怨念、三浦一族の最期
團伊玖磨の『パイプのけむり』シリーズをぽつりぽつりと読み進めているが、まだ半分も読み終えていない。読み応えのあるものと独りよがりの過ぎるものとがあるが、それは私との興味のおもむく方向や感情のいだき方の違いによるところも大きいのだろう。團伊玖磨は三浦半島の逗子に暮らしていたので、三浦半島に関する風物や事跡、歴史などに関するものがしばしばあり、どれもなかなか面白い。その中の『三浦三崎』という文章の中の三浦一族に関する部分がおもしろかったので抜き書きする。
三浦一族は、源頼義より三浦一帯を、前九年の役に於ける功績によって賜った為通を初代として康平六年、西暦1063年に興り、四十一代の間の変転を経た末に、永正十三年、西暦1516年に、北条早雲によって滅ぼされてしまう。最後の首長、三浦義同とともに戦った息子の荒次郎義意は、豪勇八十五人力と言われ、最後の合戦の模様は、「おめき叫ぶ声大山も崩れて海に入り、四方に逃ぐるものを追い詰めて、甲の頭上を打てば、微塵に砕けて胴に入り、横手に打てば、一払いに五人、十人を拉(ひし)ぐ。棒に当たっ死す者五百余人、その屍は地に満ちて、足の踏み場も無し」という事になる。然し、早雲の兵力に結局は敵せず、この二十一歳の豪の者は自らの首を掻き落として死に、その首は相模湾を飛び越えて、早雲の本拠小田原の松の木の枝に引っかかり、
『この首三年死せず。恐ろしき形相をなして早雲の城を睨み続ける」という事になる。何とかしてこの首を死なせようとして、加持祈祷をさまざまに行うが効き目無く、最後に小田原の総世寺の坊さんが、
うつつとも 夢とも知らずひとねむり
浮世のひまをあけぼのの空
と誦んで拝むと、首は、急に恐ろしい目を閉じて、肉が朽ち落ちて白骨となった、という伝説がある。
怨念や祈りが形になってあらわれる、というのは人の願望だろう。奇跡や魔法や超能力というのもそういうものか。
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