« 2024年8月 | トップページ | 2024年10月 »

2024年9月

2024年9月30日 (月)

世界の終わり

 大げさではなく、ひとつ間違えば世界の終わりにつながりかねないことが積み重なりつつある気がしている。体調不良の中でニュースを見ていると、ウクライナ問題、中国の台湾恫喝、北朝鮮の火遊び、イスラエルの戦火拡大、どれをとっても悲観的に見れば大戦争へ続く道としか思えない。

 

 過去の大きな戦争では、みんなが疲弊し尽くしてもうやめようという所まで行ってようやく終わった。戦争がどれほど無意味で悲惨なものか思い知ったはずだが、また同じことを繰り返しそうな気配だ。今度もし同じような世界を巻き込む戦争になったら、核戦争になる可能性が排除できない。それでもアフリカや南米などでは生き残る人類は多少はいるだろうが、間違いなく人々を支えていた文明は破綻するから、世界は一度終わってしまうのだと思う。

 

 その先のことは、私がその先に生き延びる可能性がまずないと思うから考えても仕方がないし、いまの状況に対しても何かができるとも思えないから、ただ呆然と眺めていることしかできない。自分では比較的に楽観的な性格だと思っているが、プーチンだの習近平だの金正恩だのトランプだのを見ていると、悲観的にならざるを得ない。

 

 終わりが来るまでは、今まで通り生きていくだけだ。杞憂だと笑わば笑え。杞憂で済めば何よりだと答えるしかない。

ピントが合う

 少し食欲が出てきて、それとともにぼんやりと霞んでいた世の中が少しはっきりと見えるようになってきた。世間にピントが合ってきたようだ。うるさく感じていた音楽も、静かなものなら聴くことができるようになった。本も少しずつなら読める。今日で九月は終わりか。なんだか何もしないでこの二ヶ月が過ぎ去ってしまったような心地がする。 

 

 さいわい今日は涼しいし、湿度もなくてカラリとしているのがありがたい。食べつなぐだけなら食材はあるが、何か栄養のあるものを摂りたいので、これからスーパーに買い出しに行くことにする。フラフラしたりしないところを見ると、ただの夏バテなのかもしれない。

不調

 喉痛、微熱、寝汗、尿濁り、倦怠感、食欲なし。

 持病からのものではなく、軽い夏風邪かと思う。

2024年9月29日 (日)

夫婦別姓

 詳しく知っているわけではないが、選択的夫婦別姓が取り沙汰されているようなので、ちょっとだけ愚考した。日本では結婚すると夫婦どちらかの姓に統一する決まりになっているけれど、それを別々でも善いではないか、という論議であると理解している。

 

 どちらかの姓にするといっても、多くは女性が姓を変えることになることが多い。働く女性、それなりの立場に立つ女性が多くなった現在、名前が変わることによる不都合も増えているという背景があるのだろう。これを女性差別のひとつと論じるものもあるようだ。これを便宜的に旧姓を名乗ることを公的に認めるという方便もあるという提案もあるようだ。現実にそうしている女性も少なからずいる。しかしそういう弥縫的な対応ではなく、夫婦同姓という制度そのものをなくしてしまえという主張もある。世界には夫婦別姓の国はたくさんあって、別姓での不都合はないという。すべて別姓としろという主張である。

 

 夫婦別姓の国はたしかに少なからずある。それらの国は昨日今日夫婦別姓になったわけではなく、大昔から別姓であって、それがもともと普通であるから別姓による不都合などは生じないのは当然である。日本は昔から夫婦同姓である。それをすべて直ちに別性にせよというのは乱暴である。文化が違うので、同列に論じては混乱する。もしその方向を目指すなら、段階を踏むべきだろう。

 

 だから、今回の選択的夫婦別姓論議は、夫婦別姓を選ぶこともできるようにしよう、という論議である。それを認めた時にどのような不都合が生ずるのか、それに対処するにはどういう手立てがあるのか、それをクリアすれば良い。夫婦別姓を希望する人は夫婦別姓にすれば好いではないか、と私などはいい加減である。そのことによって生ずる子供の姓の問題など、夫婦で決めれば善い。子供が大人になる時に択び直せるようにしておくことも必要かもしれない。別姓にすることによる社会的な煩雑さくらい、なんとか対処できるだろう。それより別姓を択んだ夫婦がいろいろ煩雑なことを引き受ける覚悟が必要だが、それがあるからその道を選ぶのだろう。

 

 選択の自由、ということであれば私は好いではないのか、という消極的賛成派である。私がこれから結婚するなら別姓にはしないという道を選ぶが。

 

 夫婦別姓を認めると家族が崩壊してしまう、などという心配をするお年寄りがいるらしいが、家族と言うより、姓が「家」というものと密着しているものだという考えからくるものだろうと思う。そもそも「家」などとっくにほとんど崩壊して存在しないのである。時代錯誤的な反対だろう。家族はすでに個人に分解しつつある。いまの日本の夫婦別姓論議とは、ちょっと斜めに見れば、同棲と結婚の境目をなくそうということに見えないこともない。結婚とは何かが問われ直そうとしているのかもしれない。

2024年9月28日 (土)

『トップガン マーヴェリック』

 2022年公開の『トップガン マーヴェリック』を見た。この映画は2019年に公開予定だったが諸般の理由により公開が遅れたそうだ。

 

 このところトム・クルーズ主演の映画を三本(『コラテラル』、『アウトロー』、『ジャック・リーチャーNEVER GO BACK』)、立て続けに見て、さらにこの映画を見るために前作の『トップガン』(1986)も事前に見た。前作から36年の時が経っての続編である。たいてい続編は前作に劣る。しかしこの続編は前作以上に面白くなっていると思う。この続編を楽しむために前作を見ておいて正解だった。物語の背景や人間関係を立体的に把握することで、面白さが倍増する。

 

 前作で活躍したのはF-14だったが、今回活躍するのはF-18、第五世代機よりも古いけれど、今回の極秘作戦にはこの戦闘機が必須なのである。そして、うれしいことに最後の最後にF-14が活躍する。

 

 私が十数年も使い込んでいる大好きな戦争シミュレーションゲームで、私が戦闘機部隊に主に使うのはこのF-14なのである。F-15やF-18もあるけれど、その長所欠点も承知していて、最大限の能力を発揮させていると自負している。だから実際のF-14が空を飛んで活躍するのを見るのはうれしい。もちろん映画でのことだけれど。

 

 八月から、年内に100本映画を見ると決めて、この映画でちょうど50本目である。なかなか好かった。つぎは何を見ようか。

おとうさん、おかあさん

 最近見た日本映画やドラマ、アニメでは、親のことを「おとうさん」「おかあさん」と呼んでいるものばかりだったことに気がついた。世の中全般にほとんど「パパ」「ママ」ばかりで、「おとうさん」「おかあさん」と子供に呼ばせている親を見ることはほとんどない。だから、あたりまえに「おとうさん」「おかあさん」と子供が親を呼んでいるとなんだかほっとする。

 

 私の子供たちはもちろん「おとうさん」「おかあさん」である。パパママなどと呼ばせる気はなかった。世の中がまた「おとうさん」「おかあさん」に戻りつつあるのだろうか。それならいい傾向だ、と私は思う。

 いま宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)という本を読み始めたところだ。フィールドワークを続けてきた著者が民間伝承を克明に記した本で、辺境に生きる人々の生活とその歴史を伝えてくれている。戦前戦中戦後にわたって行われたこのフィールドワークのあとに、ずいぶん長い時が過ぎた。その辺境の地の生活の多くは激変し、たぶんほとんどが失われてしまったのではないだろうか。

 

 フィールドワークで地元の古老に話を聞く、という仕事を私はたぶん苦手とするだろう。そういう話を聞くことは好きなのだが、残念ながら聴き取ることができないだろうからだ。仕方がないから他人が聞き取ったものをこうして読むしかない。耳が悪いのである。こういう仕事、そして語学を学ぶことにとっても、相手のことばを聞き取ること、聞き分けることはもっとも大事な能力で、それがきちんと聞き取れなければ仕事にも学習にもならない。

 

 いまはともかく、音量はそれなりに感じているが、音の解像度が悪いのである。濁るのである。だから聞き間違える。勘違いする。読むことがこれほど好きなのは、たぶん聴き取れない哀しみを、読むことでカバーしているのかもしれない。理由があって耳が若いころからあまり良くなかった。そのことが語学を学ぶには致命的であることに当初は気づかなかった。

 

 友人のF君などは、一緒に海外に行けばその国の人のことばを正しく聞き取り、すぐに口まねをして見せてそれを繰り返すので、たちまち何事かを多少は伝えることができるようになる。私には口まねできるほど聞き取ることができない。その違いを思い知る。

 

 テレビが聞き取りにくいとしばしば泣き言を言い、腹を立てているが、それには私特有の個別の事情もあるのだ。同時にうるさいのも嫌いだから、音量を上げることもしたくない。濁った音のまま音量が高くなるだけだからである。白内障の手術で霞んだ視界が晴れるように、耳が音をクリアに聞かせてくれるようになったらどれほど素晴らしいか、などと思う。

 親しい人との会話では、その内容と前後の脈絡で補足しながら聞くのでとりあえず不自由はない。ただ聴き取れなくて適当に相づちを打っていることは少なくない。だから知らない人でことばが明晰でない人の言っていることが理解できなかったりする。役所や病院や銀行の窓口で、つい大きな声で聞き直すことが多くなる。聞こえないと、こちらの声が大きくなる。怒っているわけではない。最初は怒っているわけではないが、伝わらないことのいらだちが嵩じてしまうこともある。

2024年9月27日 (金)

偏りを避ける

 自民党総裁選に石破茂氏が択ばれた。自民党議員には石破嫌いが多いという従来の見立てから言えば意外ではあるが、高市早苗氏がいささか右寄りすぎることを最後の最後に危惧する人が多かったということなのだろう。国内的にも国際的にも偏りは不利になると考えたということで、偏りの嫌いな日本人らしい選択だ。

 

 ただし、石破茂氏がハト派だ、などと国民がもし思っているなら、それは勘違いであると私は思う。防衛大臣も務めたことのある石破氏はある意味でリアリストでもあるから、平和主義を観念的に口先で言う人間ではない。問題は精神的な打たれ強さがどこまであるか、ということで、案外ひ弱い、などということだと日本の国としては残念なことになりかねない。そうでないことを祈る。

また霞がかかる

 体調と意欲は思った以上に関係が深いようである。あれをしたい、これをしよう、と思うことがいくつかあるのに、なんとなく手がつかないで先延ばしにしてしまう。きれいだった排尿がまた少し濁り始めた。念のため体温を測るとほぼ平熱で問題はないが、食欲があまりないし、酒も美味しくない。健康ならないことである。かろうじて映画は見続けることができていて、年末まで百本の目標のほぼ半分を達成した。ただ、本が持続して読めない。少し読むと本に対する集中力が低下してしまう。

 

 また心身にぼんやり霞がかかった状態のことがときどきあって、ブログも習慣で書いている面がある。調子が良い時は書きたいことがいくらでもあって、書きたくて書いているのに、いまはそうではない。

 

 朝方は雨、そのあと霧雨のような細かい雨が降ったりやんだりしている。まだ次々につぼみをつけてはいるが、そろそろ朝顔を取り払おうかと思う。下の階のベランダに枯れ葉や朽ちかけた花がいくつかおちているのが気になる。下の階は掃除の行き届いたベランダなので、迷惑をかけているようだ。

 

 今日は自民党の総裁選挙。案外なデッドヒートらしく、多少興味を覚えている。はっきり言って帯に短したすきに長しで、この人ならと言う気になる人がいないのが残念だ。なってみたら案外よくやるなあ、という人が選ばれれば日本のためにはいいのだが。

超人ではなくて超人的

 トム・クルーズ主演の『アウトロー(2012)』『ジャック・リーチャーNEVER GO BACK』という二本の映画を見た。これは同じ主人公の映画である。アウトローなどと言う月並みな題にしたのは失敗だったろう。これではこの映画の面白さが想像できない。たぶん評判が良かったので、続編は主人公の名前を題に入れることにしたのだと思う。

 

 ジャック・リーチャー(トム・クルーズ)は社会と極力関わらないで生きている、元陸軍憲兵隊の凄腕調査官であり、隊長まで勤め上げた男である。カードももたず、彼の居所をデジタル的に探すことは不可能である。そんな男がたまたま自分に関わる事件を知ってそれに関与し、その卓越した戦闘能力と知力で事件の背後の巨悪と闘い全貌を明らかにして去って行く、という物語である。

 

 マーベルコミックの主人公たちは超人である。常人では太刀打ちできないような強い悪を超人が難なく懲らしめる、というストーリーは痛快ではあるが、次からつぎに超人が登場し、あろうことか集団で戦ったりし始めてからは、まったく面白さがなくなってしまった。超人は一人でたくさんである。このジャック・リーチャーは超人ではなく、超人的な格闘術と知力を持っているだけで、失敗もするし怪我もする。そういう超人的な主人公が活躍する映画はそれなりに面白くて、楽しめる。面白いから続編が出てシリーズになったりする。

 

 例えばデンゼル・ワシントンが主人公の『イコライザー』シリーズ、キアヌ・リーブスが主演した『ジョン・ウィック』シリーズ、などがそういう映画で、私は大好きである。何しろ見ていてスカッとする。ただしジョン・ウィックは超人的から超人になりかけて面白さが失われていった。シルベスター・スタローンの『ランボー』シリーズもそういう系譜だろう。ジェイソン・ステイサムの『トランスポーター』シリーズもそれに加えていいだろう。そういう見方で分類すれば、それに該当するものは次々にあげられる。『るろうに剣心』シリーズだってまさにそうではないか。多すぎてキリがない。

 

 まあとにかく楽しめる映画の種類であることはたしかである。

2024年9月26日 (木)

社会不安の吹き出るところ

 中国は経済政策があまりうまくいっていないという。そのために失業率、とくに若者の失業率が増え続けているそうだ。都市部に流入して低賃金で経済を支えてきた農民工たちは働き口を失い、地元に帰るか、帰る先を失って社会の暗闇で食うや食わずでたむろしているという。彼らの社会に対する鬱憤不満がはけ口を失い、社会不安が増大しているのだと消息通は言う。

 

 従来から中国政府はそういう社会不安が増大すると、そのエネルギーを政権批判に向けさせないために、例えば反日暴動などを演出した。日本という国は強く出ても何の反撃もしてこない都合のいい国だから、よく標的にされる。ただしそのエネルギーを吐きただせるのはたまりにたまっているから簡単ではあるけれど、それをコントロールするのは極めて難しい。気がついたら反日から政権批判に転換して暴走する。

 

 習近平政権は政権批判をとことん抑え込んでいる。身の危険を承知しているから政権批判はできないが、不満がなくなるわけではない。たまっていくエネルギーがどんどん増加し、それを押さえ込もうとする力もどんどん大きくなっていけば、どこかで爆発してしまう。たまたま勘違い男の自暴自棄が日本人児童を殺傷するという事件として吹き出した。漏れた穴を政権は塞いでしまうだろう。しかしまたいつかどこかの穴から吹き出すに違いない。

 

 不満憤懣のエネルギーはたまりにたまり、吹き出しかねない穴だらけ、という社会がいつまでもつのか。中国に暮らす人はこれからますます命がけである。金よりいのちだけれど、企業はいのちより金だったりするからなあ。

懐かしい

 NHKの『新日本風土記』で熊谷が取り上げられていた。まだ二十代の若いころ、営業の仕事で走り回ったのが北関東だった。基本的に週に一日か二日東京の営業所に出社すれば良く、他は直行直帰であった。一応自己管理ができると信用されていたのである。熊谷の暑さ、うちわ祭、八木橋デパートなど、懐かしい映像を見てその当時を思い出した。うちわ祭には、多くの山車が出る。名前と違って腹まで響く太鼓の音の伴う、けっこう勇壮な祭りなのである。

 

 さすがにそのころはまだ40℃を超えることはなかったが、秩父から吹き下ろすフェーン現象によるうだるような熱風は忘れられない。そして冬は冬で赤城から吹き下ろす空っ風で寒いのである。夏は雷がすごかった。北側を流れる利根川周辺にガラガラと落雷する。夜、部屋の電気を消して眺めていると、花火よりも迫力があった。その利根川まで小魚を釣りに行ったり、土手の野蒜などを採ったりした。

 

 南側には荒川が流れていて、河原の桜堤の桜が見事であった。街中に用水の流れる水の豊かな街でもある。独身でアパートに三年ほど暮らし、途中で結婚してマンション暮らしになった。息子が生まれたのも熊谷に暮らしていた時である。日光にも、軽井沢にも秩父にも日帰りで行くことができた。休日の朝、思い立って碓氷峠を越えて軽井沢にそばを食べに行く、などという贅沢もできた。

 

 そのあと何度も列車や車で熊谷を通過することがあったけれど、街中を歩いていない。なんだかまた熊谷の街を歩いてみたいと思った。

2024年9月25日 (水)

『コラテラル』

 トム・クルーズ主演の映画『コラテラル』(2004年アメリカ)を見た。トム・クルーズが珍しく悪役(暗殺者)を演じている。タクシードライバーのマックス(ジェイミー・フォックス)はたまたま乗せた客(トム・クルーズ)から貸切で五カ所を回るように要請される。貸し切りは会社から許されていないが、報酬と強引な頼みに仕方なく引き受けてしまう。それが彼の悪夢の一夜の始まりであった。

 

 やがてその客が殺し屋で、次々にターゲットを殺していることを知るが、逃れることはできずに彼を運び続けることになる。物事というのは思い通りに進まないもので、凄腕の暗殺者でも思わぬアクシデントで齟齬を来すこともある。時間の迫る中、それでも次々に暗殺は続けられるのだが、最後の五人目はタクシードライバーのマックスの知る人物であった。その人物を助けるためにマックスは命がけで逃走を図るが暗殺者は執拗に追ってくる。

 

 こういう映画を見ていると、暗殺者に任務を遂行させたいような気持ちになってしまうのが不思議だ。トム・クルーズにそういう役柄を振ること自体がそれを狙っているということで、しかし善意のタクシー・ドライバーにも生き延びてほしいからジレンマが生ずる。最後までハラハラする展開で、さすがにマイケル・マン監督の作品である。見るのは二度目だけれど面白かった。

検閲

 魯迅の『病後雑談』、『病後雑談の余』という文章を読んでいて、検閲というのはむかしからあるのだという、あたりまえのことを今さらのように知った思いがした。ときの権力者が権力批判を嫌うのは当然だから、批判した者を処罰したり、批判者の文章が書かれたものを発禁にしてしまうことは繰り返し行われてきた。それでもそのような文章は書かれ続け、多くは失われたが、密かに残されたものもわずかながらある。

 

 史実のように思われたことも、そういう残された文章からじつは違うのではないかということはたくさんある。そしてその残された文章そのものすら、ときに改竄されて、まったく意味が違うものになってしまっている場合すらある。どの時代のどの時点の文章なのかによって内容が著しくまたは一部が違う例を、魯迅はいろいろな実例をあげて論じている。基本とされる『四庫全書』に残された本の内容が、清朝の為政者たちの指示により、原本から密かに書き換えられている例が少なからずあることを明らかにしていて驚かされた。原本そのものが失われていれば、著者の書いたことがねじ曲げられたままになってしまうが、そういう例が山のようにあるようだ。

 

 検閲、改変ということについて、江藤淳が『閉ざされた言語空間』という文章で論じている。進駐軍による言論統制がいかに巧妙であり、日本の言論をどれほどゆがめたのか、それを知り、考えさせてくれる文章である。知らないとそれでいいのだと思ったままである。もちろん日本の戦前戦中にも検閲はあった。魯迅が皮肉をこめて書いているが、日本の検閲は良心的である、何しろ伏せ字という形で、そこに何が書いてあったのか、そしてどうして伏せ字にさせられたのかが、ある程度読み取れるというのだ。書き直されていては、何が書き直されたのか知ることはできない。

 

 マスコミがしばしば掲載記事について書き直しを要請してくることは、自己の文章にこだわりを持つ文筆家の文章で知ることができる。要請を断れば掲載されず、そもそもその文章や著者は存在しないことになってしまう。要請は命令と同じである。これがマスコミによる自己検閲ではないといえるのかどうか。進駐軍の意に唯々諾々と従った習性がそのまま継続しているのが『閉ざされた言語空間』の意味である。

 

 もちろん何を書いてもいいなどといっているわけではない。何を書いてもいいとどうなるかは、いまのSNSなどのデジタル空間の言説を見ればわかる。しかし自主規制があまりに強ければ、言論は衰退する。日本の文化が衰退しつつあるとすれば、その責任の自覚がマスコミにあるのかどうか、そんなことを思った。見たことはないが、電話帳のように分厚い規制用語用法集がマスコミにあるのだという。あるのに使えないことばが増えて、結果的にことばを貧しくしている。

立ったり座ったり

 立ったり座ったりするときに、つい何かにつかまる。声に出すかどうかにかかわらず、「よいしょ」とか「どっこいしょ」と自分に声をかけている。ベランダの前に座り込んで鉢の土をいじったりするのに、まずしゃがみ込む動作が自分ながら哀しいほどゆっくりである。慌てると尻餅をつく。八十前後でも走ったり跳んだり泳いだりしているお年寄りを見ると、同じ人間かと思う。

 

 ただ歩く分には普通に歩ける。たぶん傍で見ても、歩くのが遅い以外はそれほどヨレヨレには見えないはずだ。しかし、わずかな段差の山道などですらつかまるものがないとあぶない。そのことを今年になって二度三度と痛感させられている。ああ、もうあそこを歩くことも、あの滝へ行くのもたぶん無理だろうなあ、などと思う。そんなときが自分にくるとは思わなかったし、こんなに早くそうなるとも思わなかった。

 

 たまたま「若さというものは、若い奴らに頒けてやるには上等すぎるものだ」というバーナード・ショーのことばが引用されているのを見た。本当にそう思うし、できれば私にその「若さ」を頒けて欲しいものだと心底思う。だけれど、「若い奴ら」に「若さは年寄りに頒けてやるには贅沢すぎるものだ」などといわれてしまうだろうか。

2024年9月24日 (火)

私には駄作

 先日、映画『マトリックス』を見たが、引き続き『マトリックス リローデッド』(2003年)『マトリックス リボリューションズ』(2003年)を立て続けに見た。この第二作、第三作は切れ目なしにつながっていて、二作でひとつの物語であり、このマトリックス三部作をもって『マトリックス』は完結している。いささか注文をつけたいところがないではないが、全体としては高く評価したいし、記憶に残る映画で、初めて見た時よりも、今回はもう少し理解できたと思う。

 

 そして続けて『マトリックス レザレクションズ』という2021年に制作された第四作を見た。18年後につくられたこの第四作を放映するにあたり、WOWOWが第一作から第三作を放映してくれたものを録画してあったのだということを思い出した。そして見たつもりのその第四作を今回初めて見たことに気がついた。評論家の評価はそこそこだったというこの第四作は、私には駄作としか感じられなかった。マトリックス世界を矮小化し、陳腐化してしまったつまらない映画、としか感じられなかった。たしかに解釈はしやすくなったかもしれないが、わかった気持ちにしてくれるのが好い映画だなどという見方をする気になれない。私はこの作品を二度と見たくないと思う。

ニュースの消滅

 朝八時過ぎに鳥島近海で大きな地震があったらしい。それによる津波警報を、NHKが繰り返し報じていた。ほとんど同じことを延々と繰り返し続けている。他の局を見てみると、その情報も報じながら、普通のニュースも報じている。ニュースの優先順位が局により異なるのは当然のことで、同じである方が異常である。九時の定時のニュースの時間なら、さすがに津波警報以外のニュースを多少なりとも報じると思ったが、それまでの繰り返しでNHKからは津波警報以外のニュースは消滅しているようであった。ただ、わずかに津波の到達の情報を語るアナウンサーの様子にほっとした雰囲気を感じたのはこちらの思い過ごしか。アナウンサーも同じことの繰り返しにうんざりしていたはずだ。

 

 一時間近く、意地になってみていたが、さすがに馬鹿馬鹿しくなってテレビを消した。

雑用をした

 昨日はからりとした好天なのに、遠出もせずに大好きな雑用をした。もちろんウソである。雑用をしたのは本当だが、雑用は大嫌いである。もう着ないだろうと思う夏用の衣類を洗濯し直してタンスにしまい、秋用のものをすぐ取り出せる場所に移した。

 

 寝室も整理、掃除をして、いままでよりも寝床で音楽を聴いたり本を読みやすくなるようにレイアウトを少し変えた。スタンド式の間接照明のライトは思った以上に夜の雰囲気を良くしてくれる。やや惜しいけれど、もうたぶん読まないと思う本を選び出して、処分用のスペースに片付けた。棚を眺めていたら、読みたいと思う本がたくさんあって引っ張り出したけれど、読みかけの本の山もあるのでまた雑然としてしまった。こんなに読みたい本が手許にあるのに、どうしてまた本が買いたくなるのだろうと思う。読むより買う方が趣味なのかもしれない。

 

 尿をきれいに保つために水分をせっせと摂っていたら、体重が増えてしまい、足も少しむくんできた。夕方久しぶりに、少し汗ばむ程度の散歩をした。風呂で汗を流したらむくみも軽くなったようだ。少し体を動かして体重を落とさなければ。

 

 この頃ミスタッチの頻度が増えていて、イライラする。完全なブラインドタッチではないが、それに近い程度には打つことができていたのにいまは変な変換を見て自分のミスに気がつかされる。我ながら情けない。これからますますひどくなるのだろうか。

 

 スマホのアカウントがブロックされてしまい、一部のアプリが使えなくなった。アカウントを設定し直すのに手間がかかったが、なんとか元に戻った。どうしてブロックされたのかがわからない。それがわからないことが不安だ。

2024年9月23日 (月)

白菜を漬ける

 四分の一把で250円あまりして、しかも貧弱なものしか買えなかった白菜が、半値になってしかもまともな大きさで売られていた。久しぶりに白菜を塩漬けにした。たくさん残っている乾燥した唐辛子が再び出番になって喜んでいる。以前は塩麹を加えたり、昆布茶を加えたりしたが、今はもう塩と唐辛子だけである。その方が好きだ。まだ暑いからすぐ酸っぱくなる。漬け上がりも早い。できたらせっせと食べてつぎをまた漬けるつもりだ。漬け上がりが待ち遠しい。

 

 ベランダの少し大ぶりの鉢にカイワレを植えている。数日で伸びたところをつまんで食べる。一度に種を三十粒くらいずつ蒔く。ほとんど外れはない。以前買った種が残っているし、大根になってついには枝が硬い木みたいになって、花を咲かせてサヤつきの種ができる。その大量の種も収穫してあるから、蒔く種には困らない。鉢の端にわざと取り残したものが本葉になって伸び始めた。これがまた大根になるはずだ。経験からつぎの種は一本あれば十分である。

 

 こんなことでなんとなく土と植物に関わっている気になっている。自然を感じるなどというと大げさだが、父が土いじりが大好きだたことの意味が今頃になって少しわかり始めた。ベランダの鉢がまた増えることになるかもしれない。

愚民

 マスコミで何かを語っている人間に、国民、大衆の多くは愚民だ、という臭いがチラリと見えてしまうと、私はそういう人間を嫌悪してしまう。もちろん国民大衆がいかにも愚かに見えることは多い。しかしマスコミが取り上げる「市井の人」というのが、しばしばとくに愚かに見える人を選択的に択んでいるのではないかという気もしている。

 

 東大出でも愚かな面を多分に持つ人もおり、学歴が高くない職人に賢人がいることもある。愚かであるかどうかは知識の量だけでははかれない別の物差しがいる。そして、人は誰でも愚かさと賢さを同時にあわせ持っている。

 

 しばしば政権批判をする人に物事を正義と悪に単純化して語る人が多い。そういうわかりやすさで、愚民である大衆を「賢い私」が啓蒙してやるのだ、という根底が見えてしまう。本人にはそのつもりはないのかもしれないが、そう感じてしまう。マスコミの正義を私が繰り返し「イヤなもの」だと断じるのはその臭いを漂わせているからだ。

 

 国民が単純に愚民だらけなら、民主主義は成立しない。愚民が択んだ愚物が愚かな政治を遂行することになるだけである。しかし、一人一人に愚かな面と賢さがあり、それらを総和すれば、愚かさよりも賢さが勝るかもしれないという希望がある。総和のためには数が多い方が良い。だから棄権するな、という呼びかけについて、私は賛同する。あくまでも希望ではあるが、人間として希望を持ちたいではないか。

 

 shinzei様という、いつも私がブログを拝見している方からいただいたコメントのお返しを考えていたその流れからこの一文を書いた。

季節が変わる

 ずいぶん久しぶりに北と南の窓を開け放ち、風を通した。涼しい秋の朝の空気が室内の温気と入れ替わってゆく。ようやく季節が変わり、秋になったらしい。ベランダの朝顔は数える気にならないほどたくさん咲き続けているが、枯れ葉が増えてきた。松葉ボタンはさすがに終わりらしい。葉の緑も色あせてきた。ニラは少しずつ花から実へ変わりつつあり、これで種が取れるだろう。

 

 昼間はとにかく、夜が涼しくなれば眠りも深くなる。よく眠れれば猛暑の夏のダメージを回復できるだろう。

 

 能登の水害は自然の非情さを見せていて、人の営みなど歯牙にもかけない。しかしその非情なものをもたらしている要因に、人の営みの影響があることも事実なのだ。季節のサイクルを狂わせ、災害を甚大化させている。

 

 災害の映像を見ていると、知っている場所であることが多い。能登など、学生時代に初めて訪ねて以来、何度行ったかわからないほどであり、金沢に仕事で暮らした時代やリタイア後も年に何度も訪れている場所だ。なじみがありすぎるほどの場所なので、その災害が他人事には思えない。過疎化が一気に進む懸念もあるらしいが、能登は海と里山の宝庫である。気を取り直して、早い復旧をされるようにいのりたい。

 

 今日、立憲民主党の党首が決まる。野田氏か枝野氏どちらかになるだろうという。泉氏が党首だった時代はなんだったのだろうと思う。若手が力を持ち得ない党は、若手に力がないからか、それともその若手の足を引っ張る者たちが多い党なのか。老化した党だから同じ名前が再びリーダーとなるのだろう。

2024年9月22日 (日)

『おおかみこどもの雨と雪』

 『おおかみこどもの雨と雪』は押田守監督の2012年のアニメ映画。雨と雪、というのは、おおかみおとこ(大沢たかお)と花(宮崎あおい)という女性のあいだに生まれた二人の子供の名前であり、雪が姉、雨が弟である。まだ雨が乳飲み子のときに、おおかみおとこは死んでしまい、母親の花は女手一人で子供を育て上げていく。子供たちはときに狼の姿を現したりするので、都会での暮らしはできない状態となり、不便な山裾の過疎集落に移り住むことになる。そこでの暮らしと、子供たちの成長が描かれていく。

 

 不思議な物語でもあるのだが、そういうこともあると素直に受け入れれば、ふたりの子供の成長はそのまま母親の成長でもあり、そういう物語としてさまざまな出来事に感情移入していく映画となっている。成長した娘の雪(黒木華)が母を語る、という仕立てになっている。好い映画だった。

 

 狼と人間、そして狼男については、日本にもたくさんの民話などが残されているし、物語も作られている。『もののけ姫』などもその系譜と言って良い。私は小学生の時だったかに、民話集だったか、誰か作家の創作だったかで、短い物語を読んだことがある。どんな物語だったのか、誰の作品だったのか、どんな題名だったかもまったく思い出せないのだが、白い着物を着た少女と狼の群れが雪の積もった冬の月夜の山村にあらわれるという映像だけが鮮烈に記憶されている。『もののけ姫』を見た時にそれを連想した。

 

 半村良の『石の血脈』、平井和正のウルフガイシリーズなどもそういう系譜の物語であり、その中に人間と狼との関わりについていろいろ紹介されている。

前よりもわかった

 ずいぶん久しぶりに映画『マトリックス』を見た。初めて見た時にはよくわかっていなかったことが、今回見て前よりもわかった気がした。仮想現実というものが、どんどんリアルになりつつあるいま、この映画がしめしていたものがどれほど先見性に満ちていたかを改めて感じさせられた。

 

 人間は五感で得た情報を脳に送り、脳がそれを元に現実を認識している。その情報を五感からではなく脳に送り込んで、脳がそれを五感からのものと区別できない時、脳はそれを現実だと思ってしまうかどうか。それについてはSFの名作がたくさんあって、私はたしかスタニスラフ・レムの作品で考えさせられたことがある。唯物論と唯心論または観念論との論争も、そういうことをとことん突き詰めたものといえる。

 

 現実は本当にあるのか。脳がただ夢見ているだけではないのか。そんなことを考えても、以前はただの妄想のように感じられたものだが、いま仮想現実がますますリアルになりつつあることを思うと、だんだんその境界が不分明になっていく気がする。AIの現実認識とは、そういう与えられた情報を元に現実を把握しているのであって、現実を生きているはずの人間が、AIにお伺いを立てている図式など、倒錯そのものだが、倒錯が倒錯とも言えない時が来ないとはいえない恐ろしさを感じる。

 

 引き続き『マトリックス』シリーズを見ていくことにする。全部で四作、さらにスピンオフのアニメも一作ある。

今月は

 だいたい月に15冊前後は本を読む。しかし今月は体調不良もあったし、映画やドラマをせっせと見ていたのでたぶん10冊がいいところだろう。これだと全然読んでいない気になる。調査によると、三分の二近くの人が月に一冊も本を読まないのだそうだ。読書は趣味であるから、別に楽しみがあるのならかまわないのだが、そこまで本を読まない人の、代わりにどれほどの何かを楽しんでいるのか、それが心配だ。読書は想像したり考えたりすることの出来る楽しみのひとつで、それのほとんどない生活だとしたら、少し寂しいような気がする。

 

 八月から、年内に映画を百本見ると決めて、見たものをメモしてある。現時点で四十本。まあまあのペースである。これなら楽勝だろう。ドラマもずいぶん見た。昨日は広瀬アリス主演のミステリー『完全無罪』全五話を一気見した。中国の歴史ミステリー『繁城の殺人』全12話はついに完結、そこそこ面白かった。『Shurink 精神科医ヨワイ』全三話は精神疾患について興味があるので楽しめた。『虎に翼』は来週が最終週だ。朝ドラをすべて見るのは初めてかもしれない。伊藤沙莉は期待通り、なかなか好い。初めて彼女の演技力に感心して好きになったのは、『ももさんと七人のパパゲーノ』という、NHKの不思議な連続ドラマを見てからだ。もっといろいろ見たけれど忘れた。

2024年9月21日 (土)

訃報

 文芸評論家の福田和也が死んだ。63歳の死はいかにも早い。私の敬愛する江藤淳に見いだされ、決して弟子を持とうとしなかった江藤淳だが、暗黙の了解の元に弟子を自称させていた。私が繰り返し読んでいる『江藤淳コレクション』(ちくま学芸文庫)全四巻を単独で編集しているのも福田和也だ。慶応大学の名誉教授でもあり、保守の論客でもあり、そして超人的な読書量の人だった。評論も何冊か読んでいるが、駄作に対しては歯に衣を着せぬ辛辣な批評をしていた。江藤淳は自死であったが、福田和也は呼吸器不全と報じられているから、病死のようだ。冥福を祈る。

手始めに

 心身ともにだいぶ復調したので、来週あたりどこかへ一泊二日か二泊三日くらいで出かけようかと、半日でいけるような近場の温泉宿を物色してみたが、めぼしい宿が見つからない。予約するならだいぶ先でないと、手頃のところがないようだ。手始めに日帰りでドライブに出かけてみようかと、コースをいくつか考えている。

 

 琵琶湖周遊コース、長良川沿いコースや飛騨川沿いコース、知多半島コース、三国海岸コース、敦賀半島、または常神半島コースなど。まだ足慣らしが不十分なので、木曽街道沿い(馬篭・妻籠・須原・木曽福島宿、木曽義仲館など)や、ヘブンズ園原コースなど、歩き回ることになるコースはすこし早い。涼しくなり始めたら散歩で足慣らしをしようと思う。連休明けに空模様と相談して、魚を手に入れがてらまず知多にでも行こうか。

 

 地図を眺めて楽しんでいる。愛車も待っているだろう。そのあとには北東北へ遠征したいと思っているが、いつになるだろうか。

夜が明ける

 歳のせいか、この頃は五時前に起きることが多い。

 夜明け前。

Dsc_2052

Dsc_2055

 だんだん明るくなっていく。

 それでも涼しいということはなく、すでに蒸し暑い。名古屋の猛暑日は昨日で終わりで、今日の最高気温は34℃の予想というが、今日も猛暑日のような気がする。明日は天気が崩れて雨予報。季節はようやく秋になるらしい。

Dsc_2051

こちらは先日の十五夜。空に上り始めを手撮り。

2024年9月20日 (金)

肝が煎れる

 腹が立つことを「肝が煎れる」という言い方をすることがある。手許の岩波国語辞典を見たら出ていない。重いから最近はめったに開かない広辞苑を見たら、「肝を煎る」となっていた。「肝が煎れる」という使い方が正しいかどうかは確認できなかったが、私はイライラして腹が立った状態のことをそう書いたり言ったりしてきた。

 

 プリンターが紙を送らない。送らなければプリントアウトができない。私はハードコピーしたものを読みながらでなければものが考えられない。ネットニュースやいろいろ情報を取るために頻繁にプリントする。多少コストはかかるが、ずっとそうしてきた。何度も試すと、ときどきはちゃんと送る。スプールをウエットティッシュで拭いてみたが改善されない。殴りつけたくなったが我慢した。そうしていろいろいじっていたら突然普通に紙を送るようになった。

 

 最近、漢字変換が頻繁に英字に変わってしまうようになった。私はカナ漢字変換である。そのカナが急に英字になるから煩わしい。いちいちカナに戻さなければならない。これも肝が煎れるが、まだ解決していない。

裸の王様

 裸の王様の実物を見たかったら、北朝鮮の金正恩を見れば良い。そういえばなるほどと思う人も多いのではないか。

 

 ところで『裸の王様』の王様には、豪華な衣装といわれるものが見えない。しかし見えないのは自分だけかもしれないと思っている。大人たちは、みなが褒めそやすその豪華な衣装が自分には見えないが、自分だけが見えないのかもしれないと思って、見えているようなふりをする。子供はそういう複雑な自意識がないから、素直に見えないものを見えないということができる。

 

 ところで金正恩は自分が裸だという意識があるのだろうか。本気で豪華な衣装をまとっていると信じているのかいないのか。王様は豪華な衣装を着ておられます、と持ち上げる周りの面々のことばを信じて見せないと、身の危険があるのはまちがいがない。自分が裸だ、などというのはもってのほかだし、思ってもいけない。ありもしない豪華な衣装を疑えば、すぐに別の裸の王様にすげ替えられるだろう。

 

 北朝鮮人民はそんな豪華な衣装などありもしないことをわかっているから、狂気のように豪華な衣装を褒めそやし、力一杯拍手し、感涙にむせんで見せなければならない。そうでないと殺されてしまう。熱狂的度合いが激しいほど裸であることの証明になっている。では子供はどうか。子供は正直にあるがまま見てしまうことはわかっているから、とことん幼少期から見えないものを見えると思い込ませるための教育を施しているであろう。かくして『王様は裸だ』という子供は北朝鮮には存在しない。何しろ彼らには豪華な衣装が見えているのである。いまに北朝鮮の全国民に見え出すだろう。

 人間にはありもしないものが見えてしまうという特殊能力がある。

『日の名残り』

 ノーベル賞作家、カズオ・イシグロの同名小説を原作とした名作映画『日の名残り』を見た。ずいぶん前に録画してあったのに見そびれていたものだ。万全の心身の状態でじっくり見たいと思っていたので後回しになっていた。期待通りの素晴らしい映画であった。

 

 第二次世界大戦後を起点にして、第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間の期間のイギリスの貴族の邸宅での日々が回想されながら、物語は淡々と進行していく。大きな山場というものもない。しかしこの時代のヨーロッパの情勢はナチスの擡頭もあって激動の中にあった。この時期のヨーロッパについての多少の知識がないと、この物語の背景の奥深さが見えにくいかもしれない。邸宅の主である貴族はドイツとの融和で平和を模索し、邸宅には各国の要人が次々に訪れる。その邸宅をとり仕切る名執事(アンソニー・ホプキンス)が主人公である。

 

 このような淡々とした物語と、感情を表に表さない仕事を天職とする人物を演じるのがアンソニー・ホプキンス以外であったなら、たぶん映画は成功しなかっただろうと思う。抑えに抑えた感情を無表情のなかに見せながら、それを見る側にどのような感情が内面で動いているのかを想像させる、などというのは至難の技である。

 

 第二次世界大戦後、主の貴族はドイツ協力者として断罪され、失意のうちに没落する。そのあとに邸宅は破壊されかかったが、以前この邸宅を訪れたことのあるアメリカの富豪で政治家でもある男(クリストファー・リーブ)が購入し、執事もそのまま残ることになる。そして物語の後半は、以前邸宅で働いていた女性(エマ・トンプソン)を再び招請しようと、彼女の暮らす町へ訪ねていく車での旅である。イギリスの風景の美しさ、とくに夕景の美しさは心にしみる。

 

 ラストの雨中のバスでの別れのシーンでの、エマ・トンプソンの切ない表情は忘れられない名シーンと言って好い。『駅 Station』の冒頭部、いしだあゆみの別れのシーンの切なさの名演を思い出した。ところでクリストファー・リーブといえば最初の『スーパーマン』シリーズのスーパーマン役だったが、私はSF作家のリチャード・マシスンの小説を原作とした『ある日どこかで』という映画の主役を演じた時のクリストファー・リーブが忘れがたい。あまり器用な役者ではないが、それ以来好きになってしまった。その後落馬事故で下半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされて役者を続けられなくなったのは残念なことであった。

2024年9月19日 (木)

『燃えよ剣(2021)』

 司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』を映画化した『燃えよ剣(2021)』を見た。(2021)とあるのは、じつは一度映画化されているからだ。主人公は新撰組の土方歳三。最初の映画では栗塚旭が演じていて、これは昔ビデオを借りて見た記憶がある。今回は岡田准一が演じていて、迫力満点の殺陣を見せてくれている。妙なひねりのない、時代劇らしい時代劇に仕上がっていて、時代劇好きの私としては満足であった。近藤勇は鈴木亮平が演じている。

 

 この『燃えよ剣』をはじめとして、司馬遼太郎の時代小説を濫読していた時代があるが、次第に歴史ドキュメント風に変わっていったので、そのころ並行して読んでいた池波正太郎に移っていき、しばらく司馬遼太郎と離れていた。また読み始めたのは、『空海の風景』や『翔ぶが如く』あたりからだろうか。『街道をゆく』全43巻をすべて揃えて完読していることは前にも書いた。この『燃えよ剣』も、五十を過ぎてから再読した。新撰組にはいささか思い入れがあり、清河八郎や芹沢鴨などがいつも気になる人物として念頭にある。

スパイスチェック

 三十代の終わり頃、美味しいカレーを作ってみたいと思い、たまたま新書版のホルトハウス房子さんという方のカレーの本を買った。本格的なビーフカレー、チキンカレー、エビカレーなどのレシピやスパイスの知識が書かれていた。それを機にスパイスを買いそろえた。当時のスーパーでもそこそこの種類を揃えることができた。出来合のルーのどろりとしたものではなく、野菜だけのわずかなとろみのカレーである。私なりに美味しいと思うものができるようになったし、子供たちにもまあまあ好評だったが、両親にはあまり好まれなかった。スパイスになれていないせいだろう。

 

 さすがに最近は面倒なので、本格的なものはめったにつくらず、市販のルーを使う。ただしルーはバーモントカレーである。野菜や肉を炒めたりする時にスパイスをいろいろ使うので、個性の強いカレールーよりは、バーモントカレーの方が多種類のスパイスとけんかしないのだ。そのスパイスを見ていたら賞味期限切れのものがたくさんある。多少の賞味期限切れは気にしないが、さすがにこれは、と思うものは捨てることにした。最近はなくなったと思って買ってきたら、それはまだ残っていて、ないのは別のものだったりして、がっかりしたりする。

 

 中華のスパイスや調味料もいくつか使うので、それもチェックした。いまお気に入りは花椒(ホアジャン)で、小さなペッパーミルに入れておいてその都度挽いて使う。麻婆豆腐にこれをたっぷりかけるとインスタントでもそれなりの辛みがでて美味い。魚のバター焼きには軽く塩をしたあと、五香粉というスパイスをふってから調理するとただ焼くよりもずっと美味しい。ただ、これも独り暮らしだとそれほど使うものではないから、あっという間に古くなってしまう。まあスパイスというのはそういうものなのだとあきらめてはいるが、そのチェックがおろそかになっていたのは自分の衰えだと感じているところだ。

 

 美味しいものを食べたければ、そういうところをおろそかにしてはいけないと思う。いうほどつくっていないから古くなってしまうのだけれど。

2024年9月18日 (水)

たいへん良くなりました

 本日の検診結果について、「血液検査、検尿ともたいへん良好でした」と医師から告げられた。耐性のある菌に効果のある新しい抗生物質を二種類使ってみたら、それがたいへん良く効いたようだという。もしそれでも改善が見られなければ入院して徹底的に退治することも考えていたのだという。結果が良くて医師もうれしそうであった。

 

 これで当分大丈夫だと思うが、もし少しでもおかしいと思ったら、救急外来でもかまわないから、すぐに検査に来るように言われた。今回のように早い目に対処すると効果が出やすいので体への負担も少なくて済むとのこと。菌が増殖すればするほど退治しにくくなるのは当然だ。思えば八月頃から心身ともになんとなく不調だったのは、このせいだったのかもしれない。いまはその心身がだいぶクリアになった。これからは、いつもの定期検診のサイクル(だいたい70日)で通えば良い。もし耐性菌が完全に消えていれば、泌尿器科の定期検診そのものが必要なくなるかもしれないが、いまはそれは期待しすぎか。ずいぶん待たされたので、今まさに帰宅してすぐにこのブログを書いている。

 

 これからビールを買いに行き、ささやかな祝杯を挙げることにする。美味しい地酒はすでに用意してあるのだ。

無限ループを脱する

 昨夕、病院から電話をもらったので、朝一番で妻の病院に行って書き込んでもらった書類を受け取る。責任者がいれば少し待ってもらって、その日に渡せたのだが、あいにく会合があって不在だったため、二度手間になり申し訳なかったと謝られる。たぶん二度、足を運ぶことになるだろうと覚悟していたのでとくに腹は立たない。

 

 隣町の病院から戻って、すぐに市役所に行く。昨日私と応対した窓口の女性が走って私の前に立った。私を敬遠して別の人に任せると思っていたから意外だった。経緯を説明し、用意した書類など必要なものを提出した。一つ一つチェックし、私が私であることを念入りに確認してにっこり笑い、「けっこうです。すぐ発行手続きをしてきます。昨日は失礼しました」と頭を下げられてこちらが恐縮してしまった。「段取りが狂うと歳のせいかすぐ感情的になってしまう。年齢は言い訳にならないが、こちらこそきつい言い方をして申し訳なかった。」と頭を下げた。なんだか気持ちがすっきりした。心持ちか、彼女もほっとしているようだった。

 

 すぐに発行された妻のマイナカードを受け取る。これで無限ループに見えたものから案外簡単に脱出することができた。無限ループは役所にだけあるのではなく、自分にもあったことに気がついた。

一番遅い猛暑日

 昨日の名古屋の最高気温は34.9℃で猛暑日ではなかった(数字の問題だけで、走り回った身としては猛暑日そのものだったけれど)。一昨日は猛暑日で、観測史上もっとも遅い猛暑日の記録に並んだそうだ。そして・・・今日は間違いなく猛暑日で、一番遅い猛暑日の記録を破ることが確実だそうだ。参ったな。今日も用事で忙しいのだ。週末からは前線が南下して雨模様だそうで、それに伴い、空気が入れ替わって一気に秋になるという。爽やかな秋の空気を楽しめる期間は年々短くなっている。それでもようやく外にフラフラと出かけられる季節がやってくるのはありがたい。

 

 今日午後からは血液検査と検尿で、それで菌の活動がおさまっていることが確認されれば生活を通常モードに戻し、酒もしっかり飲むことができるようになる。知多半島にでもドライブに行って、魚を買って美味い酒を飲みたいものだ。そう思えるというのは体調が戻ったということかと思う。今日も頑張ろう。

2024年9月17日 (火)

大事なことで

 立憲民主党の党首候補たちが農業問題について意見を述べていた。大事なことでちょっと興味をひいた。揚げ足とりでいえば、吉田晴美氏が「日本の農業従事者がたりないのではないかといわれていますが・・・」ということばに首をかしげてしまった。農業従事者は、現にたりない上に高齢化でどんどん減り続けている。「のではないかといわれている」ではなくて、「たりない」のである。こういう言葉遣いには他人事というニュアンスがプンプンしている。

 

 野田氏だったか、「農業公社を設立し、新たな農業従事者の育成を図り・・・」などといっていた。主旨は理解するが「公社」ということばが印象が良くない気がする。いかにもお役所が介入します、といっているようなもので、いままでの農業政策の改悪が懸念されるではないか。別の誰かが、「大規模農業者だけが成り立ち、中小は苦難の中にいて・・・」などといっていた。たしかにその傾向があるのかもしれないが、大規模になるについてはそれなりの努力もし、苦労も乗り越えてきたであろうことを考慮する必要もある。大企業は悪である、というステレオタイプの思考から大規模は悪と思っているらしい。中小農業者の救済を謳っていたが、それが農業そのものの再興に寄与するのかという、根本的なことは考慮されているように聞こえなかった。

 

 農業が採算のある産業として生き残れるために、何を優先すべきか、そのことが日本を守ることである、という根本的な視点を自ら認識し、国民にもきちんと伝えてほしいものだ。たまたま令和米騒動という、マスコミが創り出したから騒ぎをきっかけに、話題を引こうというだけの農業政策提言でないことを期待したいところだ。

お役所の無限ループ

 妻のマイナンバーカードができたので、とりに来るようにという案内が来た。市役所まで徒歩15分、今日は曇りのはずがカンカン照りである。ようやくついた市役所は効き過ぎくらいに冷房が効いている。

 

 窓口に案内のはがきを提出したら、代理人の場合に必要な書類が足らないという。本人確認をするには本人、または本人の写真とそれが本人であることを証明する書類がいるのだという。本人が来ることができない故の代理人である。本人の写真は私の携帯に入っているが、それが妻の写真だと証明できないからだめだという。写真を添付した書類を病院にもらってこいというのだ。前回詳しく聞いた時にはそんな話はなかったので、最近トラブルがあるから厳しくなったのかと訊いたら、前からそうだという。途中から頭が熱くなったので、ことばが少しきつくなっていった。パワハラのお年寄りに見えたかもしれない。役所のお姉さんはいつものことで馴れているのであろう、木で鼻をくくったような「できません」の繰り返しである。

 

 じつはこういう場合の簡便な方法があるのだそうだが、それを尋ねるのは別の課だと言われる。電話で問い合わせてくれと言ったら、本人が行ってくださいと譲らない。仕方がないから別の階のその部署へ行く。すると、そのためには本人の写真を添付した別の申請をしなければならないのだそうで、それが交付されるのに、県の許可を受ける必要があるので二ヶ月かかるそうだ。みんなわかっておちょくっているのだろうか。別に一日を争っているわけではないが、とにかくしたくもないことをしているのに、悪気はない(私もバカではないから、むこうの理屈がわからないわけではないところもあるのである)のだろうが、できないようにできないように邪魔をされている心地がした。

 

 午後、病院へその書類を作成してもらいに行くつもりだ。たぶん、その日にできずにまた日をあらためてとりに行くことになるのであろう。うんざりである。また病院へ行き、また市役所に行って、また何かがたらないと言われそうだ。役所の無限ループ恐るべし。

『はい、泳げません』

 『はい、泳げません』は2022年の日本映画。綾瀬はるかが出るので、泳げないのは綾瀬はるかが演じる人物かと思ったら、彼女は水泳教室の先生であった。泳げないのは四十過ぎの大学教授の男(長谷川博己)で、水に対して二重のトラウマを抱え、顔を水につけることさえ恐怖する少し異常な水恐怖症なのである。なぜそうなったのか、そうしてそんな男がどうして突然水泳教室に通うようになったのか、それが少しずつ明らかになっていく。

 

 題名から想像される通り、少しコミカルな展開から始まっていくのだが、じつは案外に深刻な背景があり、泳ぐことによって、もがきながらそのトラウマを乗り越えていく様子を見ているうちに、挫折すれば頑張れ、くじけるな、と思い、綾瀬はるかの励ましにうっとりしたりして、思いのほかに真剣に最後まで見てしまった。

 

 男の別れた元妻を私の好みの麻生久美子が演じている。期待通り。水泳教室の生徒として、高齢女性たちが四人ほど好い演技をしていて、その一人が伊佐山ひろ子であったのが懐かしい。最近時々見る。

2024年9月16日 (月)

トランプ支持者じゃないか?

 トランプのゴルフ場で、銃を持った男が暗殺未遂で逮捕されたという。

 

 トランプは、前回の銃撃事件でずいぶんと支持を獲得したように見える。ところがその効果もだんだん低下して、先日のハリスとの公開討論では劣勢になったように見える。トランプの熱烈な支持者たちは気が気ではないのではないか。

 

 そこで再び暗殺未遂でも起きればまた支持が復活する・・・と考える人間もいるだろう。今回逮捕された男は、まさか共和党支持、トランプ支持者だったりしないよな。ちょっとそう思った人もいるのではないか。私もちょっとそう思ってしまった。もちろん事実を何も知らないので、そんなはずはないと思う。全くの冗談で、デマを拡散する意図は全くないから念のため。圧倒的に優勢ならともかく、いささか分が悪そうにも見えるトランプをいま暗殺することにどんなメリットがあるのか、私にはよくわからないのだ。まあ暗殺を企てるような人間のやることはたいてい理解不能だが。

 後で報じられたニュースによれば、この逮捕された男は何かの計算のできるような人物ではなくて、思い込みの極端なほぼ狂人であるらしい。そういう人間は百万人に一人だとしても、まだまだあらわれるということだ。

 そういえば、スティーブン・キングの『デッド・ゾーン』という大統領候補暗殺がテーマの小説があった。大好きなクリストファー・ウォーケンが主役の映画にもなった。その動機は主人公にしかわからないのである。だから他人には狂人に見えただろう。もちろん小説の読者や映画の観客にはわかるけど。

魚を食べる

 夏バテで、どうしても麺類やパンなどの簡単に作れるものを食べることが多くなっていた。米騒動などという空騒ぎのおかげで、やはり体力をつけるには米をしっかり食べなければ、と思い直した。一度に三合炊き、すぐ食べないものは冷まして冷凍する。いつでもご飯がある。料理が面倒なら梅干しだけでも食べられる。

 

 スーパーのサンマがまだ貧弱であるが、いつでも手頃に買えるようになってありがたい。鯖サンドを久しぶりに食べた。小ぶりの冷凍塩鯖だと、ちょうどいい大きさで、しかも安い。魚が好きなのに、あまりに値段が高いので肉を食べてばかりいた。鶏肉を食べることが増えた。安いからだ。ところが肉がどんどん値上がりしている。これなら魚でも好いではないかと、うかつなことにようやく気がついた。

 

 魚を敬遠していたのは値段だけではなく、焼き網で焼く時に換気扇が追いつかず、部屋中にけむりが回って臭いがこもる。ガスレンジのオーブンは、煙は出ないがあとで洗うのが面倒だ。切り身の煮魚はそれほど好きではない。イワシや小ぶりの鯛などを食べることがあるくらいだ。できれば新鮮なものを自分で捌いて食べたいが、夏は、はらわたの処理が面倒だ。もともと食べるために釣りをしていたから魚を捌くことはできなくはないが、そのための小出刃も長いあいだ研がないままだ。

 

 鯖やサンマを食べたのをきっかけに、多少の値段は目をつぶってもっと魚を食べようと思った。オーブンを洗うのは面倒だと考えるのではなく、すぐ洗えば気持ちよく使える。そう思ったら、はやく体調を万全にして、知多の魚広場に魚を買い出しに行きたくなった。メバルやアイナメなんかを久しぶりに食べたいなあ。

18102023-7

こんな鯛なら最高だ。

微熱

 一昨日の晩、眠れなくて夜明けまで起きていたら、寝不足が祟ったのであろうか、夜になっで微熱を発する。体温が下がると冷たすぎるアイスノン枕が、気持ちが好い。昨晩は早めに寝たので夜中に目覚めたが、じっとしていたらなんとか再び眠る。朝起きて先ほど測った体温は平熱に戻っていた。

 

 息子の嫁さんは紅茶が好きで、勧められたアールグレイはとても美味しい。切れそうになると送ってくれるので、いまのところ自分で買うことはない。先月末に夫婦で来てくれた時には、上等な茶葉をみやげにもってきてくれた。だから耐熱ガラスのティーポットを購入した。深い香りでまことに美味しい。

 

 水分摂取を医師に厳命されているので、紅茶、コーヒー、お茶、水、牛乳など、毎日せっせと飲んでいる。

150403-54

もうちょっとなんだけどなあ。

2024年9月15日 (日)

『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』

 ニコラス・ケイジ主演の2018年ベルギー映画『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』を見た。とにかくすさまじい映画で、見終わったらどっと疲れた。カルト教団やドラッグの世界が輻輳して、麻薬に侵された精神状態に引きずり込もうとしているかのような映画である。映像がサイケデリックで、コミック的な絵もどんどん挿入され、現実離れしていく。暴力も限度を超えていて、神経の細い私にとってはギリギリであった。

 

 その過激さがたいへん評価された映画だとのことである。とにかくニコラス・ケイジがぶっ飛んでいて、ほんとにこの人、どんな映画でも出演するし、出演するなら全力投球だから、三流映画でも見応えのあるものにしてしまう。マンディはカルト教団に惨殺される主人公の恋人の名前。

 

 過激な映画に弱い人は見ない方が好い。

『ミケランジェロ・プロジェクト』

 2014年のアメリカ映画『ミケランジェロ・プロジェクト』を見た。映画を見たのは十日ぶりくらいだ。映画というのは意外に体力と気力を要求する。心身ともにくたびれるもので、まったくくたびれないようなのは、大した映画ではない証拠だと思っている。学生時代など、三本立てのマカロニウエスタンと、二本立てのヤクザ映画の映画館をハシゴした、などというのがいまでは信じられないほどだ。

 

 この『ミケランジェロ・プロジェクト』は、脚本、監督、主演がジョージ・クルーニー、共演がマット・デイモン、ビル・マーレイ、ケイト・ブランシェットなど。第二次世界大戦末期、ナチスが大量の美術品をまずユダヤ人から、そして占領地から収奪していった。戦火に失われることを危惧した主人公(ジョージ・クルーニー)がその保護を願い出るが重視されず、自らその役目を担うことになる。そして集められた七人の男たち、戦時中であり、軍からは相手にされない中、ナチスに押収された美術品の行方を求め、捜索と奪還の作業が始められる。

 

 美術品を保護することと生命とどちらが大切か、という究極の問いが突きつけられる中、仲間がふたり命を失い、成り行きで新たに加わるものもいる。最期にはソ連軍との美術品の争奪にまで発展する。そのギリギリの息詰まるような攻防には、たいへん興奮させられた。見応えのある映画であった。パリの美術館員で、ナチ協力者と見なされた女性(ケイト・ブランシェット)の存在が映画のリアリティを与えている。

 

 ついにはヒトラーは自分の死とともに収奪した美術品をすべて焼却破壊するよう命令を出す。美術品を私物と考えるこのような精神には強い怒りを覚える。ドイツに集められた文化財や芸術品がどれほど失われたことか。それは敦煌で発見された貴重な壁画や文書が、ドイツの持ち帰ったものについてだけが多くが失われたことを知って感じた怒りでもある。では日本はどうか。そのような文化財や芸術品の多くは、あれほどの空襲を受けながら、疎開して失われることが少なかった。日本についてその点は誇りにして良いと思う。

 

 歴史的に価値のあるものをどう考えるのか、そのことの中にその国、その民族の文化度が見える。だから文化大革命で失われた膨大な文物を思うとき、脱力感を伴うむなしさを感じるのだ。その後中国新政府は北京まで持ち出した敦煌文書や美術品をどう保管しているのか、目録すらちゃんとしないまま、紫禁城の地下に朽ち果てつつあるとか、多くがどこかに持ち去られているという噂もあるのだ。

0403515_20240915115701

敦煌莫高窟。

気になっていたのに

 親しくさせてもらっている大阪の兄貴分の人とは、気がついたら三年ほど会っていない。コロナ禍のせいである。コロナが猖獗を極める前に訪ねて以来、電話でのやりとりばかりになっていた。以前は年に二度は訪ねて泊めてもらったりしていたのに不義理なことである。少し前から涼しくなったら会いに行こう、連絡を取ろうと思いながら自分の体調がおかしくなった。

 

 兄貴分の人からは、二三ヶ月に一度電話が来る。来なければこちらから電話を入れる。特に用事はなくて、近況報告のようなものである。兄貴分の人は顔が広いからさまざまな情報が集まり、共通の知人の消息を知ることができる。だから私も知っていることはたいてい話をする。それが三ヶ月連絡がなかったので気になっていたのだ。

 

 体調がだいぶ戻ったので電話した。相変わらずのドスの利いた低い声で応答があったので元気なのかと思ったら、七月末から入院して手術したのだという。一ヶ月ほど前に退院はしたのだが、体力が著しくおちてしまったので、いまはリハビリ専門の病院で筋力回復の訓練をしているそうだ。十年ほど前に大病して、二三年に一度入院したり手術をしてきたが、久しぶりの大手術だったようだ。知らぬこととはいえ申し訳ないことであった。

 

 その兄貴分の人から共通の知人(兄貴分の人よりも年上)の訃報を聞いた。昔のことを思い出して、二人ともしんみりした。入院しているところに慌てて駆けつけるのも今さらなので、退院するという来月に会いに行くことにした。ついでに大阪の友達に会いに行くのも好い。

2024年9月14日 (土)

生きていれば

 生きていれば避けようがない苦難や難問が立ちはだかることがある。些細なものから超難題まで、なんとか乗り切ったからいまがあると、この歳になって思う。乗り切ったのであって、乗り越えたわけではないので疵として残ったものも少なからずある。他の人から見れば何ほどもないことでも自分にとっては難問だったというものはあるものだ。

 

 もともとぐじぐじと考えるたちなので、とにかくとことん考える。そしてこうすればなんとかなる、などと答を見つけ出せることはまずない。答が見つかるくらいなら難問ではない。追い詰められると目をつぶって問題の中へ身を投じる。その時にはなにも考えていない。無というか、空っぽになって臨機応変で行くだけだ。自分がどれほどの人間か試されている。過ぎてみれば、その積み重ねが多少なりとも自分を強くした。

 

 自慢話をしているわけではない。よくまあなんとかなってきたものだという感慨を覚えているだけだ。もうあんな思いはしたくないということがいくつもある。だからもう一度人生をやり直す、なんてまっぴらである。違う道なら楽だなんて信じられない。もっと苦しいかもしれないではないか。

 

 人が何かを成し遂げたら、素直に賞賛したいものだ。おかしな揚げ足とりを見聞きすると、お前はどうなのだ、とつい思う。世の中は揚げ足とり、ヤキモチ焼きがあふれているように見えて情けない気がするが、もともと人間世界とはそういうところなのかもしれない。

はやければ

 はやければ夕方から雨が降るというので、スーパーへ買い出しに行く。トイレ掃除をしてから風呂で汗を流し、今度は風呂掃除をした。体調不良でサボっていたが、ようやくやる気になる。さっぱりした。これから久しぶりに鯖サンドを作ろうと思う。

 

 ベランダの朝顔は枯れ葉が増えてきて秋を感じるが、花はこぶりになりながら、それでも毎日二十から三十も咲き続けている。濃い色の花の割合が増えている。それにしても種がほとんどできないのはどんな加減なのだろう。ニラと松葉ボタンは花だらけである。こちらはたぶん種だらけになると思われる。ほんの少しあれば好いのだけれど。

Dsc_2042

ニラの花。

Dsc_2041

松葉ボタン。繁茂して鉢が見えない。

結果良し

 令和の米騒動、などとマッチポンプが未だにいうけれど、もともとそんなものはなかったのだと思う。未だにいう人間を覚えておいて、二度と耳を傾けない対象のリストに加えておくことにする。

 

 結果的に好かったと思うことが今のところ二つある。一つは農家からの米の買い取り価格が高くなったこと(つまり農家の収入が増えたこと)、そして米の消費量が一時的ながらも増えるであろうということである。どうして米の消費量が増えるのか。米は精米してしまうと味がおちていく。だから精米したものをたくさん抱えていても仕方がないからせっせと食べていくことになる。余分に買い込んだのだから、以前よりは食べる頻度が必ず上がるであろう。

 

 それに、高くなったとはいえ、他の主食、麺類やパンよりも米が高いということはないのである。主婦が炊くのが面倒に思ったりして炊く回数が少なくなり、給食で米を食べる機会も少なくなりと、そういう理由で消費が減っていただけであろうと考えている。それなら米を食べる回数が増えたから家計にずっしりと重くのしかかるなどということのあろうはずがない。かえって安くつくかもしれないほどだ。

 

 デフレ経済脱出にはなるし、農家の収入が増えることは農業を守り食糧自給率を上げるための第一歩でもある。そこまでの事態でもないのに、備蓄米を放出して米を安くしろ、などという人間は目先の大衆迎合者だと思う。もちろん、米の消費が増え、今度は本当に需要が増えてたりなくなったのなら、その時に備蓄米を放出すればよいのである。そうして減反で使わない田んぼのうちの、まだ回復可能なところで米を増産すればよいのである。

2024年9月13日 (金)

三日目

 自分は、現実世界を五感を通して認識し、考え、行動している。ところが、心身が不調になるとその五感と現実世界のあいだに膜のようなものが介在したようになる。その膜のために応答が悪くなり、世界はゆがんで見えにくく、そして感じにくくなる。

 

 今回の体調不良ではそんな感じをとくに強く感じた。発熱して本格的に不調になったのは土曜日からだが、それよりずいぶん前からその不調の膜が自分に張り付いていたような気分で、感覚が鈍いから、結果的に自分の行動も鈍くなる。なんとなく年齢による鈍さのように思えて、諦めの気分ももった。ますます厭世的になる。テレビで熱中症などによる精神的な不調について症状を説明していたがなるほどと思ったものだ。

 

 水曜日に検診を受け、本格治療が始まり、今日で三日目。時々微熱が出たりしたが、それもなくなった。それ以上に私の心身に張り付いていた膜のようなものが、次第にあるようなないようなものになり、薄れて消えつつあるのを実感している。世界がようやくクリアに見え、感じられている。いままではなんだったのだろうと思うほどである。些細なことなら、しようと思ったことはすぐすることができるようになった。

 

 この夏の猛暑は体だけではなく、体を通して心にもずいぶんと深刻なダメージを与えているらしい。ようやくこころからビールが飲みたいと思うようになっているが、まだ我慢している。

つながらなくなる

 ぼんやりカレンダーを眺めていたら、今日が13日の金曜日であることに気がついた。だからどうということはないが、どうということでもないからたいてい気がつかない。仏滅の三隣亡なんて、いまは気にする人はないし、そもそも知らない方がふつうかもしれない。

 

 ネットが突然つながらなくなることがある。一年ほど前からだが、以前は二三ヶ月に一度、それが月に一度になり、いまは月に二三度になった。ルーターの電源を落としてしばらく置いてからつなぐと元に戻る。ルーターを新しくしてから速度が目に見えて向上したのだが、代わりにこの現象が起こる。大した手間ではないものの煩わしい。最初はプリンターでつながらなくなったので、プリンターとの相性かと思った。しかしいまはたいていニフティを開いていて、そこから何かを開き、さらにまた、というのを立て続けにした時に起こった。ビジー状態になるとルーターが接続を切るらしく思われるが、知識がないからたしかなことはわからない。

 

 マンションの光回線でつないでいるのだが、マンションが古いので共同回線である。本来の光回線の驚異的なスピードは望むべくもない。だからビジーに弱いのであろうと思う。i二年ほど前に個別光回線ができるように業者が設備を入れてくれているが、自宅につなぐには業者に工事費などの料金を払う必要がある。どれほどの経費と手間がかかるのか、案内があった時の資料を失ったのでわからない。昔ポケットルーターにして、旅先にも持参して便利に使っていたが、容量制限があるのでプログラムの更新などでパンク(容量オーバー)すると異常に遅くなり、それに閉口して光回線に戻した。

 

 ホームルーターはいまは容量無制限で、それにするという考えもある。困っている度合いが低いので、費用が必要な新たな手立てを講じるメリットに得心がまだない。もっとトラブルが頻発するようなら手を打とうと思う。

『パイプのけむり』

 このところずっと、寝入って二三時間で目が覚めてしまい眠れなくなる。昨晩もそうして寝床で輾転反側していた。起き出すともう明け方近くまで起きていることになるので、スタンドの灯りをつけて寝床で團伊玖磨の『パイプのけむり』を読み出した。途中でいつの間にか眠っていたが、朝寝坊をしてしまった。自分に遅刻で、遅刻は嫌いだがいまは体調回復に努めている時期であり、ルーチンにはこだわらないことにしている。

 

 文庫版の『パイプのけむり』は作曲家の團伊玖磨のエッセイ集で、1964年(東京オリンピックの年)から雑誌『アサヒグラフ』に連載(毎週)が開始され、シリーズになり、まとまると本になって出版された。私の手許には20冊ある。軽い読み物が多いが、ときにずしりとくるものが混じる。團伊玖磨は生き方に断固たるこだわりがあって、決して軽くないのだ。そこにふれるとときに気持ちが引き締められる。人はこだわりを持つほどの生き方をしなければならないと教えてくれるようなエッセイが好きだ。好いエッセイはたいていそうであり、残してあるものはすべてそうだといえる。

 

 第一冊目の目次には鉛筆でいろいろと薄く印がつけられている。それを懐かしく思いだした。この本を読み始めた頃、まだ世の中はパソコンの黎明期で、ソフトでワープロを使うなどというほどの能力はなく、高価だった専用のワープロ機がようやく普通のサラリーマンにも買えるほどになり、私も大枚をはたいて東芝のRUPOというワープロ機を買った。その頃はまだインクリボンを使うから、その消耗費も高い。

 

 『パイプのけむり』が面白いから、と両親に勧めたけれど、字が小さくて読むのがつらい、といわれた。そこで思いついたのが、自分のキーボードの習熟と両親のために、ワープロで文字を大きくしてプリントすることだった。そのためにどれが両親に面白く読んでもらえるか、どれが読んで好かったと思ってもらえるか、内容を考えて選別し、せっせとワープロに写し取っていったのだ。その選考のあとが目次の印なのである。これを冊子状にして、しばらく続けたから何冊もあった。あれはどうなっただろうか。懐かしい。おかげで文章を読む力も少しは身につき、キーボードもそこそこ使いこなせるようになった。それ以来の仮名漢字変換なのである。わたしのこだわりである。

2024年9月12日 (木)

スタンドライト

 灯りは天井に取り付けられているものだという思いがある。その灯りで部屋中を煌々と照らすのが文明的生活だと思っている。しかしホテルなどではスタンドライトの明かりがメインの部屋がある。海外ではたいていスタンドライトしかない。明るさがたりない気がするが、西洋人はむやみな明るさはムダだと思うようだ。

 

 蛍光灯からLEDに替えた部屋とまだの部屋とがある。蛍光灯の寿命待ちのところがあるのだが、寝室の灯りは棒状四灯式の蛍光灯で、これをLEDに替えるのは専門の工事が必要なようだ。寝室なので部屋中を明るくする必要がないと考えて、ホテルみたいにスタンドライトがないかネットで調べたら、さまざまなものがある。ライトは別で、スタンドだけなら大した出費でもない。択んだのは、一本のスタンドの二灯式でひとつは天井に向けた間接照明、ひとつは下向きのスタンドライトになっている。これなら本も読めるし、てもとのスイッチでそれぞれの消灯もできて楽である。早速手配した。

 

 布団での寝起きをしているが、次第に起き上がるのが大儀になりつつある。いつか簡易式の電動ベッドを置くことになりそうだが、その時もスタンドライトの方がふさわしく感じる。ベッドを考えたのは、部屋の壁面に本箱が立ち並んでいて、転倒防止はしているものの、大きな地震では本も本箱も倒れるものと覚悟している。それならベッドの方がだいぶそれによる傷害の危険が小さいと思うからだ。壁の掛け時計は外れて飛んできそうな気がして先日下におろした。私としては、本に埋もれておだぶつになるのは理想ともいえるが、痛い思いはしたくない。

完璧な人間ではないからまちがいもある

 兵庫県の知事が言い訳のつもりであろう、「自分は完璧な人間ではないからまちがいもあり・・・」などと述べていたのを聞いて、何が言いたいのだろうと思った。自分がまちがいを犯したと認めているのだろうか。どうもそうではなくて、完璧ではないのだからまちがいを犯すのは仕方がないのであって、それをいちいち追求するな、といいたいようである。たしかに完璧な人間などいない。完璧ではないから間違うのは仕方がない。しかしまちがいはまちがいとしてその責任を取るのがこの世の理(ことわり)というものであって、完璧ではないから責任は取らなくていいかの如き言い方はとんでもない論理の飛躍である。詐欺である。こんなことが通用したら、この世は放置されたままの間違いだらけになってしまう。

 

 このひと、ほとんど現実から遊離して、あらぬ彼方に飛んで行ってしまったようで、腹が立つよりあきれ果てるしかない。さすがに売名のために逆張りして彼を擁護する人も、今回はほとんどいないようだ。知事としていかに地位にしがみついても知事の任期が来れば退任しなければならない。それくらいはわかっているだろう。そうでなければ狂人だ。そのあとは・・・政治家として彼はもう終わっている。そしてこのままでいれば、人間として終わっている、と誰もが思い、誰も相手にしなくなる。

賑やかなことで

 選挙がますます人気投票になる傾向があるのは残念なことだが、そういう価値観からしか選べない人も多いらしいから、これも民主主義の宿命か。投票するヒトの意識を高めなければならない、などと声高に言ってみても、そうだ、と賛同するのは意識の高い人だけである。

 

 自民党の総裁選の報道が賑やかで、党員ではない人が何を言おうが考えようが選挙には関与することはできないのだが、それなりに誰がよいのかと考えたりしてしまう。やはり国のあり方に見識を持ち、自分が何をするのか確固たる信念を持ち、人望のある人が善いのは当然として、あの田中真紀子の小泉進次郎批判はいささか不快に感じた。政治家としての彼女がどういうことをしてきたか、という記憶をたどると、よく言うよ、と思う。彼女は林氏がもっとも総裁にふさわしいという。何のことはない、親中国、配慮の姿勢を支持しているようにしか聞こえない。

 

 石破氏は言っていることが明晰で論理的であるから一般の人気があるが、政治家の中での人望がない。トップに立つにはそれを支える人たちを集めなければならない。一人でできることは限られている。小泉氏が軽い、というのはたしかだけれど、それなりの担ぐ人が集められているのかどうかが問題で、本人もそれをちゃんと理解しているようだ。重みと意欲のあるブレインがそろえば善いのだが、人気に頼る人ばかり集まっているなら田中真紀子のいうとおりになってしまう。

 

 役割を与えられて、意外に実力を発揮する人もいれば、見かけ倒しで役割の重みに潰れる人もいる。つまり、なってみなければわからないところもあるわけで、総裁選とその結果、その後、と見ていくことにしよう。

 

 立憲民主党の党首選は野田氏がリードしているように見える。泉代表があまりにもお粗末で党勢をますます衰退させてきたから、再選はあり得ず、枝野氏はあのくちばしの先でピーチクパーチクいう語り口にもうんざり(あの原発事故の時の、知っていながら事実を伝えない嘘八百にも腹が立つ)だから、野田氏のリードは当然に見えるが、この人に私は偏見がある。尖閣国有化に関してのいきさつと、中国胡錦濤との折衝が現在の習近平独裁への道筋を開いた、と考えているからだ。このことは何度も書いたのでいまはやめておく。立憲民主党は、誰が党首になっても旧社会党の凋落の轍を踏むようにしか見えない。批判しか武器がない政治家など、面白いけれども信頼されるわけがない。そういう意味で多少は野田氏にそれを期待してのリードなのだろう。

 

 体調不良で伏せっていたので、もともと乱れがちだった睡眠がさらに乱れてしまった。夜中に目が覚めて眠れなくなってしまう。安眠できにくいのは体調復活に好くないと承知しながら如何ともしがたい。泌尿器に棲みついた菌との戦いは継続中。来週の検診で効果が確認できればよいのだが・・・。医師は今回の発熱を意外に深刻に捉えていて、それで私もこれは大ごとらしいとあらためて感じている。

2024年9月11日 (水)

点滴を受ける

 病院での経緯はほぼ想定通り、医師には「発熱の件は承知しています。場合によって入院処置が必要とも思いましたが、熱が下がったというのは珍しいことです。発熱すれば行くところまで行ってしまうのが普通ですから」といわれる。「とにかく抗生物質で菌をできるだけ減らしましょう」とのことで抗生物質の点滴を一時間弱受けた。少し楽になった気がしたのは横になっていたからか。とにかく病院までのあいだに大汗をかいて、きているものがぬれている。病院の冷房で途中から少し肌寒くなった。

 

 一週間分の抗生物質を処方される。前回、前々回は一種類だったが、今回は二種類だ。ダブル攻撃というところか。一週間後に血液検査も含めて再検査し、その結果でつぎを考えるそうだ。点滴を済ませて薬局で薬を受け取ったらもう五時近い。帰って夕飯の材料を仕込まなければならない。夕方でもとても暑い。帰り道に日陰がないので、歩いて20分の道のりがつらい。

 

 とにかく水分を思い切り摂りなさい、抗生物質で腹が緩くなる可能性もありますが、気にせずどんどん水を飲み、小便が透明になるように努めなさい、といわれている。それならどこへも出かけられない。これからの一週間は引き続き菌との戦いだ。

玄関をパスできるかどうか

 これから泌尿器科の検診のために病院へ出かけるので体温を測ったら、36.9℃と微熱である。到着するまでに体温が上がると、玄関での検温がパスできずに別室へ連れ込まれてコロナ検査をさせられる恐れがある(前回、三年前はコロナ禍の最中の救急外来だったからそうだった)。しかしそれを回避できるかどうか心配しても仕方がない。煩わしいけれど指示に従うだけである。検尿が遅れ、検診が遅れ、帰るのが遅れ、くたびれて体調が再び悪化しないかどうかが心配なだけである。

 

 たぶん抗生物質を処方され、それを飲み続けて来週再び検査して結果を調べ、改善が見られればそれで終わりだが、そうでないともう一度最初から、ということになる。最悪発熱状態で病院に行くたびにまたコロナ検査からということである。いやだなあ。つい悪い方に想像が行ってしまう。

大したものは要らない

 養老孟司の『ヒトはなぜ、ゴキブリを嫌うのか?』(扶桑社新書)という本の帯に「大したものは要らないことを、そろそろ学びましょう。」とある。たしかに一個人として本当に必要なものをはるかに超えて、身の回りにはものがあふれている気がする。そのことについて考えた。

 

 私の場合はあふれているのはとにかく本である。エンターテインメント本は、読んだ尻から処分しているからお気に入りの作家のごく一部と未読の本が数百冊だけであるが、評論、随筆、歴史、思想、古典、文学などの本は、繰り返し読むことを想定しているので増えていくばかりである。頑張っても年にせいぜい二百冊程度の本しか読めないが、以前と違って娯楽本をあまり読まないから減らずに増えるばかりである。

 

 数千冊の本を眺めて、物理的に全部読むのは無理だとため息をついている。「大したものは要らないことを、そろそろ学びましょう。」ということばに、うなだれるばかりである。だが言い分はある。

 

 本には繰り返し読む値打ちのある本がある。こちらが書いてあることを完璧に理解できれば一度読めば好いけれど、何しろざる頭であるから、その何十分の一かが荒いざるの目に引っかかるだけである。何度も読んで次第に全体が見えることもしばしばである。とはいえ、一度目に感激したのに二度三度読むうちにそれ以上のものがくみ取れなくなることもある。ときには時間の無駄だったと思うものもある。それらは本の問題ではなくて、こちらのレベルや好み、興味のあり方の問題である。本当の駄本はこれだけ年季が入るとあまり摑まなくなった。

 

 本当に要るものは数少なくて、それだけあれば十分だが、残念なことにそれは読まなければわからない。そして一度読んだだけではわからないことの方が多いのである。必要なものを見つけるために、必要ではないかもしれないものの山ができてしまうのである。だからこの本の山は、私にとってすべて必要なものなのだ。

Dsc_2037

今朝の夜明け。

Dsc_2038

少し明るくなってきた・・・、じつは露出を少し変えただけ。

今日は午後から病院へ行く。暑すぎないと好いが・・・今日も、そして今週は連日猛暑日予想。

2024年9月10日 (火)

病膏肓

 病気になって治らない状態になることを「病膏肓(やまいこうこう)に入る」という。本当の病なら深刻な事態であるが、この病が「悪癖」という意味で使われることが多い。病にはそういう意味があるのである(辞書にも載っている)。

 

 発熱して伏せっていて、体温が38℃近辺のときはさすがにただじっとしていたが、37.5℃を切る頃になると辺りをキョロキョロし始める。手持ち無沙汰なのである。音楽を聴いてみるとうるさい。ところが本を開くと少し読める。十ページか二十ページ読むとさすがに疲れて本を閉じ、うとうとする。一眠りするとまた違う本を開いて少し読み、また一眠り。気がついたら七八冊の本が横に積まれている。

 

 エンターテインメント本は読めない、というよりもそういう読み方になじまない。森本哲郎や、養老孟司、西部邁(すすむ)、高島俊男、山本七平などの本を読み囓った。読みながらぼんやり書かれていることを考える。考えると疲れるから眠ってしまう。眠るために考えているようなもので、ほとんど何かまとまったものになるわけではないが、意識が働いていることを確認して安心しているようなところがある。

 

 養老孟司の本の帯にあったことばについて、ちょっと考えたことがあるが、これ以上書くのが少ししんどくなったので次回にする。

ほぼ平熱に戻る

 おかげさまでほぼ平熱に戻った。明け方に悪夢を見て目覚めたが、そのままじっとしていたら再び眠りに入る。シーツがじっとりするほど寝汗をかいていたので、下着やパジャマなどとともに洗濯している。

 

 熱が下がったのにフラフラする。からだに力が入らない。今日一日おとなしくして、明日には普通の状態に戻れれば好いのだが、油断すると夜になってまた発熱、という経験もあるのでおとなしくしていることにする。

2024年9月 9日 (月)

微熱程度に

 汗をかいては下着を交換してひたすら安静にしていたら、午後になって少し楽になってきた。体温を測ると37℃あまりの微熱にまで下がっている。このまま平熱まで回復するするために、栄養を補給ながら安静に努めることにする。いろいろ心配いただいてうれしい。

 

 三年程度の周期で起きる持病(慢性前立腺炎)の発熱とほぼ同じ症状と思われる。ただ、いつもよりは症状が軽微なのでありがたい。自分勝手な診断はまずいので水曜日に泌尿器科の検診を待つ。とにかくいまはその検診に病院まで自力で行けるようにならないといけない。

2024年9月 8日 (日)

しばらく休みます

 熱が下がりません。しばらく安静を続けて回復を待ちますので、ブログはしばらく休みます。

体調不良、発熱

 ここ数日、だるい状態が続いていたので、夏バテかと思っていた。昨日にはどうもおかしいぞ、という状態になっていた。風呂に入り、早めに寝たが、夜中になって背中や腰が痛くなり、発熱しているのではないかと思って体温を測ってみたら、なんと37.8℃もある。どちらかというと発熱には弱い方なので、その体温を見てさらに具合が悪くなった。喉が痛いわけではなく、咳もまったく出ない。呼吸器系の疾患ではないようだがわからない。

 

 泌尿器科の慢性疾患が持病で、治療中であり、何年かに一度、過労や睡眠不足などで体調が低下すると、棲みついた耐性菌が暴れ出し、発熱する。たちまち38℃を超えてしまい、排尿痛、排尿困難という状態になる。いまは少し出にくい程度で最悪の状態の手前のようである。前立腺などが腫れて、尿道を塞いでしまうのだ。その痛みとつらさは経験しないとわからない。脂汗を流しながら時間をかけて少しずつ排尿することになる。

 

 昼前にかかりつけの病院の救急外来に電話してみた。排尿困難がひどくなったらすぐ来なさい、まだそこまで至っていないようですね、ということであった。泌尿器科の専門医は名古屋大学からくる医師なので、水曜日の午後しか来ない。じつはその日に診療を予約しているのである。それまで安静にして水分をせっせと取るようにしてみてほしいとのこと。治療は抗生剤をある期間投与することになるが、耐性菌になっているので、以前とは違うものを次々に投与するが、その辺の判断は経過をよく承知している専門医でないとわからないようだ。

 

 アイスノン枕をして、ゆっくり寝て、汗をかき、着替えをして体温を測ったら少し下がっていた。この程度でおさまって、水曜日までもてばありがたいのだが。

知的レベルが低い

 小泉進次郎氏の総裁選出馬の会見で、ある記者から「あなたは知的レベルが低い。それなのに首相を務めることができると思うのかどうか」という質問があったそうで、それが物議を醸している。およそたくさんの人がいる前で、当人に知的レベルが低い、と言ってのけるのは非常識で失礼極まりないから、いろいろ批判があるようだ。非常識であるかどうかといえば、ほとんどの人が「非常識で失礼だ」と考えるだろうが、記者という人たちの多くは、非常識とか失礼とかいう感性を押さえ込まないと成り立たない商売らしいことは、私が長い経験で知らされ続けてきたことで、その是非についてはさまざまに論じられているようなのでそちらに任せる。

 

 問題は、「知的レベルが低いのに」首相が務まると思うかどうか、という質問の中にある罠である。首相が務まるかどうかの質問に、すでに知的レベルが低いことが前提されているのである。務まると答えるしかないのに、そう答えた時点で知的レベルが低いと認めさせる力がある。問題は、知的レベルが低いという事実が、正しいかどうかという次元を超えている。これは事実か否かということが問われるべきで、事実であるなら根拠、その判断基準を示さなければならない。どういう基準の下に知的レベルが低い、と決めつけるのか、それを示さなければならないはずだが、あまりそれが問題視されていないこと、そのことに危惧を覚える。

 

 そもそも印象や感想は人それぞれで、論争になじまない。印象操作と事実か否か、という問題がごちゃ混ぜにされて、どういう基準でそういうことを言うのかという本質を問われないまま騒ぎになっていることに、相変わらずだなあと思って見ている。

2024年9月 7日 (土)

笑えないのは

 むかしはお笑い番組を見て腹の皮がよじれるほど笑い転げたこともあったが、いまはまったく笑えない。笑えないのは、私が笑いに鈍感になったせいだろうか。もちろんそれもあるが、お笑いの芸そのもののレベルが下がったということはないだろうか。コント55号を見て笑い、クレージー・キャッツを見て笑い、ドリフを見て笑った昔が懐かしい。いまはわずかに『笑点』を見て時々笑うくらいだ。

 

 むかしから落語が好きで、何人かの昭和の落語家のCDをときどき聴くことがある。間の取り方の絶妙さ、そして同じ話を何度聞いても笑える芸の深さと楽しさ。いまでもそれなりに面白い落語家はいるが、名跡(みょうせき)が乱れていて、そのことがつい頭に浮かんで素直に楽しめなかったりする。江戸前の落語では正蔵の名跡が私的な所有物みたいになって、正蔵の名を地に落としてしまって以来、芸の重みのようなものが雲散霧消したように見える。関西では、あの、もと三枝とかいう、間が悪くていかにも聞き苦しい男が文枝、などという名跡を継いでいるのを見ると、 いまは名跡と芸とは関係ないのだと思い知らされる。

 

 ときどきは腹を抱えて笑いたいけれど、つい苦虫をかみつぶして鼻先で笑う笑いばかりが浮かんでしまう。笑いは長命のための百薬の長らしいが、これでは長生きできそうもないなあ。

人間性

 人間性というのは、会った瞬間にわかることもあるけれど、しばらく付き合って初めてわかることが多い。

 

 兵庫県知事の人間性らしきものは、報じられているものを見ていると、どうしてこんな人間が知事になってしまったのか、してしまったのかと思うけれど、それまでわからなかったのだろうか。わかっていたけれど、これほどとは思われていなかったということなのだろう。ここまで自己肯定感の強い人は、なかなか自分の行動を振り返って見直す、もしかしてやはりまずかったかなと思う、ということができない人のように見える。

 

 本人に自覚してもらうために、よってたかって問題点を指摘しているが、畏れ入る気配はない。こういう人は時々いて、ときに有能だったりする。その精神の強靱さ(鈍感さ)にはこちらが畏れ入る。今さら引っ込みもつかないし、下手に弱みを見せると損だと計算しているのだろうか。鈍感さが強さであるかのような世界は生きにくいなあ。

とことんだらける

 いまでも十分だらけているのだが、それでも長く続いた引きこもり生活に、心身ともになんとなくくたびれていて、その疲れがとれないで、さらに蓄積しつつあるような気がしている。中途半端な焦りがよくないのではないか。だから、もうこれ以上だらけてはいられない、と思うまでとことんだらけてみようと思う。さいわいそれができる。ますます泥沼にはまるかもしれないが、自分の復元力に期待して。

2024年9月 6日 (金)

もう少しましだと思っていたのに

 世界は欲望で動いているらしい。そこに多少の理念が関わっていると信じたいし、それによって少しは良い方向に向かうものと希望していたが、いまはますます欲望がむき出しになってきて、理念など吹き飛んで行きつつある。損得である、金である。

 

 誰だって損はしたくないし、少しでも余分に手に入れたい。損をしたくないから人より多く取る。自分が欲張りだなんて少しも思わない。取られたくないから自分のものにしたという。行き着く先はしれているけれど、どうしようもない。いまに起こるべくして何かが起こる気がする。

 

*理念・・・それによって理性の働きが統一されるところの概念
**事件は「起きる」のか、「起こる」のか。「起こる」、であった。

戦争に当てる光

 戦争というものにさまざまな方向から光を当てて、その原因や経緯、その結果などについて少しでも立体的に把握したいという思いがある。そうして知ったから何ができるのか。何もできはしないが、何も知らずにいるよりは知っている方がいいと信じている。

 

 高島俊男『ことばと文字と文章と』という本の後半は、角田房子の『責任 ラバウルの将軍今村均』、『閔妃暗殺』の二冊を元に太平洋戦争についての考察がなされている。以前このブログでも取り上げたけれど、戦犯というものについていろいろ思うところもあり、それを高島俊男が補完してくれた。人間が運命に翻弄され、殺されたり助かったりする。善悪とは無関係に、である。それが戦争というもので、世の中というのはそもそもそういうもので、戦争はその極端な状況がゴロゴロしているといえるだろうか。ウクライナを見ているとそう思う。

 

 日清戦争は朝鮮をめぐっての日本の意図的な進出がきっかけになっていて、仕掛けたのは日本だと言われても仕方がない。その勝利の結果、中国から巨大な権益を得たが、それを覆したのはロシアをはじめとした列強であった。それを見て朝鮮王朝はロシアになびいた。朝鮮王朝を動かしていたのは王ではなく閔妃だったから、日本はその閔妃を排除した。暗殺どころではなく、公然と殺したけれど、それが知られないと暗殺者たちは考えたらしい。関連者数百名、主に働いた人物たちは、起訴されたが全員無罪で、のちみな要職に就いて余生を全うしている。『閔妃暗殺』は読みたいと思いながら未読の本である。

 

 戦後、日本は変わった。よくもこれほど変われると思われるほど変わった。しかし表は変わっても中身は変わっておらず、いうことがただ反対になっただけであると、その時代を知る人はいう。そのことは父や母にも聞かされたし、さまざまな人の本を読んで頭ではわかっている。

 

 国体ということばの意味がよくわからない。もちろん国民体育大会のことではなく、「国体の護持」というときの国体である。それが護持されるなら降伏を受け入れるとしたらしいが、無条件降伏ではなかったのか。護持された国体とは何か。天皇のことか。いろいろ書かれたものを読んで、それなりに理屈がついているけれど、ざる頭は理解できないでいる。皇室というものについてもいろいろ思うけれど、いまは皇室の人たちほど人権を無視されている人たちはいないという印象だけを強く持っている。

不満居士

 昨晩、先日の秋田県大曲の花火大会の録画を見た。リアルタイムで見ないのは、アナウンサーやゲストなどの長々としたお話を聞く気がないからだ。それを飛ばしながら花火だけ見れば好い。マンションなので、思い切り大音量で聞くわけにはいかないからヘッドホンで聴く。がっかりだった。重低音がカットされていて抑制された音量では迫力なし。お話の音量の方が大きいくらいのお粗末。クリアで高精細の花火の映像は、臨場感があるはずなのに、花火全体を映そうとするあまりに遠目の小さな花火の映像ばかり。つまり、遠い花火を見ている状態なのだ。ごくたまに画面いっぱいに映すとさすがに迫力満点だが、それはほんのわずかであった。現地に行ってみたいけれどそれも叶わないからせめてテレビ中継で、という人にとって、残念なことであったと思う。花火を楽しむ、ということがどういうことか、番組プロデューサーはわかっていないのではないか。おまけに花火大会の途中で番組は終了。たいてい花火大会の最後に盛大に打ち上げる大玉の乱れ打ちがあったのではないかと想像すると、なんだこれは、である。いままでの花火中継で最低ではなかったか。

 

 そういうわけで昨晩のニュースを見ていないので、五時からの朝のニュースを見た。NHKの冒頭は、日向灘沖地震に発した東南海地震警戒の顛末である。早朝のニュースなら、昨日あった出来事を報じるものだろう。それがそうでないものを延々と報じている。他の局に変えたらちゃんと三面記事的ニュースを報じていた。それは好いのだが、殺人事件の取材に、近所の人へのインタビュー、「こわいですねえ」「このあたりでこんなことが起こると思いませんでした」を聞かされる。こんなインタビューをわざわざ報じる意味があるのか。おまけにすぐCMの猛攻である。

 

 朝から腹を立てていても仕方がないが、もう少しまじめにやってくれと思う。

 

 そういえば、たまたま見た昨日の昼のバラエティニュースで、米がないとかあるとかいう話を取り上げていて、スーパーの店長が「自分の三十年の経験で、こんなに米が売れるのは初めてです。今までになかったことで、異常です。通常の入荷は続いているし、これから新米が続々と入ることが決まっているので慌てて買う必要はありません。今はとくに高値になってしまっていますが、次第に価格も落ち着いてくるでしょう」と説明していた。それに対して恵俊彰が「でも現にいま店頭に米がなくて、買いたい人が買えないのは事実でしょう」といっていた。何を聴いておるのだ、この男は。だからマッチポンプだというのだ。

 流通業者や生産者は米があることを知っている。たまたま需要が集中していて供給が滞っているだけであることを知っている。そしてこれから新米が次々に供給されることもわかっている。マスコミだって取材しているから知っている。しかし、現に店頭にない、この店もないしあの店もないではないか、「朝にはあった」といっても「今ないではないか」と言い立てて庶民の不安をあおっている。こうして余分な米を買い込んだ人たちは、高い米を買わされ、米びつに入りきらない米を抱えていつまでも前の年の米を食べさせられるのだ。農家の米の買い取り価格が上昇している、ということだけが救いか。農家だけ収入を上げられないのはおかしいのだ。農家が土地持ちであることへの焼き餅は、いま地方の地価が下がっているからもう意味がないのだ。農政やJAについても思うことはあるが、詳しく知らないことなので、今のところ語る資格はないと思っている。

2024年9月 5日 (木)

ことばと文字

 『ことばと文字と文章と』(連合出版)という本をようやく読み終えた。これは高島俊男『お言葉ですが・・・』シリーズの別巻第四巻にあたる。最初の三分の一が表題とおなじ、ことばと文字と文章に関するもので、中間に富永仲基(とみながなかもと)を取り上げながら平田篤胤の国学を批判的に論じている。平田篤胤の国学は、戦前の神国日本の基調とされたもので、天皇が神になった原点がここにあるともいえる。見方によってはゆがんだ日本の歴史の創作者とでもいおうか。それに続いてラバウルの戦犯裁判、そして閔妃暗殺、昭和十年代の外地の国語教育について調べたことをまとめて、それに自分の意見を添えている。どれも非常に興味深いものであった。

 

 戦犯裁判や閔妃暗殺以降については別に回をあらためるとして、ことばと文字については、たまたま並行して読んでいる魯迅文集の中に、彼が一般大衆(つまり知識人ではなく庶民)に向けて語ったことばと文字に関する講演を元にした『門外文談』という文章が、私の中では響き合うように感じて面白かった。まずことばがあり、文字ができた。しかし日本に文字ができる前に中国から文字が入ったために、日本ではついにオリジナルな文字は作られず、漢字が日本の文字とされた。ひらがなやカタカナはオリジナルというよりも漢字の表音化、簡略化である。

 

 漢字が知識階級のもので、文字が大衆化しにくかったのは、漢字の難しさにある。同時に知識人の特権階級化にも寄与した。明治以降漢字をなくすか簡略化する方策が試みられ、中国では漢字が意味を失って簡体字になってしまい、日本でも新漢字になって、もともとの意味と漢字が即応しなくなっている。もし簡略化するにしても、もう少し丁寧に本来の意味を考慮したら善かったものをあまりにもお粗末な簡略化だったことによる問題点を、高島俊男は繰り返し批判している。それは旧漢字擁護派のようにとられそうだが、決してそうではない。

 

 たぶん魯迅も、漢字の簡略化には反対しなかっただろうが、いまの中国の簡体字を見たらびっくり仰天して、なんだこれは、と嘆くだろう。中国の古典の本を北京の王府井や上海の書店で何冊か買って帰っていまも何冊か棚にある。むかしは中国の本はとても安かった。それはもちろんみな簡体字で書いてあるのでほとんど読めない。日本で出版された旧漢字(本字)の同じ本と比べて楽しんだりした。しかし、簡体字しか知らない若い中国人は古い文字で書かれた古典が読めない。それは残念なことだろう。それ以上に韓国の人は、自国の漢字の本または漢字交じりの本が読めないのである。それもどうかという思いがするが、余計なお世話なのであろう。

今年の初サンマ

 昨夕、サンマを買った。二匹で350円あまり、実質一匹200円ほどか。北海道産とあり、これなら思ったより高くない。一匹を昨晩焼き、今朝、もう一匹を焼いて食べた。昨年は二匹しか食べなかったと思う。一匹は買って自宅で焼いて食べた。もう一匹は旅先の食堂で食べた。買ったものは小ぶりで細身であまり脂がなかったが、それなりに美味しかった。旅先のものは脂ののった、これぞサンマというものだった。今年のものは・・・スリムだった。まあこの程度の値段で食べられるなら、あと何回か食べられるな、と思った。

気象予報士

 天気予報を見るのが好きである。バラエティニュース番組の中の、天気予報の部分だけなら全部見たいくらい好きである。もちろんNHKの天気予報はとくによく見る。全国の天気だけでなく、東海地区の天気予報も見る。そんなにいろいろ見たところで、違うことをいうわけではないのだが、好きなのである。気象予報士にはみな好感を持っている。嫌いな人というのが、気象予報士に限って言えば、いないのが不思議である。 天気予報が好きだからであろう。いまはNHKの晴山さんや淵岡さんがとくにお気に入りである。

 

 自分なりに天気の予測をしてみる。私が考えるのに必要な程度の情報は気象予報士が教えてくれる。詳しいほどうれしい。どうして天気の予報が可能なのか、などということもいろいろ教えられてなんとなく納得している。どうしてあたらなかったのか、などという後知恵の説明も、納得するから外れても非難する気が起きない。それよりも旅に出た時の天気が、良い方に外れることが多かったりするととてもうれしい。自分の念力を密かに信じたりする。

 

 天気予報が好きである。天気こそ自然であるからだろう。人間社会のいやな部分がそこにはない。

2024年9月 4日 (水)

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

 NHKの『ザ・カバーズ』という音楽番組があって、たまに見る。先日は好きな「ちあきなおみ」だったので、録画しておいて今日見た。プロの歌手はさすがにプロだな、などあたりまえのことを心底感心しながら番組を堪能した。この番組の案内役がリリー・フランキーで、そのリリー・フランキーの自伝的な小説を映画化したのが、前から見たかった『東京タワー オカンと僕と、時々、オトン』(2007年)である。

 

 日本アカデミー賞を総なめにしたこの映画は評判になっていたが、見そびれたままになっていた。今回見て、たしかに記憶に残るような好い映画だと思った。オカンを樹木希林が、そして若い時を内田也哉子が演じている。あたりまえだけれど、親子だから不思議なほど似ている。オトンは小林薫で、この人はどんな役でもまったく役になりきってしまう。名優といって好い。出演する俳優がみな素晴らしい。脇役やカメオ出演の人たちが、この映画をより一層盛り上げているのがうれしい。ボクはオダギリジョーである。

 

 見終わったあと、この映画に、そして樹木希林の名演に、一人で拍手した。

ただのスプラッター映画

 本を読むとなると読書三昧、映画を見るとなると立て続けに何本も見たりする。適当にいろいろ楽しむというのが苦手なのだ。この一週間で十数本の映画を見た。といっても七本は『バイオハザード』で、六本はアリス(ミラ・ジョボビッチ)が主役、もう一本は派生もので、これはアリスが出てこないし、ただのスプラッター映画の駄作であった。こんな作品をつくると、たぶん次々につくるつもりの当てが外れたのだろう、さいわいそのあとの作品はないようだ。

 

 そういえば『十三日の金曜日』のシリーズも、第一作は意外な真犯人とともに、それなりの怖さがあったが、二作目以降のジェイソンが主人公のものはただのスプラッター映画になってしまった。見ていて好感の持てない、またはただのバカな被害者から殺されていくという、見ている方がジェイソンに乗り移りかねない展開が、このシリーズの、そしてこういうスプラッター映画の定番であろうか。

 

 昨晩はブラッド・ピット主演の『ブレット・トレイン』というちょっと風変わりなコメディアクション映画(殺し屋の殺し合い)を見た。主な舞台が(日本の)新幹線の中で、京都が終点であった。着くまでにずいぶん時間がかかっていて、夜行の新幹線という奇妙なものだったが、俳優がみな大真面目に演じていて楽しめた。なんとなくフランキー堺の旅行シリーズで、彼が夜行列車の車掌を演じていた映画を思い出したりした。

 

 『殺し屋』(2018年アメリカ)はあの異相の(失礼ながらそのまま猿の惑星の類人猿を演じられる)ロン・パールマンが、盛りを過ぎてやや落ち目の暗殺者という主役を演じていて、珍しい映画だった。初めて彼を見たのは、ショーン・コネリー主演の傑作映画、『薔薇の名前』である。一度見ると忘れられない顔で、嫌いではない。

 

 そのほか『コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命』という日本の映画も見た。新垣結衣がキラキラしていてそれだけで合格。というより、それがなかったらところどころ展開のテンポに乱れがあって、あまりいい印象が残らなかっただろう。なんとかおさまるようにおさまった。

 

 映画を見るのにいささか息切れし始めた。今度は読書だ。

違うものをまとめる

 世の中のことは個別のことで成り立っている。たいてい一度限りで、まったく同じことの繰り返しということはないものだ。人も違う、状況も違う。そしてその出来事についても見る人によって違う受け取り方がされる。だからといって一つ一つを具体的に取り上げていったら切りがないから、大まかにまとめてそれについて自分の考えを語ることになる。それを抽象というのだと思う。

 

 抽象されたものには必ず例外が存在するもので、それでいちいち反論されると抽象するという行為が成り立たない。抽象が成り立たないと、考えるという行為がしにくくなる。さすがにマスコミはその辺がわかっているから、例外は例外として扱っているように見える。しかしネットニュースはその辺がしばしばごちゃ混ぜで、そればかり見ているとあらぬ方向に持って行かれかねない。例外はひとつだけではないから、例外だけ次々にあげられると、それはたしかに事実でもあるから全体がそうであるかのように見えてしまう。

 

 わかりにくいことを書いているが、どうも世の中のきな臭さというものの出発点がそういうものではないかと、ちょっと考えた。

2024年9月 3日 (火)

パワハラ

 パワハラかどうかは時代によって違う。というよりも、そもそもパワハラということばはむかしはなかった。いま思えばあれはパワハラだったなあ、というようなことはある。

 

 私が現役時代、敬愛する上司の一人はいまならパワハラの人だった。怒り出すととことん追求し、長時間叱り続け、果てしがなかったという。「という」というのは、私はそこまでひどい状態を見ていないからだ。反論するとまたいちから叱られる。しかし人にはプライドがあるから反論したいことがあれば反論するものだ。そうすると際限がなくなるが、私の上司になった時は大病をしたあとだったのでその体力が続かず、多少叱責も軽くなっていた。

 

 もちろん私もよく叱られた。しかし私は反論しないのである。言い分がないわけではないが、その上司の叱責には理があると認めていたので、叱られるのは仕方がないと考えることが多かったからだ。ひたすらうつむいたままぼんやり聞き流し、ひとしきり怒声が続いて、そろそろ一区切り着いたなと思うところで顔を上げ、にっこり笑うのである。たいていあきれ果ててそれで終わりである。先輩には、どうしてお前だけ短時間で済むのだ、といわれたこともある。

 

 ただしその上司は本人に向かっては、かなりひどいことを言うけれど、本人のいないところで悪口を言うことはほとんどなかった。ほめることもほとんどなかったけれど、評価は適正だったような気がする。それとは別に、とても人当たりが良くて、いかにも紳士風なのに、陰で私の悪口を言っていたらしい上司もいたから、そんなのよりはるかにましで、懐かしく思い出すばかりである。相性ということもあるかもしれない。

 

 パワハラが単なるマウンティング(自分は偉い、とか自分の方が偉いというアピール)である場合にもっとも嫌がられ、憎まれるのかなと思う。自分がわかっていないらしいから、たいていあまり賢く見えない。立場の弱い人間に実害が及ぶのはほぼ犯罪で論外である。糾弾されて排除されるのはあたりまえだ。パワハラということばができて糾弾がしやすくなったのはいいことでもある。ただ、被害者ではないのに被害者の顔をする人間も出てくるだろう。叱りにくくなったことがいいことかどうかはまた別の問題である。教えただけなのに「叱られた」、などという輩がこの世にはたくさんいるからなあ。

ピースサインとやばい

 カメラを向けられるとバカのひとつ覚えのようにVサインだかピースサインをしてみせる、何か見ると「やばい」という。本当にうんざりする。うんざりするくらいだから私は決してそんなことはしない。

 

 宝くじのCMを見ていて、大金が手に入ったら好いなあ、と思いながら、はて、その金で何をするのか、何を買うのかと思った。いま欲しいものがないわけではない。したいことがないわけではない。しかしそれほど大それたものではなくて、いまもっているお金でなんとかなるものしか思いつかない。独り暮らしでは豪邸を建てたり、高い車を買いたいなどと思わない。せいぜい国内のドライブ旅行の宿泊先のレベルを上げられるなあ、とか、贅沢に連泊できるなあ、とかが夢である。そんなことができるのもあと数年で、その先は免許返上をしてささやかな列車旅をのんびり楽しむくらいだ。

 

 すでに室内には使いきれないものがたくさんある。本を集めるのが趣味で、未読の本が百冊を超えているし、もう一度読みたい本が数百冊、読みかけがやはり数百冊あるのではないか。死ぬまでに読み切れるとはとても思えない。よくもまあ集めたものだ。いまもまだ集めている。もちろん読んだ本は万を超えているから、無駄遣いしすぎたという後悔はない。だからさらにたくさん本が欲しいというほどのこともない。録画してまだ見ていない映画もたくさんある。本も映画も時間の塊みたいなところがあり、持ち時間を考えたらこれ以上はもう必要ないのだ。

 

 そうなると宝くじが当たっても使い道があまりない。いまのささやかな蓄えと年金でなんとかやっていけるし、なまじお金があれば悪人に狙われる不安が生ずる。細々とつましく生きる方が幸せというものだ。本当に欲しいもの、「健康と時間」はお金では手に入らない。

軽度を含めて一千万人

 朝の三時過ぎに目が覚めてしまって、もう一眠りしようと思ったが寝られない。仕方がないから起き出して、本を読んだり早朝ニュースを見たりしていた。そのニュースで注目したのは、政府の肝いりで「新しい認知症観」とかいう会合がもたれた、というもので、一昨年の時点で、軽度も含めると日本の認知症は一千万人を超えているのだというのに驚いた。とんでもない数に思うが、詳しいことはよくわからない。

 

 これは、後期高齢者はかなりの割合で認知症であるということなのだろうか。日本人は病気も老化も昔より遙かに対策が進んで長生きするようになったが、脳の働きの老化、劣化についてはそれが追いついていないということなのだろう。長生きも善いことばかりではない。

 

 自分自身を振り返れば、名前や漢字が思い出せないことが増えている。物忘れはまだ認知症ではないというが、物忘れもひどくなっていけばその境目にいるような気がする。それなりに脳に刺激を与えるよう心がけているつもりだし、さまざまなことについて興味を持つようにしているつもりだが、世の中を面白がる能力が衰え始めているような気がしていて不安である。父は九十過ぎまで比較的にしっかりしていて、ほとんど人の世話になることがなかった。あんな風ならありがたいと思うが、こればかりは自分では如何ともしがたい。

Dsc_2035

今朝の朝顔。

2024年9月 2日 (月)

気持ちに波風が立つような

 いま山本七平の『ある異常体験者の偏見』(文藝春秋)という本を読んでいる。読みながら気持ちに波風が立っている。波風は気持ちの海をかき回し、さまざまな思いが水底から浮かび上がったりする。一兵卒として戦争を実体験した山本七平が、どんな文章、どんな論理に戦慄し嫌悪するかを論じている。たたき台にされた文章にその著者からの強い反論があり、その反論にさらに反論する、という繰り返しによって思索が深められ、詳細になっていく。その文章とは、戦後に書かれたごくなじみのある戦争観であり、たいていの人がどうしてそんな文章にそんな反応をするのか理解できないであろう。

 

 だから丁寧に丁寧にその説明が重ねられるのだが、反論者には届かないようである。私は最初のところからそれがわかったつもりで、そのことがわからない限り、戦争がどうして起こるのかわからないのかもしれないとさえ思う。

 

 相手からの最初の批判的反論は、事実ではないことを書いているから誤りである、というものであった。その詳しい説明をしようとすると、全部記さなければならず、煩雑なので、私なりの受け取り方は、

 

 もし・・・であったならば、・・・であったろう。という仮定法の文言について、もし、のあとの文章の内容は事実ではないのが明らかであることが多い。もし日本がアメリカよりも資源が豊富であったならば、などという使い方をする。その文章について、もし、のあとの文章が事実に反する、またはなかったことだから文章全体がまちがいだ、などと批判したら、 仮定法の文章は書くことができなくなる。鬼の首を取ったようなそういう批判に山本七平はあきれながら、それでも丁寧に対応している。

 

 自分は正しいのだから相手は間違っていると断ずるその思考法(戦時には軍人的断言法、現在はそのただの裏返し)こそが山本七平の嫌悪し戦慄するもので、だからこそはじめにそれを指摘したのである。ものすごくよくわかる。そして戦争が敗戦で終わっても、その思考法は変わらず、さらに日本人の思考を支配していないか。安全や正義や平和についての文言を見るにつけ、そう思うから、気持ちに波風が立つのである。それを打ち砕くのはほとんど不可能で、だから戦争はなくならないだろう。たぶんそんなわけの分からないことを書くお前はおかしい、というコメントが来そうな気がする。

そもそもやる気がない

 福島第一原発の燃料デブリの取り出しが、東京電力の怠慢で実施の見通しが立たなくなったらしい。すでに試験的取り出し用の装置はすべて現場に持ち込まれ、実施を待つばかりであったはずなのだが、装置の配列にまちがいがあったからだという。それなら並べ直せばよいと思うが、そうもいかないらしい。どうしてそうはいかないのかは、説明がないからわからない。NHKのニュースによれば、装置の配列の確認はされておらず、事前作動試験すらしていなかった、ということであるから、そもそもやる気がないのだと思うしかない。

 

 拝察するに、このミッションは困難で、やりたいと思うものが誰もいないけれど、計画はあるからやらざるをえず追い込まれていたのだろう。たぶん、できっこないと思っているし、やったふりをするしかない状態なのだろう。なんとかやり遂げようという気配がまったく見えない。だからどうすればいいか、なんてわからない。専門家がさじを投げているのだもの、わかるわけがない。

 ミッション・インポッシブル(達成不可能な作戦)をあたかも可能であるかのように語る。それは「原発は絶対安全」と言わざるをえなかった状況の裏返しで、根底は同じであるように見える。言う方も言わせる方も、である。

過剰生産

 中国が自国の消費を遙かに超える過剰生産を行い続け、その過剰生産したものを世界に売ろうとして世界経済のバランスを崩している。中国は大きすぎる。国全体として動くことと、いくつかの国であるかのように過当競争することが同時に行われているから、価格が乱れ、ものをつくりすぎることになっている。本来は中央政府がコントロールすべきところを、経済音痴と言われる習近平は理解できないから、対策は小規模でしかも手遅れになりがちだ。自国の問題だという認識がないから、欧米などが中国に対して防衛的な経済制裁的対策をすることを、単純に自国への攻撃だと考えているようだ。

 

 過剰生産の最も大きな要因は国営企業である。民間企業と違って、国営だから倒産はあり得ず、利益追求は二の次である。習近平は利益追求は悪だと見なしているかのようである。利益を二の次に、勝てばいいとばかりに大量に、過剰に生産して価格競争をしていけば、そういう会社と普通の会社や他国は競争しようがない。それならそれに対して他国が防衛しようとするのは自然の成り行きである。

 

 中国の消費がコロナ後も回復しないで低迷しているようだ。自国内での消費が支えになっての中国経済であるべきだということくらいは中国の経済専門家は承知しているから、それを習近平に提言しているようであるが、そのための対策が見えない。利益を確保できない会社が雇用確保や、それによる高い給与が払えるはずがない。もともとそれがおろそかであったのだと思う。それを補っていたのが不動産投資での資産確保だったのではないか。それがはじけたら夢が覚めたように消費の冷え込みが起こるのは、これも自然の成り行きである。

 

 中国が、「金のなる木」に見えている台湾を接収しようともくろむのはまさにこれも自然の成り行きで、習近平は中国にとっては台湾侵攻は必然的行動だと考えている気がする。本気で実行すれば誰もそれを止められないだろう。そのあとの世界はどうなるのか。日本は温暖化の世界に厳冬の時代を迎えることになりそうだ。中国発の氷河期の到来である。

 こんな悲観的な予測は当たってほしくないのだけれど・・・。

2024年9月 1日 (日)

『未来のミライ』

 『未来のミライ』(2018年)は細田守原作・監督のアニメ映画。まだ幼稚園に通う前の男の子の目から見える世界を描き、その心の成長と、人がこの世にいることの、連綿と過去から続いてきた生命の継承の意味を優しく伝え、考えさせてくれる映画である。声優が上白石萌歌、黒木華、星野源、麻生久美子、宮崎美子、役所広司、福山雅治等々と豪華である。主題歌は山下達郎。すべて好い。

 

 幼児は、自分がしたいことが受け入れられないと「やぁだぁ」という。大人はたいてい条件をつける。「・・・をしたら・・・をしてやる」。幼児にとってはどちらも受け入れられないから「やぁだぁ」という。それではいつまで経ってもらちがあかないし、子供の要望を認めてしまうと切りがないし悪い癖がついてしまうと大人は思う。

 

 この男の子は「やぁだぁ」からまだ脱していない。それは母親をはじめとして周りの大人が自分と不可分で、自分をただ庇護し、受け入れてくれるものと信じ込んでいるからだ。そんなとき、母親が妹を産んで産院から帰ってくる。みな赤ん坊にかかりきりになる。自分の妹だというその赤ん坊がきっかけで、自分は世界の中心ではないことをうすうす気がつくのだが、なかなか受け入れることができない。

 

 彼が世界を受け入れるまでのさまざまな不思議な出来事が描かれていくのだが、彼の経験をサポートしてくれるのは、その赤ん坊が少女になった、未来のミライなのである。こんな話はアニメでしか描けない。そしてこのアニメを通してしかこの男の子の体験した世界とその受け入れは理解できない。そういう不思議な映画で、たぶんこの映画はわかる人とわからない人とに別れるかもしれない。私は好いアニメだと思った。

致命的欠陥

 魯迅の文章、『韋素園君を憶う』という小文を読んでいたら、ちょっと胸に響いた部分があった。出会いのときの「苦虫をかみつぶした」彼の顔から、良くない印象を受けた、と記したあと、

 

 私はのちに自分の誤解に気がついたわけだが、それと同時に、彼の致命的欠陥にも気がついた。まじめすぎるのだ。表面は沈着なようで、じつはかれは激情の持ち主だった。まじめであることが人間の致命的欠陥でありうるか。少なくとも、その当時から今日までのところ、まさに然り。まじめな人間は激情に駆られやすい。それを外に発すれば自分の生命を失うことになるし、内にこもらせれば自分の心を噛みくだくことになる。

 

 これをただ気の利いた警句のように取り上げようと思ったわけではない。そもそも私はまじめな人間ではないし、まじめな人間をシニカルに、そして斜めに見るほど屈折もしていない。

 

 この少し年下の素園君に対しての追憶と追悼の文章に、魯迅のさまざまな思いがこめられているのを感じた、ということを記しておきたかっただけである。

おまけ

 五時頃目覚めたが、雨はやんでいて、路面も乾いているようだ。予報では昼前に再び雨が降り出すらしい。台風はいままで見たこともないような動きをしていて、海上からまた北上して当地付近を通過して日本海に抜けるらしい。ずいぶん久しぶりに南側と北側の窓を全開にして、空気の入れ換えをしている。弱い風が南から吹き抜けていく。湿気のある風だが、しばらくぶりの涼しい風だ。雨に当たっていないから、今朝咲いた朝顔の花は、盛りのときより小ぶりながら元気である。

 

 そういえば今日からもう九月である。例年なら八月三十一日が夏休み最後の日で、今日から新学期だが、今日は日曜日。子供たちは夏休みが一日でも長く続けば好いと思っているはずで、だから今日はおまけの夏休みだ。台風の影響で、明日の月曜日も休みにならないかと期待していた子供もいただろうが、どうも台風はそこまで延命せずに、今日熱帯低気圧に変わってしまうようだ。よほどの大雨でなければ、明日には新学期も始まる。おまけは一日だけになりそうだ。

« 2024年8月 | トップページ | 2024年10月 »

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カテゴリー

  • アニメ・コミック
  • ウェブログ・ココログ関連
  • グルメ・クッキング
  • スポーツ
  • ニュース
  • パソコン・インターネット
  • 住まい・インテリア
  • 心と体
  • 携帯・デジカメ
  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌
  • 経済・政治・国際
  • 芸能・アイドル
  • 趣味
  • 音楽
無料ブログはココログ
フォト

ウェブページ