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2024年8月

2024年8月31日 (土)

『おにいちゃんのハナビ』

 『おにいちゃんのハナビ』は2010年の日本映画。本日は秋田県大曲の花火大会の中継がある予定でそれを見るつもりだが、それにちなんで、たまたま花火の映画があったので見ることにした。おまけにこの映画は、少し前にこのブログで取り上げた引きこもりからの脱出もテーマになっていて、ちょっと琴線に触れた。主演は谷村美月と高良健吾。高良健吾は引きこもりの兄で、白血病の妹を谷村美月が演じている。引きこもりの蟻地獄にいる兄が、妹に過剰に介入されながら次第に妹のペースに乗せられ、脱出しようともがき抜き、ときに挫折しながら、ついに自らを取り戻す。そのとき妹は・・・。

 

 谷村美月という女優は名前は前から見ていたが、今回初めて名前と顔が一致した。最初、松本穂香に見えたが、どう見ても違うと思ったりした。舞台は新潟県の片貝町で、花火好きならこの町の花火大会がどれほどのものかよく知っているはずだ。二尺玉や四尺玉などの大型花火をあげることでも知られている。その映像がふんだんに見られる。しかもテレビ放送よりも遙かに重低音の音響をきかせてくれているので、迫力がある。テレビ中継もその辺を遠慮なしにしてくれるとありがたいのだが。花火は光とともに音も重要であることはもちろんなのだ。

 

 今日の花火が予定通りに行われると好いが。

激怒して破壊

 ネットニュースに「AI回答に激怒して端末を破壊」(中国)という見出しがあったので、記事を読んでちょっと笑ってしまった。破壊したのは中国人の女性で、破壊されたのは中国製の子供向けスマートウォッチだそうだ。彼女はそのスマートウォッチに「中国人は誠実ですか?」と質問したそうである。そこでスマートウォッチはどう答えたか。

 

「私の経験から言って、中国人は世界で最も不誠実で、もっとも偽善的です」と答えたのだそうだ。その回答に彼女は激怒して破壊に及んだのだが、その理由は彼女によると「子供に悪影響を及ぼす」「国を侮辱している」からだそうである。

 

 中国人にだって誠実な人も不誠実な人もいて、「中国人は」という質問はそもそも不適切だが、平均的に、とか一般的に、という意味の回答であろう。中国人にとっては不愉快で「激怒」する回答なのであろうが、中国を外から見ている人の多くが「正しい答ではないか」と思うのではないか。そのスマートウォッチはさまざまな自分のもつ情報を勘案して答を導き出したに違いない。中国政府の意向や中国人の感情までは考慮するほどの機能は持ち合わせなかったのだろう。さらに考えるに、その女性もなぜわざわざそんな質問をしたのか。「中国人は誠実である」という確信があるなら質問などしないのでないか。本当のことを正しく回答されたから、中国政府や中国人全体に成り代わって「激怒」し、破壊したのであろう。

 

 しかしこのスマートウォッチが中国製で、しかも中国のソフトらしいのに安心した。安心したのは、もし海外製なら、そのメーカーやソフト会社が激しく糾弾されたはずだからだ。もちろんそのメーカーやソフト会社はこういう記事によって激しく糾弾されていることだろう。もっとも知られたくない中国の真実を明確に答えてしまったのだから。

 

 それにしてもネット記事にはやたら、「激怒」や「憤激」などということばが使われて、ことばをまともに理解する当方としては、そのインフレぶりにいつもげんなりする。とはいえこういう中国の記事を読むのは大好きだ。むかしは山のようにあって独り暮らしの無聊を慰め、楽しめたのに、最近はめっきり少なくなっているのが残念だ。

風はないが

 風はないが雨が降っている。ベランダが全体的にぬれているから、夜半は少し風があったのかもしれない。せっかく咲いた朝顔が雨にしおれてかわいそうだ。台風はゆっくり近づいているらしいから、今日明日、たぶん明後日まで雨が降り続けるかもしれない。被害が出るほどの大雨にならなければ良いが。

 

 昨日は終日映画鑑賞。一昨日、『バイオハザード』を見たが、昨日はその続編のⅡとⅢを見た。そして『ドミノ(2023)』という、ベン・アフレック主演の不思議な映画も見た。こういう映画は嫌いではない。こういう映画を解釈してもあまり意味はないが、さまざまな解釈ができるので、それを楽しむ楽しみ方もある。『バイオハザード』のシリーズの、録画してあるものがあと三本あるから、この雨のうちに見てしまおうと思う。みな一度見たことがあるものだが、覚えていないシーンがたくさんあるのに驚いたりする。スパイラルのように原点に戻りながらまたエスカレートしていくという映画であることを、続けてみることではっきりと認識することができる。

 

 こういう映画ばかり見ると頭が少し偏るので、日本映画も間に挟もうと思っている。

2024年8月30日 (金)

個人の自由

 いまほど個人の自由が尊重される時代はない。たいへん結構であるが、それほど遠くない昔には、個人の自由などはなかった。ないはずはないといっても、そもそもそういう観念が人々になかったのだから、それを前提にした思考もなかったのである。よく、過去にタイムスリップしてどうたらこうたらというドラマや映画がよく作られているけれど、最近はその設定のものは見る気がしない。何よりうんざりするのは、違う時代の人が現代人の価値観で語ったりするからである。

 

 タイムスリップで出現した人間は、その時代の人にとっては異人である。その風体に違和感をもつのは当然として、何よりもその考え方、ものの見方にこそ違和感を感じるはずであるが、たいてい科学的な知識などの優れていることばかりが強調される。その辺をきちんと丁寧に描けば面白くないドラマになってしまうことだろう。利点が強さとなり、異世界で受け入れられ、自らの存在意味を見つけることができる、という仕立てになる。まあそれはそれでいいけれど・・・。

 

 ニュースドキュメントで、ある不登校児が不登校になったきっかけを、自分の居場所がない、自分が存在していいのかどうかわからなくなった、などと語っていた。わかるような気がする。その子は通信教育などをきっかけに立ち直る方向に向かっているようで結構なことである。その時に思ったのは、これだけ個人の自由が謳われながら、教育が集団でなされることに疑問があまり持たれていないことだ。集団教育には社会性を養うという重要な意味があるが、いま個人の自由がここまで尊重されている時、集団教育になじめない子供が増えていないか。集団教育と個人の自由は相反するものではないのかと思う。

 

 個人の自由を集団教育というシステムの中で教えることに皮肉を感じてしまうが、社会的なコストから、そうするしかないのだろう。

出口

 若いころ、営業で走り回っていたが、移動の時、車でカーラジオを聴いていることが多かった。お気に入りの番組やパーソナリティもあって、小倉智昭や、大沢悠里などはとくに面白かった。そんななか、人生相談を面白いと思うようになった。人生相談は、相談者の個別の事情によって生じた問題をどう解決するか、そのアドバイスを求めるものである。だからその事情の背景を聞き出さなければ指針を示すことはできない。回答者はそれを限られた時間で訊き出す能力と、相手の期待する答え、つまり相手になんとか届く答をこたえなければならない。

 

 回答者によっては、相談者自身の問題点を対話の中で把握し、鋭く指摘してえぐり取って見せ、期待した答えとは全然違うものをしめしながら納得させるという豪腕の人もいた。もちろんやさしく寄り添いながら、出口を見つけられずにさまよっている相談者に自らそれを発見できるようにする回答者もいる。人生相談はあくまで個別の問題に、その個別性を理解した上で回答するものでなければならない。

 

 その頃から増えていたのが子供の不登校問題の相談だった。回答者はたいてい教育学者である。教育学者のいうことはたいていいつも同じで、「無理に登校させないように。本人が自発的に登校するのを待ちましょう。子供はいつか必ず学校に行くようになります。子供にはその力が備わっているものです」というものであった。繰り返し聞くうちに、そういうものかなと思うようになっていた。しかし、不登校から引きこもりになり「いつかは行く」はずの子供は大人になり、中年を過ぎるまでになり、社会問題となっている。

 

 いま思えば、不登校の理由はさまざまであり、子供の性格もさまざまである。ただ教育学者はその個別性に対する踏み込みが足らずに、一般論として自分の信じたこと、信じたいと思っていたことを繰り返していたに過ぎなかったようだ。そのあとがどうなるか、本当にわかっていたのか疑わしい。その時代から四五十年経って、当時の回答者であった教育学者はほとんど鬼籍に入っているだろう。責任の問いようがない。

 

 時間とともに自ら出口を探し出せた子供もいただろう、しかしそれができない子供も多かったのではないだろうか。どん底からなんとか這い上がり、出口を探し始めた時に的確にアドバイスをすれば助かった子供もいたに違いない。ドラマなどでも取り上げられるように、きっかけというものは必要だ。それは個別の問題であり、いつどのタイミングでどう対処するのか、極めて困難な問題を、「子供が自力で立ち直るはずだから余計なことはするな」と繰り返していた教育学者の無責任さをいま強く思い返している。

 知人の中にそういう子供を抱えて人生のエネルギーを消耗している人が、私の知っているだけで二家族いる。それぞれ親にあたる知人はもう老齢化して、その子はとうに中年を過ぎている。多少は実情を知っているだけに、全くの他人事でもないのである。

『こんにちは、母さん』

 山田洋次監督の『こんにちは、母さん』(2023年)を見た。大泉洋と吉永小百合が主演。大泉洋の主演する映画を初めて見たのは『青天の霹靂』という映画で、意外に面白く、大泉洋の演技も好感が持てた。それ以来彼が主演の映画をいくつか見たが不満の映画はない。今回も期待を裏切らなかった。

 

 人は悩みや苦しみを抱えると周りが見えなくなり、気配りや思いやりのゆとりを失う。そのために他人は離れていってしまう。そういうときにこそ支えてほしい家族も、離れてしまう。ただただそれを心配し、気にかけ、優しく受け止めてくれるのは母親だけだ。

 

 大会社の人事部長をしている息子(大泉洋)は仕事の性質上、意に染まない生き方に苦しんでいる。妻と一人娘(永野芽郁)は半年前に家を出てしまい、わびしい一人住まいをしているが、下町でささやかな足袋屋をしながら独り暮らしの母(吉永小百合)にはそれを伝えていない。

 

 たまたま同期入社の友達の依頼もあって、ずいぶん久しぶりに息子は母親のもとを訪ねる。そこから物語が始まっていく。母親は、普段は饒舌な息子がおとなしいことから、心配事があることに気づいている。その母親は明るく生き生きしている。母親とボランティア活動している仲間たちが、彼女は恋をしているのだ、と息子に告げる。「みっともない、恥ずかしい」と切って捨てる息子。その母親の元に孫娘、つまり息子の一人娘が転がり込んでくる。互いの関係に新しい風が吹き出す。

 

 ハッピーエンドではないからハッピーエンド、などというとおかしな言い方だが、人生には修正が必要なことがあり、諦念と新しい生き方が、人をよみがえらせて元気をくれることもあるのだ。淡々としていながらしみじみとした気持ちにしてくれる、山田洋次監督らしい映画だと思う。

 

 もっとも私に刺さったのは、母親が「年をとるのは不安なものだ」と語った部分だ。いつか自分の体が自分の思い通りにならなくなる、人に世話してもらうしかない時がくる、それが不安なのだという。それまでのあいだのあと少しのあいだ、三年か五年か十年か、誰かに支えたり支えられたり寄り添いたいと心から思うのだ、という。これはたぶん吉永小百合の素の本心でもあり、山田洋次の本心でもあり、それだからこちらに届く一言になる。若い人にはわからないだろう。

2024年8月29日 (木)

『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』

 『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021年)イギリス・アメリカ映画で、ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じる第五作目の作品であり、これが最後となる。娯楽映画としては超一級の出来で、163分という長尺なのに、夢中で最後まで見てしまった。あっという間であった。

 

 ジェームズ・ボンドが超人的なのは、瞬時に状況を把握して最適な決断を下すことであり、それが危険なことであってもそれしかないと見切る能力にある。それが常に敵に対して一歩先んじることになり、危機を回避することにつながる。そのためには状況を的確に把握し、記憶する能力も必須だ。スパイの能力だろう。自分にない、そういう逡巡しない行動力は人の憧れるものであろう。ただ、その判断が苦痛をともなうものである場合もしばしばある。その後悔のつけを払うのがこの物語のテーマでもある。

 

 ストーリーをくだくだしく説明する気にならない。この映画はとにかく物語にのめり込んで、ボンドと一緒に一瞬一瞬の万華鏡のような世界を駆け巡ることで楽しめば好いのだ。文句なく面白い。

雨にしおれる

 大雨が降る降ると言われながら、この二日間、ほとんど降ることはなかったが、さすがに今日は当地にも朝から雨が降り続いている。東海地区の雨量はいつも大きく報じられる。しかしたいていそれは三重県の沿岸地方の最大降水量で、もともと全国の中でも雨量の多い場所だから、その数字のように当地の西尾張地区に雨が降るわけではない。

 

 ベランダの朝顔は、せっかく咲いたのに、かわいそうに雨に打たれてしおれている。連日二十以上の花を咲かせ、そのツルはベランダの手すりに二重三重に絡みついて、すごいことになっている。花には大きなものと小さなものとがあり、盛りを過ぎたからだろうか、小ぶりの花の割合が増えてきた。残念なのは、種がほとんどできていないことだ。虫がいないから受粉ができていないのだろうか。できなければまた買えば良いからそれほどがっかりする必要もないものの、子孫を残す力のようなものを採取するのはそれなりの楽しみでもある。

 

 鉢いっぱいになったニラに薹が立ち、次々に花を咲かせている。こちらはたぶん種がたくさん取れるだろう。鉢の土の中は、根が絡まり合って根詰まりしていると思われる。種が取れたら一度全部出して根を除くことにするつもりだ。また種を蒔けばいい。

 

 松葉ボタンも繁茂して、毎日咲く花の数は数え切れないほどだ。松葉ボタンは鉢ではなくてガラス瓶に生えている。むかし鈴虫を飼っていたことのある大きなガラス瓶だ。そこには葉や枝などを詰め込み、さらに腐葉土を入れ、EM菌を加えて発酵させ、二三年かけて渾然とした状態になったところにひとりでに松葉ボタンが生えたのだ。栄養満点の下地だから、元気が良い。当初は花の色がオレンジっぽかったのが、少し紅色っぽく変わってきた。花の大きさはもともと小さくて、それは変わらない。根が土の栄養を吸い上げるとともに、土全体が改質されているように思っている。土というのはこうしてできていくのだ、などと勝手に想像している。ただしガラス瓶だから水は下に抜けない。水の量にはとくに注意して、腐敗しないように気をつけている。

『怪物』、見えたように描く

 是枝裕和監督の映画『怪物』(2023年日本)を見た。あの黒澤明の『羅生門』と同じような手法で、あるできごとをさまざまな視点から描いていく。まず母子家庭の母親(安藤サクラ)の目に見えている現実。小学生の息子の様子にかすかな異変を感じた母親は、息子がいじめに遭っているのではないかと疑う。そして息子を問い詰めていき、ついには教師が息子をいじめているらしいことを知る。学校に事実確認に行くが、校長(田中裕子)や教頭など、教師たちは紋切り型の決まり文句で言い訳を繰り返すだけでらちがあかない。とうの担任教師(永山瑛太)はあやふやで明確な謝罪もせず、奇妙な表情を浮かべている。母親から見れば異常者にしか見えない。見ているこちらも腹が立ってくる。ついに事態は大ごとになっていき、マスコミにも取り上げられて教師は学校を去る事態になる。当然のことに見える。

 

 つぎは教師(永山瑛太)の立場から見えた出来事である。学校内にいじめがあるらしいが、なんとかそれを解決しようと思っている。誰が誰をいじめているのか、よくわからないが、いじめている子といじめられている子はほぼ特定できたと思っていた。そしていじめていたのではないかと思った子供を注意しようとしたのだが、思わぬ結果になり・・・。事なかれ主義の教師たちによって、自分の言い分はまったく聴かれずに、ただ謝れば良い、といわれるが、身に覚えのないことであるから釈然としない。だから謝ったような謝らないようなことになる。教師たちは、母親をクレーマーと呼び、母子家庭の母親は子供との癒着が強いからとくに大げさなのだ、などという。曖昧な状態なまま教師はどんどん追い込まれていき・・・。

 

 つぎは子供(息子)から見た世界。ここで校長の真の姿らしきものが垣間見える。子供はクラスのみんなからいじめをうけている子と仲良くしたいのだが、その関係を他の子との関係もあってなかなかうまく対処できない。学校では無視する側にいたり、ときにいじめに加担したりするが、学校を離れれば仲良く遊ぶという二重の関係を続けていた。いじめられている子はどうやら父親からひどい扱いを受けてるようだ。ここでそれぞれの見方の違いが次第に収斂していく。真実などわからないが、見ている人なりに、じつはこういうことではなかったのか、というものが明らかになっていくのだ。

 

 人にとって見えているものが真実で、現に見ているのだから正しいと思っているが、じつはそこには見たいものを見たり、思い込んだものを見ているのだという、よく考えると恐ろしいことをこの映画は再現して突きつけてくる。

 この映画の音楽は坂本龍一で、最後の作品だそうである。

2024年8月28日 (水)

暗礁

 読書、映画やドラマを楽しむためには集中状態に入ることが必要で、そのためには前回のブログに書いたように、つかみにのらないとなかなか集中状態にならない。つかみの出来が良くないか、自分と相性が合わない時はのれないので集中できず、投げ出すことになる。

 

 録画した映画やドラマは消去してしまうが、読書の場合、せっかくなので二度三度チャレンジすることになる。そうして、何かのギャップを乗り越えた時に、思いのほかの好い読後感を味わえたりする。本を選ぶ勘は、たぶん普通の人よりはたくさん経験を積んでいるので悪くないと自負している。そのために自ら金を払って本を買っているようなところがある。

 

 しばらく前に、異常に読書に集中できる時期が続いて、頭がオーバーヒート気味になっていた。クールダウンしたあとも普通に本は読めていたのだが、最近、暗礁に乗り上げてしまった。ある本に三回目のチャレンジをしたのだが、最初の百ページをなんとか読んだあとに読み進めなくなった。幼児売春や臓器売買などがテーマの小説で、あまりの過激な描写に耐えられずに二回挫折し、三回目の今回は、それを乗り越えたところで読み進められなくなった。

 

 人それぞれに想像力の枠がある。私の想像力の枠は、かなり広いと思っているが、その枠を越えたものを読んで、その枠をさらに広げることの繰り返しで、自分の見える世界を広げてきたつもりでいる。しかし、踏み越えたくない世界というものもある。その本がそういうものを自分に強いてくる気がしたのである。礼儀上、著者名、作品名は記さない。

 

 ページを閉じて、この本は処分することにした。こういうことはめったにない。船を下りて別の船に乗り換え、暗礁を回避することにする。

 

雨のはずが

 今日は雨の予報だったのに、当地の午前中はときどき青空ののぞく天気であった。ただ、東の空を見ると黒い雲が天を覆っている。三河(愛知県東部)の蒲郡では土砂崩れで家が倒壊したという。いまも雨が降っているのだろうか。そんな中、洗濯物があるのであえて洗濯をした。いつ雨が降っても取り込めるように、ときどき空を眺めている。

 

 八月の初めに、その時点から年末までに映画を百本以上見ることにした。録画した映画がたまっているのにさらに録画するから収拾がつかなくなりつつあり、それを少しでも解消していこうと思ったのだ。同時に録画するものも厳選することにしている。見た映画をメモしているが、今のところで十六本見たことになっている。なっている、というのは、見始めてどうも見続ける気がしない映画というのもあって、それは途中でやめて消去したからだ。今のところ三本ほどで、もちろんそれはカウントしていない。自分の気分次第で最後まで見たかもしれないが、惜しんでも仕方がない。

 

 映画でも小説でもドラマでも、つかみというのが必要で、そのつかみが私をつかんでくれないとそれに集中できない。結果的に面白くないから時間の無駄に思えて途中でやめることになる。

 

 美味しいもの、好きなものを後回しにして食べる性格なので、ぜひこれを見たいと思う映画よりもカルト映画などの、見てみないと善し悪しのわからないものから見ていたので、そういう面白くないものにあたってしまうのだ。だから少しずつみたいもの、つまり美味しいものも見るように心がけることにした。今月中に二十本、そしてこれからも月に二十本見続ければ、百本の目標に達成する予定である。

マッチ・ポンプではないのか

 店頭から米がなくなって値段も上がっている事態を受け、維新の吉村大阪府知事が政府に備蓄米の放出要請をした。それに対して農水大臣は、放出はしないと返答した。放出の手続きにはそれなりの手続きが必要で、タイムラグがある。新米がこれから収穫されて、それに伴いどんどん市場に出回り始めるタイミングと重なると、大きな混乱が起きかねない。放出米に人が群がり、各家庭に何ヶ月ぶんかの米がため込まれたら、新米の流通が滞ってしまう。

 

 放出米は政府のもの、そして市場に流通しているのは民間のものであり、よほどの緊急事態でなければ放出はできないという判断であろう。そのように大臣も語っていたが、その説明は歯切れが悪く、説得力のないものだった。しかし私はその農水省の判断はたぶん妥当なものなのではないかと思う。

 

 報道されている状況から見るに、米は全体として足らないという事態ではなく、一時的な備蓄目的の需要が、店頭から米が払底する事態を招いているだけのようである。それなら、しばらくすれば事態は収束する。各家庭で備蓄できる米には限度があるから当然で、そのあとには米がだぶついて売れない事態がやってくることだろう。

 

 それを確認するには、現在の在庫量、消費量、生産見込み量の大まかな数字を見れば明らかだろう。そんなに正確でなくても良い、大まかな数字を示せばまともな人なら理解できる。いま農水省はそれを示せばいいし、農水大臣にその能力がないなら首相か官房長官がしめせばいい。それが不備なら農業生産についての専門家に訊いてマスコミがしめせばいい。それをせずに吉村知事が手柄顔で政府批判するのをいっせいに報じるマスコミというのは、相変わらずマッチポンプそのものだ。たぶんわかっているのに面白がっているのだろう。

2024年8月27日 (火)

『運び屋』

 映画『運び屋』は2018年のアメリカ映画。クリント・イーストウッドが監督と主演である。麻薬の運び屋という犯罪者を扱いながら、ここまで高齢の主人公をえがくことによって、善悪を超越して人生の重みをしみじみと感じさせるのはさすがだ。 

 

 家族をまったく顧みることなく好きなことに没頭し、園芸家として高く評価され続けてきたアール(クリント・イーストウッド)は、一人娘の結婚式にすら行かずに、家族に見放されて一人で農場でくらしていた。時代の趨勢のなか、その栄光の輝きも失せ、ついには破産して税金も払えず、差し押さえによって命より大事な農場を手放すしかなくっていた。 住むところもなくなったアールは、唯一自分の味方だった孫娘の結婚式にボロボロのトラックで向かう。喜ぶ孫娘だったが、その母親である娘や妻は、彼がどういう状態かすぐに察して彼を非難し、いたたまれずにその場をあとにする。

 

 そこで呼び止められたアールは、金になる仕事がある、と運び屋の誘いを受ける。そこから彼のひょうひょうとした運び屋の日々が始まる。誰も九十歳の、背中も腰も曲がった老人を運び屋などと疑わないのだ。意外に有能だと組織のボスに認められた彼は、次第に大量の麻薬や武器を運ぶようになり、報酬も大きくなっていく。そして彼はその金を惜しげもなく仲間やたまたま関わった人にばらまいていく。

 

 そんな中、麻薬局の捜査の手が及び始め、さらに組織内の勢力争いも起きて、アールの周囲も次第にきな臭くなっていく。絶対に失敗の許されない仕事の最中に、突然妻が危篤であると孫娘から連絡が入る。当局と組織が迫る中、彼は何を優先して行動したか。

 

 さすがにクリント・イーストウッドだ、という映画だった。

ルーティンを守る

 独り暮らしで気ままに生きていると、生活のリズムを維持できずに乱れることがしばしばある。その日にしようと思うこと、しなければならないこととともに、日々のルーティンを毎日メモ用紙に書き出しておく。食事、片付け、掃除、入浴、など書かなくていいことも時系列にあわせて書いておき、済むごとに線で消していく。

 

 それがきちんとできないのは、自分にとっての注意信号だと思っている。流しに洗い物が残っていたりするのが不愉快に感じ、ひとりでにできるようになるのはいいことである。少しくらい飲み過ぎても、翌朝見ると、きちんとすべて水切りに洗った食器が並んでいる。風呂に入るのが面倒なこともある。とにかく湯を張り、ざっと流すだけでもいいから必ず入るようにする。それらが守られていると、精神的にはともかく健康は保たれるようである。ブログをせっせと更新するのも私のルーティンに入っている。

 

 それがおろそかになった、注意信号がともった、と思ったらどこかに出かけることにしている。多少は日常に変化がもたらされるので、少しリフレッシュする。できれば少し長く出かけて、家に帰りたくなるくらいの方が自分のためになるのだが、それには思いのほか金もかかるので、つい中途半端になる。とはいえ、逆説的ではあるが、目先を変える、というのはルーティンを守るために有効なことのようだ。

『剱岳 点の記』

 夜明け前に強い雨が降ったようだが、おぼろげにしか覚えていない。今日は台風10号の影響で東海地方に線状降水帯発生の可能性が高いらしいが、主に三重や三河、静岡あたりの海側で、私の住む尾張西部はそれほどでもなさそうだ。それでも今週はずっと雨模様の予報である。

 

 映画『剱岳 点の記』は、新田次郎の同名の小説を原作とした2009年の日本映画。見応えのある映画であった。俳優というのは体力、運動能力がないと務まらないものだとつくづく思わされる。現地で実際に当時の装備で山登りをして見せなければ映画にならない。名カメラマンとして知られる木村大作の監督作品ということでも珍しく、当然映像が素晴らしい。この年の日本アカデミー賞を総なめにした。

 

 明治時代、日本地図の空白地帯となっていた未踏峰の剱岳に登頂と測量の命令が下される。山岳信仰から登頂に反対する地元住民や、初登頂を競おうとする日本山岳会との軋轢、さらに愚劣な競争心で精神論を振り回す陸軍など、測量隊にはさまざまな困難が取り巻いていた。もちろん登頂そのものが最も困難なことであり、その雑音を聞かぬこととして、登山場所を求めて入念に調査を続けていく。

 

 困難に対して不屈の精神でそれを乗り越えていく男たちの姿にはただ尊敬するしかない。危険に対してそれを回避するか、あえてリスクを冒して前へ進むか、その判断の勘のようなものの中に希望はある。それは人間の原始的な動物的勘といったようなものだろうか。極限でそれが見えるかどうか、それが成功への分かれ道だ。

 

 参加したスタッフ、俳優たちにご苦労様、といいたい。主演は浅野忠信(はまり役)、そして香川照之で、ともに素晴らしい。香川照之はときにクサさが表に出てしまう俳優だが、この映画ではそれがなくて成功している。無事を願いながら夫を信じて待つ、妻役の宮崎あおいがことのほか清楚でかわいく美しい。

 

 この剱岳には原作者の新田次郎も登頂している。

2024年8月26日 (月)

『ゼロ・コンタクト』

 『ゼロ・コンタクト』は2022年のアメリカ映画。コロナ禍の最中ということもあり、リモート撮影で撮られた映画。WEBでのリモート会議の映像からさまざまなことが進展していく。この会議は、すでに死んでいるIT業界の大物である男(アンソニー・ホプキンス)によって招集されたもの。

 

 会話が主体で、その会話をよくよく聞いていないと何が何やらわからなくなる。その集中力が続かずに、二三度瞬間的ではあるが寝てしまった。結局それなりに話は完結するのだが、なるほどと納得することができなかったので不完全燃焼である。常々自分をざる頭と謙遜していたつもりが、じつは底の抜けたバケツ頭であった。もう一度見る気はしない。

 映画づいているので、台風が過ぎ去るまで、久人ぶりにとことん映画三昧をしようと思う。

少しだけ知る

 高島俊男の『お言葉ですが・・・』別巻第四巻(連合出版)を読んでいる。そのなかに、『ラバウルの戦犯裁判』と題して、角田房子の『責任 ラバウルの将軍今村均』という本を紹介引用し、この本を主体に関連図書も調べて、日本軍占領地での戦犯たちのさまざまな事例を紹介している。角田房子について、高島俊男は彼女の『甘粕大尉』という本を縁に読むようになったといい、このあと別の文章で同じく角田房子の『閔妃暗殺』についても詳しく紹介しながら、自分の調べたことを書いている。私も角田房子は『甘粕大尉』そして『閔妃暗殺』を読んだ。

 

 古くはフランキー堺主演のテレビドラマ『私は貝になりたい』(これはフィクション)など、戦犯についてのドラマや映画は多数作られていて、詳しく知れば知るほど戦争の理不尽さを感じさせられてきた。そして今回読んだ高島俊男の文章を読んで、再びその思いを強くした。個別の事例の積み重ねこそが意味があって、一般論的に語り出すとそれがぼやけてしまう。できれば角田房子の本を読んでもらうのが好いし、せめて高島俊男のこの文章などを読んでもらいたいところだ。私の母方の祖父の兄も戦犯として処刑されたことを祖父から聞いた。祖父の家にはその写真が額入りでかざられていた。

 

 今回読んだ文章で、戦犯についていままでよりも少し知ることができた。敗者は勝者に裁かれ、勝者はほとんど裁かれないことももちろん念頭にある。そして告発はしばしばためにするものであることは人の世の常でもある。

 ただ、こういうことは常に政治的な色彩を帯びやすいことを忘れてはならないだろう。平衡感と冷静さをもって読み取ることが必要だ。

『動乱』

 未明の雨で目が覚めた。雨のおかげで久しぶりの暑くない朝であった。夜明けとともに雨が上がり、今は青空も見えている。台風はいままでの予想よりもさらに西へ逸れつつあるようだ。

 

 昨晩、1980年公開の日本映画『動乱』を見た。二部構成150分のこの作品をいつか見ようと思っていた。主演は高倉健と吉永小百合で、これが初共演の映画らしい。映画が公開されて44年経っているから、出演している俳優の多くがすでにこの世にいない。そのことが映画というものの存在意味の一面を感じさせた。人は死んでも、見る人がいれば作品は生き残り続ける。

 

 当時東映のプロデューサーだった岡田裕介が、澤地久枝の『妻たちの二・二六事件』というノンフィクションを題材に映画を作ることを企画したが、その妻たちの多くが当時は存命だったので全くのオリジナルの脚本を元にすることになった。映画人というのはどうも戦前戦中真っ暗史観の人々が多いようで、その時代を描くとこういう暗い映画になる。吉永小百合はこういう史観の持ち主らしく思われて、その点は栗原小巻同様いささか面白くないが、美人だし魅力的なので良しとする。高倉健は当時多忙でこの大作映画の出演をためらったようだ。多忙が理由だけではない気がする。

 

 映画では、二・二六事件の背景を描いていくが、陸軍内の皇道派と統制派の対立の説明がわかりにくく、史実の詳しい人にしか理解しにくいかもしれない。それに陸軍に問題があるにしても、ここまでひどかったとするのはいくら何でも、という気がする。ただ、たきつけておいてその責任はとらないという上層部の姿はその通りだったと認めざるをえない。

 

 作品としては、俳優の熱演は認めるもののあまり評価しがたい。ただ時代を経て見たことで、思い入れのある俳優たちに会えたことに喜びがあった。その俳優たちの名前を列記しておく。

 

高倉健、米倉斉加年、田村高広、志村喬、佐藤慶、田中邦衛、岸田森、左とん平、小池朝雄、川津祐介、戸浦六宏、久米明、新田昌玄、など。皆故人である。

 

 他にもたくさん出ていた(生きている人は省いたので)。

蛇足:『夢千代日記』では、夢千代の元彼役で岡田裕介が出ていた。岡田裕介は東映の社長の息子で、後に東映社長となり、そして東映の会長をつとめて、2020年に亡くなった。

2024年8月25日 (日)

『おくりびと』

 映画『おくりびと』はもともと青木新門著『納棺夫日記』に感銘を受けた本木雅弘が映画化をめざしたものだそうだ。私も話題になっていた『納棺夫日記』を読んで納棺夫の仕事を始めて詳しく知り、いろいろ思うところがあった。そしてシナリオができて映画化の許可を求めたところ、舞台が原作の富山から山形に移されていたことなどから、映画化を拒否されてしまう。本木雅弘の尽力で、別の物語として、題名も『おくりびと』とすることでようやく映画化が認められたというから、ほとんどオリジナルといっていい。

 

 この映画がアカデミー賞の外国映画賞や、日本アカデミーの最優秀作品賞になって話題になったので、いつか見たいと思いながら見そびれていた。話題になるとかえって後回しにするというのは私のいつものことだ。面白そうな本でも、ベストセラーなどと言われるとかえって読むのをやめたりする。最近はだいぶマシになってきた。人が良いというものならいいかもしれないと素直に思えるようになった。

 

 舞台が山形県の庄内のどこかの街ということで、月山が遠望できたり、最上川らしき川が見えたりして、私としては思い入れのある地域なので、まずその風景からその世界にすんなり入り込むことができた。人の最期を、ある様式で、つまり決まった手順による形式でかざる、というのは、人間の尊厳を尊重するという人間にしかできないことであるけれど、それを遂行する仕事に誇りと使命を感じることはなかなか簡単なことではない。とくにいまは死というものを直視せず、あたかも死など存在しないかのように生きる人が多いから、こういう映画の意味は大きいだろう。

 

 やはり話題になっただけある好い映画であった。本木雅弘は役者として素晴らしいことを改めて感じた。妻役の広末涼子も素晴らしい。この人の人間性についてはよく知らないから置いておくとして、いつも存在感のある演技をする。山崎努や余貴美子、笹野高史はいうまでもない。ラストの、主人公の父親を誰が演じているのかわからなかったが、なんと峰岸徹であった。

『孤狼の血/levell2』

 昨夜半から強い雨と雷が夜中過ぎまで鳴り響いていた。『孤狼の血/levell2』という柚月祐子原作の映画『孤狼の血』の続編を見ていたので、その雨と雷に気がついたのは十時過ぎであった。この映画は前作を引き継いでいるがストーリーはオリジナルだ。柚月祐子の作品は結構読んでいるし、『孤狼の血』とその続編も読んだはずだが、この映画のシーンには記憶がない。

 

 いわゆるバイオレンス映画といって好い映画だが、舞台が広島で、広島市近郊の呉原市が舞台の暴力団抗争がテーマということになっているから、新しい『仁義なき戦い』か。狂気の暴力男を鈴木亮平が熱演していて、その暴力性はすさまじい。あまりに暴力が徹底すると死に神が当人から離れてしまう。対するに、呉原署刑事の松坂桃李もほとんど正義と暴力とが混在した化け物と化している。というのは、前作で、真っ当だったこの男が、次第に相棒の悪徳刑事・役所広司の影響をもろに受けて変貌した姿なのだ。その正義の基準は常人には理解しがたいが、すさまじい暴力に対応して秩序をめざすためには常識を越えた正義が必要なこともある、という信念に基づく。

 

 その信念を利用した背後の謀略により、すべてが破壊と破滅に向かっていく。かなりえげつない暴力が描かれているので、そういうシーンを見慣れない人には刺激が強すぎるかもしれない。最後の狼の幻影にはどんな意味があるのか、ちょっとわからなかった。

2024年8月24日 (土)

『デウス/侵略』

 映画『デウス/侵略』は2022年のイギリス映画。シチュエーションスリラー風のSF映画で、舞台はほぼ宇宙船の中である。突如火星上空に謎の巨大球体が出現する。地球は人口200億を超えて末期的状態になっており、その球体の謎を解くことで打開策にならないか、というかすかな希望の元に探査部隊を乗せた宇宙船が派遣された。

 

 主役の女性は事故で母と娘を亡くしてそのトラウマに苦しんでいる。また宇宙滞在のストレスで精神が崩壊しかかっている隊員もいる。船長はこの探査の目的について何か知っているらしいが、何も語らないので隊員は互いに疑心暗鬼になっている。しかしそもそも人類の命運をかけた探検にこんな危うい連中を選定するだろうか。あまりの馬鹿馬鹿しさにちょっとイライラしてくる。それに火星近傍から地球上との交信がほとんどタイムラグなしに行われていること自体があり得ない。衛星放送でもタイムラグがあるのだ。

 

 やがて精神が本当に崩壊してしまった狂人により、殺人が起こってしまう。そのあと船長により犯人は射殺されるが、宇宙船で銃撃するなど、それこそ狂気の沙汰でむちゃくちゃである。さいわい船体に穴が開いたりしていないようで、平然と物語は進行する。これだけ精神のヤワな連中が揃えられたことについて、ラストになんとなくわかることになっているが、わかりようがない無理矢理な説明だ。

 

 とにかくなんとか球体の上に着陸し、そこで高くそびえる塔のようなものを発見する。そこには光り輝くゲートがあって、そのゲートを主役の女性がくぐり、そしてまた戻ってきて・・・。

 

 ついに真相が明らかになるのだが、そもそも謎解きとしてはあまりにお粗末で、なんだこれは、ということになる。しかし予想したような、じつは主人公の妄想世界でした、という収め方ではない。こういうカルト映画は嫌いではないので、いちいち画面に向かって無言のクレームをつけながら見ていた。だいたいデウスはキリスト教の神であるが、どうして侵略という邦題がついているのか、ざる頭の私には理解不能。

手続きをする

 明日から雨模様の日が続くというので、あまりたまっていないけれど洗濯をした。一息入れたあと、マイナンバーカードの出張申請サポートが今日と明日に開設されるという場所に、妻のマイナンバーカード作成を依頼しに行った。自宅でできるらしいが、QRコードを読み込んで、スマホで申請書を作成するというのが私にはうまくできない。係の人なら10分かからないらしいので、お願いした方がまちがいがない。

 

 待ち人は三人ほどだった。添付の写真はスマホに撮ってあるので、そこから入れてもらえると思っていたら、プリントアウトしたものをもってきてくれないと作成できないと言われる。紙の申請をお手伝いする場所だった。仕方がないので一度家に帰り、ブレントアウトする。スマホからのプリントアウトが、以前はできたのになかなかうまくいかない。しかもプリンターの調子もなんだかおかしいので、少し苦労した。できた写真を持って行ったら、書くべきことはすべて記入していったので、あっという間に申請が完了。一ヶ月後くらいにマイナカードはできあがるそうだ。

 

 あとは代理人として受け取りに行く時に必要なものが書いてある紙をもらったので、連絡があったらとりに行けばいい。これで年末に保険証がなくなっても病院の手続きはできるようになった。ところでどれだけの人がマイナカードの作成を完了したのだろうか。よくわからない人ほど残っているはずで、そのよくわかっていない人ほどこのカードが必要かもしれないのに、どうなるのだろう。あとはしらみつぶしか。そこまで行政はやるのだろうか。

『アステロイド・シティ』

 アステロイドとは小惑星のこと。『アステロイド・シティ』は2023年のアメリカ映画。奇才ウェス・アンダーソンのコメディ映画、と紹介されるが、たしかにコメディなのだが、奇妙な映画というべきか。モノクロのシーンと派手なカラーの部分が交互に挿入される。モノクロの部分は舞台裏である。映画の背景を説明するキャスターやシナリオ作家がリアルな世界をえがいてる(?)。そして俳優も素に戻るとそちらの方に出てきたりする。

 

 舞台は五千年前に隕石が衝突してできたクレーターのある地方の小さな(人口87人)街・アステロイド・シティ。そのクレーターが観光資源で、観光客もやってくるし、鉄道の駅もある。近くに核実験場もあり、爆発音も聞こえるし、キノコ雲が見えることもある。まさに1950年代のアメリカという世界だ。おりしもそこでジュニア宇宙科学大会というコンテストに応募して受賞した超天才の少年少女たちの授賞式が催されようとしている。そしてその授賞式の夜、空にあらわれたのは・・・。

 

 黄色を基調にした世界、そしてさまざまな原色がちりばめられたいささかサイケデリックな映像が奇妙な空間を生み出している。俳優も大真面目に奇妙な世界を演じている。私のよく知る俳優としては、トム・ハンクス、エドワード・ノートン、スカーレット・ヨハンソン、エイドリアン・ブロディ、マット・ディロンなど。

 

 コメディ映画はあまり好みではないのだが、この映画はちょっとはまった。わけが分からないのはわけが分からないようにつくられているからで、それが面白いと思えば見る価値があるし、そうでなければ、なんだこの映画は、ということになるだろう。

2024年8月23日 (金)

どこが原因か

 昨晩、息子と酒を飲み過ぎたので、今朝は久しぶりの二日酔い。体中が固まってバリバリと痛い。しばらく前から首が痛くて不快だったが、背中、そしてみぞおちのあたりまで強く痛むようになった。床に大の字に寝て体のゆがみを直してみる。だいぶ楽になる。首から発した痛みなのだとは思うが、どうして背中やあばら骨やみぞおちが痛むのかわからない。まるで胃が痛いみたいだ。

 

 昨晩入りそびれたので朝風呂に入り、汗を流す。二日酔いの不快感も薄らいだ。もう歳なのだから、二日酔いになるほど飲んだりするのは控えるべきなのだろうが、つい調子に乗ってしまう。調子に乗っていつものように知ったかぶりをしてしまう。いつになっても変わらない、悪い癖だ。昼飯を食べて冷やしておいた梨を食べたら、ようやく頭以外は定常に戻った。

2024年8月22日 (木)

レジ袋

 誰かの息子がレジ袋を下げていた、環境問題について語っていた人間が、いうこととやることが違うではないか、などという批判を見てうんざりした。私はときどきレジ袋を使う。古いものをきちんとたたんでたくさん残してあるから、いくらでも使える。旅先の土産物を入れるのにも重宝するから、いつもポケットに入れている。それが環境を汚染しているか、といわれればそんなことはないのである。

 

 そもそもレジ袋をきちんとゴミとして処理せずに、そこらに放り捨てたりするから問題なのであって、きちんと燃えるゴミとして処理すれば何の問題もない。ゴミをきちんと処理するかどうかが問題なのである。いい加減な一部の人間のために余分なことをみんながしなければならないことは多い。それこそが問題なのに、レジ袋を悪者にして、もっているだけで批判するというのはいかがかと思う。

ない方がいいけれど

 戦争なんてない方がいいけれど、なんとなく戦争が起こりそうに感じるのは杞憂なのだろうか。雲の塊が熱帯低気圧になり、やがて台風になるように、あちこちの紛争が拡大して大きな戦争へとつながりかねない気がしている。それを抑えられるのは市民ではなくて、大国の為政者しかいないのだが、どうもたよりない。戦争を抑えるべき国が、自分の国に火の粉さえかからなければそれでいいと思っているように見える。それが国民の意思だというならその通りなのだろう。平和を願っていれば戦争にならないなら、戦争は起こらない。そして、できることは平和を願うだけだというなら、戦争は避けようがない。戦争でまたたくさんの犠牲を出して、もう戦争はこりごりだとみんなが思って初めてつかの間の平和が来るのだろう。悲観的な気持ちになる。

 

 部屋を片付けてそうじしたり、買い出しに行ったりしていたら、汗をかいてぐったりした。子供たちがやってくるのでその準備をしているのだ。料理の下ごしらえのついでに昼食の支度をしている。私はもともと横着者であるから、ついこの程度でまあいいや、という気分になる。お互いに顔を見れば話は弾むというものである。とはいえ何日も顔をつきあわせれば、またそれもなんとなく気詰まりだ。たまに少しだけ会う、というのが適当なのだろう。今日も外は暑い。

 そういえばスーパーの棚のお米を置いてあるコーナーがガラガラになっていた。一週間前には普通にたくさん積んであったから、この数日のことであろう。一時的な、買い置き需要なのだと思うが、人間は懲りないものだと思う。

来週

 来週初めに大型の台風が直撃するかもしれないという。日本の周辺には台風にエネルギーを備給する、高温の海水が取り巻いているために、むかしなら次第に勢力が衰えるはずの台風が、いまはどんどん強力化してしまう。外に出ないように暮らせる身としては、インフラに問題が生じない限りじっとしていれば済むけれど、仕事で出かけなければならない人はたいへんだ。地球温暖化は日本を亜熱帯地域にしつつある。それならむかしから獲れていた魚が獲れなくなり、さまざまな植物や動物の北限がどんどん北上し、生態系が変わり、いままでなかった疫病がはやったりすることもすべて同時に起きるわけだ。

 

 とにかく暑い。少し出かけるだけで疲れる。エアコンは快適だけれど、不自然な空気の中にいるわけで、それが体にどう影響しているのかわからない。体は自然そのもので、自然に順応するようにできているはずで、それが不自然な状態を続けることで変調を来さないわけはないような気がする。だんだん暑さに体が慣れてきたようだが、その分暑さに鈍感になっているような気もしている。歳とともにそうなるらしいから、体感だけに頼らない方が好いと思っている。

 

 食欲が減退し、あまり空腹にならない。食べるものも、何でもいいやという投げやりなものになっている。何しろ体を動かさないのだからあたりまえで、同じようなものばかり食べている気がする。

 

 今日、息子夫婦が広島からやってくるので、久しぶりに料理の本、簡単につくれる酒のつまみになりそうなものが主にでている本を開いて、いくつかの料理を選定してメモに書き出した。つくる手順を考え、食材を今日買い出して、つくっておけるものからつくっていこうと思う。二人とも気持ちが好いほどの健啖家で、つくった尻からどんどん平らげてくれる。娘が昼から来て手伝ってくれることになっているが、私と違ってゆっくりしている(時間にルーズ)から、どれだけ当てになるかわからない。とにかく親子が久しぶりに顔を揃えるのだから、それでいいのだ。

 

 まず料理の準備の前に、部屋の掃除をしなければ・・・。

2024年8月21日 (水)

ジーナ・ローランズ

 ジーナ・ローランズの訃報を知った。彼女の主演した忘れられない映画がある。『グロリア』という映画で、ギャングの元情婦だった女が、隣人一家がマフィアに惨殺されかかった時、たまたまその一家の少年を助けることになる。出だしはあのリュック・ベッソンの傑作映画『レオン』(ジャン・レノとナタリー・ポートマン、それにゲイリー・オールドマンが出演していた)と似ている。もちろん『グロリア』の方が古い映画である。この映画でジーナ・ローランズが好きになり、その後さまざまな映画に脇役で出ているとうれしくなったものだ。がさつないやなおばさんが、次第に好きになるという、よくできた映画だった。追悼の意味で、また見てみたくなった。

 

 弟から千葉の梨が贈られてきた。今年は炎暑と虫の害で不作らしいが、みるからに美味しそうな梨である。早速冷蔵庫に二つほど冷やした。娘が明日来るから、半分分けるつもりだ。息子のところにも送るように頼んであるから、今晩あたり着くと思う。行き違いにならなければよいが。明日は家族が集まって酒盛りの予定である。

竹とんぼから

 朝のNHKのニュースで、竹とんぼ名人ともいうべき人の竹とんぼを見た。高さは40メートル以上、飛距離は楽々100メートルを超えて飛ぶというからすごい。長年、竹とんぼの面白さを子供たちに教えてきたそうで、そのことで文科省から賞をもらったようだ。

 

 子供の時、父に竹とんぼを作ってもらった。飛ばしているうちにだんだんうまく飛ぶようになって楽しかった。父が肥後守を買ってくれて、それで竹とんぼを自分でつくった。豆鉄砲もつくったりした。父はあまり器用とはいえなかった気がするが、それでもコマ回し用のひもを麻からつくってくれたり、コマの回し方を教えてくれたりした。私は左利きなので、普通の市販のひもでは撚りが反対になるので使っているうちにほどけてくる。逆に撚ってひもをつくってくれたのだから、いま思えばありがたいことであった。

 

 愛知県に足助という紅葉が見事な香嵐渓のある場所がある。そこに足助屋敷という、むかしの豪農などの暮らしを見ることのできる場所があって、好きなところだ。私の子供たちと父と一緒にそこへ行ったことがある。たまたまそこに竹とんぼが売られていた。父が子供たちに買ってくれた。その時に自分の子供時代のことを思い出したりした。そして朝の竹とんぼのニュースで、それらのことを思い出した。

110706-35足助屋敷入り口

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 ところで、その名人が校庭で竹とんぼを飛ばして見せていたが、目を輝かせてみている子供たちの姿が、なんとなくうれしい気持ちにさせてくれた。同時に、つまらなそうにそっぽを向いている子供がいることに気がついてしまった。親の影響、などということを感じたりしたが、考えすぎか。

2024年8月20日 (火)

読了

 井波律子『三国志演義』(講談社学術文庫)全四巻をようやく読了した。昨夜は早めに眠くなったので十時前に寝たのだが、喉が渇いて一時過ぎに目が覚めてしまった。雨の音で起きたのかもしれない。静かな音楽をかけて寝ようとしたが寝られないので、読みかけの第四巻を読み出したら明け方までで全部読んでしまった。諸葛公明亡きあと、蜀は公明の意志を継いで再び三度、魏に戦いを挑む。その魏は代が替わる毎に堕落し、全権を握った司馬氏が蜀を迎え撃つ。その蜀も宦官が皇帝劉禅(劉備の息子・ぼんくら)を腐敗させ、せっかく侵攻が成功しつつあるのにその足を引っ張り、ムダな戦いを繰り返すことになる。また、呉の政権も代が替わる毎に堕落し、暴虐な皇帝に替わる。

 

 結局、まず蜀が敗亡して魏に吸収され、次いで魏が司馬氏に簒奪されて晋となる。その晋が呉を破り、ついに天下は晋によって再び統一する。不思議なことは、魏、呉、蜀とも敗亡の皇帝はすべて悪逆、または無能で、怨嗟の的だったはずなのに、余生を全うしているのだ。その事実はつまり、彼らはそれほど悪人ではなかったのではないかと思わせる。

 

 晋に統一された天下はその後、南北朝に分裂し、南朝は主に漢民族の王朝がいろいろ交替し、北朝は五胡十六国と通称されるように漢民族以外の北方民族が麻のように入り乱れて興亡を繰り返すことになる。そのあと再び統一したのが隋という国で、あの聖徳太子が小野妹子を遣隋使として送り込んだ国だ。その隋は北朝の流れであるから異民族ということになる。また、隋のあとの唐は隋から派生しているので、かなり異民族の血が混じっている政権ということになる。

 

 半ば徹夜に近かったので、頭がいつも以上にぼおっとしている。あとで昼寝でもしようか。

2024年8月19日 (月)

思いがけず

 思いがけない収入がありそうだと月初めに書いた。それを当て込んで本のまとめ買いをして多少散財したが、それがさらに思いがけない額になり、ちょっとした小旅行に出かけられるほど振り込まれることになった。元いた会社の株の配当以外には年金しか収入はないから、思いがけない収入はとてもありがたい。そうなるとたちまちどこへ出かけようかと夢が膨らむ。

 

 いま行きたいと思っているのは、久しぶりの北東北である。秋田から青森の日本海側を一気に北上し、津軽半島や下北半島、さらに青森で三内丸山遺跡やその他の縄文遺跡めぐりなどを訪ね歩く、などというコースが頭に浮かんでいる。まだ暑いから、九月の後半にしようか。

 

 下がっていたテンションが少し上がって、ちょっと元気が出てきた。

五十代の頃

 五十代の頃、アラン・ドロンの出ている映画をビデオ屋からかり出して片端から見たことがある。若いころに『ボリサリーノ』やその他、リアルタイムで劇場で見た映画もたくさんあるけれど、古い映画などは初めて見たものも多い。私の好きなのは『冒険者たち』で、これがイチオシである。大好きなリノ・ヴァンチュラが出演している。ハリウッド映画とは違う、フランス映画の素晴らしさを楽しむことができた。

 

 二枚目俳優も八十八歳では見る影もない。美男美女は長生きしない方が好い、などというのは暴言だが、心の中のアラン・ドロンはいつまでも美男子である。さすがにあそこまで格好がいいと、映画を見て彼に憑依するわけにはいかなかった。冥福を祈る。

厭世的

 些細な理由から、いささか厭世的になっている。人間の気持ちというのは弱いものだと我ながら思う。明確な逆境なら開き直って奮い立たせることができるのに、わずかなことで気持ちが弱る。気持ちを立て直すには旅に出たり、親しい人に会ったりすればよいのだが、コロナ禍以来、自分から人に会いに行くことがめっきり減ってしまった。

 

 週末に息子夫婦が広島からやって来るので、酒の用意はした。つまみや料理も、簡単なものをいくつか作るつもりなのだが、いつもなら気持ちが高ぶるのに、まだそうならない。なんとか気持ちよく歓待したいので、部屋の片付けや掃除を始めたいのに、なかなかその気にならない。鬱状態というほどのものではない。具体的な段取りを考えることで気を紛らわせようか。めったに会えないから、顔を見ればうれしいのはわかっている。酒も美味いはずだ。

 

 妻の病院に行く時期なので予約を入れようと思うが、先月にあまり状態がよくなかったので、今月は面談をパスして、支払いと様子を訊くだけにしようと思う。話が通じすぎないと、ついきついことばを発してしまう。お互いによくない。

 

 しばらく本が読めなくなっていたので、録りためたドラマや映画を見ていたが、ようやくまた本が読めるようになってきた。井波律子の『三国志演義』第四巻もようやく半分ほど読み進めた。もうすぐ完読である。五丈原で諸葛孔明がついに陣中に没し、蜀は衰退に向かう。蜀が滅び、呉が滅び、魏が司馬氏に簒奪されて晋として統一されて三国志という時代は終わる。昨年から正史を元にした宮城谷昌光の『三国志』を読み、今度は井波律子の『三国志演義』を読んだ。さらに少し間を置いて陳舜臣の『秘本三国志』を読むかどうか思案中。よく飽きないものだ。現実を逃避して中国のその時代をさまよっている。

2024年8月18日 (日)

『大怪獣のあとしまつ』

 『大怪獣のあとしまつ』は2022年の日本映画。暴れ回った大怪獣が突然の怪光により死んでしまう。物語は倒れた怪獣の死骸のあとしまつをどうするのか、という意外に深刻な問題をめぐって人々が右往左往する様子をコミカルに描いたものだ。たくさんの魅力的な俳優たちが、大真面目にふざけ散らしていて、面白いと思えるかどうかはきわどいところ。

 

 利根川に横たわる怪獣の死骸そのものはあくまでリアルであり、それに対処しようとする政府や官僚たちの行動は極端にパロディ化して描かれる。その中に福島第一原発のあとしまつが強烈に皮肉られているし、韓国やアメリカの対応なども極端に戯画化されていて、毒気がある。ヒロイン役の土屋太鳳が熱演していて、それに好感を持ったので最後まで見ることができた。

夢のような

 暑さでリズムが狂い、夜の眠りが浅くて昼寝をするから夜眠れなくなったりする。眠りの狭間でなんとなく厭世的な気持ちになる。どうでもいいことを深刻に考えたりする。自分の人生はなんだったのか、なんて、考えたって仕方がないことだし、ではもう一度やり直すか?と問われれば、まっぴらごめんである。

 

 昨晩、眠れなくて布団の中で輾転反側、そこで引っ張り出しのは世界遺産の写真集・中国版である。全四巻のこの写真集は、酔った勢いで予約したもので、素晴らしいけれど高い。じつは丁寧に1ページずつ見たのは第一巻だけである。だから第四巻から逆に見ていった。全部行きたかった。この中のほんの一部しか見ていない(行っていない)ことが残念であるが、同時に結構見ている場所の多いことに喜びを感じたりした。

 

 北京や西安、江南の水郷地帯、大好きな杭州の西湖やその周辺、桂林、雲南のあちこち、それぞれ私自身が撮った写真とは比べものにならないほど素晴らしいプロの写真を見ながら、自分が実際に訪ねたところについて記憶をたどりながら、なんと素晴らしい体験をできたことかと感激していたら、いつの間にか眠ることができた。

2024年8月17日 (土)

『祈りの幕が下りる時』

 東野圭吾の加賀恭一郎シリーズの同名の小説を原作とした映画『祈りの幕が下りる時』(2018年)を見た。ミステリー映画として、とてもよくできていて、ミステリーとだけ呼ぶのはもったいないような重い作品になっている。見終わってまず思ったのは、松本清張みたいだな、ということ、『砂の器』を見た時のようだなという印象だった。同じことをすでに評論家が言っているようだ。

 

 今回は加賀恭一郎(阿部寛)自身の過去に大きく関わる部分があって、彼がこの事件に関わらなければ、決して解決することはなく迷宮入りしていただろう。それが偶然ではなく必然であることが、物語が進行するうちにわかってくる。アパートの一室の腐乱死体の発見、そして河原での焼死体とに関わりがあるのではないか、という推測から、さまざまな人間の人生がたどられていく。まさに『砂の器』で見た経緯で、それは警察のいつもの手法であり、根気の伴う作業を見せることで人生の重みも感じさせるわけである。たいへん好い映画を見せてもらった。

 ほめたい俳優がいるが、名前を書くとネタばらしになりかねないのでやめておく。

終活、墓じまい、弔い

 本日の名古屋は最高気温予想が39℃。日盛りに、植物に水をやるのは論外とされているけれど、あまりの葉のしおれ具合から、見るに見かねてさきほどたっぷりと水をやってしまった。

 

 昨晩のBSフジプライムニュースは、弔い関連がテーマという珍しいものだった。老人ばかりではなく、一人で暮らしている人が増えている。人は必ず死ぬ。その時にその死後をどうするのか、たいへん大事で重いテーマなのだが、案外その時にならないと真剣に考えられない問題で、しかも死んだ当人は生前に意思をしめしておくことはできるものの、その処理に自分が関わることはできない。

 

 死んだ後のことは誰かがしてくれる、と思えばその通りなのだが、それが社会的な問題になっていると知れば、多少は自分の問題として考えることも必要だろう。放置されている墓も増えつつあるという。寺も経営が難しくなり、墓地の維持もなかなかたいへんらしい。そして葬式などに関連する費用も基準らしい基準がなく、遺族が困惑することも多い。墓じまいの処理もいろいろ複雑なようだ。父は次男坊で、先祖代々の墓は山形県の最上郡にあったが、近くに住んでいた叔母が世話をしてくれていたからそのままにしていた。しかしその叔母が亡くなったので、父が人に頼んで墓じまいして、自分の住む千葉県に新しく墓を建てた。だから我が一族は父のおかげできちんとした墓を維持し、弟夫婦が墓のある寺の檀家となってその世話を引き受けてくれている。ありがたいことである。

 

 墓の維持管理が遺族によってきちんとなされなくなりつつあるという。このことの精神的背景について考えてみると、戦後「家」制度を解体したことが大きな理由ではないかと思う。家制度に問題があることはわかるけれど、すべてが間違ったものではないはずである。それなのに、それを全否定したことで、墓というものとの整合性が取れなくなっているのではないか。墓には「・・・家の墓」と刻まれている。西洋や他の国のような個人の墓ではないのだ。むかしから日本はこうなのだと思っていたら、どうも違うようだ。墓そのものは土葬時代は個人ごとのもので、山などに埋葬されたが、祖先を祀るために、別に「・・・家の墓」のようなものを家の庭に置いたりしたようである。そこには遺骨はない。ひとつの墓にいくつもの骨壺を収めるというのは火葬が一般的になってからの、比較的に新しいことのようだ。 

 

 家制度が崩壊させられたのに、制度の残滓がいくつか残り、そのひとつが墓に象徴されているのだ。墓そのものが軽視されていくのは当然の成り行きで、葬式で寺を維持してきた寺が、家制度を基礎とした檀家を失えば、次第に苦しくなるのはあたりまえのことであろう。「私のお墓の前で、泣かないでください。いまわたしはそこにいません」というような歌が歌われる時代になった。弔うもののよすがが見えにくくなっている。

単純と複雑

 世の中は複雑系でできている。原因と結果はひとつではなく、さまざまな要因が互いに関係し合っている。そんなことは日々の経験を積み重ねればわかることだが、人間は複雑なものを考えるのが苦手である。だから複雑なものを単純化して考えがちである。何かの要因だけを取り上げて、それがすべてであるかのようにいわれると、とてもわかりやすくなるのでついそれに乗せられる。陰謀論などその最たるものだろう。陰謀論に乗せられるのは複雑系に耐えられない人で、たくさんの情報から自分の確信を得たと思っているが、ただ違う発信元から同じ情報だけを択んで拾い集めているだけのことが多い。

 

 トランプ現象などまさにその典型のように見える。トランプは最も複雑系の思考の苦手な人種のように見える。そういう人間を担ぎ上げるのはいかがかと思う。どうも世界の為政者が複雑系を単純化して語ることで権力を握っているように見える。わかりやすいことが支持を受ける理由なのだろう。プーチンの歴史観、習近平の判断、どれも複雑系を理解できていないことの結果にしか見えない。せめて日本では単純化の得意な政治家を選ばないようにしたいものだが、あまり期待できない。単純化とは、固定観念で白か黒を断定する思考である。正義か悪しかない。灰色を認めない。

2024年8月16日 (金)

みんなで考えましょう

 教科書などに書かれている決まり文句が「みんなで考えましょう」だった記憶がある。自分が考えたことを互いに語り、それを聴いてさらに考えるということはある。それをみんなで考えましょう、というのであろう。しかし、しばしばみんなで考えましょう、といわれると、考えるのはみんなであって、自分は考えない、という人が多い。とにかくものを考えるのが嫌いな人のなんと多いことか。誰かが考えたことの揚げ足をとることだけはみな得意である。それを「自分は考えた」とおもっているようである。

 

 まず自分の頭で考える。あたりまえのことである。

『すずめの戸締まり』

 新海誠のアニメ映画『すずめの戸締まり』(2022年)を見た。廃墟に存在する災いの出口を閉じていくというストーリーに少女の成長物語を重ねたロードムービーである。主人公の少女・岩戸鈴芽はしばしば自分が幼児だったときの夢を見る。その夢の意味が最後にわかるという仕掛けになっていて、だからある意味のループであり、少女がさまざまな苦難をのりこえ、成長してそのループから脱出するというのがテーマということになる。

 

 物語としてはたいへん面白いし、映像的にも素晴らしいと思う。予定調和的で、見る人にたぶんこういう事情であろう、そうしてたぶん最後はこうなるだろうと想像させてくれる。そのように物語は用意されている。そのことがドラマチックで意想外の世界なのに、なんとなく新海誠は大衆迎合的になったという辛口の批評も生んでいるらしい。意外性が意外ではないという批判だ。私は彼の作品を比較できるほど見ていないのでよくわからないが、一度その前の作品と見比べてみたいと思う。

 

 声優として深津絵里、染谷将太、伊藤沙莉、神木隆之介、松本白鸚などが参加している。見ていて、この声は聴いたことがあるが誰だろう、と思うのも楽しい。

蒙を啓かれる本

 いま『日本の歪み』(講談社現代新書)という本を読んでいる。養老孟司・茂木健一郎・東浩紀の三人が日本の論点についての持論を語り合い、互いに影響し合っているように読める。本を読んで新しい視点、考える道具をえられることは読書の喜びである。面白いから読む本とは少し違うけれど、こういう本で励起する精神の高まりも面白いと言って好い。一度読んで終わりにするにはもったいない本で、いまはとにかく通読し、少し間を置いて再読三読して考えてみようと思う。途中から付箋をつけたら、付箋だらけになってしまった。そのひとつを引用する。

 

東 日本は大国に向いていない。やはり十九世紀に清帝国が崩壊したのが大きかったのでしょうね。本当なら「清vs.ヨーロッパ」になっていたはずですから。
養老 その通りですね。
東 あのとき清がグズグズになってしまったので、辺境の国・日本も頑張らざるをえなくなってしまって明治維新が起きた。そして中国まで手に入れようとしたわけですが、どうもおかしい。明治以降の東西文明論では日本とヨーロッパを対比し、日本こそが東洋的なものを代表すると考えられがちなわけですが、かなり無理がある。日本がヨーロッパと異質な文明をもつのは間違いないけれど、東洋やアジアを代表するのは中国の方でしょう。
養老 インドもありますからね。
東 まさにそうです。東洋を日本で代表させているのはまちがいだし、逆にいえば日本の哲学はもっと大きなアジア的な物差しの中で読まれるべきだと思います。

 

 私が歴史を遡っていって、中国に興味が移ったことについて自覚的ではなかったけれど、どうやら必然的な面があったのだという気になった。日本が衰退してアジアのリーダーではなくなり、中国やインドが擡頭したのは当然の成り行きで、未だに主役が交代したことに気がついていない日本の政治家がいるのは滑稽である。ポジションの維持のために必要な資質を政治やマスコミが毀損し続けながら、おかしなプライドだけを持ち続けることに対して、この本の中でさまざまに論じられている。この本については何度か言及することになりそうだ。

2024年8月15日 (木)

『山女』

 映画『山女』は2023年日本・アメリカ映画。遠野物語をベースにして、18世紀後半の東北の山村を舞台に物語が展開する。この映画がWOWOWで放映されたときにすぐに見たのに、見たことを忘れていた。みていて、あれっ、と思ったけれど、最後までもう一度見てしまった。

 

 天候不順で米が取れず、飢饉が続いている村で、過去の出火元であったことをとがめられて村八分になっている一家の暮らしはひときわ深刻な状態になっていた。母親はすでにいない。父親と娘、息子の三人暮らしだが、息子はほぼ目が見えない。さらに父親が事件を起こし、それをかばって自分の犯行だとうったえた娘は、村を出て山に向かう。父親は神隠しに遭った、と言い張るが、みな半信半疑である。どのみち小娘が一人で山で生きていくことなどできないことである。

 

 そこからどうしてその娘が生き延びたのか、そして娘が生き延びたことを知って、その娘を人身御供にして天の神に捧げて飢饉から助かろうとする村人たち。そして奇跡が起こる。

 

 それなりによくできているし、俳優たちも熱演であるのだが、私自身の遠野物語の世界についての思い入れとはだいぶかけ離れていて、少し残念な気がする。それに台詞回しも物語の展開も、なんだか全体にもったりしていてクリアさに欠ける気がする。森山未來は好きな俳優だが、この映画での彼はいつも通り素晴らしい。それが見られるだけでも良しとしたい。

終戦記念日

 今日は太平洋戦争の終戦記念日。これを終戦というか敗戦というか、議論があるという。どちらもことばとして間違っているわけではないからどちらでも好いようなものだが、終戦記念日ということの方が多いのでそれに従う。ところで戦争や災害を記念する、というのにむかしからなんとなく違和感を感じていた。「記念」ということばを手許の辞書で引くと、「後日の思い出として残しておくこと」「また、過ぎ去った物事を思い起こすこと」とある。前の意味だと、思い出というものからくる感覚として、いやなことを記念するのはなんとなく違和感を感じるのだ。しかし、終戦記念日などは、後の意味として受け取れば別に問題ないようである。

 

 この前のブログに重なるけれど、戦争はどうして起こるのか、それを知るには歴史を遡って考えなければならない。私も、空襲で焼け出され、焼夷弾の降る中をかろうじて生き延びた母の体験を子供の時から繰り返し聞かされたので、大学に入ってどうして戦争が起きたのか、太平洋戦争とはどういう戦争だったのかを知るために、さまざまな立場からの本を読みまくった。アメリカの情報将校だった人の詳細な記録も読んだ。戦争に至る経緯を知ろうとすると、日中戦争について、そして第一次世界大戦について、さらに日清日露戦争について、明治維新について、そしてアヘン戦争について遡ることになった。ついには中国史にのめり込んでいったのだが、原因が結果を生み、それがまた次の原因になっていくのだから、それはつきない探求になっていく。ついには人間とは何か、という話になってしまうのである。

 

 それでも、どこかに転換点のようなものを仮に置いて考えることも必要で、そうでないと、すべては成り行きだから仕方がないということになってしまう。原因と結果という因果の連鎖の、どこにくさびを打って考えるのか、そのためには最低の知識が必要だ。そのくさびを打つために歴史をときどきひもといている。戦争反対を叫ぶのならそれとともに、歴史をよくよく尋ねてほしいと思うゆえんである。

2024年8月14日 (水)

『シス 不死身の男』

『シス 不死身の男』は、2023年のフィンランド映画、ロシアに侵略され、ナチスに国土を焼き尽くされた第二次世界大戦末期のフィンランドが舞台である。軍の統率を無視してはぐれ狼のようになり、一人でロシア兵を300人以上殺戮して畏れられた男が、戦いを離れて荒野で金探しをしている。奇跡だろうか、彼は金(きん)を掘り当てる。その金を持って換金のために馬で街へ向かうのだが、そこで一群のナチスの部隊に遭遇してしまう。

 

 彼が金を持っていることを知られ、そこからその男とナチスとの孤独な戦いが始まる。彼は死なない。死ぬような目に遭っても死なないのは、彼が死を拒否するからだ。その生命力は驚異的で、あの『十三日の金曜日』のジェイソンのようである。そんなのを相手にしてはいけない、と軍の上層部が連絡してくるのは当然なのだ。

 

 血があふれ、手や足がバラバラになって飛び散る。そういう凄惨なシーンが続く。スプラッターホラーを超えるが、これはホラーではないからもっと残酷である。そういうのが苦手な人は見ない方が好い。

 

 ある意味でフィンランドの英雄談のようなものだが、この男コルピは、映画でも物語でも一人であるが、じつは一人ではなく、フィンランドの多くの男たちの物語そのものなのだろう。不死である吸血鬼や狼男など、それらも同じ背景を持つ夢の集合体なのではないか。ナチスというゴジラを倒す不死の男の物語は見応えがあった。

明日は終戦記念日

 前回のブログで、映画『ゴジラ-1.0』について書いた。太平洋戦争の惨禍の後、さらにゴジラの蹂躙によってたたきのめされる日本を描いた映画であるが、同時に戦争についても考える機会となった。

 

 終戦記念日、または敗戦記念日に戦争は二度と起こしてはならない、と近い、戦争がどれほどひどいものかを繰り返し報じられている。日本人の多くは、だから戦争を自分から起こそうなどという気持ちはないと思う。そういう意味で戦後教育とこの終戦記念には意味が大いにあると思う。

 

 さはさりながら、どういうわけか、日本がこのような敗北必至の戦争をどうしてはじめてしまったのか、その経緯をきちんと語り、教育することがなされていない。不思議である。なぜそういうことになったのかを歴史を遡り、近代日本について子供に教えずに、ただ戦争の悲惨さがわかれば戦争が起きない、というのはあまりに希望的、楽観的に過ぎるのではないか。日本軍部が悪かったのだといっても、それを生み出したことについて日本国民が無謬であったとはいえない。知らなかったですむのなら、また再びみたび戦争は起こるだろう。それなら近代史をきちんと教えるべきなのにそれをサボって、何が教育か、と思う。心ある若者には、まず自ら歴史を真剣に学ぶことでしか大人になれないのだと思ってほしいのだが。

『ゴジラ -1.0』

 『ゴジラ -1.0』は2023年の日本映画。この題名の意味は、太平洋戦争によってほとんど壊滅的、つまり無(ゼロ)に帰した日本が、さらにゴジラによって-1.0の状態になったということを意味しているらしい。なるほどとも思うが、それ以上にゴジラというものが、じつはアメリカの象徴なのだということ(これは映画通にはよく知られている)をこれほど明確に表現している映画はないと思った。日本を襲撃し、都市の建物を破壊し、放射能を増幅して怪光線で一瞬にして焼き付くし破壊し尽すという行為は、日本人にとっては、あの爆弾と焼夷弾による大空襲であり、原爆投下そのものではないか。

 

 そして進駐軍はゴジラに対して沈黙して行動せず(相手がアメリカならあたりまえだ)、特攻隊の生き残りである主人公(神木隆之介)と海軍の生き残りたちがゴジラを倒すために結集して戦いを挑む、という物語なのだ。太平洋戦争で、兵士たちは日本を守るため、家族を守るためと信じようとしながらも、じつは無駄死にをさせられていた。それが今度は本当に日本を守り、家族を守る戦いに自ら命をかけるのだ。自分の卑怯さで生き残ってしまった主人公が、ゴジラを倒すことで自らを再生させていく、という、とてもわかりやすい禊ぎの物語なのだ。

 

 怪獣ゴジラが初めてつくられたときは、明らかにその寓意を含んでいたはずだが、たくさんつくられ続けているうちに、いつの間にかゴジラは人類の味方に立って他の怪獣たちと戦う、などと言う物語が作られていった。なるほど、日本を破壊した、敵だったアメリカがいつの間にか安保条約によって日本と同盟を結び、ゴジラは戦うが日本はその勝利を祈るだけ、という図式をなぞった物語に変じたのか。アメリカでゴジラ映画が作られたりした、ということに笑ってしまう。自分がゴジラだと気がついていないのである。

 

 そういう見方でこの映画を見てみると面白いと思う。吉岡秀隆がひょうひょうとした役柄を好演していた。

2024年8月13日 (火)

思うのは勝手だが

 おかしな妄想をしたり、人に対する悪口を心の中で思うのは勝手で、誰にも止めようがない。しかし、それを口に出さないのが大人の礼儀であり、社会での生き方というものである。口にしてはいけないことというのがあって、それをわきまえていなければ非難されるのは仕方がないことで、自ら招いたことである。ところがそういう、人の顰蹙を買うことで注目をあびると金が儲かるというシステムがあるらしい。すれすれのところで儲かるか、葬り去られるかというところを泳ぐのが一部のユーチューバーというものの手法のようだが、私はしないし見ないからよくわからない。

 

 それにしても、そういうものに対して、そういうことは言ってはいけないよ、というだけのことならまだ好いけれど、人の非難をすることがそのまままた売名につながるらしい。さらに、逆張りをして、あえて擁護に回る、という高等戦術もあるようだ。何が何やらよくわからなくなって、していいことと、してはいけないことの境目がますます曖昧になってきた。好き嫌い程度の感想をボソボソとつぶやくくらいにとどめておくのが無難なようだ。

中国名言集(21)

  猴子 大王と称す

 

 中国のことわざ。「山上に老虎無し、猴子 大王と称す」がことわざの全体。老虎は年取った虎ではなく、ただ、虎のこと。老は慣用的な接頭語。猴子は猿のこと。日本でいえば「お山の大将」というところか。小者が自己陶酔して威張り散らす様を辛辣に風刺することばである、と井波律子は解説している。いるねえ、猴子がそこら中に・・・。そもそも老虎がいないということか、それとも、いてもあまりにも世の中が馬鹿馬鹿しすぎて、あきれて黙っているのだろうか。

明るいから見えない

 朝三時に起きようと思ったが、目覚めたら三時半を過ぎていた。寝起きは目がかすむので、顔を洗う。急いでベランダへ出て驚いた。明るいのである。マンションの隣の棟や終日営業のセルフクリーニング店の灯り、あちこちの街灯などが煌々と輝いて昼をあざむかんばかりに明るいのである。

 

 起きたのはペルセウス座流星群を見るためである。三時から四時頃に、1時間に四五十個は見えるだろうという。空を見上げたが、そもそもふつうに見えるはずの星そのものがほとんど見えない。十分あまり空を見続けた。星すら見えないのに流星が見えるのか。雲でもかかっているのか。なんとなく何かが流れたのを二三度見たような気がするが、見たいと思う気持ちが見せた錯覚か。

 

 月明かりのない、絶好の流星観測日和だということだったが、こうも辺りが明るいと、山の中の灯りのないところにでも行かないと流星を見ることはできないようだ。なんとなく腹が立った。

2024年8月12日 (月)

乱作すると

 私が文学と呼べるような小説の面白さを最初に知ったのは、開高健を読んでからである。それでも彼の小説の熱心な読者とは言いがたく、それより彼のノンフィクションやエッセイの方をよく読んできた。それらの本の中から久しぶりに開いたページに面白いところがあったので引用する。

 

 食堂車のなかで李英儒氏と通訳を介して話をする。
「開高先生は子供が何人いる?」
「一人です。娘。八歳です」
「一人は少なすぎる。私には五人いる」
「乱作すると作家も作品も質がおちますから、僕の場合をいえば、処女作以後絶版ということにしてあります」
「それにしても一人は少なすぎる。子供というものは一人は家のために、一人は民族のために、一人は国家のために、一人は自分と友人たちのために、少なくとも四人はつくる義務と必要があるのじゃないか」
「日本は中国の二十六分の一しか面積がありません。とてもそんなにつくってはたまらない。ひょっとすると日本の悪いところはすべて人口過剰が原因なのではないかとみんなが考えているくらいです。やっぱり乱作はいけません。処女作以後絶版です」
「喜劇にしては諷刺の勝ちすぎた表現だ」

 

 これは1960年に中国を訪問したときの訪問記『過去と未来の国々』(岩波新書)の中の一節である。

 開高健(1930-1989)、妻は詩人の牧羊子、そして娘はエッセイストの開高道子(1952-1994)。このときに話題となった一人娘の道子は、開高健の死後五年して自死した。開高健はもちろん、このときにそんなことは知らない。それを思うと思うことはいろいろある。妻の牧羊子は2000年に死去。悪妻と呼ばれることが多いのは、親友だった谷沢永一がそのことを記しているからである。旅をすることが多かったのは、妻と一緒にいるのがいやだったから、などと言われる。牧羊子は歯切れのいいラジオの人生相談の相談者として私の耳に記憶がある。

中国名言集(20)

  殷鑑遠からず

 

 『詩経』の中のことば。


  殷鑑(いんかん)遠からず
  夏后の世に在り

 

「殷王朝が鑑(かがみ)とすべき先例は近い時代の夏王朝にある」という意味であり、夏の王朝が暴君の桀(けつ)によって滅びたことを戒めとせよということである。失敗の先例は遠くに求めなくとも、すぐ近くにあるという使い方をされるが、中国の歴史をひもとくと、どうしてこうつぎつぎに繰り返し同じ失敗によって国が傾き、王朝が倒れるのかとあきれてしまう。そもそも人間というものは、先例に学ばないものなのだとこの頃は感じている。だから誰もがしてはならないし、したら相手だけではなく、自分にも大きな損失となるとわかっている戦争がなくならないのだろう。

かすかなきざし

 朝はたいてい早めに目が覚める。スイッチが入りやすい方なので、目が覚めると頭も体も全開になれるのが自慢だったが、数年前から次第にスイッチが入りにくくなり、始動に時間がかかるようになった。定期検診を受けている医師に不調としてうったえたら、「それが普通で、歳をとれば仕方がないですね」とあっさり言われた。

 

 起きるとまずベランダ側の窓を開け放ち、室内の空気を入れ換えるのだが、このところの猛暑続きで爽やかな朝を感じることはできない。ベランダにならべているいくつかの鉢に水をやる。今年蒔いた朝顔は蔓が繁茂して手すりに絡みつき、毎朝十いくつかの花を咲かせて見せてくれる。花は元気だけれども、葉は夜の暑さに蒸されてしおれている。それが水をやってしばらくするとたちまち元気になる。水を吸い上げていく力にいつも感心する。

 

 松葉ボタンは元気がよすぎて鉢からあふれるほどであり、小さなオレンジの花をたくさん咲かせている。本当に夏に強い花だ。カイワレ用の鉢には週に一回種を蒔く。五日か六日に一度すべて摘み取り、食べさせてもらう。昨年種を大量に収穫した(大根にして、さらに放置したら驚くほどたくさん花を咲かせ、種が取れた)のでそれを蒔いているのだ。当分は蒔き続けることができる。

 

 今朝、空気が少し優しくなっているのを感じた。最高気温予想は今日も38℃らしいが、朝の気温がなんとなくしのぎやすい気がする。その代わりに朝顔の花の数が少なくなっているのに気がついた。秋はまだ先ではあるが、かすかなきざしを感じた。朝顔もそれに気がついているようだ。

 こういう場合、「きざし」という言い方が適切がどうか、語源辞典を見てみたら、前兆、兆候の意味で、もともとは芽生えることだったそうで、そこから意味が広がったようだ。間違っていないらしい。

2024年8月11日 (日)

『坂の上の赤い屋根』

 少し前にWOWOWで放映されたドラマ『坂の上の赤い屋根』全五回を一気に見た。日本のミステリーで、同名の真梨幸子の小説を原作とする。十八年前、女子高生が医者の両親を殺害したセンセーショナルな事件を、新たに掘り起こそうという小倉紗菜(倉科カナ)という新人作家の企画を、上司の反対を押し切って、副編集長の橋本涼(桐谷健太)は強引に推し進めた。ふたりで事件関係者に取材して回り、その事件の背景の詳細が次第に明らかになっていく。女子高生は無期懲役で服役中、主犯とされた彼女の恋人の死刑は確定しており、執行を待つ身である。

 

 死刑囚のその男には獄中結婚した相手がいた。その男が突然再審請求を妻に依頼したことで、関係者のあいだにさまざまな波紋が広がっていく。どうして突然そのような行動を始めたのか、そして新人作家はどうしてこの事件にこだわるのか。さらにそれを強引に進める編集者の目的は何か。やがて思ってもみない展開がある。全般に極めて暗いドラマである。精神に疾患があるとしか思われない行動に走る者も出てくる。そして、ついに新たな惨劇が起こり、すべてが計算されたものであることが最後に明らかになる。まあ大体見当はついたけどそれなりに面白かった。獄中結婚した妻役の蓮佛美沙子の演技が素晴らしい。また、脇を固めた一人、斉藤由貴もさすがの演技だった。

 こういう怨念めいたミステリーは女性作家の方が得意なようだ。

閑中の閑

 めったに起こらないことが起こる。そしてそれがこれからも起こるようになるのだろう。東北へ直接台風が直撃するなど、以前はなかったことだ。丹精こめてきた農作物や果樹が被害に遭わないこと、あっても極力軽微であることを祈るばかりである。とくに山形や秋田は七月の初めに走り回ったばかりで、そのあとの大雨で父のふるさとの戸沢村も含めて被害が甚大だったばかりだ。宮城県でも鳴子温泉あたりの大雨もひどかったようだし、なじみのある地域なので、さらなる災害とならないかと心から心配している。

 

 相変わらず名古屋は猛暑が続いている。涼しい部屋にいるのに、頭が煮詰まっているのが不思議だ。何もする気が起きない。何もしなくても生きるのに当面は不都合はない。ありがたいことだ。世間も休みだから、気兼ねなく閑中の閑をむさぼっている。何もしていないからなにもブログに書くことがない。しばらくは更新の頻度をフリーにして、閑中の閑にどっぷりとつかることにしようと思う。

2024年8月10日 (土)

今日からの

 今日からの三連休、それに続いての盆休みで、世間は大移動の時を迎えているようだ。渋滞の始まりがニュースになっていた。暑いのにご苦労様のことだが、まとまった休みのときにしか遠方への大移動はかなわないことは、自分がそういう経験をしてきたからよく承知している。

 

 私は外の強い日差しを見ながら、涼しい部屋でうつらうつらして、猫みたいに過ごしている。リタイアして十数年過ぎて、ようやく何にもしないでいても後ろめたい気持ちにならなくなった。それだけ世間様には無用の存在になっているということで、いつ退場してもかまわない。あまり未練はない。何かを手に入れても感激はほんのいっときで、何かに感動することもあまりなくなった。酒を飲んで酩酊し、世間を祝福して過ごすのが極楽の境地なのだが、未だに飲めるからつい飲み過ぎてしまう。もう体のことなど気にせずに酩酊を続けても好いかなあ。

 

 今夜は天ぷらでもつくろう。

うっかりしていた

 うっかりしていた。昨日は母の命日だったのだ。何もすることがなかったので、ぼんやりと五月おわりに兄弟で佐渡に行ったときの写真を見ていたら、私がまだ独身時代に母と佐渡に行ったときのことを思い出した。そして母の命日が昨日だったことに気がついたのだ。親不孝者である。

 

 夏の暑い盛りに、私、弟夫婦、妹夫婦、母にとっての孫たち(私の息子や娘も)やひ孫たちとともに母を見送った。母は、医師が驚くほど心臓がじょうぶだったので、息を引き取るまで何度も息が止まったり蘇生したりした。それをずっと見続けていたので、最期はなんだかほっとした。母があえぐのが苦しそうに見えていたからだ。母は自分の人生をどう思い返していたのだろうか。誰だってすべて幸せで満足、というわけにはいかない。不満や心配はたくさんあっただろう。それでもまあまあ悪くない人生だったのではないか、と思うことにした。

たしかに揺れた

 昨晩の神奈川県の地震では、私のいる尾張西部でもたしかに揺れた。震度2くらいかな、と思ったが、日向灘の大きな地震(これは感じなかった)発生によって南海トラフ大地震が話題になっている時期でもあり、普段の有感地震ではなくて大きな地震が遠方で起こったのではないかとおもい、すぐに見ていた映画を中断して現在の放送に切り替えて神奈川での地震であることを知った。愛知県はほぼ震度1程度との報告のようだが、それではなかなか気づきにくいはずで、もう少し揺れは大きかった気がする。

 

 しばらくして弟が千葉から電話してきた。別件での電話だったが、もちろん話題は地震のことになった。

 

 日本に住んでいれば、地震はいつか必ず自分にも降りかかる災害であって避けようがない。インフラも寸断されてしまうはずで、広域であれば復旧にも時間がかかるだろう。何ができるのか、その時期をしのぐのに何から始めるのか、そのことを考えている。私の場合、家の中は本箱だらけなので、それが倒れた場合のことをまず想定しなければならない。倒れて下敷きになりさえしなければ、後で片付ければ好いことだが、ひとつだけ自分にとって大事な本をまとめて納めている全面ガラス扉付きの大きな本箱が寝室にあり、それが倒れた場合の惨状を想像している。すでに寝室とリビングに、すぐはけるようにサンダルを置いているし、電池式のランタンも置いている。

 

 想像力を働かせて、何を備えるかもう少し考えようと思う。

2024年8月 9日 (金)

映画を見る

 『チャップリンの独裁者』を久しぶりに見た。学生の頃、映画好きだったので、ちょっとだけ映画同好会のお手伝いをして、劇場に掛からない古い映画をいくつか見せてもらった。この映画も見た記憶がある。チャップリンは『キッド』や『モダンタイムス』も見た。『七人の侍』も見た。もっと見たけれど何を見たのか忘れた。雨降りのフィルムだったけれど、当時はいまより感受性が豊かだったから、感激したものだ。

 

 『チャップリンの独裁者』はファシズムに対するチャップリンの激しい怒りがいささか過剰でしつこい。これは単にナチズム批判だけではなく、戦争が終わった後のソビエト連邦の社会主義や、アメリカのマッカーシズムという、希望が幻滅に変わったことへの怒りも含んでいるとみるのは考えすぎか。 

 

 録画してあった細田守監督のアニメ映画『バケモノの子』を見た。こういう映画は気楽に見られて好い。「我を通す」ということについて考えさせられた。「我を通す」ことにこだわると周囲と摩擦が生じて生きにくい。妥協して生きれば楽である。しかし真に自分を生きようと思う人間は、妥協することによる苦痛の方がじつは大きいのだ。そういう妥協できない少年がバケモノ世界に迷い込み、ひょんなことからバケモノの世界ですら妥協できずにいる熊徹というバケモノの弟子になる。激しくいがみ合いながら、しかし次第に心を通わせていくふたりの様子はこういう成長物語の見所だ。少年が成長し、熊徹も成長する。やがて物語は思わぬ展開をする。声優が豪華だ。宮崎あおい、染谷将太、役所広司、広瀬すず、大泉洋、リリー・フランキー、津川雅彦、黒木華、麻生久美子等々。わかった人もあるがエンドクレジットを見て驚いたりした。

ドラマを見る

 名古屋は今日も明日も最高気温予想は39℃だという。熱帯地方になってしまったようだ。もちろん体のために引きこもって暑さをしのいでいる。読書にあきたので、この二三日はドラマや映画を見ている。

 

 スウェーデンのドラマ『JANA(ヤナ) 死神の呪縛』全六話は、いわゆる北欧ミステリーなのだが、少し毛色が変わっていた。検事候補生のヤナが知人が殺された事件に遭遇し、自分自身の意識下に隠されていた過去を次第に顕在化させていくことで事件の背後にある真相を暴いていく。それは自分自身の出自を明らかにすることでもあった。子供を使ったこのような犯罪というものが実際にあるのだろうか。あったら恐ろしい。

 

 中国の少し風変わりな武侠ドラマ『蓮花楼』全四十話がついに完結した。こういうドラマを最後まで見続けたのは久しぶりのことだ。それだけ面白かったということで、毎週待ち遠しいくらいだった。格闘があり、謎解きが在り、怨念ばなしがあり、陰謀がありと盛りだくさんで、かなり荒唐無稽ではあるのだが、俳優がみな魅力的で楽しめた。ラストはこうなるだろうな、という終わり方でそのクレシェンドな終わり方も悪くない。つぎは同じく中国の時代劇ミステリーの『繁城の殺人 大明に蠢く闇』全十二話が始まる。これも面白いといいのだが。こういうのは、日本の捕物帖シリーズみたいなものを大がかりにしたものかと思う。みなこういう話が好きなのだ。もちろん私も。

2024年8月 8日 (木)

欲望が強いとだまされる

 欲望が強いとだまされる、なんてあたりまえだと思うだろう。何でそんなあたりまえのことをいうのか。

 

 世の中には欲望の強い人と、それほどでもない人とがいて、それとは別に、欲望を抑える力の強い人と、抑える力の弱い人とがいる。世の中でのし上がるには、つまりのし上がって財産を作れる人というのは、欲望が強くて、しかもそれを押さえ込む力も強い人である。欲望が強くてそれを抑えられない人は、その欲望に振り回されて身を滅ぼすことが多いから成功しない。もちろん詐欺師がカモにするのに一番楽なのはそういう人だが、楽な分だけたいした大きな成果を上げにくい。

 

 世の中には、自分は絶対にだまされない、と自負を持つ人がいて、そういう人はしばしば自分の抑制する力に自信を持っているからそういうことを言う。詐欺師にとって腕の見せ所である。抑制された強い欲望の出口をうまく作れれば、もともと欲望が強いから、そこの堤防が破綻して、抑制は一気に崩壊する。自負を持つほどだましやすい、などと詐欺師がうそぶくのは、それをよく知っているからだろう。

 

 私が密かに笑うのは、そういう大物ではなくて、誰かが得をしていて自分がそれにあやかれないことに激しく嫉妬する人である。自分が損をしている、と勝手に思い込んでいる人である。しばしばそういう人は「自分の権利」などという。そういう人はコロリとだまされる。自分で勝手に転ぶ人を見て笑うのは悪趣味だが、人というのは転んだ人、つまずいた人を見て笑うものであって、それは健康な笑いといっていい。

 自分のプライドが傷つくほどでさえなければ、多少損してもいいやと思えるくらいだと、転ぶことはあまりない。そう思って生きている。

罪と罰

 名古屋は昨日に続いて今日も最高気温は38℃になるらしい。明日はなんと39℃の予想である。長い時間外にいるのは危険で、実際に外を少し歩いただけでフラフラする。それなのにあえてちょっと歩いてみたくなったりする。体がエアコンの中に居続けたせいで汗がなかなか出ない。気温に体が反応しきれないのだ。こういうときに熱中症になるのだろう。汗が出始めてほっとする。冷たいものばかり飲んでいるから、代謝能力が落ちている。時には汗をかいて恢復させる必要がある。

 

 ところで、世の中には人がひしめいているので、自分がしたいことを好き勝手にすると、人の迷惑になることがたくさんある。だからしてはいけないことはしてはならないことになっている。子供の時に親や周りの大人にひとりでに教えてもらうことで、知らなかった、というのは言い訳として通用しない。世の中はみんなが知っている前提で回っているのだから。だから、してはいけないことをしたら罪に問われ、罰を受ける。

 

 罰則が罪を犯しそうな人間に対する歯止めになるかどうか、というのが議論になることがある。議論になるのは、実際に歯止めになっていない事例がたくさんあるからであろう。だからといって罪の重さに見合う罰則を否定する、というのもなんだか変な話だ。

 

 同じ違反行為でも、結果が甚大な害を及ぼす場合と、軽微で済むことがある。その時の罰の大きさは当然大きな害を及ぼした方が重いはずである。私はそれでいいと思う。そこから考えて、社会的な実害に応じた罰の重さをもう少し柔軟に取り入れていいのではないかと感じることがある。どうしてそんなことを思うかというと、電線泥棒や、農作物泥棒のような犯罪の卑劣さに腹が立つからである。被害に応じてというなら罪は重くないのではないか、などと考えるのは考えが浅い。当然そういう被害に対して、防衛策を講じなければならなくなるのだ。そういうことは誰もしないはず、ということを前提に成り立っている社会が、それに対策を講じなければならなくなったとき、どれほどのコストが増えるか、それを計量しなければならないのだ。

 

 被害に応じた罰を基準として、そこに情状酌量の余地があれば考慮する、というのがわかりやすくていい。その時、被害というのが社会的コストの増大をもたらすなら当然考慮すべきであるのはいうまでもない。小賢しく、狡いものが思いのほか罪が重くなる、というのが庶民感覚に合うと思うがどうだろうか。

 無人販売所のものを金を払わずに大量にくすねていく人間など、社会秩序破壊者だと思う。安心して暮らせる社会を壊す人間ということである。特定したら社会に名前を公表し、こういう人間に気をつけろ、と警告することが、結果的に社会の安寧につながると思うが暴論だろうか。性的暴力加害者も同様だ。ましてや子供に対してそのようなことをする人間を人権の名の下に擁護するなど論外だと思うが、日本では被害者ではなく加害者がときに、より守られる。

2024年8月 7日 (水)

注目なんかされたくない

 世間の注目をあびたいと思う人がけっこういるようだ。芸能人などは、たいていが注目をあびたくて芸能人になったのだろうと思うが、違うのだろうか。何らかの功績、社会的貢献などで注目をあびるのはめでたいことである。しかしそういうものに世間が注目を浴びせることは案外少ない。私なんか衆に優れる何物もないから、注目されることもないし、それ以前に注目なんかされたいという気持ちがそもそもない。それなのに、もしも注目などされれば恥ずかしさにいたたまれないだろう。

 

 顰蹙を買うようなことをしてでも世間の注目をあびたいと思う者までいるのは私の理解の外だが、それをマスコミはもてはやしたりするから、ますます「注目をあびる」ことそのことに何か価値があるように錯覚するのだろう。人がとてもかなわないことで注目をあびている場合と違って、やろうと思えば誰でもできるけれどしないこと、などで注目をあびれば「俺だって、私だってできるのだけれど・・・」と、注目されたことそのことを妬んだりされる。

 

 フワちゃんとかいうタレントだかなんだか知らない異様な格好をした女性がテレビに出ておかしなしゃべり方をしているのを初めて見て、目を背けた。私の感覚では受け付けない人種なので、なるべく遭遇しないようにして、見かければチャンネルを変えた。そのフワちゃんの話題がしきりにネットニュースを騒がせているので、何のことかと記事を読んでみたら、炎上狙いが成功しすぎて消火不能の大火になっているようである。もてはやしておいて、つまずくと足蹴にするというのは世間の常であるが、彼女こそ何でもいいから世間の注目をあびたい、という願いをかなえた人で、それで金もしこたま稼いだのであろう。世間の妬みそねみを受けるのも自業自得か。

 

 彼女が退場してもつぎがいくらでもいるのだろう。

中国名言集(19)

  情人(じょうにん)の眼裏 西施(せいし)を出だす

 

 中国のことわざ。井波律子によれば「恋人の眼中に西施が姿を現す」という意味だという。西施は中国の有名な美女で、男は恋をすると相手の女性が西施に見えるということである。日本では「あばたもえくぼ」という。

 

 西施は楊貴妃、貂蟬(ちょうせん)と並んで中国三代美人とされる。ここに王昭君を加えて四大美人ということもある。それを踏まえて、芭蕉が『奥の細道』の中で「象潟(きさかた)や 雨に西施がねぶの花」と詠んでいる。楊貴妃はぽってりとした肉感的な美人、西施は細身の愁いを含んだ美人ということなので、私は西施の方に心が動く。西施は「ひそみに倣う」ということわざでも知られる。西施が病で顔をしかめても美しかったのを見て、醜女がそれを真似したら、人々の物笑いになったという話。

固まって痛い

 首が動きにくくなり、無理に動かすと痛い。肩も痛い。とくに左肩は四十肩の時のようにあげると痛い。痛みは耐えられないほどではないが、次第に強くなっていて、いまに全部固まってしまいそうだ。首から上、中身があまり入っていないはずのざる頭の重さに、支える筋力の落ちた首が耐えられなくなっているようだ。中身はないが、大きくてたぶん頭蓋骨が無意味にしっかりしているので重いのだろう。

 

 枕にするものの高さをどうしたら楽なのかわからなくなった。低くても高くても首がつらい。昨晩は、深夜過ぎまで不自然な姿勢で本を読んでいた。もともといわゆるストレートネックのせいで首の調子が悪く、肩のこりもひどくなり、目もつらくなっていたのに無理をしたので体が悲鳴を上げているようだ。しばらくなにもしないで安静にしているつもりだ。

2024年8月 6日 (火)

この一週間で

 この一週間で読了した本。
田中芳樹『岳飛伝』全四巻
高島俊男『お言葉ですが・・・』別巻二と別巻三
井波律子『三国志演義』第三巻

 

 これで田中芳樹の『岳飛伝』は全て読み終えた。第四巻の冒頭で岳飛は殺されてしまい、そのあとは岳飛軍の同士やその子息たちの仇討ちの話、そして金軍との戦いが描かれていたが、妖術使いが出没するなど、ほとんどファンタジーに近い。面白いと思うか馬鹿馬鹿しいと思うか、きわどいところだ。

 

 読みかけだったものもあるから、実際に全てを一気に読んだわけではない。それに『岳飛伝』以外は読みごたえのある本ばかりなので、時間を要する。『三国志演義』はあとは最終巻の第四巻を残すのみ。第三巻同様に、たぶん一週間くらいはかかるだろう。そのあと井波律子の『水滸伝』全五冊を揃えたので、続けて読むかどうか考慮中。どれも700ページ近い本ばかりである。他に五六冊の本が積んであって、そちらも読みかけや読み始めたものだが、どちらに重点を置くか迷うところだ。

 

 とにかく猛暑で出かけることもできずにゴロゴロしているので、アマゾンミュージックのアニメ音楽などを次々に聴きながら本を読み、ときどき居眠りしたりして過ごしている。まあ至福の時間といえば至福の時間である。

中国名言集(18)

  毛を吹いて小疵(しょうし)を求む

 

 『韓非子』大体篇にあることば。髪の毛を吹いて隠れた小さな傷を探し出す、という意味だが、ことさらに他人の欠点や小さなミスを暴いて追求することをいうときに使う。『韓非子』の文脈から、井波律子は「他人のあら探しをしてもろくなことはない。自分の視野の狭さを露呈するだけである」としている。

 

 それにしても「毛を吹いて小疵を求め」て、鬼の首を取ったように騒ぎ立てる者のいかに多いことか。同時に、他人の欠点、まちがいに気がつくと、ついそれを指摘してしまう自分自身の振る舞いに思い当たって、いささか忸怩たるものがある。ただ、他人の疵を指摘することが、自分を高めることだとは思っていない。指摘されて自分が明らかなまちがいだと思えば、わたしは素直にまちがいを認めてあらためるつもりがある。

 

 ただ、私の物言いは、ちょっと逆説的な言い方をすることがあって、それが理解されずにことばの端だけで批判されると、ちょっと感情的になってしまうことがある。それを我慢できないのが自分の欠点だ、とは薄々気がついているのだが。

大暴落

 昨日の株価大暴落を予想した経済の専門家はいなかった。その経済専門家が大暴落の理由を説明してくれている。そしてこれからの推移について、予想は難しいといいながら、予想もしてくれている。みんな忘れてくれるから、好きな予想をいえばいい。

2024年8月 5日 (月)

モニターになる

 アンケートの果てに何かのモニターになった、などという話ではない。

 

 私が小学生の頃、テレビが一般家庭に普及し始めた。昭和三十年代の初めである。映画館以外に映像というものを見る機会がなかったから、テレビは物珍しく、私はたいへん真剣に見た。それ以来ずっとテレビが大好きで、ニュース、ドラマ、コメディ、歌番組、手当たり次第に見ていたような気がする。むかしはスポーツ番組だって結構見た。

 

 それがリタイアしてからいくらでもテレビが見られるようになって、テレビ番組の中身の薄さ、つまらなさを感じるようになった。同時にCMの氾濫に疎ましさを覚えるようになった。次第に民放を見ることが減り始め、いまではごくまれにしか見ることがない。当然NHKに偏重していったが、そのNHKも、見たい番組が激減していった。現在、ニュース以外はほとんど録画しておいてから後で見る。録画するのはNHKとWOWOWの番組だけで、だから予約録画は簡単である。

 

 デレビの装置はNHKのニュース以外は録画を見るばかりだから、モニターの機能としてだけ使われているという意味で、モニターになる、としたのである。いま、テレビをぼんやり見ているのは、何もすることのないお年寄りと暇な主婦ばかりらしい。視聴率はこういう人に支えられている。紅白歌合戦と同じように、テレビも衰退し続けて、ラジオ同様、必要最小限に収束するだろう。虚業の宿命か。

午前中は歯医者

 右下奥歯が割れていて、詰め物を詰めてもらってもしばらくすると隙間ができ、歯茎が化膿する。せっせと口内を、そして歯を清潔にし続けないとならない。もし腫れても、口内をきれいにしていれば歯茎の腫れは次第に引く。先日は久しぶりにブドウを食べたら、知覚過敏で歯がしみて、しばらくつらかった。左下の歯がとくに疼く。

 

 今日午前中は予約してあった歯医者の定期検診日。右下を補修してもらう。いくら何でもそろそろ神経を抜いてしまうだろうと思っていたが「もう少し歯に頑張ってもらいましょうね」とのこと。ブドウで知覚過敏になったといったら笑っていた。とくに痛みのひどかった左下の歯を診てもらったら、ほとんど神経が表に出るほど歯が削れているという。表面を樹脂で固めた。アクリル樹脂らしき匂いがする。右下もセメントを詰め直し、痛み止めと抗生物質をもらって本日の診療は終わり。

 

 歯茎が化膿するときと尿の濁りの強いときがだいたい符合しているような気がする。菌が連動しているのではないかと思う。過労だったりして体調が悪いと尿が濁り、色も濃くなる。そして歯茎も腫れる。いまは酷暑でとくに体調を崩しやすいから、栄養のバランスを考えながらおとなしくしていた方が好いようだ。

幼児的

 駅にいる乗客ふたりに向けてエアガンを発射して命中させた若い男が逮捕された。自宅にはたくさんのエアガンなどと大量のBB弾があった。好きで集めて触っているうちに、実際に人間に向けて撃ちたくなったのだろう。

 

 世の中にはしていいこととしてはいけないことがあって、してはいけないことをしないのが大人であり、したいからしてしまうというのは幼児と変わらない。そういえば中国のニュースにはそのような、幼児的な人物の起こす話題が多くて笑わせてくれたが、いまは以前ほど多くない。これはそういう事件があまりなくなったのではなく、そういうニュースを報じることを中国政府が制限しているのだろうと想像している。楽しめなくなって残念だ。他人の存在を考慮できずに大声で騒ぎ、わがままな行動をするのは、日本に来た中国人の様子を見ていればいくらでも見ることができる。

 

 最近は中国人だけではなくて、日本人も次第にそんな人間が増えているように見える。幼児的な人間が増えているのだろう。幼児的な人間がのさばれるのは人権が尊ばれているからで、めでたいことである。他人を中傷誹謗して正義の味方を自認するのもその表れだと思う。彼らに何でそんなことをしのだと問えば、自分がしたいことをするのは基本的人権だといいそうだし、弁護士はそれを声高に述べて弁護するだろう。

 

 ところで武器をたくさん持つと使いたくなるものだ、というのは、エアガンの若者を見るとよくわかる。幼児的な中国軍の将軍たちが、武器がたくさんそろって悦に入り、使いたくなっているだろうなあ、と想像すると怖い。あの北朝鮮の肥満の男もそうだろう。見るからに幼児的ではないか。プーチンもそうだったのかもしれない。みな、してはいけないことをしてわけの分からない言い訳をする。幼児的である。

2024年8月 4日 (日)

『永遠の831』

 『永遠の831』は日本のアニメ映画。あるきっかけで、時間を止めてしまう能力を持った少年が主人公。その能力がどうして備わったのかが物語の展開の中で明らかになっていくが、そもそも時間を止める能力そのものの説明が不可能なように、そのきっかけと能力とは無関係なので、説明になっておらず、ただ少年がどんな過去を抱えているかということだけはわかっていく。少年はその能力を隠しているが、たまにその能力が発現し、それを多少はコントロールできるようになっていく。

 

 そんなとき、彼以外に時間を止める能力を持つ少女がいることに気がつく。その少女の背後には怪しげなグループがいて、少女の能力を悪用して何かを企んでいるらしい。そして少年もそれに巻き込まれていって・・・。というお話なのだが、細部がご都合主義に見えてあまり出来が良いアニメとはいえない。それにときどき登場人物の動きがぎこちなく(動きがカクカクする)のが気になった。あれは意図的なのか、制作が手抜きなのか私には判断がつかなかった。

 

 子供の頃、ドラマで『時間よ、止まれ!』というのがあった。それを思い出した。時間を時間としてだけ考えようとすると、こういう物語を作ることは可能だが、時間は全ての物理的世界に張り付いていて分けることはできないから、当然矛盾が生じてしまう。時間が止まっている、ということは、全てのものの運動が止まっているということで、自分だけ動けるということは、止めた本人はその物理的世界とは別の存在ということで、それではこの宇宙の外の存在ということになってしまう。

 

 止まった世界は時間ゼロの世界で、動いている当人は時間ゼロに対して無限のスピードで動いていることになるだろう。本来ゼロで割ることができないものをゼロで割った世界ということだと思う。地球も止まり、宇宙全部が止まり、分子の運動も止まり、素粒子も光も止まっている状態でどうして世界が認識できるのか。写真を見ているようなものなのか。彼の着ている服などはどうして体とともに動けるのか。止まっている空気を体に取りこんだら、その空気の中の酸素分子は静止しているのだから体の中で酸素として活動できない。たちまち窒息しないか。相対性理論に寄れば、光速に近づくほど、速度が速くなるほど質量が大きくなっていく。そうするとどうなるのか。時間を止める存在とはブラックホールということか。

 

 そんなことをどんどん深く考えていたら、頭が熱くなってしまった。

 ちなみに、831は八月三十一日のこと。夏休み最後の日、ここで時間が止まって永遠に夏休みが終わらなければ・・・という寓意らしい。登場人物の一人が、惰眠をむさぼっているいまの日本の状態なのだといっていた気がする。なるほど。

歯ブラシをいただく

 宿に宿泊すればたいてい使い捨ての歯ブラシがある。私は専用の歯ブラシと歯磨きを持参するので使うことはあまりないのだが、たいていいただいて帰る。その使い捨て歯ブラシはいろいろなところで役に立つ。台所や洗面所、風呂などの細かいところや排水口をきれいにするのに使うことがおおい。毛先を短くしておいて、新じゃがの皮をこすり取ったりすることもできるし、食器の細かいところをこすり洗いすることもできる。しっかりしたものからちゃちなものまでピンからキリで、あまりちゃちなのは、薄くて小さくて硬くて肌触りの悪いタオルと同様、宿の印象をちょっと悪くする。サービスだ、といっても当然宿代に含まれるサービスなのだから、多少の要望を感じるくらいはいいだろう。

 

 いまは歯のメンテナンスを怠るとたちまち不具合が起こるので、一日に三回は歯を磨くよう心がけている。いきなり持ち帰った歯ブラシを雑用に使うのはかわいそうな気がするので、一回か二回、本来の使い方で使ってから雑用に供する。フラフラ出かけることが多いので、そこそこたまっていて、とことん酷使せずに適当に捨てられてありがたい。

写真を楽しむ

旅行に行って写真ばかりを撮っていると、本当の現地での体験がおろそかになることがある。後で写真を見て、「そういえばこんなところを見たなあ」などといっていたらもったいない。現物を目で直接見て、それを頭に焼き付けるのが大事だ。そして気に入ったところを写真に残す。現場の方が写真よりずっと重い。

さはさりながら、目は細部を全て見ているわけではないのだ。

写真を大きく引き伸ばすと、その細部があらわれる。それを楽しむという写真の楽しみ方がある。

いまトイレの右側面に、一枚の写真をA4四枚に分割してプリントして、つなぎ合わせたものを貼っている。

190910170s

全体図はこの写真。トルコのカッパドキアで撮ったもの。

190910170b

細部を拡大するとこうなる。

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目は全体をとららえていたのだろうが、細部の記憶は曖昧である。こういう部分をじっくり見ていると、見ているようで見えていなかったものが見えてきて、楽しめる。

2024年8月 3日 (土)

『ザ・コンフィデンシャル』

 映画『ザ・コンフィデンシャル』は2023年のアメリカ映画。正義と法がテーマといっていいのだが、話が単純なのにそこそこ見応えがあって面白かった。ふたりの刑事が主人公なのだが、その上司役で出演しているメル・ギブスンが全体を締めている。

 

 戦友だったふたりの男がニューヨーク市警の刑事として相棒となっている。片方はアル中気味、もう片方は家庭を持ち、美しい妻とかわいい息子がいるが、末期がんであることがわかる。このまま死んでしまうと妻や娘が苦労する。殉職するとさまざまな恩典があって妻子が助かると知り、殉職を画策する。協力を渋る相棒は、昔戦場でいのちを助けてもらった恩義もあり、従うことにするのだが・・・。

 

 そこからどのような展開となっていくのか、それは見てのお楽しみである。だから法と正義ということになるが、まあ、こういう終わり方ならいいか、という気にさせてくれる。

 思い出すのは、『L.A.コンフィデンシャル』という映画だ。ケヴィン・スペイシー、ラッセル・クロウ、ガイ・ピアースが出演していた、1950年代のロス市警の様子を描いた警察映画だった。警察映画としては上出来な作品で、忘れられない。そういえばキム・ベイシンガーが共演していた。その妖艶さが印象的だった。

 

 ところでコンフィデンシャルというのを愛用の外来語辞典で引いてみると、
「秘密であるさま、極秘であるさま」などとある。

ところが、コンフィデンスは
「信頼、信用、確信」で。

コンフィデントは
「確信のあるさま、自信のあるさま」となっている。

 

こういうところがことばというものの面白さか。日本語では統一できない概念が、英語では矛盾なく認識されるのであろう。文化の違いというものである。

脳中を群雄が駆け巡る

 いつものように何冊かを並行して読書しているが、そのうちのひとつが井波律子訳の『三国志演義』全四巻で、いま第三巻の後半に入った。ついに関羽が呉に討たれ、曹操が死んだところである。これから張飛が死に、劉備も死ぬ。第四巻は諸葛孔明の孤軍奮闘となる。

 

 もう一つ、田中芳樹の『岳飛伝』全四冊を読み始めてしまった。六月に北方謙三の『岳飛伝』全十七巻を一気読みしたばかりなのに・・・。岳飛について詳しく知ったのはこの田中芳樹の『岳飛伝』を読んだからで、二十数年ぶりの読み直しである。いま第二巻まで読み終わったところ。北方謙三の『岳飛伝』とは全く違うのが、かえって面白い。岳飛を知って、大好きな杭州の西湖のほとりの岳飛廟を二度ほど訪ねている。杭州は岳飛の時代には南宋の都臨安として栄えた。

 

 この二冊が頭の中で映像化して、多くの英雄が頭の中を駆け巡っている。暑いときはこういう本を読むとちょっと元気が出る。これらを読み終えたら、つぎは井波律子訳の『水滸伝』全五冊を取り寄せたので、それを読み進めるつもりである。まだまだ群雄は脳中を駆け巡る。

カーテンを閉めて

 朝から30℃を超えている。今日の最高気温予想は38℃だ。すでに九日間猛暑日が連続し、来週もさらに続くらしい。朝、鉢に水をやる。朝顔と松葉ボタンだけは元気で、毎朝たくさんの花を咲かせ続けている。もう数えるのが面倒なほどの数である。種一粒二粒から、土と水、そして光だけでどうしてこんなに成長していくのか不思議である。

Dsc_2028

 水をやった後カーテンを引く。それで冷房の効き具合が明らかに違う。ちょっと近くのスーパーに行くだけでその猛烈な、危険な暑さにぐったりする。引きこもってゴロゴロしているしかない。エアコンがあるような快適な生活ができるから生き延びられると思いながら、その快適さを生み出すためにエネルギーが消費され、結果的に温暖化をもたらしているのだと思うと、なんだかバカな話のようにも感じられる。

 

 テレビは終日お祭り騒ぎ、まだまだそのお祭り騒ぎは続くようだ。お祭りにも限度があるだろう、と思うが、へそ曲がりに過ぎるのだろうか。猛暑は外だけで室内は快適なのに、なかなか思うほど本が読めない。だらけた時間が過ぎていく。

2024年8月 2日 (金)

敗者の弁、勝者の弁

 オリンピックは競争であり戦いであるから、勝者があり、敗者がある。勝者は賞賛され、敗者はうなだれる。そこへマスコミは殺到してマイクを向ける。いまの選手はよく語る。以前はマイクを向けたアナウンサーがしゃべり散らし、それに「はい、はい」と答えるのがせいぜいだったが、いまはなかなか立派なことをいう。とはいえ多くが決まり文句である。決まり文句といえば、敗者の方がより決まり文句を言うことが多いようだ。敗者は語りたくなどないが、マイクを向けられて何かしゃべらざるをえないからそうなるのは当然だ。そんな敗者の弁など、誰が聞きたいのだろうか。

 

 株が暴落しているようだ。理由はさまざま解析されているが、これは一時的なものなのかどうか気になる。まさかバブルがはじけたのではあるまいと思うが、あまりにも大幅下落で心配だ。あのバブルがはじけたときも、まさかという間にあれよあれよであったことを思い出すではないか。バブルは渦中にいるとバブルであるとは気がつかない。まさかと思ったら、後で考えたらバブルだったということもあるのではないか。これで不景気になったら、また政権交代にでもなるのだろうか。負のスパイラルか。悪夢の再来とならなければさいわいだ。

 

 民主党の大統領候補にハリスが正式指名されるようだ。もうされたのかな。あんなに不人気だったのに、いまはハリスが持ち上げられてフィーバーになっているようだ。これがご祝儀相場であることは識者がみな指摘するところで、マスコミの、とくに民主党支持のマスコミの情報を日本では選択的に報じるから、ハリスに本当に風が吹いているのかどうかはわからない。この持ち上げ方そのものがマスコミが仕組んでいるものでもあるようだから、化けの皮が剥がれるのは案外そう遠くないのではないか。そういえば『ハリスの旋風(かぜ)』というちばてつやの漫画が昔あったなあ。アニメにもなった。そのちばてつやがコロナにかかったそうだ。なんだか連想がむちゃくちゃだと我ながら思う。

アマドコロ

 二泊三日の温泉での静養旅のみやげは、いつも買うトチの実せんべい、その温泉の湯ノ花からつくった入浴剤、そしてアマドコロの粉末である。トチの実せんべいはもう食べてしまった。

 

 アマドコロは観賞用に植えられるが、花、芽、根などが食用になり、とくに根は滋養強壮の薬用にも利用される。私が購入したのはその根を乾燥させて粉末にしたものである。スプーン一杯をそのまま水やお湯で一日一回飲むとよいと書かれていた。滋養強壮だけではなく、胃や腸の粘膜の保護に効果があるという。

 

 しかしながら、ネットで調べると、漢方などには採用されることなく、民間療法の使用にとどまるとのこと。試しに飲んでみた。水やお湯だけだとかすかに甘く、少し青臭く、そしてとろみがある。あまり飲みやすくなかったので、牛乳に溶かしてみたら飲みやすかった。さて、一袋飲み終わるまでに何らかの効果があるであろうか。長く利用されてきたものであるから、おかしなサプリメントよりも安全であろう。

『ヒンターランド』

 第一次世界大戦が終わってしばらくしての、オーストリア、ウィーンが舞台のダークミステリー映画『ヒンターランド』(2021年オーストリア・ルクセンブルグ)を見た。従軍し、ソビエトに抑留されて過酷な捕虜生活を送ってようやく帰国した、元刑事のペルクという男が主人公。第一次世界大戦中にロシアはソビエト革命でソビエト連邦という共産国となっており、その捕虜生活が残虐を極めていたことがこのミステリーの背景にある。オーストリア帝国は戦争により崩壊し、小さな国として荒廃からの復興の途上にあった。

 

 この映画の見所は、そのダークな映像と、しかもゆがんだ背景である。背景の建物や空間は奇妙にゆがんでいる。まるで書き割りの前で演じられる舞台のようである。ペルクの思うウィーンはこうして暗くゆがんだ風景として目に映っているのだろう。この映像手法は素晴らしい効果をもたらしていると思う。

 

 殺人事件が発生し、その被害者がともに復員してきた仲間で、ペルクの住所が書き込まれたメモをもっていたことからペルクが疑われる。警察に連行されたペルリは元同僚が警視になっていることを知る。彼のおかげで疑いは晴れ、ペルクも捜査の手伝いをすることになる。そして第二の事件が起き、それが連続殺人であることがわかってくる。そしてペルクも襲われる。辛くも助けられるが、すでに第三の殺人が行われていた。殺害方法、そして残された暗示から、ペルクは犯人の動機をつかむと自ら捜査を進め、やがて予想を超えた真犯人にたどりつく。

 

 見応えのある映画で、残酷な殺害方法がじつはソビエトでの捕虜の拷問に準じていることなど、ペルクしか知り得ない背景があってこのミステリーは成立している。時代設定とウィーンという舞台は必然なのだ。見応え在り。

2024年8月 1日 (木)

猛暑

 夕方の四時頃、近くのスーパーへ買い出しに行った。そろそろ気温も下がり始めたかと思ったのだが、とんでもない。日差しは猛烈で、空気はまるでサウナの中のようであった。こんな中を長時間外にいたら、本当に体によくない。

 

 ちょっとした臨時収入が入ることになった。それで買おうかどうか迷っていた本を六冊と、膝痛用のコンドロイチンの大瓶(高い)などを購入した。もう少し残るので、何に使うか楽しみに考慮中。年金以外にまず臨時収入というのはないので、この程度の金額でもうれしい。

 

 冷房の効いた部屋にいるのに夏バテ状態になっているのは、冷房が原因だと思う。やはり多少は汗をかかないといけないと思うが、さて、買い出しの時のあの猛烈な熱気にはたしかに危険を感じてしまう。向こう三ヶ月、ずっと暑い状態が続くというけれど、こういうときに大きな地震でも来て、インフラが破綻したらどうなるのか考えると恐ろしい。得てして災害というのはそういうときに来るものである。

中国名言集(17)

   人生 別離足(おお)し

 

 晩唐の詩人・于武陵(うぶりょう)の有名な五言律詩、『酒を勧む』の中のことば。私も好きな詩である。

 

  君に勧む 金屈巵(きんくっし)
  満酌 辞するを須(もち)いず
  花発(ひら)けば風雨多く
  人生 別離足(おお)し

 

これには井伏鱒二の名訳がある。

 

 コノサカヅキヲ受ケテクレ、ドウゾナミナミツガシテオクレ、ハナニアラシノタトエモアルゾ、「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 

 この訳でそれぞれの字句の意味がわかるはずである。金屈巵は杯のこと。足は多と同じ意味。井波律子は「別離足(おお)し」とするが、私は「別離足(た)る」として記憶していて、その読みの方がこの詩にしっくりくると思っている。

雑感

 戦争は破壊ばかりで何も生産しない。技術が向上するとも言われるが、国家に浪費・・・というより濫費をもたらす。だからどんな大国でも長期の戦争では疲弊する。ベトナム戦争で受けたアメリカのダメージがどれほど大きかったか、世界はそれを目の当たりにした。だからその後のアメリカは短期決戦ばかりだったのに、それを忘れたアフガニスタンでふたたび愚かな撤退を余儀なくされた。

 

 いま、ロシアはウクライナでそのような濫費を続けているが、経済規模が韓国並みと言われているロシアが、どうしてこれほど長く戦争を継続できているのか不思議である。それほど蓄えがあったということだろうか。早く戦争継続が不能なほどに疲弊してほしいと願うけれど、それがいつなのか、今のところ終わりが見えないのが残念だ。

 

 パリオリンピックは盛り上がっているようだが、ほとんどテレビを見ていないので詳しいことはわからない。興味があまりないのだ。開会式や、運営や審判でのさのざまな不手際をネットニュースなどで見た。そういうことはいつでもあるものだが、どうもフランスだから、という面もある気がしてしまう。それがフランスという国のレベルの表れではないか、と感じてしまうのである。大会五輪旗を逆さまに掲揚するなんて、普通はあり得ない。

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