正しいことを否定するのは困難だが
ポリティカル・コレクトネスということばがある。社会的弱者に対する配慮のことで、たとえばマスコミのことば換えはそれを根拠とする。めくらを眼の不自由な人、などとするようになったのをはじめ、保健婦を保健師、看護婦を看護師、スチュワーデスをキャビンアテンダントなどと言い換えるのがそれだ。母子手帳はいつの間にか親子手帳に換わっているらしい。いまはそれが微に入り細を穿ち、マスコミのことば狩りは、あたかもことばの魔女狩りのようである。
そう私が感じるのは、そのことば換えの神経の使い方が異常に過敏であるように感じるからで、しかもその過剰さは弱者に対する配慮という本筋以上に、ことばにいちいち目くじらを立てて糾弾する、ほとんどカスタマー・ハラスメント的な連中に対する防衛のための面が多いように思うからである。どんなことばも悪意を持って使えば差別的になることがあるが、それが全くないのに糾弾されることのなんと多いことかと思う。
お客様は神様です、を私が毛嫌いするのは、カスタマー・ハラスメントを助長するからで、カスタマー・ハラスメントの差別意識ほど虫唾が走るものはない。何しろ客は王様どころか神様になってしまうのだから。
世の中のある程度の見識のある人たちはうんざりしている。ことあるごとにだれかのことばの切れ端を取り上げて騒ぎ立てる風潮に、である。しかしそれは一見正しいことを正しく言っているかのようなので、よほど論理的な知能がないとなかなか否定しきれない。そしてそのような正義にもとづく揚げ足とりの人は、論理的なことばに耳を傾けないのが普通だから、空しいことになることが多い。
トランプの出現に拍手喝采が起きていることの一因に、そういうイライラがあるのではないかという気がするが、飛躍しすぎだろうか。なかなか否定しにくいけれどもちょっとやり過ぎではないか、ということに、トランプは無神経にかみついて否定してみせる。論理もなにもないけれど、論理がないゆえに、論理に聞く耳持たない正義の味方に言い勝ってしまうのが、痛快だと思う人がそれだけ多いということではないかと感じてしまうのだ。
民主党は、どうして正しいほうが負けるのか理解できずに呆然としているように見える。世界中のあちこちで正しい者が負けて、論理などくそ食らえの政権が誕生しつつあるように見える。マスコミは正義の味方だから凋落していくばかりだ。立て直すにはもう少し強靱な、不条理な現実を直視した上での視点に立つ必要があるのではないかと思う。正義の味方であることが商売になった時代は終わりつつあるようだ。
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