『「昭和」という国家』
司馬遼太郎の『「昭和」という国家』(NHK出版)という本を読み終えた。もともとは『雑談 「昭和」への道』という司馬遼太郎が「昭和」(特に昭和二十年まで)について12回にわたってNHKの番組で独り語りしたものを文章に起こしたもので、それに田中彰という北大の名誉教授が批判的な論文を寄せたものが併載されている。批判的、というのは悪い意味ではなく、司馬遼太郎の言うこと書いたことをことごとく金科玉条のように述べる風潮に対して、是々非々で自分の論を述べて、そのことで司馬遼太郎の言いたいことをより際立たせる意図があってのものである。世の中に横行している、司馬遼太郎の片言隻句を取り出して牽強付会に用いる輩を嫌悪してのことである。たしかに司馬遼太郎は神様でも預言者でもないのである。
司馬遼太郎は官僚が嫌いなようである。秀才と自他共に認めるような人も嫌いなようである。もちろん官僚にも秀才にも、市民のため、地域のため、国のために鋭意務めている人もいることくらい承知しているが、あの太平洋戦争という日本を亡国に導いた者たちについての嫌悪が、どうしても拭いきれないからだ。
立身出世するために努力し、苦労をする。そしてその苦労が報われて力を振るえる立場に立つ。力を持たなければ、自分がしたいことが出来ないから立身出世をめざすのだと思いたいが、力を持ったあとで、それを自分のためにしか使わない者のなんと多いことか。志があったはずの人間まで、力を持つ立場に立ったとたんに変節する。それを散々見せられると、立身出世の先頭に立つ秀才、そして秀才が担う官僚がどうしてもゆがんで見えてしまう。
司馬遼太郎が言う「昭和」という時代が、どうして日本を一度滅亡させてしまったのか、そしてその構造が、果たしてそのあとの日本で変わったのかどうか。どうもあまり変わっていないのではないかと思えてしまう。
同時に、大衆を煽り、軍部の言いなりだったマスコミが、戦後手のひらを返していながら、相変わらず大衆を愚民とみて自分が啓蒙しようというエリート意識を持ち続けている状態も変わっていない。そのマスコミはじつは大衆以上にリアリストではないことに、未だに気がついていない。
歴史は自ら様々な本を読み込み、柔らかい心でそれを咀嚼しないとならない。答を先に持ちながら歴史を読んではならないだろう。
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