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2025年4月

2025年4月30日 (水)

学生時代の旅行メモ

 古い手帳を整理していたら、大学四年生の夏休みに友人とふたりで、大学のある米沢から、新潟、佐渡、能登、そして山陰を旅したときのメモが出てきた。メモは山陰に到着するまでの一週間たらずのもので、そのあとはない。書くのに飽きたのか。自分の記憶とメモを突き合わせると、忘れていることがいろいろあるし、少し勘違いして記憶していることもあるようだ。

 

 書き出しは、先輩の付き合っていた女性から、旅のカンパとして小遣いをもらったことが書いてある。ビアホールのマネージャーのお嬢さんで、いろいろ私たちも世話になっていた(チケットをこっそり分けてもらったりしていた)女性だ。土産を何か買って帰ったかどうか記憶がない。せめて絵はがきくらいは買っただろうか。

 

 出発の前の晩、先輩(六年生で一緒に卒業した)と寮の屋上で星空を眺めたことが書いてあり、その先輩の見送りを受けて、米坂線で新潟へ。新潟港から佐渡へは夜明け前発の便で渡った。佐渡の両津からさらに行こうと思っていた場所への船があるはずが、その年は欠航だと知り、途方に暮れていたら、親切そうな車の人が乗せてくれるという。友人が、どうもおかしい、というので確認したら白タクだとわかり、断ったことが書いてあるが、まったく記憶していない。予定を変更し、バスを乗り継いで相川まで行き、さらに尖閣湾を遊覧船で周遊する。それからバスで今度は南へ走り、小木港から直江津へ渡る。小木の港で食べた魚の定食が美味しかったことが書いてあるが、それは覚えている。

 

 直江津港から結構遠いのに直江津駅まで歩いている。その直江津駅の待合室のコンクリートの床の上で新聞紙を敷いて眠った。蚊の猛攻に遭った。これも覚えている。直江津から富山に向かい、富山で市内を散策している。富山から能登へ。能登の穴水に寮で一緒の、年上の後輩の実家があり、そこに世話になる。もちろんその後輩も実家で合流するはずが、バイトで帰れないと連絡があり、お互いに見ず知らずどおしで、それでも泊めてもらうことになった。父親と三人、大酒を飲んで大いに盛り上がり、大歓待された。

 

長くなるので続きは次回に

何が悪かったのか

 スマホが異常になって開けなくなったのを、先日ドコモショップで直してもらったが、その時に怪しいアプリを二つか三つ削除したことで回復したのだが、どんなアプリが怪しかったのか、という質問があった。ところがいろいろ試行錯誤の作業を感心してみているばかりで、何がどう悪さをしていたのかよくわからなかった。ただ、PDFのバージョンが古いから、新しいものをインストールしなければファイルが開けません、というようなメッセージを安易に信じてインストールしたのがちょうどトラブル前のことだったので、そこら辺かと思う。他にもちょっと安易に開いたアプリがあったかもしれない。とにかく新しいアプリを入れるときには慎重に、バージョンアップだ、などというのも安易に信用しないことが必要かと思っている。

 

 前にも書いたけれど、いろいろなアプリを活用して使いこなしている人を見て、自分の知識のなさを忘れてつい真似したくなったのだ。それでアプリを弄っていて、おかしなものを開いてしまったようだ。

 

 直った後に、「個人情報が漏れています!」などという案内がスマホに入ったが、スマホショップで強化してもらった対策ソフトで確認したら、特に異常はないようであった。万一のとき、いざというときにどうするか考えている。というわけで、こういうアプリが危ない、というたしかな情報を持ち合わせていない。経験が生きないのが残念で、お役に立てなくて申し訳ない。いまは、スマホは結構怖くて危ないものだという記憶だけが残っている。

どちらも本当

 トランプ第二次政権が始まって100日、その評価が、支持率が少しずつ低下して、熱烈な支持者のその熱も冷めつつある、というのと、まだまだ本人は意気軒昂、岩盤支持層は変わらず、これからも次々に日替わりの奇策を打ち続けるだろうというものがニュースとして報じられている。トランプの岩盤支持層は35%から40%とみられていて、現在の大統領支持率はだいたい40数%というところなので、浮動票がほぼ離れつつあるというところであろうか。

 

 アメリカのマスコミも、徹底的にトランプ否定派と、逆にトランプ支持派とに別れていて、日本に伝えられるのは、その伝える日本のマスコミがほぼリベラル派でトランプ否定派だから、どうしてもトランプの形勢が悪いように報じられる。物事には見方によってさまざまな面があり、だから矛盾している形勢も、たぶん両方事実であって、見方によるのだろう。

 

 トランプを支持したけれど次は絶対に支持しない、などと喚く人を報じれば、トランプも危うい、というように見えるし、相変わらずのトランプ節を聞いて人気伝道師の説教を聞いたときのように拍手喝采する群衆を報じれば、まだまだトランプ健在を思わせる。トランプ本人の周りには、常に熱狂的な支持者がいるわけで、彼が自信満々なのは当然のことだろう。

 

 彼が意気阻喪するのは、自分が思い込んでいるほど自分は支持されていないと気がついたときだろう。岩盤支持層の不満、不信がたまって支持がゆらぎ、まさにそのことがトランプ本人に伝わったとき、どういう反応をするだろうか。いかにも暴走しそうにみえるが、案外意気地がないかもしれない。そう思うのは私が日本人だからだろうか。肉食人種は軟弱ではないからなあ。

2025年4月29日 (火)

長寿十則

 妻が書き殴ったノートなどがたまりすぎて、病院が置き場所に困り処理して欲しいと頼まれたので、本人の了解のもとに引き取ってきた。簡単に目を通して、処分しても良さそうなものを破って廃棄している。それなら自分のものも並行して処分しようと思い、手帳やノート(大量にある)を古いものから少しずつ廃棄することにした。そこに長寿十則というメモがあったので記しておく。

 

長寿十則
 少塩多酢 しょっぱいものより酸っぱいもの
 少車多歩 車をやめて歩こうよ
 脂油   バターよりもサラダ油
 煩眠   くよくよしないでよく眠り
 糖果   お菓子よりも果物で
 努笑   イライラしないで笑っちゃう
 肉菜 肉より野菜
 言行   口で言うより実行し
 食齟   食べ物はよくかんで
 慾施   ほしがるよりも人にやろう

 

ずいぶんむかしの手帳に書かれていたものだし、何処から引っ張ってきたかも書いていないから、わからない。得意先の人に教えられたのかもしれない。

 

当たり前と云えば当たり前のことばかりだが、なるほど、と思わないではない。けっこう意識して励行しているものもある。

総会

 今日は年に一度のマンションの総会がある。議題はいろいろあるが、大事なのは新役員の承認と挨拶、そして前年予算の承認と新予算案の承認などだ。出席は全所帯の約三分の一と云ったところか。三分の一は事前に委任状を出すので、議決は問題ない。残りの三分の一は無視である。連休中のことなのでどうしても出席率は低いが、今回は暦の関係で多いのではないか。私も委任状を出してパスしたいところだが、特に用事もないし、新しい役員の顔も知っておきたいので出かけることにする。おかしな質問、なんでこんなときにそんな質問をするのか首を傾げるような質問をする人がいると、無駄な時間を要するが、このところそういう人がいないので、時間どおりに昼前には終了していた。今日はどうだろう。三分の一と云っても二百人以上いるので、近くの小学校の講堂を借りて行う。今日はちょっと冷えるかな。

2025年4月28日 (月)

なつかしい

 外へ出たついでに買いたかった雑誌を買い、さらについでに、ずいぶん久しぶりに時刻表を買った。母は時刻表が好きで、時刻表を見ながら旅の計画を考えるのが好きだった。私もそれを眺めるのが好きで、必要がなくてもときどき時刻表を買い、空想の列車旅を旅した。時刻表は情報の宝庫で、最初のページから最後の付録のような部分まで、丁寧に見ていたらいくらでも暇が潰せる。

 

 学生時代はもちろん車を持っていないから、時刻表をお供に列車であちこちへ出かけた。ほとんど宿に泊まらず、夜は夜行列車などで車中泊し、うまくつなげていくと、思わぬ遠方まで旅することが出来た。それには時刻表が頼りである。むかしは切符もいまほどは高くないから、周遊券などをうまく利用すると、なけなしの金でもかなり走り回ることが出来た。特急や指定席の急行は使えないから時間はかかるが、時間だけはあった。

 

 むかしの大判ではなく、縮刷版を横に置いて寝転がってページを繰っている。なつかしいなあ。あと五年くらいしたら運転免許を返上して、時刻表を持って列車旅をしたいけれど、その時にそれだけの元気があるかどうか。でも六角精児みたいに、昼間からビールや酒が飲めるのはいいなあ。あこがれるなあ。

改善したのに

 糖尿病の定期検診の日なので、受付が始まる少し前に病院に行った。あまり早いと待つのがイヤだし、ギリギリだと自動受付の前に長い行列が出来ていて、却って待つ。その境目のところに到着するように行く。体重測定、血液採取、検尿と血圧測定(これは自分でする)をして、待合室で待つ。待合室は待っている人がいつもより心持ち少ないぶん、予約時間どおりに呼ばれたのであまり本が読めなかった。早いほうが嬉しいのは嬉しいけれど。

 

 二回続いて血糖値がその前より上がっていて、美人の女医さんが「うーん」などとうなったりしていたのだが、今回は前二回よりハッキリと下がっていた。にっこりして、この調子ですね、といったあと、体重をもう少し落としましょうね、と言われる。私もそうしたい。でも今日帰ったら美味しいものを食べ、晩にはおいしいお酒を久しぶりに楽しむつもりである。そこを我慢すればいいのだけれど。

 

 そのあと薬局で処方薬をもらうのだが、ここがバカに混んでいていつもより時間を食った。連休で薬局が休むから今日に集中したのかもしれない。いつもは検査結果が良ければ足取りも軽いのだが、今日はなんとなく足が重い。本当に重いからしかたがない。それでもやや涼しいのがありがたかった。今日は夕方から雨らしい。

 

 眼科の検診は医師の都合で週末に変更になった。

光合成

 昨晩、早めに寝たら、例によって夜中に目が覚めてしまった。右肩が相変わらず痛い。暗い中、ぼんやり天井を見上げながらとりとめもないことを考えていた。ウラル海が干上がって湖底だった地面に異常な動きがある、などというニュースを前の晩に見たことを思い出したりしていた。干上がったのは、ソ連時代に綿花増産のためにどんどん湖水をくみ上げたためであり、それはウズベキスタンに行ったときに目の当たりにしたことでもある。半分干上がったいくつかの塩水湖を見た。

 

 かねてから海水をくみ上げて砂漠に撒いて太陽光で蒸発させ、その水蒸気で雨を降らせることが出来ないかと思っていた。これで淡水を少しでも増やすことにつながり、砂漠の緑地化に寄与しないかと思ったのである。さらに、その気化熱で温暖化の熱を下げることが出来るかもしれない。さらにさらに、海水中の塩やさまざまな物質も回収できる。海水中には大量の資源が含まれているのである。

 

 しかし、思えば地球上の海面からもそんなわずかな量ではない水蒸気が発生して気候の変動をもたらしているはずで、人間の出来ることは蟷螂の斧でしかないのかもしれない。費用対効果がないから誰もしないのだろう。

 

 それなら光合成を人工的に出来ないかと想像した。クロレラなどの微生物や藻類の光合成を利用するという研究はされているようだが、実用化にはまだまだらしい。しかし地球温暖化をもたらす二酸化炭素と太陽光によって酸素と炭水化物を作ることが出来るのであれば、もっとそういう研究に投資しても好いのではないだろうか。

 

 そうしたら、無機物を使用し、二酸化炭素から光合成に似た作用で炭化水素を生成する研究が成功したというニュースを見た。光合成のメカニズムが人工的にできるようになれば、過剰な二酸化炭素を減らすことが出来るし、生成された炭化水素はエネルギーとして使用できる。これは太陽エネルギーを固定化することにほかならない。こういう研究に科学は全力を注いでも好いのではないか。

 

 トランプは典型的な反知性主義者のようだ。そもそも彼の基盤であるキリスト教福音派というのは聖書が正しい、だから聖書と矛盾する科学を否定する、という人たちである。だから大学へ口出しし、云うことを聞かなければ補助金を削減したりしているのである。時代錯誤と愚かな先祖返りを推進して、アメリカを衰退させようとしているのか。だから人類を救うためのさまざまな科学的研究に金を使うのに反対したりしているのだろう。そもそもトランプは、地球温暖化を信じていない。

2025年4月27日 (日)

複雑と単純

 今日からシリーズ『人体』の第三シーズンが始まる。驚異の顕微鏡写真とそれを元にした高精細なCGは、信じられないほどの複雑で奇跡的な人体の仕組みを明らかにしてくれる。第三シーズンのプロローグ番組と、第一シーズンと第二シーズンの中から抜粋したものの再放送を見たが、あらためて感動した。

 

 ここで思うのは、こういう信じられないほど複雑な仕組みが、生物の進化の中でできあがっていったことの不思議さである。生命というものが自然界の中でこれほど複雑になっていったことが、不思議でならない。科学の力でこういうことがわかればわかるほど、却って造化の神様の存在を信じたくなってしまう。

 

 翻って考えると、人間の思考はその複雑さに対応するだけ進化しているのだろうか、と首を傾げてしまう。却って正義か悪か、敵か味方か、という思考の単純化が進んですらいるようにみえてしまう。進んでいるのではない、退化しているのではないか。ものを考える、さまざまな違いを受け入れるということが出来なくなって、身体の方は複雑化しているのに、脳の方は退化してAIに頼るようになっていく。

 

 自分と他人は違う、という当たり前のことを、心の底からわかるところからしか世界は正しく把握できないことをむかし読んだ本で知り、その意味がずしりと心に響いた。知っていることとわかることは違う。そのこともそこが出発点のような気がする。複雑に耐えられない人間が増えていないか。

だんだん良くなる

 先週の月曜日に、後発白内障の治療ということでかかりつけの病院の眼科でレーザー照射手術を受けた。飛蚊症が強く現れて気になるかもしれないが、次第におさまるはず、落ち着くまで一週間ほどかかるということだったが、その言葉通りの経過をたどっている。処置前にはうっすら白く霞んでいた視界(白内障のときほどひどくはない)がレーザー照射後はくっきりした。そのクリアさがますます改善して、テレビやスマホの色がどんどん鮮やかに見えるようになっている。

 

 飛蚊症はもともと気になっていたけれど、今回それがさらにひどくなることはなく、却ってほとんど気にならないほど薄らいだようにも思える。前にも書いたが、左目の視界がクリアになった分、相対的に右目の方がクリアでないと感じるようになった。今すぐにどうこうするほど問題があるわけではないが、たぶん右目も医師が指摘したとおり、同じ症状が進行するのではないかと思われ、だからこちらもいつか処置する必要があるだろうと思う。

 

 そうして次に右目を処置したら、また再び左目も、という繰り返しになるのだろうか。その辺を次の診察のときに訊いてみよう。別に痛い手術ではないから別にかまわないけど。

 その眼科から昨夕電話があり、月曜日の診察が医師の都合で出来なくなったので、日を変更するとのことである。その日は糖尿病内科の定期検診日なので、そのあとに眼科に立ち寄って予約変更の手続きすることになった。

人を見る眼

 現役中、仕事柄から多くの人に会った。それなのに、私には人を見る眼があまりない。ずるい人、うわべだけで信用できない人が見分けられないのである。みんなが言葉通りのいい人に思えてしまう(たいていいい人ばかりであるのはさいわいである)。それでもずいぶん痛い目にも遭ったから、相手のことばの端から多少は人柄を察することができるようになってはいると思う。私は見掛けよりもことばにこだわるところがあるかもしれない。だからさまざまに見聞きすることばには、少し敏感であるつもりでいる。それに、多少は記憶力があるから、一度裏切られればそれを覚えている。世の中にはすぐ忘れる人もいて、驚かされる。

 

 政治家は何かの志を持っているものだと思いたい。その志を達成するには力が必要である。だから、まずその力を蓄えようとする。そのことで多少の波風、強引なことをすることに目くじらを立てるつもりはない。そこを針小棒大に切り込んでいくことが正義だと勘違いしている人もいるけれど、問題は志が社会での貢献につながり、役割を担うことにつながるかどうかということだと思う。

 

 非難すべきは、力を蓄えることが志を達成するためではなく、力を蓄えることそのことが目的になっている場合であろう。上昇志向、出世主義が、一概に悪いことだとは思わない。そこに目的があり、それを見失っていなければ、その目的がよこしまであったり社会に害悪でなければ、非難すべきだとは思わない。自分とは違う人種だと思うばかりである。ただ、力を持つと多くの場合、肝心の目的を見失っていく。

 

 志を見失ってしまった者、そもそも志を持たない者が力だけを求めている姿は醜い。さらに力を持っているものを、ただ力があるから非難するという正義の味方も見ていて醜い。権力は即悪である、というのは簡単だが、それが単なる妬み、そねみから発している気配を感じると、私はそのことに不快を感じる。そういうことは、その人の発することばの端に感じられるものだ。

 

 嫌いな政治家、政党は、そういう価値観から選別している。人により価値観が違うから、言いたい気持ちはあるが、いまは具体的な名前を出すのは控えておく。好き嫌いは多分に感情的なものだが、ときに理由を考えることも必要かと思う。

2025年4月26日 (土)

個性的であること

 先崎彰容が坂口安吾の世界観を評論している文章(『批評回帰宣言 安吾と漱石、そして江藤淳』)になるほどと思うところがあった。

 

 必要なのは個性的であることだ。
 (小略)
  それはくだらない日常の積み重ねなのかもしれない。しかしこのとき、僕らは暗黙のうちに、自分とは異質な価値観を持ち、世界を全く違った色合いで眺める他者の厚みを実感している。外観からうかがわれる肯定的な笑顔と、その奥深くに潜む内面、この二つが分裂している得体の知れない存在、つまり全面的に信頼など出来ない存在、それが他者である。日常生活で繰り広げられる、こうした他者との間の悲喜劇が、僕という存在を作っているのであって、このとき自己の輪郭は周囲との関係によって絶え間なく伸び縮みしている。つまり日々の他者との距離感の調整こそ、「倫理」の始まりなのであって、異質な存在を認めている点で、「倫理」と「美」とは正反対の概念なのである。

 

 ここで坂口安吾のいう「美」とは、人が画一化され群衆と化し、一つの固まりになった状態のことをいう。一人ひとりはとびきりの笑顔である。でも全員同じ顔をして笑っている。それはどう見ても異様である。笑顔があふれているだけで社会が健康とは限らない。むしろ横にいる人との違いに気がつかず、他者の手触りや厚み、反発を感じない以上、自他の区別は失われ、自己は融解してしまっている。と同時に、他者の感触を知らず自閉しているともいえる。・・・だから冒頭に戻り、必要なのは、個性的であることだ。となるわけだ。

 

 安吾は、個性を嬉々として放棄し、批判も違和感もなく、何事かを全面的に「信じて」しまう精神状態のことを「狂信的」という。安吾は戦争中のことをそう呼び、しかも、なんと戦争が終わった後にも同じものを見ているのだ。

 

 ものすごくよくわかる。現実を見ればそんなものばかりだ。同時に、優れたドラマこそ、「他者」というものを「私」と融解させないで、その「伸び縮みする距離感」を感じさせるリアリティを見せてくれるのだ。ドラマの方にリアルを感じるのはそういうことらしい。

さすが専門家

 スマホが次々にアプリが開き続けるという異常状態になってしまい、使えなくなったので、朝一で予約していた名古屋のショッピングモール内のドコモショップに相談に行った。このスマホを買った、歩いて行けるドコモショップは予約が取れなかったのである。

 

 スマホを渡したら、苦戦しながらもいろいろ試している。このアプリは必要ですか、と訊かれたアプリが三つほどあって、ループの切り替わりのほとんど瞬間的な隙間に、それらをひとつずつ素早く消していく。そうしたらおかしなループ動作が止まった。しばらく様子を見ましょう、といわれて雑談などをしていたが、異常動作は止まったままで、普通にメールを見ることができるようになった。

 

 こういうことにならないためのソフト(ノートン)が入っているのだが、ドコモのお勧めの対策ソフトに切り替えることを進められる。もうお任せである。その方が安くなるし、より安心らしい。さらにネットニュースを見ている最中に出てくる広告などをブロックしてくれるソフトも追加した。

 

 他にもいろいろ契約について見直しをしたり、知りたいと思っていたことを質問して教えてもらった。設定の問題点の修正から始まって、ポイントの貯め方使い方、アマゾンとの連携、d払いの使い方など、中途半端な知識で使いこなせていなかったことが、使えるようになりそうだ。モール内の自販機の前までわざわざ連れて行ってくれて、スマホで飲料を買う手順について手ほどきを受けたりした。

 

 おおむね一時間あまりの有意義な時間であった。もしまた困ったことがあったらいつでも連絡してください、と言われたのにたいし、心から「ありがとう」と言わせてもらった。

汚染

 昨夕からスマホが異常動作をはじめ、メールも電話も出来なくなった。うっかりおかしなアプリを入れてしまったらしい。次々にさまざまなアプリをインストールしろ、という画面が表示され、メールも電話もそれに邪魔されて、見ることも送ることも出来なくなっている。何かに汚染されてしまったらしい。明日、予約したのでドコモショップに現物を持ち込んで相談するつもりだ。不注意が原因であろうけれど、油断も隙もない。

 

 最近迷惑メールの猛攻(一日に50件から100件)が続いていたが、そちらは開いたりせずに消去しているから、そこからではないと思うが、実際のところはわからない。

 

 昨日、娘が久しぶりにやってきた。眼の手術のことを話したので様子を見に来てくれたのだ。風邪はまだ完治していないという。肩をマッサージしてもらったら、とても気持ちが良かった。右肩が痛くて困っていたが、肩甲骨と腰が原因だろうとのこと。短時間の療治ではどうにもならないが、娘のレベルで出来ることだけしてもらった。

2025年4月25日 (金)

そういう人もいるだろうが

 RecordChinaの報じたニュースのなかにこんな見出しのものがあった。

 

「日本への仏像返還に韓国で不満」
 韓国の窃盗団が対馬から盗んだ仏像、13年経ってようやく日本へ=韓国ネットは不満「返す必要ない」

 

 これを読んだら、この盗んできた仏像は日本に返す必要がないと韓国人が思っていることになる。本当だろうか。韓国には、日本に対する歴史的な怨念から、日本にある朝鮮半島由来のものは、すべて日本が不法に盗んだものなのだ、などと思い込んでいる人間は少なからずいるらしいが、そもそもそう思っている人であっても、それを盗賊が盗んで持って来たことを正しいことだと思っている人間は少数であろう。多少の知識があれば、朝鮮から購入したり、贈呈されたものもあり、すべてが強奪されたものではないというくらいのことも承知しているはずだ。

 

 つまり、仏像を日本に返還する必要がない、と不満をネットに書き込んでいる偏った意見の人間はいるだろうが、それが韓国人の一般的な考えであるとはとても思えないのだ。もしこの意見が多くの韓国人の一般的な意見であるならば、韓国という国はよほどお粗末な国だということになる。そうではないと思いたい。もしそうでないのに、あえてこういう意見を韓国人の一般的意見であるかのようにニュースとして報じることには悪意があると思う。RecordChinaは日本の会社で、中国ウォッチをして中国のニュースを流しているらしいが、どうして韓国のこんな話題を報じるのだろう。

 来月には返還が実現するらしいが、いくら何でも遅すぎる。万が一、左派政権になったらまたぞろ返還がストップされるかもしれないから、本当に帰ってくるまで予断を許さない気はする。その時は嗤うしかない。

『マザーウォーター』

 『マザーウォーター』は2010年の日本映画。監督は松本佳奈、出演は小泉今日子、小林聡美、市川実日子、加瀬亮、永山絢斗、光石研、もたいまさこなど。もたいまさこの存在感は別格。市川実日子の色っぽさに改めて気づかされた。スレンダーな、ちょっと中性的な女性に、ときにはっとするほどの色気を感じることがある。

 

 物語らしい物語も盛り上がりも特にないまま淡々と映画は進行していくが、それなのにその世界にどっぷりとはまっていく。少し前から早く見たいと思っていた映画で、ようやく見たと思ったら、じつは見覚えのあるシーンがところどころにあって、見たことがあったのである。それでも、いいなあ!と感嘆符つきの好い映画だった。こういう映画の好き嫌いは分かれるだろうが、見ている方を飽きさせないのは作品の出来もあり、出ている俳優の魅力もあり、というところであろう。

 

 この映画の雰囲気は、エンドクレジットともに流れる大貫妙子の歌の雰囲気だといったら、わかる人にはわかるだろう。

脅しとはったり

 トランプ大統領による異常な関税政策が、脅しとはったりらしいことが世界に見え始めた。当初は世界中がその真意を読みかねてうろたえたが、そもそも一貫した真意というほどのものはなくて、何か相手から譲歩を引き出せば、それを自らの成果としてアメリカ国民に誇りたいだけであるらしいとわかってしまった。しかし、世界全体とアメリカ一国とでは、さすがのアメリカも多勢に無勢である。勝ち目はない(と思いたい)。

 

 これではアメリカも中国と同じではないか、と多くの国があきれたが、歴史的に考えれば、そもそもアメリカという国はそういう国だったなあ、と思っている国も多いのではないか。そう思っていないのはアメリカ人自身と日本人くらいかもしれない。

 

 日本は中国と再びパイプをつなごうと動き出すつもりらしい。みかじめ料を払う先を増やすだけに終わると思うけれど、日本は懲りない国だ。トランプはアメリカという国の信用を失墜させ、衰退へ導き、中国をたたくどころかアンチアメリカ、反トランプを名目に中国が動きやすいように仕向けてしまった。ただ、世界はしたたかで、中国の思惑もしっかり読んで対応するからそうそう都合良く中国になびくこともない。

 最近のニュースと専門家のコメントを見聞きして、どうもそういうことであるらしいと思ったことをまとめてみた。

 

 ところで、中国の日本に対する水産物輸入禁止などは、世界がとっくに解禁しているのにおかしな仕打ちで、中国が交渉カードに使うつもりなのは子供にでもわかる。今月末に超党派の議員団が中国に行くそうだが、そこで首脳会談の下地作りで合意し、首脳会談で水産物の輸入を解禁することが決まるだろう。そのかわり・・・、なにか大きな譲歩が求められるであろう。理不尽な仕打ちを解く代わりに何かを要求する、ヤクザも呆れる手口を見せてくれるに違いない。たぶん中国がアメリカに売れないで困っている作りすぎたものの購入要求あたりだろうか。ダンピングに近いそんなものがなだれ込んだら日本の産業にダメージになる。それでも政府は輸入解禁を勝ち取り、しかも安いものを輸入できて手柄だと強弁するのだろう。

2025年4月24日 (木)

わかっていないということがわかった

 昨年の米不足騒ぎで、農水省がその理由らしきことを述べていたが、まもなくしてそれがでたらめであったことが明らかになった。あのとき、新米が出てくれば米不足は解消するといっていたはずだが、新米が出ても解消しなかった。そのあと次々に言い訳し続けているが、どれもなるほどと思うようなものがなく、米価が二倍になるという異常事態が定常状態になっている。農家の採算が合うために米の価格が上がることは望ましいとはいえ、主食の価格が突然二倍になるというのはとんでもないことだ。

 

 その対策として備蓄米を放出することになったが、価格はほとんど下がらない。そもそも備蓄米が誰に対して放出されたのか、それが曖昧である。政府の備蓄が農協の備蓄に変わっただけではないかともいわれている。膨大な量の米をため込めるのは農協ぐらいしかないらしいではないか。値段が下がらない程度にじわじわと市中に廻そうとしているのだろうか。それなら放出の意味がない。資産運用で巨額の欠損を出したのを補填しようとでもしているのか。

 

 驚くべきことは、農水省は米の生産量の実量を把握できていないらしいことだ。全国の米の生産量は何万トン、などという数字自体がかなりいいかげんで、そもそも正しい数字を把握するシステムもなく、努力もしていないらしい。だから足りないのに余っている、などという誤認をしてしまい、気がついたら足らなくなっていたというのが本当のところらしい。

 

 農政にはさまざまな問題があると云われている(減反政策や兼業農家の問題など)が、私にはその知識がないから論ずることは出来ない。とはいえ今回の結果だけ見ていれば、農水省はそもそも現状がどうなっているのかわかっていない、ということだけはわかった。わかっていないものが農政をしているのだから呆れるようなことが起きる。その結果、農家も消費者も、ともに迷惑を被っている、というのがこの米騒動の図式らしい。

蒼穹

 今朝の空はめったに見ないほどのクリアな青さで、少しひんやりするものの爽やかだ。蒼穹ということばが浮かんだ。この鮮やかでクリアな青は、後発白内障のための医療処置をしたことによるもので、取り立てて今朝に限った青さではないのかもしれないが、私には特別に感じられる。

 

 読みかけだった團伊玖磨の『パイプのけむり』シリーズの十五巻を読み終えた。手持ちは十七巻までなので、あと二巻で読み終える。実際の『パイプのけむり』は、調べたら二十七巻まであるようだ。しかしすべてを手に入れて読むのはやめておく。他に読みたいものがたくさんある。

 

 プライムニュースにしばしば呼ばれる先崎彰容(せんざきあきなか)の本をぽつりぽつりと読んで、その考え方に影響され、多少の蒙が啓かれた気がしているが、たまたまそのプライムニュースに二度ほど同席した與那覇潤という人に興味を持ったので、この人の本も試しに読もうと思って『過剰可視化社会』(PHP新書)という本を手に入れた。かなり飛ばし読みをしてしまい、主旨をどこまで読み取れたか自信がないが、なるほどと思うことがいくつかあった。それを手がかりに少し考えてみようと思う。追加で、五月に出る新作『江藤淳と加藤典洋』という本を予約手配した。加藤典洋についてはいろいろな人が高く評価していて興味があり、一冊だけ手に入れて読みかけた本がある。新しい芋づる読書の流れが出来てしまった。

2025年4月23日 (水)

トリビアルすぎて

 しばらく前からniftyの雑学クイズを解くようになった。まったく知識のない問題は当てずっぽうにこたえざるを得ない。最近の音楽やアニメ、ゲーム、スイーツなどについての問題などは、そもそも手がかりになる知識が皆目ないのである。出来なくてもそれはしかたのないことで、残念に思うことはない。知っているのに問題をよく読み込まないために間違ったときは、とても悔しい思いがする。自分に腹が立つ。知っているべきなのに識らずにこたえられない問題は残念であり、覚えておこうと思う。

 

 問題はあまりにもトリビアルすぎて、答えようがない問題である。歴史の問題などで、その史実は知っていても、それが何月のことだったかまで問われると、答えようがない。問題そのものがやさしいものと答えようのないものとの差がありすぎる。問題は答えるより作る方がむずかしいものだが、それにしてもあまり出来の良くない質問が多すぎる気がする。それに、間に挟み込まれるCMがどんどん増えてきて、しかもときどきバカに長いものがあったりする。

 

 クイズは答えられると快感だし、答えられなければ正しい知識を知って記憶しようとするという効用があるものだが、それが無意味な質問と、無駄な時間を強いられると、面白さよりも不快感の方が大きくなってしまう。今のところ私には忍耐のギリギリと云うところか。

掃除をする

 居候ではないが、四角い部屋を丸く掃除しているのでホコリがきれいに取り除けていない。その掃除も頻度が少ない。花粉症の症状は、もしかしたら花粉以外にもホコリやダニによるかもしれないと思い、暇に任せて少し丁寧に掃除をした。薄いカーペットの裏表を掃除機をかけ、指定席の両脇に積んである三十冊あまりの本を、とにかくすべて本棚の指定の場所に戻した(いちおう決めてあるのだ)。これで床が掃除しやすくなる。玄関からの廊下も含めて概ねすべての部屋にも掃除機をかけ、ホコリの見える場所は捨てるつもりのタオルを雑巾代わりにして拭いていった。

 

 普段しないことをするから腰が痛いし、身体は重い。空気清浄機を強にして、舞い上がった細かいホコリを吸い取らせている。あんまり効果はなさそうだが、全くないこともないだろう。天候のせいで花粉が少ないのか、掃除の効果なのか、掃除の後は多少良いようだ。これをもっと頻繁にしなければ行けないのだけど・・・。

左目の方が

 昨日レーザー照射手術をした左目は、今朝は特に異常がない。テレビを見ていても白内障の手術をしたあとのように、霞みもなくクリアで、色彩の鮮やかさも戻っているようだ。片眼ずつを比べたら、どうも右目の方が鮮やかさに欠けていて、左目の方がきれいに見える。もしかすると遠からず右目もレーザーを当てなければならないのかもしれない。

 

 それより、昨日から花粉症の症状が今までになくひどくなっている。目から涙が勝手に流れ落ちるし、鼻水もしたたり落ちたりして、常にタオルで拭いているが、鼻にティッシュを詰めておきたいくらいだ。やはりヒノキに反応しているのだろうか。このところ風が強い日が多い。好天の日は特にいけないようだ。

 

 タモリが脳の働きの衰えを語り、歩くことがその衰えを食い止めるのに有効だといっていたらしい。その通りだろうと思う。しかし、この花粉症のひどさでは外に出るのをためらう。くしゃみを頻発し、涙を流し、鼻水を垂らして外を歩くのは恥ずかしい。

2025年4月22日 (火)

成長物語

 ファンタジー物語が好きなのは、それが成長物語でもあるからだ。主人公がさまざまな体験を重ねることで苦難を乗り越え、成長していくのを見るのは悦びであり、つい主人公に感情移入してしまう。たくさんの苦難を乗り越えられなかった者がいる。苦難を乗り越えることは約束されたことではない。乗り越えられたのは自らの限界を突き破り、脱皮し、成長することが出来たからだ。ゲームでも、レベルアップすることで、以前は勝てなかった敵を倒すことができるようになる。同じ構造だ。

 

 そう考えると、多くの物語にもこの成長物語が隠されていることがわかる。それがあるかどうかが、もしかしたら物語の出来不出来に関係しているのかもしれない。足手まといのような子供を世話しなければならなくなった主人公が、愚痴をつぶやきながら次第に子供との関係を強固に作り上げ、子供を守る為に自分が変わっていく、などという話も、ある意味の成長物語だ。その変わる大人を見て子供も成長する。それにうるうるする。案外このパターンの映画やドラマも多い。その見せ方に失敗してしまうと不人気な朝ドラになったりするのだろう。

 

 『アストリッドとラファエル』というフランスのミステリードラマも、自閉症であるアストリッドが、自分の優れた知能を元に、彼女にとってとても困難な他者との関係を少しずつ築いていくという、これもある意味の成長物語で、そこがこの物語に血を通わせている。

 

 物語ではないから余談だが、「生え抜き」と「即戦力」ということを現役時代に考えた。新卒で採用し、教育して一人前の社員を育てる、というのが従来の日本式で、次第に即戦力のある人物を中途採用する、という方式が当たり前になっていった。特に中小企業では新卒の応募が少ないから、その傾向があるのではないか。それに社員教育をする余裕も少ない。だが、ここには成長物語が起こりにくい気がする。会社の足手まといだった新人が、次第に戦力になり、会社になってかけがえのない存在になる。そういう人が中核になると会社は強い。もちろん中途採用でも成長する逸材はいて、そういう人にあたれば願ったりである。しばしば即戦力のひとはそれなりのことの方が多いのを見てきたが、それはどうしてかはわかっているけれど云わない。他者の力を借りるとはいえ、成長するのは自分である。

後発白内障

 私のかかりつけの病院の眼科はテキパキしていて気持ちが好い。予約なしだから多少待たされたものの、さまざまな検査を受けて、初めてお世話になる女医さんの診断を伺った。白内障の手術のあとに、ときどき時間をおいてから起こる「後発白内障」といわれる症状だろうとのこと。手術が必要で、それで治ることもある(つまり治らないこともある)そうだ。良ければ今日手術しましょう、と気軽に云う。もらった説明書によれば、「YAGレーザー後嚢切開術」という手術で、短時間で終わるそうだ。

 

 覚悟を決めて手術を受けることにした。気軽に提案するくらいだから大した手術ではないだろう。レーザーで水晶体の嚢(たぶん眼内レンズを覆っている膜のことか)をX字に切り開くのだという。いろいろの薬を点眼され、瞳孔を開いて眼球内を精査し、待つこと暫し、手術が始まった。座ったまま白光と赤い光とが眼を打つ中で、ガン、ガンと音がしてレーザーが照射されているらしいが、見ることは出来ない。

 

 終わった後にもいくつかの目薬をさされて、それで手術は終わり。しばらくは飛蚊症がひどくなったような状態になるが、次第に消えるはずとのこと。一週間くらいは運転はしないように注意される。ただし、読書やデレビを見ることはかまわないそうだ。とはいえ、しばらくは目を酷使しない方が良さそうだ。体質的な要素もあり、右目も時間差で同じような症状になる可能性が高いという。参ったな。

 

 来週、糖尿病の定期検診が済んだら、検診に来るように言われる。手術後の予後を見るという。特に目薬も処方されず、開いた瞳孔のせいで太陽の光をまぶしく感じながら帰路についた。

ヨセが甘い

 ときどき囲碁ソフトでパソコンと対戦する。強いソフトと弱いソフトがあって、憂さ晴らしには弱いソフトと戦う。大勝ちしないと憂さ晴らしにならないが、相手もそれなりだから、それほど大勝ちできない。最近は打ち終わってからもう一度自分の打った手を見直す。途中から打ち直すとじつはもっと勝っていたのに、ヨセが甘くて損をしていることに気がつかされることが多い。ちょっと得をするようなものを餌にされるとそれにこだわり、結果的に大きな損をしている。罠である。敵は先にもうけを与えて、あとでがっぽりと奪う詐欺師みたいだ。勝負とはそもそもそういうもので、もちろんそれに目がくらまされるこちらが悪い。小利にこだわって全体の形勢を見失っているのだ。自分の人生も多分そう云うことの積み重ねだったかもしれない。

 

 ただ、もともと得をしたいという欲はあまりない。みっともないことは出来れば人に見せたくないと思うだけであって、そう心がけてきたつもりだが、それでも思い出すと慚愧に堪えない記憶というものはある。自分自身を見失い、矜持を失うと、人生という一局を台無しにしてしまう。終盤のヨセは大事だと思う。

 これからかかりつけの病院へ眼科の検診に行く。朝は白内障の手術などで入院している人たちの検診で忙しいのは自分の体験で承知しているから、少し時間をずらすことにする。たいしたことでなければ良いが・・・。

2025年4月21日 (月)

待ち合わせ

 来月、ある駅で待ち合わせする約束をした。その駅が中央線の駅であると思い込んでいたら、じつは飯田線であった。飯田線なら乗り換えも多いし、かかる時間はとんでもない。「乗り換え案内」で見た所要時間は、高速バスのものだったのを中央線のものだと勘違いしていたのだ。中央線ならもっと本数があるはずだし、思った以上に時間がかかるのがおかしいと思い、調べ直して気がついた。別にそれならそれでいいのだが、バスに乗る場所や切符売り場について、一度名古屋まで出かけて確認しておかないと、当日慌てることになりかねない。肝心なときに、こういう思い込みによる勘違いを起こす。それにしても早く気がついて良かった。

 

 眼の調子が悪い。疲れ目だと思っていたら左目の奥に違和感があり、朝、ときどき痛むことがある。その痛みはひとりでに消えて忘れてしまえるほどなので一時的だと思っていたが、左目が白内障のときのように少し白く霞んでいることに気がついた。ピントはいままでと変わらないから問題ない。両目で見ていると気がつかない。左だけで見るとわずかに霞んでいて、色の冴えも損なわれているようだ。来週糖尿病の定期検診があるので、その日に見てもらおうかとも思ったが、気になるので明日の朝、病院に行こうと思う。

 俳優の山口崇が亡くなったという。彼の演じた役柄で最も好きだったのが、いま久しぶりに再放送が始まった『御宿かわせみ』での畝源三郎という好漢の同心の役柄である。まだ録画だけして見ていない。彼を追悼しながら見ようと思う。

要らぬことを云う

 日曜日の昼時間、和田アキ子の出るバラエティ芸能ニュースの番組をけっこう見ていた。一週間でこれだけ見ておけば、ほぼ芸能ネタは十分で、むかし新聞をとっていたときに、載っていた週刊誌の見出しを見れば、ほぼ芸能界のゴシップについての情報は十分だったことの代わりとしていた。ある時期から、なんでこんな番組を見なければならないんだ、という気がしてきて以来、まったく見なくなった。芸能界の情報など必要ないし、興味も失せたのだ。たぶん芸能界の方が私に愛想をつかせてくれたのだろう。

 

 欠かさず拝見している式部さんのブログに、大谷翔平が女児誕生を報告した文言について、その番組で和田アキ子がコメントにしたことについてお怒りを持って書かれていた。要らぬことを云うなという主旨で、見ていないのでわからないものの、書かれているとおりならまったくその通りだと思う。知ったかぶりのコメントがときに不要で、却ってめでたいことに冷や水を浴びせてしまっていることに気がつかないというのは、やはり問題であろう。和田アキ子に悪気はなかった、というのならその通りであろうが、悪気があればもう一巻の終わりである。老醜、というご指摘は私も同感である。

 

 めでたいときには、めでたい、めでたい、とだけいうのが礼儀で、「じつは・・・」などと要らぬことを云う「金棒引き」は私のもっとも嫌いな人種であって、ところが自分自身がそうなりそうな知ったかぶりであることに常に危うさを感じている。相手の知らないことをお教えするという親切心ではなくて、ただの自己顕示欲から発するものであることくらいは自覚しているつもりなのだが・・・。酔うととくにその歯止めがなくなり、弟夫婦や友人に迷惑をかけている。恥ずかしい。

『マンハント(2017)』

 『マンハント(2017)』は2017年の中国・香港・日本合作映画。監督はジョン・ウーで、主演はハン・ユー、共演は福山雅治。日本が舞台のアクション映画で福山雅治も身体を張って熱演している。前知識なしに見ていたら、無実の殺人の罪を負わされた弁護士が逃げ回り、それを刑事が執拗に追うというストーリーと場面展開になんとなく既視感がある。何だ、これは西村寿行原作の『君よ憤怒の河を渉れ』ではないか。映画化されて主演を高倉健が演じて話題になった。原作も読んだし、映画も見た。ストーリーの細部はかなり変えられているし、主人公が中国の弁護士、というのがちょっと無理な気もする。牧場のシーンなども、むりに前作映画を踏襲しているのがとってつけたようだ。

 

 ここで描かれる日本は、ハリウッド映画の描く日本同様かなり陳腐で、目くじらを立てたらキリがないが、まあ映画で描かれる日本なんてこんなものだと諦めて見ていた。日本人の見る中国も似たようなものである。映画そのものはそれなりに緊張感を持って作られているから最後まで見た。田中圭、桜庭ななみ、池内博之、國村隼、吉沢悠、竹中直人、斎藤工なども出演している。

 

 ずいぶん久しぶりに、千葉真一に先駆けた日本のカンフーアクション俳優で、香港映画にも出ていた倉田保昭を見た。なかなか好い役どころで、そのアクションの切れと力強さはさすがである。ヴァン・ダムよりいいくらいだった。

2025年4月20日 (日)

うんざりしながらどっぷりはまる

 知能や、ましてや金がたくさんあるかどうかとは違う、私なりの基準でのバカがいて、そのバカに世界は振り回されている。バカの特徴は、自分がバカかもしれない、と考える回路を持たないことで、それ故に論理で説得することが出来ない。そもそも自分の論理を持たない。論理だと思っているものを振りかざすが、矛盾だらけのものを論理とよぶことは出来ない。そういう者が力を持ってしまうのは、それを担ぎ上げ、祀り上げる者が大勢いるからで、レミングの集団と同じような行動に走る。

 

 そういう自分がバカかどうかは、自分の基準に従ってではあるが、いちおう疑うようにしている。じつはバカかもしれないが、疑うことは出来ているからとりあえず良しとする。

 

 テレビでは、次から次にやり玉に挙がってつるし上げされる話が続いている。ほぼ犯罪でしかないという話は論外だが、かなり古い話も蒸し返されていて、その時には別に特別とんでもない話でもなかったのに、今の時代の価値観から見れば非難すべきだ、とたたかれている。もともとそういう傍若無人で、人をたたいたり暴言を浴びせたりする人間は、ジョークにしても大嫌いなので、いま非難されて退場を余儀なくされてもどうでもいいことだが、かさにかかっている人間にも同時に虫唾が走ることがある。普段から辛口なら、よく言ったと思うけれど、みんなが言い出したから云うという輩は嫌いだ。

 

 変に小理屈を言う割にミーハーである自分を自分で嗤っているが、つまらないテレビ番組を見るのは大概にしておかないと、おかしな影響を受けてしまう。他人と一緒になってシュプレヒコールを叫ぶのが何より嫌いなたちの筈なのに、つまらないことを追っかけて何をしているのかと思う。

 

 それにしてもどうしてあんなに集団で感情的になり、コブシを挙げて叫び、興奮できるのだろう。そんな自分を自分で見てなんとも思わないのだろうか。恥ずかしくないのだろうか。そういうものをうんざりしながら眺め続けて、どっぷりはまっている自分がいる。たしかに私もバカかもしれない。

海外旅行

 海外旅行に最後に行ったのは2019年のトルコ旅行で、翌年、毎年一緒に行っていたF君が亡くなったので、それ以後海外旅行はしていない。F君やYさんと毎年海外に行った。写真ファイルを見ると、このグループで行ったのは2003年の韓国旅行が最初で、だから17年間にわたっていることになる。リタイアする前はあまり長期の旅行は無理だったから、韓国(二回)、台湾(二回)、東南アジア(ベトナム二回、タイ、シンガポールなど)、中国(三回)などに行った。リタイアしてからは、インドネシア(主にバリ島)、ウズベキスタンやキューバ、トルコなどに行くことが出来た。いま写真を見直すと、そんなところまで行ったなんて夢のようだ。

 

 グループで行くようになる前にも、四十代のときから中国と台湾には独りで何度も行った。子供たちとも上海や北京、西安、敦煌などに行った。どこまで覚えていてくれているだろうか。私にはとてもいい思い出である。いま思えばもっと行けたのに、残念なことだと思う。そう思うのは、もう行く気がなくなっているからだ。金銭的なことはともかく、体力的に自信がない。それに海外に行くには精神力、つまりテンションが高くないと楽しめない。それに自信がないのだ。一度仕事で疲労困憊だったときに、無理に台湾に出かけたことがある。最初の日はヨレヨレになって楽しむどころではなかった。バスの中で「大丈夫か?」と声をかけられたほどだった。

 

 体力気力が充実していてこその海外旅行である。いまひとりで行くなら、中国にまた行きたいが、中国では何があるかわからない。もうテレビで見るしかない。

 

 『世界ふれあい街歩き』という番組が好きで、自分が実際にその街を歩いている気がするのが楽しい。以前はけっこう見ていたのに、最近は自分が歩いた街、たとえばキューバのトリニダーなどを歩いていれば見るけれど、なじみのない街は見る気がしなくなった。これも気力の衰え、好奇心の低下であろう。海外旅行は思い出の中にしかなくなった。撮った写真の一枚を、とことん隅々まで眺めたりして思い出にふけったりしている。写真を撮りまくっておいて良かったと思う。もっと撮っておけば良かったとさえ思う。

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ツツジが咲き始める

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まだ薄暗い早朝、ベランダから見下ろしたら、つい数日前はつぼみばかりだったツツジが咲き始めている。昨日の夏日の名残で室温は高いままだったが、外は爽やかだ。

昨日、めでたくぼんやりすることに成功し、いささか充電できたので、今日は読書したり映画やドラマ鑑賞を再開するつもりだ。ただ、なんとなく身体が重く、背筋も曲がり気味で、歳のせいとはいえ意気が上がらない。このまま老け込まないように、気を取り直してもっと動き回らなければならないと思う。山は新緑が美しいだろうなあ。

2025年4月19日 (土)

「終活、お任せください」

 「終活、お任せください」などというチラシがときどきポストに投げ込まれる。いわゆる遺品整理代行会社で、「お坊さんもいます」と一言添えられている。引っ越しなどの際の全国身元保証後見人にも対応するそうだ。独り暮らしのお年寄りが増えている現在、こういう仕事が成り立つのだろう。こちらが独り暮らしであることを知ってのこととは思えないから、たぶん手当たり次第にチラシを放り込んでいるのだろうが、けっこう当たりが出るのではないか。このマンションも独り暮らしのお年寄りが多いのである。

 

 私の場合は、当てにはならないが、まだ子供たちがいるから仕方なしになんとかはしてくれるであろう。その際にこういうところに頼めば、金はかかるが自分で片付ける手間はかからない。自分がいなくなったあとのことを心配しても始まらないし、今すぐこのチラシをわかるところに貼っておくというほどの必要もないが、そう遠くない時期にその用意が必要になる。

 

 人間、いつかは退場を余儀なくされる。むかしは親族、向こう三軒両隣、そして町内会が冠婚葬祭の手助けをするのが当たり前だったが、いまはそういう習慣は消滅してしまった。そういう手伝いをした機会に家族に何かあったときのしきたりを学ぶことが出来たが、いまはそういうことを学ぶ機会がない。代わりにそれを商売にする会社が登場するということか。団塊の世代がすべて後期高齢者になり、これから退場する人も増えるから商売繁盛であろう。

ぼんやりする

 一日の過半をぼんやりして過ごしているが、朝食の後、今日はなるべくなにもしないでぼんやりしようと決めた。本も読まず、映画もドラマも見ないで、何も考えずに過ごそうと思った。今このブログを書いていることはそれに反するが、寝ていることに似てまるで違うのがぼんやりするということで、ほとんど意識せずに出来るルーチンはする。それにしても今日は好い天気だ。

 

 何も考えないようにしようと考えていると、そんなことを考えてはいけないと考える。なんでぼんやりしようとするのか。一度ゼンマイのネジを緩めきってしまうと、どうしても何かがしたくなる。いまは何かをしなければ・・・という焦りだけあって、何かをしたいという気にならない状態なので、したくなるようにネジの巻き直しを待つのだ。

 

 自分ながら面倒くさいことだと思うが、そうしないとなにをやってもおもしろくない。人生はおもしろくないと生きている甲斐がない。・・・・なかなかぼんやり出来ない。どうして出来ないのだろう、しかたがない、昼寝でもするか。

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責任

 自分の言葉で相手と交渉するときに、その言葉に責任がともなわなければそもそも交渉は成り立たない。約束してもその約束が破られるのなら約束の意味がない。約束したらそれを守る、守ってくれると思われることが相手に対する信用と云うことである。そのことばが発するたびにコロコロ変わる人間と交渉は出来ない。交渉ではなくディールだという。ディールとは腕力任せの腕相撲か。腕相撲だってそれなりのルールがあって、それがくるくる変わったらそもそも勝負が成り立たない。

 

 そういえばゴールポストをコロコロ変える国があった。しばらくおとなしかったが、また心配な国になりそうだ。今のところ仲良くしよう、などといっているが、こんなもの、大統領選挙が終わったらどうなるかわかったものではない。よほどのバカでなければいままでのことを忘れるはずがない。忘れたふりをするのはそうすると懐が温かくなると思っている守銭奴くらいだ。しかしそのうまみももうあまり期待できないだろう。そういう国が信用されるはずがないからだ。信用を失えば衰退する。既に衰退しつつあるようにも見える。

 

 日本も情け無いことにそうなりつつある。信用の何たるものか、長いあいだ親も教師も誰も教えていない。何しろ責任はすべて他人にあると教えてきたのだもの。未だに「政府が悪い」と云えば何でもまかり通ると信じている連中がテレビで正義を語っている。

 

 こういう世界は見るに忍びない。まともな人が割を食う世界というのはディストピアである。末世である。この世に神も仏もいないという世界だ。たぶんあの世にもいないだろう。

2025年4月18日 (金)

まるで違う

 泌尿器系を常に洗い流すためにも、さまざまなお茶を飲む。緑茶、紅茶、白茶、ジャスミンティ、そしてプーアール茶。そのプーアール茶は少し前に安いのを買ったらあまりうまくない。もともとプーアール茶は美味しいお茶ではないが、それにしても、という味である。しかしプーアール茶は油を流すし血糖値を下げると信じていて、たしかに効果は感じたこともあるが、この安いのはどうもその効果もあまりないようだ。

 

 そういえば中国の雲南省で買ってきた、十年ものだったか十五年ものだったかの、高いプーアール茶があったはずだが、少し飲んだだけでしまいなくしていたことを思い出した。考えられる場所を探し回ったら、ようやく見つけることが出来た。まるで味が違う。安いものは土臭さが強いが、こちらはそれがなくて、ちゃんとうまみを感じる。寝かせるほどうまくなるといわれるプーアール茶だが、板状にしたものはもう発酵しないから、そういうことはないだろう。それでもこれなら薬効もありそうな気がする。今度の血液検査でどうか、試しにせっせと飲んでみようか。

「普洱茶清香獨絶也醒酒第一 消食化疾病清胃生津功力尤大也」と箱に書いてある。おぼろげにわかる。

 

 私は緑茶を軽く発酵させた白茶が好みだが、取り寄せたものももう残りが少なくなっている。このごろ神経がキリキリすることがよくあるので、気持ちを静めるためにハーブティでも飲んでみようかと思ったりもする。ネットで調べるといろいろあって、ひとつずつ試してみようかと思う。人はむかしからいろいろなものをお茶にして飲んできたのも、やはり心を静めるためだったのだろうか。

まぜご飯

 減量するために、揚げ物などの主菜を摂らないようにして、まぜご飯を食べることが多くなっている。まぜご飯はもともと好きである。炊き込みご飯はもっと好きだけれど、まぜご飯の方が簡単である。マコママ様のブログで、筍ご飯を炊き込みではなく、煮たものをあとで混ぜてまぜご飯で食べる話があったが、私もこのごろはそうしている。

 

 マイタケご飯なども、炊き込みが本来だけれど、ご飯が炊き上がったあとでまぜご飯にして食べることも多い。アラメなども、まぜご飯として食べる。神経に角が立って、そのせいで胃腸が不調なときにはおかゆを食べることもあるが、つい作りすぎる。まぜご飯なら作りすぎても冷蔵したり冷凍しておけるのでありがたい。

 

 先日、妹にもらった「柿安」の「すき焼き丼」や「牛肉丼」なども、ただかけるのではなくて、まぜご飯ふうにして薬味(さらしネギとゆずがらしなど)を少し加えて食べた。少々贅沢な味がする。一緒に入っていた「牛めしふりかけ」も、食べ方として握り飯やまぜご飯にして食べることを勧めている。まぜご飯にして食べたらうまかった。まだ残っている。このあいだの東北の旅の土産として買ってきた秋田の「比内地鶏ごはんだれ」という瓶詰めも、まぜご飯として食べている。ネギや林檎果汁、鶏肉、もろみ味噌、その他いろいろ入っていて、あまり鶏肉の味はしないが、甘めの味がそこそこいける。まぜご飯としてよく食べるのが、「鮭ほぐし」という瓶詰めで、しっとりした焼き鮭の身がとても美味しいので好みである。これは娘のお気に入りで、それを真似して食べ始めた。

 

 こういうまぜご飯に使えるものは、ちょっと小分けして酒をちびちび飲むときのお供にも使える。ただ、瓶詰めはなかなか使い切るのにたいへんで、封を切ればいたむのも早い。これからは半分以下になったら小袋に入れて冷凍しておくことにしよう。

 マンションにはたくさんの桜の木があって、毎年目を楽しませてくれる。その桜も桜吹雪とともにすっかり葉桜になった。ソメイヨシノはクローンだから結果しないが、それでも実になろうとした小さな花軸が風に吹き落とされてたくさん散っている。思えばそれも哀れなことだ。

 

 少し前までは、桜を追ってあちこち車で出かけたものだ。子供の時、近くに江戸時代に作られたらしい周囲一キロ弱の人工池があって、護岸を固めるために桜がぐるりと植えられていた。花見の時期には人出も多い。花の下で茣蓙を敷いて宴会する人たちもたくさんいるし、露店も並ぶ。子供心にもその時期はウキウキしたものだ。その楽しさが桜と結びついて桜が好きなのだろう。

 

 東京営業所時代には有志を募ってそこで宴会をした。私の家族も合わせてそこそこの人数が集まって、とても楽しい観桜会になった。酒を用意し、料理を作る母や妹は大変だっただろうが、それでも母は人が集まるのが好きなので、それなりに楽しんでいたと思う。父は普段無口だが、私の先輩たちとは楽しそうに喋っていた。私との会話よりずっと楽しそうだった。本当は私ともそういうふうに話したかったのかもしれない。

 

 桜で思い出すことは山のようにあるが、その桜を今年はそれほど見ていない。車で通りすがりに見たり、散歩で見る程度で、わざわざ見に行かなかったのは、初めてだったかもしれない。散ってから、そういえば毎年欠かさず見に行った名古屋城の桜も見ていないなあ、と思った。

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2025年4月17日 (木)

隙間に落ちる

 ズボンの左ポケットにいいかげんに入れた車のキーがポトリと座席の横の隙間に落ちて、どうやっても取れずに困ってしまった。痛い右肩も動員し、さまざまな道具を駆使して悪戦苦闘すること十五分、何とか救出に成功した。キーが車の中にあるままでは、誰でもいつでもドアを開けることができる。それはまずいのである。最悪、ディーラーに行こうかと思ったが、そこまでしないで済んで助かった。今日はそれでなくとも気温が高い、汗をかいた。

 

 早めに風呂で汗を流してゆっくりしようと思う。いまは月末の糖尿病検診に備えて自発的休酒期間に入ったところだが、慰労のため特別に濃いめのハイボール一杯を許可することにした。人間はときとして邪悪な世界にポトリと落ちてしまうことがある。車のキーなら何とか取り出せるが、悪の世界にはまり込むと抜け出すのはほとんど絶望的らしい。落ちたのが車のキーで良かった。

追うのは好きだが追われるのは嫌い

 追うのが好きで追われるのが嫌いなのは、別に私に限ったことではないだろう。自分の意志でするのは好きでも、させられるのが嫌いだということである。させるのが自分自身であってもだ。

 

 予定を立てるのが好きで、予定を立てると既に出来たような気になってしまう。段取りが狂うと気分が悪い。どんな本をどんなペースで読み進めようか考えてメモしておくが、なかなか予定どおりに行かない。ものに対する興味や集中力は予定には従ってくれないものだ。そうなると予定が自分を追いかけることになる。楽しみでしていることが、楽しみではなくてノルマ消化の仕事みたいになっていく。そうなると興ざめで、再び楽しみに引き戻すのに苦労する。

 

 堰(せ)かれてつのる恋心、などという。障害があるほど恋は燃え上がる。自由な時間があるときよりも、多忙な中の隙間時間に読む読書の方が、集中できて夢中になれたりするものだ。だから現役中よりもリタイアしたあとでは、読書量がもっと増えると思ったらあんがい同じ程度だったりしているが、そんなものなのかもしれない。

 

 暇すぎると怠惰になる。だからといって尻をたたくために予定を立てるとその予定に反発する。なかなかむずかしいものだ。

書見台

 スマホ首により、身体全体が歪んで、首は痛いし肩はこるし腕の付け根も痛くなるし、腰や股関節まで痛んできた。前屈みで本を読んだりスマホを見ているのが良くない。このごろスマホでニュースを見ることが多くなっているが、スマホはもともと目にも悪いから必要最小限しか見ないようにすることにした。せっかく買った書見台を使うことが少なかったので、なるべく使うようにした。テーブルの横に置いておいて、本を読むときはテーブルの上に置いて、そこに本を載せて読む。顔を起こし、姿勢を正して前方を向いて本を読むことになるから、多少は良いようだ。

 

 それでもこのところドラマなど、テレビを視聴する時間も増えて、目を酷使しているので眼の奥の痛みが引かない。疲れ目用の目薬が欠かせない。しばらく眼を休めて回復させる必要がありそうだ。

 

 團伊玖磨の『パイプのけむり』シリーズは第十四巻をようやく読了し、手持ちは十七巻までなので、あと三冊、さらにそれとは別に三冊ほど團伊玖磨のエッセー集があるので、あと六冊ですべて読み終える。永井荷風の『荷風随筆』という随筆全集にもとりかかりたいが、それは團伊玖磨を済ませてからにするつもりだ。永井荷風は小説の方の『荷風小説』という全集の第二巻の最後が『新帰朝者の日記』で、それをようやく読み終えて、第三巻の冒頭の短編、『すみだ川』にとりかかったところだ。『すみだ川』の次が、山崎正和が取り上げていた、課題にしている長編の『冷笑』で、腰を据えて読むつもりの作品である。

 

 先日読む予定にした作品を少しずつ読了していて、出来れば夏目漱石の『道草』、『こころ』、それに開高健や志賀直哉も読み進めたいが、焦ると読み方が雑になるので休み休みにしたいと思っている。

 

 今日は妻の入院している病院に例月の支払いと面会に行く。他に雑用で出かける必要もあって、じっくり本を読んでいられないのが残念だが、目を休めるためにはそれもいいかもしれない。

2025年4月16日 (水)

只一人の恋

 永井荷風の『歓楽』の中で「先生」が語ったことばの中から引用する。

 

 得ようとして、得た後(のち)の女ほど情無いものはない。この倦怠、絶望、嫌悪、何処から来るのであろう。花を散らす春の風は花を咲かした春の風である。果物を熟(みの)らす日の光の暖かさは、やがて果物を腐らす日の光ではないか。現実がなければ産まれない理想は決して現実と並行しない。何たる謎、矛盾であろう。昨日まで男の絶賞した女の特徴は、尽(ことごと)く変じて浅間しい短所になってしまう。初めて逢った時、彼の女(かのじょ)の如何にも打ち解けて、人に怯(お)じない物言いは、快活ならずして不謹慎となり、斜に座り、首を傾(かし)げ、肩をゆする其の態度は、男の心を魅する女らしい、柔い、美しさではなくて、猥らな厭らしいものの限りであった。休みない心の苛立ちと恋の悶えは条理のない女性の嫉妬からとしか思えなくなった。私は途方に暮れて、唯だぼんやり其の様子を打眺めるばかり、女が此後(このご)の身の振り方を問い迫っても、私はなんとも即座に回答を与えることが出来ない。すると女は直ぐ泣きはじめた。

 

 こういう恋が恋であろうか。そうでないのなら、荷風の恋は恋ではないことになる。だから、荷風が本当に女性に恋したのは、只一人、アメリカに残したロザリンのみであったと云われるのだ。しかし只一人こそ本当の恋といえないことはない。只一人の恋すらない人生もあるのだ。

大根の花

 今日は資源ゴミを出す日。爽やかな青空の好天だ。ベランダの大根の花は咲き続け、パクチーも花が次々に咲いている。

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大根の鉢、二つある。

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大根の実。

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大根の花。花びらがとれて、めしべの部分だけが残り次第に膨らんでくる。

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だんだん枯れて、殻の固いサヤになる。中の種を蒔けばカイワレになり、そのまま育てれば大根になる。

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パクチーの花。小さい。これも種が取れる。種はスパイスのコリアンダーとなる。

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下の方の、これがもともとの食べるパクチーの葉。花をつける薹の立ったものは、葉の形がまるで違う。

明日から気温が高くなるらしい。

ニュースが遠くなる

 ニュースに報じられていることが以前よりも実感が伴わなくなり、遠くに感じられるようになった。トランプ関税の話など、一時はどうなるのかと丁寧に見ていたが、これだけコロコロと云うことが変わると、真剣に後を追うのがバカらしくなった。開幕された大阪万博も、開幕前はあれほど無視に近い扱いに見えたのに、開幕したとたんの大騒ぎにうんざりしている。名古屋からだから日帰りも可能だろうから、行けば行けないことはないが、気持ちが盛り上がらない。

 

 もともと傍観者として世の中を眺めているから、出来事はみな他人事(ひとごと)ではあるが、それがますます遠くなっている気がする。短いスパンでものを考えられない。進行中に一喜一憂してもなにがどうなるかわかったものではない。一ヶ月後、三ヶ月後、さらにその先になって振り返れば結果は明らかだろう、などと眺めているうちに、あれよあれよと事態は悪い方へと転がり落ちていくようだ。もちろん私など結果だけを身に受けるだけで、なにに対しても関与することがないから、どうであるべきかなどと考えてもしかたがない。ただ、どうしてそうなったのかということを、おぼろげにでもいいから把握しておきたいという気持ちは持っている。

 

 世の中が遠くなるとともに現実が希薄になり、時間がどんどん早く進んでいくようだ。迷惑メールがますます増えてきた。デジタル世界の非現実性が現実を侵食しつつある気がする。

2025年4月15日 (火)

『歓楽』

 永井荷風の短編小説『歓楽』を読んだ。「先生」とよぶ人物に、恋愛について問うた「私」が聞かされた、先生の語る恋愛についての考え方、恋愛遍歴(それは性的遍歴そのものでもあるのだが)が記されている。明治四十二年の作品で、荷風がフランスから帰って一年ほどの頃に書かれたものだろう。雑誌に発表してすぐにその雑誌は発禁となるが、この小説が発禁の理由ではなかった。ただ、その後風紀を紊乱する恐れがあるとして、この小説そのものも多くの伏せ字を強いられることになったという。

 

 当時は狭斜(きょうしゃ)の世界を描く小説が流行(はやり)であった。狭斜とは花柳界のことである。この小説もその気配を漂わせながら、自然主義的(荷風はフランス仕込みだから本物だ)でかつ私小説的なものになっている。いままでに海外を意識して日本を見ている作品が続いたが、ここでは海外との対比は語られない。十代の片思いの時代、二十代のはじめの花柳界の女性との命がけの恋愛、そこから海外(中国)に逃げ出し、ほとぼりが冷めてから帰国して出会った金持ちの妾との恋愛、そしてついには夫婦同然の暮らし、その後の顛末が語られて、「先生」の恋愛観が示される。これを読んで、女性の肌のぬくもり、匂い、触感、衣擦れの音など、荷風のその描写力はさすがである。この小説は意図的であろうが、センテンスが長い。花柳小説や、硯友社的な美文調とはいえないが、意識しているように思う。

 

 荷風は「先生」よりは若かったはずで、まだそのような暮らしをしていなかったはずだが、そのあとここで書かれたような「先生」の跡をたどっていった。自らの恋愛観、女性観を既に見切っていたのだろうか。

 

 このあと『新帰朝者日記』を読む予定。帰朝者としての自分についての締めくくりの小説であろう。これで全集の第二巻までを読了することになる。

『シビル・ウォー アメリカ最後の日』

 『シビル・ウォー アメリカ最後の日』は2024年のアメリカ映画。アメリカの分断が進んでついに内戦に発展する。アメリカ大統領の暴走が内戦を生むのだが、特に映画では大統領のプロパガンダ演説が繰り返し描かれるだけで、それを示すところはないものの、もちろんこれがトランプのことを下敷きにしているのはまちがいないだろう。

 

 戦局が劣勢下にあるその大統領にインタビューをするために、記者たちがワシントンD.C.のホワイトハウスをめざす。映画は内戦下のアメリカの悲惨な状況を全体的ではなく、まさに目の前に見えた事実のみを描いていく。そのリアルさは、戦争映画を見慣れた私にも衝撃的である。カンボジアの内戦下の大虐殺を描いた『キリング・フィールド』以来の衝撃であった。

 

 新人カメラマン、そしてベテランカメラマンの、ふたりの女性カメラマンを主軸に据えながら、彼女たちが撮った写真をストップモーションに使い、現実と映像との違い、そしてうったえるものの伝わり方の違いが示される。報道とは何か、それはリアルを越えられるのか。

 

 はじめはうろたえ、自分勝手なために足手まといだった新人が、次第に試練を乗り越えて成長していく。それを見ているベテランは自分の若き日の日々を回想するのだが、そのベテランの方が、自分の過去の体験を越える過酷な現実に打ちのめされ、すくみ始め、新人はますます生き生きしていく。そうしてついに反乱軍側とともにホワイトハウスに突入した彼らは大統領に出会うことになる。そこでなにが起こったのか。

 

 人間の理性がいかに簡単に失われるのか、そもそも理性の下にはそれをはるかに凌駕する量の暴力衝動が潜んでいる。これは人類の本質でもあり、もともとそういう傾向がどこの国より強いのがアメリカという国の本質なのではないか、などと考えてしまった。これがフィクションで終わるという保証はない。

老化の目安

 老化の目安と云っても、自分が老化しているのはたしかな事実ので、その目安というのは、これがおろそかになったら自分としてはまずいと思う境目になる目安ということである。

 

 料理というほどのものを作っているわけではないが、今のところ、ほぼ自炊を続けている。時には料理の本を見て、ちょっと料理らしい料理も作る。食べることが好きなので、料理は嫌いではない。食べることが好きなのはいちおう健康であると云うことであろう。ただ好きすぎて、つい食べ過ぎたり高カロリーのものを食べたりするのが却って自分の健康を損なうのが哀しいところだ。その料理を作るのがおっくうになり、出来合いのものばかりを食べるようになり、しかも食べたものの片付けがおろそかになるようになったら、それが老化の目安ということになる。

 

 ベッドではなく、布団で寝ているが、その布団をたたむように心がけている。ときどきおっくうでたたまないときがある。これが万年床になったら、老化の目安に抵触する。

 

 出かけるのが好きである。運転するのも好きである。人に会うのも嫌いではない。もともとの性格は独り静かに本を読んでじっとしているのが好きなのだが、意識して出かけるように心がけているうちに外界への興味が勝るようになった。それがときどきテンションが落ちると出かけたくなくなる。そして、そういうときこそ何も考えずにどこかへ出かけるようにしている。出かけるときはテンションが高いのではなく、低いときなのである。そして動き出せば、いまのところさいわいエンジンがかかる。それがどうしても尻が重いまま動かなくなったら、老化の目安を超えたということだろう。

 

 こまごましたことは他にもあるが、あとはブログを書けなくなったときが老化が限度を超えたときだと考えている。老化防止に駄文を連ねているが、それでも私なりに日頃ものを考えていて、その浮かんでは消える考えを書き留めることで、その考えの一部を形にしたものが私のブログである。そのブログが書けなくなったら、それは私がものを考えなくなったということである。頭が作動しないのだから、これこそ老化の極地で、由々しきことである。ブログを書くのはそれなりに時間もエネルギーも消費するが、私にとって大事なことなのである。

2025年4月14日 (月)

『ゴールドサンセット』

 WOWOWのドラマ『ゴールドサンセット』全六話を見た。これで少し前に録りためて見残していたドラマはすべて見終わった。後はリアルタイムで進行中のものばかりである。すっきりした。このドラマは白尾悠の同名の小説を原作としていて、配役も良いから、なかなか見応えのあるドラマとなっていた。内野聖陽、小林聡美、風吹ジュン、和久井映見、坂井真紀、津嘉山正種、三浦透子、安藤珠恵をはじめ、たくさんの演技派が演じている。

 

 冒頭は高校一年生の少女が、いじめを受けていた友人が自殺したことで、それを教師に告げたために自分が今度はいじめの対象にされ、登校できずに自宅に籠もっている。両親が離婚して、母がパートで働いて不在であることが多く、自宅も替わったために、転校生である。だから友人は自殺したその子だけだった。というよりも友達と思っていた子たちこそがいじめの背後にいたのだ。

 

 そんなときに、安アパートの隣の部屋から聞こえてくる、男の異様な大声に聞き耳を立てたことから、その男に興味を持ち、関わっていくところから始まる。この少女役の毎田暖乃がとてもいい。調べたら朝ドラの『おちょやん』の子役だったらしい。そしてこの男(内野聖陽)が劇団の俳優で、リヤ王役を演じることになっていることを知る。その劇団を主宰する演出家を小林聡美が演じている。その劇団は五十五歳以上の人限定の劇団で、アマチュアではあるがそれなりに厳しいオーディションを受けて選ばれている。

 

 物語はここから演劇の稽古の様子、その進展、それぞれに関わる人々のサイドストーリーへ展開していく。それぞれの人にそれぞれの人生があり、その体験が吐き出されることで演技が研かれていく、という演出家の考えなので、それがむき出しになるときには自然にドラマとなっていくのだ。そして少女の隣室の男・阿久津こそ最も大きな葛藤を抱えている人物だった。

 

 最後の第六話で、その阿久津の秘密が明らかにされていくドラマと、開幕された演劇の様子が交互に描き出され、感動のクライマックスへ至る。好いドラマであった。

 

 好きな俳優ばかり出ていたが、個人的には、むかしから小林聡美、坂井真紀が特に好きである。

最近もらって重宝しているもの

 最近もらったもので重宝しているものが、姪にもらった「しじみ汁」と、娘にもらった「ゆずがらし」である。「しじみ汁」は濃縮タイプで、そのままおすましに使えるし、味噌汁やうどんの隠し味に加えてもうまみが増してたいへん美味しくなる。今朝の味噌汁で使い切ったので、ネット注文をした。明日配送される予定だ。ついでに娘にもあげようと思って、娘の分も手配してある。先週娘に電話したときには、風邪をひき、それをこじらせてしまったと云っていたが、直ったら来てくれることになっている。

 

 もう一つ気に入っているのが、娘が四国で買ってきた「ゆずがらし」だ。室戸産で、小さな瓶のラベルには「土佐のゆずがらし」とある。味噌汁の具によるが、加えると柚の香りがいいし、けっこう辛い。うどんや蕎麦にも良く合う。餃子のタレにラー油の代わりとして入れてみたらこれはこれでいけた。こちらはまだ少し残っているが、なくなったら注文するつもりだ。薬味はどれも大好きで、出来合いのものでも自分のお粗末な料理でも、それなりに美味しくなるのがありがたい。

できれば

 山崎正和の評論『不機嫌の時代』の第二章に挙げられた作品の数々は以下の通り。読んだことのあるものはできれば読み直しして、できればすべて読みたいところだが、他に手が回らなくなるので、限度がある。先へ進めなくなってしまう。

 

森鷗外『渋江抽斎』    読みかけ
森鷗外『半日』      読了
夏目漱石『道草』     読み始めた
夏目漱石『吾輩は猫である』 再読予定
夏目漱石『こころ』     再読予定
永井荷風『冷笑』 これから読む予定
里見惇『君と私と』     未読だが読む予定なし
島村抱月『序に変へて人生観上の自然主義を論ず』 読む予定なし
志賀直哉『或る朝』     再読済み
志賀直哉『網走まで』    再読済み
志賀直哉『大津順吉』   再読済み
志賀直哉『剃刀』     再読済み
志賀直哉『范の犯罪』 再読済み
志賀直哉『クローディアスの日記』 再読済み

 

 志賀直哉の作品は短編ばかりだし、古本屋で超格安で手に入れた全集を揃えているので、ほとんどの作品は既に一度は読んでいる。好きな作家なので再読するのは苦にならないし、読むほどに深く読めるようになって楽しい。

 

いまはこの山崎正和の評論をベースに本を読みながら、それと並行して永井荷風の全集を時代順に読み進めている。随筆の全集も、これも古本屋で格安に入手できたので、こちらにも手を付けようと思っている。これから山崎正和の別の評論では開高健が論じられているので、そちらも手をつけていて、いささか手が広がりすぎてオーバーヒート気味である。オーバーヒートするとそのせいで一気にテンションが低下する恐れがある。そうなったら連休明けにでもまた旅に出るつもりだ。

2025年4月13日 (日)

『半日』

 山崎正和の文芸評論『不機嫌の時代』を少しずつ読み進めている。何しろそこに挙げられたたくさんの小説をできるだけ併読しようとしているから、ブルドーザーで本を読むような読み方になる。いま第二章をようやく読み終えたところだが、第二章の前半『「私」と「公」の乖離』では、森鷗外の『渋江抽斎』を比較の基準に置き、夏目漱石の『道草』と森鷗外の『半日』が論じられているのだからたいへんだ。『渋江抽斎』は以前読み始めて三分の一ほどで挫折したままである。引っぱりだして脇に置いているが、イメージは少しながら捉えているのでいちおう読んだことにして、鷗外の『半日』という短編を読んだ。さらに漱石の『道草』に取りかかっているが、こちらは長編小説である。こちらはほぼ漱石についての実話に近いものと言われていて、このあと取りかかったその発展形の長編、『明暗』につながるものとされている。ただし、『明暗』は執筆途中で漱石が亡くなったために未完であり、『道草』は漱石の最後の長編小説ともいえる。こちらは読了したらまたここで報告する。

 

 『半日』という短編小説は初めて読んだが、ここでの夫婦のやりとりはきわめて現代的である。戦前の家庭の妻というのは、封建的な社会で不遇に生きたかのように云われているが、じつはそんなことはないのだ、ということを教えてくれる。現代と同じか、それ以上に自由気まま、自己中心的に生きていたこと、それに夫が振り回され、論理で言い負かしてもそれが何の意味もなかったことが、意外にも森鷗外によって小説にされているのである。

 

 「私」と「公」との乖離、という視点から見れば、『渋江抽斎』で描かれるきちんとした家を構えている家の主婦は、「公」に開かれていた。しかし明治の後半になると、閉じた家庭の中で主婦は「公」との関わりを見失っている。そして主(あるじ)である男性は自分が生まれ育ったときの価値観を元に生きて、社会と関わっているから、妻とのやりとりがちぐはぐなものになり、論理的でありながら、ついにその論理が通用しない苛立ちに不機嫌になり、感情を爆発させるか、黙ってそれに耐えるしかなかった。その極端な様子が描かれているのがこの森鷗外の『半日』という小説である。短いものだし、わかりにくいところは飛ばして読んでもかまわない。とてもおもしろいから、是非探して読んでみることをお勧めする。ネットで全文が公開されていたようなのでそれで読めるかもしれない。

 

 蛇足だが、現代の女性は再び「公」に開かれた生き方を迫られている、と捉えることもできる。そしてそれを受け入れられないまま生きる女性のいかに多いことか、という思いもある。フェミニズムがときにとても時代錯誤であるのは、そのような背景に対する理解がないからなのだろう。

 

 山崎正和がこの『不機嫌の時代』の第二章で、そこだけで、挙げた作品については次回に列記する。

出発点に戻る

 この二ヶ月あまり、不摂生によって数キロ体重がリバウンドしてしまった。旅から帰り、多少節制を続けていたら、ようやく元に戻った。下がったのではなく、出発点に戻ったのだ。冬は出かけることも少なく、こたつの主(ぬし)になって読書や映画、ドラマの鑑賞をして、しかも口寂しいからお茶を飲みながら常に何かを口にしていた。私は豆類が好きだから、安い大袋のナッツ類をこれだけにしておこう、と思いながらつんまりさんまり食べ続け、気がつくと腹が膨れているという状態を続けていたのだから、当然たちまち太ってしまったのだ。

 

 陽気がいいので、少しずつ散歩に出るようにもなった。足が衰えているのを実感しているので、無理のない範囲で小刻みに歩くようにしている。一日に合計で五千歩程度がいまの私には適度なようだ。それをもう少し増やせるようにしたいと思っている。なんだかこのごろ背筋が伸びていない。こうして腰の曲がったおじいさんになっていくのだろうか。杖でもつこうか。

 

 大根の花が咲き続け、実が少しずつできはじめた。あと一月ほどでこの大根たち(三本ある)も寿命であろう。実を取ってサヤから種を取り出すのが楽しみだ。パクチーはどんどん薹(とう)がたち、小さな小さな花がポツポツと咲いている。こちらもいまに種が取れるだろう。細ネギの根を植えたら十本ほどがどんどん伸び出した。蕎麦やうどんの薬味にするには十分である。今年は朝顔を蒔こうかどうか迷っている。また五月以降にはフラフラと遠出するだろうから、晴れの日が続くとかわいそうなことになる。

 

 世の中はジェットコースターのように乱高下しているようだ。私の周りはなにも変わらない。世間の風波がなかなか届かない。ありがたいような申し訳ないような気持ちである。マンションの自治会の役は、誰かが引き受けてくれたようで、こちらにお鉢は回ってこなかった。来年もまたもめるだろう。

ドラマ三昧で忙しい

 今朝は雨。それも風をともなう雨で、薹の立ったベランダの大根やパクチーが風にあおられて大きく揺らいでいて、せっかくの花が吹き散らされている。今年は強めの風が吹く日が多いような気がする。

 現在、ドラマに婬しつつある。NHKでもWOWOWでも、おもしろそうなものがたくさんあって、こういうものは見ない、と決めていても録画するものが増えてしまい、見るよりためる方が多い状態だ。こういうものは見ない、の基準は、単純な恋愛もの、タイムシフトもの、入れ替わりもの、コメディ、やたらに長いもの、嫌いなタレントが出るもの、そして韓国ドラマ。もちろん例外はあって、基準を超えるおもしろそうなものは見る。

 

 NHKでは、『しあわせは食べて寝て待て』は第二話まで見たが、たいへんおもしろい。評判にもなっているようだ。これからも楽しみである。『アストリッドとラファエル』の第五シーズンも始まった。期待通りの出だしである。次が待ちきれない。今年の大河は見ていないが、そこで評価が高いらしい小芝風花が主演の『あきない正傳』の第二シーズンが始まった。このドラマの第一シーズンはとてもおもしろかったので期待していたが、期待通りである。小芝風花の和服姿は美しい。『地震の後で』というドラマが始まっているが、録画だけしてまだ見ていない。たぶんおもしろいと思う。『私ってサバサバしてるので』という15分の連続ドラマは、第一話だけ見たが、私の好みと少し違うので、録画予約を取り消した。おもしろいと思う人も多いと思うが、無理してみる必要もない。『御宿かわせみ』も再放送が始まった。これはある程度回数をまとめてじっくり見直したいと思っている。このドラマの山口崇がもう一度見られるのが嬉しい。もちろんおるい役の真野響子も見たい。平岩弓枝の原作はすべて揃えている。大好きな物語だし、このドラマの配役が私の登場人物のイメージである。

 

 WOWOWでは、『ジャッカルの日』が佳境に入ってきた。エディ・レッドメインは名優だと思う。おもしろい。暗殺者ならもっとスマートで完璧であって欲しいと思うけれど、危機があってこそのドラマだから、これでいいのだ。『アーサー教授の事件簿』という、心理学で謎を解くミステリードラマも始まった。表面に見えていることで隠されている真実を暴くという、ミステリーの王道を行く探偵もので、ちょっとテンポが速過ぎる展開が、雑な展開にならなければ良いのだがとりあえず見続けることにする。『災』という、香川照之が主人公のサスペンススリラーらしきドラマが始まった。まだ見ていない。内野聖陽が主演の『ゴールドサンセット』という全六話のドラマを録画してあるが、これは一気見したいので、その時間がとれたら見るつもりだ。来週、『凍てつく楽園』という北欧サスペンスの第二十話から二十二話が放映される。北欧のリゾート地の島で起きる事件はおもしろいので、最初から見続けている。今回も楽しみだ。アメリカのものより私にはヨーロッパ製のミステリードラマの方が当たりが多い。

2025年4月12日 (土)

『エンド・オブ・パリ』

 録画してあったWOWOWの『エンド・オブ・パリ』という全八話のドラマを昨晩から見始めて、今日すべて見終わった。パリが舞台のエスピオナージドラマだが、主人公の大統領護衛官、そしてイギリスMI6の女性エージェントがコンビを組んで、恐ろしく強力なテロリストと対峙する。敵はアフガニスタンでの元フランスの外人部隊に所属していた部隊長で、フランス政府の裏切りにより兵士のほとんどは戦死、自らはタリバンの捕虜となって拷問の長い日々を生き抜いた男である。そして奇跡的な生還を果たすが、フランス政府は彼に秘密を暴露されたくないために抹殺しようとするが、犠牲になったのは彼の妻と子供たちだった。

 

 主人公たちになんとなく感情移入しにくいところがある(とくに女性エージェントのクールさと私生活との矛盾が理解しにくい)のだが、最初のパリの英国大使館をテロリストが襲撃するシーンから、物語のスケールの大きさとテンポの良さに引き込まれて、たいへんおもしろく見終えることができた。もちろん最後には敵のテロリストを倒すのだが、そのテロリストを脇で補助する女性は逃げ、その背後に存在する者もときどき登場していたので、たぶん続編が作られるのではないだろうか。放送されたら必ず見るつもりだ。

 WOWOWの宣伝をするつもりはないが、海外のおもしろいドラマが見られるので、ありがたい。たぶん海外では番組中にCMが挟まれているのだろうが、WOWOWは番組中にはなにも挟まれないから、それもありがたい。だから有料放送の方が無料よりも貴重な時間を浪費しないので安くつくのだ。ただほど高いものはない、というのを民放を見るたびに思う。

いろいろあって、あることを知らなかったものだらけ

 すぐ近くのスーパーの二階に百均の店ができたことは娘に教えられて知っているが、めったに立ち寄ることがない。たまたまカーテンを吊り下げるフックが二つ三つと劣化して割れてしまったので、あるかもしれないと久しぶりに探してみた。かなり広い店内を物色していると、こんなものがあるのだ、と思うものが山のようにあって、今度ゆっくり丁寧に見て歩こうと思った。目当てのものはなかなか見つからず、もしやと思ってレジの横の棚を丁寧に見たら発見した。もちろんちょっとおもしろそうなものもあったので、それらも購入。わずかな出費でいろいろ試してみることができるのはおもしろい。ただ、同時に、作っている人はこの値段で納品するのは大変だろうなあ、と元メーカーに勤めていた人間としては、ついそんなふうに考えてしまう。

『監獄署の裏』

 永井荷風の短編『監獄署の裏』は今年初めに読んでいるが、『あめりか物語』、『ふらんす物語』 、『狐』、『曇天』、『深川の唄』に続く作品として、一連の作品の流れに沿って、帰国者・永井荷風の視点に立ち、もう一度読み直してみた。

 

 永井荷風は当然ながら帰国して父の家に住む。操觚者(そうこしゃ・詩や文章を作る人)として生きるつもりだが、生活のために新聞記者や雑誌記者となることを父は体面上許さないし、荷風自体もそれで身を立てたいとも思っていない。大きな庭のある家の離れに独りで暮らし始めている。その庭の様子、そこで起きた出来事を子供の時の視点で描いたのが『狐』であり、それは一家の長男としてつまり次の家長としての役割と、父との相克が、上から重くのしかかっていることを描いたものでもある。『曇天』も『深川の唄』も、そこを基点としての過去の自分の記憶する東京と大きく変貌した東京とを、ニューヨークやパリとの比較も交えながら受け止めた文章である。

 

 そして改めて我が家、一族、そして自分の立ち位置、立場というものを違和感とともに過ごしている様子がこの『監獄署の裏』で描かれていく。最終的には、この後の『新帰朝者の日記』にまとめ上げられていくのだろうと思う。その後、まだそこまで読み切れていないが、『断腸亭日乗』などを囓り読みしたところでは、永井荷風は長い沈潜の時期を迎えるようである。

 

 この『監獄署の裏』の中で、外遊前と帰国後の母の変わりように驚いている様子が描かれている。若く美しかった母が、六七年の間ににわかに容色が衰え、老化したように見えたのである。母は若く美しくあって欲しい、という強い思いは、実は母を表に出しながらの、江戸的な美の衰弱、喪失を嘆いているのだと思う。

2025年4月11日 (金)

『ダークネスマン』

 スギ花粉よりもヒノキ花粉に反応するようで、外気に顔をさらすと涙、鼻水、そしてくしゃみが出る。タイヤ屋に行ったときに涙目だったので、なじみのお姉さんに、疲れているの?涙目だねえ、などと言われた。私ももうすぐ後期高齢者になる。あと何年車を運転するのか、そして冬用タイヤをいつまで頼むのか考えなければならない。あと一年はいまの冬用タイヤで支障なく使えるという。まだ元気に遠出できているのだから、来年には新しい冬タイヤに履き替えたらどうかといわれてその気になりつつある。ノーマルは新しくするつもりでいる。いまの予定では、79歳か80歳で車を手放し、免許も返納するつもりだが、それは自分の調子で延びもするし早まりもするだろう。

 

 じっくり見たい映画がたまっているが、それを見るには集中するためのエネルギーがいる。今日は金沢から帰宅して、ぼんやりするかわりに肩のこらない映画が好いだろうと思って、ジャン=クロード・ヴァン・ダムの主演する『ダークネスマン』という映画を見た。アメリカ映画だが、コリアンタウンが舞台というちょっと異色の映画で、まあ云えばカルトのアクション映画だ。ヴァン・ダムも、ひところのアクションの切れがないのは致し方ない。展開はいささかテンポがのろいし、主人公の賢さもいまいちだ。ヴァン・ダムに免じて我慢して、いちおう最後まで見ることができた。

 

 ヴァン・ダムはベルギー生まれの格闘家兼アクション俳優で、『ユニバーサル・ソルジャー』というSF仕立ての映画が特に印象に残っている。この映画は続編も作られていて、両方とも見た。とにかく出演作品の多い俳優で、私も何本見たか数え切れない。近年は悪役も演じたりして、なりふり構わずどんな映画にも出ているように見える。映画が好きなのだろう。そういうところが嫌いではない。

カメラもパソコンも持たず

 昨日はタイヤ交換をするため、金沢に行っていた。遅めになったのは、北東北の旅を終えて冬タイヤがようやく必要なくなったからだ。日帰りもできなくはないが、せっかく金沢まで来たのだからと、久しぶりに駅の近くの安いビジネスホテルに泊まり、駅の近くの居酒屋で一杯飲んだ。単身赴任中になじみの店がたくさんできたが、リタイアしてもう15年、年に二度くらいは金沢で飲むが、さすがになじみの店とは縁は切れている。特にコロナ禍の影響が大きい。なくなった店も多い。

 

 金沢に単身赴任したのを機会に、金沢の貸しタイヤ屋を地元の人に教えてもらって、それ以来そのままタイヤを預けておいて交換を依頼している。気がつけばもう二十年以上の付き合いだ。いまは貸しタイヤではなく、購入したタイヤを預ける方式に変わっている。金沢に置いたままなのは、それを理由に金沢で飲むのが楽しみなのである。そこからまたどこかへ行くことも多いが、今回は東北から帰って間もないので、一泊だけで帰ってきた。

 

 一泊だけだし、雨模様の天気だったので、カメラも持たずパソコンも持参せず、下着と本だけ持っていったので、ブログの更新はできないし、写真も撮れなかった。行き帰りに散りかけや咲き始めなど、さまざまな状態の桜の眺めを楽しんだ。今回は行きは北陸道を走ったが、帰りは地道で帰った。単身赴任時代は、高校生の娘が独り暮らしだったので、ほぼ毎週末、金沢と名古屋を往復した。会社からは月に一度しか帰省用の手当が出なかったので、その出費は応えたが、娘が心配だからしかたがない。

 

 途中の白川郷から御母衣湖を通って荘川への道は、途中にあるダム建設用のトンネルをそのまま生かした道なので、狭い。トラックはすれ違うことができないトンネルが九カ所ほどある。普通乗用車でもトラックとすれ違うときはサイドミラーが壁面すれすれになるくらいである。さいわいいまは東海北陸道が全通して、トラックの数は当時よりずっと少ないから、ハラハラするようなことはなかった。それにしても冬の夜、雪の中、凍結したこの道路をよく走ったものだと思いながら走った。御母衣湖は雪解け水を集めて、いつになく水が多かった。

 

 そこから荘川、そしてひるがの高原の分水嶺を越えて、長良川沿いに南下する。北濃から長滝白山神社あたりは雪がまだたくさん残っていた。

2025年4月10日 (木)

『深川の唄』

 永井荷風の『深川の唄』という短編小説を読んだ。アメリカ、フランスに滞在して、帰国後まもない頃に書かれたものだ。日本に住んでいるものには当たり前のものが、荷風には常にアメリカやフランスとの比較で目に映る。この小説では、四谷見附から市電に乗ってそこで目にした風景が移動とともに描かれ、同時に車内に乗り込み、そして降りていく人々の様子、些細な出来事が、詳細に語られていく。ニューヨークの高架鉄道、パリの乗合馬車などの、動くものに乗って街を眺めるということが、自分には快感であり、習慣になったのだと、冒頭で語られる。

 

「然し日本の空気の是非なさは、遠近を区別すべき些少の濃淡をもつけないので、掘割の眺望(ながめ)はさながら旧式の芝居の平たい書割としか思われない。」
「数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた處(ところ)であった。」
と、ことさらに日本、ということばが強調され、同時に

 

「電車はまだ布設されていなかったが既にその頃から、東京市街の美観は散々に破壊されていた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわづかに淋しく哀しい裏町の眺望(ながめ)の中(うち)に、衰残と零落との言い尽くし得ぬ純粋一致調和の美を味あわして呉れたのである。」

 

と、江戸の風情の残った東京は失われ、わずかに深川にその名残の残渣を感じているのである。

 

「それらの景色をば云い知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を託したその頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。硯友社の芸術を立派なもの、新しいものだと思っていた。近松や西鶴が残した文章で、如何なる感情の激動をも言い尽くし得るものと安心していた。音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重、そんなことは少しも自分の神経を刺激しなかった。そんな事は芸術の範囲に入るものとは少しも予想しなかった。日本は永久自分の住む處、日本語は永久自分の感情を自分の感情を自由に云い現して呉れるものだと信じて疑わなかった。」

 

日本は変わった、そしてそれを見る自分自身も変わった、日本が自分の居場所でありながら居場所ではないという疎外感を、どう自分と折り合いをつけるのか。

 

 深川を歩きながら、荷風は「塵埃(ほこり)で灰色になった頭髪(かみのけ)をぼうぼうに生やした」盲人が、三味線で歌澤節を歌い出すのを聴く。その見事な唄に江戸の残滓をしみじみと懐かしく感じるとともに、

 

「自分はふと後ろを振り向いた。梅林の奥、公園外の低い人家の屋根を越して西の大空一帯に濃い紺色の夕雲がものすごい壁のように棚引き、沈む夕日は生き血の滴るごとくその間に燃えている。真っ赤な色は驚くほど濃いが、光は弱く濁り衰えている。自分は突然一種悲壮な感に打たれた。」

 

 「自分はいつまでも、いつまでも、暮れゆくこの深川の夕日をあび、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌澤の端唄を聴いていたいとおもった。」
「ああ、然し、自分はついに帰らねばなるまい。それが自分の運命だ。河を隔て掘り割りを越え坂を上がって遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグネルの画像の下にニイチェの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待っている・・・。」 

 彼の「ついに帰らねばならない運命」が帰国のことでもあったのはいうまでもない。そしてその日本は既にむかしの日本ではない。

2025年4月 9日 (水)

簡単なことのはずなのに

 弟などから登録を勧められていたけれど、ずっとしないできたLINEというものを、今日初めて登録してみた。とにかくスマホでの文字入力が苦手である。キーボード以外での文字入力はしたくない。しかしあるところとのやりとりには今後LINEしかできないと通知され、しかたがなく登録を試みた。誰でもできる簡単なことのはずなのに、つまらない勘違いを二つ三つしたために余計な手間をくってしまい、二時間あまり悪戦苦闘した。ついでにスマホだけではなく、パソコンからも連携できるようにした。これならパソコンからキーボードで入力できるだろう。

 

 くたびれた。同時に自分の不手際さに苛立ち、自己嫌悪を感じてしまった。

足がつって

 夜中の二時前に足がつって、その痛みで目が覚めた。足がつるのは脳の勘違いによる筋肉のけいれんであると何かで聞いたが、本当にそうであるかどうかはわからない。その勘違いしている脳の持ち主は私だから、私の脳に勘違いだからやめるように命令するのだが、それで何とかやり過ごせることもあり、ますます狂ったようにひどくなるときとがあり、昨晩はそのひどくなる方で、しかたがないから起きて漢方薬を飲もうとしたが、足に踏ん張りがきかない、立ち上がるときの正しい筋肉の使い方を見失っているのだ。

 

 それでも何とかものに掴まりながら立ち上がり、漢方薬を飲んでしばらく呆然としているうちにおさまった。そうなるともう完全に起きてしまっているから眠れない。無理に寝ようとしても眠れないから本を読んだ。團伊玖磨の『パイプのけむり』(シリーズの第十四巻)をほんの少し読み進め、そのパイプのけむりの中で、團伊玖磨の住んでいた三浦半島が舞台だという泉鏡花の『草迷宮』という、美文調の不思議な長編物語を取り上げていたので鏡花全集の中から引っぱりだして少し読み、さらに永井荷風の『深川の唄』という短編を、これは短いから全部読んだ。

 

 そうこうしているうちにやや眠くなったので寝床に戻り、ネットストリーミングで久石譲のアルバムなどを静かに枕元に流して聞いているうちにようやく眠ることができた。朝からリズムが大幅に狂い、今起きても頭はぼんやりしたままである。もしかして今日は一日ぼんやり過ごすことになりそうだ。

 

 『深川の唄』については後でブログに書くつもりだ。

2025年4月 8日 (火)

縮んで暮らす

 午前中にスーパーに買い出しに行った。二日か三日に一度行く。支払う金額が年々増えていき、このごろは月々に増えていく。スーパーはポイントが付くのでプリペイドカードを使って支払う。小銭の出し入れがなくて助かるし、支払いにかかる時間も短くて楽である。そのプリペイドカードへの補充の頻度が、当たり前のことだが早くなっている。贅沢をしているわけではない。食べる量も昔のように大食いではなくなったので減っているはずである。それだけ諸式が高くなっているということだ。ここでつく溜め息は、私だけではなく、多くの人のつく溜め息だろう。

 

 固定資産税の納付請求が送られてきた。中古というより古マンションだから、たぶんずいぶん少ないのだろう。それでも年金暮らしには、この出費はこたえる。先月は旅で散財し、ちょっとした大きな買い物もしたから今月はそれらが預金から引き落とされる。金額をざっと確認するとがっくりする。得たものが大きいから後悔はしないけれども、ますますデッドエンドが近づいてきた気がした。そういえばもうすぐ自動車の重量税も請求が来るだろう。

 

 今月は少し縮んで暮らそう。なるべく遠出はしない、酒も控え、間食は引き続きやめ、食事は質素にして、とにかくあるもので何とかまかなうことにしよう。たぶんその反動が突発することになるだろうが、なるべく自分をなだめなければ。

 

 上がって喜んでいた、そして唯一持っている、自分の元在籍していた会社の株も大幅に下落した。これがこれからの頼みの綱だったのに・・・。トランプ恨むべし。

『曇天』

 永井荷風の短編『曇天』を読んだ。フランスから帰国してまだ間がないときに書かれたもので、周囲の大反対を押し切って夫婦になった友人の新居を訪ねた後、上野の森を歩いての情景描写と自分の心情が語られていく。まだフランスを色濃く引きずっていて、日本にいることを現実とは思えていないことがうかがえる。見るものにすべてフランスが対比され、彼に明治日本の俗物性が嫌悪を催させる。

 

 冬の曇天の中、不忍池の蓮を見ながら「敗荷」とつぶやく。敗荷とは破蓮(やれはす)のことで、葉が破れた蓮のことだが、荷は荷風の荷であり、中国語では蓮のことである。

 

 さまざまなものが自分にとっては不快である。たぶん荷風はその思いを一生拭えなかったのではないか。

 

冒頭に
「衰残、憔悴、零落、失敗。これほど深く自分の心を動かすものはない。暴風(あらし)に吹き落とされた泥まみれの花びらはつぼみの花よりもどれほど美しく見えるであろう。」

 

はたまた
「官立の大学を卒業し、局長や知事になった友達は自分の訪ねようとする人ではない。華族女学校を卒業して親の手から夫の手に移され、児を産んで愛国婦人会の名誉会員になっている女は、自分の振り向こうとする人ではない。自分は汚名を世に謳われた不義の娘と腕を組みたい。嫌われたあげくに無理心中して、生き残った男と酒が飲みたい。」

 

原文は旧漢字旧仮名遣いだが、引用するのが面倒なのであらためた。

 

 訪ねた友人夫婦がしあわせそうに自分たちの現在を語るのを見て、荷風は憮然として友人宅を辞した。

できないことが増えていく

 母がまだ存命だった頃、私が電話しないと母からはほとんど電話がかかってこなかった。弟と同居していて、その電話代を気にしているようだった。それなら携帯を持てば、好きなときに自分の金でかけられるから持つように言ったけれど、携帯は使い方がわからないから持ちたくないと言った。もちろん携帯は私が用意するつもりだった。父は電気製品を使いこなせず、母はそれを笑い、ビデオでもDVDでも問題なく使いこなしていた。その母もあるときから新しいものに手を出さなくなった。

 

 いま私が父や母のようにいろいろなことができなくなっている。人が普通にできていることだから、やればできるはずだということはわかっている。マニュアルである程度理解してからでないと使いこなせないという性格であることが災いしているということはある。いまはマニュアルなどなしに、やる気で使っていくうちにひとりでに使いこなせるものであふれていることはよく承知している。さまざまなデジタルソフトにしてもそうであろう。マニュアルが苦手な人ほど却って使いこなせる。

 

 ところがとにかくやってみる、ということに踏み出せない。そうしてできないことがひとつ、またひとつ、と増えるに従って、世の中との乖離がどんどん開いていき、気がついたら浦島太郎になりつつある。そうなるとやってみたら何とかなる、ということすら不可能になっていく。そういうことを強烈に感じさせられることがこのところ続いていて、いま大きく落ち込んでいるところだ。最低生きていければいい程度のところで細々と暮らすしかないと諦めることにしようかと思う。なまじデジタル社会に付いて行こうとするから落ち込むのだ。だんだん晩年の父や母のようになりつつある。

2025年4月 7日 (月)

今晩まで待つ

 東海地区でETCの混乱が続いている。少しずつ回復していくだろうが、安心して高速道路を走れるのがいつになるのか、まだ不確かである。木曜日に北陸まで行く用事があって、それまでに混乱がおさまるのを願っている。どうしてこういう事態が次々に起こるのだろうか。お粗末極まりないように思う。面倒なことは嫌いである。きちんと問題なく仕事ができないものかと腹が立つ。

 

 トランプ関税についていろいろな専門家の意見が飛び交っている(テレビでいくつか見たが、まあせいぜいこんなところだろう、と思うものばかりだ)が、次にどうなるのかその予測は、トランプがどのように世界のリアクションやアメリカ国内で起きることを受け止め、それについてどう考えるかにかかっていて、それこそ予測の立てようがない。トランプの粗雑でゆがんだ世界観は、まともな頭では予測を許さないのだ。それにしてもそのトランプに、このような関税政策を進言している専門家がいるというのが信じられない。トランプ関税を進言したある専門家は「日本はまず自らの非を認めて・・・」などとのたまわっていた。この男はいつ「自分の非を認める」ことになるのだろうか。

 

 とはいえ、とにかく今晩の(つまりアメリカの週明け7日の朝の)アメリカの株価がどうなるか、それがわからないことには専門家も今後の展開についての判断がつかないであろう。それを早く知りたいものだ。まあ明日の朝でもいいか。

納得して手続きする

 国民健康保険税が、後期高齢者になると年金からの天引きができなくなるので、振り替え手続きをするようにという案内が市役所から来ていた。年金からは他にも介護保険料も天引きされているが、それはどうなるのか、どうしてそんな面倒なことになるのか知りたくて、今朝、市役所の窓口に電話で問い合わせてみた。全部が釈然と胸に落ちたわけではないが、これは一時的なもので、ある期間を過ぎるとまた年金から天引きされること、介護保険料は国民健康保険税と時期を同じにするかどうかわからないが、やはり一時的に年金から引き落としできなくなるから、同時に振り替え手続きをして置いた方が面倒がないことなどを教えてもらった。

 

 窓口の女性は応対が穏やかで感じが良く、いつものようにうまくこちらの訊きたいことが伝わらなくて少し感情的になるようなこともなく、いちおう何をすればよいかがわかって納得したので、書類に必要事項を記入して、最寄りの地方銀行の窓口に行き手続きを済ませた。これで払い忘れはなくなる。払うべきものを払わないのは気持ちの悪いものだ。払うべきものを払わないで済むと喜ぶ、という人もいるようだが、私は親からそういう教育は受けていない。

 

 歳をとると、たったこれだけのことがいちいち面倒である。現役時代、よくまああれだけいろいろな業務を日々片付けられたものだ、と今さらながらその時代を遠いこととして思い出していた。

『ふらんす物語』

 ようやく永井荷風の『ふらんす物語』を読了した。永井荷風の原点とも言うべき『あめりか物語』、『ふらんす物語』を読んで初めて永井荷風を多少は理解できるのではないかと、読了したいま、思っている。私は粗雑な読み手であるから、どうしてそう思うのかをわかるように説明することができない。それに説明を求められているわけでもない。

 

 『ふらんす物語』は、出版が決まったのに、出版日の直前に発禁処分を受けて出版ができなかった。いま読めばどうしてこれが発禁なのだ、と思うけれど、ただその夢幻のようなパリの夜の色彩、音楽、女たちの肉感的な姿や匂い、感触は、なまじなポルノ小説よりも退廃的に読者を誘惑する。このことに強く危機感を抱いたから官憲はこの小説を発禁にしたのであろうか。

 

 『ふらんす物語』は『あめりか物語』と同様、たくさんの小話から構成されている。冒頭の『船と車』という小話では、ニューヨークから大西洋を渡って、フランスの港、ルアーブルに着き、そこから列車で憧れのパリに至って二日ほど滞在した後、赴任地のリヨンに至る。その経緯が語られる。アメリカに残してきた恋人のことが哀切に記されているが、荷風は生涯のうち、本当の意味での真の恋愛をした相手は、ただこの恋人ひとりであったとも言われる。我が身をちぎり捨てて別れたその思いが、その心の傷が、その後、二度と恋愛ができなくさせたのか、または、そもそも永井荷風という人物が本質的に真の恋愛ができない人間だったのか。

 

 たぶん後者であったのが、たまたま奇跡的なことが起こったのだろう。その後はおとなしくリヨンで暮らし、フランスを謳歌するが、ある日、ついにリヨンの定常的な暮らしを放棄して、パリに赴く。そこではひたすら夜のパリをさまよい歩き、次から次にいろいろな女の元でさまざまな体験をする。当然手持ちの金は尽き、ついに帰国を余儀なくされて、夢のような日々は終わりを告げる。

 

 フランスから大西洋、ポルトガル、スペインを回って地中海、そしてスエズ運河、紅海、セイロンを経てシンガポールへ至る。『新嘉坡(シンガポール)の数時間』という小話で、東洋というもの、日本というもの、そして日本人というものに対して、嫌悪感と絶望を感じていることを、そこで見聞きした東洋人たち、そこに登場する日本人の鼻持ちならない夫婦の姿から想像させている。たぶんこの荷風の思いは終生変わらなかったのではないか。

 

 この小話のあと、再びパリでの断片的な話がちりばめられた『橡の落葉』という小話集で『ふらんす物語』は締めくくられている。

 

 この小説を旧漢字旧仮名遣いで読んだが、もしこれを現代仮名遣いにしたもので読んだら、色も香りもない、全く違う小説を読んだことになってしまうだろう。それなら読まない方がいいくらいだ。原文のまま読むべきである。

2025年4月 6日 (日)

きわめて不愉快

 迷惑メールはどんどん増えるばかりである。普通のe-メイルだけではなく、スマホのメールアドレスにもあふれんばかりの迷惑メールが送られてきている。スマホの方は普段使っていないので、知人などからこちらに送られてくるものはまずないはずである。いちいち開かないで無視である。その迷惑メールをすり抜けてくるものがあった。

 

 あなたのメールアドレスがさらされていますよ!というメールである。表題がそうなっていて、気持ちが悪いからメールそのものを開かないで削除している。今日は、公衆便所にあなたのアドレスが書かれていましたよ、などという表題のメールが来た。下品である。不愉快極まりない。本当かウソか知らない。たぶんウソであろう。送られてくるのだからアドレスが知られていることはまちがいないが、知られているのはアドレスだけだろうと思って無視するつもりだ。

 

 なにがおもしろくてこんな事をするのだろうか。何か対応をするとおかしな罠にはまるような気もするし、陰湿な悪意の臭いもする。匿名というのは恐ろしい。まさか本当に私個人に怨みを持っている人がいるのだろうか。私だけがそれに気がついていないのかもしれない。面倒くさいが、メールアドレスの変更を考えなければならないかもしれない。それとともにデジタルとの付き合いをとことん最小限にしていくことも考えようか。できないことはないと思う。

強がり

 強がりを言えば言うほど引っ込みが付かなくなる。

 

 トランプ大統領は、株価の暴落や市場の混乱を見て、一時的なことであって、いまにアメリカは世界への貸しを回収できて、アメリカ人はみな豊かで幸せになる、と語っていた。世界が騒然としているのは、自分の関税政策のせいであり、それはまさに自分の力の証明であると感じて嬉しくてしようがないのであろう。

 

 世界はみな今度の関税で苦しむが、それはいままでのアメリカからの収奪を吐き出さざるを得ないということで、当然の報いである、そうしてその苦しみの分、アメリカは再び豊かになるはずであるという理屈のようだ。

 

 ところが来週以降になっても株価は回復せず、物価は暴騰しつづけたら、その強がりを言い続けられるだろうか。強がりを言えば言うほど訂正を行えなくなる。そうしてアメリカ国民の不満や怨嗟の声が高まったのを見て、これはまずいと修正を行うだろうが、そういう事態はドライブがかかっているから簡単には復元できないものである。世界中に、特にアメリカに大きな傷跡を残すことになる、と多くの人が予想している。

 

 その修正が行われるのがいつになるのか、それがいまの問題で、たぶんすぐではないだろうという見立てが多い。いまは、トランプは与えられた自分の力の大きさに酔いしれている状態であろうから、容易にその結果のまずさに気がつけないだろう。ただし、彼は自分の言ったことを変更することに何の恥ずかしさも覚えない人間だから、予測が立たない。

 

 とことんアメリカがまずいことになったら世界が困るのではあるが、本音の所では、いっそのことアメリカはとことんまずいことになったらいい、という気持ちがする。そう思う人が多いのではないか。トランプが新たな関税を発表したときの拍手喝采の取り巻きの様子を見ていて心底そう思った。トランプも取り巻きも、「責任」なんてものがこの世にあるなどと欠片も知らないし、感じてもいない連中に見えた。因果応報からは、人は免れないものだということを信じたいが、そうではないことも多いからなあ。世の中は時に不条理だ。

ぼやきは年寄りの常

 右肩が痛い。上向きだと寝付きにくくて、右か左を向いて寝ると寝付きやすい。寝覚める時はいつも右を下にしているので、右向きの方が寝やすいのだろう。一月かそれ以上前から、右肩の関節が痛くて目が覚めるようになった。自分の重みに肩が絶えられず、痛みを発しているようで、痛みは昼もしばらく続く。だんだんひどくなる。肩を回したりしてみるが、痛いばかりである。自分の腕の重みが痛む肩の負担になっているようでもある。

 

 旅の間、持病の泌尿器科の慢性疾患は悪さをしなかった。疲れたりすれば排尿は濁り、濃くもなっていたが、排尿そのものはスムーズだった。それがいまになって、排尿はきれいなのに排尿があまりスムーズではなくて不快である。こうなると、ちょっとした発熱などで一気に悪化する。食生活に気をつけて安静に努めなければならない。どうしてそうなるのかわからないが、生ものや冷たいものがあまり良くないような気がする。

 

 膝が痛い、腰が痛い、目が霞む、いろいろなことがおっくうだ、何かしていても持続力が低下した。

 

 自分にぼやいているだけならいいが、こうしてそんなぼやきをブログに書いて、読む人にまたかと思われるのはいささか恥ずかしいが、年寄りというのはぼやきを発散しないと内にこもって膨れるばかりなのである。ぼやかないではいられないのである。いささかでも不快がまぎれるかと思うのである。迷惑なことである。

 

 増えすぎた体重は、節制しているうちにわずかずつではあるが減りだしている。むくみもほぼなくなった。水分のバランスが狂っていたのだろう。増えたのは水分で、減ったのも水分ということか。代謝能力が落ちているのだろう。

2025年4月 5日 (土)

からまりながら

 山崎正和の初期の文芸評論三部作『鷗外 闘う家長』、『不機嫌の時代』、『曖昧への冒険』を少しずつ読み進めながら、そこに挙げられた作家やその作品を読んでいる。『鷗外 闘う家長』は先日の東北への旅に出る前に読了し、その関連の森鷗外の作品も何作か読んだ。ある中心となるテーマを元にいくつかの作品を読んでいると、個別の作品を読むだけでは見えなかったものが見えた気がしてくる。おもしろい読み方ができている。

 

 今は『不機嫌の時代』の第一章をようやく読み終えたところだ。主に志賀直哉、夏目漱石、そして再び森鷗外が作品とともに論じられている。もともと志賀直哉はもっとも好きな作家でもあるので、不機嫌というテーマを元に、いくつかの作品を読み直した。何度読んでも好い。夏目漱石については、そこまで熱心な読者ではないが、これからテーマに沿った作品を読もうと思っている。

 

 先走りで『曖昧への冒険』を開いて見れば、そこにはまず開高健が論じられている。私が文学作品を本気で読み始めたきっかけが開高健なので、これを機会に彼の短編集の中から、世に出た最初の作品である、『パニック』という作品を読み直した。評論家の平野謙が激賞したことで、彼が作家の道へ踏み出したのがこの作品だ。そのついでに『飽満の種子』というベトナムが舞台の短編も読み直した。次は芥川賞を取った『裸の王様』を読もうと思っている。さらに、開高健のもっとも好きな作品『日本三文オペラ』を読もうと思いアマゾンに手配した。持っていたはずの本は、実家にあって、たぶん母が処分(図書館に寄付)してしまったらしく、見当たらないままである。

 

 今は山崎正和の提示したテーマを手がかりにそれらの作家の作品を読んでいる。それらが絡まり合いながら頭の周りをロンドのようにぐるぐる回っている。

 

 そんなときに少しずつ読み進めている團伊玖磨の『パイプのけむり』シリーズの一冊の中に泉鏡花の作品(『草迷宮』)のことが書かれていると、つい泉鏡花も読みたくなってしまう。集中力も、持続力も低下しているいま、なかなか気ばかり焦っていて、なかなか思い通りに読み進められないでいる。遅々として進まなかった永井荷風の『ふらんす物語』はようやく読了しそうだ。

大根の花

 採り残した鉢の中の大根が、大きな太い枝を伸ばし、横にも枝を伸ばし、そこに薄紫のつぼみをつけ、やがてかわいい白い花が咲き、いまはその花がびっくりするほどたくさん咲いている。花は次々に落ち、めしべの部分だけが残り、それのいくつかが膨らみ始めている。それはいつか実になっていく。もともとはたったひとつのカイワレの種からこれだけの大きな生命体になったことを驚き感心しながら水をやっている。今年も種がたくさん取れるだろう。この種を蒔けばカイワレが食べられる。

 

 ジャングルのように密生して繁茂していた香菜(シャンツァイ・パクチーのこと)に薹(とう)が立ってきた。薹はすらすらと伸び始めている。薹は食べられない(硬そうだからそう思う)。この薹にも小さな小さな紫色の花が咲き始めた。やがてこれも実がなり、種が取れる。種はコリアンダーである。パクチーの香りとは違う香りがする。こうして薹が立つと、香菜は次々に枯れていき、種に生命を託して世代を終える。

 

 パセリも繁茂している。パセリにも薹が立って世代交代する。今のところまだ薹は立っていないが、まもなくではないかという気がする。

 

 どれも一度にたくさん食べるものではないが、少しずつ食卓の添え物として役にたってくれた。水とわずかな液肥だけで、これだけ成長繁茂するのは本当に不思議だ。それを見せてもらうだけでもありがたいことだと思う。父は土いじりが好きで、97歳で死ぬ少し前まで庭で土いじりをしていたという。それで長生きさせてもらったのかもしれない。

 風呂場やトイレなどのマットを洗濯する。今日は風がなくて好い日だ。

納付方法変更のお知らせ

 来月で私も後期高齢者の仲間入りをする。自分がもうそんな歳であることは、信じたくないことだが拒否できることではない。昨日、市役所から通知が来た。「国民健康保険税の納付方法変更について」とある。国民健康保険は税金だったのか、と妙なところにすこし驚いた。

 

 国民健康保険税は、いままで年金から天引きされている。それが世帯主が75歳に達すると、後期高齢者医療制度に移行することにともない、年金からの天引きという特別徴収の条件を満たさなくなるため、納付方法が納付書払いに変更となる、のだそうだ。できれば納め忘れのないように、口座振替をしてください、と口座振替申込用紙が添えられている。そのほかにもなんだかいくら読んでもわからない文章が添えられていて、読んでいてクラクラする。

 

 一体どうして後期高齢者医療制度に移行すると、今までできた年金からの天引きができなくなるのかがまずわからない。しかし窓口にそれを尋ねても、たぶん決めているのは問い合わせ窓口の人ではないから答は得られないだろう。できるはずなのにしないのは、単なるお役人の得意な嫌がらせということでしかないだろうと、嫌がらせに敏感な私は邪推する。ところで同じように年金から天引きされている、介護保険料や妻の後期高齢者保険料はどうなるのか、それについては特に記載が無い。あらためてお知らせがくるのだろうか。

 

 手紙を開いてすぐ銀行に申請に行けば片付いたが、自分の気持ちがまだ片付いていないので、今のところテーブルの上に置いたままである。気持ちのすっきりしないものは面倒くさい。

2025年4月 4日 (金)

監視国家の闇

 録画していたNHKのドキュメント『東ドイツ 監視国家41年の闇』という番組を見た。1989年にベルリンの壁が破られ、東ドイツのシュタージという、秘密警察であり、密告体制を作り上げていた組織の膨大な資料が残されていて、それによって監視国家というものがどういうものであったのかが明らかにされた。それをレポートした番組の再放送である。

 

 東ドイツの監視の怖さは、自分の親しい人が、まさかこの人が、という人たちが密告者であったという事実である。資料は公開され、個人は申告すれば自分自身の資料を見ることができる。そこで知らされた事実は閲覧者を驚かせ、悲鳴を上げさせる。まさか、と絶句させる。同僚が、友人が、そして身内が監視に協力した事実を知らされることが、どれだけ心の傷になるかと思うと慄然とする。そういうことが行われることになるのが監視国家というものらしい。

 

 今、どうしてこれを再放送するのか、その意図を勝手に推測すれば、いまのデジタル通信社会のブラックボックスの部分に対する、なにを知られているのかわからないという不信と、監視カメラだらけの社会の不気味さに不安を感じる現代の人々の、どこかで誰かが視ているその眼を感じている状況があるのかもしれない。それは同時に、いままでは東ドイツ同様、共産国家だったソ連や、北朝鮮や中国に特有のものだったと思われていたものが、いまは世界全体に拡散しつつあるという不安である。

 

 いまは密告者が人とは限らない。生活の中にさまざまなデジタル機器が置かれている現在、それを外部から覗くことが可能になっているのだという。ドラマや映画での知識なので誇張されているかも知れないが、こちらに知識が無いから知らないだけなのだろうという思いはある。AIがどんどん進化し、さまざまな手法で個人の嗜好、思想、欲望が推察されてしまう。心の中が覗かれ出したということだ。

 

 中国はがんじがらめの監視国家であると思う。中国政府は犯罪抑止のための監視だという。それで犯罪は抑止されているのか。たぶん抑止されているのだろうが、それ以上に監視者によって犯罪が生み出されているのではないか。監視者は抑止すべき犯罪がなくなれば自らの存在意味を失いかねない。法治国家とは言いがたい中国では、法令が曖昧なものが多い。だからその法令の適用は時に意図的に拡大することが可能である。その恐ろしさを中国人はよく知っている。それが想像できない日本人はいつでも拘束の対象になり得る。

 

 独裁国家は監視国家でもある。いまのトランプ政権のアメリカは、どんどんその方向に向かいつつあるように見えるが、そのことにアメリカ人自身が気がついていない。自由の国アメリカが監視国家になるなどとは思えないのだろうが、伝えられるトランプの大統領令を見ると、自分に反対するものを排除することに狂奔しているのがわかる。反対していることを確認するには監視が有効である。監視国家への道は成り行きであろう。世界は監視するものとされるものに分断されつつあるのかもしれない。

 さらにその先を想像すれば、SFが描いて見せたように、じつはAIがすでに人類を監視し、為政者をコントロールしながら支配者になりつつあるということかもしれない。

罷免確定

 もしかして罷免を免れるのではないかという思いがなかったわけではないが、やはり韓国の尹大統領の罷免が決定となった。これで60日以内の大統領選が実施され、いまの情勢では、次の大統領はほぼあの左派の李在明に決まりそうである。自らの金権体質を問われ、その罪を逃れるために大統領をめざす、という李在明が、安泰に大統領を務められるとはとても思えない。

 

 韓国はこれから長い試練の時を迎えることになりそうだ。トランプの暴挙によって世界が揺れ動いている時、アメリカとの交渉に左派の韓国大統領が向かっても相手にされない可能性が高い。韓国から得られるものがあまり期待できないということもある。韓国の得意な分野はことごとく中国に追いつかれて、いままでのような経済成長は期待できない。経済が停滞し衰退すれば、国内は不安定化する。世界にとって韓国は魅力のある国ではなくなっていくだろう。すでに人心の荒廃のきざしがあったが、さらに加速するだろう。思えば、あのセウォル号事件はその象徴的なものだった。

 

 尹大統領の罷免確定により、分断された国内に争乱が起きないように、今まさに韓国は戒厳令下のような状況にあるらしいのは皮肉である。

苦手

 旅の前から間食が止まらなかったりしてウエイトが増え出していたところ、旅先で毎晩美味しい酒と肴を飲み食いしていたので、思った以上にウエイトオーバーになってしまった。そのせいであろう、足もむくんだ。帰ってから、酒を極力控え、間食もやめていたら、ようやく体重が少しずつ減り始め、それとともに足のむくみもひいてきた。今月末には糖尿病検診がある。泥縄で控えたところで、血液検査はたぶんあまり良くない結果となるだろう。ずっとこんな調子で生きていく。生きる楽しみと健康の維持とのバランスの置き所をどこに置くか、自分なりに考えているつもりだ。医師の基準とはいささか違うのはしかたがない。

 

 少し古典を読もうとして手持ちの本を読んでいる。いままで、『今昔物語集』、『日本霊異記』、『宇治拾遺』、『古今著聞集』などを読み囓り、『奥の細道』や『平家物語』、『方丈記』は解説の助けを借りて何とか読み終えた。いま『枕草子』と『徒然草』を読み始めたが、『徒然草』はともかく、『枕草子』はどうにも読み進めることができない。こういう文章は苦手である。清少納言にシンクロできないのである。彼女の感じるものに、なるほど、という気持ちが起きないのである。

 

 以前にも書いたが、高校生時代、『源氏物語』を陶酔するように語る教師に反感を覚えて(気持ちが悪かった)古典が苦手になり、いつも赤点すれすれであったことは前にもブログに書いた。どうも私の感性は、女流のかな文字文学にシンクロできない頭なのかも知れない。若いときならいざ知らず、いまはそれを無理に乗り越える努力をしようと思わない。今のところ『枕草子』は完全にギブアップである。

2025年4月 3日 (木)

もう少し時間が経たないとわからないが

 トランプ関税が実際に施行されることになった。国によってかけられる関税率が違う。日本は心配はしていたけれど、他の国よりは少しましではないかと期待していたようだが、あにはからんやEUの20%よりも高い24%の関税率となった。専門家の中には、この関税は交渉のためのカードだ、という見方をする人が多かった。それなら強硬な交渉を必要とする相手ほど高い関税になるだろうと思われたし、日本がそのような強硬な交渉が必要な国であるとは思えない。何しろ高い関税をかけられたら報復関税をかけるなどと、一言も言わないおとなしい国なのである。

 

 これで世界は様相を一変させたといえるだろう。それならこれからどうなるのか、世界の貿易は大きく損なわれ、物流は混乱し、経済は停滞することになるだろう。トランプ不況である。その規模がどれほどのものになるのか、それはもう少し時間が経たないとわからない。ただ、良くなることはあり得ず、どれぐらい悪くなるか、というだけのことである。

 

 常識的には、アメリカの物価は関税に応じて高騰し、スーパーインフレになるだろうと思うが、アメリカ国民がその原因はトランプだと考えるか、それともアメリカ以外の国のせいだと考えるかで、アメリカという国の進路が大きく変わるだろう。トランプは最後にはアメリカ以外すべて敵、というスローガンをかかげるだろう。そして国を救う英雄として独裁体制を強化することをめざすのではないか。それしか責任をとらずに当面を生きのびる道はないのだから。

 

 狂人によって戦争が始められた。いま世界は歴史の転換点にいる。

テレビの見過ぎ

 テレビの見過ぎと云っても、リアルタイムで番組を見るのはニュースぐらいであり、多くはおもしろそうなドキュメント、紀行番組、ドラマや映画を録画して、それを自分の都合のいい時間に見る。おもしろそうなものが多すぎるのである。忙しい。

 

 『夢千代日記』の第一シーズン五話と、第二シーズン五話を見終えた。何度見ても素晴らしいドラマだと思う。原作を書いた早坂暁は、事実はどうか知らないけれど、たぶん最初の五話で完結するつもりだったのではないかと思う。それでもあえて第二シーズンを書いた。ラストは哀切である。第二シーズンに、いしだあゆみが出ていたことを、見て思い出した。この人の泣き笑いは絶品だ。第三シーズンもあるのだが、今回(といってもすこし前だが)再放送されたのは第二シーズンまでである。

 

 舞台は明らかに湯村温泉なのだが、最寄りの駅は浜坂になっている。浜坂と湯村は離れていて、ドラマのように、ちょっと小走りに駅へ行くなどと云うことはできない。湯村温泉には何度も行った。夢千代像があるし、吉永小百合の手形も見られる。

 

 今度は『御宿かわせみ』の再放送が始まる。何度もリメイクされているが、真野響子、小野寺昭、山口崇が活躍する大好きなシリーズである。この配役でしかこのドラマを見る気になれない。原作は平岩弓枝で、五十冊ほどあるシリーズのすべてを買って揃えていて何度も読み直すほど好きである。

 

 映画『キングダム 大将軍の帰還』を見た。このシリーズも大迫力でおもしろい。おもしろいが、ところどころ冗漫なところもある。その部分がクライマックスを盛り上げるために必要だとわかってはいるのだが、説明的すぎる気がする。大沢たかおが好い。清野菜名が好いし、この映画の橋本環奈も好い。

 

 録画予定リストを見ると、たくさんあって、嬉しいと思ったり、困ったなと思ったりしている。

ネットが不調

 以前からときどきネットがつながらないことがあったが、その頻度が少しずつ増えている。パソコンの方に原因があるのかと心配したが、スマホのWIFIもほぼ同時につながらなくなるようなので、ネット回線が途切れるのだと思う。回復させるには、ルーターの電源を落としてしばらく置いて、再び電源を入れるとつながる。つながらなくなる前にアマゾンミュージックのネットストリーミングなどを聞いていると途切れ途切れになったりするので、来るな、と気がつくこともある。

 

 何かの理由でルーターが通信を遮断してしまうのではないか。重い動作をせっかちに繰り返したりすると切れたりすることがある。もしかすると問題のあるアクセスに対してルーターが防御行動を起こしているのかもしれない。今のところ回復のための対策は分かっているからいいが、本質的な解決策とはいえない。旅にはパソコンを持参して、宿のWIFIを使ってブログを送ったりしているが、そんなトラブルに出会ったことはない。自宅ではマンションの共同の光回線を使っているので、そこに問題があるような気もする。

 

 ずいぶん前から、ホームルーターに変更することを考えている。スピードはもしかすると落ちるかもしれないが、特に大容量の通信をしているわけではないので、その点は心配していない。ただ、それなりに出費も増えるらしいし、つないでいるものもいくつかあるので、設定をし直すのが面倒だと思うばかりである。

2025年4月 2日 (水)

アクアマリンふくしま

旅の最終日、松島を発って常磐道を南下し、福島県のいわき市にある『アクアリウムふくしま』という水族館に立ち寄った。東北最大だという。

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環境水族館「アクアマリンふくしま」。大きい。

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建物の中に入る。広くて迷子になる。

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生命の誕生から進化をけっこう学術的にたどることができる。おもしろい。

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大水槽のイワシの群れ。九十九里近くで生まれたのでイワシは大好きな魚で、どうしても食欲につながってしまう。

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ホウボウ。きれいだし美味しい。海の底を歩くこともできる。

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好奇心も旺盛なのであろう。水槽を清掃している職員の様子を眺めている。

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トドがご挨拶。

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春休みなので平日でも人出が多かった。見たい魚の展示の場所の前を子供が占拠したりしていて、ゆっくり見ることができにくい。

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外にはとても広いビオトープがあって、のんびりできる。子供の時にはこういう水辺でザリガニやカエル、小魚、ドジョウなどを捕ったものだ。

水族館が大好きなので、満足して帰路についた。このあと千葉の弟の家で二日ほど休憩し、名古屋に帰った。これにて今回の旅の報告は終わり。お付き合い、ありがとうございました。

牡鹿半島の鮎川浜

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遠野から牡鹿半島の鮎川浜へ向かったのだが、やはり東北は広い。思った以上に時間がかかった。向こうの建物も震災後に建てられたものであろうが、以前あった広い倉庫のような似た建物の中で、当時はなかなか手に入らない鯨のブロック肉を売っているのを見た記憶がある。この近くの民宿に泊まったが、当然鯨の刺身も饗されて、美味しくいただいた。この浜に近かったその民宿は跡形もない。

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目の前は金華山。ここから金華山へ渡る船が出ている。この周辺は暖流と寒流のぶつかるところで、むかしから魚がたくさん獲れる。鯨も回遊してくるので、鯨漁の盛んなところだ。いまでも鯨を捕る。一時期は捕鯨禁止でほとんど捕ることができなかったが、最近は、復活しているようだ。

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向こうの青い船はこの港のシンボルのように置かれたもの。震災後にはこの船以外にも津波で打ち上げられたたくさんの船があった。この海岸一帯は壊滅的な被害を受けた。ぽつんと離れたところで、捕鯨で捕れた鯨の歯(象牙のように工芸用として使う)、ひげ鯨のひげ状の歯(釣り竿の先端に使う)などを扱う小さな店などがあって覗かせてもらったりしたが、港の大きな長い売店とともに跡形もなくなっていた。

震災から十四年、鮎川浜全体がすっかり新しくなった。牡鹿半島へのアクセスは、狭い峠道の連続する走りにくい道だったが、高台への集落が移転したところが多く、一部を残してそちらを通る広くて新しい道ができて、とても走りやすくなった。

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左手の建物の中には、むかしの鯨漁についての展示や、魚や鯨肉の加工品が売られていた。ここで土産に鯨肉などの缶詰を購入した。鯨の生肉の小さなブロック(刺身にできる)や、鯨のベーコンもあったが、その日に帰るわけではないから保冷が難しく、諦めた。

夕方、松島に泊まる。この翌日に弟の家に向かったが、途中、一カ所だけ立ち寄った。

2025年4月 1日 (火)

他者との境界

 他者とはある程度の距離を置くのがマナーだ。その境界は曖昧で、互いの関係でその境目も変化する。それでも、いくら親しくてもここより中にズカズカ入られたら不快だ、という距離がある。精神疾患の中には距離の病、という言い方をされるものもある。幻聴などは、そこにいるはずのない人の声が聞こえたりするが、音は距離に従って弱くなって、遠ければ聞こえないことは誰にもわかることで、今ここにいない、はるか遠くにいる人の声が聞こえれば、それは自分がおかしいのかもしれないと思うのが常識的だ。ところが精神疾患の人の考え方は、現に自分に聞こえるのだから、それが事実だ、と考えてしまう。病識が持てないというのはそういうことらしい。

 

 人はその他者との境界を無意識に配慮しながら生きる。そうすることが社会で生きるために必要だし、楽に生きられる。時にその配慮に欠ける人間は社会から白い目で見られ、嫌われる。

 

 国家どおしだって、人間社会の一つの形だから、その距離感というのはあるもので、他の国のことに口出しするのは控えることになっている。それは暗黙の礼儀というもので、力関係をいいことにそれを犯せば礼を失し、感情を損ない、恨みを買う。北朝鮮の、他国に対する物言いがエスカレートした傲慢無礼なことばを用いて語られるのは、あの国がそういう常識を欠いた国であることを象徴的に表している。そういうことばを使わなければ他国に振り向いてもらえないと思う行為を、あえてするということが、あの国を自らおとしめているのだ。

 

 それは先生である中国にもよく見られる。王毅外相など、それを体現している外交官と云っていい。ロシアのラブロフもそうだ。自己顕示のために自らをおとしめている。
 
 トランプや、トランプ政権を担う主要人物が、しばしば他国について公然と注文をつけたり、脅しをかけている。他国に土足で踏み込んでいる。力があれば何をしてもいい、などと言うのが当たり前の世の中は、生きにくい。世界はどんどん生きにくくなっていくようだ。しかし、その力はそんなことをしていれば必ず衰える。そんなことはいうまでもないことで、『平家物語』でも「盛者必衰の理」と冒頭で述べているではないか。ましてやそういう他者との距離感を配慮できない、ある意味でまともでない人が、いつまでも栄えられるはずが無いではないか。時間はかかるけれど、必ず衰える。そう確信している。あんがい早いかも知れない。早くそれを見たいものだ。

本当だろうか

 習近平政権が揺らいでいる、というネットニュースを読んだ。経済の停滞を嫌気して、その責任を政権内部で問う声が聞こえるようになってきたという。そのような兆候について、いろいろと報じられていた。

 

 うーん、いかにもそれはあり得るように思えるし、報じられていることが事実ならさすがに習近平政権も一時の勢いを失ったのかもしれない。

 

 しかしそれが今日四月一日のニュースであることが気がかりだ。いかにもありそうなことだけれど、じつはウソ、というのがエイプリルフールのネタとして上等であり、人に本気で心配させたり、迷惑をかけるものは冗談にしても問題だ。そうではないけれど、そうであって欲しい、なんてのが手頃なものだろう。

 

 トランプが急病で倒れて病院に担ぎ込まれたらしい、なんてのは、ちょっと危ういかもしれない。中国解放軍が台湾を急襲した、なんてのも本気にされるとまずい。以前は一生懸命にいくつか話を作ったりしたが、いまは上等なものが思いつかない。創造力が落ちたなあ。

 

 ところで、習近平政権の衰退は本当だろうか。それが事実であるのに、疑って、またはウソだと決め込んで、事実ではないとするのも逆のエイプリルフールか。なにが本当かわからないのがいまの世界だ。トランプやその取り巻き、特にマスクなどの言うこと、やることを見ていると、本当とはとても思えないものばかりだ。限度を超えている。

残念なこと

 平日夜八時からはBSフジのプライムニュースを見ることが多い。野党の党首などが呼ばれたときだけはあまりおもしろくないのでたいてい見ないけれど、それ以外は見る。他局のニュースの取り上げ方とは違うところがあると感じている。いわゆるマスコミの正義感というのが、私から見ると少し偏って見えるけれど、このプライムニュースは私もなるほどと感じさせてくれることが多い。世の中から偏っているのはたぶん私なのだろう。私から見れば、世の中(とくにマスコミ)が偏っていることになるが。

 

 昨日のフジテレビの、一連の問題についての報告の中で、プライムニュースのメインキャスターである反町氏にハラスメント事案があったと認定された。それを受けて昨晩のプライムニュースの出演は取りやめになり、いつもは脇役の女性キャスターふたりが進行していた。このニュースにはさまざまに個性の強い強力なゲストが呼ばれる。それを捌いて的確に進めるのはかなりの豪腕を必要とする。他のキャスターには荷が重くてもう一歩が踏み込めないのは、たまに反町キャスター不在の時に強く感じることだ。

 

 反町キャスターは、たぶん当分の間出演はないであろう。それに、彼は以前にもパワハラか何かで出演自粛をした前科もある。再度の登場そのものがないかもしれない。彼のいないプライムニュースを見るかどうか。たぶん私は見ないだろう。残念なことである。これから、世界はトランプの暴挙によって激動する。それを知り、それがどうなるかを知る手がかりの一つがこのプライムニュースだ。社会に対する窓口の一つが閉じられた気がする。

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