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2024年11月 6日 (水)

廃仏毀釈

 NHKの『新日本風土記』という番組で奈良の山辺の道が取り上げられていた。再放送であるが未見だった。数年前から奈良にときどき足を運び、主に飛鳥路を歩いてきたが、山辺の道も良いなあ、と思った。思ったけれど、かなり長い距離を歩く道らしい。もっと前に行っておけば良かったと悔やんでいる。一帯には古墳が千を越えて散在しているのだという。すごいところだ。箸墓(はしはか)古墳や纒向(まきむく)遺跡だけでも現地に立って古代を回想してみたいと思った。

 

 番組の中で、奈良のこのあたりは廃仏毀釈が徹底的に行われた地であることを知った。大きな寺がいまは跡形もない。そのことになんともいえない空しさを感じてしまった。何でも残せば善いというものではないが、そこに長い年月の重みが加わったもの、歴史と人々の信仰の厚みをともなった建物や仏像を容赦なく破壊損亡することに対して、何の痛みも感じることなく破壊した人々がいたことこそが空しい気持ちを生じさせるのだ。

 

『徒然草』に
 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。

 

という有名なくだり(第百三十七段)がある。満月が雲に隠れて見えなくても、また、欠けた月を見ても、ときには部屋の中で直接見ないで思う月にもそれなりの風情、感興があるというのである。桜が盛りを過ぎてたとえ散ってしまっても、そこにこそ心に感じるものがあるのだという。私はこの感覚が好きで、盛りの時に人がどっと繰り出す中に混じるのは好きではない。祭りが済んだあとの普段以上の一層の寂しさ、わびしさに感興を感じるというのが判る気がする。

 

 ところがこの段を、月は満月、桜は満開の時が好いのに決まっているではないか、それを賢しらげに、盛りを過ぎたものに良さを感じるなどというのは仏教的な、日本以外からのおかしな考えに毒されたものだ、と批判した国学者がいる。平田篤胤だったか、賀茂真淵だったかの文章で、なにかに引用されたものを以前読んだが、なんという本か忘れた。

 

 どうして突然そんなことを引っ張り出したのかといえば、まさに明治の廃仏毀釈は、この国学にそして神社の狂信的勢力によって推進されたものであるからだ。仏教的なものを本来の日本のものでないからといって全否定して抹消しようとする狂気の原点がこの『徒然草』批判にあるように思えたからだ。

 

 初めて中国に行ったのは三十年以上前で、すでに文化大革命から十年以上過ぎていたけれど、あちこちで文化大革命の破壊の痕跡を見た。それを見ながらそういう教条主義的な破壊行為の恐ろしさを思い、そして廃仏毀釈を連想した。再び三度このようなことが起こるだろう。人間というものは残念ながらそういうものだ、と思った。

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