個人の自由
いまほど個人の自由が尊重される時代はない。たいへん結構であるが、それほど遠くない昔には、個人の自由などはなかった。ないはずはないといっても、そもそもそういう観念が人々になかったのだから、それを前提にした思考もなかったのである。よく、過去にタイムスリップしてどうたらこうたらというドラマや映画がよく作られているけれど、最近はその設定のものは見る気がしない。何よりうんざりするのは、違う時代の人が現代人の価値観で語ったりするからである。
タイムスリップで出現した人間は、その時代の人にとっては異人である。その風体に違和感をもつのは当然として、何よりもその考え方、ものの見方にこそ違和感を感じるはずであるが、たいてい科学的な知識などの優れていることばかりが強調される。その辺をきちんと丁寧に描けば面白くないドラマになってしまうことだろう。利点が強さとなり、異世界で受け入れられ、自らの存在意味を見つけることができる、という仕立てになる。まあそれはそれでいいけれど・・・。
ニュースドキュメントで、ある不登校児が不登校になったきっかけを、自分の居場所がない、自分が存在していいのかどうかわからなくなった、などと語っていた。わかるような気がする。その子は通信教育などをきっかけに立ち直る方向に向かっているようで結構なことである。その時に思ったのは、これだけ個人の自由が謳われながら、教育が集団でなされることに疑問があまり持たれていないことだ。集団教育には社会性を養うという重要な意味があるが、いま個人の自由がここまで尊重されている時、集団教育になじめない子供が増えていないか。集団教育と個人の自由は相反するものではないのかと思う。
個人の自由を集団教育というシステムの中で教えることに皮肉を感じてしまうが、社会的なコストから、そうするしかないのだろう。
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