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大きな事故や災害があったあとで、根拠もないのに誰それのせいだ、などと言い立てるのは適切ではない。ただ、事故や災害のあとの対処が適切であったのかどうかは問われる。当然のことである。その辺が短絡して、根拠のないところに根拠をねつ造する輩(やから)がいる。そしてそれに簡単に乗せられてしまう輩もいる。社会不安を生み出したいと願う者にとっては、事故や災害は最大のチャンスである。
事故や災害はないに越したことはないが、必ず起こるものでもある。二度とこのようなことはないように・・・などと言うのは願望であって、願望に過ぎないのだと認識すべきで、そうではないと願望が対策を阻害することになる。事故や災害はこれからも起こるだろう。だから対策が必要なのであって、その対策は、技術的にも経済的にも、今できることの範囲でしかできないことも承知しなければならない。願うのは勝手だが、決まり文句は飾りに過ぎないことが多い。
今年はそういう事故や災害の多い年だったような気がする。よその国では争いも続いている。それに涙する人々をどれだけ見てきたか。来年は、それが少しでも少ないことを願う。
年末風景として、実家に帰省する家族がニュースで放映される。じいじやばあばに会うことを嬉しそうに話す子供の姿はほほえましいものだ。私には孫がいないから、そのじいじの気持ちは本当のところは実感できないが、足かけ二年の母の介護もあって、母の面倒を見てくれていた弟のところに、介護の手伝いに毎月のように行っていたので、弟の孫たちとはかなり親しい。いまでも弟の家にいれば、私がそこにいることを弟の孫たちはあたりまえの存在として認めているように思う。
今日の午後、息子が帰省するが、広島だからたいへんだ。それでも年に何回かは帰って来てくれるのは、それがあたりまえのことと思っているからだろう。私も、名古屋にいても長い休みがあれば千葉の両親のところに子供たちを必ず連れて帰省した。子供たちも、自分の都合もあったかも知れないが、それが最優先だと承知していたと思う。
テレビで映される帰省の家族の姿は、同時に、帰省しない多くの家族のことも想像させた。夫婦それぞれ、子供たちそれぞれの都合などで、帰省が最優先ではない家族もたくさんいて、それが増えているような気がする。家族は意識して、努力して、会おうとし続けなければ、次第に会わないことがあたりまえになり、バラバラになる。それが自由だ、などと考えるようになる。人間関係の原点の家族関係が希薄になれば、社会は成り立たない、などと大げさなことを言っても仕方がないが、じいじばあばは寂しいだろう。
来年がさらなる未来につながる良い年であってほしいが、いまの世界から伝えられてくるニュースは不安を感じさせるものが多い。分断が世界に亀裂を生じさせている。分断こそ亀裂だ。分断とは相容れない相手を敵と見なすことだ。亀裂とはつながりを断つということだ。自分が正義で相手が悪だと断ずることだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
人は平和で安心できる世界を望んでいるのではないのか。平和で安心な世界というのは理想で、理想を達成するのは夢で、そもそもありえないものなのか。どうして譲歩すること、妥協すること、折り合いを付けるということができなくなってしまったのか。話し合いとは、自分の言い分で相手の言い分を打ち負かすことになってしまった。そういえば、日本人は討論が苦手であるといわれたものだ。討論とはことばの上の戦いであるようであった。何しろ相手を討つのである。
話し合いとは合意を求めるもので、話し合いを始めるということは合意点を見つけること、という出発点があって初めて意味がある。その前提が取り払われて、合意とは妥協で、妥協とは負けること、みたいに思われるようになった。それでは話し合いは成立しない。自分の言い分を押し通すのに、力が行使されるしかないことになってしまった。
私は正義ということばが嫌いになった。子供の時には正義こそ至上のものだと、勧善懲悪を語るテレビドラマや物語から教えられた。だから正義とはものごとをはかる基準だと思ってきた。ところが正義を謳い上げる声高な人々の言うことが、私には正義とは思えないことがあった。正義の名の下に多くの人が断罪され、辱められ傷つけられ、殺されるのを目の当たりにした。きっかけは文化大革命の惨状だった。
気がついてみれば、正義を振りかざして相容れないものを敵と見なし、ともに天を抱くことができない存在にする事例を数々見ることになった。そういう原理主義的な思考があちこちで叫ばれるのを目の当たりにした。赤軍派の正義の果てには何があったのか、われわれはそれを見せられた。その正義は、ついには仲間内の殺し合いで終わった。
だから私は正義ということばが嫌いになった。正義を主義の裏打ちとして使う者に嫌悪を感じるようになった。
つい悲観的な方へ思考が流れていってしまう。そういう悲観的な状況に見える世界が、一気に楽観できる世界に変わるとは思えないが、物事は一方にふれすぎれば元へ戻ろうとする力が働くものだ。人類にはその復元力がまだあると信じて、来年がふれ戻しに転ずる年になることに期待することにしよう。
年末の大掃除はまだ終わっていないが、ほぼ目処がついたので昨夕から映画を見たり、本を読んだりすることを再開した。それで夜更かしして睡眠のリズムが狂い、夜中に目が覚めて音楽を聴いたりしていたので、今朝は寝坊した。
読み始めた余秋雨の『文化苦旅』という本の自序にあったこんな文章に惹かれた。年末でお忙しいだろうが、それでも私のブログを覗く程度にはゆとりがあると思うので、できれば味わってみてほしい。
「いかなる現実の文明人といえども、自覚すると否とにかかわらず、心理的に重なり合う別々の年齢を生きているものと、ぼくは考える。このような重複がなければ、生命は弾力を失い、風化し、果ては折れやすくなるだろう。しかし、異なる年齢が体内でしばしばいがみ合い、ときには自分をひどく苦しめることもある。たとえば、数ヶ月もレンガの固まりさながらの典籍に埋没していると、幼少の頃から野山をかけ回った両足がムズムズと反発するし、心と目と耳も、みるみる天空と大地に、己を放出したい熱い思いで一杯になるのだ。これは書物に向きあうのと違う、別の年齢がいたずらしていると、ぼくにはピンとくる。このようないたずらを助長する外部の誘惑は、これまた多く、現に手近にも例がある」
「レンガの固まりさながらの典籍」とは、中国の古典籍である。彼は古典を語り、その古典の世界から現代を語る小説家であり、散文家である。その散文を集めたのがこの『文化苦旅』という本で、中国では他にもたくさん本が出版されているようである。たまたま書店でこの本に出会って、本のたたずまいに惹かれて購入した。やはり本は書店での出会いも楽しみの一つで、それがこのごろネット購入になってその楽しみが失われている。
自分の中のいくつもの自分、というのは、なんとなく誰にもわかるのではないか。アイデンティティなどと、確固たるたったひとつの自分を想定する西洋的考えとは違う、自由で柔らかくて多様な自分を、あたりまえに感じることができるのはありがたいことである。山本夏彦は、「自分は何にでも成れる」と言った。「男でも女でも、年寄りでも子供でも、昔の人にでも、また犬にでも成れる」と言った。そこまでは無理でも、複雑である方が好い。たったひとつの自分しかないと、世界は単純だろうが、深みがない。深みがなければおもしろくないだろう。
さて著者に誘(いざな)われて、時間と空間の旅に出発することにしようか。
オリビア・ハッセーの訃報を聞いた。私が大学生時代に、映画『ロミオとジュリエット』で見たときはオリビア・ハッシーと呼ばれていた気がするが、はるか昔のことでたしかではない。レナード・ホワイティングと共演したこの『ロミオとジュリエット』は忘れられない映画で、他の人が演じる『ロミオとジュリエット』を見たいとは思わない。じつは今年初めにこの映画を久しぶりに見た。シェイクスピアの原作の冒頭部同様、ロミオの恋多き若い男のホルモンの働きを、揶揄しながら言祝ぐところが発見であった。歳をとって気がつくところかも知れない。
この映画ではニーノ・ロータの音楽が素晴らしく、舞踏会のシーンのファルセットの歌声やダンス音楽はいまも耳に残っている。なけなしの金でサントラ盤のレコードを買ったほどだ。
私の記憶の中では彼女はジュリエットのままである。ジュリエットといえばオリビア・ハッシーなのである。彼女の死を悼むとともに、彼女は永遠になった。
中島みゆきの『りばいばる』の歌詞ではないけれど、たまたま、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』を聴いた。本人が歌っていたわけではないが、それからその歌が頭の中でリフレインしてとまらない。頭に聞こえてくるのは、もちろんいしだあゆみ本人が歌っている『ブルー・ライト・ヨコハマ』である。ずいぶん久しぶりだった。自分ではそれほど好きな歌ではないと思っていたが、じつはけっこう心に沁みていたのかも知れない。
いしだあゆみは歌手としてよりも俳優として強く印象に残っている。何度もこのブログに書いたけれど、日本映画で私のもっとも好きな、高倉健主演の『駅』という映画の冒頭部に、わずかな時間だけ登場するいしだあゆみの演技が素晴らしかった。彼女はこの演技で日本アカデミーの助演女優賞を受賞している。倉本聰はこの人にそのような役割を意識的に振っているのかと思う。『北の国から』の純と蛍の母親役も役柄が酷似している。
むかしのホームドラマにもよく出演していたが、強く彼女の存在を意識したのは、連続ドラマの『祭りばやしが聞こえる』だった。このドラマで主役を演じた萩原健一とそのあとに結婚している(のちに離婚)。そういえば、このドラマの主題曲を歌っていたのが柳ジョージで、それで柳ジョージを知りファンになった。冒頭のこの主題曲がこのドラマを盛り上げていたのはたしかだ。
向田邦子のドラマ『阿修羅のごとく』での演技も忘れられないし、『男はつらいよ』シリーズの『あじさいの恋』でマドンナを演じたときの、寅さんとの夜の舟屋のシーンが若狭の海の美しさとともに忘れられない。
あまりまともに聴いたことのないいしだあゆみの歌を、あらためてじっくりと聴いてみたくなった。
お気に入りに入れているブログは五十人を超えるが、毎日かならず開くのは二十人ほどである。その方たちのブログの更新が年末になって減っているのは、年末でみんな忙しいからであろう。こちらもそれなりに気持ちだけは忙しくしているから、いつものようにぼんやりと座り込んで思い巡らせる余裕がなくて、ブログを書くには書いても少々やっつけ気味になってしまう。
原因があって結果がある。掃除をしなければ汚れる。しかしその結果が原因となる。汚れたら掃除をしなければならなくなるのである。そういえば、むかし読んだマーク・トウェインの小話を思い出した。
「主人が召使いに靴を磨くように命じたら、召使いは、外は雨で、磨いても靴はすぐ汚れてしまいます、と磨くのを嫌がった。その召使いを見て主人は、そうか、それならおまえにはこれから食事はなしにしよう、と言った。食べてもどうせあとで腹が減るのだから」
因果はめぐるというが、結果は原因から遅れてやってくる。為政者の悪政の結果はすぐには出ないことが多い。そうして交代した為政者が、その悪政の結果の責任を問われるのをしばしば見る。原因と結果の両方を時系列できちんと見るのはなかなかむずかしいようだ。ましてやその悪政が国民の要望に応えたものだった場合はなおさらだろう。
なにもしていないのに、前任者のおかげで評価されることもある。運のいい人と悪い人がいるのがこの世の中のようだ。
今日は28日で、末広がりの八の日だから玄関扉にお飾りをかざる。明日は九(苦)の日だから飾らない方が良いのだと、こどものころ母に教えられた。そのあとになると一夜飾りなどと言われて心がこもらないとも言われた。お飾りとお供えの鏡餅は昨日買ってある。例年より一回り小さいものにした。大きさより心だと言いたいが、単にケチったのである。
今日と明日で大掃除の残りをするつもりであるが、たぶんまた途中で他のことに気が散って遅々として進まない気がする。掃除は苦手だ。
大掃除の手順を書きだしたものが、昼過ぎには三分の一ほど片付いた。まだまだだが、ついパソコンの中のファイル整理などを始めたら、時間の経つのを忘れていた。もちろんメインは写真のファイルの整理である。三つのパソコンに、似たようなファイルがそれぞれ入っているのだが、どれが重複しているのかよくわからなくなっている。ディレクトリを作り直して、写真用の外付けハードディスクにまとめていったのだが、二十年分以上の写真だから膨大である。同じものが違う名前になっていたりしていたから重複したものもある。それを日付を元に(すべての写真ファイルに日付の数字をつけてある)まず整理し直し、そのあと地域別に分類し直していった。たいへんな作業だから、とても一日では終わらない。大まかに仕分けし、重複しているものを削除していった。これが片付けばWindows10のラップトップパソコンを引退させることができる。できれば年内に今年分の自分のブログのアーカイブをつくっておきたいと思うが、まず掃除の方が先かなあ。
自分にとって不都合なことが起これば、誰でも何が原因か考える。そこからどうすればよいかを考えていくが、自分の力ではどうしようもないこともある。自分に問題がある場合以外は、たいてい自分ではどうしようもないことが多い。自分に問題があったなら自分が変われば良いだけだ。
人はたいていそういうときに誰かのせいでそうなった、と考える。自分が原因のときでさえそう考えるのが人間の常だから、理由のよくわからない不都合については、必ず誰かのせいにして納得しようとするものだ。
例えば、物価が上がって生活が苦しいと感じるときには、政府が悪いと考える。世界中での政治の混乱の多くがそういう怒りから発しているように見える。実際に為政者に問題がある場合も多いが、それを差し引いての根本的な問題もあることにはあまり思いが至らない。その問題とは、ロシアが、世界有数の穀物などの生産国であるウクライナへの侵略を開始したことにより、農産物の生産が大きく阻害されて価格が大きく上がっていること、ロシアからの石油や天然ガスのヨーロッパへの供給が滞り、それを中東などに求めたことで値上がりしたことなどが背景にあるなどである。
エネルギー価格については、中国の工業生産の停滞が始まったことで需要が減少しており、多少緩和されているが、食料については地球温暖化による異常気象で干ばつや洪水の影響もあって高止まりが続いている。中国の過剰生産品が世界へのダンピング販売となって怒濤のように押し寄せ、各国の企業が採算割れして廃業倒産に追い込まれていることも拍車をかけ、物価高に失業が追い打ちをかけているのだから不満が高まるのは当然だろう。そこへ政情不安の中東やアフリカから不法移民が大挙してやってくれば、そこに怒りをぶつけることも当然の成り行きだ。
そういう背景を理解すれば、物価高や生活の苦しさが政府のせいである、と単純に言うことができない。とはいえ理由がわかったからといって納得できるわけではないが、政府の責任として糾弾し、政権を打倒したあとの社会の混乱がもたらすものについての想像力くらいは働かせた方が良いのではないかとも思う。
トランプ支持者がトランプの一言一言に拍手喝采して気勢を上げる。ああいうのが私には理解できない。お隣の国では、殿ご乱心に対して大勢の人が興奮してコブシをあげ、唱和して弾劾を叫んでいた。ああいうのも理解できない。そういう集団の一員になることはできない。ただ、自分が北朝鮮に住んでいたら、首領様を賛美して熱狂的に拍手するだろう。そうしないと命に関わるからで、命に関わらないならそんな恥ずかしいことはできない。
少し前にナチス親衛隊のドキュメント番組を見た。そこではドイツ国民が熱狂的にヒトラーを、そしてナチスを賛美する姿が写されていた。これは北朝鮮的な熱狂だったのだろうか。そういう人もいただろうけれど、多くが心の底から熱狂的に賛美していたように見えた。熱狂的賛美は誰かの扇動によるものだ、と私はつい考えてしまう。しかし、どうもそうでもない自発的なものであるらしい。少なくとも扇動されていても本人は自発的だと思っているだろう。いま誰かを、また何かを集団で熱狂的に賛美する姿を頻繁に見せられていると、熱狂が暴力につながっていった歴史を思って、私は不安になる。
あちこちに散らばっていた本を整理して、さらに押し入れからもしまったままの本を引っぱりだし、①古すぎたり痛んでいるので捨てるもの、②本を引き取ってくれる業者へ渡そうと思うもの、③もう一度読むかも知れないのでとりあえず残すもの、それと、④きちんと本棚に収め直すもの、に分類した。業者へ渡すつもりの本が段ボール箱に四箱になった。
じつはそれでも入りきらずに一山残っている。箱がもうないのだ。たぶん、もう一箱では足りない。処分は来年にするつもりで納戸に積んである。床がもつかなあ。とりあえず残すものは押し入れに入れ直した。本棚の本も少し整理したが、ここを本格的にいじると八幡の藪知らずに踏み迷うので、適当なところで打ち止めにした。
これでとにかく床の掃除が可能になった。今日はここまで。うごきまわっていたので汗をかいた。昨日つくったおでんがまだ残っているので、風呂に入って汗を流し、おでんで一杯飲むことにする。下準備が完了したので、明日から一部屋ずつ掃除していく。
Windows10パソコンはWindows11へのアップデートをしないと、来年10月にはセキュリティのフォローがなくなるので、ネットにつないでの使用は危険だという。そうしてそのことを調べると、やたらに買い換えの推奨が入る。いまデスクトップ一台と、ノートパソコンを二台持っているが、古いノートブックパソコンは機能的にアップデート不可だし、いささか発熱が強くなって、クーラー板の上で動作させているが、立ち上がりが遅くなってしまい、もう引退必至なのであきらめている。
問題はデスクトップの方で、CPUがWindows11に対応していないからアップデートを試みても、アップデートできないと表示される。しかしそこそこのクラスのものを買っていて、現在何の問題もなく動いているのである。画像処理などは、大きめの液晶モニターをつないでいるから使い心地もいい。どうしてもアップデートしたければ、する方法はないことはないらしい。引退させるには惜しいので、その方法を試してみたいけれど、素人がやるとリスクがあるらしい。試そうとして、いま思いとどまっているところだ。まだ少し早すぎる。来年、いよいよという時期にデッドエンドを覚悟の上で試すことにした。何しろ私は無知な素人である。
いまメインで使用し、旅のお供に持ち歩いているNECのノートパソコンは、立ち上がりも動作も速くて快適だが、重いし液晶の画質が不満である。何より色の鮮明さが悪くて、撮った写真をこれで見るとがっかりする。デスクトップの方で見て、ちゃんと撮れているのを確認し、安心する。もうすぐ引退の、超格安で購入したAcerのラップトップの方がずっと画像が鮮明なのである。ゆとりがあれば、旅のお供にするために、軽くて画質の良いラップトップが欲しいところであるが、懐具合もあって悩ましい。もしかしたらデスクトップも買い換えが必要になるかも知れないのであるから。
NHKBSで九月に放映された『母の待つ里』全四話を見た。原作は浅田次郎で、この人は少し上手すぎるところがあったりするが、その作品世界への引き込み方の巧みさについ乗せられ、感動してしまう。
四十年ぶりに母の待つ里を訪ねる松永徹(中井貴一)は、独身で一流会社の社長である。「故郷へ錦を飾る、か」などとひとり言をもらす。彼にとっては、訪ねる村はすでに未知の村である。ところが出会う村人は彼を見覚えていて、懐かしそうに声をかけてくる。その微妙な違和感こそがこの物語へ引き込む入り口なのだ。訊かないのに教えられた我が家への道をたどり、やがて大きな曲屋の農家にたどり着くと、そこで「母(宮本信子)」が彼を出迎える。嬉しそうに迎える母親に対して、松永はぎこちない。
母の優しいもてなしに次第にくつろぎ始める松永、彼の思うふるさとが次第にイメージから現実になっていく。忙しさに忘却していた何かが彼の元へよみがえってくる。凝り固まっていたものが溶けていく。たった一晩だけの帰郷を終えて、彼は激務の世界へ戻っていく。
ネタばらしともいえないと思うので、あえて書けば、これはつくられたふるさと、演じられた母である。イベント会社に高額な料金を支払うことによって得られる、かりそめのふるさとと母親である。その世界に自ら取りこまれることで癒やしを得るのである。
第二話では松嶋菜々子が、第三話では佐々木蔵之介が演じる人物が、同様にこの作られたふるさとを訪ねる。そこでなにを感じるのか。それはそもそもそういう場を求めるに至る人生そのものを回想し、描くことでもあるのだ。そして第四話では事態が急変する。そこで明らかになる母の実像、かりそめの息子であり娘であった人たちの出会い、そこから彼らになにが訪れるのか、そして見ている我々がなにを感じ考えるのか。
記憶に残るであろう好いドラマであった。舞台は遠野をイメージした村であり、それぞれに対して母が語り聞かせるむかしばなしは、『遠野物語』をベースに浅田次郎が創作したものであろうと思う。それも素晴らしい。
今日一日かかると思っていた年賀状の作成が、思いのほか早く仕上がり、三時過ぎには郵便局の年賀状専用の箱に納めることができた。年賀状の文面の上半分に写真を入れ、手書きの書き込みスペースを十分とって定例文書とともにプリントした。使った写真は三種類。相手によって違う写真を択ぶ。時間がかかるのは手書きの一言である。それでも枚数が以前よりだいぶ減ったから、一枚ずつ書いていくうちにペースが上がって、早めに仕上がったというわけである。
プリンターは以前から紙送りが不調だったり、紙詰まりを起こしたりしてイライラさせられているが、今日は紙詰まりが一度だけで、お利口だった。途中でインクが切れたので、買いに行ったのは想定外であった。
年賀状が済めばあとは大掃除、そして年末には正月料理の支度が待っている。今年は息子が帰省するので、いつもよりもちゃんと掃除をしたいところだが、たぶんいつもどおり、やっつけで終わるだろう。つまり床に出ているものをとにかくどこかに放り込んで、あとは四角い部屋を丸く掃除するということだ。
たまっている録画、映画やドラマなどをどんどん見ていきたいという気持ちの方が強い。八月に立てた、そのときから年内に映画百本の目標は、八十本あまりのところでとまっている。ちょっと無理があるが、頑張ってみるつもりだ。
今晩は、ご褒美におでんをつくっている。
昨晩のBSフジプライムニュースで、櫻井よしこ氏が石破首相を酷評していた。首相になることだけが目標であって、肝心の、首相になったら何をすべきか、どういう国にしたいかということが考えられていないから、周りの状況で言うことがコロコロ変わる、と批判していた。
国際会議でのマナーのお粗末さや、振る舞いについての話なども、伝えられているとおりなら恥ずかしいことだと思っていたところだが、私はもともと石破氏をあまり評価していなかった。しかし、まだ櫻井よしこ氏ほど全否定していない。ただ、首相になることだけが目標で、目標を達成してしまったらあとはどうしていいかわからないという見方には、次第にそうかもしれないという気になりかけている。
もともと石破氏は評論家としての面が強すぎて、まるで与党内野党だなあと思っていた。その評論が、自分ならこうする、という裏打ちがあってこその政治家だろうが、実務の実行力がなければただの政治ジャーナリストだ。トップに立つ者の実務能力は、人間関係を掌握できなければ発揮することはできない。櫻井よしこはもうすぐ石破首相は交代するだろうと予言していた。彼を支え、適切なアドバイスをする取り巻きをもっているかどうか、どうも危ういような気がする。その証拠が国際会議での振る舞いであったのではないか。こういうときにはこうするものですよ、というアドバイスがもらえずに冷笑されていたのか、または本人が聞く耳を持たなかったのか。
今のところ見るべき事績もなく、聞くべき国家観も拝聴していない。あの菅氏だって、岸田氏だってそれなりに「これをした」ということを残している。石破氏も、いまに何か、なるほどと思わせることを言い、実行するのではないかと一縷の望みを持っているが、そろそろ時間切れになりかけている。そうして願いが叶ったから良かった、で交替したら、次もまた、になったりしそうな顔ぶればかりが目に浮かぶ。日本がいま置かれているのは、そんな状況ではないのだけれど。
集中が持続しにくい(つまり気が散りやすい)性格なので、事前に段取りを考えるように心がけている。段取りにはけっこう余裕を持たせているから、それが狂うことはあまりない。その代わり、その段取りが大幅に狂うと気持ちが乱れて、ちょっと感情的になってしまうところがある。想定外のことに弱い、つまりイレギュラーに弱いので、立て直すのに多大なエネルギーを必要とする。
本日は一日かけて年賀状を仕上げるつもりであった。ところが入院中の妻のことで市の保健センターへ行ったり、入院先の病院へ行ったりしたので、段取りが大幅に狂った。車で走り回ったのだが、どこも大渋滞。車がたくさん動いているのに、工事がいつも以上に多いのである。年末はいつもこうだとわかっていても、信号三回待ち、四回待ちが続いたりすると時間を空費していることに苛立ってしまう。結局すべて片付いて帰宅したのは昼をだいぶ過ぎてしまい、遅い昼食を摂ってから一息入れていたらなにもする気がなくなってしまった。
気を取り直して年賀状の住所録の整理は何とか終わって、宛名のプリントアウトだけは済ませた。そういうときに限ってプリンターが不調で、無駄な時間を食った。そのことでも気持ちが波立つ。荒波にならないように自分をなだめて、いまぼんやりしているところだ。明日は明日でしたいことがあったのだが、文面の作成と印刷をしなければならない。いつもこうして泥縄の年賀状作成をしている。もう少し心をこめたいのだが、思うだけである。年賀状をやめてしまう人の気持ちはよくわかるが、もらうと嬉しいのでまだやめるつもりはない。やっつけの年賀状でいつも申し訳ないと思うばかりである。
今日はクリスマスイブか。唐揚げでも揚げて、ワインでも抜こうか。
日産とホンダの統合が本格的に進められるようだ。日産は過去にも経営不振から危機的状況になったことがあるらしいし、現在も順調とはいえない。そもそもトヨタと日産が日本の二大自動車メーカーだったのに、いまは日産はホンダの後塵を拝している。日産には本質的に問題があるのであろうと思えてしまう。外部からの強権によって一時的に急場をしのぐことができても、自力で動き出すとたちまちまたおかしくなる、という事実がそれをしめしている。
ホンダとの統合で、ホンダの力で改善しようというのだろうか。ホンダが日産に引きずり込まれておかしくなってしまわないかと心配になる。どんな目算があるというのだろうか。日産に問題があるのであれば、そういう会社と統合して規模の拡大を図り、その利を生かす、という目算は当てが外れるのではないか。
ふるさと納税に関係するCMをテレビでしばしば見る。私は年金生活者なので、所得税の納税はわずかな定額で、ふるさと納税に振り分けるようなものはない。ふるさと納税無関係者であるから、そういうCMは、私にはわけが分からず、やかましいばかりである。それにしてもあの貴乃花の「ふるなび」とかいうCMには嫌悪感しか感じない。貴乃花も墜ちるところまで墜ちたものだとしか思えない。みなそう思いながら見ているだろうし、その哀れみを誘うのがあのCMの狙いなのだろうが、それにしても・・・。
そういうCMを流しても利益が上がるというのはどういうことなのだろう。わけがわからない。やっていけるほど手数料収入があるということなのだろうか。それを誰が払っているのだろうか。
やらないと損をしますよ、という呼びかけをもたらすシステムは、そもそも不公平を生み出すシステムではないのか。そういうものには不快を感じる。理解力がなく、しかも面倒くさがり屋であることがそもそもの理由だが、それに腹が立つのは、やはり損したくないというさもしさが自分にあるからだろう。ふるさと納税無関係者で良かった。
ハンドルに遊びが必要なように、機械にも遊びが必要なのだという話を聞いたことがあるが、あれは人間を相手の装置だからではの人間工学的な必要性で、人間は動作までのタイムラグが大きく、機械はきわめて少ないというその違いを、遊びで緩衝させているのだと思う。
不必要な遊びは機械にとってはムダである。ムダは少ない方が効率的である。しからば人間のムダも極力減らすようにすれば、生産性は向上するはずだ、と思われている。世の中は、だから時間を支配する者と支配される者とに別れて、時間を支配する者が巨額の富を得ている。
若者は自らの時間を圧縮する。圧縮すれば、する前より時間が生み出され、そしてその時間が自分のものになると錯覚するが、その生み出された時間はあら不思議、誰かのものになってしまうのである。それが証拠に、時間を圧縮した者は余分な時間など持てずにさらに忙しくなる。世の中はそうして尻に火がついたように時間に追いまくられている人であふれている。
働く者の管理が細分化され、厳密化され、効率がとことん追求され、ムダは極限まで縮小化されていく。それが生産管理なのだとしたら、人間はついに機械であることを求められることになったということである。チャップリンの映画『モダンタイムス』はそういう世界を描いた戯画だが、あれが描かれた時代にはすでにそれが現実であった。そうして生産の効率は上がり、ものがあふれ、いかにも世界は豊かになった。
しかし豊かになった人たちはゆとりを持てただろうか。ますます時間は圧縮され、誰かがその時間を奪っていく。エンデの『モモ』の世界は現実世界の寓話である。
私が現役だった時代は、まだゆとりがあった。そのゆとりが削られ続けているようで、かなり仕事は厳しくなっているようだ。そうしてますます忙しくなり、さらに一生懸命働いているのに、豊かになるどころか貧しくなっていっているようである。それは世界との競争に負けているからだと経済学者や評論家は言う。勝たなければ、勝ち続けなければならないのだと言う。いったい勝っているのは誰なのだ。
まだ若いころ、未来はどんどん豊かになり、ゆとりがあり、働く時間は短縮され、機械が人間の代わりに働いてくれるようになると信じていた。たぶん人間の代わりに機械が働く割合は増えていくのだろう。何しろムダがなくて効率的なのだから。しかし、人々がゆとりのある生活を得られるのかどうかは怪しいようである。そこそこゆとりを楽しんでくることができた私が、そのゆとりのない世界にあおられて焦りを感じさせられているくらいだから、現役の人々はたいへんだと同情する。
何かがおかしい。
五感が受け取る情報は脳で受け取られて蓄積される。その量は膨大で、それをすべてためておくことはできないから、選択されたものだけが記憶として残る。それでも蓄積を重ねればあふれ出す。そんな状態になると脳の働きが悪くなるから、大半がゴミとして処理される。
脳は睡眠中には休んでいるのかというと、昼間と同じように働いているのだという。脳が消費するエネルギーを見るとそれがわかる。何をしているのかといえば、たまりすぎた情報をゴミとして捨てているのである。私のイメージでは、不要な情報をシュレッダーにかけて、大きなゴミ箱に捨てているというところか。そのゴミ箱を無意識領域と呼ぶ。多くの物は溶けて消え去るが、理由があって裁断が不十分なものが意識領域に浮上してくる。それが夢なのだ。
別々の断片が奇妙に継ぎ合わされて浮かび上がってくるから、夢は現実のようで現実ではない。「理由があって」というその理由を解釈しようというのが心理学や精神病理学の夢解釈なのであろう。
睡眠を阻害すると、眠りによる脳のゴミ処理ができなくなり、幻覚や妄想を起こすのは、処理しきれなかったゴミが無意識から意識に侵入してしまうからだろう。精神疾患の人を研究することで精神分析学などが発達したのは、病気を治すことも目的ではあるが、それ以上に人間の記憶や意識というものを研究するのに大いに役立つと考えられているからであろう。
精神の健康のためには眠りが必要だ、というのは脳を休めるのではなく、脳のゴミ処理が必要だからだ。だから覚醒剤などで眠りを阻害すると、薬害ももちろんあるだろうが、ゴミ処理ができないために、脳が機能不全を起こして妄想や幻覚を生み出すようになるのだろう。
睡眠は大事である。できれば安眠の日々を送りたい。自分の見た夢を私はよく反芻するけれど、それが、自分には見えない自分の影の部分を推察する手がかりになるかも知れないと思うからだ。
上記のことは、囓り読みしたいくつかの本から自分がだいている、脳と睡眠と夢についてのイメージである。必ずしも学術的なものではない。
運動神経が鈍いので、スポーツをするのが苦手で、苦手だから見るのもあまり好きではない。とくに球技はするのも見るのも嫌いである。それでも大学では格闘技をしていたから、剣道、柔道、空手、相撲などはときどき見たものだが、いまはそれにもあまり興味がなくなった。
いま、スポーツで唯一楽しみにして見ているのは、年末の高校駅伝と年初めの箱根駅伝である。今日はその高校駅伝のある日だった。たいてい何かしながらテレビを見たりするものだが、何もせずに午前中は女子、午後は男子の実況をちゃんと全部見た。みんな全力を出し切っているのだろうが、それでもさらに自分の限界と思っていたところを越えた力を出し切れるかどうか、その違いが結果につながるようだ。少し鈍感になっている自分が、この時間だけはそれなりに感動して見ている。みんな頑張った。
留学生の走れるのが最短の3キロのコースのみに限定されたのはたいへん良い措置だと思う。不公平感がだいぶ解消された。ただ、中継のシーンで、選手の中に、周りが見えていないで他の選手の邪魔になっているのをしばしば見せられる。ああいうところの無神経さは見ていて見苦しい。そういう子の振る舞いは、たぶんあの場だけのことではないのだろう。
高校駅伝が終わると、いよいよ今年も終わりだなあと思う。明日からは年賀状作成や大掃除にいよいよ取り組まなければ・・・。
見回すと、身の回りに必要以上にものがある。増えるもの、というが、増えるのではなく、自分が増やしているのである。しかしその自覚はあまりなくて、勝手に増えているとしか思えない。ところが反対に、勝手に減るのは金くらいで、減らすのは自分が意識して減らさなければひとりでに減ることはない。金が減るのはものが増えるのと裏表だから考えれば当然だ。
ものが増えるのは自分が使うと思っているからだ。使うことが無いと本当に思えば、手に入れることはただの場所ふさぎで愚かなことである。いつかは使う、役に立つ、と思うから手に入れるし、とっておく。自分の持ち時間がたくさんあるときは気がつかなかったけれど、さすがにこの歳になると、こんなにあったら使い切れないのだと気がつく。生ものなら、必要以上にあったら腐ってしまうから余分にあることの愚かしさはわかる。しかし腐らないものはただずっとそこにあるだけだ。とはいえただそこにあるものというのは、目に見えなくてもじつは少しずつ朽ちていくものだ。
あとは可能性の問題だ。可能性とは優先順位ということだ。必ず使うもの、たぶん使うだろうと思うもの、もしかしたら使うかも知れないもの、たぶん使わないだろうと思うものとに分けられる。ところが、決して使わないもの、もっていても意味が無いものまでがそこにあったりする。考えすぎると、自分自身の存在意味そのものについて問うことになるから、あまり深く考えない方が良いようだ。
とっておくことの基準を引き上げて、減らすものを増やすことにしようと思う。そもそもこんな理屈を考えているからいけないのだ。考えている暇に、どんどん捨てればいいのだ。後悔することはめったにないものだ。しかしそのめったにないことばかりが頭に浮かんだりする。それごと捨てるしかない。
昨日、昼前に娘が来て、昼食を一緒に食べながら歓談したあと、入院している妻の病院に一緒に行った。その前に、妻から頼まれていた冬服を娘とともに店で選んで購入した。私ではなかなか広い売り場とたくさんの商品の中から選ぶのはむずかしかっただろう。それを病院に持参した。
前々回はちょっと調子が悪そうだった妻も、前回の面会のときはだいぶ落ち着いていた。今回は顔の色艶も良く、穏やかなおばあさんになっていた。相変わらず話がときどき跳んで、ついていくのがたいへんだが、わからなくても相づちを打っていると機嫌が良い。話したいことがたまっているのだろう。よくわかる。
面会が終わって娘の顔を見ると、ほっとしている様子が見られた。前回娘と行ったときにはあまり妻の状態が良くなかったからだ。その足で娘を家まで送った。息子が年末に帰省してくるので、娘も顔を出すように言ったから、年内にもう一度会えるだろう。
時間に余裕があったので、娘とゆっくりと話すことができた。それが何よりうれしいことであった。
女性がじっと見つめてきたら、男は好意を持たれているとつい思う。思うけれども、たいていは自分の思い違いであることぐらいはわかる。でも見つめられることはうれしいものである。もちろん愛想で見つめていたり、愛想笑いがともなっていれば、勘違いは起きようがない。愛想笑いと好意の笑いぐらいは区別がつく。それほどバカではない。
NHKの地方局のニュース番組で、天気予報のお兄さんを横からじっと見つめるときの様子がとてもいい女性がいて、失礼ながら美人とは言いがたいものの、好感を持って見ている。いまはこういう女性が少なくなった。美しくても好感が持てない女性と、そうでもないけれど好感を感じる女性の違いについて、少しわかった気がした。たぶん、女性から見た男も似たようなものだろうと思う。
若いときは、つい見た目が優先してしまう。いろいろ学んで、しかし学んだことを生かすにはおおいに手遅れであることに、自分で笑ってしまった。ホルモンのせいであった。
毎年、大掃除や年賀状作成が終わって一息ついたあとに、静かに年越しをするために本を読む。テレビはガチャガチャとやかましい番組だらけで見るものがないし、紅白歌合戦など論外である。何十年も見ていない。現役時代は時事評論、来年の予想などについての本や雑誌を買い込んで読んだものだが、リタイア後は少し読み応えのある本を読む。
本棚を眺めて、今年読むことにしたのは余秋雨という人の『文化苦旅』(阿部出版)という本と、新しく岩波文庫で出版が始まった永井荷風の『断腸亭日乗』の第一巻と第二巻である。『文化苦旅』はずいぶん前に買いながら、順番待ちで本棚でホコリをかぶっていた本だ。陳舜臣の本を読んでいるうちにこの本を読みたくなった。古い中国から現代中国を眺めて著者が考えたこと、思うことが記されていて、まだ拾い読みしかしていない。『断腸亭日乗』は永井荷風の日記で、いままで抄録しか手に入りにくかったものが、今回全文が出版されたことを、いつもブログを拝見しているshinzei様に教えていただいた。全六巻の予定のうち、いまは二巻だけ出版されている。
永井荷風については、岩波書店の『荷風小説』全七巻を出版順に購入して揃えた。いろいろな作家が荷風について毀誉褒貶の評論をして、興味を覚えたのだ。全集はまだ半分も読んでいない。ついでだから『荷風随筆』全五巻も古本屋で安く手に入ったので、それも揃えていて、こちらはほんの一部のみしか読めていない。荷風については佐藤春夫の『小説永井荷風伝』、江藤淳『荷風散策』、川本三郎『老いの風景』などの本を読んで、荷風の側面を多少は承知している。できればそれも読み直したいと思っている。荷風の評伝については、久保田万太郎と佐藤春夫の確執のとばっちりで、ことさらに一番年下の江藤淳が高く評価されたというおもしろい逸話があって、江藤淳もそのことについて書き残している。
但し、今年は息子が暮れに来るので、バカ酒で酩酊することになる可能性も高い。それならそのあと年明けにゆっくり読めば良い。とにかく優先順位を付けて本を整理して、そこら中に散らばったり積んである本を、しまうものを一度しまわないと大掃除もできない。
そういえば、北関東の友人に持参した陳舜臣の本のなかに、『中国歴史の旅』上下二巻を入れた、といったのに、こちらに残っていた。惜しくて残したのであろう。申し訳ないことで、次回会うときに渡すつもりである。ここは業務連絡だが、読んでくれているかなあ。期待させたのにごめんなさい。
ある方のブログを読んで考えているうちに、自分が愚かであることに気がつくには知性が必要なのだという、あたりまえのことに改めて思い至った。知識で知っていることとは違う、別の知覚というのがあるとわかっているのに、ついそれを忘れてしまう。知識にとらわれて自分ではなかなか気がつけないものだ。そのブログにそういうことが書かれていたわけではないが、直接的に関係ないことから気がついたり、知ることもある。
自分が愚かであることを知らないのが愚かであるということだと、古代の賢人は言っている。賢人でありたい、などと少しも思っているわけではないが、せめて愚である自分を常に意識していたいと思う。それでこそ知らないことを識ったときの喜びを感じることができる。いささか手遅れで、もう少し早く気がついていれば良かったなあ、とも思う。そうしたら世界は私にとってもっとおもしろかったろう。
遠出をしているあいだ便秘気味だったのに、帰宅したら下痢状態になった。とくに思い当たるものを飲んだり食べたりしたわけではないのだが。今日は気ぜわしいだけで、結局ぼんやりと過ごした。つまり、傍目にはなにもせずのんびりと過ごしていたわけだ。小人閑居して不善を為す、外に迷惑をかけなくても、閑居は自分自身をむしばむところもある。ぼんやりしているのに気が焦る、というのはあまりいいことではない。明日は妻の入院している病院へ娘と面会に行く。妻から頼まれた服などを買い物してから行くつもりだが、今年最後の面会になるだろう。
豊かさを求めることが生きやすさにつながると信じてきた。生産を増やすこと、科学が進んで便利になること、それが豊かさだと信じてきた。そうしてむかしよりもはるかに豊かになったのに、いつの間にか世の中は弱肉強食の世界になった。それは別々の話なのだろうか。
必要なものが必要なだけあれば好いと思うが、もっと、もっと、と使い切れないほど買い集めてしまう。そういうものが豊かさなのだろうか。甚だしいのはお金を果てしなく集めてしまうシステムが暴走していることだ。一個人が何兆円何十兆円を所有してしまう、などというのは狂気の沙汰である。別にうらやましいとも思わない。
弱肉強食とは生き残りをかけて奪い合い、強い者が総取りするという世界だ。必然的に弱い者は淘汰される。いまの世界は多様化という名の弱者の生存肯定を叫びながら、現実は弱者強肉の世界であるという矛盾したものに見える。だからどうしたらよいのだ、どう考えたら良いのか、それを傍観者である自分で考えなければならないと思っている。傍観者とは、ほとんど社会的役割を担うことのなくなった自分であり、関与しようとも思わなくなった自分である。考えるだけであるから無責任で、格好を付けていえば隠者生活か。それでも考える。関わっている人、責任ある人はもっと考えていることだろう。
考えるだけでは何も変わらないが、考えなければどうしたらよいかわからない。
朝食付きで予約したので、朝ゆっくりと食事を摂る。昨晩は気分よく飲んだし、友人の適切なストップがあったので二日酔いはない。だから美味しく食べられた。通勤にかぶらないように時間をずらして出発したが、それでも一部渋滞があったものの、北関東道にほぼ予定通りにのる。高崎方面に西行すれば、右手には赤城山、斜め左手奥には秩父の山、正面には妙義山が遠くに見える。右手奥の山々の上にチラリと白く見えるのは浅間山だろうか。秩父の方向といえば、おキヨさんのいるあたりだが、その後どうしているのだろうか。ずっと気になっている。
高崎から関越道を少し南下、藤岡から上信越道へ移る。ここから次第に上り坂になっていく。妙義の奇怪な岩の壁が次第に間近に見えてくる。ときどき浅間山が顔を出す。雪で真っ白である。厚い雪雲が被さっているから、たぶん強い雪が降っていることだろう。碓氷峠を登り切れば軽井沢である。さらに坂を登ったり下りたりがあるが、野沢あたりから高原風景となる。小諸を過ぎたあたりからチラチラと雪が降り出した。浅間の山から吹き下ろす雪がすぐそばまで白いカーテンのように迫っているが、道路まではまだ届かない。あたりはまだ白くなっていないから、降り出したところのようである。さっきまで見えていた浅間が裾野しか見えなくなった。
上田を過ぎて更埴から長野道に移る。トラックが増えてきた。雪はちらついているが積もるほどの降りではない。北アルプスは雪雲のあいだから少しだけ見え隠れしていた。あおるというほどではないが、わざわざすぐ後ろにピタリとついて、しばらくしてからおもむろにこちらを抜き、すぐ前に割り込んでくるという、嫌らしい運転をする車が何台もあった。本人は意図的にやっていないのかも知れない。単なる癖かも知れない。しかし高速で他の車に思わずブレーキを踏ませそうになる運転はやはり問題がある運転だと思う。
岡谷ジャンクションから中央道に移る。中央道は工事だらけであり、一車線走行区間が多かった。ナビのインターとインターの間は工事マークだらけとなった。夏前から始まった工事は、いったいいつまで続くのだろう。木曽駒ヶ岳の前山が少しだけ雪景色となって、ずっと見えていた。雪があるのとないのとでは山の迫力、美しさが違う。南アルプスは逆光で陰になっていたが、やはり雪化粧しているようだ。駒ヶ岳のサービスエリアで昼食を摂る。中央道ではまったく雪には降られなかったが、今晩あたりから降雪があるのではないか。
我が家の近くでガソリンを入れる。まだそれほど高くなっていないが、だいぶ値上がりするらしいので早めに満タンにした。無事に帰宅して確認したら、今回の走行距離はピタリ千キロだった。前回の新潟・東北行では1800キロだったから、併せたら今月はよく走った。年内はもう宿泊するような旅はしないつもりだが、まだちょっと走りたりない気分はある。
楽しい会話は心地よい酔いにつながり、最初は時間の経つのがゆっくりだったのに、気がつくと時間があっという間に過ぎ去っていた。昨晩の友人との会食は、互いに歳をとったから節度あるものとなり、ちょうど良い酩酊状態でとめどなく続きそうだったが、やがて宴は終わる。再会を約して別れた。
だいぶ飲んだけれど、今朝は気持ちよく飲んだおかげでとくに二日酔いということはない。ただ、会うまでの楽しみの記憶よりも、別れる寂しさの方が気持ちの中に残っていて、これからまた何回会えるかなあ、などと語ったことばかりが思い出される。
今日、どこにも寄らずに我が家へ帰る。日常へ帰る。師走だからそれなりに忙しい日常が待っている。
昨晩、茨城県南部で震度4の地震があったが、飲んでいた北関東でもけっこう揺れた。
千葉の弟の家を昼前に出発して、先ほど北関東の街の、駅前のビジネスホテルに到着した。友人からお誘いがあり、やってきたのだ。これからホテルで一息入れたら二人で会食し、歓談する。楽しみでわくわくしている。土産に、友人から所望された、読了済みの陳舜臣の本を持参した。十冊ほどもあるだろうか。みな文庫本である。読み始めたばかりの随筆集『随縁護花』(集英社文庫)は弟の家で読み切れると思っていたのに、ほんの少し残ったので、待ち時間の間に読んでしまうつもりだ。
じつは弟に、母や父の残したさまざまな手紙や文章などの仕分けを頼まれたのだ。それで読み切る時間が足りなかった。その中には私に関係したものも多い。時間をとられたが、今朝のうちにめでたく大まかに仕分けを完了した。私の欲しいものなど、段ボール一箱分を車に積み込んでいる。家に帰ったらさらに整理するつもりだ。残りは弟に任せる。捨ててもかまわないと私は思うが、弟が判断するだろう。まだ残っているものもあるというから、次回また仕分けをしようと思う。
陳舜臣の随筆集『随縁護花』は三部に分かれていて、第一部は日中往還の歴史が俯瞰的ではなく、目前で推移するかのようなリアルタイムな書き方になっていて、その時代を多少は実体験した陳舜臣らしい書き方で、知っていることなのに期せずして感情が騒ぐ文章になっている。第二部は中国の古代からの歴史のエピソードを書き記している。これも知っていることなのに陳舜臣らしい深い洞察が加えられていて、興味深い。
今回この本を読んでいて、一番気持ちが乗ったのは、第三部の詩人たちを取り上げた文章である。以前から繰り返し嘆いているように、私は不勉強で素養も足らず、しかも詩に対する感性も鈍いから、繰り返し繰り返し詩を読み、その詩についての注釈を読み、さらにそれが書かれた時代背景を読んで、ようやくのことにおぼろげにイメージを結ぶことができる。陳舜臣は、岑参(しんじん)、李白、杜甫、王昌齢、白居易の五人を取り上げ、その生涯、性格、さらに史実に自分の考察推察を加えて、それぞれの詩人を立体的に描いている。読み終わったのだけれど、なんとなく名残惜しい気がする。しかしそういうものを差し上げることこそが相手に喜んでもらえることであって、それでいいのだとも思う。
前回の追加など。
昔住んでいた家のすぐ裏手にあった銭湯。家には風呂があったが、ときどき家族で入りに行った。未だに営業しているらしいのが有難い。
これは池の端に立つ大きな料亭。宿泊もできた。惜しいことに去年閉館した。アニメやドラマの舞台に使われたところで、ときどき中を公開するそうだ。私の住んでいた家の裏からだと見上げるほど高く大きい。こちらからは三階だが、裏から見ると五階あったはずだ。
ふるさとから九十九里浜まで十キロほどしかないのですぐ行ける。九十九里の海の駅、というところへ行った。ここには日本唯一という青いポストがある。投函できるし、もちろん集配もある。
海の駅の建物の中で昼食を摂る。水槽には美味しそうなマイワシが大量に泳いでいた。
これにて懐旧訪問終わり。
弟夫婦と三人で、私たち兄弟が生まれ育った街へ出かけた。生まれ育った家は処分したのですでに無く、以前は更地になっていたその場所は、いまは幼稚園に変わっていた。近所に小さな教会があり、そこに付属の幼稚園があったのだが、それが大きな幼稚園に変わっていた。なんだか不思議な気分であった。
もとの我が家から歩いて数分の、すぐ高台にある周囲一キロ弱の池に向かう。写真の寺に立ち寄る。
立派な太い杉の木が何本もあったのに、伐られたものが多くてあまり残っていなかった。
この寺には妻の実家の墓もある。そして私の母方の祖母の実家の墓もある。
左手の上には大きな本堂がある。紅葉の残りが見られた。
この一帯は江戸時代鷹狩りの場所でもあり、家康が立ち寄ったりした。吉宗時代には新田開発も行われた。
見下ろしている池はその時代につくられた人工池である。桜の名所でもあり、春は露天も出て賑わう。
中央は出島のようになっていて、弁天様がある。池の中には蓮がたくさんある。人工池だから浅い。子供のころ、ここでフナ釣りなどをした。
この上の山(というより丘だが)に、父親と一緒によく登ったものだ。街が見下ろせる。懐かしい。
ふるさとへ廻る六部は気の弱り、などという。歳とともに過去を懐かしみ訪ねるようになる。ただ、今回多くの記憶のよすがになるものの痕跡がなくなっており、弟とここへくることはもうないなあ、などと話した。
昨日、千葉の弟のところまで走った。約400キロ。日曜日だからトラックが少なく、走りやすい。渋滞らしい渋滞はほとんどなく、快適に走ることができた。富士山が裾野までクリアに見えていて、目を楽しませてくれる。
足柄のサービスエリアで木のあいだから覗く富士山の写真を撮る。ここではてっぺんしか見えなかったのが残念。
ただ、やはりおかしな運転をする人間というのが相変わらずいて、追い越し車線ではなく走行車線を走っているのに尻にピタリとくっついて走られて不快である。追い越し車線は空いているからいつでも抜くことができるのに、である。そうしていいしばらく走ってから、こちらを抜いて、しかもこちらがブレーキを踏まなければならないほどすぐ目の前に割り込む。
こちらが相手にしないのを確認して、しばらく遊んでからむちゃくちゃなスピードで去って行く。たぶん「あいつに勝った」などと優越感にひたっているのだろう。そういうバカは相手にしないし、腹も立てないようにしている。腹を立てても何も善いことはない。昔よりスピードを出さなくなった。そもそもスピードを出すとなんとなく怖いと感じるようになった。自分の反射神経が衰えているという自覚はある。そういうじいさんをあおったりしたら、こちらもあぶないが、あちらもあぶないのがわからないのだろうか。
それほどスピードを出さなかったのに思った以上に早く到着した。夜は弟の嫁さんの料理でお酒を飲んだ。普段独り暮らしなので、会話らしい会話をすることがあまりない。だからうれしくなってついしゃべりすぎる。夜遅くまで付き合わせてしまい、弟夫婦には迷惑をかけた。
2003年の韓国映画『シルミド』を見た。これは実話を元にした物語らしい。北朝鮮が特殊部隊をソウルに送り込み、大統領暗殺計画を実行した。しかしその途中で阻止され計画は失敗に終わる。それに対して韓国側が特殊部隊を育成して、今度は金日成主席を暗殺しようと計画する、というのがこの物語だ。ほぼ実話で、ただ映画では特殊部隊に択ばれたのが死刑囚などの犯罪者であるのが事実と違うらしい。
シルミドのドは島のことである。実尾島という実際にある島で、そこで過酷な訓練が実施される。当初は互いにいがみ合い、統率などなかった部隊が、三年間の命がけの訓練を受けるうちに次第に連帯感と使命感に目覚めていく様子が描かれていく。
ところが事態は変化していく。決死隊として部隊が雨中の海にくりだしたまさにその時、作戦中止命令が下される。南北の和解ムードの到来がその理由だった。逆にその部隊が存在することこそが韓国国家にとっては不都合なことになっていた。部隊は何も知らされずにいるうちに、訓練を担当していた正規軍に部隊の抹殺が指令される。
窮鼠猫を噛む。抹殺計画を漏れ聞いた部隊は逆に反撃に転じ、実情をうったえるためにソウルに向かう。そして彼らは共産勢力にそそのかされたテロ部隊として処断されていく。繰り返すが、細部は別にしてこれは実際にあったことだという。
今回の尹大統領弾劾に至る韓国国民の様子がいろいろ報道されるが、それはとくに極端な人間の行動を切り取って報じているものではあろうが、その興奮状態の異様さを見せられると、この映画の意味についてあらためて考えさせられる。
プロローグで北朝鮮軍特殊部隊の潜入、そしてそれが阻止される場面と、死刑囚たちがどうして死刑囚になったのか、についてのカットが錯綜していて混乱させられるのがいささか難である。救いのない映画だが、その希望と使命感、目的を失ったことによる喪失感や存在を否定された絶望感の落差はよく描かれていて、出来は悪くない。
『雨を告げる漂流団地』は2022年の日本のアニメ映画。以前見ておもしろかった『ペンギン・ハイウエイ』のスタジオコロリドの作品である。まもなく解体されることになっている団地に潜り込んだ小学校六年生の子供たちが出遭う不思議な冒険、サバイバルの物語である。題名通り、団地の建物ごと大海を漂流するという、アニメでしか描けないだろう物語は、『ペンギンハイウエイ』同様、そのシチュエーションを受け入れてこそ、その面白さを楽しむことができる。さいわい私はまだバカバカしいなどと思わずに、思い切りハラハラしながら楽しむことができた。
理解不能の事態を現実として立ち向かう者、誰かのせいにするばかりで立ち向かえない者、励ます者、けんかばかりして孤立する者とさまざまな子供がいる。それが次第に協力し合い、希望へと気持ちを合わせていくのを見ると、グループ、そして社会というのはこうであると好いなあと思う(まず自分自身がそうでなければ始まらないが)。そしてついにどうしてこういう事態に至ったのか明らかになるのだが、そういう絵解きはそれほど納得できるものでも意味のあるものでもない気がする。
失われていくものにともなっていた思い出も失われてしまうのかどうか。失われるものに対する哀しみは、とくにかけがえのない思い出をともなうものは、ほんとうに失われてしまうのかどうか。
2009年の映画『ハゲタカ』を見た。真山仁原作のNHKのこの題名の連続ドラマはすべて見ていて、とてもおもしろかった。これはその続編にあたる劇場版で、主人公の天才ファンドマネージャー鷲津(大森南朋)がふたたび登場する。この映画は見そびれていたけれど、WOWOWで再放送してくれたのでようやく見ることができた。今回のターゲットはアカマ自動車という日本を代表する売り上げ五兆円の大企業。それを中国のファンドマネージャーが狙う。
ドラマのときの、その時代の、ファンドマネーが企業の生殺与奪の権を握る世界が、この映画が製作されつつあったときに、あのリーマンショックによって状況が一変してしまい、脚本が大幅に書き換えられたのだそうだ。だから、全体に多少の歪みのようなものが感じられるし、鷲津の先を読んでの布石が出来過ぎに感じられる部分もある。しかし、それでも、というか、それだからこそというか、とてもドキドキわくわくするストーリー展開になっていて、痛快でもある。巨額の金の世界でありながら、そこでほんとうにものを言うのは、その人間に対する信用であり、信用は実力によってこそ裏付けられている、というのがこの世界の事実なのだ、と映画は語る。それを信じたいものだ。それを見極められないものが転落し、失墜するのは当然なのである。
底知れない人物を演じるのに、大森南朋の目はとてもはまっていて、冷酷とばかりいえない、不思議な優しさと哀しさを漂わせている、などと見るのはほめすぎだろうか。十分おもしろかった。共演の松田龍平、柴田恭兵、嶋田久作がいつもながら好い。今回の敵役の玉山鉄二も熱演だし、守山(高良健吾)は次の時代の劉一華(リュウイーファ・玉山鉄二)か、または鷲津を予感させて余韻が残る。
1985年のアメリカ映画『バウンティフルへの旅』を見た。主演のジェラルディン・ペイジはこの映画でアカデミー主演女優賞を受賞している。この年、彼女は61歳、そして二年後の1987年に心臓発作で亡くなった。この映画は人生というものを考えさせる、とても好い映画であった。人柄の良さそうな親切な若い女性として脇役に出てくるレベッカ・デモーネイも魅力的だった。
ヒューストンの、たった二部屋のアパートに息子夫婦と暮らす高齢のワッツ夫人(ジェラルディン・ペイジ)は、生まれ育った故郷のバウンティフルを懐かしがり、機会があれば行きたいと願っている。息子の嫁は口うるさく支配的で、何事も自分の意のままに従わせようとする。映画の視点は当然ワッツ夫人からのものだから、この嫁は鬼嫁に見える。
しかし私もこの歳になって、ただ単純にその視点だけでものを見ない。その嫁の立場でそれぞれの事態に対しての彼女(嫁)の見方考え方を想像しながら見ていた。ワッツ夫人の見方通りである部分と、そうともいえない部分が二重に見えてくると、この映画の深さが見えてくる。人生には耐えなければならないことがあり、それに苛立ちながらも何とか生き続けなければならないものなのだ。
ワッツ夫人はついにバウンティフル行きを決行する。しかし鉄道もバスも、昔はあったバウンティフル行きがない。そもそもバウンティフルという駅そのものがなくなっているのだ。信じられない思いながら、バスでその手前の駅までの切符をなけなしの金で買う。頼りは嫁に隠してもってきた年金小切手だけだ。彼女がいないことに気がついた息子夫婦が駅に探しにやってくる。かろうじてその目を逃れてバスでヒューストンを発つことができるが、それはある若い女性(レベッカ・デモーネイ)の手助けがあってのことだった。ふたりは互いの人生について語り合う。しみじみとしたその会話は心にしみる。
こうして彼女はバウンティフルのひとつ手前の街の駅にたどり着く。乗ってきたバスが出発したあとに、ワッツ夫人はたいへんな忘れ物をしたことに気がつく。ここで心配をする若い女性と別れる。深夜のこととてただ忘れ物が戻るのを待つしかない。そこで彼女はバウンティフルの過疎化が進んで、ついに彼女が頼りにしていた友人のキャリーひとりしか住人がいないことを知る。さらにそのキャリーが死んでいるのが発見され、つい昨日に葬儀が行われたと知らされる。その死もいつ死んだのかわからない孤独死だった。
そして彼女が忘れ物を待つあいだ、小さなバスの駅の横椅子で横になっている間に、事態は急変し、彼女の畏れていた方向へ動いて言ってしまう。彼女は連れ戻されるのか、バウンティフルの懐かしの我が家の前に立つことができるのか。意外な人物が助け船を出す。
ラストの彼女のすべてを受け入れた優しい微笑みに心が打たれる。すべては何も変わらないが、それでも彼女の中で何かが変わったのだ。彼女が常に歌う賛美歌のように、彼女に救いはあるのだろうか。希望はたしかにある。
今年を漢字一文字で表すと「金」なのだという。毎年恒例のこの行事を主催する団体は、漢字を商売にしていて、漢字を愛するというより漢字を金にしているわけで、この選定はいかにもという気がする。毎年そうしたらどうか。金メダルラッシュだった、などと選定理由を述べているが、いかにもとってつけたように聞こえる。こちらに漢字についてのこだわりがあって、この団体に対してちょっと偏見が強いか。
私が今年を漢字一文字で表すなら「憂」というところか。世界は未だにどこかで戦火が絶えないが、それでもこの十年前、二十年前はここまでひどくなかった気がする。はるかに遠くだった戦火が次第に迫っているような不安を感じさせるようになってきている。先進国、つまり豊かな国は、個人がますます至上のものとなり、結果的にバラバラの個となっていき、多様化という美名のもとに、他者に対しての配慮、思いやりを見失っている。自分の身の回りしか見えなくなり、視野狭窄を起こし、社会的意識を喪失しつつある。常に自分が至上で正しい。それなら他者とは相容れず、分断が進むのはあたりまえだ。
途上国や貧困国の政情はますます混乱の度を増し、自分が生き延びるために他を慮る余裕がない。それならこれもバラバラということである。バラバラでは共同社会は成立しにくい。
違いを言い立てることが正義であるのなら、互いのコミュニケーションはますます成立しにくくなるばかりだ。もっといい加減で善いではないかと、いい加減な私は思うが、わずかな瑕瑾を捉えて罵倒し合う風潮は、SNSという武器が普及したことでますますエスカレートしている。人を持ち上げながらリスペクトがないから、手の平も簡単に返る。
今年は「憂」であり、来年の世界は「憂」ではすまされない、もっと深刻な事態に悪化するのではないかという懸念を含めて、「憂」である。
今日は十三日の金曜日。西洋では縁起の悪い日ということになっているが、日本人には関係ない。関係ないはずなのに、いつの間にか日本でも縁起の悪い日みたいにいわれる。却って仏滅の三隣亡などという古来からある縁起の悪い日は、いまでは知っている人もあまりない。
『十三日の金曜日』という映画のシリーズがあって、第一作が話題になっていたころ、得意先の人が見てきた話を聞いて、怖いもの見たさで映画館に見に行った。怖かったが、ただ怖い映画ではない部分もあった。臆病だからホラー映画は嫌いなのに、どういうわけかその当時の有名なホラー映画(『オーメン』『エクソシスト』のシリーズなど、なかでも『ファンダズム』という映画はほんとうに怖かった)はほとんど見ている。このシリーズも劇場で見たりビデオで見たりして新しいものは別にして大半を見た。
西洋のホラーが怖いけれどそれでも面白く見られるのは、自分の現実世界に侵入することがあまりないからだ。だから日本のホラーは怖すぎて嫌いだ。『リング』なんて、原作は読んだけれど映画は途中までしか見られなかった。日本のホラー映画は決して見たいとは思わない。だってその辺にいる気がしてしまうではないか。
紀州のドンファンといわれた男の覚醒剤過剰摂取死が、元妻による殺人だったかどうかで争われていた裁判が、有罪と決めるためには根拠が不十分として無罪になった。無罪だったからといって裁判所は無実といっているわけではない。殺人ではないという可能性が否定しきれない、といっているだけだ。
最初から遺産目当てだって言ってたでしょ!
ヒズボラとの交渉の合意の結果、レバノンからイスラエル軍の撤退が始まった。完全撤退するかどうかまだわからないが、戦闘は収束に向かっているようだ。レバノンという国のことはよくわからない。国軍よりもヒズボラの軍の方が強力だというが、どういうことか。そのヒズボラはレバノンに隣接するシリア経由でイランから支援を受けていたようだが、その支援の継続が困難になっているともいう。ヒズボラが衰退するということはレバノンが衰退するということだろうか。
レバノンといえば、元日産の社長だったあのゴーンが逃げ込んだ国だ。しっかりと資産を抱えて安楽な暮らしをしているのだろう。戦争中は気が気ではなかったろうが、戦闘終了でほっとしているだろう。しかしレバノンが居心地の好いところとも思えない。不安の中にいることだろうがどこかへまた逃げることもできないはずで、身から出た錆であってその報いがあってしかるべき、などとつい思う。報いがあってしかるべきと思う人間があちこちにいて、しかも報いはちっともない。世の中に因果応報はなかなかないものらしい。
月代(さかやき)が伸びた食い詰め浪人のような頭になってきた。二ヶ月あまり前に丸刈りにしたので、それが伸びると却って見苦しく目立つのである。思い立って床屋に行く。グリグリとバリカンで刈り上げて元の丸坊主になった。こんな頭なら格安床屋で十分である。短くしますか、と訊かれるが、二三年前から眉毛の伸びたのを切らせない。長生きの印みたいに思っているのである。眉毛の下は剃ってもらう。ひげもあたってさっぱりした。頭をなでる冬の風が気持ち好い。
午後からは愛車のCX-30の定期点検。自分の身体の次は車である。今のところ快調で問題ない。チェックでも問題箇所なし。相変わらずよく走ってますねえ、と担当者に言われる。ディーラーも建物内を模様替えしてきれいになっていた。座席が増えているのは来客がそれだけ多いということか。雪道などでだいぶ汚れていた車が、外も中も洗車してもらってピカピカになった。心持ち発進のときのパワーが回復したようである。
来週も遠出することになった。千葉の弟のところと北関東の友人のところを訪ねることに決めたのだ。これで快適に、しかも安心して走ることができる。
古来中国ではダイヤモンドのようなキラキラした宝石よりも、玉(ぎょく)といわれる翡翠のような石を珍重した。翡翠には硬玉と軟玉があって、厳密には硬玉のことを翡翠という。姫川周辺で産出する。日本では通常、玉といえば翡翠のことである。中国では西域奥地で軟玉が産出され、それを玉というらしい。ウィキペディアからの受け売りである。
『中国を考える』という本のなかの陳舜臣のことば
西域への出口というか入り口は、一応、玉門関といわれてますけれど、玉門館は時代によって場所が変わるんです。漢時代は敦煌の西北にあった。唐の玉門は敦煌のだいぶ東北です。西北でとれる玉(ぎょく)は皇室の専売になっていますから、それの密輸を調べなきゃならない。玉が入りすぎると値段が下がりますからね。つまりこの関所で、不正輸入がないようにボディ・チェックした。それで玉門関といったんですね。固有名詞というより普通名詞みたいな感じで、玉の通る門ということなんですわ。
二十年ほど前に、息子と娘と一緒に敦煌へ行った。その時にこの玉門関にも行ったが、漢の時代のものか唐の時代のものかは定かではない。敦煌から砂漠・・・というより土漠の中を車で二時間ほど突っ走った。そのあとだかその前に漢の長城(版築)の砂漠に埋没しかけたのを見に行っているので、漢の時代のものだと思う。漢の玉門関のそばにあの王維の詩に「西の方陽関を出づれば故人なからん」と詠まれた陽関もあった。
いまは舗装もされて観光客もたくさんいるのではないか。私が玉門関に行ったときは番人の老夫婦だけがいて、観光客などいなかった。多少の金を渡して、娘が騾馬に乗って玉門関を一回りした。
司馬遼太郎と陳舜臣の対談集『中国を考える』(文春文庫)を再読して、後書きに司馬遼太郎が「陳舜臣とは同窓で、年少のころから爾汝の仲である」と記していた。くだけていえば、俺おまえの仲、というところであろうか。ことさら丁寧なことばを使わなくても、互いに敬意を持っていることを理解し合う仲ということで、そういう友人がいることはうらやましいことである。かくいう私も爾汝の仲の友がいないわけではない。もっと会いたいときに会いに行けば好いのに、と思うけれど、以前よりは尻が重くなった。我ながら歳をとったと思う。
この対談は1970年代に四回にわたって行われており、文化大革命も下火となって、最後の対談のころには四人組もついに粛正されていく時代である。破壊の嵐から新たな希望の元に再生されつつあるころの中国をもとに、当時の現代中国と歴史の上の中国とをオーバーラップさせながら、中国というものについての互いの知識と思いを語り合っている。
これを読みながら思ったことは、この二人が、習近平が支配する現代中国を見たときにどのように感想を述べるだろうか、ということである。はたしてこの対談集のように好意的に、そして希望的に語るだろうか。
午後、泌尿器科の定期検診に行ってきた。いつも泌尿器科の検診は予約時間より遅れる。私は約束通りでないとイライラするたちなので、今日もいつもながらにイライラする。検尿の結果は菌が検出されたという。濁りがあったので、丁寧に検査をしていて遅くなりました、と医師がいうので、納得し、恐縮した。ちょっと体調が今ひとつなのもこれが理由だったのかも知れない。
せっかく菌を退治したと思っていたのに、やはり残っていたようで残念です、と医師がいう。私も残念である。もし排尿痛や排尿困難をともなう発熱があったら、直ちに診察に来てください、とのことであった。さいわい今のところ排尿痛も排尿しにくいということもないし、発熱もない。菌と戦わなければなりません、などとまじめな顔で医師が言うので笑う訳にも行かず、ハイ、と大きく頷いてしまった。今どき珍しい熱い先生である。ありがたい。
なんだか気持ちが軽くなって、帰り道は足取りも軽かった。今晩はしゃぶしゃぶでも食べようか。
例によって、朝、今日することをメモに書き出す。項目は格別たくさんあるわけではないが、先延ばしにしたい面倒なものもいくつか混じる。気合いを入れて片付けていけばどうということのないものが、先延ばしにしてたまると行き詰まり、そのことで気持ちが停滞する。例えば年賀状書きのようなものは、本格的に取り組めば一日でできあがるのだが、たぶん今年もクリスマスを過ぎてから泥縄式に作成することになるだろう。
今度の年賀状を最後に、というものがぽつりぽつりとやってきて、私もそうしようと思わないではないが、この年賀状だけが互いの消息を伝え合うものである人も少なからずいて、やめるのはもう少し後にしようと思っている。但し、多少儀礼的な面のあるものを今年から打ち止めにしようと思い、枚数はだいぶ減らすことにした。
今日は昼から泌尿器科の定期検診日なので病院へ行く。旅の疲れが後を引いているのか、なんとなく体が重く(実際に体重も増えているからあたりまえである)、散歩もあまり長距離を歩けなくて、その上歩くスピードも著しく遅くなっている。下肢が少しむくみ気味で、水分が体に滞留して水っぽくなっているようだ。尿の濁りはないが、色が濃いので水分を意識して摂っており、それも影響しているのだろう。本日の検尿の結果はどうだろうか。医師と相談しようと思う。
北関東の友人からお誘いを受けていて、すぐにでも出かけたいところだが、雑用が飛び飛びにあって、なかなかいつ出かけるか決めかねている。急ぎではないが、千葉の弟のところへ行く用事もあるので合わせて予定を立てたいと思いながら何の連絡もしていない。弟も年末で忙しいだろうと思うと気がひけるところもある。
車の定期点検もあるし、妻の病院へ行く用事が二度ほどある。一度は支払いと担当医師との面談。一度は妻の要望するセーターなどの衣類の買い出しに娘と行き、その足で妻との面会に行く予定である。どうということのないことがなんだか気重(きおも)である。気持ちと体調は裏表のように関係していて、すべてに鈍重な状態だ。心身の浮き沈みというバイオリズムはたしかにある。いまは低いところにあるのだろう。
三年前の春、高速道路の渋滞の最後尾についてしまい、前方不注意のドライバーに追突されて死にかけた。首の骨を二カ所圧迫骨折したが、根が頑丈なのと愛車が代わりに命を落としてくれたおかげで命拾いした。
それ以来テレビで車の衝突シーンなどを見ると事故の記憶が鮮明に蘇り、気持ちが大きくざわめく。いわゆるトラウマになっていて、なかなか薄れることがないようである。心持ち首が痛んだりする。幻痛というやつか。
場所は東海北陸道の終点近く、名神高速に合流する一宮ジャンクションの手前だった。このジャンクションは悪名が高く、しばしば渋滞が起き、それにともない年に何度も追突事故が発生する。この二年くらいかけてジャンクションの再整備が行われ、ようやくのことにだいぶスムーズになったとのニュースを見ていたが、気持ちが悪いので決してこのジャンクションを通らないようにしていた。
先週の土曜日、北陸からの帰り道に東海北陸道を南下してきて、いつまでも回避しているのもなんだと思い、ついに事故現場をあえて通ってみた。時間的なこともあったのだろうが、今までになくスムーズに通過することができた。これで少しはトラウマが減るだろうか。。
同時に事故当時のことを久しぶりに思い出していた。ぶつけてきたのは日産のディーラーの若いおニイちゃんで、警察にはぶつけたときは時速80キロくらいだったと言ったそうだ。実際より低く言うはずもなく、その通りかもっとスピードは出ていたはずで、車は日産のトレイル、頑丈な車で、当てられたのが軽自動車だったら、車は潰れて搭乗者は即死だったろう。私の前の三台までが損傷を受けたらしい。私の他にけが人がいたかどうか知らない。
昨日の市役所で、係の女性とその上司がふたりで頭を下げて私の方が恐縮したと書いた。その当てた車には若者の上司が同乗していたらしいが、若者だけ菓子折を下げて見舞いに来たが、その上司の人物も会社としても一言もなかった。その時はそれで仕方がないと思ったが、いまになって腹が立ってきた。
しかもその自己処理の保険会社である住友海上のベテラン担当者の慇懃無礼であることは、いま思いだしても腹が立つ。誠意のかけらも感じられなかった。だから一部は私の保険会社に代行してもらい、そのおかげで途中からかなりスムーズになり、補償額も上乗せになった。
だから日産が利益が上がらずに経営的に不調だ、などと聞くと内心暗い喜びを感じたりしている。それがトラウマ解消に少し寄与するかも知れない。
妻は長期入院中で、自分でマイナカードを作成しに行くことができない。入院しているから、当然病院で保険証が必要であり、もし保健証が使えなくなったら困るかも知れないので、少し前に市役所で、代行してのマイナカード作成の必要書類とやり方を教えてもらい、いろいろ面倒はあったがなんとか作成を完了した。
それなのに、本人が暗証番号の扱いができそうもないから顔認証だけで好いと、ついいい加減に手続きしてしまい、考えたら私が代わりに手続きすることもあることを病院で確認した。それはそうである。市役所にといあわせたら、そうなるとカードの変更手続きが必要になるとのこと。市役所に行ってそのための申請書類に記入した。その申請により、市役所から本人(妻)の委任状の書類が郵送されてくるのだという。その用紙が旅行中に送られてきていたので、それを揃えて昨日市役所に提出し、無事カードは変更された。
そうしたら、帰宅してすぐに市役所から電話があった。カードの内容は変更されているが、カードの表には顔認証専用の記入がされたままで、それも書き直さなければならないのだという。不手際で申し訳ありませんということだが、それほど腹も立たず、本日再び市役所へ。そうしたら係の女性とそのすぐ上司の人がふたりで、二度手間になり申し訳ないと謝られてしまい、こちらが恐縮してしまった。二度手間は、こちらが先であったのだから。
何事も、選択のあるときはよく考えてからの方が良い。今さらだけれど。
尹大統領が戒厳令を発した理由のひとつが、夫人を守るためだったのだとの分析があり、傾城(けいせい)の美女だの傾国の美女だのと噂されているらしい。つい先日、象潟で西施の像を見てきたばかりである。傾国の美女と言われる西施と同様、尹大統領夫人も、韓国を傾けるためにどこかから送り込まれた美女だったのだろうか。それなら尹大統領夫人が疑惑を次々に提供し続けたのは、意図的だったのかも知れない。普通なら亭主のために自重しよう、表から少し身を引こう、とするのが普通だが、ことさら表に出ていたようにも見える。それほど陰謀論的ではないにしても、ことさら物議を醸すように仕向けられていた可能性はあるだろう。それなら、将を射んとすれば・・・というところか。ところで彼女が美人かどうかといえば、いまの韓国で流行(はやり)の人工的な美女であるようには見える。私にはもちろん縁がないし、あってもお近づきになりたくないタイプだが。
小耳に挟んだ情報では、北朝鮮は一月も前に尹大統領の弾劾の可能性を予告していたという。根拠があったのか、希望的観測だったのか、とにかくあたることはあたっていた訳である。
韓国の混乱が早めに収束するのか長期化するのか、そしてその結果が再びの左翼政権による反日に戻るのか。いろいろ心配されているけれど、どちらにしても韓国の衰勢基調が加速してしまうらしいことはたしかなようだ。いま正義のために興奮して涙を流しながら激高する韓国の人々を見ていると、触らぬ神に祟りなし、という気がしてしまう。日本との融和を喜んだ人たちが、これからひどい目に遭わなければ良いが。
この日(6日)の宿は魚津のビジネスホテルを予約してあった。宿から駅の方へ歩いたところに魚の美味しそうな居酒屋がいくつかある。以前泊まったときにも当たりの店があった。だから飲みに出るつもりであった。しかし、この日は台風みたいな暴風雨となった。これでは外に出る気にならず、ホテルのレストランで生ビールと冷酒と若干のつまみなどを頼んで外の雨をうらめしげに眺めて飲むことになった。
さて、話は前後するが、その日の昼、国道7号線で山形県から新潟県の村上へ、その先で再び日本海東北道を走り、新潟からようやく北陸道に乗る。そのまま魚津に行けるが、時間がたっぷりあるので上越で北陸道を下りて上越水族館に立ち寄った。ここでは残念ながら神通力は効かず、傘が使い物にならないほどの激しい雨風で、駐車場から水族館の入り口までのわずかな間に濡れ鼠となった。それでもちゃんと客がいる。
岸近くの海岸能美の中の様子。
おお、さかなクンがいた。
ウマヅラハギ。本カワハギより味がおちると言うが、けっこう美味しい魚である。肝は絶品。
小魚(多くはイワシ)が水面を覆うほどたくさんいて圧倒される。なんだかわくわくする。
クラゲは水中で見るとほんとうにきれいに見える。そういえばこの日の出発地である鶴岡には、加茂水族館というクラゲがたくさん見られる水族館があったなあ。あそこのクラゲは圧巻である。
たくさんの魚を食欲半分で眺め歩いていたらくたびれたのでイルカの水槽の前のベンチで休憩。
私の前に来るたびに背泳ぎになって、いくら待っても普通に泳いでくれなかった。
ペンギンの水槽。月並みな言い方だが、飛べないペンギンが飛んでいるように見える。
十分満足したので早いけれど宿に向かう。
これで今回の旅の報告は終わり。最後の日は、雪の中を走って帰ったことはすでに書いた。
五日の朝、早めに鶴岡の宿を発って日本海東北自動車道に乗って南下。まだ全通していないので、温海で下りて国道7号線に移る。激しい雨と風である。風で車が揺れる。これが雪なら吹雪である。
荒れる日本海が見えているのだが、どこかで写真を撮りたいと思いながら走ってしばらくしたら、道の駅「あつみ」の手前で急に雨が小やみになった。そこで写真を撮った。
荒れる日本海の雰囲気がわかるだろうか。
背中から風を受けると歩く気がなくても押されて前へ進んでしまうほどだ。また雨が強く降り出したので車に戻る。鼠ヶ関でも停めたかったが、とてもそんな状況ではない。
少し前なら、鶴岡から一気に自宅に帰るが、今回は自重して富山県の魚津のビジネスホテルに泊まることにしている。時間に余裕があるのでどこかに立ち寄りたいが、建物の中でなければとてもいられない。久しぶりに上越の水族館によることにした。今回の旅の報告は、その水族館で最後である。
日本海沿いに南下して酒田にいたる。酒田はいつも通過するだけで立ち寄ったことがない。本間美術館と山居(さんきょ)倉庫には立ち寄りたいと思ったが、あいにくの雨である。美術館なら雨でもかまわない。しかし、この美術館で見たいのは庭園である。庄内地方の大地主で豪商だった本間家の別荘とその庭園を含めて見学することができる。美術館の展示品をひととおり見た後、雨が小やみなのをさいわいに庭園に廻った。
入り口からすぐのあたり。
別荘の建物、清遠閣。中が素晴らしいが、それは次回に紹介する。
四阿(あずまや)。ものすごく太い松の木。
散り残った紅葉。
庭園の景色。石段の上り下りが多少あるのだが、つるつるの石段なので、危うく滑りかけた。たまたま見ていた初老のおじさんが、足腰が弱っているようだから気をつけなさい、と声をかけてきた。その通りだが人に言われたのは初めてで、ちょっとショックだった。なんだか一方的にしゃべってくるおじさんで、年を聞いたら72歳だという。なまりがひどい訳ではないが、言っていることが一部わかりにくくて曖昧に相づちを打っていたら、じゃあお元気で、と行きかけた。そしてそのおじさん(おじいさんか)もぬれた石で危うく足を滑らせかけた。気をつけてください、と声をかけたら、黙って行ってしまった。
このあと庭園を管理している人が声をかけてきてくれて、いろいろ教えてくれた。この石灯籠の向こう側から穴を覗くと、借景にしている鳥海山が見えるのだという。じつはこの前の写真の中央の向こうには鳥海山が見えているはずなのだ。
中央をアップする。よくよく見ると白いのは雲だけではなく鳥海山の裾野が見えているのだが、写真ではわかりにくい。
清遠閣の中から庭園を見下ろす。
清遠閣を見終わって外に出たら、また本降りの雨になった。
次回は清遠閣の中を紹介する。
丸一週間留守にしていたので部屋が寒い。生活していれば暖房をことさらにしなくても、それなりの温度を保てたのではなかったか。さすがにこたつだけでは寒いのでガスストーブを出した。快適である。
昨晩、留守中録画したはずの番組をチェックしたらWOWOWの番組だけ録画されていない。どういうことかWOWOWにチャンネルを合わせたら「契約ぎれ」のような表示が出て番組を見ることがそもそもできない。契約は継続しているはずだし、ちゃんと番組表も送られてきている。見たかった番組が録画されていないことに腹が立つ。ネットでWOWOWのトラブルチェックを見たら、そういうトラブルの場合の対処法が出ていたのでそれを試す。15分間待て、ということだが、実際には30分近くたって何事もなかったようにつながった。
対処法がある、ということはこういうトラブルがある、ということでそれがどうして起こるのか、そうならないためにどうしたら良いのか、何も案内がないのに腹が立つ。そんなことを夜遅くにごそごそやっていたので眠れなくなってしまい、結果的に夜更かしの朝寝坊と言うことになってしまった。今朝改めてWOWOWを見たが、問題ない。あたりまえのことなのだが。
世の中にはトラブルというのが必ずあるもので、それに対しての気持ちの収めようが歳とともに下手になってきて、感情の荒波を鎮めるのに時間がかかる。年寄りがかんしゃくを起こすのはそういうことで、かんしゃくを起こすのは精神のコントロール能力の劣化である。韓国の尹大統領に対してなんだかわめき散らし、暴れて見せている人がいるが、ああいうのを見せられると却ってこちらが落ち着く。こちらはあれほどひどくない。
世界情勢がますます混沌としてきたように感じる。シリアのアサド政権は崩壊必至のようだ。中東情勢がさらに激変しそうな気配だ。ヨーロッパの国々の内政も予断を許さない状態で、他国のことなどかまうことができないようだ。ここでトランプが登場したら、いったい世界はどうなるのか、良い方へ、つまり安定に向かうというのは考えにくく、ますます自分の国は自分だけで何とか生き延びる方策を考えないと行けなくなりそうだ。
日本はずっとアメリカに頼ってきた。アメリカの言いなりにしていれば損得はともにあるが、得の方が多いと考えていたけれど、その得もこれからは期待できないだろう。つっかえ棒があることが却って損になりかねないなら、どうするのか。日本も初めて自立するのか、それともアメリカに吸収してもらうか。アメリカも、よその国は守らなくても日本がアメリカの属州なら、さすがに守るだろう。それがイヤなら中国に拝跪するのか。日本の政治家の危機感のなさはあきれるほどだ。どうせこちらは退場が近いから、どうとでもなれ、という気持ちだ。意識して隠者になろうか。しかし隠者と言うには世の中にあまりに興味関心を残しすぎているか。
予告していた三崎峠の写真があとになった。
この看板の一番右手が三崎峠。遊歩道になっている。左手には、昨年訪ねた十六羅漢岩などがある。
高台から日本海を望む。風が強いが、不思議なことにさっきまで降っていた雨がやんだ。
こういう遊歩道になっている。左手は絶壁。灯台までは行かなかった。
左奥に雲の切れ目でもあるのだろうか。海面が一直線に輝いていた。
このあたりの岩は火山性のものであることがよくわかる。明らかに鳥海山の噴火によって飛ばされてきたものか、溶岩だと思う。
見上げるとこんな岩が覆い被さっている。雲が一瞬切れて青空が覗いた。
上に登ってみれば、全く違う様子であの岩が見える。
雨の巨大なカーテンが向こうに見える。このあと急激にこちらに迫ってきた。
ぱらついてきたので慌てて車のところへ戻る。走り出したら激しい雨が車をたたき出した。
朝、魚津を出発して北陸道に乗り、小矢部から東海北陸道を走る。強弱はあるが、ずっと雨が降り続く。五箇山を過ぎたあたりから予想通り、雪に変わる。トンネルを抜けるごとに雪が強くなり、白川郷のあたりから本格的な雪。車の流れが悪い。冬タイヤ以外では通行できないはずだが、まさかノーマルタイヤで走っている車がいないだろうな、と心配になる。最高地点の松ノ木峠のパーキングでトイレ休憩。ここは1050メートルほどある。寒い。辺りの景色を何枚か写真に撮った。雪の写真はむずかしい。
気合いを入れ直して出発。この先の荘川までは東海地区屈指の豪雪地帯である。途中でタイヤチェックがあった。
少し集中力が低下している気がしたので、ひるがの高原のサービスエリアで雪を見ながら軽い昼食。ここからはひたすら下りである。郡上あたりからは雨も雪もなく、景色も白くなくなった。車のスピードが一気に上がりだしたが、こちらはゆっくり走る。無事、先ほど帰着した。
思ったほどの好天ではなく、北側からどんよりした黒い雲が被さってきている。気温からもし降り出しても雪になることはないだろう。
片付けをして、冷蔵庫に生鮮品がないから、これから食料の買い出しである。
ところで留守電に、総務省の電波監理局とか言うところから留守電が入っていて、この電話は二時間以内に通信が一切遮断されます、問い合わせは云々、と言う。二時間以上過ぎているので、試しに自分の携帯に電話したらちゃんと着信があった。もちろんすぐ消去した。おかしな電話が入るものだ。しかも二回あったようだ。
さあ、これからまた日常が始まる。といっても、ただ上げ膳据え膳がなくなって自分で食事を用意することになるだけである。早く自分の生活リズムを取り戻さなければならない。何しろ師走である。
いまは富山県の魚津にいる。明け方前、窓から外を覗くと本降りの雨が降っている。予報通りなら北日本は雪だろう。秋田の温泉で今年初めての降雪を体験した。その雪から逃れるように日本海沿岸を南下して、いま富山県にいる。明日か明後日にはこの富山県も雨が雪に変わるだろう。今日はこれから東海北陸道で我が家へ帰るが、途中は雪の可能性が高い。そしてたぶん郡上あたりを過ぎてしまえば太平洋側のカラリとした景色を見るだろう。
写真は一昨日の日本海の荒波。
昨晩は夕食を摂ってからすぐに眠ってしまった。連日の長距離運転、しかも雨の中の運転にいささか疲れていたのだろう。昨日は台風の中を走るような強い雨と風だった。それが夜中過ぎに目が覚めてしまい、読みかけの小説を読み始めてしまったらやめられなくなった。いま(朝の五時)読み終えたところである。
読んだのは高嶋哲夫の『チェーン・ディザスターズ』(集英社)という本で、ごく近未来(数年内)に日本を東南海地震が襲うというシミュレーション小説だ。さらに急激で巨大な地殻変動の影響により、首都直下地震が連動して起きて、さらに・・・という、あの小松左京の『日本沈没』を思い出させるような日本を描いた物語である。日本がその危機から立ち直りつつあるときに起こる「さらに・・・」の出来事は絶望的状況をもたらすが、若くしてこの危機を乗り切る舵取りを任されることになった女性の総理大臣の苦闘に感情移入してしまって、読むのをやめられなくなってしまったのだ。
ここでは巨大災害に対してやるべきこと、そしてその優先順位、基本になる考え方が提示されている。だからシミュレーション小説と呼ばれるわけだが、東南海地震などの、必ず起こると予測されている大災害にこのような対策がとられているのかどうか、どうも心許ないところがある。政治家もこの小説を読んでくれると好いが、読んでほしい人ほど読まないのだろう。ただのパニック小説ではない。おもしろいので是非お勧めしたい本だ。まず国民の意識が変わってそれに備えなければ、政府の緊急時の指示もうまく機能しない。
象潟の蚶満寺の蚶の字を、私は坩と書いてきたが、でんでん大将様からご指摘をいただいて蚶と言う字に書きあらためたいと思う。
蚶満寺山門。この山門の彫物が素晴らしい。その前に、左下の木標に注目。
お寺がそう表記するのだから、これが正しいと言うことだ。
説明がないからどんな説話が描かれているのかわからない。昔の人なら常識として知っていたのかも知れない。
いつもこういう動的な彫物に感心する。
この流れるような龍の優美さ。
扁額に文字がない。彫刻はたくさんある。
内側にあったもののひとつ。これは雪の中で筍を採っているのか。たしかそんな話があった。
内側から参道の方を眺める。なかなか好い。
堂内は以前拝観したので、今回はここで失礼して先を急いだ。
このあと、たぶんでんでん大将様もご存じの筈の三崎峠(有耶無耶の関)のあたりで荒れた日本海を眺め下ろす。その写真は次回に。海鳴りもしてすごい景色でした。
思い立って象潟の坩満寺に立ち寄った。駐車場に車を停めたときには、小降りにはなっていたものの雨が降っていたが、しばらく様子を見ているうちにやんだ。
坩満寺の入り口。右手に駐車場のスペースがある。雨が散り敷いた落ち葉をぬらしている。石標の坩満寺の坩の字が削られているのはどうしてなのだろう。
坩満寺と言えば芭蕉の『奥の細道』で有名で、芭蕉翁の像もある。
芭蕉がこの象潟で詠んだ句。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
西施は中国の戦国時代、呉越の戦いの話に登場する絶世の美女である。ねぶの花は合歓(ねむ)の花のこと。初夏に咲く。雪交じりのいま、芭蕉が梅雨時に東北を歩いたのか、わかった気がした。秋に歩いて景色を楽しんでいたら、冬になって雪に降りこめられて旅が続けられなかったであろう。彼は西行の後を慕って奥の細道を訪ね歩いているが、西行は本州の北限の青森まで歩いているのに、この象潟までで南下しているのも、同行の曽良の事情もあったが、やはり冬になるのを危惧したのではないか。そんなこと、芭蕉を知る人には常識なのかも知れないが。
西施像ももちろんある。
あとでぐるっと庭内を廻ってから、後ろ姿の西施の姿も撮った。像だと太って見えることが多いが、西施のイメージは細めの美女である。この像はそういう意味であまりイメージを損なっていないように思える。
庭内の松の周りの水たまりが、あたかも海の中の松のように感じられた。
象潟は、芭蕉が訪ねたころは松島に並ぶ、海に点在する小島が美しい景勝地であった。のち地震で隆起してこのような景色に変わってしまったが、名残はある。
六地蔵。濃い緑の中の赤が目を引く。
苔むした仏様は自然に帰りつつあるように見える。
ここにも濃い緑の中の赤があった。
坩満寺の山門の彫物が素晴らしかったので、次回その写真を掲載する。
宿の玄関を出たら雪が降っている。
泊まっていた宿。駐車場も車も雪が積もっていて、雪下ろしが必要だったが、新雪なので案外簡単に払うことができた。雪用の道具はちゃんと載せているのだ。
駐車場は雪で真っ白。
ナビでルートをチェックしたら、案に相違して日本海沿いを走るルートを指示した。ナビに従うと決めていたのでその通りに走る。まず秋田方面に向かって協和インターから秋田道を南下する。途中角館を通るが、雨なので通過。雪景色なら寄りたいところであった。
山をおりると雪から雨になり、ときどき激しく降る。これでは外に出られないし、写真も撮れないとあきらめていたら、協和インター近くの道の駅で小やみになったのでここでトイレタイムと土産物の購入。宿の方が品揃えがあったが、荷物を持って車のところまで歩くのが面倒だったので買わなかった。悔やんでも仕方がない。ここには雪がないが、雲が山におおい被さっている。
時間に余裕がありそうなので、象潟(きさかた)の坩満寺(かんまんじ)に立ち寄ることにした。いつも拝見しているブログ仲間の、でんでん大将様の地元である。にかほを通ることからでんでん大将様を思い出し、そこから象潟によることにした、と言うのが実際の順番である。現地で雨に降られなければ良いのだが。
皇室に関するニュースに特に関心がある訳ではないが、ネットニュースを拾い読みしていればイヤでも目に入ってくる。女性週刊誌の皇室関連の記事の見出しには不快感を感じることが多い。敬意が感じられないからである。敬意がないというのは品位が欠けているということだ。下品なものには不快を感じるのは自然な感情である。もちろんそれは私自身の感情で、他の人のことは知らない。
人と接するとき、愛情や思いやりも大切だが、まず相手に対する敬意というのが何より大切だと思う。勝ち負けや損得で曇った目には、敬意というものが見失われやすい。そういう社会は生きやすい社会とは言えない。それは世界中どこでも一緒だろう。トランプが不快に感じられるのは理由があるのである。
日本ではその敬意を払うべきもっとも象徴的なものが皇室である。その皇室を芸能人を扱うように報じるということは、当然のことに皇室の存在意味を毀損する。敬意を払うべきものに敬意を払わないことがあたりまえの世界に、どうして皇室の存在意味があろうか。こうして象徴が意味を失えば、日本人から敬意の観念が失われていく。いや、すでに失われているのかも知れない。
日本を支える重みがなくなる。日本人が自ら択んだことで、それならそれで仕方がないのかも知れない。
いまいる地域の天気予報は雨。しかし宿のあるところは山腹なので、窓を透かしてまだ暗い外を見れば、道路が白くなっているようだ。積もっているというほどではないが、慌てて走るのは危険だ。もちろん冬用タイヤではあるが、雨では景色を眺めるのもかなわないだろうから、ゆっくり食事をしてから出発することにする。
これから山形県の鶴岡に向かうが、日本海経由で行くか、横手経由で内陸周りにするか迷う。内陸周りなら、新庄を経由して最上川に沿って西に向かうことになり、先月兄弟で旅行したときに時間切れで行けなかったあたりを通る。どちらをナビが択ぶか、それに従うことにしよう。行きは元気だから一気に走った。帰りは名残を残し、後ろ髪を引かれながらゆっくり走る。気がついたらもう帰路なのであった。
雨中を走りながら、何を見、何を感じるのか。太平洋側は好天らしい。この地は明日あたりからは本格的な雪になる。長い冬の到来である。
もうすぐこうなる。
無知というのは、単に知識が欠けているということではない。そうではなくて、無用の知識が頭に詰まっているせいで、新しい情報入力ができない状態を「無知」と呼ぶのである。
これはロラン・バルトの定義だそうで、これを紹介してくれた内田樹は「私もその通りだと思う」と賛同している。
多くの情報源をもち、それによって多量の知識を持って、自分はあなたよりもものを知っている、と上から目線で語る人がいる。あまりものを知らない私としては、畏れ入るしかないのだが、上から目線であることによる感情的な反発を除いても、その人に敬意を表する気にならないことがある。そういう場合、たいていその人は他人が自分と違う見方をしたときに、まず否定的な反応を示す。なるほどそういう見方もありますね、という受け止め方はしない。知りすぎていることによる「無知」というのはそういうことかと思う。
ソクラテスの「無知の知」を引き合いに出すまでもなく、自分は何でも知っている、と思ったときに、その人は知的ではなくなるということだ。月並みな言い方ながら、自分はまだまだ無知であると自覚する人が知識人だと思う。私の場合はそういうレベルではなく、ほんとうにものを知らないから論外であるが。
この三日間(温泉三昧の期間)で読了した本
養老孟司『人生の壁』(新潮新書)
谷原つかさ『「ネット世論」の社会学』(NHK出版新書)
内田樹『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス新書)
まだ五冊ぐらい持参しているが、さすがにあと一冊か二冊読めれば十分か。
宿の部屋から見た景色。窓が開かないから窓越しである。寒い。
「ふてほど」と言うことばが今年の流行語大賞だそうだ。見たことがあるけれど、いったいどこから出たことばなのか知らないし、知りたいとも思わない。日本人はことばを縮めるのが好きだ。しかしこのごろはあまりにそれがいきすぎで、そもそもの元のことばがなんだかさっぱり見当がつかないものが多い。こういうのは仲間内の隠語みたいなもので、わかる人だけわかる、というので仲間意識を確認し合っているのだろうか。
私はこの「ふてほど」から、ふてくされるにもほどがある、と言う意味かなと想像したがどうも違うらしい。私が流行から外れているのは承知しているが、流行の方もどこかへ飛んで行っているような気もする。
知らなくても別にかまわない。
泊まっている宿は山の中腹にあり、あたりはすでに雪景色である。昨夕、宿に着いたときにその雪が珍しいのか、スマホで写真を撮り合う人たちがいた。話していることばから、中国の人たちだと思われた。中国だって北の方は雪が降るから、たぶん南の方の地域の人たちだろう。観光バスが駐まっていたから団体で来たのだろう。みぞれの降るあいにくの天気だが、それでも雪を喜んでいるから好かった。
この地のホテルに泊まるのは五回目くらいだが、以前泊まったことのあるすぐ近くのホテルは、二軒がすでに閉鎖されていた。今回泊まっているところは二度目だが、大きなチェーンホテルに身売りして生き延びたホテルだ。おかげで部屋は広いのに安く泊まれる。例によって一番安い部屋を予約したから、今回も食事場所や風呂からはいちばん遠い。大きなホテルだから迷子になりそうである。
食事はバイキングで、その前に泊まったところよりも格段に美味しい。ただし酒が高いのがつらい。飲み放題を択べば確実に元が取れそうで値打ちだが、それでは飲み過ぎてしまう。自分のさもしい性根が表れるのがイヤだ。中国の人たちは食欲旺盛で健啖である。しかしひところの中国人よりもやかましくなくて、仲間内で楽しげに談笑していてもあまり気にならなかった。私の隣には訛りの強い英語をしゃべる男ふたりが座っていた。アメリカかオーストラリアあたりからでもきたのだろうか。私は語学が不得意だからほとんど話の内容はわからないが、食事には満足しているようだった。ふたりとも三十歳前後、ラフな格好でゆったりと食事を楽しんでいる。
珍しいことに、ジビエの鹿の料理のコーナーが一角にあって、私はそれを楽しんだ。肉類が多くて魚が少ないのは山の中のことだから仕方がない。その肉を食べながら高清水の冷酒をゆっくり味わう。仕上げに普段は自分に禁じている甘いものを特別に解禁して、コーヒーとともに美味しくいただいた。
風呂に入りながら、いったい自分はなぜここにいるのだろう、などとぼんやり考えた。理由なんてないのだ。そんなことを考える必要はないのだ、とつまらぬ疑問は湯に溶かし流して、私も湯に溶けた。
溶けてる私。
温泉の中をぶらぶら歩いていたら、こんなものを見つけた。手作りのようだ。
こんなのもあった。これは他でも見たことがある。斜めというのが好い。
雪の支度をしている人があちこちにいたが、このおじいさんは何か山仕事をしに出かけるようである。この姿を見たら、熊が出ないだろうか、などと思った。
温泉の外れに大湯公園というのがあって、立派な建物があった。使うことはあるのだろうか。
天気が好くて、歩いていると汗ばんできた。一回りしたら六千歩ほど歩いていた。
なんという川か知らないが、温泉街を通っている川である。屈曲があちこちにあり、橋もたくさん渡ることになる。
逆光に川面が輝く。
笹は冬でも元気だ。
紅葉の名残。
宿の前の紅葉の名残。
今日はここから東北へ走ったのだが、ナビの設定がおかしかったのと、雨風が強いのとで、思ったよりも時間がかかってしまった。秋田県に入ったら、まだ四時前なのに夜みたいに暗くなった。
安全運転に努め、無事宿に着いた。くたびれた。ここでも連泊。以前きたこのある宿で、ここも安い。天気が悪いのでゴロゴロして本を読むつもり。たぶん明日はみぞれ交じりになるだろう。もうすぐ本格的な雪が降る。
昨晩の食事の後、ぼんやりしていたら眠り込んでしまい、夜中に目が覚めた。夢とも現(うつつ)ともつかず、自分が自分の思い込んでいる人間ではない、醜い人間なのだという思いが噴き出して恐ろしくなった。
自己中心的で欲張りで、他人に冷たくて愚かで、勘違いばかりしてすぐ感情的になり、気が小さくて臆病で、図体は大きいが自分の重みで膝や腰が耐えきれずによろよろし、首から上の、口も目も耳も鼻もみな悪い、つまり付き合いにくい怒りんぼのヨレヨレ爺(じじい)なのだ。
とくに他人への思いやり、つまり優しさを失って久しい気がする。体力があり、気力があったときは、すべての自分の欠点をそれではいけないといろいろとカバーして鎧の中に住んで世間を生きてきたが、すべてから解放されてカバーが緩み、本性が現れてしまったのだが、自分ではそれに気がつけないでいただけのことだった。真実に気がつくのは恐ろしいことで、それに直面させられるのはつらいことだ。
こんな風な思いがどっと押し寄せてきたからしばらく眠れなくなった。今朝は・・・少し気を取り直しつつあるというところか。カバーの緩みを締め直し、口の利き方に気をつけ、人にもう少し優しくしなければと思っている。できるかどうかわからないが。
あの世に行ったら閻魔様に怒られるだろう。
天気が好いので、温泉の周辺を散策した。
遠くに雪山が見えた。なんという山かわからない。正確な地図はないし、方向も定かではない。駒ヶ岳(2003)かと思うが違う山かも知れない。
温泉街の中を流れる川の方へ下りていき、小さな橋を渡る。急坂だったので怖かった。
けっこうたくさん建物があるが、あまり人はいない。
共同浴場を発見。
少し上に登る。源泉の建物と、右手が共同浴場の屋根。
日陰には雪が残っていた。いつ降ったのだろう。
ここは奥只見へ向かう道の途中にある温泉なのだ。すぐ先に栃尾又温泉があり、そこにも行ったことがある。どんな宿に泊まったのか、覚えていない。その時はそのあと檜枝岐経由で会津へ抜けたが、もう峠は通行止めらしい。
この建物は閉鎖されていて、廃墟になり始めていた。
スナックらしいが、やっていないと思う。でも夜見ると違う様子になっているのかも知れない。
さらにうろついたが、それは次回に。
宿の部屋からの風景。もっと上の階からなら、向かいの宿とのあいだの川が見られてもう少し好い絵になったかも知れない。さすがに朝は寒い。今日は出かけるつもりがないので、思いのほかの好天が恨めしい。
宿は思いのほか混んでいる。お年寄りの二人連れが多いのは平日の宿ならいつものことで、やはり安ければ混むのだ。その分食事は、量は十分ながら味が今ひとつなのは致し方ないか。風呂はとても広くてゆったりできる。のびのびと湯につかれれば他は贅沢は言わないことにしたいところだが、湯質がどうもさらりとしすぎて温泉らしくなくて、ただの大きな公衆浴場に入っているみたいだ。
明日には北の方へ移動する。ナビは東北道を指示するが、私はのんびり日本海沿いを走るつもりだ。その明日は天気がまた悪くなるらしい。荒れた冬の日本海を見ながら走ることになりそうだ。
いま養老孟司の『人生の壁』という本を読んでいる。養老孟司の本はしばらく読み直しが続いたが、これは新刊だ。なんだか胸に響く内容がたくさんあって、読み終わったらまた少し間を置いて読み直そうかと思っている。とても大事なことが書かれているのだ。癌から復帰しての本なので、思うところがあるようだ。
朝、明るくなるとともに長駆、新潟まで走る。いつもなら小牧のインターまではトラックが多くて走りにくいが、今日は日曜日、信号待ちもほとんどなく快適に高速に乗る。小牧ジャンクションからは中央道に移る。朝日が正面でまぶしい。まだ多治見あたりは工事が続いていて、車線制限がある。車が多い。天気が好いからみな繰り出してきたようだ。南アルプスが右手、南側の見える。
早いけれど、駒ヶ岳のサービスエリアで休憩。木曽駒ヶ岳の前山が輝いている。青空が素晴らしい。
岡谷から長野道へ移る。だんだん空が曇ってきた。日本海は雨の筈だ。北アルプスが雲間からチラチラと見えるが、写真を撮るほどの景色はもうない。姨捨を過ぎたあたりから雨。強く降ったり小雨になったりで、止み間はない。
黒姫・野尻湖パーキングで二度目の休憩。この写真が撮りたかったのだ。太平洋側とはまったく天候が違う。
パーキングには、野尻湖で発掘されたナウマン象にちなんだ像が置かれていた。
しばらくしたらまた雨が強く降り出した。
黒姫を過ぎ、妙高あたりから、雨がずっと強く降り続く。長野道は二車線になったのでとても走りやすい。このあと、そのまま宿までずっと雨。今晩の宿は魚沼の、尾瀬へ向かう山の方の温泉宿。アウトバスの安い部屋なので、二食ついて一泊一万円でおつりが来る。風呂にも食事場所からも一番遠いけれど、トイレはあるのだ。迷子になる恐れはあるが馴れれば問題ない。それなら文句はない。ずっと雨らしいので、ゴロゴロしながら温泉と読書に専念するつもり。早めに着いたのですでに一風呂あびて、缶ビールを飲んでいる。
なにか言われて、はい、と言う人のなんと少ないことか。はい、と言うことは相手に負けたとか、服従することだと思っているのだろうか。それとも、はい、と言うと相手の言い分を認めたことになり、損をするとでも思うのだろうか。もちろんそういう場面もあるだろう。そんなときにまで、はい、と言え、などと言っているわけではない。
はい、は相手の言うことを聞きましたよ、ということであって、いささかの相手への敬意を含むものでもある。しかるのちに自分の言いたいことを言えばいいのである。そういう私だって必ずしもはいとばかり言うわけではないが、比較的に抵抗なく、はい、と言ってきたほうだと思う。あまり愛想のいい人間ではないけれど、附き合いにくい相手や目上から嫌われることが少なかったのは、素直に、はい、と言うことが多かったからだと思う。
たまに、はい、と自然に返事があると、その人に好感を持つものだ。それがわかっているから、接客マニュアルなどに従って、とってつけたような、はい、が使われるのだろう。しかし中身がすかすかの、はい、は、はい、ではない。それが却って、はい、を使いにくくしているのだろうか。
息子は比較的に素直に、はい、と言っていた気がする。娘は・・・言わないことはないが、少し口惜しそうに、はい、と言う。言うだけマシか。むかしは女性は、美しく、はい、と言う人がいたものだが、いまは却って女性ほど、はい、と言わない。意識が高くなったのだろう。皆が言わないから、あえて言うと値打ちが上がるのに、と思うけれど、だからこそ死んでも、はい、と言わないことにしているのかも知れない。
はい、と、ごめんなさい、すみません、を決して言わない人がいる。言えないのだろう。たいてい、ありがとう、も苦手に見える。
はい、と言わずに、べぇっ、と言う。
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