続・人生相談
前回の補足。
中島義道のような哲学者に人生相談をしても救いがないかのようだが、ときには隘路にはまり込んでいる相談者を、その迷いから覚醒させる働きがあるかも知れない。相談を吐き出すことで、その相談そのものについて多少は客観的に見直すきっかけになるという話はしばしば聞くことだ。親身になって聞くということと、突き放すということは、正反対のようで、相談者が問題について考えるための違う視点を与えるきっかけとなり得るから、本当に迷路からの出口を求めているなら意味はある。
そういえば哲学者、というより思想家、思索者といっていい梅原猛が人生相談を受けた記録を読んだことがあって、それも面白かった。おもしろい、というのは不謹慎ではあるが、人生というものの断片を見せてくれること、それに対しての考えを知ることに興味があるということだ。
昔、ラジオで聴いた人生相談では、子供の教育問題がけっこう多かった。四十年も昔のことだが、登校拒否、引きこもりの問題が顕在化し始めたころであった。教育学者と称する回答者が猫なで声で「見守りなさい、子供には立ち上がる力が備わっているから、必ず立ち直ります。無理に何とかしようとしないように」と回答していた。その時に私は本当かなといつも疑問に感じていた。登校拒否にはさまざまな理由があるだろう。傷ついた心が回復するまでは静観するのも良いが、子供にとって解決できないことについては手助けが必要だろうと思った。自分の子供がそういう事態になった場合について想像もした。
この教育学者は十年後、二十年後、三十年後も引きこもりを続けている子供(もちろんもう成人)について、どう答えるのだろうか。
いまだったら親の介護や伴侶の介護に疲れ果てた相談、などというのが多いのではないかと思う。中島義道の本に記された相談にもそういうものがあった。いまはそういうときの行政的な相談窓口というのがあって、そこに頼るのがいちばんなのだが、あんがいそれを知らずに深刻な事態になっていることが多い。それを指し示すことは大いに意味がある。但し、行政も予算や人手に限界があり、また窓口の人間によって大いにあしらいも違うから、それは運不運もあるだろう。そしてこれからますますそのことで、出口のない長く続く苦難に落ち込む人が増えるだろうと思う。現代の姥捨山の物語は無数にあるに違いない。たいてい、「いい人」がもっとも苦労する。中島義道は「いい人」をやめなさい、と直言していた。「いい人」は「いい人」をやめたらどうなるかを心配するからやめられない。だから「いい人」なのである。
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