タフなのか繊細なのか
自分には詩才どころか詩を解する能力すらないことを子供の時から強く実感していたので、却って詩にあこがれる。かろうじて定型詩にはリズムがあるので、そのリズムの助けでおぼろげに何かを感じた気持ちになったりする。だから漢詩や藤村の詩集、上田敏の『海潮音』などを、声に出して読んでみたりする。リズムがイメージ想起の助けになるのである。
俳句という定型詩は日本語の曖昧さとマッチして、ことばの意味がじんわりと墨絵のようににじむところが好い。短いから解釈が多様で、読み方で、つまり想像力と素養の深さで見える世界の広がりが違うようだ。だから私などは、優れた解釈の助けが必要で、それによってイメージを喚起する。
江國滋の本を楽しみながら一冊ずつ読み直している。彼は編集者であり、文筆家であるが、落語についての造詣が深いからその方面の本も多いし、テーブルマジックではプロをうならせるほどの腕前でもあった。俳句では『東京やなぎ句会』の一員であり、俳句についてもたくさんの本を残している。
おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒
が辞世の句であるのは有名。
その江國滋の『俳句と遊ぶ法』(朝日新聞社)という本を読んでいる。 その中の、『人の悼み方』という文章に久保田万太郎の俳句を評しながら、
「追悼句でも作らなければ悲しみにおしひしがれてしまいそうで、いてもたってもいられなかったのか、そのへんの心の襞(ひだ)をのぞくすべはないけれど、次から次へと相ついだ人生の凶事のたびに、これだけかたちのいい句を、とにかく詠めるというところに脱帽せざるを得ない。よほど神経がタフなのか、よほど神経が繊細なのか、どっちかに違いない」
とある。
この、神経がタフであるか繊細であるかについては、私はどっちか、という問題ではないと思っている。鈍感であるか繊細であるかは同時にはあり得ず、どっちかでしかないが、タフであり繊細であることは同時にあり得ると思っている。繊細な神経がたくさんあって束になっていれば、繊細な感性を持ちながら、しかもタフであり得るのだと思っている。通常は繊細な神経がたいした本数しかないからか弱いが、細いものがたくさん撚りあつまっている場合は、鈍感な太い神経より強靱なのである。
繊細でタフ、というのが人間として望ましいと思っている。
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