屋島、壇浦の戦い
『平家物語』の巻の十一を読了した。各巻はだいたい240ページ前後だが、この巻だけは長くて280ページあまりある。すでに戦力的には劣勢に追い込まれたとはいえ、水軍の戦闘能力の高い平家は拠点を四国の屋島において源氏軍の来襲に備えていた。暴風雨の中、無謀だと言って止める梶原景時などを押し切って、わずかな舟をもって四国へ押し渡る義経主従たち。わずか300ほどの兵力で四国に上陸して海岸線を西に向かった義経たちは平家の防御戦を突破して屋島へ突き進む。源氏の主力軍が来たと思った平家は慌てて舟に退避する。ここで源氏と平家の強弓合戦が始まる。あの有名な那須与一の扇の的を射貫く名場面が描かれる。
平家は拠点の屋島を落とされてしまい、西へ落ち延びていく。源氏の主力軍が到着して義経軍と合流、壇浦の最後の決戦となる。数多くの平家の武将の死に様が描かれるが、中でも豪勇・平教経の最期は、子供の時からなんど読んでも興奮するところだ。二位の尼に抱かれて幼い安徳天皇は入水する。続いて建礼門院も入水するのだが、沈みきる前にすくい上げられてしまう。建礼門院は安徳天皇の母親、二位の尼は平時子、清盛の妻であり、安徳天皇の祖母にあたる。総大将の平宗盛、知盛などの母親でもある。知盛入水してしまうのだが、宗盛親子は逡巡しているうちに捕らわれてしまう。宗盛はそういう人物であった。
二位の尼とともに海に沈んだ三種の神器の行方を必死で探す源氏軍だったが宝剣だけはついに見つけ出すことが出来なかった。
この後、生き延びた宗盛たちは都に送られ、さらに義経に伴われて鎌倉へ送られる。平家追討の行軍中に、繰り返し反目し合っていた義経と梶原景時であったが、すでに梶原景時の讒言は頼朝に繰り返し届けられていて、義経は鎌倉入りをとどめられてしまう。有名な腰越状が書かれるが、頼朝の心は動かなかった。その義経に宗盛親子と、すでに捕らわれて伊豆に幽閉されていた重衡の、都への護送の指示が与えられる。
護送中にいつ斬られるのかおびえる宗盛だったが、琵琶湖まで無事送られて安堵する。しかしそこが宗盛親子の最期の地であった。重衡は都へ送られ、南都の山門に渡される。東大寺や興福寺が平家に反旗を翻したとき、それを焼き討ちしたのが重衡だったから、身柄をあずけられることになったのだ。そこで斬られた重衡の首は山門に釘付けにしてさらされる。討ち死にした平家の武将たちの首も都でさらされる。その妻たちの去就も語られる。
こうして平家はほぼ滅亡するのだが、血脈を継ぐわずかな者たちの処遇、悲劇が第十二巻に描かれていく。
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