ことばと文字
『ことばと文字と文章と』(連合出版)という本をようやく読み終えた。これは高島俊男『お言葉ですが・・・』シリーズの別巻第四巻にあたる。最初の三分の一が表題とおなじ、ことばと文字と文章に関するもので、中間に富永仲基(とみながなかもと)を取り上げながら平田篤胤の国学を批判的に論じている。平田篤胤の国学は、戦前の神国日本の基調とされたもので、天皇が神になった原点がここにあるともいえる。見方によってはゆがんだ日本の歴史の創作者とでもいおうか。それに続いてラバウルの戦犯裁判、そして閔妃暗殺、昭和十年代の外地の国語教育について調べたことをまとめて、それに自分の意見を添えている。どれも非常に興味深いものであった。
戦犯裁判や閔妃暗殺以降については別に回をあらためるとして、ことばと文字については、たまたま並行して読んでいる魯迅文集の中に、彼が一般大衆(つまり知識人ではなく庶民)に向けて語ったことばと文字に関する講演を元にした『門外文談』という文章が、私の中では響き合うように感じて面白かった。まずことばがあり、文字ができた。しかし日本に文字ができる前に中国から文字が入ったために、日本ではついにオリジナルな文字は作られず、漢字が日本の文字とされた。ひらがなやカタカナはオリジナルというよりも漢字の表音化、簡略化である。
漢字が知識階級のもので、文字が大衆化しにくかったのは、漢字の難しさにある。同時に知識人の特権階級化にも寄与した。明治以降漢字をなくすか簡略化する方策が試みられ、中国では漢字が意味を失って簡体字になってしまい、日本でも新漢字になって、もともとの意味と漢字が即応しなくなっている。もし簡略化するにしても、もう少し丁寧に本来の意味を考慮したら善かったものをあまりにもお粗末な簡略化だったことによる問題点を、高島俊男は繰り返し批判している。それは旧漢字擁護派のようにとられそうだが、決してそうではない。
たぶん魯迅も、漢字の簡略化には反対しなかっただろうが、いまの中国の簡体字を見たらびっくり仰天して、なんだこれは、と嘆くだろう。中国の古典の本を北京の王府井や上海の書店で何冊か買って帰っていまも何冊か棚にある。むかしは中国の本はとても安かった。それはもちろんみな簡体字で書いてあるのでほとんど読めない。日本で出版された旧漢字(本字)の同じ本と比べて楽しんだりした。しかし、簡体字しか知らない若い中国人は古い文字で書かれた古典が読めない。それは残念なことだろう。それ以上に韓国の人は、自国の漢字の本または漢字交じりの本が読めないのである。それもどうかという思いがするが、余計なお世話なのであろう。
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