木曽義仲の死、一の谷の戦い
『平家物語』の巻の九を読了。生ずき(池月)、磨墨(するすみ)(ともに頼朝所蔵の名馬二頭)の話から梶原源太景季と佐佐木信綱の宇治川の先陣争いが描かれたあと、孤立して寡兵となりながら奮戦する木曽義仲、そしてそれに従う巴御前の活躍と二人の別れがつづく。
木曽路に木曽義仲館があり、わずかな資料しか残されていない木曽義仲について、可能な限りの展示がなされているのを見に行ったことがある。資料館の館長は訪れる人も少ないらしく、資料を眺めていたら話しかけてきて詳しく説明してくれた。ほど近いところに巴御前にちなんだ寺もあり、彼女が泳いだという巴淵という淵もあったので見に行った。なんとなく木曽義仲の生涯に悲劇的なものを感じて思い入れがある。芭蕉も木曽義仲に強い思い入れがあって、木曽義仲が最期を迎えた琵琶湖の南、大津にある義仲の菩提を弔う義仲寺に芭蕉もともに眠っている。三井寺(園城寺)と義仲寺はいつか見に行こうと思っている。
源氏軍は木曽義仲を討ち取って後白河法皇に報告したあと、平家追討の院宣を受けて、間を置かずに福原周辺に陣を構えて兵を増強しつつある平家との戦いに向かう。もともと平家は四国や中国地方に勢力を持っていた。兵站の伸びた源氏軍は短期間で撃破しなければ危うい情勢だったはずで、だからこその義経の奇襲攻撃による一の谷の勝利は決定的だった。解説にもあるが、一谷の後背の山とされる鵯越(ひよどりごえ)はそこから五キロほど離れていて、実際の後背の山は鉢伏山だろうという。
多くの平氏の将軍が討たれてしまい、主力軍を失った平家は海に逃れて衰亡していく。この巻の九ではその戦いとそこで死んでいく男たちの姿が詳細に語られていく。最後が熊谷次郎直実が平敦盛の首を取る場面であり、その悲劇性が強調される。私は若いころ十年近く熊谷に住んでいたので、駅前の熊谷次郎直実の騎馬像を通勤のたびに眺めていた。縁がないわけではない。このことを契機として豪傑であった直実は戦の世をはかなみ、そして敦盛の菩提を弔うため出家してしまう。
« アラメ飯 | トップページ | ギャンブル依存症 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 戦争に当てる光(2024.09.06)
- ことばと文字(2024.09.05)
- 気持ちに波風が立つような(2024.09.02)
- 致命的欠陥(2024.09.01)
- 暗礁(2024.08.28)
« アラメ飯 | トップページ | ギャンブル依存症 »
コメント