知れば識るほど
ものを知るには、凡才の身としては広く浅くか狭く深くかどちらかを択ばざるを得ない。若いときはとにかく広く浅く手を拡げた。それでも無数の知りたい分野の、ほんの片隅、二つか三つを少し眺めただけで、世界はまったく知らない分野だらけである。結局狭く浅くで終わったなあと自嘲している。それなら特定の分野をひとつかふたつ、とことん深く追い求めた方が良かったかと思わないではないが、それも自分なりに手を拡げたからの反省で、一つを追い求めた人も、たぶんもっといろいろ知っておけば良かったと思っているに違いない。人生は短いのだ。
本を読むことを趣味にしていて、読書が趣味です、と恥ずかしさを覚えずに云うことができる程度には読んできた。定年退職してから、特に興味を持って読んだ分野が文芸評論で、普通の人よりもたぶんたくさん読んでいるだろう。古本屋をあちこち歩いて、評論家の個人全集をまとめ買いしたり、欠巻を探して補充したりした。欠巻のある全集はとてつもなく安く手に入り、手間はかかるが欠巻だけ探せれば結果的に格安で揃えられる。無ければないで仕方の無いことで、気にしていればいつか見つかることもないではない。
そういう評論のさまざまを読み比べることで、教えられることがたくさんある。評論家の読む読み込みの深さはただ感心するばかりで、自力ではとてもたどり着けない世界を見せてもらえる。そして同じ作家、同じ作品に対する評論が評論家によってずいぶん違うのも面白い。視点が違う場合などは、よくよく考えればどうして違うのか理解できるけれど、全く違う解釈などがされている場合には、どちらかが間違っていることになるとしか思えない。
作家としては、私が特に何度も読んでいるのは、志賀直哉、安岡章太郎、夏目漱石、永井荷風などである。この人たちの作品に対する評論は山のようにある。そうしてその評論を読むことでもう一度作品を読むと、読めていなかった部分がにわかに光り輝いて見えてくる。違う評論を読めばまた違うものも見えてくる。そうして最初の評論の意味が、違うものを読むことで、新たにわかったりして、評論と作品がらせん状のループを踊り出す。
いまは永井荷風の周りを私自身も輪に入って踊っている。昔わけも分からず読んだまま、押し入れの隅にしまっていた本の内容が、いま読み直してにわかに得心がいったりするのはとても嬉しいものだ。本には汲み尽くせないほどのことが書かれている。
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