ゲリラ、そしてテロリズム
今さらいうまでもないが、ゲリラ戦とは弱者の戦法である。ナチスに対するパルチザン、ベトナム戦争でのベトコンなど、正攻法では勝ち目が無い側がゲリラ戦を挑む。強者がゲリラ戦をすることは普通はない。そうしてゲリラ戦の行き着くところがテロリズムであろうか。ゲリラ戦では、挑む相手は敵の兵士であるが、テロリズムでは相手の側に属するものであれば誰に対してでも、なにに対してでも対象となる。強者の側に不安と混乱さえ与えられればテロリズムは成功だと考える。標的が象徴的であれば女子供でもかまわない。相手を感情的にさせ、厭戦的な気分にさせれば成功である。
怨みばかりが募り、骨髄に徹しているのに、正攻法の戦いが不可能になり、ゲリラ戦を展開しても成果が得られなくなれば、結果など考慮せずにテロに走ることになるのは成り行きであろう。どうせ生きのびられないのである。自滅に相手を道連れにしようと思う。もう正義も悪もない。
いつからか、強者が一般市民に対して無差別大量殺戮を行うことが戦争の当たり前の姿になった。強者こそが大量のテロリズムを実行するという、狂気の世界が常態化している。勝つために殺戮を行っているのか、殺戮を行うために戦争を行っているのかわからなくなった。もう誰も安全な場所にいるわけではなくなった。戦争とはそういうものだといえばその通りなのだが、遠隔で、なるべく効率的に殺戮する手法がどんどん進化している。その先に何があるのか。これだけ同時にヒトラーたちが輩出しては、もう誰にも止められない。コロナ禍というパンデミックは、人類のフィナーレに対してのファンファーレだったのか。
« おまえが悪いからだ | トップページ | 出かけることにする »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 「終活、お任せください」(2025.04.19)
- ぼんやりする(2025.04.19)
- 責任(2025.04.19)
- まるで違う(2025.04.18)
- まぜご飯(2025.04.18)
コメント