『原点を見つめて』
少しハイペースで本を読み続けたのでクールダウンしていたが、その間にストレートネックの症状が出たようだ。いわゆるスマホ首である。仰向けに床に寝ると頭が床につかない。首が少し痛いが、しばらく我慢していると次第に頭の重みで頭が下がり出して床につく。ひずみが少し補正される。腕を首の後ろへ回すようにする。肩甲骨のあたりがバリバリと音を立てる。少しずつそれをやっていると気持ちよくなってくる。本当は娘に肩や首をマッサージしてもらうと好いのだが、来週は出かけるので、帰ってきたあとにみやげを持ってお願いすることにする。
それでも少しずつ本を読んでいる。すぐ背中や首が痛くなるが、やめられない。『小松左京のショートショート集』第二巻と読みかけだったアシモフの短編集『夜来たる』を読了した。今はずいぶん久しぶりに曾野綾子を読んでいる。『原点を見つめて』(祥伝社)は1999年から2001年に雑誌に連載していたものを編集したものだ。まだ読了していないが、ちょっといい一節があったので引用してここに記しておく。
今もなお、完全に文化から置き忘れられたような貧困層の住む区域があるのも本当なのだ。
(中略)
彼らの多くは、義務教育を受けていない。学校がないわけでもないのだが、現実問題として通えない要素が多すぎる。
(中略)
親には義務教育を受けさせることの意味がよくわからない。親たちは、自分も教育はまったく受けてこなかったが、それでも生きている。どうやら食べて着て、眠って働いて性行為をして、子供も生んで育てた。教育などなくてもやって行ける。何でそんなことをしなけりゃならないのだと思うのである。
私たちも一度はこう思ってみる方が別の視点を持てるだろう。学校へ行って教育を受け、資格を得て会社人間、猛烈社員になることが、果たして教育を受ける本来の目的だったのだろうか、と自分に問うことが必要だ。教育を受けて教養のある人間になるのは、自分で自分の生き方を基本から選ぶためだ。つまり自分の哲学か信仰を持つことである。しかし大学を卒業しても、東京大学法学部を出ても、そんな生き方をしている人はめったにいないのである。
(中略)
学校を出たからといって自動的に教養人になれるわけではない。しかし通俗的教養人に共通の一つの姿勢はある。それは「もし仮に自分が・・・であったら」という仮定でものを考えたり語ったりすることが出来る、ということと、自分の考えや置かれている立場、などを客観的に表現できるということである。
通俗的教養人のひとりだと自分を仮定している私としては、なるほどと思うのである。
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コメント
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首大丈夫?
くれぐれも無理しないでね。
何時でも良いよ、ゆっくり待っているよ。
投稿: 周さん | 2024年6月29日 (土) 17時54分
周大兄様
大丈夫そうなので、予定通り伺います。
すでに出発モードです。
よろしく。
投稿: OKCHAN | 2024年6月29日 (土) 18時10分