むざんやな
部屋の片付けが忙しくて、読み進めている『平家物語』が遅々として進まなくなった。それでもようやく巻七の、北陸での平家軍と木曽義仲との戦いのところまで来た。当初兵力に勝る平家軍に押されていた木曽義仲軍だったが、その情勢を利用して平家軍をおびき寄せ、倶利伽羅峠に誘い込んで平家軍に壊滅的な打撃を与える。
倶利伽羅峠には実際に行ってみたことがある。狭い山道を上がって、谷筋の多い倶利伽羅峠に実際に立ってみた。昼ならともかく、夜なら暗いから、崖から追い落とされてしまうことはあり得るのだろう。しかしそれを緻密に行うにはよほどの戦術能力が必要だ。木曽義仲はそういう点でひときわ戦上手だったのだろう。峠には火牛の計のパネルなどがあったが、これは実話ではなかったとされる。もともと火牛の計は中国の田単の行った戦法で、牛の尻尾に火をつけて牛を暴走させたものだ。伝説では、木曽義仲軍は牛の角に燃えるたいまつをくくりつけて暴走させ、平家軍に向かわせたとされるが、そんなことが出来るだろうか。牛を調達したという記録もないではないらしいから、火牛の計というほどの大げさではないものの、牛を追い込んで脅かしたくらいのことはあったのかもしれない。私の読んでいる『平家物語』の覚一本には火牛の計のことは書かれていない。
敗走する平家軍の中にあって、多くの武将が踏みとどまって防戦し、討ち死にしている。一番有名なのが、いまの小松あたりで死んだ斉藤別当実盛で、七十過ぎの高齢であった。当初から討ち死にする覚悟だったとされる。実盛はじつは木曽義仲の幼少時の恩人であった。助かる可能性もあったから、あえて名乗らずに討たれたようだ。老人と侮られないために白髪を黒く染めていたので、首実検では実盛かどうか、当初わからなかったという有名な逸話が残されている。
『奥の細道』では、松尾芭蕉が小松を訪れたときに、斉藤別当実盛を偲んで詠んだ、
むざんやな甲の下のきりぎりす
という句が有名である。
この句を意味は知らずに、横溝正史の『獄門島』の中で使われていたことを覚えていて、後に『奥の細道』のなかの句であることを知った。そのときに意味を知っていたらもっと感興があっただろう。そういえば能の修羅物にも『実盛』がある。一度読んでみよう。
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