けがの功名
けがの功名といっても本当にけがをしたというわけではなくて、左膝が痛くて立ったり座ったりするのがいささかつらい状態になっている。せっかく減量できていたのが大きくリバウンドして、自らの体重が支えきれなくなったことによると思われる。階段の上り下りもつらい。リバウンドしたのは口が卑しいために節制のたがが外れたからである。いままた節制すべく食事と酒の量を控えている。
膝にサポーターをしてじっとしていたら少し楽になっている。だから気持ちでは出かけて歩きたいのに、雑用をするとき以外は終日こたつの前の座椅子にはまり込んで積み上げた本を読んでいる。本に集中できているときは、ドラマや映画をあまり見たいと思わない。さいわいいまは飽きることなく読書できている。読み応えのある本も放り出さずに最後まで読めそうなのはそういう意味で、けがの功名、なのである。
それでも読み応えのある本はいささかくたびれる。その合間などに気晴らしに読みやすい本を読む。本に飽きて本を読む、というのはわかりにくいかなあ。以前は軽いエッセーなどを読んだが、たまたまいまは養老孟司の『人の壁』(新潮新書)を再読している。コロナ禍の最中に心臓の病気で入院し、退院してしばらくして愛猫のまるが死に、出かけられずに引きこもり状態で考えたことを書き綴ったものだ。書いている内容は繰り返しに近いものが多いが、その思考はらせん階段を上るように、似た景色でありながら前とは違うものになっている。こちらの理解する力も多少ついてきているし、書き方も易しくわかりやすくなっているようだ。ただし内容はよく考えると深いものがあるのはいつも通り。ときどきページを置いて考えたりする。
洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ
洵(まこと)にやむを得ざるものあり豈(あに)朕が志(こころざし) ならむや
開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。
昭和十六年十二月八日、米英との開戦の詔勅の一部である。
養老孟司は、ああしたからこうなった、と考える西洋的思考とは違う、日本人の責任についての感覚の象徴として読めないか、と思考を展開していく。成り行きでこうなったんだから仕方がないじゃないか、というわけであるが、そう考えれば原発事故についての責任はないと主張する東京電力のトップや太平洋戦争遂行者の責任の自覚のなさ、今回の自民党の裏金問題に対する態度はそれで日本人なら得心がいきそうな気もする。もちろんそれでいいわけではないし、養老孟司もそんなことは思っていないはずだ。
こうして日本人はすべて物事を、そうなってしまったんだから仕方ないじゃないかであきらめて流されていくのだろうか。自分の生き方もずっとそれでやってきたような気がしたりした。
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