『含笑花の木』
陳舜臣の随筆集『含笑花の木』(朝日学芸文庫)を読んだ。さまざまなところに掲載された小文を集めたもので、主に1980年代に書かれたものだ。身辺の雑事、世相雑感、古今の歴史、紀行文、交友、推奨本への献辞など、さまざまな文章が含まれていて、しみじみと胸にしみるものも少なくない。この人のとても穏やかで心優しさが判るとともに、その底にある、頑とした芯のようなものも感じられる。穏やかそうに見えて、やり場のない怒りも燃えているのだ。それは彼の体験してきたさまざまな不条理に対して感情を抑え込んできた積み重ねによるのだろう。
含笑花(がんしょうか)というのは中国式の呼び名で、生薬名でもある。モクレン科の樹木で、正式名はカラタネオガタマという。花は甘い優しい香りがする。中国ではその香りをお茶に移して楽しむ。陳舜臣にとっては、その花の香りは母の香りだという。母は含笑花の花を髪に挿したり、胸にかざったり、部屋に枝を置いたりしていた。彼の子供の時に母の匂いとして刻み込まれていたのだ。その含笑花の木について語りながら、彼が生まれ育った神戸の街の変遷も語られる。大事なものが容赦なく失われ、変化していく。
ごく短い表題と同じ『含笑花の木』という一文を読んだだけでも深い余韻のあるものになっている。
珍しく現実の政治について論じた『政治は倫理の「技術」』という一文の中から一部を引用する。
理想がほんもので、それが高くかかげられておれば、私たちは現実の政治技術面について、かなりのことに目をつぶる。権謀術数はおぞましいものだが、不完全が宿命の政治にはつきものだと、だれもが知っているからだ。
理想が高いとは、倫理性が高いことにほかならない。政治家が自由に思う存分腕をふるいたいのであれば、倫理性を高めるべきである。私たちは彼らに多くのことを許す。
許容の限界をひろげてもらおうと、理想をより高くみせかける詐術もおこなわれるであろう。それを見破るには、賢明でなければならない。倫理をはかる物差しは、国民が賢明であればあるほど正確になる。
懸命になるためには、判断のための資料を多くもたねばならない。ことに倫理にかんしても、やはり言論の自由が基本であるという結論になる。
(小略)
民は倫理を欠く政治家を信頼しないものなのだ。
中国の歴史を知り、近現代の歴史を身をもって体験してきた陳舜臣が語ることばは、観念を越えて深い意味がこめられているのだ。
敦煌の鳴沙山から月牙泉を見下ろす。
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