人生相談
人生相談の番組をラジオで聴いたり、人生相談のコラムを読んだりするのが好きだったことはこのブログに書いたことがある。「好きだった」というのは、最近はそういう機会があまりないし、積極的にそれに接しようとまでは思わなくなっているということだ。
ドイツ哲学者の中島義道の『人生、しょせん気晴らし』という本では、いくつかの気晴らしがテーマ別に章立てしてあるが、その中に『人生相談という気晴らし』という章がある。ここで二十件の相談に答えているのだが、それがとてもおもしろかった。
改めて私は「人生相談」にむいていないなあと思いました。人生相談を持ちかける人は、たぶん常識の範囲を超えない限りで、つまりあまり苦労なく実行できる範囲で、何らかのポジティブな回答を求めている。あるいは、ちょっと考え方を変えれば「楽になる」そんな妙薬を求めている。とすると、私にはそういうご期待に応える素質も趣味もないからです。
こういう人であるから、相談に対する回答は正論で、にべもない。そもそも相手の立場に立って感情移入する、ということのない人だから、なぜそんな相談するのかを鋭く推察して歯に衣着せぬ回答になるので、そこがとてもおもしろいのだ。
人生が何の意味もないことは自明であり、その無意味な人生の終局は死であって、(たぶん)永遠の無に突入するのでしょう。こうした差し迫った大問題に比べると、どんな相談も失礼ながらちっぽけなもの、どうでもいいものに思われてしまうのです。
自分が「愛されなかった」あるいは「不幸だった」と思い込んでいる人の老後はどうしようもない。周りの人間すべてを不幸に陥れるまで不平を語り、愚痴を言い、泣き言を繰り返します。
私の心情なのですが、人は「犠牲的精神」をもって生きると、結局犠牲を払わされた相手を憎むことになります。
こういう人が気晴らしに人生相談を受けたらどうなるか、哲学者は人生の生きる意味など教えてくれない。そのことが繰り返し回答として与えられている。そもそも自分の人生について考えるのは自分であり、哲学を知って考え方を知ることはできるかも知れないが、それにはたいへんなエネルギーが必要で、人に人生の問題を相談するような人には無理であろう。なにより意味を求める人に、無意味に直面する勇気はないだろうから。
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