『違和感の正体』
昨年読んだ、先崎彰容『違和感の正体』(新潮新書)を再読した。先日、彼の『批評回帰宣言』という本を読んで、もう一度彼の原点を読み直そうと思ったのだ。彼は東日本大震災の時に、福島第一原発の約40キロ圏内というところに住んでいて、すべてを失ったまま埼玉県に避難生活を余儀なくされた。そこでさまざまな苦難の中で、世の中の仕組みのゆがみを実体験し、思索を重ね、体験を昇華することに努めた。その時の、日本の国の世相についての『違和感』について、表層ではなくその深層を考察したのがこの『違和感の正体』という本である。
まず政治行動とやらをしている知識人と称する人を見て、さらにそれに唱和する人びとを見て、以下のような感想を述べる。
現在の日本社会では、バラバラな主権者がそれぞれの嗜好に応じて左右の処方箋--ネット右翼とデモ左翼--を飲み下しつつ急速に「決断」と「行動」へと駆り立てられ、「われわれ」としてつながりあおうとしている。ちいさな「われわれ」が複数乱立し、その小宇宙の中に所属している限り、確乎たる真実・絶対の正義があるように見える。隣の人と頷きあうことで、自らの心の純粋性に疑いを抱かなくて済む。つまり解体した社会状況と、一気に一つの思想に吸収されたいという気分は、二つながら私たちの心に同居している。不安を接着剤にして。左右保守革新の別などなにもない。
以上のように筆者は時代診察をしつつ、誰も言わない行動としてことばを練る重要性を処方していることは、先に申し述べた通りです。「他者」とは、容易に分かりあえず、つながることがほんとうに難しい存在である。あるいは善悪で世界を理解した気にならずに、善悪の亀裂のあいだにこそ豊かな思索とことばの生まれる場所がある、これが筆者を貫く思想の前提にあるのです。
こうして、デモ論、差別論、教育論、時代閉塞論、近代化論(これが『批評回帰宣言』につながっていく)、平和論、沖縄問題論、震災論が論じられ、表層ではなく、深層についての深い考察が加えられていく。新しいものの見方のヒントが得られる本で、前回読んだときには見えなかったものが少しだけみえた気がする。
引用したいところが他にも二三あるので、別に書くつもりである。




















































































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