余秋雨の慨嘆
敦煌・莫高窟の貴重な文物が、奪うようにして持ち出されてしまったことに対して、もしその場にいれば身を挺してそれを止めたいと願う士は多かった。余秋雨もそう思った。しかしそう願ったのはすべてが取り返しがつかなくなってからのことで、空しい。そのこともよくわかっている。しかしそれよりも大きな慨嘆がある。
そのことを以下に引用して、結びとする。
「ぼくは、またも溜め息をついた。牛車隊を本当にひき止めたら、それからどうしよう。ぼくも、当時の都に運ぶほかなかっただろう。輸送代を無視できたとしても。しかし、当時、洞窟から文物の一部がまちがいなく都に送られたではないか。その情景たるや、木箱に入れず、ムシロでいいかげんに縛っただけのものを、道々役人どもが巻き上げるわ、宿を取るたびに、いくつもの梱包を残すわで、そのあげくの果てに、都に着いたときは、バラバラの無残な姿に変わり果てていた」
「中国は広大なれども、数巻の経文すら蔵することができないというのか!役人たちにないがしろにされるよりも、大英博物館に預けた方がよっぽどましだと、ときには心を鬼にして叫びたくなる!こんなことを口にするのは畢竟、気分のいいものではない。ぼくに引き止められた牛車隊はどこに行くべきか?どこもかしこも難しいなら、砂漠に踏みとどまってもらうほかなく、それからぼくは思いのたけ泣きたい。」
まさにそのような事実を王家達は『敦煌の夢』で記している。膨大な量だったために持ち去られずに残された敦煌の文物もあった。しかしそれのどれほどが中国の博物館に収められたのか。ほとんどが四散してしまった。奪われて失われたものは、現に外国の博物館に収められ、保存され、研究に供することができる状態である。しかし中国に残されたはずのものは本当の意味で失われたのである。わずかに金持ちや文化人に私蔵されていたものも、多くが文化大革命などによって失われた。そして運良く北京の故宮博物館の地下まで運び込まれたものも、死蔵されたまま目録も作成されないで、あるやらないやらいまだにわからないという。
「ああ恨めし!」と余秋雨は慨嘆したが、中国人でない私も同じ気持ちになるのである。
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