乱作すると
私が文学と呼べるような小説の面白さを最初に知ったのは、開高健を読んでからである。それでも彼の小説の熱心な読者とは言いがたく、それより彼のノンフィクションやエッセイの方をよく読んできた。それらの本の中から久しぶりに開いたページに面白いところがあったので引用する。
食堂車のなかで李英儒氏と通訳を介して話をする。
「開高先生は子供が何人いる?」
「一人です。娘。八歳です」
「一人は少なすぎる。私には五人いる」
「乱作すると作家も作品も質がおちますから、僕の場合をいえば、処女作以後絶版ということにしてあります」
「それにしても一人は少なすぎる。子供というものは一人は家のために、一人は民族のために、一人は国家のために、一人は自分と友人たちのために、少なくとも四人はつくる義務と必要があるのじゃないか」
「日本は中国の二十六分の一しか面積がありません。とてもそんなにつくってはたまらない。ひょっとすると日本の悪いところはすべて人口過剰が原因なのではないかとみんなが考えているくらいです。やっぱり乱作はいけません。処女作以後絶版です」
「喜劇にしては諷刺の勝ちすぎた表現だ」
これは1960年に中国を訪問したときの訪問記『過去と未来の国々』(岩波新書)の中の一節である。
開高健(1930-1989)、妻は詩人の牧羊子、そして娘はエッセイストの開高道子(1952-1994)。このときに話題となった一人娘の道子は、開高健の死後五年して自死した。開高健はもちろん、このときにそんなことは知らない。それを思うと思うことはいろいろある。妻の牧羊子は2000年に死去。悪妻と呼ばれることが多いのは、親友だった谷沢永一がそのことを記しているからである。旅をすることが多かったのは、妻と一緒にいるのがいやだったから、などと言われる。牧羊子は歯切れのいいラジオの人生相談の相談者として私の耳に記憶がある。
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