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2024年3月31日 (日)

沈黙を畏れる

 うるさいのが嫌いなのに、静かだとついテレビをつけたり音楽を聴いたりする。ものを考えるには静寂が必要だという。それなのに、現代人は音に満たされていないと不安になる人が多いのではないだろうか。現代人はあたかも思索することから逃れようとしているようである。ものを真剣に考えているときには音が聞こえなくなる。そもそも音は必要がない。それでも音を鳴らすのはどうしてかと思う。

 

 若いときに読んだけれど、森本哲郎が思想家のピカートの文章を紹介して沈黙の意味について考えていた。そこでピカートの本『沈黙の世界』を読んだけれど意味がわからなかった。わからなかったけれど、とても大事なことを書いていたように思えてずっと心の隅に残っている。

 

 現代は喧噪の社会で、沈黙というものが何かの欠落ででもあるかのようにそれを音で埋めようとする。会話の中で生ずる突然の沈黙の居心地の悪さは、沈黙が不安をもたらすものであることを象徴する。沈黙は不安を生み、不安を畏れるから沈黙を畏れるかのようである。沈黙は空(くう)であるのか。仏教では空の中にこそすべてがあるという。自分自身のオリジナルはその空から生ずるような気がする。 

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 現役時代、営業職だったので、会話が商売道具であった。相手も沈黙を嫌うので、いかに会話が途切れないように手持ちの話題を抱えているかが勝負だと思っていた。そういう中に沈黙が平気で、沈黙を破ろうとすることに不快を示す人がいた。不思議なことにそのことが会って瞬時に理解できた。私もじつはそうだったからだ。相手が黙って何かを語ろうか考えているときに、私はいつまでも黙って待っていた。長いときには五分以上二人で黙っていたこともある。沈黙の五分はとても長い。行き詰まるようである。

 

 出入りの商社や営業マンには難しい人だと毛嫌いされていたが、どういうわけか私はその人に好かれ、私も一回りほど年上のその人を敬愛していた。その後その人の会社の担当を離れたが、技術的な対応が不十分だったために、結果的に仕事で私の会社が迷惑をかけたりした。それでも私は一回りほど年上のその人と、個人的にも行き来し、四十年以上、未だに賀状のやりとりで互いの消息を交換している。互いの沈黙の交換が、いまの二人をかすかにつないでいるのだと思っている。沈黙の重みというとそのことを思い出す。

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