使い切るとうれしい
消耗品だから使い切るのが前提なのに、なかなか使い切れずに捨てることが多い。食品ではしばしばあって、野菜でも冷蔵庫の隅でいたんだりさせてしまうことがたまにある。賞味期限が多少過ぎた瓶詰めなど、あまり気にしないけれど、あまり古くなればさすがにまだ残っていても処分することになる。服でも、もう身につけるのは無理だな、というところまで着倒すのは、よほどお気に入りのもので、大して使わずにタンスの肥やしになっているものの方が多い。
いろいろなものが丈夫になっているので、壊れにくい。壊れなければ買い換える気にならない。普通の寿命以上に使って、それで壊れると納得もできるし、なんとなくうれしい。寿命を全うさせたという満足感と、新しいものにできる喜びがあるからだ。必要以上に持っているものが少しずつ減るのもうれしい。靴下やタオルがもうさすがに使うのは無理だなと納得できる状態で捨てられたりするのはことのほかうれしい。ボールペンを使い切るなどというのもうれしい。ありそうであんがいないものだ。メモ帳やノートも、最後まで使い切るとうれしい。これもありそうであんがい少ない。
一生使い切れないほどあるのになかなか減らないものがある。減ったと思っても、もらったりする。ありすぎるとイライラすることがある。それはたぶん普段忘れている自分の寿命を思い起こさせるからかも知れない。いままでありすぎても平気だったし、自ら増やしていたものでは、録画したたくさんの映画に対してイライラが少し起きている。まったく我ながら捨てるのが苦手だと思う。本質的にケチであるし、子供の時からしつけられた、もったいない、という気持ちが染みついてもいる。
今のところまだ大丈夫なのは本で、すべて読み尽くすのが、つまり使い尽くすことが前提とは考えていないからだ。ある意味で、とうにあきらめているところもある。読んだら処分するような本は使いきったものといえて、ほぼ処分し尽くしたが、いま残されている書棚の本は、たいていもう一度読みたい、読まねば本当に読んだことにならないと思う本ばかりだ。本当に読む、なんて、本当はできないことなのだけれど。
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