『男女驚学』
江國滋の『男女驚学』(旺文社文庫・副題は『娘たちに贈る覚書』)を読了した。この本のことは別にして、旺文社文庫は1965~1987まで出版が続いたが、いまは事実上ない。この文庫には内田百閒の作品が四十巻ほどで網羅されている。これは旧漢字旧仮名遣いであるのも優れていて、内田百閒はできればこれで読みたいところだ。内田百閒は福武文庫(のちにベネッセ)でも出版されていて、こちらは新漢字新仮名遣いだ。私は両方もっているが、福武文庫版は処分するつもりでいる。
旺文社文庫には、ここでしか読めない作品がいろいろあって、それは特殊なことではなくて、見識が高くて本当に優れたものを扱ったからだと思っている。それだけいまはどうでもいい文庫本が氾濫し、腰を据えた、内容のある文庫本が少ないということでもある。
江國滋の一端を知るために二三引用する。
(買いだめについて縷々述べたあとに)
イヤな感じの正体は何か。一言でいえば「あさましさ」である。
買い占めは投機、買いだめは防衛。そうして買い占めは「悪」、買いだめは「あさましい行為」であるなあ、とつくづく思う。人間、あさましくなってはいけない。
ものごとの本質から目を逸らすことによって、確実にもたらされるものは平常心の欠落であり、平常心の欠落はまちがいなく精神の荒廃を招く。
人間の「老い」というものの姿を直視することはすこぶる勇気を要する精神作業だが、その勇気を持つことがほんとうの「敬老」の第一歩なのである。敬愛したくても、とてもじゃないけどそんな気になれないというのが、老いというものの本質的な実相であり、長寿を祝うどころか、早く死んでもらいたいとさえ思うような、そういう悲惨な状態をハッキリ認識した上で、なおかつ老人を見捨てないという忍耐が、老人問題のすべてである。
(小略)
老いというどうにもならない無残な訪問者によって、確実に破壊されてゆく肉体と精神の、そのボロぎれのような姿もまた人間の尊厳の一つにほかならない。
べつにどこといってからだに故障があるわけできないのに、妙に気がめいるような、何もかもおもしろくないような、神経がイライラするような、いうなればふさぎの虫にとりつかれたようなあんばいになって、会社に行くのが気が重い。そういう日が、あってあたりまえなのである。
わかるなあ。
先日読了した『男性作法』とともに。表紙の絵は江國滋本人が書いたもの。本人は、子供の絵、などと謙遜するが、なかなかどうして。
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