近代日本語の運命
作家で評論家の丸谷才一と、劇作家で評論家の山崎正和の対談集『日本語の21世紀のために』(文春新書)という本を読んだ。じっくりと考えるテーマがたくさん提示されているが、少し飛ばし読みしすぎてしまったので、また少しあいだをおいて読み直したいと思う。再読再再読をする値打ちの本というのはそうあるものではないが、この本はそういう本である。ブログの表題はこの本の帯にあったもの。
ことばというのは時代につれて変化していくものではあるが、そのことばの変化は浮ついたものになりやすい。だからその変化にあらがって、言葉遣いにこだわるということも必要なのだという。それがことばを大事にすることであり、ことばを磨くことでもある。変化は必然でも抵抗はすべきだ、その抵抗する者になるのだ、という二人の覚悟に私は共感する。
ことばには、相手に伝達するための道具としての役割と、思索の道具としての役割がある。そして伝達の役割としてのことばを磨くためには、相手と私と、さらに第三者が存在する必要があるのだという指摘には教えられた。日本語には一対一の対話構造しかなく、鼎談というものが存在しない。そうするとことばは第三者を排除した対談を基盤とするものになって、客観性を生むことが出来ない。そういう背景から話し言葉を作っていくと隠語の氾濫を招いてしまう。
若者ことばとか業界用語の隠語の氾濫はまさにその結果だろう。私はそれを見聞きすると不快である。それがどうしてなのか分かったような気がした。
さらに思索のためのことばという役割を、教育界はまったく認識できていないという指摘にも同意する。ことばを伝達のためとしか見ない教育がずっと続けられてきた。それは日本語だけではなく、英語教育の会話重視にも見ることが出来る。ものを考えるときに、ことばなしで考えることは出来ない。それを見失った日本語の世界がどうなっているのか、それはテレビを半日見ていればよく分かる。
決まり文句の浅薄さ、陳腐さを、自国の首相の口から毎日聞かされるのは苦痛である。
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