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2024年7月

2024年7月31日 (水)

バタバタと

 無事昼過ぎに帰着した。帰る早々来客があり、もう少し遅かったら入れ違いになるところであった。その来客に関わることとそれ以外に二件ほど、かたづけなければならない雑用がバタバタとできてしまった。明日また午前中に来客がある。ずいぶん前に頼んでいたことが急に進展したもので、そのための書類を今晩作成しておかなければならない。といってもたいした手間のかかるものでもない。暑い中を用事で夕方出かけたりしたら、いささかフラフラした。冷たいものを飲んで一息入れたところである。

 

 雑用というのはないときは全くないのに、来るときは一度に押し寄せる。まだ浮世に縁がある証拠か。来月後半に息子夫婦が来ると連絡があった。娘にも来てもらうことにするつもりである。

中国名言集(16)

  我が心は石に匪(あら)ず

 

『詩経』の中の一節。

 

  我が心は石に匪ねば
 転ばず可からざる也
  我が心は蓆(むしろ)に匪ねば
  巻く可からざる也

 

意味(by井波律子)は
 私の心は石ではないから、転がして変えさせることはできない。私の心は蓆ではないから、くるくるとまるめこむことはできない。

 

 井波律子が強調しているのは、石は堅固なものであるという通念を逆手にとって、あえて否定形として「私の心は石ではない」ということで、不退転の意志を表しているところにあるという。なるほど。

宿の部屋の窓から

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宿の前は谷あいとなっていて、向こう側に山が見える。

昨日の朝の景色と、今朝の夜明け少し前の景色を写真に撮った。

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こういう傾斜のある場所に建物が並ぶのを眺めるのがなんとなく好きである。

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こういう枯れた大きな木も背景で大きく違って見える。

二泊三日の温泉保養は、ゆっくりしたようなそうでないような微妙な短さだ。ただ、長く滞在するならもっと食事が質素な状態にしないと、どんどん体重が増えてしまって鈍重になっていく。長く保養するならやはり湯治スタイルがいいようだ。

今日帰る。どこにも立ち寄らずに直帰する。昼過ぎには帰っているだろう。

2024年7月30日 (火)

清流馬瀬川

宿の窓から見える山がにわかにかすみ出したと思ったら、二時前からにわか雨が降った。我が家のベランダの朝顔は水をやらないから悲鳴を上げているだろう。あちらでも雨が降ってくれているといいのだが・・・。

昨日、宿に入る前に馬瀬川の渓流の写真を撮った。キャプションはつけない。多少は納涼になるだろうか。

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馬瀬は(まぜ)と読む。

おまけ

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岩屋ダムから馬瀬川の下流方向を見下ろしたところ。

中国名言集(15)

  狡兎(こうと)死して猟狗(りょうく)煮らる

 

「すばやい兎が死ぬと猟犬は煮て食べられる」の意、と井波律子の説明にある。用済みになった者はお払い箱になるということである。これは戦国時代に越王勾践(こうせん)が呉を滅ぼした後、名参謀の范蠡(はんれい)が国外に脱出し、同僚だった大夫種(たいふしょう)に宛てた手紙のなかのことば。勾践は苦労をともにできる王だが、楽しみをともにすることが出来ない人物だとしている。これを聞き入れずに、後に大夫種は勾践に殺されてしまう。范蠡は名を変え、安楽な生涯を送った。范蠡は、中国史の人物では私が最も好きな人物である。

 

 范蠡といえば、『太平記』に、児島高徳のことばとして

 

『天勾践を空しゅうする莫(なか)れ 時に范蠡無きにしも非ず』ということばが記されている。日本でも有名だったのだ。このことばも好きなことばである。後醍醐天皇を勾践にたとえ、范蠡のような名臣が出現することもあるからあきらめるな、と励ましたのだ。

 

 余談だが、私はこの『狡兎死して猟狗煮らる』のことばを見ると、つい曹植の、七歩詩(兄の曹丕に七歩歩くうちに詩を作れ、と難題を突きつけられてつくったとされる)と呼ばれるつぎの詩を連想する。

 

  豆を煮るに豆殻を燃やし
  豆は釜中に在りて泣く
  本より是同根に生ぜしに
  相い煎ること何ぞはなはだ急なる

 

 曹植は魏の曹操の五男、兄の曹丕が初代の魏の皇帝となった。曹操も曹丕も曹植も一流の詩人であって名詩が残されているが、最も曹植が優れるとされる。曹植は曹丕に迫害されたらしい(たいてい皇帝というのは兄弟を迫害する)。詩の意味は冒頭の范蠡のことばとは同意では無いが、どういうわけか連想してしまうのである。権力のむなしさみたいなものを感じるからなのだろうか。そしてそのことを范蠡はよくわかっていたのではないだろうか。

ところで、大夫種というのは、大夫(たいふ)は役職であるから、それでは名前が種だけというのはおかしい。時に文種と書かれているものもあるけれど、じつは記録がないので不肖らしい。

岩屋岩蔭巨石群

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立ち寄りたかったのは、馬瀬川をせき止めて造られた岩屋ダムの近くにある巨石群である。縄文時代の謎の巨石群とされていたが、現在研究が進んで、どうやらこれは天体観測に使われていたのではないかと推測されている。

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興味のある方はぜひ見に行くことをお勧めする。

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祭祀が行われていたようだ。ここまで石段を登ってくるのだが、それほど段差が深くもないのに足が上がりきらずに途中でつまずいた。膝を少し打ち、手もついて、手で持っていたカメラも少し打ち付けてしまったが、へこむほどのこともなく無事てあった。ついた手も膝も無事、しかし心が傷ついた。こんな程度の段差でつまずき、あぶないと思いながら転ぶとは自分が情けなくで泣きたくなった。

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巨石の重量感を感じるのが好きである。

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夏至や冬至などに石の隙間から太陽がまっすぐ指すようになっているのだという。

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危なっかしく石のあいだを登ったり降りたりしながら、足もとのよろつく自分にがっかりしていた。

2024年7月29日 (月)

温泉に行く

 どうも本調子ではないので、温泉に二泊三日で行くことにした。馬瀬川という川の近くの丘の上にある、日帰り温泉に併設された宿泊できる温泉である。だから風呂は広くて大きくて、浴槽もいくつもある。昼間は日帰り客も多い。いま、じつはすでに温泉に着いて一風呂あびたところ。ここへ来るのは三回目だから、部屋には何も言わなくても私用の特大浴衣が用意されている。勝手がわかっているので、館内の案内も不要である。

 家から二時間半もあれば着くので昼前に出発した。国道41号線を小牧から犬山へ抜けるのに、道路工事もあっていつも以上にひどい渋滞だった。美濃加茂からは順調。七宗町(ひちそうちょう)を過ぎれば飛騨川沿いに走る。そのあたりは飛水峡と呼ばれる景色のいいところだ。停められるところで写真を撮った。

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ちょっといい景色でしょう。ここから少し行くと甌穴があるはずなのだが、まだ見たことはない。今日は立ち寄るのは一カ所だけと決めている。ここはおまけである。次回はその立ち寄ったところの写真を紹介する。そこでちょっと転んでしまったが、その話は次回に。

中国名言集(14)

  甚だしくは解するを求めず

 

 「陶淵明の自伝『五柳先生伝』に見える「書を読むことを好めども、甚だしくは解することを求めず。意に介する有る毎に、便(すなわ)ち欣然として食を忘る」による」と井波律子の紹介がある。そしてその意味は、

 

読書は好きだが、徹底的にわかろうとはしない。ただ心にかなうところがあるたび、うれしくなり食事も忘れる。

 

 本を読み進めるとき、一つ一つの字句にこだわり、わからないことを理解しようと考えたり、調べたりしていると本を読む楽しみが損なわれてしまう。文脈からおおよその意味を想像して、リズムに乗せて読み進めると、そのたしかな意味が後でひとりでにわかってくることもある。その、「ひとりでにわかる」ときのうれしさは何よりのものである。「読書百遍、意自ずから通ず」ということばにあるように、丁寧に読むよりも繰り返し読む方がひとりでに意味がわかることがあるものだ。私の読書はたいていがそういう読み方である。だからこの陶淵明のことばに「そうだそうだ」とうなずくのである。そうして私は浅読みの雑な読み方だからこそ、同じ本を二度三度読むのである。そして、わからなかったことが初めてわかったときに、心が震えるほどうれしく思う。気がつかなかった大事なことに後で気がつくこともある。

 

 とはいえ、時には一字一句にこだわり、とことんそれを調べながら読み進めた方がよい本というのもある。大学時代、中国古代史のレポートを書いた。その時に、テーマを「中国の宗教」にして、参考書のひとつにするため、武内義雄『中国思想史』(岩波全書)という本を熟読した。最初の三分の一ほどには、辞書などで調べたものがびっしりと書き込んである。私の宝物で、いまも大事にしている。

 

 そういう読み方をしていると、そこで私のざる頭に少しだけ引っかかって残ったものが基礎になって、別のことが見えてきたりするもので、それこそが人に盗られることのない私の知的財産なのだと思う。読んだ本のことをこのブログに書くのも、そのざる頭に記憶として残すという、そういう効用もある。

用心深くなる

 若いころよりも用心深くなった。つまり、疑り深くなった。他人を信用できなくなったということであるが、そうなるような話を見聞きすることが多いからだともいえる。実際に自分が何らかの被害を受けたというのは、交通事故以外では、病院で傘を持って行かれたとか、若いときにお気に入りの靴を履き逃げされたということぐらいで、大きな金額の盗難などに遭ったことはない。

 

 靴を履き逃げされたときは本当に腹が立った。営業新人時代、歩くことが多いから靴はしっかりしたものを買う方が、高くてもかえって得だと先輩に教えられた。勧められたのがリーバイスの靴で、皮が厚くしっかりしているけれど、重くて硬いし、財布にも痛い買い物だった。最初は硬いから足のあちこちがあたったけれど、次第に足になじんできた。私は靴擦れをすることがあまりない。なじんでくるほどに愛着がわいていつも丁寧に磨いていたから、いつまでも新品みたいだった。その靴を宴会場で履き逃げ去れた。残された靴がとんでもない安っぽいヨレヨレの靴だったから、酔って履き間違えていったというわけではなさそうである。店に、間違えたという連絡があったら知らせてもらうように頼んでおいたが、それきりである。

 

 温泉などに行くと、きちんと鍵のかかる脱衣所やロッカールームのあるところもあるけれど、脱衣かごだけというところも少なくない。部屋に鍵をかけていても、そういう脱衣かごにルームキーを置いていたのでは鍵をかけた意味がないのであるが、いままでトラブルがなかったのであろう。以前はあまり気にしなかったが、最近はそういう場合は防水の袋に鍵を入れて浴場に持って入る。

 

 盗難に遭ってほぞをかんでからでは遅い。歳とともに用心深くなったのである。猜疑心が深くなったということである。よく高齢者の養護施設でものを盗ったとか盗られたとかいうトラブルがあると聞くが、猜疑心が妄想につながってしまうのだろう。これは仕方がないが、いま私が用心深いのは誰にも迷惑をかけることではないし、詐欺横行の現代では、人の道義心など今まで以上に信じられなくなっているのだ。

2024年7月28日 (日)

食めぐり

 料理の本を眺めていたら、近頃、感動するほどうまいものというのをあまり食べていないような気がした。食べているけれど、味覚が衰えて、昔ほど感激しなくなったということなのだろう。だいぶ前に、私が感動的に美味いと思ったものを列記したことがあるけれど、久しぶりにそれらのことを思い出したので、また同じようなことを書き出してみる。とりあえず北海道から。

 

ホッケ 初めて仕事で北海道に出張して、札幌で食べたホッケは大きくて身が厚く、脂がのっていて、皮まで美味しく食べられた。ついには骨も食べてしまったので、店の人があきれていた。なかでも美味しかったのは、東室蘭で食べたホッケとキンキだ。キンキはある程度の大きさがあればたいてい美味い。

 

八角 それほど大きくなくて、古代魚みたいな魚なのに白身で、その刺身は脂がのってとても美味い。どぶろくを飲ませてくれる店で、どぶろくを飲みながら食べたものが最高だった。

 

カニ 夜行に乗る時間待ちで毛ガニをよく食べた。食べるのに忙しいので、酒も飲み過ぎず、つまみも食べ過ぎないですむから、かえって安上がりだった。釧路で食べた花咲ガニはその上を行くうまさだった。タラバガニも食べたけれど、そこまで感激しなかった。

 

牡蠣 厚岸(あっけし)の牡蠣を腹一杯食べたことがある。牡蠣は美味しいけれど、あのときの牡蠣を超える牡蠣を食べていない。

 

エゾシカ 北見の肉鍋料理店のおばさんに気に入られて、漁師の亭主用の秘蔵のエゾシカの肉を内緒で刺身で食べさせてもらった。絶品だった。

 

イカソーメン 板前の腕の見せ所、こちらと話をしながらイカを細切りにしていく。ほとんど手許を見ないのに、見事に細くて均一のイカソーメンになっていく。手さばきごとのうまさだった。

 

貝 普段は飛び込みで寿司屋へなどは入らないのだが、たまたま札幌で入りやすそうな店があったので入った。北海道でマグロを食べるのもどうかと思ったので、貝をあるだけの種類刺身にしてくれ、といったら、板前が面白がって七八種類をつくってくれた。名前を聞いたらミル貝やホッキ貝などはわかったけれど、ほかは板前もよく知らない、などと笑っていた。全部感激するほど美味しくて、しかも安かった。

 

イクラ丼 イクラ丼はいつどこで食べても美味しいが、釧路で飛び込んだ小さな居酒屋で、ご飯とイクラが同じぐらいあるのではないかと思うほど大量にかけてくれたのが、味も適度で一番美味しかった。

 

 ほかにはウニやエビ、ホヤなども思い出にあるが、切りがないのでこれまでとする。北海道以外の地域でも思い出の美味しいものがあるし、海外、とくに中国にも食べ物の思い出があるが、北海道だけでくたびれてしまった。

見るだけでは

 追突事故で車を完全におシャカにされた後、車が必要だから新車を買い換えた。その時からJAFの会員になった。定期的に冊子が送られてくる。こういう冊子には結構面白い文章が載っていたりする。必ず読むのが松任谷正隆のエッセイだ。同じ目線で読ませてくれるので、共感しやすい。その中に、ときには松任谷由実が登場したりするから彼女まで身近に感じたりしてしまう。

 

 冊子の中ではやはり運転に関するものが多いけれど、事故の起こりやすい場面での注意点などの記事は、とても参考になる。参考になるけれど、それをリアルに想像すると運転することの怖さを感じたりする。運転をする、ということは結構きわどい状況の中に身を置くということなのだと思い知らされたりする。そうして事故が起きるのは、そういうことを感じていない人と遭遇するときで、そういう人が無数にハンドルを握っているのだ。

 

 ほかに川津幸子の料理レシピのコーナーがあって、それを読んで楽しむ。無理なく作れそうな料理が多い。それを自分で作ることを想像する。彼女には100文字レシピという本があって、Kindle版で購入できるようだ。年に一度くらい料理の雑誌を買ったりして、そういうものは古くならないからそのまま手許に残る。いつの間にか何冊もたまり、だいたい試すのはひとつかふたつ。見るだけでは料理のレパートリーは増えない。実際につくらなければ・・・などと思いながら、何もする気が起きないときなど、そういう冊子のレシピを眺めている。

『天使の耳 交通警察の夜』

 しばらく前に放映された、東野圭吾原作をもとにするNHKドラマ『天使の耳 交通警察の夜』全四回を一気見した。さすがに東野圭吾の原作で、見応えがあった。三年半ほど前に追突されて死にかけた経験があるので、交通事故のシーンは見るのがつらい。トラウマになっているようだ。だからこのドラマの冒頭部の交差点での衝突シーンを見て、ドラマを見るのをやめようかと思った。

 

 このドラマを録画してまで見ようと思ったのは、主演が小芝風花だったからだ。何年か前にやはりNHKの連続ドラマでそのコメディエンヌぶりを見て、その自然さとかわいさに一目惚れしたのだ。浜辺美波やわが愛しの多部未華子が好きになったのも、そういう役柄のドラマを見たのがきっかけだった。

 

 交通事故の責任はどこにあるのか、加害者はどちらで被害者はどちらか。その判定や交通法規はどこまで適正か。時に生死が関わることに理不尽な判定が下されていないか。それに対して人は何ができるのか。それを突き詰めていったとき、「正義」のお守(まも)りは何を抱え込むことになるのか。自ら強く希望して交通警察に新たに配属された新人(小芝風花)とその上司(安田顕)が自己検証していく過程で生じる謎や疑問、そこにそれぞれが抱える人生までが浮かび上がってくることもある。正義を追求しすぎると思わぬ陥穽にはまることも・・・。

 

 安田顕の演技はやはり素晴らしい、そして小芝風花はやはりとてもかわいい。やめずに最後まで見てよかった。でも事故のシーンは心に痛い。それと、私事ではあるが、事故の後、忘れられないのはこちらは死ぬほどの思いをしたのに、保険会社のベテラン担当者の慇懃無礼さである。補償は法律で定められたとおりであるからという言い方に誠意は感じられず、不快感だけが残った。その保険会社と加害者に怨みの気持ちを残されたけれど、彼らはとっくに忘れているだろう。

2024年7月27日 (土)

距離を置く

 オリンピックの喧噪から距離を置いている。テレビをほとんどつけない。日本選手の成績を今のところほとんど知らない。いまに知りたくなくても知ることになるのだろうが、その程度でいい。開会式の様子も見ていない。普段よりもかえって静かである。街に暮らしながら、山中に独りでいる仙人であるかのようである。本を開いて少し読み進めているうちにうつらうつらしたりして、意識は半ばもうろうとしている。

最上川

 芭蕉は本合海(もとあいかい)で舟に乗って最上川の舟下りをした。

 

最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふ恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に舟を下す。これに稲積みたるをや、稲舟といふならし。白糸の滝は青葉のひまひまに落ちて、仙人堂、岸に望みて立つ。水みなぎつて、舟危ふし。

 

  五月雨を 集めて早し 最上川

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 この最上川とその支流周辺が、今回の大雨で氾濫し、濁流となって大きな被害をもたらしたようだ。私はこの月の初めに新庄から本合海、芭蕉が下船した清川に泊まって最上川を見下ろし、庄内を走って秋田県の象潟へ抜けた。

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 いまは古口が最上川舟下りの乗船場で、終点が白糸の滝のすぐ先あたりである。私の父の生まれ故郷がその古口から支流を遡った谷間の村で、現在は戸沢村に属する。その戸沢村も大きな被害があったようだ。以前舟下りの舟に乗ったとき、前年に最上川の水害で舟下りの舟も多くが流され破損した、といっていた。今回も同じような被害があったものと思う。最上川とその周辺はいろいろな意味で私の思い入れのある場所で、今回の水害は他人事とは思われず、心を痛めている。

2024年7月26日 (金)

見苦しく感じること

 人を指さすことはあまりすべきことではないことだと思ってきた。人を指さす癖のある人を、そのことだけで毛嫌いしている人もいた。私は毛嫌いするほどではないが、公然と指さすのは失礼なこと、と思っている。ところがアメリカでは当たり前に人を指さすらしいことを、トランプのしぐさでたびたび目にする。トランプ以外でも、そのような指さすしぐさの人をよくみる。あなただ、あなたを特別私は見ているよ、という親愛の表現ででもあるのだろうか。国によって違うのだろうが、私には見苦しく感じる。日本人でもたぶん真似をする人が出てくるだろう。私が知らないだけで、もう当たり前に真似しているのかもしれない。

 

 プライムニュースで、民主党の大統領候補にほぼ決まりそうな、副大統領のハリスの笑顔が話題になっていた。私は以前からこの人の、とってつけたような笑い方に違和感を感じていて、気持ち悪かったのだが、彼女は緊張するとそれを笑顔でごまかそうとするのだという。なるほど、とりあえず笑顔でその場をしのごうというのは誰にでも普通にあることだろう。でも同じそういう笑い顔が、人によって好感が持てたり、気持ち悪く感じてしまうのはどうしてなのだろうか。

 

 ハリスは、しばしば笑うべき時や場合とは思えないようなときに笑って、周囲から浮いてしまうことがあるのだそうだ。笑いには、場にふさわしくないと周りを凍り付かせるような力がある。時に見ているこちらをいたたまれなくすることもある。ハリスの笑いは、そういう笑いにみえることがある。アメリカ人はハリスの笑いをどう感じているのだろうか。

 

 笑いといえば、岸田首相の笑いにも、本人は苦笑いや微笑のつもりなのかもしれないが、とってつけたような不自然な笑いを感じることがある。笑い方が不自然だと好感が持てない。好感が持てないから笑いが不自然にみえているのだろうか。どちらにしても、こちらを気持ち悪くさせるものは見苦しい。

中国名言集(13)

  自ら其の睫(まつげ)を見る能わず

 

 『韓非子』喩老篇にある、戦国時代末期の法家思想家の韓非子のことばで「智の目の如きを憂うる也。能く百歩の外を見るも、自ら睫を見る能わず」による。井波律子の解釈は「人の知恵が目のようであるのが心配だ。目は百歩も離れた遠い物は見られるが、自分のまつ毛はみられない」。

 

 後に、人の欠点はわかるが自分のことはわからないという意味で用いられるようになった。韓非子自身も遊説先の秦で獄に落とされ、獄死した。そもそも自分を直接自分自身で見ることはできないもので、だから自分を一番知らないのは自分だ、などと言われたりする。そうしてそのことをつい忘れている。他人の目に見えている自分を想像して自分を見直すこともときに必要だ。

マスク

 コロナ禍によって、一つ新しい習慣が身についた。手を洗うことである。それまではあまり手を洗わなかった。いまはことあるごとに丁寧に手を洗う。手首まで洗う。気持ちが好い。この習慣はもう無くならないだろう。

 

 マスクは当初つけ忘れることが多かったが、次第に習慣になった。それでも春頃からは、つけずにスーパーなどに行くことが当たり前になったが、マンション隣接のこのスーパーは高齢者の客が多いから、半数はマスクをつけていた。以前はノーマスクだと白い目で見られることもあったが、いまはとくにそういう視線は感じない。もちろん病院に行くときはマスクは必須だから忘れないように着用する。病院にはスクラッチバッグを持参する。保険証やお薬手帳、本や折りたたみ傘を入れている。そこに予備のマスクをいくつか入れておいて、つけずに出かけても間に合うようにしている。

 

 この頃またコロナが蔓延しているというので、少し前からスーパーへ行くときも再びマスクをつけるようにしている。高齢者で糖尿病で、慢性の泌尿器科の疾患を抱えているから、コロナにかかれば重症化リスクが高い。独り暮らしであるから自分で防衛するしかないのだ。

 

 秋には新たなワクチン接種の案内があるらしいが、今回からは有料である。七千円ほど払わなければならないらしい。とはいえ金の問題はともかく、新型のウイルスは非常に感染力が高いというから、有効ならワクチンを打った方が好いのではないかとも思っている。思案中で、世間の様子をうかがっている。

2024年7月25日 (木)

一生懸命やっても無用の存在

 人は主張したいことをただ声高に述べただけでは、意見が同じ人間にたいしてならともかく、そうでない人には伝わらないことが多い。声高で一方的ならなおさらだ。聴く気にならなくさせるだけで、ときには嫌悪すら感じさせてしまう。

 

 昨晩のBSフジプライムニュース(たいてい録画しておいて翌日見る)は台湾有事に関連しての台湾情勢が論じられていた。内容についての意見は見方や立場によって違うだろうから、それはここでは置いておく。それよりもまず朱建榮が呼ばれているのを見ただけで、見るのをやめようかとも思ったが、我慢した。

 

 例によって、相手の話に対する反論に終始し、一方的な中国側の立場に立った物言いをまくし立て続けていた。これでは中国の言い分をなるほどそういう理屈なのか、と理解する以前に、中国というのはこのように、相手など関係なしの、自分の論理で自分の言い分だけを一方的にいう国なのだなあと思わせてしまう。朱健榮はバカではないはずだから、自分がこんな風にまくし立てているのを自分で恥ずかしいと思っているのではないか、などとつい同情したくなってしまった。

 

 それというのも十年ほど前に、彼は中国で半年間行方不明になり、消息不明だったが、後に中国の公安に拘束されていたらしいことが分かっている。中国側に立った発言をして見せていながら、じつは日本に情報リークをしているのではないかと疑われたのである。スパイとして送り込んだが二重スパイではないかと疑われたのだ、などと噂されたりした。

 

 無事帰国したのだから、疑いが晴れたのか、新たに何らかの使命を持たされたのか知らないが、以前にも増して中国側の立場を中国政府以上に声高にわめき続けているのである。まるで何かにおびえてみえてしまうのは私の偏見によるものか。しかしこれでは中国にとってあまりに露骨すぎて、反感のみを日本人に植え付けている、とみえているのではないかと心配するのである。もう少しマイルドに巧妙に反論すれば好いことをあんな言い方を続けていれば、彼はかえって中国の立場を傷つけることになりかねない。無用の存在としていまにお役御免を言い渡されるのではないか。

中国名言集(12)

  尽(ことごと)く書を信ずれば 即ち書無きに如かず

 

 孟子のことば。ここでいう「書」とは『書経』を指す。孟子は『書経』のなかの記述に気に入らないところがあって、「まるごと信じなければならないのなら『書経』などない方がましだ」といった。このことばが後生(こうせい)、「書物をまるごと信じるなら書物などない方がましだ」と一般化された言い方となって使われるようになった。

 

 聖書に書いてあるから真実だ、などという。聖書とは違うから嘘だ、と決めつけたりする。アメリカでは未だに地動説を信じない人間が驚くほどたくさんいるのだと聞く。

 

 新聞で読んだから事実だ、テレビで言っていたから事実だ、などという人間がしばしばいた。ネットで見たから事実だ、いや事実ではないなどと今はいう。思い出すのは文化大革命の時の毛沢東語録だ。紅衛兵が小さな赤い本を手に掲げて標的にした人間をよったたかって袋だたきにし、負傷させ、ときに虐殺した。毛沢東語録に従ったつもりなのである。トランプの名を掲げた聖書があらたに売り出されて、たちまち売り尽くさんばかりの勢いだという。

咲き出す

 昨朝から鉢植えの朝顔が咲きはじめた。昨日は二つ、今日は四つ咲いている。つぼみがいくつかあるので明日も目を楽しませてもらえそうだ。いつもは鉢の土が乾いているのに今朝は湿っている。夜も驟雨があったのだろうか。

 

 昨日は泌尿器科の定期検診日、午後からなので、その時間の病院への往復はつらいなあ、と思っていたら、昨日はそれほど高温ではなかったのはありがたかった。午前中にも強いにわか雨があったが、帰り道で、我が家にもう少しというところで雨が降り出した。久しぶりに傘をさした。

 

 診察はいつものように予約時間よりだいぶ開始が遅かった。それよりも、医師から「尿に濁りが多く、気になることがいくつかある、前立腺のあたりに棲み着いた菌が活発化している気配がある」といわれる。排尿痛、排尿困難、発熱などの症状があったらすぐ診察に来るようにとのこと。菌の培養をして精密なチェックをしてみるそうだ。というわけで次回は比較的に近い検診となった。とくに自覚症状はないが、泌尿器系に耐性菌が棲み着いているので、体調不良が菌の増殖を呼び、菌の増殖が体調不良をもたらす。なんとなくの不調はこれが原因だったのかもしれない。糖尿病とも影響し合う恐れがあるそうだ。気をつけなければ。

2024年7月24日 (水)

落とし蓋

 魚を煮るときなど、木の落とし蓋を使っていたが、洗うのが面倒だし、魚の皮がはりついたりすることもある。料理番組では紙の落とし蓋をしているのをよく見る。そういう落とし蓋用の紙が売られているものだと思ってスーパーをよくよく探したけれど残念ながら見つからない。

 

 眼の色のいい、生きの良さそうな鯛のカブトが値打ちで売られていた。晩の酒の肴にしようと即購入。さて落とし蓋である。クッキングペーパーを鍋の大きさに合わせて丸くはさみで切り、真ん中に穴を空ける。それを紙の落とし蓋として煮たら、何のことはない、うまく煮ることができた。たぶん料理番組の紙の落とし蓋もこうやって作っているのであって、取り立ててそういうものが売られているわけではないのかもしれない。常識なのかもしれないが、私は初めて知った。

 

 魚のアラは煮ることが多い。刺身より、鮮度のよいアラを煮たものの方が好きなくらいだ。とことんしゃぶり尽くせてムダがない。母などは、お前が食べた後は、猫も食べるところがないといっていた。

中国名言集(11)

  忽(こつ)として遠行の客(かく)の如し

 

 古詩(作者不詳)の詩句。

 

「人 天地のあいだに生まれ
 忽として遠行の客の如し
 斗酒もて相い娯楽し
 聊(いささ)か厚しとし薄しと為さず」

 

が元の詩。

 

意味は
 人はこの世に生まれても、遠国へ行く旅人のようにたちまち立ち去り、二度と帰ることはない。どうせ短い人生なら酒を飲んで愉快に過ごし、それでよしとしよう。

 

 そういう風に「斗酒もて相い娯楽し」た友人知人を頭に思い浮かべた。そして遠国に向かった友もいる。

 

本日午後は泌尿器科の定期検診がある。たいてい予約時間よりも一時間以上待たされるので、帰るのは夕方になる。旅だって帰らぬ友を偲んで郡上白鳥の銘酒「元文」でも飲もうか。

申請サポート

 コーヒーをインスタントではなく、挽いた粉を買って専用の機械で煎れて飲む。インスタントより美味しい。もともと紅茶をよく飲み、コーヒーはあまり飲まなかったのだが、いまはコーヒーの方を飲むことが多い。粉はモカブレンドを買う。専門店で買うのではなく、スーパーの棚の塊のパックを買う。だから安い。モカは後味に酸味があって、それが気に入っている。

 

 この頃は牛乳を一緒に飲む。混ぜるのではない、コーヒーの香りと味を一口二口楽しんだら、その後に牛乳を一口飲むのだ。そうすると、牛乳が濃厚に感じられ、しかも甘い。コーヒーと牛乳の両方の味を濃く感じることができる。牛乳をコーヒーに混ぜてしまうと、どちらも全く違う、薄味になってしまって、うまくもなんともないから不思議だ。

 

 カルピスの牛乳割りもときどきつくる。とても美味しくて好きなのだが、医師からはカロリーと糖分の取り過ぎになるからやめろ、といわれている。

 

 市役所で教えてもらった妻のマイナンバーカードの作り方が、スマホを使いこなせないとなかなか面倒でお手上げ状態である。私はキーボード入力しかできず、スマホの入力が苦手というかほとんど使いこなせない。市役所から、申請サポートの出張が近くのスーパーで行われるというチラシがあった。それで見に行ったら、私の日付の勘違いで、私の見た日付は八月のもの、七月のはすでに過ぎてしまっていた。残念だ。来月は忘れずに行くことにして、カレンダーに明記しておいた。

2024年7月23日 (火)

取り戻せるのか

 トランプは、強いアメリカを取り戻すのだという。私から見れば、アメリカは十分に強いと思えるが、トランプが考えるアメリカは、世界中に大盤振る舞いをしたあげくに、他国ばかりが利益を上げ、アメリカは損をしていると考えている。その証拠に、アメリカの製造業は衰退し、海外の製造業は利益を上げ、アメリカの労働者は貧乏になり、職も失っている。

 

 ラストベルトを見れば明らかなように、その指摘は正しい。しかし、それはアメリカの労働者の賃金が高かったから、アメリカで生産するよりも日本や韓国や、中国で生産するほうが安く作れたからであり、明らかに競争力の問題であった。おまけに製品の品質も(一説には労働者の質も)劣っていることが多かった。関税障壁を設けて防衛に努めたけれども、海外からの製品流入はとまらなかった。アメリカ国民は安くて品質もよいものを択ぶ。それを止めようとしても無理な話しだ。

 

 アメリカ企業の一部はついには韓国や中国に生産拠点を移し、低賃金で高品質の製品を逆輸入して利益を上げた。その時に標榜したのがグローバリズムであった。グローバリズムは市場開放で、その恩恵は韓国や中国に、そしてもっともアメリカ自身に及んだ。それを推進したのは主に民主党である。アメリカの労働者は考慮されていない。本来民主党は労働者を支持基盤にしていたはずだが、いつの間にかアメリカの利益集団を支持基盤とするようになっていた。

 

 もうひとつ忘れてならないのは、アメリカが国内製造業を空洞化させたときに、巧妙な利益確保の手段を行使したことである。それはドルが基軸通貨であることを最大限活用して、金融でもうけるという手法を拡大させたことだ。おかげでものを作らずに、金を動かすだけで利益を生み出すという打ち出の小槌を振ることができるようになった。これでは、笑いが止まらないわけである。さらに情報を管理する会社が世界を支配するというシステムを作り上げた。実態のないもので利益を上げる、ということに大成功したわけである。アメリカはいままでよりもさらにさらに豊かになり、個人で小国の国家ほどの収入を得る者を多数輩出した。

 

 ものを作らなくてよいのである。しからばものを作る役割の人、労働者は必要がない。だからアメリカの労働者は職を失い、サービス業でしか食べていけない社会が現出した。その労働者たちの怒りがどこに向かったか。そしてその労働者の怒りのエネルギーを集めて脚光をあびたのがトランプである。アメリカはとてつもなく豊かになったが、実際に豊かになったのはほんの一握り、その一握りが巨額の資産をひたすら積み上げ、それに不満を持つ多くのアメリカ人が怒りに燃えている。

 

 アメリカの大盤振る舞いはやめてしまえ、という。アメリカで再びものを作ることができるようにせよという。世界のさまざまな出来事にはもう関わるな、という。アメリカ第一主義で好いのだという。しかし、アメリカの大盤振る舞いによって世界の経済が回っている。そしてドルが基軸通貨でいられるのは、アメリカが経済を廻す大きな貢献をしているからである。今さらアメリカでものを作って競争に勝てる品質のものが供給できるのか。価格競争できるのか。輸入はストップ、または高い関税で阻止するのだという。

 

 次第に世界はアメリカではもうけられないと背を向けるようになるだろう。そうなればドルが基軸通貨である意味も失っていく。世界はグローバル経済ではなくなっていくしかない。その時にアメリカはその持っている力を自ら失っているだろう。私はアメリカのためにも世界のためにもそれでいいのだと思っている。そしてアメリカ国民もそれを望んでいるのだと思う。それがアメリカを取り戻す、ということなのだろう。

 ただし、それに取って代わろうという某国が、いまよりもさらに悪しき世界をもたらしかねない恐れがあって、それをどうするのか。そういう未来は近そうであるが、みんながもたらしたものでもあるのだから、仕方がないことでもあるとあきらめている。

中国名言集(10)

  三人 虎を成す

 

 「三人 市虎を成す」ともいう。起こりそうもないことを誰かが言っても一笑に付されるが、次々に言うものがあらわれると本当だと思われていく。市場に虎が出たぞ、という者が一人だけなら信じられないが、三人いるとそれが本当のことになって、いないはずの虎が存在してしまう。デマもそれを次々に伝え、拡散する者がいると本当のことになってしまう。自分の常識を信じ、事実確認をするのは大事なことだろう。間違っても拡散者にはなりたくないものだ。

眼が疲れすぎているので

 読書やドラマ鑑賞などで普段以上に目を酷使した(夜中まで北欧のミステリードラマを一気見していた)せいか、疲れ眼用の目薬を差しても目がかすむ。色の鮮やかさは損なわれていないから、白内障の時とは違う。眼が疲れすぎているようなので、午前中は眼をやすめようと思う。それとも久しぶりに外を歩いたので、眼が日焼けしたのだろうか。

2024年7月22日 (月)

大根のタネ

 昨年、カイワレのタネを購入し、少し大きめの鉢に一握りくらい(二三十粒くらいか)蒔いては、七八センチになったものを採って食べていた。冬になって取り残しが大きくなって、小さな大根ができたので食べてみたけれどあまり美味しくなかった。そのまま抜かずにおいたものが二本ほど、一メートル以上になって枝が張り、花が次々に咲いた。そのまま放置していたらサヤ状のものが百以上も実り、カラカラになってからそれを集めておいた。

 

 それを割ると、なかにあのカイワレのタネと同じものが何粒か入っている。いまそのタネを蒔いては伸びたものをカイワレとして食している。たくさんあるから秋までずっと食べ続けることができそうだ。

 

 カイワレが大根であること、そのまま大きくすれば大根になり、さらに放っておくと硬い枝が張って大根の花が咲き、大根のタネが採れることを実際に見た。大根は菜っ葉の仲間である。菜っ葉も同じように放置すると同じようにタネが取れるのであろう。おもしろい。

待たされた

 定期検診を受けるために病院まで歩く。調子が悪いと20分、調子がよければ18分で歩く。今日は19分だったから、心配したほど悪くない。ただし、最近の歩数よりも一割近く多い。歩幅が狭くなっているのだ。老化の表れである。

 

 早く帰りたかったから、少し早めに行って自動受付機の前に並んだ。おかげで採血などは順調に済んだのに、予約時間になっても医師からなかなか呼ばれない。私だけではなくほかの早めに行った人たちも誰も呼ばれない。30分ほど遅れてようやく診察が始まった。私は待たされるのが苦手なので、こういうときにはイライラしてくる。本を読んでいても集中できなくなってしまう。病院というのはこういうもので、イライラしても仕方がないのだが・・・。

 

 血糖値が今までになく上がっている。もちろんHマークだが、それでも医師から見れば許容範囲ギリギリで、これより上がらないように気をつけましょう、ということで、とくにつよい注意はなかった。まあまあか。

 

 薬局に行く。座席が埋まるほど人が多い。いつもは半分くらいなのに。受付手続きがマイナカードを使用する方式に変わった。暗証番号を忘れたので、顔認証にする。初めてマイナカードを使った。薬をもらって帰宅し、一息入れてから、スーパーに弁当を買いに行く。カロリーの高そうな揚げ物がいくつも入った「のり弁」である。なにしろ空腹時血糖を測るために、朝は絶食しているから腹が減っているのである。食べ終わったところでこのブログを書いている。

暑い

 この頃は夜明けの五時前後に目が覚める。南側のベランダの窓を開け、北側の寝室の窓を開けて室内の空気を入れ換えるのだが、室温は29℃を超えていて、暑い。連日の猛暑日で、最高気温が今日は37℃予想、明日と明後日は38℃予想と体温より高い日が続く。連日熱中症アラートが発令されていて、快適な室内にとどまるべきところ、今日は糖尿病の定期検診に病院へ行かなければならない。しばらく歩いていないから、病院までの二十分の距離が遠いなあ。

 

 朝顔の蔓が伸びに伸びて、ベランダの枠に絡みついている。小さなつぼみがいくつもついているのだが、それがなかなか大きくならない。咲き出すまであと何日かかるのだろう。松葉ボタンはかわいい花を毎日のように四つ五つ見せてくれている。鉢植えだから水やりは欠かすわけには行かない。来週、ちょっと温泉に出かけるつもりだが、それをしのげるだろうか。こういうときには庭があると好いなあと思う。

2024年7月21日 (日)

『お言葉ですが・・・』

 『お言葉ですが・・・』のシリーズは、もともと中国文学者の高島俊男が『週間文春』に連載していたエッセイを編集したもの。ことばにこだわりを持つ人に人気があり、ファンが多い。一年間を一冊にまとめて出版されてきて、後でそれぞれが文春文庫にもなった。こうして十一年連載が続いて、打ち切りとなった。理由があるのだろうがはっきりしない。人気がなくなったからだ、と高島俊男は自嘲しているが、そんなはずはないと私は思う。

 

 こうして十年目までは単行本と文庫本がつくられたのだが、十一年目は、連合出版が、まったく同じ体裁で第十一巻を出版した。私は十巻までは文春文庫版を持っていて、第十一巻は連合出版のハードカバーを持っている。連載打ち止め後、それ以前に書いたものや、それ以後に書いたものをある程度の分量たまるごとに、別巻として同じく連合出版から出版され続けた。私は別巻の第七巻まで揃えているが、それ以後もあるかもしれない。なんとなくそのいきさつに不愉快なものを感じたりするけれど、思い過ごしかもしれない。不愉快なことというのは、ことばにこだわれば、当然マスコミの自主規制に抵触することが明らかだからだ。曾野綾子なども不快な目に遭ったことがあるようだし、見識のある作家ほどそういうことが起こる。

 

 別巻一のなかにこんな文章がある。抜粋しながら引用する。

 

 いったい中国の学問は馬融鄭玄の昔より古書をとらえきたってこれに重箱の隅をつつく式の穿鑿を加える(面倒だから以下これを重隅流と略称する)をもって主流とする。わたしは「中国」と聞いた途端に「嫌い!」と条件反射する傾向があってどうも困るのだが、この重隅流だけは性に合っているとみえて大好きである。
 かつてある前輩にわたしのこの重隅流を話したところ、「神は細部に宿り給うと言う。細部は神につながってこそ意味がある。細部のための細部は無意味だ」と教えられた。・・・この前輩はもと史学をやった人だからその趣旨は誠に然りであるが、実際のところ中国の重隅流は、・・・細かいところに拘泥してああだこうだとスッタモンダすること自体が楽しいからやっているので、私が好きなのもそこなのである。
・・・
 ただし、・・・片言隻句の遊びだからこそ、チャランポランであってはならない。心血を注がねばならぬ。かつて王貞治さんが「たかが野球だから懸命にやらなければいけないんだ」と言ったのこそ至言である。

 

 私はこういう人の書いたものが好きである。高島俊男は自分のまちがいを知ったら、そのいきさつと新たに知ったことについて必ず詳述し、間違ったものもそのまま残す。さらにまた新しい事実が分かるかもしれないから、それは自分に対して厳しい姿勢といえる。

中国名言集(9)

  巧言令色 鮮(すくな)し仁

 

 『論語』学而篇にある孔子のことば。笑みを絶やさず、歯の浮くような美辞麗句をならべる人間を孔子は軽蔑した。私が高校で初めて漢文を習ったときの、いくつかの名言のなかにこのことばがあり、一番これに感心した。本当にそうだなあと思ったのだ。そうしてそれは、他人のことだけではなく、自分に対してもそうだと思いながら、いままで生きてきて、はたして自分が巧言令色ではなかったか、と反省するのである。

 

 官僚の書いた決まり文句の文章を読み上げながら、いささかゆがみを感じさせる笑い顔をうかべる我が国の首相に、このことばの典型的な姿を感じる、といったら言い過ぎか。

偏った情報

 つい先日のBSフジのプライムニュースで、トランプについて論じていたとき、産経新聞でアメリカ情報に詳しい古森義久が、日本にいて日本のマスコミの報道だけ見ていると、トランプについて偏った情報しか報じていないから、トランプが再び大統領になったら日本や世界はとんでもないことになる、と思われているが、もう少し冷静になった方がよいと注意していた。

 

 別に小森義久はトランプ支持者ではない。トランプが悪でバイデンが善、というような単純な考え方を戒めているのである。それぞれ問題点も在り、正しいこともしている。最初に悪である、と決めつければ評価のしようがない。トランプにおびえてさえいる日本の風潮に、もう少し冷静になれ、といっているのである。トランプがいうとおり、バイデンだからロシアがウクライナが侵攻した、というのはあながちとんでもない話でもない。オバマやバイデンの民主党政権の優柔不断さが、中東でもウクライナでも結果的に戦火をもたらしているという見方もできるのだ。

 

 なるほどと思うけれど、報じられている熱狂的なトランプ支持者の、まるでカルト宗教のような、それこそ麻原彰晃を祭り上げるオウム真理教信者のような絵を朝から見せられると、なんだかとんでもないことになりそうに思うではないか。

2024年7月20日 (土)

批判と批判的と

 テンションが下がっているところに、さらにちょっと精神的にこたえることがあったので、ますます厭世的な気分になっている。そういうときは美味しいつまみで酒を飲むのが私にとっての特効薬なのだが、とにかく月曜日の糖尿病の定期検診が済むまで我慢しなければ、と思っている(とはいえ昨晩はちょっとだけ飲んだ)。

 

 それでも、とにかく少しだけでも本を読んだり、ドキュメントを見たりドラマを見たりして時間を過ごしている。今回見た、2002年のNHKの番組、『空海の風景』前編、後編の再放送は、司馬遼太郎の同名の作品を元にしていて、私はこの本が出たときに読んでいろいろ勉強になった。思えば司馬遼太郎はこの頃から小説をほとんど書かなくなり、『街道をゆく』をはじめとする歴史エッセイ風のものばかりを書くようになったのではないか。

 

 空海といえば、西安の青龍寺(空海が恵果から密教の秘技全般を引き継いだ長安のお寺・廃寺になっていたのが再建された)にもいったことがあるし、若いときにこもって修行した室戸岬のすぐ近くの洞窟にも入ってみたことがある。見ていたらなんだか胸に響くものがあって、どうしてか自分でも分からず不思議な気持ちになった。繊細に、つまり敏感になっているようだ。ほかのさまざまなことを同時に思い出していた。おおげさだが、私にとっての宇宙観のようなものがほの見えた気がした。

 

 まだ読み始めたままになっている赤坂憲雄の『柳田国男を読む』という本をすこし読みすすめていたら、批判的に読んでそれを乗り越えようとしているということと、柳田国男を読んで批判するということの大きな違いを感じた。私は学問をするときに、やはり先達者に対してそこに敬意というものがあってしかるべきだと思う。それは先達をまず全て受け入れ、評価し、そこから足らざる処、疑問に思うことを解明して自らがそこに新たに石を積む、ということで学問は展開していくものだと思う。

 

 とことん柳田国男を読み込み、そこにある柳田国男のある呪縛を読み解いて、新たな視点を付け加えていくこと、それを目指しているのが赤坂憲雄だと思った。そこにははっきりと柳田国男に対する敬意があり、それこそが批判的な読み方だと私は思う。世の中には柳田国男の民俗学を金科玉条にする者がいるかと思えば、その限界を指摘して批判し、その問題点をあげつらい否定する向きをしばしば見たりする。そういうものに先達への敬意のかけらもなかったりすると、読む気が失せてしまう。

 

 民俗学だけのことだけではない。批判が即否定に繋がる言説をしばしば見聞きする。そういう主張は元気がよいけれど、深みも広がりも欠いていて、欠点を突けば自分が偉くなったような錯覚をしているように見えたりする。世の中はそういう「白か黒か」ばかりになって、浅薄になっていると思ったりした。

中国名言集(8)

  天下の興亡は匹夫も責め在り

 

 明末清初の顧炎武のことば。顧炎武は満州族王朝である清に仕えることを潔しとせずに明の遺民として生きた。顧炎武は政治家というよりも学者であったから、激動の時代を生き抜くことができたともいえる。

 

 このことばは「天下の興亡は一人の人間にも責任がある」という意味である。戦争があればその戦争の責任は国家だけにあるのではなく、その国民一人一人にもあるという、当たり前のことをいっている。責任はとれなくても責任を感じるくらいのことはしなければならないということであろう。ガザで虐殺が行われれば、当然イスラエル国民一人一人に責任があるし、ウクライナで市民が殺され続けていればその責任はロシア人全てにあるし、太平洋戦争の責任は日本国民全てにあるということで、リーダーや軍部だけに責任があったとして、それを責めることで自分が責任を免れることはできないということである。

 ついでにいえば、アメリカは戦争に勝つために日本を繰り返し空襲した。都市の周辺を爆撃してその中に焼夷弾を投下し、(効率的、経済的に)一般市民を虐殺した。あまつさえ原爆を投下して何十万人を瞬時に、そして長期間苦しめ殺害した。いまイスラエルが行っている虐殺よりも遙かに大がかりな虐殺だったが、それは正義の遂行のために行われた、とアメリカ人の多くは胸を張る。だからいまイスラエルのやっていることは、彼らにとって何の問題もないと見るものが多い。彼らに責任があるのかないのか、いつか歴史がその答を出すと思う。天下は必ず興亡する。大国ほど自らの重みで自壊するものである。アメリカも中国もロシアも衰退するだろう。私の呪いである。効き目はないが。

また雑感

 卓上のデジタル時計と空気清浄機が部屋の温度をしめしてくれる。デジタル温度計よりも空気清浄機のしめす温度がいつも一度以上高い。場所と高さが違うとはいえ、ほとんどすぐそばであるのにどうしてだろう。空気の温度を測るというのはなかなか正確には行かないのだろうか。その温度計の温度を目安にエアコンを入れる。今月中はしばらく猛暑日が続くようだ。来週は定期検診もあって、何度も病院や歯医者へ往復しなければならない。通院することがかえって体によくない気がする。

 

 また子供が虐待死させられた話がニュースになっている。人間というのは無意識に弱い者をいじめてしまう傾向があるが、それを理性と情で抑えるのが大人というもので、抵抗できない子供が犠牲になるのは卑劣な犯罪であり、無惨である。無念である。二度も児童相談所に保護されたが、「子供が家に帰りたいといった」、から親元へ帰した結果の死である。虐待が明らかならどうして親元に帰したのか、という批判があるだろう。では子供が帰りたいというのを児童相談所が帰さなかったら、批判者はどうするだろうか。親からの抗議に毅然と立ち向かうことができるなら批判する資格がある。しかし、今は人権の時代である。子供の意思を尊重しないのか、というだろう。そういう人が必ず言うのが「二度とこのようなことがあってはならない」ということばだ。その決まり文句を聞くたびにむなしい思いがする。児童相談所は全くの人手不足で予算も限られているという報道もあった。あるはずの権限も、人権の前に行使することができないという実情もあるようだ。ことが起きれば批判ばかり、二度とないようにするはずが、繰り返し同じことが起きて、なすすべがない。

2024年7月19日 (金)

雑感

 知人の知り合いが亡くなって、葬儀の日がなかなか決まらず、ずいぶん先のことになったというので理由を尋ねたら、火葬場が取れないのだそうだ。今朝、まさにそのことをNHKで報じていた。高齢者が増えて長生きしているのは結構だが、人はいつか死ぬ。高齢者が増えれば順送りで死者が増えるのは当然である。これは一時的ではなくて当分の間増え続けるだろう。日本では、死者は原則火葬しなければならないから、死者が増えればそれに対応して火葬も増え、火葬場もそれに対応しなければならないのに対応できていないので、亡くなって一週間どころか十日以上待たされることがざらになっているという。知人の話は特別な話ではなかったのだ。

 

 人手不足の時代である。火葬場で働く人もにわかに増やすわけには行かないし、なり手もそれほどいるとは思えない。さらに火葬場の新設をしたくてもできないという。いまどき幼稚園保育園の新設すら反対運動で潰される時代である。公園で遊ぶ子供の声がうるさいと、公園を使えなくした人物もいた。ゴミ処理工場などとんでもない、火葬場だって公然と反対するのである。自分はゴミも出すし、身内も死ぬし、自分もいつか死ぬのに、である。反対は権利である。人権である。権利は行使しなければ損だ。・・・いやはや、いやな世の中になったものだ。

 

 さいわいいまは過疎地があるから、そこにさまざまな処理場や火葬場をつくればよいと思うけれど、それでも、売れもしない、自分が住んでいない土地の値打ちが下がるから反対、というのだろうなあ。そうして、猿と熊と鹿の棲む山奥につくって、どうしてこんな不便な場所に火葬場をつくったのだ、と当の本人がぼやくのだろう。

中国名言集(7)

   三人行けば必ず我が師あり

 

 『論語』述而篇にある孔子のことば。「其の善き者を択んで之に従う。其の善かざる者にしてこれを改む」と続く。他人の行動を見て、あれは善いから自分もそうしよう、あれは善くないから自分はああはなりたくないと思う、それは善い人からも悪い人からも教えられるということで、それが師である、というのである。

 

 これが二人ではなく、三人であることがポイントかと思う。三人だから相対的に見ることができるが、二人だとそういう客観的な見方ができにくいからだ。

 

 今は、もうけた人と損した人、そういうことで他人を師として(それを参考に生きて)いる時代か。私はケチだけれど、そういう生き方は嫌いだ。うまくもうけることが善いことだとは思わない。

気をつけよう

 占いは、それを気にしすぎることはないものの、あればつい読んでしまう。ある占いの今日の私は「ことばに気をつけろ」ということであった。無用の言い過ぎが相手を傷つけるという。過去にも経験のあることで、たいてい後で気がついて後悔する。気をつけよう。

 

 本日は妻の病院へ行く。このところの妻は、面会しても穏やかで、そのことは結構なことである。ただ、いつもながら面会が済むと名残惜しそうな気配も見せず、もちろん、また来てね、のことばもないだろう。相手の気持ちを考えた言動ができなくなっているので、仕方のないこととはいえ、なんとなく無常を感じる。おおげさか。そうそう、ことばに気をつけるのだった、忘れないようにしよう。

2024年7月18日 (木)

どうも原因は・・・

 このところの今までにない脱力感は、どうも血糖値が下がりすぎているからではないかと思う。酒も、甘いものも控えているので、結果的に糖尿病の薬が効きすぎているのではないか。先ほど、試しに甘いもの・・・名古屋名物、小倉バターサンドを買ってきてコーヒーとともに食べてみたところだ。いきなり元気復活とは行かないし、なにもかわりがない。今晩、娘にもらったウナギで、酒・・・飲み残しの高清水の大吟醸を飲んでみようかな。

 

 低血糖症状が出たときのためのブドウ糖はもらってあるが、何年もそれが必要だったことはない。それを飲むほどのことではない気がしているのだが・・・。

中国名言集(6)

 本日の名古屋の最高気温予想は36℃だそうだ。これでは梅雨が明けたようだからと散歩に出るわけにも行かない。体が暑さに慣れるまで、引き続き引きこもりを続けるしかないか。やや贅沢ながら、定期検診が済んだらこの月末あたりに近場の下呂の郊外の温泉に、涼みがてら二三日避暑にでも行こうか。それなら上げ膳据え膳で、温泉三昧読書三昧が楽しめる。何もする気が起きないならそれも好いと思うが、さて、夏休みで宿が取れるだろうか。

 

 昨日は娘が来てくれたが、遅めだったのでゆっくり話ができなかったのが残念だが、みやげにウナギを持参してくれたのはうれしいことであった。体力をつけて元気を出せということである。

 

 さて名言集の続き、

 

  人の患(うれ)いは好んで人の師と為るに在り

 

『孟子』の離婁篇にある孟子のことばだそうで、井波律子の解釈によれば、「人たる者の困った点は他人の先生になりたがることである」だそうである。「誰しもちょっとした知識があると得意満面、押しつけがましく他人にひけらかしそうになる。もって瞑すべしである」と書いているところを見れば、井波律子先生も思い当たるところがあるのであろう。

 

 知識がたくさんある井波律子にしてそうであるから、私などは穴があったら入りたいぐらいである・・・などと書いて、たぶんすぐそんなことを忘れて知ったかぶりを始めてしまう。まことに「人たる者の困った点」なのであろう。

管理すべきではないもの

 優生保護法について詳しく知っているわけではないが、子供の時にこの法律の話を知って、どうしてそんな法律があるのか疑問に思った。その後それがそのままであったとしたら、それはやはりおかしなことで、今回問題になったことは、それが放置されてきたことのつけを払うことになったということだろう。子供を産むことに国家の管理が入るなどというのはやはりおかしいことだと思う。中国ではないのだから。

 

 さはさりながら、同時に、子供を産むのならば、子供は親が責任を持って自分で育てるべきだという、当たり前のこともいっておきたい。産んでも自分が育てることができずに、誰かに育ててもらわなければならないようなら、格別の事情がない限り、産むのを控えるべきだと思う。今現在の日本では、子供は生まれてしまえば社会が全力を挙げて育て上げてくれる。それに甘えすぎてはいけない。

 

 単純すぎるかもしれないが、いま私にいえるのはこれだけである。

2024年7月17日 (水)

『三国志演義(1)』

 中国の歴史を読んでいると、宦官や外戚の専横が繰り返し行われ、それによって国が乱れて傾き、乱世となり、その果てにまた統一がなされて、の繰り返しである。『三国志演義』の冒頭も、「そもそも天下の大勢は、分裂が長ければ必ず統一され、統一が長ければ必ず分裂するものである」で始まる。

 

 劉邦の起こした漢の時代は王莽の簒奪で一度途切れ、再統一されて後漢の時代となるが、その後漢は体制が弱く、特に宦官と外戚による害が甚だしかった。そんな中に民衆の反乱である黄巾の乱が起こり、その鎮圧のための名目で各地の有力者が集められる。しかし問題は外部よりも内部にある。その片付けのゴタゴタの中、漁夫の利を占めて権力を握ったのが董卓というとんでもない男であった。

 

 後漢がついに滅びて魏、呉、蜀の三国の鼎立に至るまでの話は案外長い。だから三国志といっても前半はほとんど後漢の時代なのである。その経緯を丁寧に説明しなくても、興味のある人は二度や三度は『三国志』を冠する本を読んでいるはずだから、今さらであろう。私など十種類以上読んでいると思う(きっちり数えていないから分からない)。

 

 この井波律子の全四巻の『三国志演義』(彼女の創作ではなく、翻訳である)の第一巻は、その後漢の宮中の混乱から始まり、曹操が袁紹を打ち破る「官渡の戦い」までが語られていく。この中の、とくに貂蟬(ちょうせん)に関連する部分を取り上げてみたい。貂蟬は絶世の美女として登場するが、正史の『三国志』には登場せず、架空の女性である。

 

 後漢王朝を我が物にした董卓は、皇帝を交替させ、新しく献帝(後漢最後の皇帝・案外長生きする)を皇帝とする。その横暴残虐な振る舞いは、悪魔のようである(とはいえ、後漢の時代にもそういう権力者は掃いて捨てるほどいた)。その献帝の重臣である王允は、自分の歌姫である美女、貂蟬を使って董卓の排除を図る。貂蟬を使って董卓と董卓の養子である猛将・呂布を仲違いさせ、呂布に董卓を殺させるのである。これは中国に雑劇『連環の計』というのがあって、だいぶ昔だが、それを私はテレビで面白く見たことがある。そのシーンを思い出した。

 

 王允も董卓の死後に殺されてしまい、貂蟬はそのあと呂布の第二夫人となって行をともにするのである。呂布もついに殺されるから、貂蟬のその後は書き込まれていない。呂布の乗っていた名馬・赤兎馬については関羽の乗馬となってその後も書かれていくのだが・・・・。

 

 それにしても何度でもだまされる者、裏切られる者、が出てきて、その愚かさを読んでいると身につまされる。

体が動き出さない

 頭は(いつものように悪いなりに働いているので)さほど変わらないのだが、体がだるくて何をするにも体が動き出さない。あれをしてこれをして、と思いながらぼんやりしている。メモに書き出した、これからすることの項目がいつまでたっても消去できない。熱っぽいこともなく、念のために体温を測っても平熱である。こういうこともときにないではないが、あまりに体が気持ちと連動しなさすぎる。エアコンは冷えすぎない程度に常時効かせているし、なんとか食事も欠かさず食べている。ただその食事の内容が今ひとつ貧弱な気はする。食べ過ぎないよう、ウエイトコントロールもしているのだ。気持ちが鬱である、ということとはすこし違うようだ。

 

 来週、糖尿病の定期検診の日と泌尿器科の定期検診の日が立て続けにあるので、日曜日から休酒中である。だからといって酒が飲みたくてたまらないということはない。酔うほど酒を飲むとたいていどんな不調も治るのに、飲みたいところを我慢しているところはある。あと一週間足らずの我慢だと思うけれど、思った以上に沈滞している。それでも本だけは読み出すと読み続けることができる。頭は体の一部ではあるけれど、沈滞はしていないみたいだ。どうしていいかわからない。

 そうこうしていたら、娘が来てくれるという。連絡もしていないのに珍しく娘から連絡があった。何か感じたのだろうか。

『十面埋伏』

 「十面埋伏」といえば、今まさに読んでいる『三国史演義』のなかの「官渡の戦い」で曹操が袁紹に勝利した後、「倉亭の戦い」で用いた戦術のことである。これによって袁紹は壊滅的な敗北をして三国志の舞台から退場することになる。

 

 張平(1953-)の小説『十面埋伏』はしかし、歴史物語ではない。現代中国の地方都市の腐敗が地方都市の行政機能全般に及んでいるなかで、その腐敗に対して公安(日本でいえば警察)が「十面埋伏」の計を用いて根こそぎの検挙を画策する、という話である。

 

 公安から刑務所に移職した羅維民は、たまたま一時的に担当を引き受けた受刑者の王国炎の告白に驚嘆する。それは公安が汚点とする未解決事件に関するものであった。ところが王国炎は精神異常者として取り扱われていて、刑務所内の上司たちは羅維民の報告をまったく取り上げない。そのことに異常を感じた羅維民は密かに王国炎について詳しく調査を行っていくのだが、それに対して今度は上司たちから圧力がかけられてくる。誰が味方で誰が敵か、しかも王国炎は羅維民がどう行動するかを読み切った上で、外部に対しての脅迫をもたらす罠を仕掛けてもいた。身動きのとれなくなりかけた羅維民は元の公安の親友に情報を伝え、そこから王国炎と関わるとんでもない数と広がりをもつ犯罪が顕在化してくる。

 

 捜査はもしそれが漏れれば全てもみ消しにされることが明らかなことから確実に信用できる少数精鋭で極秘に進められていく。一方王国炎の計算し尽くされた計画は着々と裏で進行しつつあった。虚々実々の駆け引きの後、この成り行きだとたぶんこうなるだろうなと思った通りの、すさまじいバイオレンスな展開になっていく。

 

 登場人物がものすごい数で、しかも関係が輻輳していて誰が黒幕かがなかなかわかりにくいが、一度全体図が見えてくると、面白くてもう本を置くことができなくなってくる。いや、あまりに面白くて興奮しすぎて頭がオーバーヒートして仕舞い、ときどきクールダウンする必要があった。

 

 本の中には、ある農村がどんどん収奪されていくすさまじい様子が描かれているが、それはこの本の前に読んだ『凶犯』でも描かれていたもので、ほとんど実話に近い。それは陳桂棣・春桃の『中国農民調査』という実際に取材した農村の実態を書いたノンフィクション本を読めば分かる。この『中国農民調査』は大変な話題になり、ベストセラーになりかけた途端に中国では発禁処分になった。日本で訳されたものを私も持っていて、出だしだけ読んだまま棚にあるが、それだけでもすさまじい内容だった。

 

 張平は実際に苦難をなめ尽くし、苦学して作家になっていて、今はベストセラー作家として名をなしている。五年かけて書いたこの本も中国三大文学賞の「ベストセラー大賞」、「金盾文学賞」、「中国図書賞」を受賞している。習近平もこの本を読んで腐敗撲滅を旗印にしているのではないかと思ったりする(もし本気なら、だが)。

2024年7月16日 (火)

セミの声

 今日は終日雨模様との予報だったが、ときどき晴れ間ものぞいていた。昨朝あたりから「シワシワシワ」とセミが鳴き始めている。むかしはアブラゼミが多かったが、いまはほとんどがクマゼミになってしまった。気候温暖化のせいだろう。千葉生まれの私も、子供の時にはよくセミ採りをしたが、あちらでは南方系のクマゼミなど図鑑でしか見たこともなかった。今は当たり前にいるようだ。

 夢中でセミ採りをして楽しんで、ある日たくさん採れて虫かごにいっぱい、二十匹だか三十匹をぎゅうぎゅうに詰め込んで我が家に凱旋したら、父親に思いきりどやしつけられた。怒ると本気で手の出る父だったが、その時に殴られたがどうかはよく覚えていない。それよりも「セミだって生き物だ、そんなかわいそうなことをするな」といった父のことばが強烈に胸に響いたことが忘れられない。

 虫は子供にとって、おもちゃである。採るときに興奮を伴うから面白くてたまらない。その虫が「生き物」であるなどと言うことはまったく頭になかった。図鑑でセミのことを調べて、その一生を知った。それからセミ採りができなくなった。ちょうどそういうことから卒業する時期でもあったのだろう。

 

 毎年セミが鳴き出すと、そのことを思い出す。

中国名言集(5)

  人間 万事 塞翁が馬

 

 これを普通は「にんげんばんじさいおうがうま」と読んでいるが、井波律子は「じんかん」とふりがなしている。もともとは『淮南子(えなんじ)』という書の『人間(じんかん)』の巻にある文章から引かれたものであるから、「じんかん」と読むのが正しい。ただし、諸橋轍次の『中国古典名言事典』を引くと「にんげん」とふりがなをしてある。さらに武田晃『四字熟語・成句事典』を見ると直接のふりがながなく、ただし、淮南子の『人間(じんかん)』を出典とする、とあるからやはり「じんかん」が正しいとみるべきだろう。池田知久『訳注 淮南子』を調べたらなんと編訳のために『塞翁が馬』の部分は割愛した、とある。なんだこれは!

 

 意味は誰もが漢文で習ったと思う。諸橋轍次の事典には書き下し文があって詳しいが、書き写すのが面倒なので、武田晃の現代文(中途半端)を引用する。 

 

 昔、北方の国境の寨(とりで)の近くに住んでいた老人(翁)の馬が国境の向こうの胡(えびす)の地に逃げてしまった。彼はがっかりせず、そのうちにいいことがある、と言っていた。やがて逃げた馬が良馬といっしょに帰って来た。しかし老人はいずれは災いを招くかもしれない、と言った。はたして息子がその良馬を乗り回しているうちに落馬して足の骨を折ってしまった。老人は、これもいずれは福になる、と言った。やがてこのあたりで戦争が起こったが、足の悪い息子は徴兵を免れた、という。

 

 話を戻すが、中国のことばで人間(じんかん)は、この世の中、世間という意味である。これをにんげんと読むと意味合いが違ってしまう。

 

 そういえば青島幸男には、『人間万事塞翁が丙午(にんげんばんじさいおうがひのえうま)』という、直木賞を取った小説があったなあ。読んだけれどどんな内容だったが忘れた。

これからは

 プロ野球に大リーガーでスポーツニュースが忙しいところに、相撲が始まり、これからはパリオリンピックが始まり、さらに高校野球が始まるから、テレビはスポーツ番組だらけとなり、ニュースもスポーツコーナーがますます多くなる。スポーツが嫌いというほどでもないけれど、歳とともに興味が薄れているので、当分の間はスポーツコーナーのないBSフジのプライムニュースとNHKのニュースの出だしだけを見て、あとは録画したドラマと映画を楽しむことになるだろう。

 

 ドラマはNHKとWOWOWしか見るつもりはないから、しばらくテレビをつけることが少なくなるのは大変結構なことだ。その分、未読や読み直したい本を読む時間に充てることができる。井波律子の『三国志演義』も少しずつ読み進めているし、並行して、中国の作家、張平の『十面埋伏』の上下巻も面白く読めている。『三国志演義』は第一巻を読了し、『十面埋伏』は上巻を読了した。張平は中国のベストセラー作家で、以前『凶犯』という小説を読んで、そのリアルな暴力描写、大迫力に感心したもので、そのあとこの『十面埋伏』を買いながら、エンターテインメント小説があまり読めなくなっていたので、お蔵入りしていたものだ。北方謙三の『岳飛伝』で読書熱にようやく再び火がついたので、どんどんお蔵入りの本を片付けていくつもりだ。『十面埋伏』は登場人物も多く、話も二重三重に絡まり合った力作で、期待通りものすごく面白い。

2024年7月15日 (月)

ひらがなで書く

 ワープロで文章を書いていると次第に漢字の比率が高くなる。その文章に敬意を抱くような人の文章を見ると、それほど漢字の比率は高くない。見本にしたいような文章家の人には「やまとことばはなるべくひらがなで書く」とする人が少なからずいる。もちろん全てひらがなにしていくと、かえってわかりにくいこともある。その辺は感覚の問題であろう。こだわるとかえって窮屈になって、文章が縮まってしまう。

 

 久しぶりに高島俊男の『お言葉ですが・・・』の第十一巻(これがこのシリーズの最終巻で、巻末にそれまでの総合索引がつけられている。とはいえ最終巻だから終わりではなく、そのあと別巻が何巻か続いている。私は別巻の第七巻まで揃えている)を寝床で読んでいたら、『改革を止めるな?』という一文があって、ひらがなで書くか、漢字で書くかの判断の参考になるように思った。これを「とめるな」と読むか「やめるな」と読むか。それは文意による。「止る」と書けばこれも「とまる」と読むしかないが、いまの国語ではふりがなのまちがいとされるであろう。しかしむかしはこれで「とまる」とも読めないことはないが「とどまる」と読むのが自然だった。たったひとつのことばでもかように難しいのである。だからひらがなにすれば紛らわしくない。

 

 高島先生は、夏目漱石の名文『硝子戸の中』をしめし、この「中」はそもそもが内と外との意味で使われていて、当然漱石も「うち」と読んでもらうつもりであったと書いている。「その中に一人、また一人とおくれ・・・」と言う文例をあげ、これが「なか」ではなくて「うち」であることをしめしているが、それが納得できる若い人がどれだけいるだろうか。

 

 最近意識して、なるべくやまとことばはひらがなで書くようにし始めた。そうするとひらがなだらけになって、かえって読みにくいこともある。だから多少は漢字にする。同じことばをひとつの文章で漢字にしたりひらがなにしたりすることもあるが、その辺は感覚であり、その感覚がまだ不備だから、へんだなあと思われるかもしれない。勉強中である。

中国名言集(4)

  是る処(いたるところ) 青山 骨を埋む可し

 

 青山は、せいざんと読んで、墓地の意味である。死に場所とでもいおうか。このことばは北宋の詩人、蘇軾(そしょく・蘇東坡のこと)の詩からとられた。その詩を詠んだとき、彼は政争に巻き込まれて獄中にあった。人はどうせいつかは死ぬのだからくよくよしない、と明るく開き直ったのである。

 

 一般的に知られているのは
  人間到る処青山あり(じんかんいたるところせいざんあり)

 

 ということばで、幕末の僧・月性(げっしょう)の詩の中にある。月性は、西郷隆盛と一緒に入水して死んだ月照とは別人。もちろん西郷隆盛は助けられて生き延びた。この青山ももちろん死に場所という意味である。この青山ということばを私はこちらで最初に覚えた。そこで青山の意味を教えられた。なんだか青山というと、自然、山の緑を思い起こさせてしまうが、全く違うのである。生きる覚悟のようなものを教えることばであろうか。

 

 この人間を「じんかん」と読むが、その意味については次回に説明する。

ジブリの音楽を聴きながら

 アマゾンプライムに入っているので、ストリーミングのアマゾンミュージックを聴くことが出来る。デジタルの音質も申し分ない。普段はクラシック、特にピアノ曲を聴くことが多いけれど、ときどきは映画音楽を聴く。子供の時、まだ我が家にテレビがなかった(よそより買ったのが遅かった)ので母と一緒にラジオをよく聴いた。落語や音楽番組を聴く。母はあまり演歌が好きではないので、海外の、特にその頃はヨーロッパの音楽がよく放送されていたのでそれを聴いた。半分は映画音楽で、名画の映画音楽を聴きながらどんなシーンなのだろうと想像して聴いたものだ。

 

 なつかして映画音楽を聴くとその頃を思い出すが、最近はアニメの、特にジブリ映画の映画音楽を聴く。ジブリ映画といえばどれも傑作だが、まず『風の谷のナウシカ』が頭に浮かぶ。1984年の公開だが、たまたま福島でお客さんを接待する予定だったのに都合でキャンセルとなってしまい、ひとりで飲もうとホテルを出たら、どういうわけか急に映画が見たくなった。映画館を三つ四つ訪ねたが、どうも見たくなるものがかかっていない。たまたま『風の谷のナウシカ』が目にとまった。アニメを見る気分ではなかったが、ほかのものよりマシに思われたので時間つぶしに入って、感激した。名古屋へ転勤になる少し前のことで、少し屈託することがあったが、それを忘れた。

 

 それから『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』、『耳をすませば』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』を全て映画館で見た。そのあとは映画館に行くこともだんだん減って、あまり見ていない。ジブリ作品はテレビであまり放映しないし、放映するときは民放で、CMはやたらに入るし、変なカットがされていたりしてとても見るに堪えないから、見る機会がないのである。自分が見たものでLD(レーザーディスク)になった作品は(ジブリは)高いけれど購入し、子供たちと何度も見た。

 

 それらも含めてジブリ作品の映画音楽を集めたアルバムがアマゾンミュージックではいくつもあって、聴き放題である。それをAVアンプにBluetoothで転送して聴いている。なかなか好い。もちろん私はたいてい本を読みながら聴く。いまは井波律子の『三国志演義』第一巻をメインに読んでいる。第一巻は全百二十回のうちの三十回までで、ようやく二十回に至ったところだ。呂布がついに倒されてしまう。呂布は知性がやや足らないといえば足らないが、それだけ素直で裏表のない男だともいえる。だから周囲の人間に振り回されてしまう。そしてその結果で反省するけれど、そのことを記憶しないからまたぞろ同じような失敗をする。こういう人間は人が好いと言えば好いが、はた迷惑でもある。

 

 本に夢中になると音楽が聞こえなくなるのが残念だ。

2024年7月14日 (日)

独り暮らしは寂しいか

 独り暮らしは寂しいか、などと問われれば、人並みに寂しいと思うこともないではないから「寂しい」と答えるけれど、では誰かと一緒に暮らす、ということを想像すると、三日や四日は我慢できても、だんだんいやになって、ひとりに戻りたいと思っている自分が見える。まずあり得ないけれど、息子夫婦や娘夫婦が一緒に住もうと言ってきても、多少は考えはするが、結局断るに違いない。

 

 娘が巣立って十年あまり、それからは全くの独り暮らしを続けてきて、寂しいと思うことよりも、遙かに自由で勝手気ままに生きられる幸せを感じている。考えてみると、結構思春期頃から、独りでいることが好きだった。人並みにホルモンの作用で配偶者が欲しいと思ったので結婚し、それで子供も出来たけれど、いまはホルモンもすでに鎮火して久しく、もともとの性格が独り暮らしをあまり苦にさせないのだろう。

 

 何年か先に体が不自由になったとき、施設で暮らす、などということを覚悟しなければならなくなったら、そのときにはどうしようか。一緒にお遊戯、などと言うのは断じて拒否して、介護の人を困らせるだろうなあ。気持ちの通じる人でもいればいいけれど。

中国名言集から(3)

 とんでもない勘違いをしていたことば。

 

  後生 畏る可し

 

 後生はもちろん「こうせい」と読む。後に生まれた者、後輩、若者を指す。『論語』の孔子のことばで、後輩こそ畏敬すべきだ、来者(未来の人間)が現在の人間より劣るなどと決めつけてはいけない、という意味らしい。「近頃の若い者は」などと頭ごなしに否定してはいけないということだ。

 

 私は以前、後生を「ごしょう」と読んでいた。ごしょうと読めば、本来は仏教用語で生まれ変わることだが、この先の未来で、という意味でとれば、いま高をくくっていると、後でろくでもないことになるぞ、などと勝手に曲解していたのである。ざる頭はときどき恥ずかしい勘違いをしている。

友達に声をかけようと思っていたのに

 コロナのあとも、ずいぶんしばらく会わずにいて、そのまま逢いそびれている友人知人が何人かいる。お互いにそこそこいい歳なので、会わずにいて後悔することになるのは間違いない。梅雨が明けたら、まず大阪の友人や兄貴分の人に会いに行こう、出来れば敬愛する奈良の姉上にも声をかけようか、などと思っていたからだろう、明け方にその人たちの夢を見た。

 

 なかにはすでに会いたくても会えない人もいた。

 

 それなのに、コロナがまた再燃して増加しつつあるという。そういえば芸能人などのコロナ罹患のニュースもまたときどき目にするようになった。お互い、「そこそこいい歳」同士であるから、はたしてそういうさなかに親しい人に会うことがよいかどうか、迷う。恨めしいことである。

2024年7月13日 (土)

畏れ入る

 「畏れ入る」ということばがある。逃れぬ証拠を突きつけられて、「畏れ入りました」などと犯人が罪を認める。ミステリードラマなどは、犯人が畏れ入らないと終わりにできにくい。

 

 ところが現実の世界では、明白な証拠があっても、犯人が畏れ入らないことが多いような気がする。これは昔からそうだったのか、最近そういう畏れ入らない人間が増えたのか。海外の人が日本で犯罪を犯すと、たいていが畏れ入らない。日本人はそれを見せられて、畏れ入らなくなったのかもしれないと思う。

 

 往生際が悪いのはみっともない。みっともないのは恥ずかしい。だから畏れ入ったものだが、いまは世の中は恥ずかしいなどということに鈍感になってしまって、往生際が悪いのが当たり前になったかのようだ。警察も大変だなあと思う。どうしてそうなのか、多少思うところはあるが、いっても仕方がないからあきれて眺めているばかりだ。

中国名言集から(2)

  父母の年は知らざる可からず

 

 『論語』の里仁篇にある孔子のことば。「その長命を喜び、そして高齢で不測の事態が起こるのを恐れる」ためには、父母の年を承知しておくのは当然であるということである。

 

 いま、自分の両親の年、生年月日をちゃんと記憶している者がどれほどいるのだろうか。不確かな人間を山ほど見てきた。信じられないことである。

リズムが狂うと

 日常にはリズムがあり、決まったことを手順よく行うことでおさまっている。心身が不調になるとそのリズムが狂ってしまう。リズムが狂うと何が起こるか。部屋が雑然として汚くなっていく。ものが多すぎるのだ。その「多すぎるもの」が、捨ててもいいほどくたびれるまで捨てられない。我ながらバカだなあと思う。

 

 今日はその汚くなってしまった部屋を少しずつ片付けていこうと思う。何日もかけて雑然となった部屋だから、一気に片付けようとするとかえって途中で嫌気が差してしまうので、計画的に少しずつやることにする。さいわい今日は昼過ぎまでは天気が良さそうだ。出ているものをしまい込むだけだから本質的には変わらない。しかし気分は多少さっぱりするはずだ。

 

 さあ、体を動かして汗をかこう、と自分に気合いをかけた。その気になっただけでもいいことなのだ(と思うことにする)。

2024年7月12日 (金)

思っていた以上に良さそう

 注文していた書見台が配達されたので、早速試用してみている。心配したほど大きなものではなく、作りがとてもしっかりしている。普通の単行本や雑誌ならしっかり固定されて、眼の位置への調整もうまく出来る。ただ、いま読んでいる『三国志演義』のような700頁を超える文庫本などには厚すぎるのでちょっと向かない。それは注文するときに承知していたので、問題ない。そういう本は寝転がって読めばいい。

 

 開いた本を両側でそれぞれ抑える金属のバネも、ちょうどいい位置で抑えてくれているので読む邪魔にならない。問題は、私は読むスピードが速いので、ページをめくるときの手間が増えるのがいささか煩わしい。長所があれば欠点もあるもので、長所が勝ると実感できたので良しとする。

 

 その書見台を入れていた箱が手頃な大きさで、しかもしっかりしている。パソコンの台として使って見ると、視線が高くなって首が楽である。スマホ首対策になりそうだ。おまけのありがたい喜びであった。

中国名言集から(1)

 井波律子の『中国名言集』から備忘として書き留めておきたいものをいくつか取り上げていく。実感として特に、なるほどと思ったものだ。

 

 一犬 形に吠え 百犬 声に吠ゆ
     (後漢の王符『潜夫論』賢難篇)

 

一匹の犬が何かを見て吠えると、その声につられて多くの犬がいっせいに吠える。

 

 むかしからそうではあるが、ひとりが、あるやらないやら分からないことで騒ぎ立てると、大勢のものがこれを次々に伝えて騒ぎ出すもので、いまはネットがその手段となって、一層その群集心理に拍車がかかって、何がほんとうなのかわけが分からなくなっている。そういう時代なのだなあと思う。

 あれは犬が吠えているのか。

降りこめられて

 昨夜から雨が降り続いている。今朝は小やみだが、これから昼過ぎまで本降りの雨になるらしい。昨夜は眠れないからいろいろな本をとっかえひっかえしていたが、結局料理レシピの冊子を眺めていたら眠りにつくことが出来た。

 

 この冊子はCGCが出しているもので、毎月近くのスーパーの棚に新しいものが置かれていて、自由に持って帰ることが出来る。季節の素材を使ったものなど、毎月四十あまりのレシピが載っていて、あまり特別な材料を使うものがないから、つくろうと思えば私でもすぐ挑戦できそうなものばかりだ。これがあることに気がついたのは数ヶ月前からで、もっと前からあったらしいから気がつくのが遅かった。もったいない。

 

 とはいえ、そんなにレシピがたくさんあっても仕方がないのであって、そのことはテレビの料理番組の3分クッキングをせっせと録画したけれど、いままでにせいぜい五つか六つ試したに過ぎないことでもわかる。レシピがあったってつくらなければ意味がない。さはさりながら、眠れない夜に眺めているだけで自分がつくることを想像し、それで満足して安眠できたのだから、それなりの役に立ったのである。

2024年7月11日 (木)

からっぽ

 午後になったら、なんだか何もやる気がなくなってしまった。本も読めず、ドラマや映画を見る気もせず、仕方がないから久しぶりにゲームでもしようと思ったが、集中力がなくなっていて、囲碁をしても勝てないし、戦略シミュレーションも凡ミスで完敗である。面白くない。音楽を聴いてもうるさく感じてしまう。まるで、からっぽになってしまったような状態である。こういう無気力状態の時にはジタバタしても始まらない。ただひたすらぼんやりするしかない。そうして飲み過ぎに気をつけながらゆっくり酒を飲んで、詰まっている何物かを溶かし出すしかない。

 

 これからつまみになるものを二品ほど作って、自分の決めたルールに従い、五時半を過ぎたらおいしい酒を飲むことにする。もったいないけれど、東北でみやげに買ってきた純米大吟醸酒の封を切って、独りでちびちび飲むつもりだ。

 

 夏バテにはまだ早いのにこんな風になったのは、ちょっとオーバーヒートしているからかもしれない。もともとパワーのないエンジンを、無理に駆動しすぎたのだろう。酒は私にとってその治療薬だ。こうなるとしばらく続くが、どうせ数日雨模様であるから、引きこもりには最適である。用事も、あと十日ほどはとくに何もない。

『ケの日のケケケ』

 藍染めのプリントに、墨流しのような柄を重ねた半袖のシャツを、シンガポールだったか、バリ島でだったか、みやげに買って帰ったのだが、目立つので外に着て歩くのは少し恥ずかしい。雨が続いているので外へ出ることもないから、いまそのシャツを引っ張り出して着ている。

 

 本を読むことが以前よりも多くなったので、ドラマや映画を見る機会が減っている。どちらも時間を消費する(面白いのだから浪費とは思わない)もので、どちらかが増えればどちらかが減るのは成り行きだ。欠かさず見ているのは『虎に翼』と中国の『蓮花楼』というドラマだ。『蓮花楼』は武侠小説であり、時代ミステリーであり、ファンタジードラマというところで、たまたま見始めたら面白いので、全四十話を最後まで見ることになりそうだ。一週二話ずつで、いま三十話を超えたところだから、あと二月ほどで終わる。ご都合主義そのものの展開だが、気にしなければ映像は美しいし、美人もいろいろ出てきて楽しい。主演のチョン・イーがなかなか好い。誰かに雰囲気が似ていると思ったら、向井理であった。まったく似ていないといわれそうだが、語り口やひょうひょうした表情、仕草が私はとても似ていると思う。

 

 久しぶりに、録画してあった単発ドラマの『ケの日のケケケ』というNHKの特集ドラマを見た。創作ドラマ大賞の受賞作だという。感覚過敏、音や光、味覚、触覚が病的に過敏なひとりの女子高校生の日常が描かれていく。感覚過敏についてほとんど知識はないが、映画やドラマで多少の認識はある。ハンディを持つことと、その人が弱者であることとは全く違うことで、理解されないことはつらいが、同情されることはそれよりつらいことだというのがとてもよく描かれていた。ましてや「普通」を強要することの無神経さは暴力に近い。主演の當真あみは、初めて見たけれど好演していた。今後注目したい。

 

 相手のためを思うことが、相手を苦しめてしまうことになることを普通の人は理解できない。理解できているのは苦しんでいる人の側であるということをドラマは明確にしめしてくれた。主人公の少女は弱者ではなく、じつはとても強い心の持ち主であることを、彼女は校則を変えるために生徒会長に立候補することでしめした。その辺の経緯が一気に進んでしまうのが物足らない気もするが、一話ドラマなので時間が限られているので仕方がない。見た後に、満足感、好い気持ちを与えてもらった。他人を思う、思いやる、ということがどういうことか考えさせられた。

違う論理

 中国が、フィリピンが実効支配している珊瑚礁の海域を自国の海域と主張し、その海域の水質調査を行った。そして「水質はたいへん良好である」という調査結果を発表し、自国海域であるというアピールを行った。フィリピンは自国海域を主張するために古い軍艦を沈没させ、そこを拠点に活動をしており、それを海域の環境破壊だ、と中国は強く非難しており、その裏返しとして中国支配海域(じつはフィリピンの海域)は環境が良好だ、という主張の展開でもある。いま、沖ノ鳥島の周辺の、日本の排他的経済水域で、中国はブイを浮かべ海域調査を開始しているようである。「日本」の林官房長官は、「遺憾である」といつものように白旗を掲げて見せている。遺憾砲は常に空砲である。猿だって最初は驚くが、すぐ馴れる。ましてや中国人なら・・・。

 

 珊瑚礁の海域は地球環境に極めて重要なもので、その環境保持が必要である。その珊瑚礁を次々に埋め立てて人工島をつくっている中国が、恥ずかしげもなく環境をアピールする。中国の論理は理解不能だ。分かってやっているのか、そもそも中国にとっては何の矛盾もないのか。

 

 ここで私は森本哲郎の著作で読んだ話を思い出した。少し長いが引用する。

 

異質のメンタリティ
 雑誌『みすず』(99号)にミッシェル・フーコーという人の著書が紹介されていた。『ことばともの』と題されたその本は、大変難解なものらしく、紹介者の仲沢紀雄氏は、一ページ読むのに何時間もかかることさえあったそうである。
 フーコーという人は、現在チュニス大学の教授で、このほかにもたくさんの著書があるが、とくにこの『ことばともの』が最近フランスで非常に評判になっているとのことであった。
 私はひどく興味をそそられた。というのは、フーコーの思想が「さる支那の百科事典にのっていた動物の分類」から出発していると書かれていたからだ。その分類とはつぎのようなものである。
「a皇帝に属するもの、b防腐処理を施したもの、c乳のみぶた、d人魚、e架空のもの、f放し飼いの犬、gこの分類に含まれているもの、h気の狂ったようにあばれるもの、i数しれぬほど多いもの、jらくだの毛の細筆でえがいたもの、kその他、l今つぼをこわしたもの、m遠くからハエに見えるもの・・・」
 フーコーはこの分類を見て、あまりに奇抜なその考え方に思わず考え込んでしまったという。同じ人間でありながら、よくもまアこんなに違った発想が出来るものだ!そして、ここから彼の『ことばともの』という著書が生まれるわけなのであるが、その本の内容については仲沢氏が詳しく書かれているから、それを読んでいただきたい。私が興味をひかれたのは、じつは、このようなフーコーの思索の出発点であった。
(中略)
『支那の百科事典』の分類のように、一見ナンセンスのように思え、非論理的のように見える思考の様式も、それを成立させている基盤があるに違いない、というのがフーコーの予感であった。

 

 中国の思考の基盤がそもそも我々とは違うのではないか、そのことをよくよく考慮しないと、その意図を推察することも、対話も成り立たないのかもしれない。

2024年7月10日 (水)

もしかして有効か

 ストレートネック、通称スマホ首のせいで肩や首や、背中や腰が痛い。座椅子に座ってパソコンに向かっていると以前よりも疲れやすい。読書していても、集中しているあいだはよいのだが、一息入れると肩や首がバリバリいう。この頃は本を寝転がって読むことが増えた。子供の時はほとんどこの寝ながらスタイルだった。母からは、なんという格好で本を読んでいるのだ、などとあきれられたが、それが最も楽だった。いまは自分の体が重くて持て余しているので、必ずしも楽ではないのだが、すわっているときの首や肩の痛みはない。

 

 ただし、集中力が途切れるとすぐ眠ってしまう。夜も寝て、昼間も寝て、いったい一日どれほど寝るのかと思うが、これはたぶん今回の旅の強行軍の疲労も関係しているようだし、体が眠りを必要としているなら別に誰に迷惑をかけるわけでもないので良しとしている。ただ、少し時間がもったいない気はする。

 

 思い立って卓上の書見台をネットで探してみた。ピンからキリで、値段もさまざまだが、重い本もあるから、あまりちゃちなものでは安物買いの銭失いであろう。それなりのものを発注した。それですわったまま本を読んでも首や肩の痛みがなければ何よりである。使えればいいけどなあ。書見台を思いついたのは、松江の武家屋敷の、主人の私室に置いてあったのを見たからだ。格好良く見えたのだ。

井波律子の本

 中国文学者の井波律子の『中国名言集』(岩波文庫)を読み始めた。箱入りで表紙もしっかりした辞書風の本で、もともとは京都新聞に『井波律子の一日一言』として連載したものをまとめたもの。こういう本は、読む機会がありそうでなかなか全部読むことがないものだ。日付順に一日一頁になっているが、時期に関係なく通読するつもりである。よく知っていることばもあるし、初めて知ることばもある。思っていたのと意味を少し勘違いしていたり、読み方が誤っていたことを教えられている。

 

 あとでその中からいくつか取り上げて、自分なりに感じたことなどをこのブログに取り上げようと思い、面白そうなものに付箋をつけている。恥ずかしながら井波律子の説明がありながら、それでも理解できないものがあったりする。たぶんその説明の背景となっている知識が、著者には自明だが、私がそれを知らないためのようだ。恥ずかしい。

 

 井波律子(1944-2020)は富山生まれの中国文学者で、長く金沢大学の教授を務めた。彼女の本に出会ったのは、『中国人の機智(『世説新語』の世界)』(講談社学術文庫)という面白い本だった。人に勧められて読み囓った『世説新語』は、竹林の七賢たちなどの逸話が収められた本で、面白いけれど私の知識ではわかりにくいところもあり、その解説を期待してこの本を読んだのだが、分からないものは分からないなりに、分かるものはとてもわかりやすく書かれていて、少なくとも『世説新語』という本の背景だけは多少分かった気になった。この人の本を続けて読みたくなった。折にふれて買い集めていたら、かなりの数が手許に残った。

 

『中国人の機智』(講談社学術文庫)
『中国的レトレリックの伝統』(講談社学術文庫)
『酒池肉林(中国の贅沢三昧)』(講談社学術文庫)
『中国侠客列伝』(講談社)
『中国文学の愉しき世界』(岩波書店)
『破壊の女神(中国史の女たち)』(新書館)
『史記・三国志英雄列伝』(潮出版社)
『トリックスター群像(中国古典を小説の世界)』(筑摩書房)
『水滸縦横談』(潮出版)
『一陽来復』(岩波書店)
『中国人物伝』Ⅰ~Ⅳ(岩波書店)

 

以上は全て既読  

 

未読として
『中国名言集』(岩波書店)
『三国志名言集』(岩波書店)
『三国志演義』(一)~(四)(講談社学術文庫)

 

があり、これを順次または並行して読むつもりである。

 

 著書はこれ以外にもたくさんあり、新著も期待していたのに近年亡くなったのはまことに残念であった。

 

 さらに『水滸伝』全五冊がやはり講談社学術文庫から出版されていて、『三国志演義』を読了したら購入するつもりである。どちらも各巻700頁前後の分厚い本で、春に行った、平家物語(全七巻)の通読と同じようなチャレンジとなる。

グラタン

 グラタンは好きだが、つくるのが面倒だと思っていた。しかしインスタントのマカロニグラタンを使えば思ったよりも簡単にできることを知って、いまはお気に入りのメニューである。よくつくる。タマネギと鶏肉と牛乳だけあれば出来るが、私はそれにシメジを刻んで加える。材料をグラタン皿に半分入れたら溶けるスライスチーズを置き、残りをさらに上に盛る。粉チーズをたっぷりふり、バターをひとかけら置いてオーブントースターで焼く。

 

 昨年オーブントースターを新しくしたのだが、どうもサーモスタットの効きがよすぎて消えたりついたりが頻繁であり、焼き上がるのに時間がかかる。しかも満足がいくように焼けない。グラタンのおいしさの肝である焦げ目が不満足なのだ。

 

 エアコンを昨年新しくした。パワーがあるものにしたので電気を食う。電気を食うのは仕方がないのだが台所とリビングに振り分けられた電流の量が限定されていて、電気を食うものが重なるとブレーカーが落ちてしまう。だから電子レンジやオーブントースター、電気ケトルなどを使うときはそれを考慮しなければならない。それらを使うときはエアコンを切るようにしている。グラタンを焼くには時間がかかるから、部屋が暑くなる。焼き終わったらすぐエアコンを入れればいいのだが、忘れていたりして、やけに暑いなあ、などと思うことがしばしばだ。

 

 そこで思いついたのがガスレンジのグリルである。このレンジも昨年新しくした。新しいレンジについているグリルは水なしで焼くことが出来、洗いやすい。しかも上下の火力を別々に調節できる。これならエアコンとかぶらない。火力と時間を適当に設定して焼いてみたら、オーブントースターよりも早く焼き上がり、焦げ目もしっかりつけることが出来た。だいたい見当がついたので、これからはこちらで焼くことにしようと思う。

2024年7月 9日 (火)

納涼物語『玉藻の前』

 岡本綺堂の『伝奇小説集』(原書房)全三巻を持っていて、ずいぶん久しぶりに納涼を期待して再読している。第一巻が長編の『玉藻の前』である。大変読みやすい文章なので、ただ物語としてさらさら読み飛ばしてしまうとどうということもないかもしれないが、平安末期の闇夜のなかのさまざまなあやかしを映像的に想像しながら読むと、その恐ろしさが実感できる。それが想像できるかどうかが、こういう物語を楽しむ必須条件であろう。

 

 岡本綺堂(1872-1939)は戯曲『修禅寺物語』や捕物帖の傑作『半七捕物帳』で知られる作家で、いずれも若いときに読んだ。私はそもそも、ちょっと不思議な、奇妙な味のする小説が好きなのである。伝奇小説といえば中国のものが棚にずらりと並んでいる。日本でいえば、国枝史郎や小栗虫太郎、角田喜久雄などを一時期耽読したが、いまなら夢枕獏(一時期夢中で読んだものだ)などがその代表だろうか。

 

 妖狐の化身である玉藻の前と陰陽師との戦いは古来から有名で、その妖狐は、あの殷の紂王の妃、妲己(だっき)の正体である九尾の狐とされる。それが時代を超え、国を超えて、ある少女にとりついて起こる怪異の物語が『玉藻の前』で、それを岡本綺堂は怪異譚でありながら、美しい恋の物語にしている。 

 

 こういう面白い話がいまはあまり読まれていない気がする。何より物語を読むためには、平安時代の風俗や、世界観をある程度承知をしていないと分からないところがあるかもしれない。分からなければ分からないままに読み進めればいいのである。知らないことは後でゆっくり調べたらよい。何より面白くない読み方は、現代の価値観を物語に持ち込んでしまうことであろう。そういうひとはこういう物語の方から「読んでくれなくていい」と拒否するであろう。主人公とともに悩み、苦しみ、哀しみ恐れることがこういう物語を楽しむのに必須であることはことさらいうまでもない。そうして読めばこんな面白い物語はない。読後の余韻も残るというものだ。

長生きしにくくなる

 地球温暖化による暑さは猛暑をもたらし、エアコンなしで過ごすことが出来なくなっている。当然エアコンは電気を食う。電気を生産するためにはエネルギーを消費するし、エアコンを使えばそこでまた熱を発生するから、二重に地球温暖化を加速する。いまエアコンを使って暑さがしのげている人々は快適だが、経済的にまだエアコンを使えないひとたちの方が世界ではまだ多いだろう。それでも世界が豊かになればエアコンを使える人が増えていく。ますます地球温暖化は加速して、人口が増え続ける限り、もう後戻りは無理なのではないか。

 

 その先がどうなってしまうのか、想像は出来るが、たぶん現実は想像を超えるだろう。地球そのものが周期的に冷える氷河期でも来ない限りどうしようもないが、その周期とこの温暖化とのスピードとは桁が違うだろう。それに寒冷化に対処するのもまたエネルギーを必要とする。エネルギー源はすでにかなり消費してしまって、その時には温めるものがないことになってしまうだろう。どちらにしても私が生きているあいだはなんとかエアコンも使えて暑さがしのげることを願うばかりである。自分のことばかりで申し訳ないけれど、では何が出来ると行って、地球温暖化対策にエアコンを切ってまで頑張って、自分の寿命を縮めるというわけにもいかない。

 

 数年前までは、エアコンのタイマーで眠りにつき、タイマーが切れても多少の寝汗をかきながら朝まで眠れたものだが、いまは連日の熱帯夜で、タイマーが切れてしばらくすると暑さで目が覚めてしまう。つけっぱなしで寝ればそういうことはないが、その代わり、朝の寝覚めがなんとなくだるい。目が覚めても体がなかなか始動しない。春や秋の快適な眠りとそれに続く目覚めとは行かない。エアコンの眠りは体力や知力を回復する眠りとはいえない気がする。それは年齢のせいなのだろうか。

 

 それでも、うだるような暑さでエアコンなしで暮らしている人から見れば贅沢な話である。すでに海外では40℃を日常的に超えている地域もある。当然体力のない人間は寿命を縮めている。長生きは出来ないだろう。そういう気温にも耐えられるような人間が少しずつ生き延びて、ついには耐熱型の人間が生ずるかもしれないが、まだだいぶ先の話だろう。未来はもしかしたらわずかに生き延びたそういう耐熱人間の世界かもしれない。

 

 エアコンで快適な暮らしをしていても、ずっと引きこもっているわけにも行かず、病人や寝たきりでない限り、生活のためにどうしても外気温の中に出ていく必要がある。その温度差が体に与える影響は大きい気がする。それは体にダメージを与えるだろう。どちらにしても人間の寿命はすでにもうこれ以上のばすことは出来ずに、次第に短命になっていくのではないか。暑さでさらにぼけだしたざる頭でそんなことを考えた。

遺憾である

 「遺憾」を手許の岩波国語辞典で見ると、「思い通りでなく残念なこと」、とある。中国は、日本が「遺憾である」といえば、抗議したとは毛筋ほども受け取らず、「残念だ、何もすることが出来ないのは残念だ」と、諦めを表明しているだけだと受け取っているのだろう。 実際に結果は中国の受け取ったとおりになっているように見える。

 まことに私も、国民も、遺憾である。

2024年7月 8日 (月)

都知事選

 結果が歴然としているので、目新しいことをいいようがないけれど、都知事選のこの結果は、都政を、そして都知事の仕事というものをまともに考えた都民が判断した結果だということだ。

 

 蓮舫氏陣営が、演説の場にあんなに熱意のある聴衆が集まり、支持をしてくれていたのにこの結果は・・・と首をかしげているように見えた。多分どの候補よりも盛り上がっていたことは事実なのだろう。それなのに敗北したのは共産党が応援したことが嫌われたからか、などと分析していた。たしかにそうだともいえるし、共産党との共闘は敗因の本質ではないともいえる。聴衆がたくさん集まって熱心に聞いていたのは、蓮舫氏の演説が耳を傾けるだけの面白いもので、共感を感じさせるものだったからだろう。彼女が反省していた「力が不足していた」というのは、演説に関しては謙遜に過ぎるだろう。

 

 彼女は自民党批判、小池批判を痛快に展開していたのだろう(聞いていないから知らないけれど、想像は出来る)。だから日頃の鬱憤を晴らすために多くの人が聴きに行き、溜飲を下げたのだろう。世の中には不条理と感じられることが多い、なんで自分はこんなに生活が苦しく、面白くないことばかりなのだという不満が、じつは誰かのせいである、と明快に語ってくれれば、面白くないはずがないではないか。たぶんほかの候補の多くもそういう誰々のせいでこういうことになっている、と批判を繰り返していたことだろう。

 

 一般の議員の選挙ならそれで票が取れるのである。人気投票ならその巧拙で票が取れる。そういう人気投票なら蓮舫氏は一番人気だったかもしれない。都知事選挙をそういうものだと勘違いしていたのが蓮舫陣営で、立憲民主党も敗北分析の時の首のかしげ方に、未だにその勘違いに気がついていないことがうかがえた。

 

 都知事として都の行政をになうということがどういうことであるのか、それを実感的に理解しているのは小池氏と石丸氏である、と投票者の多くが感じたのであろう。今回は無党派層の票が多く、その票がこのふたりに集中していたように見えたことがそれを表している。都知事を選ぶなら、都政を担えるひと、という基準で選ぶとき、蓮舫氏はその基準に合致しないと考えた人が多いということなのである。

 

 これを見ると、人気投票的な投票にはたぶん、かなりの票を野党が集めるけれど、国や地方の行政を任せる、という視点からはまだまだだと思うのはどうしてなのか、野党はそのことに気がつかないと万年野党に甘んじるしかないだろう。まともな都民や国民はちゃんとそのことを理解している。あまり馬鹿にしてはいけない。

紀行文(14)

 紀行文についてのこのブログを下書きだけして忘れていた。番号が飛んでいたので気がついたから、付け加えておく。

 滞在記が紀行文であるかどうかは意見が分かれるところであろうが、私は紀行文だと思っている。中国に滞在しての文章の三冊、青木正児(あおきまさる)の『江南春』、石田幹之助『長安の春』、奥野信太郎の『随筆北京』は全て東洋文庫に収められていて、とくに『長安の春』と『随筆北京』は愛読書として繰り返し読んでいる。中国に興味がある人なら必読本だと思っている。

99120059北京にて

0037西安にて

 私が初めて海外へ、中国へ行ったのは北京と西安で、行く前に読み、行ってから読み、思い出してはまた読んでいる。もちろん私が行ったときにはすでに本に書かれているようなむかしの中国の風情はかなり失われていたが、かすかに幻視することが出来たこともあった。たぶんどんどん風情は失われ、ついには過去をたどるよすがもなくなってしまうであろう。それをかすかでも垣間見ることが出来たことを幸せだったと思っている。

朝一なら

 今回の旅行中にも歯磨きは欠かさずしていたつもりだが、処置中の右下奥歯の歯茎が少し化膿した。腫れたり引いたりして痛みはないのだが気持ちが悪い。土曜日に歯医者に連絡し、月曜日の朝一番なら診察してもらえるとのことだったのでお願いした。

140920-83_20240707163501ううっ!

 これから出かけて治療する。そろそろ神経を抜いてもらうしかないかもしれない。その覚悟をこちらがするのを医者も待っている気がする。

2024年7月 7日 (日)

教育は難しい

 父が教師だったので、それを知る同級生などからは、お前も先生になるのだろう、などと言われた。だから意地でも先生にはなるまいと心に決めて、先生にならなかった。いまのモンスターペアレントなどの話を見聞きするにつけ、先生にならなくて本当によかったと思っている。子供のしつけも教育も先生のせいにして、何の疑いも持たない人間(一部の親やマスコミ)が多すぎる。子供に問題があれば、まず親である自分の責任を胸に問うてからにせよ、といいたい。何でも学校や先生のせいにして糾弾者になったり被害者という名札を下げて恥ずかしくないのか。もちろん、学校や先生に問題があることもあるのはもちろんである。だが全てがそうか。

 

 集団で教育するということは大変難しいことである。親が自分の子供をしつける、教育することだって難しいのは、親を持ったことのある人間なら分からぬはずはないし、それでも分からないなら親になる資格がそもそもない。学校教育というのはそういう問題を孕んでいる。それでもある意味で社会生活の体験、集団生活で味わう理不尽を体験することに意味があるとあえていいたい。

 

 新・プロジェクトXで、トットちゃんこと黒柳徹子が小学校を退学になり、そこでともえ学園に入ったことで自分自身に目覚めていまがあることを誇らしげに語っていて、個別の子供を見守る教育ということを実践した小林先生を賞賛していた。集団生活になじめない子供、耐えられない子供というのは必ずいる。問題児として扱われてしまうが、じつは感受性や強い好奇心があるために集団行動がとれない場合がしばしばあって、それをきちんと見守れば、才能が開花することはエジソン以来よく語られることだ。そのことはよく分かる。だからといって全ての子供にそのような個別教育を実践することが可能かどうか。

 

 教師の能力と意欲が人一倍要求される個別教育に耐えられる先生が、いまどれだけの割合いるのか考えると、理想は理想として、出来ることと出来ないことがあるのではないか、と思う。そういうことをわきまえてこの番組がつくられているのかといえば、理想を現実にすべきだ、という匂いが強くていささかお花畑的な感じを受けてしまったのが残念だ。語り継がれる小林先生が独りいて、たくさんいなかったからこそ賞賛されるので、たくさんいるべきだ、と念仏を唱えても、空念仏でしかない。

 

 ところで、ともえ学園開園の年、昭和12年は、「くしくも日中戦争が始まった年で」などと番組で言っていたが、くしくもは、「奇しくも」であろう。奇しくもは「ふしぎにも(by岩波国語辞典)」ということで、おかしいだろう。この場合なら、「おりしも」というところが妥当ではないのか。違和感を感じた。

親不知

我が家から東北へ行くときは中央道、長野道を乗り継いで上越へ出るから親不知を通らない。金沢や富山へ立ち寄ってから東北へ向かうときにはもちろん通るのだが、北陸道を走ってしまうので、親不知の絶景を見ることが出来ない。親不知を見るには国道18号線を走るしかない。そしてその国道8号線に、親不知の断崖から見下ろすことの出来る場所がある。

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その場所をブラタモリで教えられた。

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むかしはこの断崖の上の道はなかった。はるか下に見えるわずかな浅瀬を波の間に間に走り渡るしかなかった。いま見ているこの場所の真下もずっと同じ状態である。

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芭蕉も、橘南谿も、この道ともいえない道を行った。

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この方向のむこうに能登半島があるはず。

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この方向に佐渡島があるはず。

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船がまったく見えないと思ったら、小さな舟が一艘、波に浮かんでいた。

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親不知の成り立ちの図。

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私の泊まったのは、まさにその親不知の展望台のある場所のホテル。よくまあこんなところにホテルを建てたなあ、というようなところにある。国道8号線はカーブが多く、しかもトラックも多いから、運転に慣れない人にはいささか怖いところである。運転に夢中になるとこの場所はたぶん眼に入らないから見過ごしてしまう。ここにあるはず、と思って意識しないと立ち寄るのが難しいところなのだ。

ブラタモリの後にすぐここに来て写真を撮った。今回親不知にホテルがあると知り、たぶん、と思ったらやはりここだった。

オーシャンビューの素晴らしい絶景の宿で、もちろん魚はまことに美味しい。その上ボリューム満点で腹一杯になる。宿の主人は、場所が分かりそうでわかりにくいですからね、と笑った。

これで今回の雨交じりの急ぎ旅の報告は終わり。

玉川ダム

秋田から盛岡へ至る国道47号線を、角館を過ぎてしばらくして国道341号線を左折すれば、そこが田沢湖へ至る道である。そのまま田沢湖を通り過ぎていくと、玉川沿いに仙北市、そして鹿角市に至る。途中右折すればもう八幡平である。この道を通って八幡平に何度か行った。鹿角からさらに北上すれば十和田湖である。

それとは別に、田沢湖の西側の国道105号線を北上すればマタギの里、阿仁に至る。阿仁を右折すれば打当温泉がある。ここにも二度ほど泊まった。このあたりはふつうに熊も出没する。田沢湖からはさまざまなところへ通じていて、ゆっくりめぐりたいところなのである。たぶん縄文時代から豊かなところだったところなのだと思う。その痕跡もさまざまあるようだ。稲作文化とはなじまない土地だから、その後過疎地になった。

以前玉川沿いに走って、その青さに魅せられたが、立ち寄る時間がなかった。玉川には玉川ダムがある。今回そのダムとダム湖を訪ねた。ダム湖を宝仙湖という。宝仙湖ブルーが見たかった。

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ダムの下へ降りる道があったので降りてみた。

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発電所からの放流口。

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この絵のように、普通のダムからの放水ではなく、地底から水が流れ出しているのだ。

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上へ上がって見る。

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なんとあの夢にまで見た宝仙湖ブルーの青さがないではないか。

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このポスターの下の部分の青さ、これが宝仙湖ブルーで、以前この色に感激したのだ。雨で濁っていたのであろう。残念だが仕方がない。

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先ほど下で見た放流口を上から見下ろす。

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ダムの展示館をのぞく。暗くて熊がはっきりしないが、さまざまな生き物がいるらしい。

玉川温泉の近くまで行って、時間なので田沢湖高原の宿まで引き返す。玉川温泉は日本で有数の強酸性温泉で有名だ。一宮の年下の友人が、息子さんとこの温泉に行ったと話していたのを思い出した。息子さんは仕事の関係でこの秋田に赴任していたのだ。

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田沢湖高原より少し下にある水沢高原から秋田駒ヶ岳を見上げる。このあたりにはスキー場が多い。

2024年7月 6日 (土)

御座石神社

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田沢湖といえば西南岸に立つ金ピカの龍子姫像が有名で、みんなそこをめがけていく。田沢湖に行ってきました、といえば金ピカの龍子姫の写真を撮らぬとならぬようである。私も誰かを連れて行くときはそこを見に行くが、一人の時には行かない。田沢湖の北岸に御座石神社(ござのいしじんじゃ)という神社があり、そこに私のイメージする本物の龍子像がある。

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神社の拝殿登り口の横にこんな石碑があるが、たぶんこの場所が優れていることを記しているのだろうと思う。ここがまさに私の好きな田沢湖ブルーの場所だからだ。

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神社の拝殿。大きな神社ではない。拝んでいる女性は、前の茅の輪くぐりをしてから手を合わせていた。この右手に・・・。

 

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龍子像がある。

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究極の美しさを求めた果てに、願いは叶ったものの半蛇身となってしまった女性の哀しさを感じる。

美しさとは何か。ただ美しいことと、誰かにその美を認められて愛でられること、そのことに気がついたときにはすでに彼女は取り返しがつかなくなっていたのだ。

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以前はこんなものはなかった気がする。龍子姫が美の守護神だなどとは・・・。彼女の哀しみをともに悲しむことこそが彼女への供養であって、彼女に何かを願うというのはどうなのだろう。それとも私が勘違いをしているのだろうか。

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この鳥居の向こうが田沢湖ブルーが最も美しく見られる場所である。鳥居は北岸にあるから南面している。なまじ青空ではないから田沢湖の神秘感が感じられた。このあともう一つのブルーを見に行く。

紀行文(15)

 あとであれもあったこれもあったと思うものが出てきそうだが、切りがないので今回を打ち止めとする。東洋文庫では司馬江漢の『江漢西遊日記』は棚にあるのに全くの未読。早いうちに読もうと思う。川路聖謨(かわじとしあきら)の『島根のすさみ』は、佐渡奉行として赴任する旅と、佐渡での出来事を日記にしるしたものだ。島根への旅ではない。先日佐渡へ行く前に拾い読みしたが、まだ通読していない。

 

 そういえば椎名誠のエッセイは旅の話が多い。出るたびに買って読み、読み終わってたまるとその都度処分してきたので、手許にはほとんど残っていない。今ふいと思い出したの『わしもインドで考えた』とか『ロシアにおけるニタリロフの便座』などで、つよく印象に残っている。パタゴニア紀行の本もあって、彼の写真付きでこれはなかなか好かったが、題名を忘れた。

 

 宮本輝の紀行文も優れている。『異国の窓から』という、ドナウ川の源流を訪ねていく紀行文は、後に『ドナウの旅人』という小説に結実する取材旅行だが、私はこの人の紀行文に不思議な魅力を感じた。

 

 以上で自分にとっての『紀行文』について、ひとまず終了とする。

田沢湖ブルー・・・

田沢湖まで足を伸ばしたのは、田沢湖ブルーが無性に見たくなったからである。

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ここがとくにおすすめの場所。

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おお、田沢湖ブルー・・・。しかしちょっと。

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雨が続いたせいか、白っぽく濁っている。本当は湖底まで透き通って見えるほど澄んで青いのだが。

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写真ではわかりにくいが、代わりに二十センチほどの魚がたくさん泳いで見えた。

2024年7月 5日 (金)

日常モードに戻す

親不知から途中どこにも寄らずに我が家に直帰。安全運転でいつもよりもゆっくり走ったけれど、昼過ぎには我が家に無事に帰り着いた。猛暑の炎天下に今年最高の気温を体感した。エアコンを入れ、洗濯物をすぐ洗濯する。この陽気だから夕方にはちゃんと全部乾いていた。昼間に水をやるのもどうかと思ったが、鉢の植物たちに水をたっぷりやる。なんとかへたらずにいてくれた。朝顔の蔓がずいぶん伸びていたのでベランダに絡ませてやった。

洗濯が済んですぐに買い出し。野菜などの日持ちがしないようなものは全て食べておいたので、それを補充する。ひととおり片付けたら途端にぐったりした。今回の旅は歳を考えない強行軍のスケジュールになってしまった。日常モードに戻してしばらくおとなしくするつもりだ。

旅の報告が中途半端なので、残りは明日から二三回に分けてブログに書くつもりである。

紀行文(13)

 紀行文が読みたくて、東洋文庫にめぼしいものがあるといろいろ取り寄せて楽しんできた。とくに中国の旅が私のお気に入りである。明治時代の漢詩人の竹添井井(たけぞえせいせい・1841-1917)が蜀を訪ね、山峡下りをする紀行文『桟雲峡雨日記(せんうんきょううにっき)』はその中でも読み応えがあって面白いものだった。漢詩人であるから、漢詩がたくさん取り上げられ、自らが詠んだ詩もある。漢詩は調子が好いから嫌いではないが、詩興をちゃんと楽しむほど理解力があるわけではないので、その点は中途半端であるのが残念だ。ここでも竹添井井が見ている景色に、過去の人たちが見た景色が時代を超えて重なって、時空の厚みが自分の胸郭を広げてくれる心地がする。

 

 同じような旅をもちろん中国の文人もしていて、南宋の陸游の『入蜀記』、同じく陸游と並び称された南宋の范成大の『呉船録・攬轡録(らんぴろく)・驂鸞録(さんらんろく)』も東洋文庫に収められており、范成大の方はなんとか通読したが、陸游の方はまだ拾い読みだけで通読していない。これから人名辞典と中国の地図を脇に置いてチャレンジしようと思っている。

朝焼け

昨晩早めに爆睡したので四時前に目が覚めてしまった。遮光カーテンを開けたら空が赤くなっていた。

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しばらくしたら

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少し明るくなり、

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かなり赤くなった。

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空に青みが加わり始めて、このあと赤みはなくなってしまった。

夜明け前に空を見ていない人はこの赤さを知らないだろう。

今日はこの親不知の海から出発して、帰路につく。名古屋は36℃の猛暑の予想だ。

2024年7月 4日 (木)

計算間違いと絶景

 今朝は濃霧の中、田沢湖高原の宿を出発した。朝風呂の時にはほとんど雨はやんでいたのに、朝食の頃から激しい雨に変わった。これでは駐車場に行くまでにずぶ濡れになってしまう。様子を見ていたら小やみになったので、すぐ車に乗る。ナビを設定したら、今晩の宿まで650キロあまり、到着は六時頃になるという。距離をよく考えずに予約したのが大きな計算間違いとなった。

 自分のつもりでは日本海をたらたらと南下するつもりだったが、それだともっと時間がかかる。東北道から磐越道で日本海に出るのが一番早いとナビはいうが、本当だろうか。

 途中は雨だったり晴れていたりと天気がめまぐるしく変わる。一気に650キロはいまの私にはかなりハードだ。今晩の宿は親不知。ちょっとスピードを出したので、いまさっき到着した。まさかというところにホテルがあった。

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これがいま宿の窓から撮った写真である。まさに眼下は断崖と親不知の海である。以前ブラタモリでここを歩いていたので、追っかけて見に来たことがあるが、そこのレストランの隣にホテルがあったのだ。すごいところにあるホテルである。魚がうまいと自慢していたが、さて、まず一風呂あびて運転の疲れをほぐし、食事にすることにする。食事はちょっとゆっくりめにしてもらうことにした。地酒は何があるかな。

紀行文(12)

 私が私淑している森本哲郎には紀行文がたくさんある。森本哲郎は元朝日新聞の記者だが、その時代に世界中を歩き回り、さらに独立してからも歩き回った。彼の本はたくさんあるが、手に入れられる限り集めたので、その八割くらいは手許にある。彼の本は『・・・の旅』という題名のものが多い。旅先で思索したことを、風景、歴史、関連するさまざまなことを関係づけながら優しく記述している。どの本も、何度読んでも啓発される。

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 彼の紀行文を一冊だけあげろ、といわれたら、『サハラ幻想行』という本だろうか。タッシリ・ナジェールを訪ねる旅である。この本で何度森本哲郎とともにサハラを歩いたことか。哲学を学ぶことの意味とその世界を教えられたのも森本哲郎だったし、二十代の時に挫折しかかった自分を立ち直らせてくれたのも森本哲郎である。私にとって彼は人生の師であり、先達である。

 ほかに紀行文としていくつか書名だけあげるとしたら、『そして---ぼくは迷宮へ行った』、『おくのほそ道行』、『旅の半空』あたりか。ほとんど彼の本は旅の話だから、あげていけば全てが紀行文ともいえる。私が救われたのは『生きがいへの旅』という本である。

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*私淑 尊敬する人に直接には教えを受けられないが、その人を模範として慕い、学ぶこと(岩波国語辞典)。

田沢湖高原の朝

 今朝は濃い霧である。ただし雨はやんでいるようだ。

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昨日午後三時過ぎの部屋からの景色。

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夕方六時前。かなり本格的な雨が降っている。

画面右奥の池、

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雨の様子が分かるだろうか。

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早朝の景色。実際はもっと霧が濃い。朝風呂は深山幽谷の中にいるようだった。

この田沢湖高原にはなかなか風情の好いホテルがいくつもあって、駐車場も広々していて、しかも雄大な秋田駒ヶ岳も見えて好いところなのだが、次々に廃業したり休止しているようだ。それぞれのホテルの大きさが大きすぎて、常時一定の客を確保するのが難しいのだと思う。団体の客というのが今はあまり来ないのだろう。

田沢湖高原に泊まるのは四回目で、初めてのホテルは部屋数の少ない小さなペンションだった。二回目のホテルは好いところだったのに残念なことに廃業して荒廃が進んでいるようであった。三回目は弟夫婦を連れてきたが、そこも好いところだったのに、いま休業中である。今回の宿は全国チェーンホテルに身売りして、名前を変えて存続しているといったところか。客は多かった。お年寄りが多い。外国人客が見当たらない。何かで有名になれば混むけれど、私などには今くらいがありがたい。

ビュッフェ式の食事というのは、若いときはよかったけれど、いまはあまり好きではない。どうしても料理がぞんざいになっている気がする。海外のホテルだとそこそこ美味しいのに、どうして日本のバイキング式は一段落ちてしまうのだろう。料理する人は哀しくないのだろうか。仕方なくコストを削って、料理人としての気持ちも削ってしまっているのか。それだけ値打ちで泊まっているのではあるが。

大きなホテルで、大浴場から一番遠い部屋である。そのぶん静かだったが、風呂への往復がひと運動である。

2024年7月 3日 (水)

本降りの雨

 宿を八時過ぎに出発。今日は午後から天気が崩れるという予報なので、とにかく目的地としたところだけでも早めに見ることにする。宿から最上川を渡って国道47号線に乗るのだと思ったら、ナビは県道361号線を北上せよという。しばらく走ると国道345号線に合流する。酒田市内を通らずに羽後本荘の方へ走る道で、信号はないしこの道路は便利だ。覚えておこう。この階層炉から途中で右折して日本海東北自動車道に乗る。まだところどころ繋がっていない自動車専用道路だが、今回はだいぶ延長していた。右手奥に鳥海山がうっすらながら見えている。

 遊佐(ゆざ)鳥海というところで有料道路は終点で、地道の国道7号線に移る。しばらく行けばまた乗れるのだが、象潟(きさかた)の道の駅に立ち寄ることにする。ついでにガソリンを入れる。道の駅では地酒を二種類ほど購入する。道の駅から鳥海山を遠望し、日本海を見る。

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日本海東北自動車道は海岸から少し離れて走るので、この日は日本海をここで初めて見た。

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西施がいる。

  象潟や 雨に西施がねぶ(合歓)の花

このあとさらに北上して、つぎの目的地は田沢湖ブルーを見ることであるが、それは次回に。

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田沢湖高原の宿の部屋からの景色。写真ではわかりにくいが、本降りの雨である。早めに宿に入って正解!

紀行文(11)

 どうということのない街の片隅に見るべきものが潜んでいる。そういうものを見る楽しみを教えてくれたのが、池内紀の『ひとり旅は楽し』(中公新書)という本だ。観光地ばかりを歩くのは旅とはいえないと彼は思っているし、私もそう思う。

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 ドイツ文学者でエッセイストの池内紀の本をそこそこ持っている。ドイツ文学の翻訳などもいくつかある。彼の訳であることを後で知ったりする。ちなみに手持ちの本の中で紀行文だな、と思うものをあげれば、『ニッポン周遊記』(青土社)、『ニッポン旅みやげ』(青土社)、『消えた国 追われた人々』(みすず書房)、『東海道ふたり旅』(春秋社)などがある。とくに『消えた国 追われた人々』は強い印象を残す力作だと思う。

110706-102足助にて

 彼は旅先で写真を撮るが、撮るのはフィルムカメラで、その画質がクリアでない分、彼の文章とマッチしていい味わいを出している。旅の写真というのは、きれいに撮れればいいというわけではないようだ。

本合海

 東北道を北上して、福島から米沢方向へ走る東北中央道があるので、ナビはそれを案内すると思ったら、そのまま東北道を北上せよという。それなら村田ジャンクションで山形道へ、というコースをたどるのだろう。

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 古関という山形道のパーキングで山形方向を見る。朝、出発するときは晴れていたが、山形方向の雲行きが怪しい。大丈夫だろうか。山形からそのまま月山方向、日本海方向に向かうと思ったら、また案に相違して、東北中央道を北上せよという。どうも国道13号線と並行したこの新しい道を走らせるつもりのようだ。国道13号線はいつも混む。この東北中央道は有用であろう。それにしても、それなら米沢経由でよかったではないかと思ったけれど、途中まだ繋がっていないところがあるのかもしれない。

 東根、大石田、尾花沢という懐かしいところを通過して、新庄の手前で有料道路を降りて最上川沿いの道、国道45号線を西へ向かう。最上川沿いになるところが本合海である。

 本合海(もとあいかい)は、最上川の本流に小さな川がいくつか合流して幅が広くなっているところ。今の最上川船下りは古口から乗るが、むかしはこの本合海が乗船場だった。ここに芭蕉の乗船地を記念した像があるはずだが、見たことがない。小さな看板を発見して国道を外れた道を行ってみる。

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ようやく発見。

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 立っているのが曽良で、傘を抱えてすわっているのが芭蕉であろう。

 ここには官軍と庄内藩との戦い、戊辰戦争最後の戦いのことが記された看板があった。そのことを詳細に語ると長くなるが、とにかく西郷隆盛がその戦いを収めたようだ。そのおかげで庄内藩は会津藩のような悲惨な目には遭わずに済んだ。

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 本合海。最上川は前日の大雨で濁った流れになっていた。青い橋は国道47号線。

 このあと古口から父のふるさとである角川村(つのがわむら 現在は戸沢村)にたちより、再び国道47号線を走る。度々訪ねている清河八郎の出身地、清川村のあたりで対岸に渡る橋があり、そこから細い山道をしばらく登ったところに宿があった。

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 宿の、部屋からの眺望。こめどころ、庄内平野が見える。このあたりから最上川のつくった扇状地が開ける。左手の木がなければ最上川が見えるはずだ。中国人ならすぐ切り倒すところだが、日本人はそんなことはしない。それでいいのだ。

2024年7月 2日 (火)

ほろ酔いで満腹

 かなり熱めの湯にやせ我慢して浸かり、湯上がりに汗を流しながら冷たい生ビールを一気飲みする。七十を過ぎても若いときと同じ飲み方で、極楽、極楽、である。今晩の宿は安めの宿だから、部屋にトイレはない。もともと旅はこうだった。その安い宿の今晩の料理はボリューム満点で、再び生ビールで喉を湿しながら洋風の料理をまず片付けて、さらに和風のものを冷酒で片付けていく。気がついたらテーブルの上はきれいさっぱり何も残っていなかった。もちろんご飯と味噌汁も戴く。普段は、酒を飲むときはご飯は食べないことにしているが、山形のご飯を食べないのはもったいない。

 まだ酒を飲み終わっていないのにご飯が出されたのはご愛敬として、料理が思った以上に美味しかったことに満足した。この宿はまた来ても好いなあと思う。部屋からは前にある櫻の木が邪魔だが、風呂と食事処では眼下に最上川が望める。展望の湯、などと自慢するだけある。客は私ともう一組だけ。静かな夜が来る。明日は午後から雨らしい。明日は田沢湖ブルーを見たいと思っているが、見られるだろうか。

意外に遠かった

 先ほど予約していた小さな温泉宿に到着した。住所は酒田市だが、清河八郎の出身地の清川村の、最上川をはさんでの対岸にあたる。北関東から山形県だから近いと思っていたら、思いのほか距離があった。今日はちょっと人に会ったので、宿に入るのが遅くなった。

 これから一風呂あびて夕食にする。

 本合海(もとあいかい)というところが芭蕉の最上川船下りの乗船場所(下船場所は清川)だが、そこに立ち寄ることが出来た。その写真は明日の朝掲載するつもりである。とにかく風呂、そしてビール。

紀行文(10)

 作家の紀行文となればいろいろあって、取り上げていけば切りがない。その中でとくに面白かったものといえば、芥川龍之介の『上海游記 江南游記』(講談社学芸文庫)をあげたい。彼が旅した時代の上海や江南の夜のくらがりと幻想的な風物が彼の名文によって描かれている。

Dsc_0060_20240626180101上海にて

 私も上海や江南には度々行っていて、たしかにその夜の蠱惑的な雰囲気というのは想像できる気がする。この紀行文は、テレビドラマ仕立てにしてNHKで放映されたことがある。少し原文とは違うところもあったが、それなりによく雰囲気を出していた。

 

 手許には泉鏡花の『鏡花紀行文集』(岩波文庫)などもあるが、ちょっと読みにくい。『漱石紀行文集』(岩波文庫)というのもある。朝鮮や中国を旅したときのもので、面白い。永井荷風の『あめりか物語』や『ふらんす物語』も紀行文といえば紀行文だろう。安岡章太郎にも山口瞳にも紀行文といえるものがある。ずいぶんと読み散らした記憶がある。それなら開高健だって紀行文はたくさん書いている。好きな作家だからそれらをあげたが、ほかの作家でも山ほどあるに違いない。たしかに切りがない。

 

 そういえば内田百閒の『阿房列車』のシリーズは、紀行文といえば紀行文でもあるなあ。

裏妙義

 昨晩は友人と飲み、酩酊して大言壮語した。酩酊すると自己美化する。断片的なことしか記憶がないが、いい歳をしていささか恥ずかしい。過去がぼんやりするほど自分に都合のよいように塗り替えられていくような気がする。好い気持ちになるという酒の効用でもあって、まあそれはそれで良しとする。洋食のつまみとワインがとても美味しかった。

 昨日の続き。

 上信越自動車道の松井田妙義インターを降りて妙義山に向かう。普通は妙義神社へ立ち寄るところをパスし、県道196号線を下仁田方向に南下する。急カーブの多いワインディングロードだ。そこに中之岳神社がある。駐車場から妙義山を裏側から見ることが出来る。

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 雨はようやくやんだ。この奇峰の連なりは、なんとなく下界をのぞき込む、八つ墓村の落ち武者たちの姿を連想してしまう。

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 中之岳神社には大きな大黒様がいて、その背後の山道を散策できるのだが、今回は遠くから眺めるだけ。

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 垂直の崖は見応えがある。

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 粘性の高い、硬い材質の溶岩が一気に冷えて固まったものだろう。

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 大黒様に遠くからご挨拶して、下仁田方面に坂を下る。国道254号線に突き当たったら左折して、下仁田のインターから再び上信越道に乗る。関越道、そして北関東道と乗り継いで、今晩の宿に向かう。

Dsc_1849

北関東道のパーキングから赤城連山を望む。

さいわい雨はやんでいて、ありがたい。

2024年7月 1日 (月)

雨中を走る

 東名を走り、小牧ジャンクションから中央道に乗る。今はリニューアル工事中だからあちこちで車線規制があり、走りにくい。おまけに雨である。家を出るときは霧雨だったが、中央道を走り出してからは本降りになり、飯田を過ぎた頃には土砂降りになった。右手に南アルプス、左手に中央アルプスが望めるはずの道だが、みんな雲の中である。

 

 トラックが多いから、その水しぶきをあびながら走ることになる。仕方のないこととはいえ、あまりいい気分ではない。岡谷ジャンクションの手前から渋滞でほとんど車が動かなくなった。しばらくしてから少しずつ進み出し、塩尻あたりから流れもよくなり、雨も小降りになる。

Dsc_1814雨に煙る姨捨SAから

 姨捨のサービスエリアで休憩。本当は地道で諏訪湖を回って和田峠に抜けるつもりだったが、雨が強かったのでそのまま降りずに長野道を走っている。雨に煙る諏訪湖というのも風情があったかもしれないが、岡谷ジャンクションのあたりの渋滞がひどくてそちらへ行く気が失せた。

 

 そのまま北上して更埴ジャンクションから上信越道を走る。こちらも工事が多い。思ったよりスムーズに進んでいて、このままでは早く着きすぎる。昼飯を横川で食べながら、そこから見える妙義山系を見て、松井田妙義のインターで高速を降りることにした。

Dsc_1818横川のSAの中にて

 横川では久しぶりに釜飯を食べた。むかし家族旅行できたときに食べて、その釜を持ち帰ったのを思い出した。何回か使った記憶がある。あの釜に何を入れて食べたのだろう、その釜はどうなったのだろうか。

Dsc_1820横川SA駐車場にて

 いま、北関東のビジネスホテルに到着して、まずこのブログを書いている。このあと、夜は友人と久しぶりの楽しい会食だ。

 二日酔いがひどくなければ、次回(明朝)は裏妙義の写真を何枚か紹介する予定。

紀行文(9)

 清河八郎の『西遊草』(岩波文庫)という本は、母親を連れての庄内から西国への旅日記だが、とにかく見たことや体験したこと、さまざまな支払いのことなどが克明に綴られていて面白い。工程をもう少し詳しく書くと、まず庄内から北陸周りで長野の善光寺へお参りし、名古屋に出てそこから伊勢参りをしたあと、関西、四国、中国地方を回って江戸へ出、帰路につくという半年あまりの長旅だ。母親も健脚だったという印象があるし、土産などもあちこちで買い、豪遊もしているから結構豊かな家であったことが分かる。

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 清河八郎については、「策士」などとあまり人物的に芳しからぬ評価がされているが、山岡鉄舟などと親交があるなど、私はその評価は残念な気がしている。同じ庄内出身の藤沢周平が『回天の門』で清河八郎の生涯を小説にしている。策士とされるのは、幕府に働きかけて京都守護の名目で浪士をつのり、大勢を引き連れていった後に、じつは勤王のために集めたことを明らかにしたことなどをいう。その一部がそれに反発して実際に守護にあたるために結束したのが新撰組である。

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 結果的に新撰組を生み出してしまったことなどが反感を持たれたともいえるし、かなり人を食った男でもあって、頭がよすぎる上にかわいげがなかったようだ。これはたぶん庄内出身のためにことばの点で意思疎通がとりにくいところが災いしたような気がする。清河八郎は、後に江戸で幕府の刺客によって暗殺されてしまう。

 

 最上川の古口(今は最上川船下りの拠点である。私の父の生まれ故郷はここから最上川の支流を山へ入ったところにある)の少し川下に清川村という村があり、そこが清河八郎の出身地である。清川神社の横に清河八郎記念館があり、彼の遺品や山岡鉄舟の書などが展示されている。芭蕉の最上川船下りの時には、船を下りたのがこの清川で、小学校のすぐ近くに芭蕉の像がある。

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北関東へ

 北関東の友人を訪ねる。あいにくの雨で、どういうルートをたどるか迷う。諏訪湖に立ち寄り、湖岸の景色を眺めてから和田峠を越えて小諸にでも寄ろうかと思っていたが、この雨では単純に高速道路だけで走った方が無難かもしれない。成り行きで決めることにする。

 

 とにかく安全運転を心がけることにする。

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