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2025年3月

2025年3月31日 (月)

明日から四月なので

 旅から帰って、洗濯したり、片付けたり、買い出しに出たりと忙しい。留守中に録りためたドラマも見なければならない。NHKのアニメ『火の鳥』(手塚治虫原作)がついに終了した。この世界観、生命に対する考え方は、この原作を読む前におぼろげに私も考えていたことと近かったので、とても感銘したものだ。今回アニメでじっくり見て、原作を読んだときの興奮を思い出していた。

 

 『アストリッドとラファエル』の新シーズンが来週から始まるようだ。大好きなフランスのミステリーで、そのアストリッド役のサラ・モーテンセンが日本に来て、あちこち訪ねたり、吹き替えの貫地谷しほりとトークをしたりした番組も録画していたのでそれを見た。千葉で会ったときに、妹もこのシリーズをおもしろく見ていたようで、すでにこのサラ・モーテンセンの番組も見ていて、内容を一部教えてもらっていた。ドラマのアストリッドとサラ・モーテンセンは驚くほど違う。やはり役者というのは凄いものだと思う。役柄と違って、本人は美人だし明るい。笑い顔がとても好い。ドラマの始まるのが楽しみだ。

 

 四月から新しく始まるドラマも多い。最初だけは気がついたものは録画しておき、一話か二話見て、おもしろくなければそれで打ち止めにする。全部見るのは無理だ。基本的によほどおもしろそうでなければ民放のドラマはパスしている。キムタクや嵐の元メンバーをはじめとする類いが出るのははじめから敬遠する。敬遠するものがあるのは、選ぶ手間が省けていいものだ。それにNHKとWOWOWだけで手一杯だ。

 

 四月から新年度ということで、少し読書も系統立てて、学ぶ気持ちでスケジュールを考えようと思っている。昨年平家物語を全巻読んだように、今年も古典にチャレンジしたい。それにいま読みかけている永井荷風の全集を引き続き読もうと思う。旅先に『ふらんす物語』を持参したが、連泊ではないので昼は移動、夜は酒を飲んでいたので百ページも読めなかった。あとは中国の古典を読み直すつもりだ。読み直すと云えば、奥野信太郎や開高健の全集も読み直したいと思っている。いろいろ忙しい。忙しいのは生きているということで、ありがたいことである。

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これは後で行った、アクアマリンふくしまという水族館にあった書架。天井(高い)まであって、たくさん本が収められる。こんなのが欲しかった。

カッパ淵は淵ではない?

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逆光で見にくいが、カッパ淵への曲がり角の大きな看板。

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この道をまっすぐ行く。夏なら両側のホップ畑の高い蔓が見られる。

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カッパ淵は常堅寺の境内をぬけていくと近い。

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なんと川はメンテナンスのためにほとんど干上がっていた。本当は水がたくさん流れている。

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ここがカッパ淵なのだが、大して深くないことが判明。これではもし水があってもひそむのは難しいであろう。

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これは伝承園にあったものだが、カッパ釣りの様子を表している。餌はキュウリ。実際に水のあるときはカッパ釣りができる。もしかすると・・・と思わせてくれるのだが、干上がった状態を見てしまうとそういう期待はしぼんでしまう。

このあと、長駆牡鹿半島へ向かう。

オシラ堂

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座敷の奥にオシラ堂がある。頭をぶつけないように屈んで通る。

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これが見たかったのである。大量のオシラ様が壁一面にならべられて迫ってくる。オシラ様は普通ペアである。

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ペアの男の方は馬の顔、女は少女。左右の並びはランダムのようだ。

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入り口の壁面も隙間なく列んでいる。

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奉納した人の願いが書き込まれている。頼めば奉納できる。

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犬ではなく馬である。

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オシラ様についての説明。養蚕も関係している。蚕の顔をよく見ると馬に似ているという。まだ早いから蚕は展示していないが、初夏ごろなら成育中の蚕を見ることができる。

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こういうふうに各家庭に祀られたり、イタコの口寄せの依り代にされたりもしたらしい。

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この曲屋(まがりや)の奥にオシラ堂がある。

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庭の隅に金勢様が祀られていた。

このあとカッパ淵を見に行く。歩いて行ける。

2025年3月30日 (日)

遠野・伝承園

花巻の台温泉に泊まった翌朝、遠野の伝承園に向かう。遠野は三回目、そして伝承園には二回目である。ここでどうしても見たいものがあった。ご承知のように、遠野は柳田国男の『遠野物語』の舞台である。

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駐車場からはるかに見えるのは早池峰山(はやちねさん)であろう。車がほとんど無い、つまり客がまだいないと云うことだ。以前来たときはたくさんいた。

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伝承園案内図。いくつかの建物は現在展示品の入れ替えや補修のために中に入れなかった。

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『遠野物語』は、地元の佐々木喜善という人が集めた話を柳田国男が記録して発表したものだ。柳田国男は、晩年『遠野物語』が彼の代表作と言われることを好まなかったという。自分が直接収録したものではないからだろう。でも、『遠野物語』はまちがいなく彼の代表作だと思う。

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柳田国男の本はたくさんあって、その一部を読んだ。それでもけっこうの冊数になる。何度読んでもおもしろい。この人のおかげで民俗学に興味を持った。

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ここに揚げられている人たちの一部を紹介すると、柳田国男、折口信夫、石川啄木、泉鏡花、高村光太郎、宮沢賢治、北原白秋、若山牧水、三木露風など、そうそうたる面々が鏡石佐々木喜善と交友があったのだ。

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実際の園内の様子。それぞれの建物にテーマがあって楽しめる。

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よく見ると、赤い字で「オレのだ」と書いてあるのがユーモラスに感じた。

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たぶん自家製であろうこのような民具を眺めるのも楽しい。昔小さい頃、父の仕事の関係で田舎暮らしをしていたときがあり、友達の農家へ行くと、こういうものに囲まれていた。

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父も幼い頃はこういうのにいれられていたという。囲炉裏があったりするので、這い回ると危ないのである。年寄りが揺らしてあやしたりしたのだろう。山形では確か「いずめこ」とか云った気がする。

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この奥が寝室。実際はもっと暗い。

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右手の書見台のような所にタブレットがあり、いくつかの話のなかから選んでタッチすると、小さなおばあさんが身振りよろしく地元のことばで昔話をしてくれる。ここでオシラ様の話を聞く。この屋敷の一番奥にオシラ様があるのだ。今回はそれを見るのが主な目的。気を持たせて申し訳ないが、オシラ様の写真は次回に。

無事自宅に帰着した

六時過ぎに千葉を発ち、つい先ほど名古屋の自宅に帰着して荷物を下ろし、ほっと一息入れているところである。いつもは帰ると家も好いものだなあと思うのだが、今回はまだもっとあちこち行きたかったなあ、という思いがしきりにする。

とりあえず、無事帰着の報告のみ。冷蔵庫がほぼ空っぽなので、これから近くのスーパーへ買い出しに行くつもりだ。

いちご煮の炊き込みご飯

弟のところへいくつかささやかなお土産を持参したが、その中に牡鹿半島の鮎川浜で購入したいちご煮の缶詰があった。酒の肴にするつもりだったが、缶詰にはいくつか食べ方が書いてあって、炊き込みご飯にできると表記されていたのを弟が見て、それを作ってくれた。

昨日は妹夫婦が弟のところへやってきて、義弟が倒れてから初めて兄弟全員が揃った。一時期は意識もハッキリせずに寝たきりに近かった義弟も、いまはおぼつかない足取れながら車を乗り降りできるまでになった。前回会ったときよりも、ずいぶん回復している。みんなの会話にも積極的に参加している。基本的に施設での生活を続けなければならない状態で、もちろん介護は欠かせないものの、自由に自宅に帰ることもできる。最悪の時から見たら奇跡的である。

量としては少しずつながら、みんなでいちご煮の炊き込みご飯を食べ、今まで兄弟で行って旅の話、今回の私の旅の話、そして五月にまた兄弟で出かけるつもりの旅先の予定の打ち合わせなどをして歓談した。夕方、妹夫婦は元気に帰っていった。

昨晩も弟と飲んだ。義妹にはずいぶん世話になった。

今朝は車が混まないうちに、朝早く名古屋へ帰る。日曜だから通勤の混雑はないだろう。寒い。最後まで気を抜かないように、無事に帰り着くようにするつもりだ。

因みに、まだ報告していないが、牡鹿半島の先端部、金華山が目の前の鮎川浜に行ったのは、震災の前の年にここの民宿に泊まったことがあり、その後半島の復興の様子を見るために、ほとんど毎年定期的に訪ねていたが、コロナ禍以後は出かけていなかった。ひさしぶりである。浜の様子はずいぶん変わった。泊まった民宿は宿の前の木、二本だけ残して跡形もなく、ご主人夫婦が無事だったかどうかもわからない。

2025年3月29日 (土)

ねぷたの下絵と津軽三味線

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館内の展示品を見て歩く。地元のこけしなどの工芸品やその製作実演などもあったが写真は撮っていない。ねぷたの下絵が素晴らしかったので、何枚か写真に撮った。これは『水滸伝』の黒旋風李逵(りき)。

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これも『水滸伝』から九紋龍史進。

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日本武尊(やまとたけるのみこと)。ヤマトタケルは上の方。女装して熊襲の長を倒した。

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抱えているものが凄い。

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下絵を元に絵を描き、色をつけたもの。

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三味線のいろいろ。時間が迫ったので津軽三味線を聴きに行く。

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一番前、目の前で聴かせてもらった。津軽よされ節と津軽じょんがらの二曲を聴いた。素晴らしい演奏で、感動した。鳥肌ものだった。

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このあと雨の中、庭園を一回りして、名残惜しいがねぷた村を後にした。

この日の宿は花巻の台温泉。少し早いので無理すれば遠野へ行けたが、寒いし天気も良くないので明日行くことにして、早めに宿に入り、ゆっくりした。

弘前・ねぷた村

弘前城近くのねぷた村に行く。

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館内に入り、ねぷたについての説明を聞く。五所川原のねぷたは立佞武多だが、弘前のものは平面で丸いものが多い。青森はねぶた、津軽はねぷたである。違いは、ねぶたは海岸地域で、浜言葉のなまりによるもので、もともとは同じだという。青森ねぶたが全国的には有名だが、毎年20あまり、この弘前のねぷたは60を超えるという。

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笛と太鼓によるお囃子の実演を見た後、希望すれば太鼓をたたかせてくれる。想像以上に大きな音がして腹に響く。バチ全体で力一杯たたく。

あとで津軽三味線の実演があるが、時間まで館内を見て歩く。

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大きなもので、高さ5メートルあまりだという。

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立体的なものもある。

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こんなのもあった。日本の漫画が技術的、感性的に優れているのは、このような伝統的な背景があるように思う。デザイン性が素晴らしいではないか。

もう少し館内を見る。

弘前城

昨晩は調子に乗って飲み過ぎた。嘘ではないけれど、酔っていつものように少しオーバーな自慢話を弟夫婦にしてしまい、今朝になって自分が恥ずかしくなった。バカだなあ。

さて旅の報告の続き、冷たい小雨が降る中、五所川原を出発し、比較的近い弘前に向かう。若いころに訪ねたことのある弘前城を見たかったのだ。このあたりは欠かさずブログを拝見している式部さんのホームグランドで、ちょっとだけお邪魔をした。弘前でも雨が降り続いていて、空はどんよりと暗い。傘をさしての弘前城散策となった。護国神社の近くの駐車場に車を置いたが、結果的にいちばん遠くに置いたようで、かなり歩くことになった。それとも弘前城そのものが思っている以上に広いということかもしれない。

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隅櫓。写真のように雪が残っている。

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お堀の水が一部凍ったままである。城内は工事の車両がたくさん行き来していて、桜の時期に合わせて整備中のようであった。その代わりに入場は無料となっていた。寒いのであまり人はいない。

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お堀。

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ようやく天守にたどりつく。若いときに見たイメージと違う。新しく修理されて、ちょっとモダンになりすぎている気がした。

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いろいろな方向から眺めた。

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空はどんよりして暗い。向こうの山は何という山だろう。自分がどちらを向いているのかもわからない。

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望遠でアップにする。たぶん雪が降っているのではないかと思う。傘を持つ手が冷たい。

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帰りがけに護国神社にちょっとだけご挨拶した。

このあと、すぐ近くのねぷた村という、弘前ねぷたが見られる所へ向かう。行って良かった。その話は次回に。

2025年3月28日 (金)

千葉に到着

朝、松島の宿を出発し、いま、千葉の弟の家に到着して、ざっと旅の話をしていたところだ。

明日は妹夫婦もやってくる。妹の亭主は施設でリハビリ中だが、ちょうど外泊しているという。明日はまた今度、兄弟で出かける旅先の打ち合わせをする。

とりあえず無事に着いた。ここまで名古屋を出発して約1900キロである。名古屋に帰れば2000キロを超える。しかしあまり疲れていない。楽しく旅ができているということだ。

いろいろ旅先で酒と酒のつまみを買ったので、それを今晩は弟と楽しむつもりだ。

旅の報告はまた明日から再開するつもり。

続・立佞武多(たちねぷた)

引き続き立佞武多の写真を掲載する。

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小野篁(おののたかむら)。参議であったが、じつは冥界と行き来していて、閻魔のところで重要な役目を果たしていたと言われる。

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これが下から見上げた全体像。これが三つ展示されている。一つが歌舞伎の「暫(しばらく)」、一つが「閻魔」、一つが「素戔嗚尊」であった。

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下部だけを写す。向こうに見える人影と比べれば、その大きさが想像できるであろう。

大いに満足した。満足したが、じつはこのあとまた、ねぷたを見ることになる。

立佞武多(たちねぷた)

五所川原と云えば、立佞武多であり、十年ほど前に津軽を訪ねたときに展示館で初めて見て、その素晴らしさに感激した。今回の旅で必ず見ようと思い、五所川原に泊まったのだ。

展示館に入ると、ちょうど大型スクリーに実際の祭りの時の様子を上映していて、そのため館内の照明が落とされていた。らせん回廊で四階まで昇りながら見るようになっているが、係員の方の勧めで、さきにエレベーターで四階まで昇り、そこから映像を眺めることにした。

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それぞれの立佞武多は高さ23メートルもある。

上映が終わり、ライトがつけられた。

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この造形の美しさ、素晴らしさ、迫力に圧倒される。立佞武多のどの部分を採っても絵になる。また同じものも見る位置によって見え方も違う(鳥海山と一緒だ)。

あとは写真だけ見て欲しい。

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細部についても素晴らしいので、次回も立佞武多の写真を掲載する。

現在は松島インター近くの小ぶりのホテルにいる。モダンな作りでビュッフェ式の食事。海外のホテルのようだ。部屋は広々している。まだいろいろ旅を続けたいが、何しろ旅には金がかかる。残念ながらここで打ち止めして、今日は千葉の弟のところへ向かう。松島は今朝は雨。部屋の窓から雨に煙る松島が見えている。

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2025年3月27日 (木)

十三湖と十三湊

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日本海沿いを走っていると、この看板をときどき目にする。密かに、そして不法に日本に出入りする者がいると云うことである。

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十三湖に至る。ここは汽水湖であり、シジミが採れる。シジミを採っている人が見える。海との出入り口近くに北前船などの船が停泊する港があり、船乗りを迎える遊女もたくさんいて繁栄していたという。そこを十三湊という。「とさみなと」と読む。その繁栄の地は、いまはその面影をたどるよすがもないほどになっているという。

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街道の石標。北へ走り続ければ津軽半島の北端の竜飛岬に至る。

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左が日本海で右が十三湖。暴風防砂林も、海からの強い風で傾いている。十三湊の痕跡はこの街道の海側に並行する旧街道にあるはずだ。

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とてもわかりにくい地図。現在地の右手あたりが十三湊のあった場所と思われる。上は海で下は十三湖。ここは砂州のような場所である。十三湖大橋のところで湖が切れて海とつながっている。

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十三湊の町屋敷あとの看板。

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看板の後ろあたりを眺めても、なにもない。なにもないということを確認して、そのことでその栄華の夢を想像した。

ここも五所川原市の市域に編入されているようだ。たしか亀岡の遮光器土器の出土地がこの近くの筈だが、よく調べてこなかったので次回訪ねることにする。ぐるりと湖を周り、高台の十三湖の道の駅で遅い昼食。せっかくだからとシジミラーメンを食べる。小粒のシジミがたっぷり入っていた。

このあと今晩の宿泊地の五所川原に向かう。途中、金木の街を通過した。金木は太宰治の出生地で、生家がいまは斜陽館として公開されている。五六年前に訪ねたので今回はパスした。

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五所川原のビジネスホテルの窓からホテル裏の景色を撮る。小雨が降っている。

小さな飲み屋で軽く飲む。生のニシンを刻んで麹漬けしたものがとても美味しかった。この晩は、私としてはごくごく控えめにした。

ちなみに、むかしは知らないが、いまは五所川原には信号がたくさんある。

八郎潟から深浦

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おもしろい伝説なので紹介する。読めるだろうか。八郎潟の主(ぬし)であった八郎太郎が田沢湖の辰子姫と恋仲だったとは知らなかった。八郎潟が干拓されて住むところの亡くなった八郎太郎がいまは田沢湖で辰子姫と仲良く暮らしているだろう、というのはいい話だ。

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地名の読み方は独特のものがしばしばある。漢字で読みの見当をつけ、実際の読みをローマ字で知って、なるほどと思うことが多い。八郎潟、いまは大潟村を横切ったときの入り口にあたる場所にて。

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混雑する能代の街を過ぎ、白神山地を右手に見ながら日本海を北上し、深浦に入る。ここから青森県だ。

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天候のせいもあるけれど、海が重く暗く感じる。

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それにしてもこのゴミ・・・。

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深浦の海岸は奇岩怪石が延々と続く。笹川長門この深浦の海岸は、是非走って見てもらいたい。

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この五能線が、ずっとつかず離れずで並行して走る。道路は国道101号線。

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空が少し明るくなってきた。

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こういう景色がたくさん見られる。もっとすごいところもあるが、車をゆっくり駐められる場所が無い。写真を撮りたいところほど停められないものだ。でも行けば見られる。

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空が霞んできた。黄砂だろうか。

これから津軽半島の十三湖へ向かう。

三崎峠と鳥海山

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三崎峠の駐車場はうっかりと通り過ぎてしまう。それにそこからすぐの所に絶景があるように思えないから気がついても通過してしまうかもしれない。しかし、ここは見逃せない場所だ。

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少しだけ階段を下ると、この景色が見える。

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冬は風が強いから波の花がすごいんです、とでんでん大将様は言っていた。これは波の花の素みたいなものか。

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ここでぼんやり海を見ていると時間の経つのを忘れる。ただし、風が強い。

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この岩はまさに鳥海山が噴火したときに流れ出た溶岩であろう。

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奇岩もたくさんある。

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少し登ったら鳥海山が見えた。

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三崎峠が山形と秋田の県境で、これは秋田県の象潟のコンビニ裏から撮ったもの。

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そしてこちらが仁賀保高原から撮った鳥海山。撮る場所によって姿が違う。とにかくこの日は鳥海山がよく見えた。

実際の現在は、岩手県の花巻台温泉にいる。お気に入りの宿で、以前兄弟で泊まったこともある。宿で記録してくれていて、泊まるのは五回目だそうだ。花巻は、宮沢賢治や新渡戸稲造の記念館はあるし、高村光太郎が戦後独りで籠もった山荘もあるし、ここを足場に平泉の中尊寺や毛越寺にも行けるし、少し足を伸ばせば遠野にも行ける。

2025年3月26日 (水)

日本海を新潟から山形へ

笹川流れからさらに北上する。新潟県と山形の県境には鼠ヶ関がある。古い関所で、古代のものと江戸時代あたりでは場所が違うという。ここも芭蕉の歩いた場所で、また義経主従一行も船で落ち延びるときにここに上陸したはずだ。

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鼠ヶ関の突き出た小さな半島に弁天島があり、その入り口には神社がある。今回は横着をして遠くから写真だけ撮る。

この先少し先から再び日本海東北自動車道に乗る。だからむかし泊まったことのある湯野浜温泉は通らないのが残念。先日訪ねた、大阪のあにきぶんの人と湯野浜の民宿で、宿のおばさん共々酒を飲んで歓談した。おばさんは、旦那が癌でねえ・・・、などと言いながら、青いあっぱっぱあを着て、歌いながら踊った。明るいような哀しいような酒だった。

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酒田を過ぎた頃から日本海東北自動車道から鳥海山がよく見えた。いままで何度もここを通ったが、こんなに全部がクリアに見えたのは初めてである。とにかく素晴らしい。感激である。山形側から見るのと、でんでん大将様のいる、にかほからでは回り込むからまた山の景色が違う。

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待ち合わせ時間に余裕があったので、吹浦(ふくら)の大物忌神社に立ち寄る。正面は拝殿。

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ここは出羽国の一宮。奥の院は鳥海山の山頂にある。

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上の社に行くにはこの石段を登らなければならない。申し訳ないが、見上げるだけで失礼した。

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この大石灯籠がとても印象深かった。二メーターを超えるのではないかと思われる大きさで、とにかく大きい。

このあと少しだけ前回絶景で感激した三崎峠からの海の景色を見るために立ち寄った。ここがちょうど山形県と秋田県の県境である。すぐ先の象潟で、でんでん大将様と待ち合わせだった。ご承知のように、象潟はむかしは松島と列ぶ九十九島の美景だったところ。いまは地震で隆起してしまってむかしの面影はない。

三崎峠の写真は次回に。

笹川流れのお気に入りの場所

村上から国道7号線ではなく、海岸沿いに国道345号線を北上する。新潟県の北端部で、それを過ぎればもう山形県との県境である。

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笹川流れの中の、お気に入りの場所。車が停められて頼三樹三郎が笹川流れを讃した石碑もある。

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本来の石碑もあるが、こちらの方がわかりやすいので、脇の説明板の方を掲載する。

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こんな景色があり、

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こんな景色がある。この手前は大潮の時にはこの浜辺にも水が回り込む。

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左手は国道345号線。写真を撮っている私のすぐ後ろもトンネルである。耳から海辺へ降りられるが、いまは満ち潮である。

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潮が引けば、この波打ち際の少し先まで岩伝いに磯遊びができる。巻き貝が採れる。一度採ってゆでてみたけれど貝が中に入り込んでなかなか採れず、しかたがないから石で割って食べた。

画面の右上をよく見れば、粟島が見えている。

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水の色が美しく、浸食された岩もいささか不気味に美しい。

これを書いている現実の現在(26日朝)は五所川原にいるが、夜半からの雨がまだ降り続いている。これから風が強くなるという。

日本海に沿って走る

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さて、話は村上の瀬波温泉に戻る。この日の朝は薄く霞がかかっているものの晴れ。朝食後、海岸を散策する。

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向こうに粟島が見える。これから大好きな景勝地、笹川流れに向かう。

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車が停められるところ毎に、海の写真を撮る。

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こういう景色が続く。もっといい景色もあったりするが、車が停められないから独りで眺めるだけである。

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このトンネルは列車のもの。羽越本線である。

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この岩石は溶岩が海に押し出したものであろう。ぽつんと見えている鳥は小型の猛禽類のようだ。ミサゴだろうか。

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一瞬穴が空いているのかと思った。

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前にもこの詩碑のまえで車を停めた。「人は海 とわにかなしき 愛こぼす」と読めるが、私は詩心が不足しているから、わかるようでわからない。

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いま通過してきたトンネル。

もうすぐ本命の笹川流れに着く。笹川流れは11キロにわたって絶景の続く景勝地である。

お気に入りの場所があるが、前回は工事の車が列んでいて、残念ながら停められなかった。今回はどうだろうか。

2025年3月25日 (火)

十三湖と立佞武多

 今朝、霧雨の中、秋田の宿を出発。日本海沿いに北上して、津軽半島の十三湖まで行くつもりである。以前竜飛岬に行ったときに横を通ったが、司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの中の『北のまほろば』の中に、この十三湖の記述があったので、改めてその目で見直してみたいと思ったのだ。ナビが秋田道での北上を指示するので、残念ながら日本海から離れてしまった。能代でまた海へ向かうようだが、その手前で気が変わった。

 

 琴丘森岳という秋田自動車道のインターを降り、大潟村を横切ってみたくなったのだ。大潟村はむかしの八郎潟を埋め立ててできた村である。むかし日本で二番目に大きかった湖の八郎潟の、東側から西側へ横切ったことになる。広い、広い、北海道でもこれほど真っ平らで渺渺とした風景は見られないであろう。日本の国の景色と思えない。ただ、車を停めるところがほとんど無いので写真は撮らなかった。

 

 そのあと、海に近い国道101号を北上する。この国道は五能線と並行して走る。そのあたりで何枚か写真を撮ったが、あとで順を追って報告する。深浦、鰺ヶ沢と通過し、津軽道で津軽半島を走る。太宰治の『津軽』で読んだ景色のままである。十三湖を眺め、むかしの名残がまるで残っていないことを見届けた。

 

 そのあと十三湖の北岸をぐるりと廻って、今度は南下し五所川原へと向かう。ゆっくり走る車が多い。今夜は五所川原泊まり。五所川原に着いたのは四時前だが、宿に入る前に、以前見て感激した立佞武多(たちねぷた)を見に行く。二度目だが前と同じようにその迫力に感激した。

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 いま宿に入り、とりあえず夕方のブログを書いている。夕食は軽くすますつもりである。細かい報告は時系列に従って後日ブログに書くのでお待ちください。

種川と三面川

イヨボヤ会館を出て、鮭公園をぬけ、種川を見に行く。

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種川。三面川(みおもてがわ)の分流である。

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橋を渡って上流側を見る。望遠で見ると、先ほどイヨボヤ会館の地下から川面を見た場所があった。

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あそこから種川の水底と水面とを見上げたのだ。

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三面川への道の上に、こんな絵があった。結構大きい。

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三面川下流方向。向こうは海である。三面川は海近くで橋を渡るときに横切ったことがたびたびあるが、こうして流れ全体を見るのは初めてである。

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三面川上流方向。雪山から雪止め水とともに山の恵みが川にもたらされているのだろう。

念願の三面川をじっくり見ることができて満足した。

川反(かわばた)で

 秋田市の川反地区はむかしからの繁華街だとNHKの紀行ドキュメントで見たことがある。だから秋田の宿を駅近くのビジネスホテルではなく、川反地区のビジネスホテルにした。新しいホテルで、ナビではわからず、住所で見当をつけて探したのだが、ほんの近くまで来たのにうろうろしているうちにどんどん離れて、結局ホテルに電話して、電話でのナビをお願いすることになってしまった。わざわざフロントの女性が駐車場まで出てきて手を振ってくれた。ありがたいことである。新しいから、中はきれいで、思った以上に部屋は広い。

 

 川反地区もひところより寂れたと言われるが、こちらは気に入った店に一軒だけあたればそれでいい。宿について一息入れてから、フラフラと散策に出かけた。目星をつけた中で、独りでゆっくり飲めそうで静かそうな店に入った。ありがたいことにあたりであった。いくつか頼んだ中にカレイの唐揚げがあった。しばらく待って出てきた唐揚げは、大きなカレイで、五枚に下ろしたものを頭から尻尾まですべて食べ尽くせるように丁寧に揚げてある。

 

 酒はいろいろある中から、雪の茅舎という銘柄の酒を頼んだ。秋田の地酒である。じつは昨日お目にかかったでんでん大将様から土産にいただいたのがこの酒であった。それがこの店にあったので、頼んだ。昔飲んでうまかった記憶のある酒だが、今回飲んで、絶品であった。その雪の茅舎で肴をいろいろ楽しんだ。唐揚げは、店主で板長の息子が揚げていたようである。「参ったか、というほど立派な大きなカレイで、たいへん美味しかった。食べ残して申し訳ない。参りました」と声をかけた。むかしなら欠片も残さず食べられたが、さすがに少し食べ残してしまったのだ。店を出るときはやや酩酊していた。気持ちのよい酔いで、たいへん満足した。思い出が一つ加わった。うれしいことにその店長の息子が出口にまで見送りしてくれた。

 

 今日はさらに日本海沿いに北へ向かう。起きて宿の窓を見たらぬれている。今朝は雨。テレビで見たら、全国の中でこの辺だけ雨のようである。このあと雨は上がるだろうか。

2025年3月24日 (月)

仁賀保高原と鳥海山

ただいま今晩の宿の秋田市川反(かわばた)のホテルに投宿。例によって方向音痴により、すぐ近くまで行きながら見つけ損ねてどんどん離れてしまい、ホテルに電話して助けてもらった。

今日の午後、かねがね、近くを通るなら寄るように声をかけていただいていた、ブログ友達のでんでん大将様に初めてお目にかかった。初めてでも、互いに誰かを探している様子ですぐわかった。いろいろお世話になったりお話をしたが、もっといろいろ話すことがあったのではないかと思って後悔している。でんでん大将様は想像していた以上に優しく品のある方であった。私の二つ年上の、人生の先輩である。

鳥海山の見所へ行こうと云うことだったが、まだ雪が残っていて通行止めであった。代わりに仁賀保高原の牧場でソフトクリームをごちそうになり、真正面に鳥海山が見えた。

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仁賀保高原の土田牧場。ごらんのように雪が残っている。ここは標高四百メートルあるそうだ。海辺は春だが、ここはまだ冬である。

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ここのミルクハウスでソフトクリームをごちそうになった。濃厚で美味しかった。

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このように正面に鳥海山。

再開を約束して名残惜しいがわかれた。地酒の手土産まで頂戴して恐縮である。

ありがとうございました。また来ます。

続・イヨボヤ会館

むかしの鮭漁に関する展示コーナーを見に行く。

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迎えてくれたのは、いまより少し若いときの吉永小百合。たまたまいま「夢千代日記」を丁寧に見直していたところだったので、ちょっと嬉しい。

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村上の風物。

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鮭はよく見るとけっこう獰猛な顔をしている。

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漁具はこれだけではなくたくさん展示されている。

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鮭の皮で作った洋服。ネコが寄ってきたりしないだろうか。ネコは鮭が好きかどうか知らないが。

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最上階のガラス張りの展望室から三面川を遠望する。

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右手(川上側)には雪をかぶった山が見える。朝日連峰の前山か。

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展望案内図。

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これが実際の景色。このあと鮭公園を抜けて種川と三面川を見に行く。

イヨボヤ会館

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鮭の博物館、イヨボヤ会館に入ると、まずミニシアターで村上の鮭漁について教えられ、次いで階下のミニ孵化場に案内される。いろいろな淡水魚が孵化飼育されている。

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鮭の赤ちゃんたち。チョウザメなどもいたが隅に張り付いていてうまく写真が撮れない。

その後いろいろな淡水魚の展示場所を見る。

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大水槽の鮭の子供たち。これらが放流される。

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珍しい、幻の魚イトウ。大きい。

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さらに長い通路を通って、地下を歩く。隣の鮭公園の地下をくぐって川まで歩く。

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こうして川床から川を見る趣向である。おもしろい。これは三面川の分流、種川である。後で鮭公園と種川、三面川を見に行くが、地上からここがどう見えるか、写真で説明する。

2025年3月23日 (日)

出発した

今朝名古屋を出発して中央道、長野道、そして北陸道を走り、いま今晩の宿の新潟県の村上という所に到着したところである。

中央道を走るため、いつもの通り東名の小牧インターから乗る。小牧ジャンクションまですぐだ。小牧のインターはいつもトラックにあふれていて混むのだが、今日は日曜日。日曜は好い。何より高速料金の休日割引がある。長距離を走るときは大変有難いのである。

あたりが霞んでいる。黄砂なのか花粉なのか、春霞なのか、それともこちらの目が霞んでいるのか。中央道の駒ヶ岳インターで最初の休憩をとる。

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木曽駒ヶ岳の前山はまだ雪をかぶっている。

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横着に車の中から撮ったので、山にピントが合わなかった。五月にロープウエイに乗って木曽駒ヶ岳を見に行こうかな。

中津川を過ぎたあたりから、車の数がぐんと減って、快適に走る。山襞の向こうに、霞んではいるが、恵那山がのしかかるように見える。

長いこと工事中だった岡谷ジャンクションの工事は終わっていた。トンネルをぬけて塩尻あたりまでは取り締まりが頻繁にあるところなので、スピードに気をつける。長野道の姥捨山のパーキングで停めようと思ったが、霞んでいてパノラマの絶景が見られそうもないのでパスする。久しぶりに走ると上越までが思いのほか遠い。日本のいちばん分厚いところを日本海まで横切るのであるから当然だけど。

塩尻から松本あたりで見られる北アルプスも、やはり雪をかぶった山々が霞んで見えている。姨捨から黒姫山、妙高高原あたりはまだ一面に雪が残っていて、春というより冬の景色である。

上越を過ぎて大潟のパーキングで二回目の休憩。朝作って持参したサンドイッチを昼食にする。大潟を過ぎて姉崎、米山あたりから日本海が見えてくる。いつもはくっきり見える水平線が、霞んでいて海と空の境目がわからない。新潟からは日本海東北自動車道を走る。途中から片側一車線になるから、一台遅い車がいれば全部が遅くなって行列になる。ここは追い越し車線をもうけた場所も少ないので、ゆっくり付き合うしかない。

村上に早めに着いたが、笹川流れを見に行くほどの時間は無い。前から立ち寄ろうと思っていた三面川(みおもてがわ)と、そこにあるはずの鮭の博物館に立ち寄ることにした。

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この「イヨボヤ会館」というのが珍しい鮭の博物館である。イヨボヤとは、村上の方言で鮭のこと。中については次回に報告する。

余計なことを言う

 古くから好感を持っていた芸能人の訃報を聞く。その人の思い出を偲んだりする。しばしばその芸能人についてのコメントを語る人がいて、それを見聞きすることになる。そういうコメントを語る人の中に、余計なことを言っているように感じる人がいる。その人に対する思い出を語ることばに託して、語る本人の自己顕示のようなものを感じさせるものはいささか不快である。たとえば、巨人機智外の元アナウンサーが、いしだあゆみについて裏話ふうに語ったものなどは、不愉快に感じた。悪口ではなかったし、たぶん間違ったことは言っていないのだろうけれど、なくなったばかりの時に、故人に対して余計なことは言わない方が好いと思う。自らもこころしなければとも思う。

2025年3月22日 (土)

薄っぺらでふわふわ

 どうも何かに集中できなくて気が散ってしょうがない。気持ちがふわふわしていて、時間だけが無駄に過ぎていく。こういうときは本も読めないし映画も楽しめない。せいぜい短いドラマをかろうじて見るくらいだ。囲碁ソフトとの対戦も、つまらない悪手で台無しにしてしまう。糖尿病が悪化しているのかもしれない。できていたドライデーが、このごろはできていない。間食が増え、とうぜん体重も増えている。散歩もあまりできていない。昨日は出かけて六千歩あまり歩いただけで、いつになく息が切れ、思いのほか疲労した。

 

 爪が割れる。親指以外の爪が薄っぺらになって、ちょっとしたことですぐ割れる。カルシウムが足りないのだろうか。ちょっとした割れがあるといろいろなものが引っかかって煩わしい。割れたところをメンテナンスして引っかからないようにしなければならない。次第にそうなるということは、これからますますそうなるのだろうか。膝や腰の痛みが慢性化して、気がつくと少し前屈みになって歩いていたりするので、背筋や腰をストレッチで伸ばすようにしている。

 

 やはり身体は動かさなければ固まってしまうようだ。出かける決断をしたのは無意識にそれを求めているからだろう。身体を動かし、心を動かし、五感を働かせることが必要なのだ。出かける支度をした。

わくわくしない

 1970年の大阪万博の時は開幕して数日後に行った。待ち遠しかったし、わくわくした。万博の情報がそこら中にあふれていて、わくわくさせられた。2005年の愛知万博の時は会場がいくつかにわかれていたが、地元で日帰りで行けるから、何度も見に行った。母も子供たちも、私より何度も見に行った。どんなものがどこへ行けば見られるか、ちゃんと情報もあったから、計画的に行くことができた。

 

 今回の大阪万博についてはなにも情報が無いから、わくわくできない。楽しみが何なのかわからないものにわくわくできるわけが無い。情報が無いのはこちらが情報を求めないからであろう。しかしこういうものは求めなくてもひとりでに伝わってくるもので、もともとこういうイベントが嫌いではない私にすらまったく伝わってこないのは、伝えようという気がないのだろうかと思ってしまう。

 

 チケットがなかなか売れていないらしいが、売る気のないものが売れるはずが無い。主催者は一体やる気があるのだろうか。大阪が勝手にやることで政府は関係ない、という姿勢に見える。そして大阪は素人の集団のように何をどうしたらいいかわかっていないように見える。

 

 そもそも今回の大阪万博は、そのあとのIRという、公営カジノ場建設のための布石でしかないのだという悪口も囁かれている。目的がそれなら万博の成果などどうでもいいのだろうか。損してもすぐ元は取れるという皮算用か。それなら広報になど力を入れるつもりもなくなるのだろう。参加する国々に失礼ではないか。

 

 それとも始まったら次第に盛り上がる、といういつものパターンが期待されているのだろうか。それはそれなりの努力が次第に実るから起きることではないのか。そういう意気の上がらないイベントは、しばしばとんでもない犯罪のベースになってしまうことがある。気の緩み、やる気のなさはそういうものへつながるものだ。杞憂に終わればいいのだが。

シームレス

 昨晩のプライムニュースはサイバー防御がテーマだった。サイバー防御といえば、重要インフラや国家に対してのサイバー攻撃に対する防御だと単純に考えてしまう。それもあるが、じつは迷惑メールもそのサイバー攻撃そのものなのであって、それらはシームレス(継目なし)の問題であることを知った。昨日、このブログで迷惑メールに対する公的対策ができないものか、当然するべきだ、という考えを述べた。現在世界中でそのようなサイバー攻撃が急増していて、その攻撃をもっとも受けているのが日本だという。日本の防御が脆弱で、しかもその攻撃による利益が最も大きく得られる国だからだという。

 

 もちろんそれに対する対策が必要だということは政府もわかっている。ところが、それらの対策を阻害している大きな要因があるという。それが憲法21条、「通信の秘密はこれを侵してはならない」という条項なのだ。大げさに言えば、憲法が国や国民を守る為の方策を阻害しているともいえる。たぶん憲法至上主義の野党の一部は、国が滅びようとも、まず憲法を守ろうとするだろう。もちろんそれは冗談だが、そういう人たちはその可能性に対する想像力を欠いていることは確かに思われる。世界がどんどん変わる中で、憲法はそれに対応しきれない点がある。極端に言えば、憲法がある意味の日本の脆弱性となっているところがあるということだ。

 

 現在国会で憲法に抵触しないギリギリの所でのサイバー防御に関する法律を審議しているのだそうである。番組では、十年以上前にそのような法律を制定すべきだったと指摘していたが、たぶんその時代にそういう法律を提出すれば、プライバシー侵害を認めるのか、として憲法を盾に、野党から袋だたきに遭ったことだろうとも報じていた。いまは事態を認識して賛同する野党もあるから、法案は成立する可能性があるという。手遅れでも、しなければならないことは前へ進めなければならない。そうして欲しい。

2025年3月21日 (金)

床屋でさっぱりする

 午前中にとなり駅近くの安い床屋に行き、丸刈りにしてさっぱりした。いつも混む床屋だけれど、今日はいつも以上に混んでいた。ちょっとした所用があったので、その足で名古屋に行き、一度帰宅してから、午後、妻の病院へ支払いと面会に行った。今日は待合室がいつもよりも混んでいた。そういう時期なのか。

 

 妻は春先には調子が悪いことがしばしばあるが、前回よりは機嫌が良く、いつも以上に積極的によく喋った。話はあちこちに飛んで、私の耳が悪いこともあり、よく意味がわからないこともある。それでも面会時間があっという間に終わったのは、互いに少しは気持ちが通じた気がするからだろう。いつもは未練無く、さっさと病室へ戻るのに、今回は「また来てね」と言った。当たり前のことばだが、彼女がめったに言わない言葉で、また来よう、と思った。

加齢臭

 かすかに自分の加齢臭を感じることがある。自分の臭いというのはいつも嗅いでいるので感じにくいものだが、それでも感じることがあるということは、他の人にはもっと感じられていることであろうと思う。歳をとればしかたのないことで、ことさらそれを気にするつもりはない。

 

 まだ幼い頃、母方の祖父母のところへよく行き、一人で泊まった。夜は祖父と祖母が、どちらが私と寝るかで争ったりした。冬など、私と寝ると暖かいのだと祖母は言った。祖母と寝ると、ついしなびた胸を触ったりしてしまう。祖母とばかり寝ると祖父がかわいそうに思って、ときどきは祖父と寝た。祖父は寝物語に田舎の昔話などを聞かせてくれた。どちらと寝ても、独特の臭いがした。今思い出す祖父母の臭いは、老人特有の加齢臭である。でも私にはその加齢臭はそのまま祖父母の思い出の臭いである。子供心にイヤな臭いだと思ったことはすこしもない。

 

 世の中は無臭を求めている。求めるあまりそれにこだわり、過敏にすらなっているが、人間が生き物である限り、臭いを発するものだ。どんどん人工的に無臭になっていくのは生命力の衰えではないか。自然の匂い、特に土の匂いや春の草いきれなどを嗅ぐと、なんだかよみがえるような心地がする。日向のネコのいい匂いなど、忘れられない。 

どんどん巧妙になる

 SNSはやらないので、メールはe-mailで行っている。個人情報はともかく、メールアドレスが流出しているらしく、迷惑メールが頻繁に送られてくる。最近はその数がどんどん増えているとともに、以前はお粗末だった文面が次第に巧妙になって、迷惑メールチェックソフトに振り分けられていなければ、うっかり開いてしまいそうだし、もしチェックをすり抜けるものがあると、さらに危ない。大げさなようだが、迷惑メールのうっとうしさ、不快感はだんだんつのってきていて、便利だから不便というおかしな状態だ。

 

 私は臆病であるし、面倒が嫌いだから、おかしなものに関わるのはイヤである。だからとことん慎重にしているが、絶対にだまされない、といえる自信は無い。だまそうとする側のグランドに間違って足を踏み入れてしまえば、どうなるかわからない。以前と違い、だまされる人がすべて愚かだとばかりはいえないと思うようになった。人間には欲があるものだし、一度失敗すると、それを挽回しようとしてさらに深みにはまるということは、いままでにも経験が無いでは無い。

 

 最近はスマホにも迷惑メールが大量に押し寄せるようになった。

 

 それにしても、どうしてこういうものが野放しになっているのか不思議に思う。以前にも書いたが、公的な対策部署というのがあるはずで、どんな迷惑メールがあるか調査しているはずだし、迷惑メール対策も研究しているはずである。個人で迷惑メール対策するのには限度がある。それだけの知識を持たない人がほとんどだろう。それなら迷惑メールに振り分けられたものを自動的に採集して、自動的にパターンを調べ、発信元を特定して公的制裁を与えることができないものだろうか。

 

 世の中を安寧に保つためには、悪いことはしてはいけないのであって、迷惑メールは人に迷惑をかける悪いことで、さらに人をだまして損害を与えるものもあるのだから、政府ももっと本気で対策してほしいものだ。迷惑行為が許されている状態が当たり前になれば、社会は不安定になって行きかねない。些細なことのようだがじつは重大な状況だと思う。

2025年3月20日 (木)

出かけることにする

 来週、東北へ行こうかと思案していたが、日本海周りで行けるところまで行く、と決めた。とりあえずの当面の宿、新潟と秋田に一泊目と二泊目の宿を予約。そのあとさらに北上したいが、体調、天候によって決める。今回の立ち寄りたい先について、4カ所ばかりを想定している。それがすべて行ければさいわいだ。

 

 そうと決まれば体調の調整、車の準備、携行するもののチェックを順次していかなければならない。その前に留守を頼むことになる娘に恥ずかしくないように、散らかり放題の家の中を片付けなければならない。どんな本を持参しようか。今回は連泊はしないつもりだから、あまり読む時間は無いはずで、せいぜい二三冊で十分であろう。床屋にも行っておこうかな。

 

 弟から電話があり、四月か五月に、また兄弟で旅行しようという。妹が来ているようだ。名古屋を拠点に、ということなので、いくつかコースを考えることにする。春である。出かけるのにいい陽気である。 

ゲリラ、そしてテロリズム

 今さらいうまでもないが、ゲリラ戦とは弱者の戦法である。ナチスに対するパルチザン、ベトナム戦争でのベトコンなど、正攻法では勝ち目が無い側がゲリラ戦を挑む。強者がゲリラ戦をすることは普通はない。そうしてゲリラ戦の行き着くところがテロリズムであろうか。ゲリラ戦では、挑む相手は敵の兵士であるが、テロリズムでは相手の側に属するものであれば誰に対してでも、なにに対してでも対象となる。強者の側に不安と混乱さえ与えられればテロリズムは成功だと考える。標的が象徴的であれば女子供でもかまわない。相手を感情的にさせ、厭戦的な気分にさせれば成功である。

 

 怨みばかりが募り、骨髄に徹しているのに、正攻法の戦いが不可能になり、ゲリラ戦を展開しても成果が得られなくなれば、結果など考慮せずにテロに走ることになるのは成り行きであろう。どうせ生きのびられないのである。自滅に相手を道連れにしようと思う。もう正義も悪もない。

 

 いつからか、強者が一般市民に対して無差別大量殺戮を行うことが戦争の当たり前の姿になった。強者こそが大量のテロリズムを実行するという、狂気の世界が常態化している。勝つために殺戮を行っているのか、殺戮を行うために戦争を行っているのかわからなくなった。もう誰も安全な場所にいるわけではなくなった。戦争とはそういうものだといえばその通りなのだが、遠隔で、なるべく効率的に殺戮する手法がどんどん進化している。その先に何があるのか。これだけ同時にヒトラーたちが輩出しては、もう誰にも止められない。コロナ禍というパンデミックは、人類のフィナーレに対してのファンファーレだったのか。

おまえが悪いからだ

 一方的に暴力をふるい、その理由を問われて相手が悪いからだと言ったら、それは許されることかどうか。きっかけを作ったのが相手だった、というのは理由となり得るだろう。しかしそのきっかけの何倍も何十倍もの制裁を加えることが正当化されると、相手がこの世に存在しなくなるまでエスカレートするのを許すことになってしまう。独立したウクライナというものを許さないロシア、パレスチナを地上からなくすのが正しいと主張するイスラエルとアメリカを見ていると恐ろしい。

 

 そこに至るまでに怨みの連鎖があることを、専門家はしばしば理由に挙げる。そうなるとどちらにも自分を正当化する理由があるように見えてしまう。始めてしまった暴力の連鎖に対して、撃ち方やめ、を実行させるのは困難だ。強い方の自己正当化は戦いをやめることを認めさせない。息も絶え絶えの相手でも、存在そのものが悪だと断じているから、終われないのだ。だから停戦は強者にそれを飲ませなければ成立せず、難しいのだ。

 

 トランプの、戦い中止、停戦のための方策というのは、互いの仲介ではない。強い方に一方的に加担して、弱い方をぶちのめし、相手の無条件の降参を引き出すという方法である。たしかに放置するより結論が出るのは早まるし、簡単である。結果的に戦いが終わったのは自分の手柄だ、と自慢できる。トランプは弱者が嫌いだし、そんなものはおとなしく引き下がれば好いのだと思っている。そうすれば世の中は繁栄するものだと思っている。たぶん少数者、差別を受けているものは差別される理由があるものだと考えている。そんなものを尊重するから世の中がうまく廻らないのだと思っている。

 

 強いもの、大きいものこそが正しくて、弱いものはそれに従えば好いのだと思っている。その強いものこそがアメリカなのである。そのアメリカがなにを勘違いして弱者のために働かなければならないのだ、そんなことをしているからアメリカが世界からなめられて弱くなったのだ、と思うから、それを正そうとしているのだ。強いアメリカを再び、と唱えるのだ。彼にとって老人も病者もみな邪魔者である。いまに自分もそうなるなどと思っていないのだ。でも、必ずそうなる。プーチンもそうなる。早くなって欲しい。それで彼らが何かに気がつくことはないだろうけれど。

2025年3月19日 (水)

トランプ効果

 トランプが打ち出すさまざまな施策が世界を混乱に陥れている。世の中で生きる人間には見えない箍(たが)がはまっているものだが、そんな箍など無視してしまえばあってなきがごとし、囚われているものだけが右往左往することになる。箍とは桶の周りにはめる竹や針金で作ったわっかのことである。

 

 人間にとっての箍は他人のことである。自分の言動が他人にどう思われるか、またその言動がどんな影響を与えるのか、誰でも考慮するものだが、近頃はそういう思考回路を持たない輩がのさばっていて、ますます不愉快で生きにくい世の中になっている。

 

 そういう人間がのさばり続けられるわけが無い、とまともな人間は考えるから、いつか因果応報の天罰が下ると信じているのだが、どうもその天罰は期待したようには下されることもなく、忘れた頃にとんでもない方向に下ったりする。だから箍の外れた人間は恐れを知らずにのさばり続け、さらに増殖していく。

 

 ある一定数以上の中性子が生ずると連鎖反応を引き起こし、原子爆弾は爆発する。世界も連鎖反応が止められない状態に突き進んでいるのか。神様、取り返しが付かなくなるその前にきちんと天罰を下してください。それとも、そろそろ神様もこの世の幕引きにかかっているというのですか。

計画無しで

 来週は暖かくなりそうなので、思い切って北の方へ旅に出ようかと思っている。その前に妻の病院への支払いと面会を済ませるつもりだ。この時期は毎年妻の調子があまり良くないことが多い。大丈夫だろうか。心配であるが、実際に会えばそれほどでもなく、そこそこ会話が成り立つこともある。心配といえば、容体を懸念していた友人の弟が亡くなったと、まだ現役の、(私にとって)若い友人から知らせがあった。少し間を置いて、前回会えなかったから、慰めがてら友人を訪ねることにしようと思っている。

 

 私が北、というのは北陸や東北のことである。今回は計画を立てず、宿泊場所も最初だけ決めて、行き当たりばったりの旅にしようかと思う。まっすぐ北上して北陸から行くか、長野から新潟へぬけていくか、それとも日本海側ではなくて中央道から上信越道、北関東道で北関東を横切り、東北中央部を福島から山形、岩手のコースにするか、これから決めることにする。どこまで行けるか体力との相談だ。 
 最近は温泉場の連泊ばかりで、のんびりで贅沢な旅ばかりだったが、今回はただひたすら走ること、景色を眺めながら、さまざまなことを思い出したり考えたりする旅にしようと思っている。それはリタイアして初めてあにきぶんの人とふたりで、津軽半島まで行き当たりばったりの東北への弥次喜多道中をしたことを、先日訪ねたときに、思い出として話したからだ。

 

 だから原則として安いビジネスホテルか民宿に泊まり、できればその地で飲みに出ることにする。財布と体力、天候次第ですぐギブアップするかもしれないし、あんがい下北半島あたりまでたどりつくかもしれない。気がかりなことが無いわけではないが、そんなことを気にしていると出かけられなくなってしまう。さあ、思い切って出かけられるかどうか。どちらにしても、そんな旅はあと一年か二年しかチャレンジできないのだ。

『オッペンハイマー』

 2023年のアメリカ映画『オッペンハイマー』を見た。主演のキリアン・マーフィーの独特の風貌が印象的な映画であった。マット・デイモンやロバート・ダウニー・Jrが競演しているが、デイモンはわかったけれど、ロバート・ダウニー・Jrはエンドクレジットで初めて知った。オッペンハイマーの偏執狂的な敵役、ストローズ役である。原爆の開発と製造を主導したオッペンハイマーを描いたこの映画は、数々のアカデミー賞を受賞した。

 

 この映画は原爆の本当の恐ろしさを描いていない、という批判があるようだ。アメリカが原爆を日本に投下したことをさまざまに正当化して、それを受け入れているアメリカ人がこの映画を見て、原爆の恐ろしさに気がつくということにはならないだろう。この映画は原爆の恐ろしさを直接描いた映画ではないのだから。しかし、その恐ろしさを知っている人間にとっては、直接描かれていないからこそ根底的な恐ろしさがわかるようになっていると思う。

 

 人間の愚かさ、醜さを、オッペンハイマーに対する毀誉褒貶を描くことでとことん表現し、そのような人間が、持ってはならない核兵器という兵器を生み出し、所有してしまったことの恐ろしさをこの映画は描いているのだ。兵器は人間が使うもので、その人間が愚かであればどうなるか、その恐怖こそがこの映画のテーマであると思う。

 

 この映画に描かれている時代のアメリカと、いまのトランプ政権下のアメリカが、どちらが恐ろしいのか、世界の情勢によっては、人類全体が取り返しの付かない体験をすることになるだろう。そのことをこの映画の、地球全体に広がって行く炎のラストシーンが表していて、それこそがこの映画の語りたいことなのだと思う。

2025年3月18日 (火)

『あめりか物語』

 永井荷風の『あめりか物語』を読了した。荷風はフランスへ行きたかったのだが、父の勧めで横浜正金銀行雇員としてアメリカで勤務することになる。明治三十年代の後半の四年間をアメリカで暮らし、その後ようやく念願のフランスに行く。この短編集ともいうべき小説は、アメリカのシアトルに着く前の船中の男たちの会話から、それぞれの人物のアメリカ行に至る背景などがエピソードふうに語られる『船房夜話』に始まり、最後は『六月の夜の夢』と題した、ニューヨークのスタテン島に心を残したロザリンという若い女性との恋を、フランスに向かう船中で回想する短編で締めくくる。

 

 それぞれの短編はその趣向もさまざまで、叙情的なもの、叙事的なものからポーの描くような不気味な『ちゃいなたうんの記』のようなものまであって、読み応えがある。荷風がこれらを書くことができたのは、それだけアメリカのさまざまな世界、上流から貧民窟まですべてに足を踏み入れたり、人と交流をしたからであろう。実際にその場に行かなければ、ここまでリアルに描写し尽くすことはできないと思う。やはり永井荷風は素晴らしい作家である。

 

 次は『ふらんす物語』を読むことにする。これも時間がかかるだろう。とことん味わってみたい。

『遠すぎた橋』

 新しい映画を見るつもりだったのに、古い映画を見てしまった。『遠すぎた橋』は1977年のイギリス・アメリカの戦争映画。名優がたくさん出ている。ロバート・レッドフォード、ジーン・ハックマン、ローレンス・オリヴィエ、エリオット・グールド、マイケル・ケイン、ダーク・ボガート、ショーン・コネリー、アンソニー・ホプキンスなど、挙げていけばキリがない。

 

 この映画を私は学生時代に見たつもりでいたが、1977年製作ならもう就職していたはずで、記憶違いであった。ロバート・レッドフォードとハーディ・クリューガーだけを鮮明に覚えている。ノルマンジー上陸作戦の成功により、ナチスドイツは劣勢に追い込まれていったが、連合軍側も戦線が伸びすぎて戦争は膠着状態になっていった。それを打開するために、イギリスのモントゴメリー元帥と、アメリカのパットン中将が打開策をそれぞれ提案する。そして採用されたのがモントゴメリーのオランダへの大規模な空挺団による奇襲作戦だった。しかしその作戦を成功させるにはさまざまな問題が予測されていた。もちろんどんな作戦もすべて完璧ということはあり得ず、必ず齟齬は生ずるものだが、上層部はあまりに自分に都合のよい想定をしていた。

 

 空挺部隊が拠点(三つの橋)を確保し、それをめがけて陸上部隊が進軍して敵を追い詰めるというものだったが、問題が次々に起きて陸上部隊は遅々として進むことができず、その遅れが、装備が不十分な空挺部隊を次第に劣勢に追い込み、ついには孤立させてしまうことになる。絶望的な防戦、打開のための方策も戦死者を増すばかりとなる。題名の通り、主力は遠すぎた橋にはついに至らず、作戦は失敗となり、連合軍は大量の死傷者を出して撤退を余儀なくされる。

 

 史実では、解放を喜び連合軍を歓呼の声で迎えたオランダ国民は、連合軍の撤退により、再びドイツ軍によって悲惨な目に遭うことになる。ドイツ敗戦の一年前のことであった。

 

 戦争はもちろん嫌いだが、戦争映画は嫌いではない。ずいぶん見てきた。私のベスト一推しは、何度も書いてきたがユーゴスラビア他の、これも名優がたくさん出ている映画『ネレトバの戦い』という映画で、一度見てから少し置いてもう一度映画館に見に行った。ユーゴスラビアという国はいまはバラバラになって存在しないけれど、この映画とパルチザンを率いたチトー(のちに大統領)という英雄は永遠である。

 

 そういえば、『遠すぎた橋』の後半に、接収された屋敷の、ホルスト夫人役のリヴ・ウルマンに魅せられた。『ネレトバの戦い』ではシルバ・コシナに魅せられた。極限状況下でも毅然としている女性はとてつもなく魅力的に見えてしまうようだ。もともとホルスト夫人役は、この戦場となった主要な橋のあるアーネムという町に住んだことのあるオードリー・ヘプバーンがオファーされたが都合が付かなかった、とこの映画のエピソードの記録にあった。

いしだあゆみを悼む

 いしだあゆみの訃報を昨夕知った。三月十一日、享年七十六歳だったという。彼女の出たドラマや映画は数多く、歌手としてよりも私は女優としての彼女を高く評価していた。特に記憶に残る作品は、何度もブログに書いたが、高倉健主演の映画『駅 station』で、冒頭の駅頭での別れのシーンが印象深い。また、寅さんシリーズの中でいしだあゆみがマドンナになった作品も忘れがたい。

 

 他にも『北の国から』をはじめ、たくさん忘れられない出演作品がある。冥福をこころから祈る。

2025年3月17日 (月)

読み飛ばせない

 いま、永井荷風の『あめりか物語』という三百ページほどの長編小説を読んでいる。長編ではあるが、二十あまりの独立したエピソードで構成されているので、ある意味で短編集ともいえる。ずいぶん読むのに時間がかかっているが、読みにくいものではないから、いままでなら二三日で読み終えるはずのものだ。ぞれがなかなか読み飛ばせない。ひとつ読むたびにその短い物語を反芻し、登場人物やそのエピソードを語る人物の人生、心の裡を想像し、その背景まで考えてしまう。そしてそういう物語を生み出している永井荷風の、アメリカでの生活とはどういうものだったのかについても考えたりする。彼がアメリカに滞在した明治三十年代のアメリカと、そこにたまたまいる日本人がどういう点景として見えているのか、それを見ているアメリカ人、そしてその心に見えている日本人とはどんなものかを想像している永井荷風の、アメリカ人の心の鏡に映じている日本人、つまり永井荷風本人の像を想像する。つまり彼は彼自身を見ているのだ。自分自身の姿を見るには、自分を他人の目(他人という鏡)を通してしか見ることができない。

 

 こういう小説をいままでは読み飛ばして表面だけ、時にはストーリーだけを追って読んできた。娯楽小説は別として、文学作品として評価され残ってきたものは、もっとじっくりと読めば良かったとこころから後悔している。もちろん後悔先に立たず、である。そういうことを教えてくれるから、評論というものがおもしろくて胸に響くようになったのだろう。時間がないからこそ急いではいけない。急いでやり直すような無駄な時間は無いのだから。

『マッドマックス フュリオサ』

 映画『マッドマックス』シリーズの最新作、『マッドマックス フュリオサ』を見た。シリーズはすべて見ている。特にメル・ギブソン主演のものはすべて映画館で見ている。初めて見たのが『マッドマックス2』でこれがいちばんのお気に入りだ。衝撃的だった。もともとはオーストラリア映画で、今回の『フュリオサ』はオーストラリアとアメリカの合作となっている。もちろん監督はジョージ・ミラー。この映画は前作の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の重要な登場人物であるフュリオサを主人公とした前日譚である。スケールの大きさ、アクションの派手さはいままでの作品をさらに超えていている。現実世界をすっかり忘却してのめり込み、物語世界を堪能した。

 

 いわゆるディストピア世界を描いたSF小説は数々ある。初めて読んだ、私も若者だった頃は、世界は進歩発展して善くなるものだと信じていたから、どうしてこんな悲観的な、絶望的な世界を描くのだろうと疑問に思ったものだが、いろいろ読んでいるうちに、その絶望的な世界での極限状態に追い込まれた人間の行動、底力(火事場の馬鹿力)のようなものの面白さに惹かれていった。どうしても弱肉強食、暴力的世界が描かれることになるが、そんな絵空事だと思っていた世界が、いま現前しつつある。

 

 ユートピア世界を描いてもたぶんおもしろくない。みんな仲良く明るく楽しく暮らすのは理想だが、その世界にはあまりドラマは生じないからであろう。つまり、人はそもそもそのようなユートピアよりも、ディストピアを密かに願う者なのかもしれない。

 朝、五時前に口が渇いて目が覚めた。口を開けて寝ていたらしい。いびきをかいていたのだろうか。口が渇くのは糖尿病の症状でもある。窓の外に風の音がする。風が強いようだ。昨晩は早く寝たから、この時間に起きても寝不足ではない。起きて口をゆすぎ、顔を洗う。

 

 昨夕から、録りためた映画を見始めた。こういうときに古い方から見ると、いつまで経っても録画が消化された気にならない。なるべく新しい方から見ることにする。たまりすぎているので、見る可能性が低そうなものを消去する。思い切って二十本ほどを消した。最初からなかったものと思えばあきらめも付く。自分の時間は有限である。デジタルコンテンツはそういう意味ではかさばらないし、場所も取らないから、ついため込みすぎでしまう。それが時間の固まりであることを、消費するときに気がつく。

2025年3月16日 (日)

なかなか好かった

 NHKで放映されていた連続ドラマ『バニラな毎日』が全32回をもって終了した。なかなか好かった。好いドラマに主演するとその俳優に好感を持つようになる。『東京サラダボウル』に主演した奈緒にも好感を持ったし、この『バニラな毎日』でも、あまり好感を持っていなかった蓮佛美沙子に好感を持つようになった。もちろん役柄だけで好感を持つわけではなく、演技力も必要であるが、ふたりとも申し分なかった。

 

 阿部寛が主演した、やはりNHKドラマの『水平線の歌』 も好かった。泣かせてくれた。石巻が舞台で、東日本大震災がテーマであること、大船渡も舞台になったりして、あのあたりを震災前にも震災後にも何度も訪ねているので、感じるものがあった。

 

 これもNHKのドラマ『モンローが死んだ日』(全四回)は、鈴木京香と草刈正雄が主演していて、原作が小池真理子であるから、不思議な、つまり予想外の展開で、ドラマの面白さを堪能させてくれた。題名の意味は後半になってようやくわかる。だから結末はそれがわかった時点で想像ができた。それをわざとわからせる、というのも技巧的である。

 

 名優エディ・レッドメイン主演の連続ドラマ『ジャッカルの日』がWOWOWで放映されている。今のところ第四回まで進んでいる。ドラマは一気に見ることにしているのだが、これは待ちきれずに今週までの分を見てしまった。もともとベストセラーになったフレデリック・フォーサイスの同名の小説を読んでいるし、それを原作とした映画も劇場で見ている。小説も映画も素晴らしかった。今回のドラマは、それらからインスパイアされた、まったく別の物語だが、レッドメインが素晴らしいから実におもしろい。これからどうなっていくのだろう、楽しみだ。

 

 もともとの『ジャッカルの日』をハリウッドでリメイクした『ジャッカル』という映画もある。こちらはブルース・ウィリスとリチャード・ギアが競演していた。正直言って、もとの映画が素晴らしいので、こちらはいささか見劣りして残念な映画だった。

コーヒーのチェイサーに牛乳

 少し大きめのカップに一日二杯コーヒーを飲む。ミルクも砂糖も入れない。コーヒーはモカブレンドというのを粉末で買ってコーヒーメーカーで淹れる。独特のちょっとした酸味が感じられて、それが好みだ。最近はコーヒーを飲むときに、グラスに牛乳を入れたものも用意する。

 

 コーヒーの香りと味を楽しみ、しばし置いて牛乳を一口、口に含む。牛乳が不思議に甘い。初期化された口に、またコーヒーを飲む。それをゆっくりと繰り返す。こうするとコーヒーと牛乳が、両方ともただそれを飲むより味わい深く飲める。こんなのは邪道かもしれないが、私は、いまはそれを美味しいと思っている。ただし、コーヒーにミルクや牛乳を入れるのは好みではない。全然違う。

ぼやき

 今日は終日雨らしい。雨で濡れたら融けてしまうというわけではないから出かけてもいいのだが、出かける用事も特にない。毎日が日曜日の身だが、今日は世間の人にとっても日曜日だ。本を系統的に集中して読んでいたが、一区切り付いたので、一昨日あたりから録りためたドラマを集中的に見ている。次には映画を見るつもりだ。

 

 テレビの花粉情報に遅れて、私にもその症状が出始めた。眼の周りかかゆく、くしゃみが出るし、鼻水も出る。スギ花粉ではなくてヒノキに強く反応しているようだ。だからこれから五月ごろまで、本格的に症状が続くであろう。

 

 なんだか右頭皮が痛がゆい。右目の上あたりにずきんとした痛みを感じたりする。以前に経験した感覚だ。二十年ほど前、初期の帯状疱疹の時の症状に似ている。もう少し顕在化したら医者に行く方が良さそうだ。

 

 床にカーペットを敷き、こたつに入ってテレビを見たり本を読んだりしているが、立ち上がるのに掛け声が必要である。立つときは手をつき、こたつに掴まりながら立ち上がる。いつも右手をつくので右手首が痛い。

 

 あそこが痛い、ここがかゆいと身体の不具合をぼやくのは、年寄りの悪癖だ。ぼやいたからとて誰も聞いていないし同情もしてくれない。諦めて日を過ごす。

2025年3月15日 (土)

『鷗外 闘う家長』

 半月ほどかけて、ようやく山崎正和の評論『鷗外 闘う家長』という本を読了した。ひとつの大きな山の登頂に成功した気分である。全三章のうち、最後の第三章の後半は、鷗外のよって立つ哲学的部分が説明されていて、かなり読み解くのが難しく、時間がかかった。どうして鷗外がある時点から伝記的歴史小説ばかり書くようになったのか、そのことを知るにはここを読み切らなければならなかったのだが、どこまで理解できたのか自信が無い。

 

 じつは昨晩、同じ趣旨のブログを下書きしたのだが、書いているうちに自分でもわけが分からなくなり、自分でわけが分からないものが読む人にわかるわけもなく、中断していた。だから一から書き直すことにした。

 

 この本は、鷗外、漱石、荷風という、明治時代に海外滞在経験のある三人を比較するところから始まっている。ただ、その有り様はまったく異なることはよく知られている。しかし三人とも、その経験が、最後にはみな西洋志向ではなく、日本的な文化志向に至ったということが非常に興味深いところである。漱石がロンドンで心身ともに衰弱して帰国した経緯から、のちに日本的志向に至るのはわかりやすい。荷風もアメリカとフランスに滞在してその文化的退廃にどっぷりと浸かった経緯から、江戸趣味に転じたことはわからないでもない。しかし鷗外は?

 

 『舞姫』の主人公の太田豊太郎は、ドイツにエリスという恋人を置いて日本に帰国した。これはほとんど事実に基づいていることはよく知られている。つまり太田豊太郎は鷗外自身である。現にエリスという女性が、鷗外の後を追って日本にやってきて、なだめられて再びドイツに帰ったことは多くの人の証言で確認されている。しかし不思議なことに、船で何ヶ月もかけてやってきたエリスは何ら修羅場を演ずることもなく、ほとんど観光にやってきたかのごとくであったという。『舞姫』という小説に籠められている鷗外の思い、生き方を、山崎正和は鷗外本人すら気づいていない切り口、補助線を元に読み解いていく。それが鷗外の寄って立つ「家長」という立場であり、しかも一般的な家長、というよりも鷗外独特の、基盤としての「家長」という生き方であったとするのである。

 

 いまは「家」というものがただの家族になって久しく、さらにその家族もほとんど空中分解しかけていて、家長などという言葉はほとんど死語なのでわかりにくい。この評論がそれをキーワードにしているので、いまにそれが一般には理解されなくなるかもしれない。

 

 「家長」が無限に庇護するもの、愛を与える役割の立場、ある意味でそれが父親というものでもある。与えるが与えられない愛、それが愛であるのかどうか。愛とは相手をかけがえのない存在とするものだと思うが、庇護するものはしばしば報われない愛の供給者であり、役割である。結局、森鷗外は、現在我々が思うような愛を理解できなかったのではないか。いや、理解はしても真に愛するということができなかった人だったのではないか。それを彼は鷗外の子供たちの父についての記録や、妹の文章から推察する。

 

 森鷗外は軍医として功成り名を成し、しかもなにより小説家としても名を残した。その鷗外は墓に「石見人(いわみのひと)森林太郎」とのみ記すように友人に言い残している。津和野出身である鷗外は少年時代に東京へ出て、それ以後一度も津和野には戻っていない。それなのに墓には彼の事績を書くことを拒否し、出身地のみ記させた心情とは何だったのか、そのことを私は大好きな津和野を訪ねるたびに思うのである。

 

蛇足ながら
 読後思ったことは、私もよくよく考えて自ら省みれば、本当の愛などわかっているのかという疑問に囚われる。愛を知る機会が無かったのか、そもそも愛することができないのか。役割で愛していないか。立場で愛していないか。父親という立場はしばしばそういう寂しい存在なのではないかという思いはある。

情勢を読む

 昔若いころは、世の中が豊かで、仲間内で飲んだ領収書を上司が経費で落とすこともあった。おおっぴらはさすがにまずいけれど、暗黙の了解が取れる範囲で許されていた時代だった。それが次第に許されなくなり、けじめをきちんとつけなければならないのに、それができずに目をつけられるようになり、身を持ち崩すことになった人もいた。時代によってしていいことと悪いことというのは変わっていくものだ。そんなこともわからない人間は愚か者である。

 

 今回の石破首相の商品券配布は、たぶんむかしなら誰も咎めないようなことであったかもしれない。しかしいま、政治と金の問題がここまで騒がれて自民党が危機に瀕しているときには、過敏なくらいの慎重さが必要である。それがわからず、情勢を読むことができないとは、思っていた以上に石破という人は愚か者だったのだ、と断じざるを得ない。

 

 それにしても誰がこの事実をわざわざリークしたのだろうか。もしかしたら蚊帳の外で、商品券をもらえなかった誰かかもしれない。そうだとしたら、妬みというのは恐ろしいものだ。

当事者として考える、から役割の責任について

 日本の防衛、ということについて考えても、いざ有事の際、自分が当事者としてどうするか、ということを本当に考えている人がどれほどいるのだろうかと思ったりする。自分が銃をとるか、または自分の子が、孫が戦地に行くことも想定して考えなければ考えたことにならない。危機が実際に起こらなければ考えられない人ばかりで、では実際に自分はどうなのか、などといま自分に問うている。そういうことのひとつの表れが、東京電力の津波対策の怠りに顕在しているが、それが似た構造のものだとはあまり考えないようだ。

 

 津波の規模を予測できなかったから責任がない、などというおかしな解釈は誰も納得できるものではない。原発事故の大災厄に対して東京電力には責任があり、それは万人が認めているところで、その東京電力の経営者に責任がないはずがないではないか。予測できなくても、その立場での責任というものはあるのだ、というのが社会の常識である。だからその立場を引き受ける覚悟が必要なのだし、そのために高額の報酬も与えられる。

 

 役割が与えられるのは、本来はその人にそれだけの信頼があるからだった。その信頼こそがその人の立つ瀬であった。いまは役割だけが独立して、信頼などというものは有名無実になっているのではないか。だからそういう責任をともなう役割を引き受ける気になれなくなった。世の中が損得だけで動くようになり、責任を取ることの損得を考えたら、間尺に合わないと考える人ばかりになったということだろう。自分もそうなっているのは哀しいことだ。

 ところで、どうしてみんな役員になりたがらないのかについて、思い当たることがある。それはクレーマーと、当然従うべきことに従わない者の存在だ。役員になると夜中に電話がかかってきて、本来の役員の仕事とも思えないことで長々と苦情を言い立てる人間がいたりする。また、集団生活なら当然従うべきルールを無視して、たとえばゴミの分類もめちゃくちゃ、玄関の外へ私物を置かないようにと申し合わせても、廊下などにものを積み上げて、注意されても無視する輩など、社会的鼻つまみがおかしな人権をかざしてのさばるが、それに対しての苦情はまた役員に向かったりする。ほんの一握りとはいえ、役員という名前だけで、実質的な権限を持たずにそういう人間に直面するのは、不快な、イヤなことである。これは世の中すべてに蔓延している事態ではないだろうか。戦後の長い日教組教育のおかげかと思う。

2025年3月14日 (金)

当事者として考える

 マンションの自治会の役員を引き受けるかどうかについてアンケートが行われた。現在は棟ごとに割り当てられた人数をその年の組長が互選する方式で決められていたが、固辞する人が多くてなかなか決まらない。本来の規約では、互選ではなく回り持ちが原則だという。だからその本来の回り持ちをほぼ強制的に行うことについての是非を問うというアンケートになっている。

 

 その結果は、回り持ちに戻すことに賛成が多数のようである。私は組長までは引き受けるし、その場合の役割はきちんと努めてきた。しかし役員は責任も重いし負担も重いから、引き受けるのは勘弁して欲しいと思っている。だから反対の立場である。ではどうすればいいかについての対案がないのに反対なのは無責任であると承知で反対である。申し訳ないことである。それでも無理矢理役員を指名されたら引っ越してでも引き受けたくないとまで思う。そこまで思っての反対である。しかし、世の中にはそういうものを引き受けなければならないことがあることもわかっている。今さら引っ越しも面倒だ。人生最後のご奉公だと思って、引き受ける気にならないとは限らない。

 

 賛成した人は、自分が引き受けるつもりがあってのことなら、たいへんけっこうなことだ。しかしそれが自分が当事者として引き受けるかどうか、本当に考えてのことかどうか。ただ、運良く自分に白羽の矢が立たなければそれでいい、面倒だから賛成、という人が多い気がする。いままでの、役員が決まるまで長時間のたらい回しが面倒だから、強制的な回り持ちにすれば簡単だ、と考えているように思えるのだ。

いまのところ

 この二三日、ココログへのアクセスができないことが頻発した。つながった時点でトラブル情報を見ると、「不具合がありましたが回復しました」と表示されているのに、しばらくするとまたアクセスできなくなる、という繰り返しだった。

 

 昨晩も大阪から帰宅後にアクセスしようとしたら、つながらない。晩酌などしたあと、11時前くらいに確認したら、今度はつながった。書こうと思っていたブログを書きそびれたので今朝書いたが、今のところ本日は問題ないようだ。

 

 ただ、「回復しました」といったすぐあとにまたつながらないこともあったので、いつまた再発するかわからない。しばらく前のメンテナンス以後のことのように思うが、トラブルの理由を「アクセスが集中したから」などと書いてあるのが気になる。ココログにそれほどのアクセスが集中する、などということがあまり考えにくいし、今まであまりそういうことがなかったように思う。それとも最近ココログに人気が集中でもしているのだろうか。それならめでたいことであるが。

行って良かった

 昨日、ずいぶん久しぶりに大阪のあにきぶんのひとに会いに行った。あにきぶんのひとも今年八十になる。最寄りの駅からはそれほど遠くないのだが、細い道が複雑でいつも迷う。ネットで駅からの詳細な地図を見ておいた。一度まちがいかけたけれど、何とかたどりついた。奥さんが玄関で迎えてくれた。

 久しぶりに会えば互いの消息をまず語り合い、知り合いの消息を語り合い、そして昔話になる。年寄りどおしが会えばお決まりだ。その昔話の世界観が時間とともに変形していて、同じことが違う事実として記憶されている。それをいちいち訂正するのも面倒なので、私が譲って黙って拝聴する。あにきぶんのひとが正しくて私がゆがんで記憶しているかもしれないし、事実を知らなかったのかもしれない。今となってはどちらでもいい。

 兄貴分の人は大病して、昨年には首に近い脊椎を手術した。長いリハビリもほぼ終わりかけて、近くを娘さんにともなわれれば少し散歩できるくらいに回復しつつあるという。手術跡を自慢そうに見せられた。私が行けば酒が出る。遠慮したが、話の潤滑油である。先輩も奥さんの許す範囲で私と「賀茂鶴」を飲む。話し出せば久しぶりだから一緒に旅に行ったときのエピソードなど、いくらでも話すことがある。あっという間に時間が過ぎた。

 名残惜しいがキリがないので、再訪を約して辞した。帰り道もちょっと間違えた。

 鶴橋で焼き肉、と思っていたが、すっかり酩酊していたので、そのまま帰路につく。八時過ぎには帰宅し、もう一度あり合わせのものをつまみに独りで飲む。兄貴分の人から電話をもらう。「来てくれてありがとう、また来てくれ」。もちろん必ず行こうと思う。

2025年3月13日 (木)

予定変更

 今日これから、久しぶりに大阪のあにきぶんの人に会いに行く。そのあとに会って飲むつもりだった大阪の友人が一緒に行くというので、鶴橋で合流することにしていた。あにきぶんの人は医師から止められているから、いまは飲むわけにはいかないので、また鶴橋に戻って友人とふたりだけで焼き肉でも食べるつもりでいた。鶴橋は焼き肉のメッカであり、友人が前に勧めてくれた店は安くてうまくて最高だったので楽しみにしていた。

 

 昨日、友人から電話があって、行けなくなったという。弟が入院したらしい。彼の出身地の城崎に住む彼の弟には、蟹を食べに行ったときに二三度会ったことがある。予定を変更しなければならないということは、あまり芳しい状態ではない、もしかしたら深刻な状態なのかもしれない。私はこういうとき、詳しいことは訊いたりしない。お大事に、というのが精一杯である。彼の心配はいかばかりか、自分でも経験のあることだから、よくわかる。この歳になるとそういうことはときどき起こる。これからはもっと起こる。

 

 今夕は、ひとりで焼き肉を食べることにしよう。むかしみたいに大量に肉を飲み込むことはできないから、少しきれいな店を探して上品にいただくことにしよう。

2025年3月12日 (水)

体調と尿の濁り

 病院まで調子のいいときなら2100歩弱、今日は2200歩を超えていた。同じ距離を歩くわけであるから、それだけ歩幅が狭くなっているということで、かかる時間もそれにともなって長くなる。つまり歩くスピードが遅いということで、そのまま体調と相関する。

 

 検尿後、だいぶ経ち、予約時間を過ぎても診察は始まらない。しばらくして、医師(せんせい)は少し遅れます、しばらくお待ちくださいと看護師から連絡がある。他の患者から、いつものことだ、とつぶやく声が聞こえた。同感である。おかげで二冊の本(永井荷風と團伊玖磨)を合わせて百ページ以上読むことができた。

 

 今日は診察前にもう一度排尿するように言われ、寝台に寝てパンツをすこし下ろされ、膀胱のエコー検査をされた。残尿を確認するためだという。残尿はあるが、それは年齢相応で問題なしとのことである。菌の量は前回同様かやや少ないが、尿の濁りは今回も確認された。濁っているときとそうでないときには心身の調子に違いがあるように思うと告げると、あまり気にする必要は無い、気のせいでしょう、といわれる。そうかなあ。ただし、排尿痛や排尿困難などの症状が出たら早めに診察するように、すぐ抗生物質を投与します、といわれる。いわれなくてもそうなるとつらいから自発的に病院に駆け込むけどね。

 

 診察が済んでから、薬局で待たされた。待っている人が少ないし、泌尿器科は薬の種類も二種類だけで、普段ならすぐ済むのにどうしたことかと思ったら、ジェネリックの薬が届くのを待っていたそうで、ここでも薬がタイトになっているようだ。私のあとに来たじいさん(私より若いけど)が、遅い、遅い、と文句をたらたら言っていて、薬剤師の若い女性が何度も頭を下げていた。しょうがないではないか。

 

 半日がかりの通院は疲れる。帰りは雨に降られた。

また不安定

 先日はネットの不安定であることをこのブログに書いたが、それとは別に、ココログへのアクセスが、ときどきタイムアウトになって、できない状態になる。これはニフティ側の問題なのか、パソコンの問題なのかわからない。普段はノートパソコンからアクセスしているが、古いデスクトップからだとどうなのか、試しにそちらからアクセスすると、今のところ問題ないようである。これだとパソコンの問題だということになる。ところで、どんな問題なのかということが私にはわからない。

 

 今のところ、そのココログへのアクセスができたりできなかったりの問題ぐらいしかこのノートパソコンには問題は無いのだが、なんとなくこれからが不安である。パソコンの不安定さが私を不安定にする。

 

 いろいろ試していたら、昼前になって、以前のようにスムーズにアクセスできるようになった。何が問題だったのだろう。一時的なものだったのか、試したことの何かが功を奏したのか、皆目わからない。

 これから定期検診を受けるために病院へ行く。

定期検診

 本日午後は泌尿器科の定期検診日。深刻な症状の人もいて、そうなると長い時間がかかる。診察が予約時間を大幅に遅れることが多い。だからといってそれを見越して遅く行くというわけにも行かない。時間どおりにならないとは限らない。その前にもちろん検尿もあるから、昼ころに行って二時間から三時間待つことになる。待合室で本に集中できれば、待つのは苦にならない。飽きれば他の患者の観察をするのもおもしろい。

 

 このごろ尿に濁りが混じっていて、これは棲みついている耐性菌が繁殖している兆候で、身体がそれを退治していて、菌の死骸による濁りではないかと思う。身体に負担がかかっているから、身体に疲労感のようなものが常にある。ここで無理をすると菌が暴れて炎症を起こし、発熱、排尿困難、排尿痛を起こしてかなりつらい。この十年で三回ほどそういう状態になった。コロナ禍の最中の時は治療に至るまで検査のために待たされて参った。

 

 いまは何とかそれをなだめているところで、耐性菌になっているので根治は困難、一生付き合うしかないらしい。本当にひどくなって慢性的に炎症を起こすようになったら、カテーテルで尿を抜かなければならなくなる。けっこう命に関わる可能性がある。場合によってカテーテルを入れて膀胱内を洗うという処置もするという。ちょっとイヤだなあ。

 

 とにかく規則正しく健康な生活を心がけなければ、と思うのだが、ときどき忘れる。

2025年3月11日 (火)

不安定

 昨年後半から、ときどきネットが不安定になり、つながらなくなる。今年に入ってからその頻度が増加していて、原因がどこにあるのかわからないからイライラしている。今朝も、どうも立ち上がりが悪いし切り替えも遅いなあと思ったら、接続が勝手に切れた。

 

 ルーターの電源を落としてしばらく置いてから再起動させると、今のところ問題なく復活するが、本当につながらなくなったら困る。前にも書いたが、光回線はマンションで共同回線になっている。だから時にビジー状態になるのかもしれないが、以前はそういうトラブルはほとんどなかった。最近のことである。少し前から、マンションに新たに個人独立の回線の設備が入ったが、個別に工事が必要で、面倒だし金もかかるので共同回線のままである。

 

 こんな事ならいっそのこと電話回線経由の光ネットではなく、ドコモのホームルーターに切り替えようかなと思案している。次に不具合になったらそろそろ決断しよう。

パセリにパクチーに大根

ベランダに、冬を乗り切ったパセリとパクチーと大根がある。

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パセリはジャングルのようになっていて、いくら摘まんで食べても元気いっぱいである。

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これはパクチー。こちらも中華風の料理の時に摘まんでいるが、それほどたくさん食べるものではないから、元気いっぱいである。

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これは大根。カイワレを蒔いて、せっせと食べていたが取り残したものがどんどん大きくなって大根を二本ほど収穫した。その生き残りを放置したらつぼみができている。もうすぐに花が咲いて実がなる。実はまたカイワレの種となるのだ。

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こちらも大根で、つぼみをつけている。ただ、鳥が来て葉をついばんでしまう。ここにあることを知って仲間を連れてきたりするので、無事に種が取れるかどうか心配だ。鳩より一回り小さい灰青色の鳥である。何という鳥なのか知らない。

2025年3月10日 (月)

読書備忘録

 読もうと思って積んである本の山が、「読め!読め!」と私の耳に語りかけてくる。読もうと思いながら、どれから読んでいいかわからなくなって混乱する。強迫観念のようなものに振り回されている。ちょっと危ない。心を静めて、今日はこれだけ読もうと思う本を択びだして読み始める。これはこの二三日の読書備忘録である。

 

 森鷗外の小説だけを縮刷した『ザ・鷗外』という一巻本を若いときに購入した。長編中編短編合わせて約八十編が収められているが、字が小さいから読みにくいし疲れる。できればちくま文庫版の全集が欲しいところだが、アマゾンで見るととんでもない値段が付いている。一度古本屋を探してみるつもりだが、いまは間に合わないから、その本で鷗外を読む。

 

 『高瀬舟』を読んで、つい、以前読んだ『阿部一族』と『護持院原の敵討』をまた読んでしまう。山崎正和が『鷗外 闘う家長』で、これらの悲劇が西洋の悲劇とはまったく異なる悲劇であると述べている意味が少しわかる気がした。たしかに運命へのあらがい方が違う。その『鷗外 闘う家長』の第二章をようやく読み終えた。第三章を読み切ればこの本を読み終える。しかし引用された鷗外の小説がたくさんあるので、それをひとつずつ片付けているので、たぶん鷗外の小説の半分くらいは読まないといけない。長編の『渋江抽斎』などは一度読みかけて半分も読み切れずに挫折しているので、そういう長いものはパスして、またの機会に読むことにする。

 

 永井荷風の『あめりか物語』を読み始めた。短編が二十編ほどで構成された三百ページあまりの初期の長編小説で、長いので敬遠していたが、読み出したらそこそこ読める。まだ数編読んだだけだが、これは最後まで読めそうだ。荷風は岩波版の全集を揃えているので、できれば以前読んだものも含めてできるだけたくさん読み直すつもりだ。

 

 読むのに疲れたら、團伊玖磨の『パイプのけむり』のシリーズを口直しに読む。一冊に四十編ほどが収められていて、いまはだいたい三編か四編ずつ読んでいる。もう十冊以上読み終えているが、それでもあと四五冊残っているのを読み終えるのは夏過ぎになるだろう。他に民俗学の宮本常一や赤坂憲雄の読みかけの本も読みたいが、手が回らない。

 

 読み疲れて頭がクラクラしている。

さらばシルクロード

 若いときからシルクロードに憧れて、関連する本もたくさんある。さまよえる湖、ロプ・ノール、幻の楼蘭、できれば行きたかったトルファン、ウルムチ、ホータン。結局行けたのは敦煌までで、玉門関や陽関、漢の長城の果てや狼煙台、鳴沙山や莫高窟は見たけれど、気持ちは中途半端なままである。いつかはゆっくりとさらに西へ行くつもりだったが、それは叶わなかった。

0403816_20250310101601中国にて

 いまシルクロード関連の本やグラフ誌を少しずつ処分している。憧れは少しだけかなったままに終わって、それでもそれで良しとしたら熱が冷めてしまった。

 

 しかし考えてみれば、西域のさらにその先の、中央アジアであるウズベキスタンでシルクロードの痕跡をこの足で実際に訪ねたのだ。またトルコもシルクロードのルート途上の地である。思い出は残り、シルクロードは心の中でつながっている。

Dsc_7702ウズベキスタンにて

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半年ほど待てば

 熱狂的な支持を受けているのは、それだけ熱い期待があるということで、期待外れの結果が続けば期待が裏切られたと反発することになるのではないか。トランプの政策のことである。矢継ぎ早に施策を打ち出しているが、どうも無理筋のものが多いように思う。

 

 トランプ1.0の時には、それでも側近の中にはその施策を打ち出せばどういう結果となるのか、きちんと考えることのできる人がかなりいたからブレーキも効いていたけれど、それらの人たちをトランプは裏切り者、と切って捨て、彼らのほうもトランプと袂を分かったから、いまはイエスマンばかりになっているようだ。内心でこれはまずいと思っても、いまはそれを言うことができないのかもしれない。

 

 いまにアメリカは一層物価が上がり、逆に景気が減速して雇用は減り、当然企業は物価に見合うほどの給料が払えないことになるのではないか。そもそもアメリカの給料が高すぎるから、アメリカの企業は海外でものを作らざるを得ないのであって、アメリカで生産すれば高いものについてしまう。それでも支えられていたのは移民などが低い給料で働いていたからで、その移民も閉め出すというのだ。

 

 いまのままならたぶん半年もしたら、そういう悪循環が始まるのではないかと私は予想するのである。いったん悪循環が始まると、それはなかなか元に戻せるものではない。世界が不景気になりかねないからありがたいことではないが、アメリカが不幸になることにはいささかの期待が無いことはない。だからそれは予測なのか、希望なのか、自分でもよくわからない。 

2025年3月 9日 (日)

ドラマ三昧

 昨日からWOWOWで放映されたイギリスのエスピオナージドラマ『レッド・アイ』(全六話)とポーランドの警察ミステリードラマ『警察官カロリナ 善と悪の境界線』(全六話)を一気に見た。頭の中がドラマだらけである。

 

 『警察官カロリナ』は、女刑事カロリナが自分の信念に従って組織のルールも何もかも無視して暴走していくことで、失踪して行方不明となっている、元名警察官だった父の真実を暴いていくことになる。それは母や妹の家族を巻き込むものだが、ラストは意外な結末に終わる。人は見かけによらない。見えていることから判断すると過つことになる。壁にぶつかればその壁をぶち破って突き進むカロリナのパワーに圧倒される。このドラマも父親の呪縛に囚われた家族の解放の物語と読めないことはない。

 

 『レッド・アイ』は、このタイプのドラマとしては特に出来の良い作品だと思う。エスピオナージとは謀略のことで、中国とMI5、MI6、さらにCIAまで絡んで、ドラマは二転三転する。しかも物語は、ほとんどがロンドンから北京に向かう飛行機の中が舞台という異色のものである。それでいながら濃厚で緊張感にあふれた展開を見せ、一瞬の緩みもない。イギリスのドラマは傑作が多いが、これは特に素晴らしかった。

 

 ブルーレイレコーダーのハードディスクに少し余裕ができた。

たびごころ

 NHKの『ゆったり温泉ひとり旅』と六角精児の『呑み鉄旅』という番組が好きで、欠かさず見ている。再放送も、一度見たものをついまた見てしまう。今回の『ゆったり温泉ひとり旅』は山陰山陽編だった。学生時代に親友と寝袋を担いで山陰を旅して以来、お気に入りの地域で、繰り返し訪ねているところでもあるので、思い入れがある。とにかく海のきれいなところで、魚も美味しい。そろそろ雪の季節も終わりである。たびごころがうずく。皆生温泉にでも行きたいなあ。

 

 兄貴分の人と連絡して、来週、見舞いがてら久しぶりに訪ねることにした。しばらく連絡していなかったので無沙汰をわびたが、声を聴けてほっとした。兄貴分の人も、今年八十歳である。あと何度会えるかわからない。大阪の友人に声をかけたら一緒に行くという。そのあと鶴橋か天王寺で飲むつもりだ。体調を整えておかなければならない。ところでお見舞いになにを持参しようか。

 

 そろそろ春休みが近い。大学生は動き出しているだろう。今月後半あたりに北へ行くか西へ行くか、いま思案中。宿が取れるかなあ。

2025年3月 8日 (土)

胸に響いたドラマ

 録画してあったNHKの『憶えのない殺人』というドラマを見た。小林薫と尾野真千子が出演するから期待していたが、期待以上にこちらの胸に響くドラマだった。長く駐在所に勤務して地元の人たちにも親しまれ、いまは引退して独り暮らしの佐治英雄(小林薫)のもとを、ふたりの刑事(ひとりは尾野真千子)が聞き込みのために訪ねてくる。彼の管轄だった地域で殺人事件があったという。殺されたのは、ストーカー行為で以前彼が逮捕したことのある男だった。

 

 捜査の段階で、犯行のあった深夜の時刻に佐治を見かけたという証人が現れる。しかし佐治には憶えがない。しかし証人が複数現れ、彼の姿の映った監視カメラの映像も見つかり、刑事たちの疑いは次第に濃厚になっていく。佐治には認知症の症状が現れ始めていて、それを否定していた本人も、次第に自分を疑い始めていく。

 

 胸に響くのは、佐治が現実をしばしば失覚する様子が描かれるからで、その不安がひとごとではなく、自分自身のことのように感じてしまったからだ。恐ろしいことである。手許がおぼつかなくなったり、錯覚をしたり、無意味な買い物を無意識のうちにしたり、という様子は明日にも自分がしそうなことに思えたからだ。もう、そういうことをしているのに、自分で気がついていないだけかもしれない。

 

 はたして彼は本当に犯人なのか、自分で自分を疑い、確認を進めていく。すべてが明らかになったとき、彼は大事なことを忘れていたことを知らされる。そして忘れていたことにこそ、意味があった。エピローグが特に胸にしみる。

ピントが合わない

 頭がオーバーヒート気味で、あれもしたい、これもしたい、あれもしなければ、これもしなければと、さまざまなものがあふれかえっていて、それなのに出口につかえているものがあったりして、なにも手につかない。 こういうときは「無理に何かしなくてもいいんだ」、と自分をなだめてぼんやりするしかない。

 

 もともとの容量不足は如何ともならないのだ。何かにピントを合わせて少しずつでも片付けるには、ひしめき合っているものが整列して落ち着いてくれないと身動きがとれない。焦っても堂々めぐりするばかりだ。それまで自分をサボることにする。たいてい時間とともに何とかなる。なってきた。

2025年3月 7日 (金)

『風が吹くとき』

 『風が吹くとき』は、漫画を原作とした1986年のイギリスアニメ映画。定年退職を機に田舎の一軒家に移り住んだ初老の夫婦が、ニュースで戦争が起こりそうなことを知る。核戦争になることを想定して、役所から配布されたパンフレットどおりにそれに備えようとする。大真面目に準備しながらふたりの交わす会話は現実感に乏しい。新聞ではあと二日か三日で戦争に突入するという。

 

 あまり効果的とは思えないながら、ささやかなシェルターらしきものを作り上げた頃、ラジオが突然核ミサイルの飛来を告げる。着弾まで三分だという。慌ててそこにこもるふたり。そして「風が吹いた」。しばらくしてふたりが外を見るとあたりは焼け焦げ、破壊されつくしている。水道から水は出ないし、電気は切れたままである。お茶も飲めないし、洗い物はできない。不自由な日々がつづくが、ふたりはいまに助けが来ると信じていて、交わす言葉も日常を前提にしたものばかりである。

 

 やがて彼らの体調に異変が生じ始める。放射能による障害が起きているのだが、そんなことはふたりには理解できないから、なにか別の理由ではないかと考える。
そして・・・。

 

 キノコ雲も、爆弾による直接の人の死も一切描かれない。ただがれきの中で日常の回復を信じて淡々と会話を交わす夫婦が描かれるだけである。

 

 こういう映画をどう受け止めるのか。映画がもっとも伝えたい人には決して伝わらないだろうという悲観的なことだけを確信する。

会いに行くことを考える

 人に会いに行くには、それなりのエネルギーが必要である。言い訳をするわけではないが、それだから昨年後半からずっと会いに行かなければと思いながら、自分のテンションが低いために会いそびれている人がいる。大阪のあにきぶんの人である。大きな病気をして、何度も入退院していて、もっと頻繁に会わなければならないのに、コロナ禍という災厄によって、縁遠くなったままである。

 

 他に、私のいちばん親しい叔父(母のいちばん年下の弟)に会いに行かなければと思いながら、何年も会いに行っていない。その叔父夫婦は弟夫婦の仲人でもある。先日弟夫婦が来たときに聞いたら、私以上に会っていないようだ。私より一回りも年上だから、会わなければ後悔する。叔父は船橋に住んでいる。船橋といえば、その船橋で年に二回ほど会う先輩がいるが、昨年末に会いそびれている。この人にも会いたい。

 

 とにかく順番に会いに行くことを考えている。相手のためではなくて、もちろん自分のためである。人が会ってくれるのは、自分がそうして人に会うように努めた結果である。会って欲しいなら、会いに行かなければならない。

なにをしていいかわからない?

 高齢者は必ず認知症になるわけではない。しかし認知症にならない確実な方策というのも、今のところない。脳も働かせないと衰えるから、頭を使うことを心がけるのが良い、などというけれど、同じ人間で脳を使った場合と使わない場合とを比べるわけには行かない。だから不確かではあるが、それなりに説得力はある。

 

 現役を退いてから、なにもすることがない、とか、なにをしていいかわからない、などという老人が認知症になりやすいのだというのがそれらしく聞こえるのも、そういう理屈からであろう。しかし、そういう人が私には理解できない。自分を基準に考えるからであろう。私は忙しい。何度もこのブログに書いているが、その日にやることをメモ書きしていて、そのメモ書きには三食を食べることや片付けも書く。買い物に行くことや掃除や散歩すること、録画したドラマを見ること、ドキュメントやプライムニュースを見ることなど、細目を書く。もちろんブログを書くことも記す。どんな本を読むかも書いていく。できれば食事のメニューも書いておく。必要な買い物は、思いついたら別のメモ用紙に書いておく。買い出しの時にはそれを見ながら買い忘れがないようにする。

 

 朝起きて、することは山のようにあって、メモに書き出したことをすべて完遂することはたいていできないが、八割方できれば一応満足する。することがないだの、何をしたらいいかわからないだのというのは、私にはまったく信じられないことである。そんな私でも、すべてをペンディングしてぼんやりすることはある。しかし長続きしないし、時間とともに充電ができるので、またせっせと片付けるべきものを片付けていく。生きていると云うことは、メモに書きだしては、それが済んだら線で抹消し続けることかと思っている。書き出すものが無いというのは、生きていないと云うことで、つまり死んでいるということである。メモに書くことがなくなったら、「おまえはすでに死んでいる!」と自分自身に告げるだろう。今のところ生きている。

2025年3月 6日 (木)

『私の「死の準備」』

 ブログを書くために、曾野綾子の『夜明けの新聞の匂い』という本を引っぱりだしてみたら、その巻末に三十ページ弱の『私の「死の準備」』という文章があった。彼女の「死」についての考えはここに要約されていると思う。もしこの本をお持ちなら読み直されたら良いだろう。要約を私がさらに要約するのは乱暴に過ぎるので、この文章の最後の部分を引用する。

 

 人生の最後の時に、必要なのは、納得と断念だと私は思っている。
 納得するには、日々、人生の帳尻を締めて、毎日「今日が最後の日でも、まあまあ悪くはなかった」と思う癖をつけることである。それに私は小さなことでも楽しむことが上手だった。中でも自分の才能だと思っているのは、人の美点をユーモラスに見つけだせることであった。だから、私の生涯には、おもしろくていいことがいっぱいあった。もしも死んでみた後で、あの世がなくても、私は少しもがっかりしない。なぜなら、私はもうこの世で、神の雛形としか思えない人たちにも会ったし、心を躍らせるような凄まじい自然にも出会った。私はいつ死んでもいいように準備し続けている最中である。
 それと同時に断念もいる。これも、若いときからの訓練が必要だ。努力してはみるが、諦めなければならないことがある、ということに自分を馴らすことである。というか「人生は、いかなる社会形態になろうと、原型としてろくでもない所なのだから、ほとんどの希望は叶わないで当たり前なのだ」と肝に銘じることである。そう思ってみると、運命は私に優しすぎるほど優しかった。

 

 他にも付箋をつけて引用したいところも数カ所あったが、この最後の部分で十分であろう。この文章が雑誌に掲載されたのは1987年である。しかし彼女はブレない人だから、最期も同じ考えであったろうと思う。曾野綾子の冥福を心から祈る。

雑感

 トランプの演説がテレビで繰り返し報じられていたが、何より感心したのは、あの調子で延々と一時間四十分も続いたということだ。そのエネルギーには脱帽である。それ以上に感じたことは、トランプ賛同者たちの「USA!USA!USA!」、「TRUMP!TRUMP!TRUMP!」と歓呼し、揃って大拍手をする様子である。つい先日、ドキュメントで見たばかりの、ヒトラーナチスを歓呼して大拍手をしていたドイツ国民の様子と酷似しているではないか。「ウラァー!」とプーチンを讃えて歓呼するロシア国民も同様である。トランプの力はこれらのアメリカ国民の熱狂的支持を背景にしている。このトランプの思い通りの世界がこれから出現するとしたら、一体世界はどうなるのだろう。想像を絶する。

 

 曾野綾子が亡くなった。三十代からポツポツと彼女の本を読み始めていたが、本格的に読むようになったのは、『夜明けの新聞の匂い』という本からで、雑誌に連載していたコラムをまとめたものである。これはシリーズになって、たぶんすべて読んだと思う。彼女の本は百冊近く買って読んだと思う。半数は先日処分している。記念に十冊ほど残して、他も処分するつもりでいる。この「夜明けの新聞の匂い」という題名が好いではないか。新聞を読むようになったのは中学生くらいからだが、父親より先に読んだり、ふたりで紙面を分けて読んだりした。父も私も早起きだった。紙面そのものの匂い、インクの匂い、それらと朝の空気の感覚が私は好きであった。

 

 母は読書家というほどではなかったが、田辺聖子や佐藤愛子や上坂冬子や向田邦子の本を読んだりしていた。そして曾野綾子も好きだった。私が読み終わると持っていったものだが、途中から、もうそんなに読めない、などと言われたことを思い出したりした。

『レンタネコ』

 『レンタネコ』は、荻上直子(おぎがみなおこ)監督の2012年の映画。主演は市川実日子とネコたち。オムニバス式に同じパターンの話が繰り返されていく。共演はネコを借りる人たちとして、草村礼子、光石研、山田真歩、田中圭、そして小林克也(隣家のおばさん)など。

 

 脱力系のエネルギーをあまり必要としない映画で、荻上直子の映画に慣れていなかったり、ネコ嫌いの人にはちっともおもしろくないだろう。私の評価も微妙なところだが、市川実日子もネコも好きなので、最後までだれずに見ることができた。こんな摩訶不思議な女性と暮らすことができたら、少しくらい貧しくてもあんがい一生しあわせに過ごせる気がする。こうでなければならない、というこだわりさえ捨て去れば、なんとかなるはずなのだが、なかなかそういうこだわりは捨てられないものでもある。好きなように生きているようで、彼女もじつは一生懸命生きているのだろう。

 

 荻上監督の作品は、『かもめ食堂』(2006)を見て好きになった。昨年には松山ケンイチが主演していた『川っぺリコムリッタ』という2022年の映画も見たが、なかなか良かった。他に『メガネ』、『バーバー吉野』という映画も録画したはずなので、探して見てみようと思う。

2025年3月 5日 (水)

更新

 マイナンバーカードの有効期限は10年だが、電子証明書としては五年ごとに更新が必要で、その更新が必要になる年の誕生日の三ヶ月前に案内が送られてくる。その案内が私にも送られてきたので月曜日にでも行こうと思っていたら、雑用でつい行きそびれていて、今日、雨の中を市役所に行ってきた。その前に役所から書類をもらうための電子署名用の暗証番号やら、薬局や病院でこれを使用するときの暗証番号やらが必要なのだが、それを書いた紙を仕舞いなくしていて、あるはずの机の引き出しの中をすべて引っぱりだして、何とか探し出した。おかげで引き出しの中の不要なものをついでに捨てることができた。

 

 暗証番号さえわかっていれば手続きは簡単で、あっという間にカードに更新のデータが書き込まれて終わりである。もちろん忘れたからといって手続きができないわけではないらしいが、手間はかかるであろう。

 

 今日は資源ゴミの日で、前回は不在で出せなかったこともあり、だいぶ出すものがたまって場所ふさぎになっていた。大きな段ボールをたたんだものもあったので、三回に分けて出した。そのあと掃除機をかけてさっぱりした。次は本の処分である。段ボールに五箱ほど積んである。そのほかに読んでいないけれど、もう読みそうもないから処分すべきかどうか迷っているものが100冊ほどある。何とか読もう、などと思って、たぶん捨てきれないだろうなあ。

 

 たまっている録画した映画も、またぽつりぽつりと見始めた。時間とエネルギーがもっと欲しい。

鷗外の短編を読む

 山崎正和の『鷗外 闘う家長』 は三章で構成されていて、第一章は外遊と時代背景をテーマとして、漱石や荷風との比較が論じられていたが、第二章では家長というテーマで、その立場を補助線として鷗外を読み解いていく。そこで言及されている短編をひとつずつ読んでいる。今回は『ぢいさん、ばあさん』と『最後の一句』の二篇を読んだ。題名からイメージするのとは違って、二篇とも歴史小説である。

 

 『ぢいさん、ばあさん』は、老武士とその老妻の静かながら毅然とした佇まいを描いたあと、そこに至ったふたりの人生が詳述されていく。人は見かけから想像できない重い大きなものを乗り越えて生きていくものであり、そのことに対しての後悔をいささかも持たない諦念の境地といういうものに感動する。これに補足して『予が立場』、『なかじきり』という短文を読んで、この物語に鷗外がこめた思いが多少はわかった気がした。

 

 『最後の一句』は、不正により死罪が決まった父親を助けるため、その子供たちが奉行所に救済を嘆願する、という物語である。その代わりに自分たちのいのちを差し出す、という嘆願がどう扱われたのか、そして『最後の一句』という題名の意味は何か、その行為になにを感じるのかは人それぞれであろうし、その受け取り方がその人の考え方を示すということもあろう。話に濁りを与える『最後の一句』が加わってこそ、この美談のような物語に複雑さが生じている。

 

 次に『高瀬舟』、『山椒大夫』を読み直してみようと思っている。

家父長について

 すでに形骸化して久しく、そもそも存在そのものが希薄になってしまった「家父長」というものの残滓が、「父親」という役割に宿命的に残されているということを教えてくれた一文を、山崎正和の『鷗外 闘う家長』という本の中で見つけたので、少し長くなるが引用する。父と息子の葛藤について前回のブログに書いたが、そのメカニズムとでもいうべきものがここにわかりやすく論じられている。

 

 「父」であることは・・・本質的な矛盾を含むのであって、・・・

 

 すなわち、「父」にとって家族は絶えまなく彼に一体化を求めながら、しかも宿命的に、「父」の一体化を拒むようなしかたで成長していく存在なのである。いつの世にも成長した家族に融けこめない父親は無数にいるが、それは必ずしも「父」の個人的な欠点や家族の冷酷さのせいではない。成長するということが、つまりは「子」が「父」になることである以上、無用になっていくのは「父」の生物学的な宿命にほかならない。にもかかわらず、一方、家族はどこまでも父親はどこまでも父親自身の生きのびた生命であって、彼はたとえ自分に離反した家族すら無縁の他人として切り捨てることはできない。いいかえれば、「父」は刻々に自己の一部が他人になっていく過程を生きるものであり、皮肉にも家族の養育とはこの自己否定を自らの手で進める行為だといえる。
 さらに困ったことには、人間の家族にはそれぞれ過程としての志と秩序とがあり、家父長の役割はその志と秩序を維持することにあると考えられている。どの家庭もそれぞれにどの程度の教育水準を保つかという常識があり、どの程度の豊かさをめざすかという暗黙の了解がある。そのために家族を訓練し、そのために必要な志気を鼓舞するのは、時代を問わず家父長の当然の義務とされているのである。けれども、これはいうまでもなく父親の生物的な役割とは矛盾する義務であって、むしろ、なにがしか政治的な統治行為に似ているといわなければならない。志も秩序も、それがよく機能するためには時間的な変化を超えていなければならず、したがって、生理的には刻々に衰える父親が、その反面、家庭の中の絶対を代表するという矛盾に苦しまなければならない。したがって「父親の頑固さ」は、じつは家庭の構造そのものが彼に担わせた宿命であり、にもかかわらず、それを憎悪し嘲笑するのもまた家庭の本質だというところに、父親の永遠のアイロニーがあるというべきであろう。

 

 いまならこの文章の意味がよく理解できる。胸に響く。そして志賀直哉と父との確執の背景についても、父親の立場から見ることもできるようになっているし、自分自身についてもそういう視点でものが考えられる。「家制度」などはとっくになくなっているけれど、家族の維持成長には父親が不可欠な理由がここで述べられている。その役割の矛盾を担う父親の苦労もわかろうというものだが、家父長ということばが意味を失うとともに、父親は子との確執もなくなり、その苦労を担うことがないかわりに家族の成長、つまり子供の成長も巣立ちも、あるようなないようなものになってしまったのだ。

2025年3月 4日 (火)

『ビッグ・フィッシュ』

 『ビッグ・フィッシュ』は2003年のアメリカ映画である。監督はティム・バートン、主演はユアン・マクレガー。プロローグの映像から、一体どんな物語なのだろう、とわくわくさせられる。ティム・バートンの作る映画は独特の映像世界を楽しませてくれて好きである。この映画も見終わっておおいに満足した。

 

 父と子の確執、そしてその関係の融和と和解。このテーマを表現するには、「息子」が「父親」になるためのイニシエーションを描くことになる。父親が息子に語り聞かせたこと、語らなかったこと、を通して伝えたかったものが何だったのか、この映画では誇張された、ほとんどホラばなしのオンパレードのような父親の物語が、どういう背景を持つものだったかに息子が気がつき、父への反発が共感に変わるという筋道をたどる。

 

 主人公のエドワード・ブルーム(物語の中の父親)を、若いときはユアン・マクレガーが、老齢になってからは名優アルバート・フィニーが演じている。脇役にヘレナ・モナム=カーターやスティーブ・ブシェミなど異色の俳優(だから好き)が出演しているのも嬉しい。

 

 私自身が父に反発し、父と普通に会話を交わすことができるようになったのは、息子が生まれてからであった。父親は子供の壁であるべきだ、ということをいつしか理解したし、その壁を乗り越えることによって子供は初めて大人になることができるのだと思っている。父がどんな思いでいたのか、息子が反発しているときにどれほど寂しい思いをしていたか、いまになってようやくわかったりしている。父親とはそういう役割のものなのだと思う。男はつらいのである。

 先月末に曾野綾子が亡くなったという訃報をさきほど知った。享年93歳。彼女のコラム風のエッセーをずいぶんたくさん読んできた。いっていることに共感したし、影響もずいぶん受けた。冥福を祈る。

お気に入り

 いま、気に入って使っているものがある。姪がくれたシジミエキスと娘がくれた柚辛子だ。シジミエキスは、しじみ汁を濃縮して瓶に詰めてあるもので、味噌汁などに少しいれるだけで貝の濃厚なうまみが加わる。柚辛子は九州の柚コショウと同じものだが、娘のくれたのは土佐のものである。青唐辛子と柚をすったものが小瓶に詰めてある。少しでもけっこう辛い。そば、うどん、味噌汁、何に入れても味が引き立つ。

 

 使い出したらやめられない。まだ残っているが、無くなりそうになったらネットで注文して常備するようにしようと思う。

 

 ときどき娘のくれる淡路島ソースもお気に入りだ。タマネギがたっぷり使ってある。ステーキやローストビーフなどに使うと絶品だが、私がよく使うのはホルモンうどんである。岡山県津山のB級グルメのホルモンうどんは、ホルモンの入った焼きうどんで、そのソースが独特なのである。ネットで取り寄せたりしたけれど、いまは市販の焼き肉のタレと淡路島ソースをブレンドしてホルモンうどんのソースにしている。そこそこいける。

言って善いことと

 言って善いことと悪いことがある。親子の間でも、それを言っちゃあおしまいだ、ということばがあるもので、『男はつらいよ』の中で、寅さんもそういうけじめにこだわったものだ。そういうことばを聞いて傷ついた寅さんは、たいていふらりとまた旅に出て行く。

 

 いま世間はそういうけじめをまったく斟酌せずに、言ってはならないとされることを平然と言う。親からきつく戒められて、そういうことは言わないように育った身としては寒気がするけれど、世の中には言わなけりゃ損だとばかりにそういう無神経なことばが飛び交っている。

 

 ドラマでも、そういうことばを発したくなるほどギリギリに追い詰められているわけでもないのに、びっくりするようなことを言うシーンを見せられる。そういうものを見続けると、ことばに鈍感になるのだろう。ことばが過剰になればインフレになって価値が低下する。ことばが軽くなるからエスカレートする。ついて行けない。ついて行けない、というのは、使われていることばがこちらにはそれだけ重く感じられているからである。世間に合わせて鈍感になどなれないし、なりたくもない。

 

 現役中には、気をつけていたはずなのに、ときにエスカレートして人を傷つけかねないことばを発したこともあった。いまでも思い出すと冷や汗が出る。そういう感情にまかせたことばを発したことは、長い時間を過ぎたいまでも決して忘れられない。ことばとはそういうものだと思っている。

2025年3月 3日 (月)

憲法改正

 日本国憲法の前文を日本人は素直に受け止め受け取り、戦争をそして軍備を否定した。その時にそれを日本人に贈与したのはアメリカである。多くの日本人はそれを信じた。アメリカを信頼した。無邪気に世界を信頼した。信頼させられた。そしていま、アメリカはその信頼に足る存在ではない姿を見せている。世界は異様な姿を見せ始めた。それに対してどうするのか。教科書や高校の無償化は良いけれど、それについて国会議員は少しは考え、国民にわかるように論じても良いのではないか。

 

 日本国憲法を不磨の大典とする一部野党は、その不磨の大典の前文の前提が崩れたのではないか、という問いに答えても良いのではないか。それとも前提は崩れていない、と言い張るのか。なにも今すぐ軍備を増強して戦争を始めようというのではない。非常事態が起こりえると云うことを考え、それにどう対応するのか考えても良いのではないかということだ。いまの憲法のままだと危機に対応できない可能性が高いと言われる。それをシミュレーションし、それに対する備えは考えておくべきだろう。あたりまえのことである。しばしば腹が立つのは、憲法改正反対論者の多くが、考えることすら否定するという点である。考え、議論したうえで、このままではどうしても問題なら、その時に改正を考えれば良いのだ。改正そのものを全否定するなら、改正の方法の書いてある憲法は憲法違反か。私は積極的な憲法改正論者ではないが、時代が変われば、そして事態が変わればそれに合わせての改正はしても良いと思っている。いまなら、多くの日本人もそう思っているのではないか。

密かに願う

 今朝は夜が明けてもあたりは薄暗く、しょぼしょぼと雨が降っている。室内はそれほど寒くはない。いじっていた寝室などのレイアウト変更と片付けはようやくほぼ片付き、少しすっきりした。オーディオを聴くのに適した配置になり、スピーカーケーブルも新しくしたら、音が明らかに良くなった気がして満足している。ここで静かにイージーリスニングなどをかけて、コーヒーなどを飲みながら読書する。好い気分だ。

 

 トランプとゼレンスキーの口論は深刻な事態をもたらすだろうと、ニュースで繰り返し報じられている。アメリカはウクライナへの武器支援をやめるのではないか、などと予想されている。本当だろうか。アメリカの大国としての信頼は地に落ちた。拝跪しないと「侮辱した」などと決めつけられて、まちがいを指摘することもできないとは、まさにトランプは皇帝にでもなった気分なのかと思われる。こうして、トランプ、プーチン、習近平と三人の皇帝のそろい踏みとは、恐ろしく時代錯誤の世界になってしまったものだ。プチ皇帝の金正恩も加わって、誰も異を唱えさせない、唱えることを許さない国が二十一世紀になってぞろぞろと出現した。

 

 こうなるとそれを引きずり下ろすのは困難で、一体世界はどうなるやらと絶望的な気分になる。唯一の希望は、皇帝も永遠に続けることができないと云うことだ。終身皇帝にとなるように憲法や法律を変えることはできるだろう。しかし、どんなに権力を大きくしてもかなわないのは永遠のいのちである。いつかは彼らも死ぬ。必ず死ぬ。これだけが期待であり希望である。彼らより長生きして、彼らの死を、そして死後を見たい。彼らを継ぐ者は、彼らより強い権力を持つとはとても思えない。願わくば、彼らのせいで世界戦争が起こるよりも先に彼らがこの世から退場しますように。 
 これはある意味の呪いで、呪いには何ほどの力も無いかもしれないが、世界のなるべく多くの人がそう願えば、もしかしたら呪いに効果が生じるかも・・・・。

たぶん先崎彰容から

 いま山崎正和の本を四冊置いて、それを中心に、関連すると自分なりに思うさまざまな本を積み上げて、読み直したり読み比べたりしている。こういう読み方は多少はしたことがあるけれど、ここまでとことんやるのは生まれて初めてである。なにを知りたいのか、なにについて考えているのか、自分でもまだハッキリしていないのだけれど、おぼろげにめざすものが見えかけている。

 

 たぶんこんな事をしているのは、先崎彰容の『鏡の中のアメリカ』という本がきっかけかと思う。そしてその補足として、『維新と敗戦』という本も関連している。それを読んで始めて江藤淳の本当に言いたいことが、ほんの少しだけわかった気もしている。さらにトランプのアメリカの異様な姿にも大きく関連していると云えば、何の話かと思われるだろうが、私の中ではつながっているのだ。

 

 山崎正和が『鷗外 闘う家長』という本の冒頭部で言及している、森鷗外、夏目漱石、そして永井荷風についての評論は、彼らが明治という時代に海外生活をしたことをまず論じている。明治維新前後から明治終わりにかけて、まったく価値観の違う西洋の価値観を、彼らがどう受容したのか。そしてそれを基礎において、日本という国が、そして国民がどのように西洋的価値観を受容したのか、それをもう一度見直して見ようというのが、先崎彰容の提起しているテーマで、そこからさらに太平洋戦争の前と後での価値観の大転換を見直し、それに対して文豪や知識人がどうその変化を受け止めたのか、考えようというのである。

 

 文豪の、自らを西洋的価値に対応すべく、または拒否すべく、もがいた姿を根底から見直すことが、日本人としての生き方、価値観の確立に必要なのではないか、というのが、たぶん先崎彰容、山崎正和、そして江藤淳などの提示しているテーマなのではないか。そう感じているところである。

 

 そこで私としては永井荷風に重点を置いているのは、好みの問題もあるし、西洋的価値観を表面的な部分だけ受け入れる世の中に拒否感を示した永井荷風に共感するからでもある。関連する評論も多くて考えやすい。

 

 とりあえず捌く道具としての山崎正和の本四冊

 

  『鷗外 闘う家長』
  『不機嫌の時代』
  『曖昧への冒険』

 

 以上は三部作となっていて、それとは別に

 

  『柔らかい個人主義の時代』(これは上の三冊とは性格が違うが)

 

 を加えてそれを丁寧に読んでいる。読みながら取り上げられた作家の作品を読んだりしているので、読み終わるのはいつになるかわからない。

 

 論じられている作家や知識人は数多いが、ある程度限定しながら少し深読みしようと思っている。本の山ができていて、リストを挙げるには多すぎるのでやめておく。何かをまとめようという大それたことは考えていない。先哲が何を考え、云おうとしているのかをいろいろ関連させながら、ちょっとぐらいは理解したいと思っているだけである。

2025年3月 2日 (日)

知れば識るほど

 ものを知るには、凡才の身としては広く浅くか狭く深くかどちらかを択ばざるを得ない。若いときはとにかく広く浅く手を拡げた。それでも無数の知りたい分野の、ほんの片隅、二つか三つを少し眺めただけで、世界はまったく知らない分野だらけである。結局狭く浅くで終わったなあと自嘲している。それなら特定の分野をひとつかふたつ、とことん深く追い求めた方が良かったかと思わないではないが、それも自分なりに手を拡げたからの反省で、一つを追い求めた人も、たぶんもっといろいろ知っておけば良かったと思っているに違いない。人生は短いのだ。

 

 本を読むことを趣味にしていて、読書が趣味です、と恥ずかしさを覚えずに云うことができる程度には読んできた。定年退職してから、特に興味を持って読んだ分野が文芸評論で、普通の人よりもたぶんたくさん読んでいるだろう。古本屋をあちこち歩いて、評論家の個人全集をまとめ買いしたり、欠巻を探して補充したりした。欠巻のある全集はとてつもなく安く手に入り、手間はかかるが欠巻だけ探せれば結果的に格安で揃えられる。無ければないで仕方の無いことで、気にしていればいつか見つかることもないではない。

 

 そういう評論のさまざまを読み比べることで、教えられることがたくさんある。評論家の読む読み込みの深さはただ感心するばかりで、自力ではとてもたどり着けない世界を見せてもらえる。そして同じ作家、同じ作品に対する評論が評論家によってずいぶん違うのも面白い。視点が違う場合などは、よくよく考えればどうして違うのか理解できるけれど、全く違う解釈などがされている場合には、どちらかが間違っていることになるとしか思えない。

 

 作家としては、私が特に何度も読んでいるのは、志賀直哉、安岡章太郎、夏目漱石、永井荷風などである。この人たちの作品に対する評論は山のようにある。そうしてその評論を読むことでもう一度作品を読むと、読めていなかった部分がにわかに光り輝いて見えてくる。違う評論を読めばまた違うものも見えてくる。そうして最初の評論の意味が、違うものを読むことで、新たにわかったりして、評論と作品がらせん状のループを踊り出す。

 

 いまは永井荷風の周りを私自身も輪に入って踊っている。昔わけも分からず読んだまま、押し入れの隅にしまっていた本の内容が、いま読み直してにわかに得心がいったりするのはとても嬉しいものだ。本には汲み尽くせないほどのことが書かれている。

使い切る

 今日、目薬を最後の一滴まで使い切った。使い終わりそうだったので、次を買って用意してあるので問題ない。目を酷使していて、目薬なしだとなんとなく視界が暗くなって、ときに激しく眼が痛む。必需品である。そういえば、歯磨きがもうすぐ使い終わりそうで、こういうものは終わりそうになってから不思議なほど何回も使えるから、とことん絞り出しているところだ。チューブ式の香辛料や瓶詰めの香辛料もとことんきれいに使い切る。いつもブログを拝見しているイヌイカさんではないけれど、吝嗇ではなくて意地である。たまたまブログにそんなことを書いてあるのを読んで嬉しくなった。

 

 こんなところだけ些細な美意識にこだわっている自分を嗤うけれど、人間は多少のこだわりを持つことで矜持を保つことができたりする。わかる人にはわかるだろう。

私はまだだと思っていたら

 マイナカードの電子証明書の更新は五年で、早い人は更新手続きが必要だという話はニュースで知っていたけれど、私はまだだと思っていた。ところが手続きするようにという案内の手紙が送られてきた。更新しないと病院や薬局でマイナカードが使えないらしいから、明日にでも役所に行かなければ。なんだか面倒だ。それに暗証番号をどこに控えたのか探さなければならない。顔認証で更新してくれないかなあ。

 

 運転免許証は昨年更新したところだから、まだ大丈夫だ。念のため確認した。次回の更新を最後にするつもりでいる。ちょうど愛車もあと四五年というところかと思っている。今のところ運転していて自分に不安になることはないが、そういうことは自分では気がつきにくいものだ。もともと運転はうまいとはとてもいえないし、いまでもバックはあまり得意ではない。反応が遅くなっていることを思って、スピードは以前より出さなくなった。もっと自重しても良いくらいかもしれない。行ける間にたくさん遠出をしておきたいと思っている。

 

 そういえばここ数年は兄弟で出かけるようになって、最初は私の車だったが、最近は弟のワンボックスカーに乗せてもらうようになった。お任せして景色を思う存分に楽しませてもらっている。日本全国走り回ったおかげで、どこへ出かけても知ったかぶりの人間ナビゲーターをさせてもらっていて、それなりに弟夫婦や妹に喜んでもらっているのはなんとなく嬉しい。今年の春は、伊勢から紀州方面に行きたいという要望をもらっている。私が勧めたのだったか。

2025年3月 1日 (土)

絞りたての銘酒と鍋

 四国の徳島に会社の先輩がいて、毎年行く蔵開きに初めて連れて行ってくれたのはこの先輩である。定年退社をしてからふるさとの徳島に帰っている。ずいぶんお世話にもなったので、蔵開きに行ったときにはこの先輩に絞りたての新酒をお裾分けとして送らせてもらっている。徳島にも蔵開きに行く友人がいるとのことで、毎年先輩も蔵開きに行ったからとお返しのお酒を送ってくれる。

 

 今回はちょうど不在のときに送られてきていて、運送便の人には手間をかけたが、帰ってすぐに再配達を頼んで、早速口を開けた。今年は徳島県三好の芳水という酒だ。絞りたてで本当に美味い。少しずつ飲んで、たぶん今日で飲み終えてしまう。日本酒は絞りたてがとにかく美味い。ビールと同じである。私は絞りたての酒が大好きで、どうしてこんなに美味しい絞りたてを調整してまずくするのかと思うほどだ。

 

 考えたら、今年はあまり鍋物を作っていない。卓上コンロ用のボンベもあまり減っていない。今日は暖かいけれど、鍋にしようと材料を仕入れてきた。口切りにはホタルイカを生姜醤油で、それにキュウリとワカメの三杯酢、そして鍋で日本酒をゆっくりいただく。酒が足りなければ新潟県村上の〆張鶴を開けることにする。これで春をお迎えすることにしよう。

気がつけば

 やればできる。片付けたいと思っていたもの、処分したいと思っていたのに捨てられずにいたものを少しだけ処分した。少しだけだから、まだ何かが片付いたという実感はないが、手を付けたことで弾みが付けばありがたい。また、買い換えたいものも懐と相談しながら順次買い換えていくことにする。

 

 きっかけは寝室のレイアウトいじりである。あるけれど使わずにいたもの、自分以外には使うことがなく、その自分にとってもそろそろ不要と見切っていいだろうと思うものなど、そういうものがあちこちにしまい込まれている。年齢とともに基準は変わる。変わらなければならない。それを捨てていく。また、まだ使えるからと我慢していたもので、新しくした方が明らかに良くなるはずのものがある。そういうものを何点かネット注文した。換えて良かったものについて、すでにひとつふたつ実行して実感している。

 

  これがまあ 終の棲家か雪五尺 

 

 だったかな。そういう気分である。そういう気分をより実感したい。未来は永遠ではない。

 

 気がつけば雪ではなくて、外は春の日差しである。三月である。

岩屋ダムと馬瀬川

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ささやかな湯治旅からはすでに帰宅しているが、締めくくりとして岩屋ダムとその水源の馬瀬川(まぜがわ)の写真を掲載する。岩屋ダムの展示館前の絵看板。大まかにいって左が南である。上側が郡上八幡方向。私は左から来て右へ、つまりダム湖沿いに北上して宿に向かった。右から馬瀬川が流れ下り、岩屋ダムのダム湖を形成している。馬瀬川は画面下の飛騨川に流れ入り、飛騨川は木曽川に合流する。

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岩屋ダムのダム湖。

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土手のように見えるのが岩屋ダム。ロックフィル式なので普通見慣れたコンクリートのダムとは違う。このあたりの大きなダムはロックフィル式が多い。ロックフィルとは大きな岩石を積み上げた方式のダム。

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ダム湖。寒々しい。実際に寒い。

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ダム湖の上流にこのような堰堤が会った。これは一種の砂防ダムで、岩屋ダムに砂や小石が流れ込まないようにせき止めるもの。

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宿の近くの小さな道の駅で時間調整もあって一息入れる。駅だけれど線路のある駅ではない。

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道の駅の裏手で馬瀬川の流れを見る。

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水の流れが美しい。

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光になんとなく春がもうそこに来ているのを感じる。

帰りは来た道をそのまま帰った。一時消えていた25日、26日のブログには、岩屋岩陰巨石群などの写真があります。

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