製塩と木地師の里
日本の各地に木地師の里がある。その木地師の発祥地で、全国の木地師のおおもとの里とされる場所が、奥永源寺にある。奥永源寺とは、琵琶湖の南東、愛知川(えちがわ)に沿って遡った場所で、近江国に属する。
湖東三山の西明寺、金剛輪寺(松尾寺)、百済寺を訪ね、さらに足を伸ばして永源寺を訪ね(紅葉が素晴らしかった)、そこから奥永源寺に踏み入って、木地師の祖とされる惟高親王の御陵(惟高親王の正式の御陵は大原にある)を訪ねたことがある。途中に、木地師資料館にも立ち寄ったが、予約しないとならないため、残念ながら中には入れなかった。その時には、どうして近江の山中のこの地が全国の木地師の里であるのかわからなかった。
その疑問が、先日購入した宮本常一の『塩の道』(講談社学術文庫)という本を読み始めたほぼ冒頭の部分で氷解した。もともとの製塩は、単純に海水を土器で煮詰めていた。効率が悪く、少量しかとれないうえに、海水のしみこんだ土器はすぐ壊れた。その時代の製塩場所とされるところには壊れた土器が大量に出土する。その後製塩法が改良されて効率よくなっていくとともに、土器ではなく壊れにくい石で作られた器で製塩が行われるようになり、飛躍的に製塩技術が進歩した。
それを支えたのが石を穿ち、器にするための鉄器の登場である。ただ鉄であればよいというのではなく、それだけの鍛鉄となる鉄がないとその道具は作れない。そしてそのような鉄を産するのが近江の地であったのだ。全国で近江の鍛鉄鉄器が使われた。石を割り、石を削り、木を削るための鉄器である。
さよう、木地師とは轆轤(ろくろ)を使い、木地を回転させてよく切れる鉄の刃(やいば)で木を削り出す職人のことにほかならない。その刃はこの近江の鉄でなければならなかったのである。轆轤の技術だけではなく、その刃の供給元としての木地師の里こそがこの近江の地だったのである。
疑問が解けて嬉しい。読書によるご褒美である。
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