中島義道『人生、しょせん気晴らし』
『人生、しょせん気晴らし』(文藝春秋)は、ドイツ哲学者の中島義道の著作集。テーマ別に、彼の気晴らしについて書いている。『自由な生き方』、『読書』、『社会批判』、『哲学』、『人生相談』、『対談』の七項目である。書き下ろしではなく、さまざまな雑誌に掲載されたものを集めている。
2009年に出版されたこの本を、たぶん店頭で見つけてすぐに読んだ筈だから、今回は再読ということになるのに、一部まったく記憶がない。『「哲学」という気晴らし』の項で、ここでは、彼の専門のカント哲学を掘り下げ、ショーペンハウエルを論じている。カントの精緻さを称揚し、ショーペンハウエルを、視点の独自性を買いながらも粗雑と断じ、ニーチェをさらに粗雑と切って捨てている。この章はたぶん読み切れなかったから記憶にないのであろう。上っ面だけ読んだか、ここだけ飛ばしたのだ。今回は何とか読むことは読んだが、難解すぎてほとんどわからなかった。
哲学をするということにおいて、カントなどの哲学者の言っていることを解釈することは出発点である。解釈し、理解し、そこを出発点にして、自分がそこからさらに思索を深めて前へ進めなければ、本当に哲学をしているということにならない。解釈だけでは学問ではない。そういうことを改めてこの文章から教えられた。そもそもカントの言っていることが私には理解できないから、わかったのはそれだけであった。
哲学をやってよかったのは人間がわからないということがわかったことです。(小略)哲学とは「なぜか」を考え続けることです。
人間は多面的なんです。(小略)私がいちばん嫌いなのは、人間の見方が怠惰な人です。そうならないためには、「怒り」という感情を見据えることはもちろん、普段からいろいろな物事をよく観察して、言語化して、考えていくことが必要ではないでしょうか。
我が田に水を引くようだが、ブログを書くのも、多少はこのざる頭で考える足しになっていると思う。
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