映画『シャイアン』
ジョン・フォードが描くシャイアン族の衰亡。1964年のアメリカ映画。南北戦争の余塵の残る頃、アメリカ政府によってもともとの故地であるイエローストーンから二千キロ近くも離れた居留地に移されたシャイアン族は、移動の最中に千人いた人数が三百人足らずに減り、さらに砂漠の中の過酷な居留地では生活が出来ないで苦しんでいた。追い詰められた彼らは生活の改善を要求するが、それは無視され、やむなく居留地からイエローストーンへの移動を始める。
それをとどめようとする騎兵隊などとの戦いにより、双方に死傷者が出るが、それは針小棒大に伝えられてたいへんな騒ぎになる。追跡隊を率いるアーチャー大尉(リチャード・ウィドマーク)はシャイアン族の実情をよく知るために同情的で、極力穏便に納めようとするが、事態はどんどん悪化していく。
インディアンとよばれていた原住民に対して、アメリカ人がどのような扱いをしたのか、アメリカ人というのがどういう国民かをかなり正確に描いていると感じた。正義と自由、人権を高くかかげる彼らのことばは、彼ら白人のみに対してのもので、他者に対しては一切それは適用されない。その象徴がトランプとその支持者だといったらいいすぎだろうか。
『駅馬車』でインディアンをバッタバッタと撃ち殺したジョン・フォードが、この『シャイアン』で伝えたかったものは何だったのだろうか。アメリカの歴史、国民性とはこういう背景のもとに成り立っているのだ、という冷静な事実の提示なのだと思う。
ラストはおさまるべくしておさまるが、そこには男の矜持のせめぎ合いがあり、数少ないそのような者によってのみ、事態というのは収拾される。いまそのような男(あるいは女)がどこにいるのだろうか。
リチャード・ウィドマークは好きな俳優で、ここでもいかにも彼らしい役柄を演じていた。ヒロインのデボラを演じるキャロライン・ベイカーは美しく、かつ崇高である。この映画に挿入される「ドッジシティの大騒乱」で、ワイアット・アープの役としてジェームズ・スチュアートが出ていて、その軽妙な演技がその前に見た『シェナンドー河』と対照的なのがおもしろかった。
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