パワハラ
パワハラかどうかは時代によって違う。というよりも、そもそもパワハラということばはむかしはなかった。いま思えばあれはパワハラだったなあ、というようなことはある。
私が現役時代、敬愛する上司の一人はいまならパワハラの人だった。怒り出すととことん追求し、長時間叱り続け、果てしがなかったという。「という」というのは、私はそこまでひどい状態を見ていないからだ。反論するとまたいちから叱られる。しかし人にはプライドがあるから反論したいことがあれば反論するものだ。そうすると際限がなくなるが、私の上司になった時は大病をしたあとだったのでその体力が続かず、多少叱責も軽くなっていた。
もちろん私もよく叱られた。しかし私は反論しないのである。言い分がないわけではないが、その上司の叱責には理があると認めていたので、叱られるのは仕方がないと考えることが多かったからだ。ひたすらうつむいたままぼんやり聞き流し、ひとしきり怒声が続いて、そろそろ一区切り着いたなと思うところで顔を上げ、にっこり笑うのである。たいていあきれ果ててそれで終わりである。先輩には、どうしてお前だけ短時間で済むのだ、といわれたこともある。
ただしその上司は本人に向かっては、かなりひどいことを言うけれど、本人のいないところで悪口を言うことはほとんどなかった。ほめることもほとんどなかったけれど、評価は適正だったような気がする。それとは別に、とても人当たりが良くて、いかにも紳士風なのに、陰で私の悪口を言っていたらしい上司もいたから、そんなのよりはるかにましで、懐かしく思い出すばかりである。相性ということもあるかもしれない。
パワハラが単なるマウンティング(自分は偉い、とか自分の方が偉いというアピール)である場合にもっとも嫌がられ、憎まれるのかなと思う。自分がわかっていないらしいから、たいていあまり賢く見えない。立場の弱い人間に実害が及ぶのはほぼ犯罪で論外である。糾弾されて排除されるのはあたりまえだ。パワハラということばができて糾弾がしやすくなったのはいいことでもある。ただ、被害者ではないのに被害者の顔をする人間も出てくるだろう。叱りにくくなったことがいいことかどうかはまた別の問題である。教えただけなのに「叱られた」、などという輩がこの世にはたくさんいるからなあ。
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こんばんわ!
丁度、今月の歌会に俺はかつての上司の短歌を詠んだところでした。
怒鳴られることは勿論、小突かれたりもしました。しかし、俺が間違って
いた事は知っていたし、反論も出来ずでした。昔は”愛のムチ”、今で
言えばそれもパワハラなんでしょう・・・時代が変わったとつくづく思います。
そんな上司でも、帰り際には「いっぱい行こう」と酒にさそってくれました。
現代はパワハラ・セクハラ・・・となんか組織もギシギシしているのではと
心配ですね。
投稿: でんでん大将 | 2024年9月 3日 (火) 19時52分
でんでん大将様
同じことが受け取る人によって違う結果になることがありますね。
大多数が感情的な叱責だと思ったり、地位を笠に着たマウンティングだと思うものはパワハラということでしょう。
マスコミはときに一人ふたりだけがパワハラだ、というものまで取り上げますから気をつけないといけません。
時代によってその基準も変わります。
むかし普通だったことでも、いまも同じことをすると顰蹙を買うことがたくさんあります。
なかなか難しいです。
投稿: OKCHAN | 2024年9月 4日 (水) 08時13分