團伊玖磨『なおパイプのけむり』
『なおパイプのけむり』はシリーズの第九巻。惰性で読み始めたので、シリーズを読むのをしばらくやめていて、しばらくぶりに続きを読み始めた。團伊玖磨にはこだわりがいくつかあって、そのこだわりがなるほどと思えるもの、自分ももう少しこだわっても好いな、と思うものもあるけれど、いささかこだわりが過剰でいくら何でもそこまでは、というものもある。人によってはその部分から嫌いになるだろう。しかし人には他人に理解しきれないこだわりがあって好いし、そのことこそがその人独自の生き方だろうと思うので、その同感できないこだわりを私は笑って読み飛ばすことにしている。あんがい計算ずくかも知れない気もしないではない。
この巻は昭和四十九年から五十年にかけて書かれたものなので、いまから五十年前の話である。一文を引用する。
それにしても、最近、鉄道に乗ると、子供の躾けの悪さに辟易させられる場合が多い。いまは丁度夏休みだし、旧のお盆も重なって、子供が沢山移動する時期なので、殊に目に付くのかも知れないが、多くの場合、観察していると、親が子供の狼藉に無関心な事、驚く程である。諦めてしまったのか、野放図を自由と錯覚しているのか、何なのか知らないが、あんな事では、結局将来苦労するのは、良い加減な育てられ方をした子供自身だろうと思って、子供が気の毒になってしまう。何れ社会の中で生きていくために自己改革をしなければならなくなるのは子供自身なのだ。そうであれば、そんな詰まらぬ手間は、子供が小さいうちに取り除いてやって置く方が利口な方法だろうと思う。
こういう親に限って、躾けや教育は学校がすると錯覚しているらしいが、学校で与えて呉れる教育などというものは、たかだか三十パーセントにも満たないものだと僕は考えている。自分自身を振り返っても、学校で習った知識などは、大切ではあるが、最低の常識線程度のもので、真に役立つ専門的な技術や、躾けのような社会との接点になる感性は、決して学校では教わらなかったと言える。
五十年後のいま、私が見るに、躾を受けずに育った子供はとっくに成人になり、きちんと躾を受けて育った大人たちに交じって、自己変革などする機会も必要もなく子供のまま生きている。そうして何よりそういう子供を持った親は、その子供たちによって生きにくい老後を送っているだろう。そういう子供たちも子供を持ち、それがあたりまえに生きている。
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