不条理
世の中がわかってくると、現実世界は理想世界とは違うことをいやでも知ることになる。そもそも理想世界が人によって違うこと、その違いの集積が不条理を生んでいるのだろう。自分にとって理想であることが他人にとっては不快だったり迷惑だったりする。
それにしても、と思う。
ホスピスの問題で生死について考えさせられる。緩和ケアについて、ずいぶんと進んできて、苦痛が幾分かのぞかれるようになったことは朗報だと思う。苦痛の恐怖と死への恐怖は不可分のものだったから、苦痛が緩和されればそれだけ死の恐怖も緩和されることになる。何しろ、誰でもいつかは死ぬのだ。そして、生死を考えるということは人生を考えるということでもあることを、幾多のホスピスのドラマを見て知る。人にはそれぞれ人生があり、かけがえのない家族や友人がいる。その中でどう自分の死を迎えるのか、少しは考えておくことは必要だろう。
ところが現実の世界に目を向けると、ウクライナで、ガザ地区で、メキシコで、ハイチで、それだけではなくそこら中で人が簡単に殺されているのをニュースで見せられる。それらの死者にも人生があり、その人がかけがえがない存在だと思っている人たちがいたはずで、それがいとも簡単に、不要な物のように破壊されている。
これが不条理でなくてなんだというのか。どうしてこんなことになったのか。それとももともと人類はずっとこんなことを続けてきたのか。歴史をひもとくと、どうもそうとしか思えない。それでも曲がりなりに存続しているのはどうしてなのだろうか。不条理な死者の数よりも、寿命を全うする死者の方が多かったからということなのだろう。しかしこれからもそうであるかどうか、いささか疑問に思えるようになってきた。そろそろ人類はもういいか、という神の声が聞こえてこないか。だからといってどうしようもないではないか。
こんな思いが終末論を生む。たぶんさいわいなことに、私は本当の世界の終末を見ないでこの世とおさらばすることになりそうだが、あの世があるならあの世から高みの見物をすることにしようか。秩序は混沌へと向かうのが宇宙の必然らしい。生命こそ秩序の源、生命を破壊することは混沌への必然なのか。
« 『ジョン・ウィック コンセクエンス』 | トップページ | 屋島、壇浦の戦い »
人間というのは、必ず死が訪れる、と解っていても自分の死にはつながらないらしいですね。石原慎太郎の本にありました。他人の死はリアルに感じながら、いざ自分も近い将来かならず死が訪れることが判っていながら自分の死には楽天的だというのです。
言われてみれば私などもそのような気がします。近い将来自分が死ぬ、という気がしない。。。
人間というのはつくづく自分に都合のいいように考えて生きているようです。
そうはいうものの、高齢者が常に”自分は明日死ぬかもしれないと怯えながら生きていくのも辛い話。
やはり、死を思わずに日々生きていくのが自然では・・・とおもいます。
投稿: おキヨ | 2024年3月31日 (日) 14時36分
おキヨ様
いま『平家物語』を読んでいて、その無常観が次第に身にしみてきています。
昔も今も・・・と思わずにはいられません。
宗教的な気持ちになるのはそういうときかもしれません。
投稿: OKCHAN | 2024年3月31日 (日) 15時52分