟だけならいいや、というなまけ心であまり片付いていないのは申し訳ないが、せいぜい美味しいものでも作ってもてなすことにする。酒だけはたっぷりある。

 

苦手

 人が集まって、代表の掛け声に唱和して叫ぶ、というのを見るのが恥ずかしい。学生のときに友達に誘われて一度だけデモというのに参加したことがあるが、二度と行くまいと思った。そのときのことを思いだす。私はそういうことが苦手である。

 

 天井の怖ろしく高い大会堂などで、権力者がなにか言う度に、感に堪えたような顔で一生懸命拍手するいい歳をしたおじさんおばさんを見ると、いったい本気なのか、と思ったりする。損得か保身によるものならまだそういうこともあるかと思えないことはないが、どうもそうは見えない。それにしてもひとりとして憮然とした顔をしていたり、うんざりしたり、いい加減にしてくれという顔をしていないのに感心する。もしいても映像として撮さないのかも知れないが、カメラは会場をなめ回しているようにも見える。

 

 習近平に対するそういう拍手喝采の図を見ていると、どんどん北朝鮮の金正恩に似てきたように見えて、なんなんだこれは、と思う。拍手する方もされるほうも恥ずかしくないのだろうか。批判を許さない、という強い姿勢は実は弱さ故なのではないか、などと思う。批判にも平然としているというほうが強いと私は思う。強く見せる弱さとは、臆病ということだろう。臆病を粉飾して強く見せているような図を見ると、恥ずかしくないのか、と思う。

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