罪と罰
名古屋は昨日に続いて今日も最高気温は38℃になるらしい。明日はなんと39℃の予想である。長い時間外にいるのは危険で、実際に外を少し歩いただけでフラフラする。それなのにあえてちょっと歩いてみたくなったりする。体がエアコンの中に居続けたせいで汗がなかなか出ない。気温に体が反応しきれないのだ。こういうときに熱中症になるのだろう。汗が出始めてほっとする。冷たいものばかり飲んでいるから、代謝能力が落ちている。時には汗をかいて恢復させる必要がある。
ところで、世の中には人がひしめいているので、自分がしたいことを好き勝手にすると、人の迷惑になることがたくさんある。だからしてはいけないことはしてはならないことになっている。子供の時に親や周りの大人にひとりでに教えてもらうことで、知らなかった、というのは言い訳として通用しない。世の中はみんなが知っている前提で回っているのだから。だから、してはいけないことをしたら罪に問われ、罰を受ける。
罰則が罪を犯しそうな人間に対する歯止めになるかどうか、というのが議論になることがある。議論になるのは、実際に歯止めになっていない事例がたくさんあるからであろう。だからといって罪の重さに見合う罰則を否定する、というのもなんだか変な話だ。
同じ違反行為でも、結果が甚大な害を及ぼす場合と、軽微で済むことがある。その時の罰の大きさは当然大きな害を及ぼした方が重いはずである。私はそれでいいと思う。そこから考えて、社会的な実害に応じた罰の重さをもう少し柔軟に取り入れていいのではないかと感じることがある。どうしてそんなことを思うかというと、電線泥棒や、農作物泥棒のような犯罪の卑劣さに腹が立つからである。被害に応じてというなら罪は重くないのではないか、などと考えるのは考えが浅い。当然そういう被害に対して、防衛策を講じなければならなくなるのだ。そういうことは誰もしないはず、ということを前提に成り立っている社会が、それに対策を講じなければならなくなったとき、どれほどのコストが増えるか、それを計量しなければならないのだ。
被害に応じた罰を基準として、そこに情状酌量の余地があれば考慮する、というのがわかりやすくていい。その時、被害というのが社会的コストの増大をもたらすなら当然考慮すべきであるのはいうまでもない。小賢しく、狡いものが思いのほか罪が重くなる、というのが庶民感覚に合うと思うがどうだろうか。
無人販売所のものを金を払わずに大量にくすねていく人間など、社会秩序破壊者だと思う。安心して暮らせる社会を壊す人間ということである。特定したら社会に名前を公表し、こういう人間に気をつけろ、と警告することが、結果的に社会の安寧につながると思うが暴論だろうか。性的暴力加害者も同様だ。ましてや子供に対してそのようなことをする人間を人権の名の下に擁護するなど論外だと思うが、日本では被害者ではなく加害者がときに、より守られる。
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