翁堂の奥に
芭蕉の結んだ翁堂(無名庵)の奥をのぞいたら、思いがけない人の墓があった。
思索家で評論家の保田與重郎の墓である。この人の『日本の橋』という文章の一部が高校の現代国語の教科書に載っていた。実際は長い文章で、いくつか取り上げられた橋の中の、名古屋市熱田にあった裁断橋についての部分が教科書に引用されており、そこの擬宝珠の銘板の文章がいたく私の心に響いた。そしてそこから「橋」について深く考えるきっかけになった。橋だけではなく、さまざまなものが、ただ見えているものとしてではなく、そこにまつわりついている歴史や思いをともなっているらしい、ということに気がつかせてくれたのが保田與重郎だった。そういう意味での私の恩人である。
手持ちの昭和文学全集の中の、保田與重郎の年譜を見ると、この義仲寺の再建にも関わり、落慶式に臨んでいる。本墓は桜井にあるが、この義仲寺の墓は分墓だということである。
寺内の史料観という小部屋にかかっていた、保田與重郎の色紙。蝶夢法師の句「旅人も まばらに春の 行方かな」を書いているようだ。寺内には蝶夢幻阿弥という人の「初雪や 日枝より南 さり気なき」という句碑があると、受付で貰ったパンフレットにあった。
この義仲寺にはJRの膳所駅から歩いてきたが、帰りはその膳所駅に隣接する京阪膳所駅に戻り、そこから三井寺駅に向かう。石山の辺りには大手繊維メーカーの研究所などもあり、仕事で何度か京阪にのったことがあるが、石山から先には行ったことがないので初めてである。ラッピングの色鮮やかな、目立つ電車だ。
京阪三井寺駅を降りるとすぐ琵琶湖疎水がある。右手を下っていけば琵琶湖に出る。この柵の向こうは琵琶湖疎水である。この柵に沿って左手の高台に向かう。三井寺は長等山(ながらやま)の山裾にある。その山の下を琵琶湖疎水はトンネルを通って京都へ向かっている。
山裾に突き当たると道は左右に分かれていて、最初に向かった観音堂は左らしい。
少し行くと長等神社があった。ここは勝運魔除けの神社ということだが、私は賭け事をしないのでパスさせて貰った。観音堂へ上る坂へはもう少し歩く。
これが観音堂へ登る階段の坂道。一番上が終点ではない。さらに上へ続く。息が切れて脚がよろよろした。自分ながら意気地がない。とはいえ観音堂が三井寺では一番高いところにあるから、登り切ればあとはたいしたことはない。
次回は観音堂界隈について。
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