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2025年6月

2025年6月30日 (月)

階段を登る

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大山白山神社への階段を見上げる。上ははるか彼方でみえない。十日前の体調ならまず登る気にならないところだが、行けるところまで行こうと登ることにした。

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最初に息が切れたところで下を見下ろす。まだ神社はみえない。このあとは二十段前後登るごとに一息入れるようにして、ゆっくり登った。手すりがあるのがありがたい。登り口には杖に使える棒が何本もおかれていたが、写真を撮るので手には取らず。

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先ほどのところの三倍くらい登ったら、ようやく神社がみえてきた。いったん登りがなだらかになる。目的地がみえれば元気も回復する。

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二つ目の鳥居をくぐる。

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茅の輪がみえた。あと一息。

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大きくはないが、彫物がなかなか好い。

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人は常駐していないので、中は見えない。天井に動植物の絵が描かれているはずである。頼んであれば見られると後で知った。実はここは拝殿なのである。本殿はさらにここから階段を登らねばならない。

さてどうする。

女夫杉

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早朝の朝靄に霞む窓からの景色。

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こういう風に、向こうへ向かってだんだんに高くなっていく景色を見るのが好き。

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日が昇ってきて、青空がみえてきた。

旅館で困ったこと、右腕が後ろに回らないので浴衣のひもが結びにくい。

旅館に不満なこと、以前にも書いたが、夕食のボリュームが少ない。減量しなければならない私には悪くないことなのだが、酒のつまみにおかずを食べてしまうので、ご飯の時のおかずが足らなくなる。

さて昨日のつづき

運良く見つかった大山白山神社への坂道は、地図では二三キロに見えるが、実際には五キロほどある。すれ違えないほど狭くてヘアピンやS字カーブの連続でガードレールはほとんどない。わくわくしたりドキドキしたりしながら走る。エッジの立った落石などもあって、注意する。昔うっかり踏んでバーストさせてしまったこともあるのだ。

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ようやく神社の駐車場に到着。立派な鳥居である。

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間違いなく本物の大山白山神社だ。右手に女夫杉の看板が・・・。

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ふりがながないので読み方が分からない。じょうぶすぎ、とでも読むのだろうか。大した距離ではなさそうなので行ってみる。

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これがそうらしい。たしかに太くて大きいのだが、写真にするとそれほどに見えない。

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もっとそばまで行きたいが足場が悪く、ふらつくと谷底へ転落しそうで恐い。

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なんだか上の方で二本の杉が絡まり合っているような・・・。

さあ、元へ戻って神社の階段を上ることにしよう。

違う!

私がドライブ用に使っている地図は、ツーリングマップルというライダー用の地図で、九州から北海道まで揃えていて、四年から五年で新版に買い換える。立ち寄りたい見所がかなり詳しく書き込まれているので、ガイドブックにもなるからたいへん重宝している。出かけないときにも暇つぶしに空想のドライブを楽しめる。ただしライダー用だから、時に乗用車では走れない狭い山道もあって、うっかりそこへ入ってしまって往生したこともある。

いまの車のナビはおおむね問題ないが、ごくたまにとんでもない遠回りの案内をするから驚かされる。それと検索がしにくい上に、あるのに見つからないことがある。使いこなせていないのかもしれない。今回は岐阜県白川町の山中にあるはずの大山白山神社へ行こうと思い検索したらヒットしたので、それに従った。国道41号線から曲がる場所や、走って行く方向は想定通りなので、安心していたら田んぼ中の小さな神社に連れて行かれた。

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どう見ても山頂にある神社ではない。たしかに白山神社であるらしいが、村社である。規模が小さい。この一帯にはたくさんの白山神社があって、その一つであろう。ただし枢要な白山神社のひとつとは思われない。念のため降りて周辺を歩いてみる。

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神社の裏側の本殿側に廻ってみる。杉の木もあるが驚くほどの大木ではない。

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離れたところから見れば神社を囲む木々はそれなりに鬱蒼としている。

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白川町はお茶の産地で、国道41号線沿いにある道の駅ではお茶をいろいろと取りそろえているのでときどき買う。新茶を買うためだけにその道の駅に行くこともある。やさしい味のお茶だ。

あきらめてそこからなじみの馬瀬川沿いの温泉宿へ向かうことにする。これは何度も行っているからナビにも履歴がある。間違わないだろう。そこから一気にどんどん坂を登りだし、山中に入っていった。

つづく

2025年6月29日 (日)

一風呂浴びて

 午前中、マンションの防災訓練に参加して、即席の担架の作り方や応急トイレについての消防隊員の説明を受ける。毎年参加しているのでだいたいのところは承知している。これが実際の災害の時に生かせると良いのだが。

 

 あり合わせのもので早昼を食べて、かねて支度をしていたものを担いで昼過ぎに出発。日曜日だからいつもトラックで混む国道41号線は乗用車ばかりで多少流れがよく、いつも渋滞する小牧インターあたりもスムーズに通過した。さすがに日曜日の昼から出かける車はあまり遠方まで行かないようで、犬山の明治村や犬山城への曲がり角で一気に車の数が減った。

 

 そのまま行けば目的の宿には三時頃には到着してしまう。地図を見て、大山白山神社というところに立ち寄ることにした。高さ860mあまりの山頂にある神社で、見事な大杉が見られるという。ナビでチェックしたら直ぐにヒットした。このナビがこんなに簡単にヒットするのは珍しい。

 

 指示どおりに走って案内されたのは、田舎の田んぼの中の小さな神社であった。たしかに白山神社の石柱が立っているが、どう見ても違う。たしかに杉の木もあるが大杉と呼ぶようなものではない。まただまされた。あきらめて宿を目的にして走り出したら峠道をひたすら上るではないか。どうも本来の大山白山神社に出会えるかもしれないと予感したとおり、途中に案内の標識を発見した。

 

 そこから五キロあまり、すれ違い困難な、しかもガイドレールのない急坂急カーブの山道をひたすら登っていく。向こうから車が来ないことを願うばかりだ。そうして目的地に到着。ただ、到着したのは駐車場であって、そこから階段がはるか彼方の山頂まで続いている。

 

 私はその山を登って神社へ参拝したかどうか。

 

 さあ、一風呂浴びてビールを飲み、夕食を楽しむことにしよう。この続きは次回。

雑感

 最後のH2Aロケットの打ち上げが成功だったようだ。成功して当然とも思えるが、どうもこの頃その当然が当然ではないのを度々見せられて残念に思っていたところだから、うれしい。失敗の時の理由説明に、なるほどそうだったのか、と思いにくいことがしばしばある。もちろん失敗が残念だったのは誰より打ち上げた当事者だろうが、それならもっと徹底した管理がなぜ出来なかったのかとつい思う。問題なくあげている国があるのを見るたびにそう思う。

 

 白浜のパンダが中国に返されることになって、その最後の姿の見送りに涙する人たちを見せられて、その気持ちの麗しいことを思うが、なにも人前で泣かなくても、とも思う。中国はパンダの価値の重さをさらに実感して、それをどう利用するか頭を巡らしていることだろう。次は上野のパンダも返還らしい。元々中国のものだし、そういう約束になっているらしいから仕方がないが、元々そうでないものまで俺のものだから返せという国だから、複雑な気持ちになる。パンダも馴れた地から移されてしばらくたいへんだろう。健康で長生きしてほしいものだ。

2025年6月28日 (土)

安楽死

 私が日頃拝見しているブログの中に、読書家で、私が普段読むことのないような本をたくさん読んでいる人の書くブログがあって、読むことのない本だからこそ興味深く、参考にさせてもらっている。その方がときどき積極的な安楽死賛成の意見を述べておられる。私は、積極的というほどではないが、安楽死には反対ではない。それでもそういう意見を読んだりすると、ドキュメントで見た海外の事例や、本で読んだ安楽死関連の話など、それから自分の体験した延命に関する事例も含めていろいろと考えさせられる。

 

 死ぬということは、死に向かいつつあるそれぞれのその人の背景、家族、年齢その他の事情がさまざまで、一般論で語れるものではない。観念論的な生命至上主義的な価値観から一般論にしてしまうと、どうしても安楽死絶対反対という結論になってしまう。安楽死については一般論ではなく、自分、そして自分の家族の問題として具体的に考えるようにしなければ、考えたことにならないと思っている。私が積極的とは言わないが反対ではないというのは、自分が場合によって安楽死を選ぶ場合を想定できるからである。

 

 違う観点からも死について考えた。介護難民の問題である。少子高齢化が進むにつれて、介護を受ける立場の老人が多すぎて、介護する人員がすでに足らなくなっているという現実がある。まだ団塊の世代は後期高齢者になったところで、これから要介護がどんどん増えるばかりであることは、可能性ではなくて厳然たる事実である。介護されずに死に向かう老人はどんどん増えるのは確かなことである。介護従事者は、ほかの職業よりも収入が明らかに低い。しかも仕事は必ずしも楽とは言えない。それならなり手が増えるはずがない。いままで見てきた介護がこれからも同様になされるはずがない。それをどう受け入れるか、後期高齢者の新参者として考えざるを得ない。おまけに寝たきり老人を受け入れるはずの病院だって採算が合わずに地方から統合されたり閉鎖されるという事態が進行している。

 

 医療費や介護費用を負担する労働人口が減少し、逆に高齢者がどんどん増えれば支えきれるはずがない。そんなことはずっと前からわかっていたことである。出来ないことは出来ない。そんな時代に介護老人になって生きるにはどうすればよいのか。自ずから答えは決まっている。金がある人しか介護が受けられなくなるのだ。しばしばニュースやドキュメントで報じられるが、外国からの介護者の受け入れなど、弥縫策にしか過ぎない。介護老人だらけになれば日本はますます貧しくなる。外国から日本に就労に来る人など減るに決まっているのだ。

眠れた

 適度な疲れは安眠につながる。昨晩はずいぶん久しぶりに安眠した。夜中に肩の痛みでちょっと起きたが、いつもならそのまま寝そびれるのだけれど、すぐ再入眠できた。エアコンがつけっぱなしだったので、足下が冷えて足がつりかかり、目覚めたら朝だった。幸いすぐに治まる。左足のむくみは大分引いた。これなら今日は加圧靴下は必要ないだろう。静脈瘤がいくつか見られるのが気になる。出来出すと悪化することが多いという。とにかく身体の中のさまざまな流れが滞っているのは確かなようだ。肩の痛みは相変わらずだが、そういうものだと受け止められる程度になっている。右腕を使わない起き上がり方にも慣れてきて、起き上がることが大分楽にできるようになった。

 

 明日、午前中には防災訓練が終わるので、午後からいつもの下呂郊外の温泉宿に、連泊で休養に出かける。体調の調整である。身体のひずみを補正したいと思う。周辺は坂が多いから、足の鍛錬になる。当地は来月二日からまた梅雨に逆戻りで、梅雨明けはその先のようだ。

2025年6月27日 (金)

歩けた

 今日は所用で午後から名古屋に出かけた。来週でもかまわない用事だったが、来週の方が暑くて今日の方がましに思えたので、久しぶりに名鉄電車に乗って出かけた。暑いけれど風は比較的に涼しいので、案外しのぎやすい。目当ての場所が見つからず、かなりうろうろしてしまって、結局八千歩以上歩いてしまったが、案外歩けたのがうれしかった。

 

 これなら出かけることが出来そうだ。大汗もかいたので、着替えて体重を量ったら、一キロ以上減っていた。減量しようと決めた一昨日から見れば、三キロ近く減っている。むくみもかなり引いた。土日は引き続き歩いて汗をかき、来週はちょっと近場にでも出かけようかと思う。日曜日はマンションの防災訓練の日で、いざというときのためにちゃんと参加することにしている。

幼児にスマホ

 幼児にスマホを扱わせている親が二割もいるという。幼児がスマホに夢中になりかねないので、ルールを決めて使わせる必要がある、と専門家がアドバイスしていた。小中学生でも、いや、成人ですら、スマホに大きく時間を割いてしまって自己管理できないケースが多いと言われているのに、幼児にルールを決めて使わせる、などということが可能なのかどうか、危ういことである。

 

 いまの子供がデジタル機器になじんで育つのは、ある意味で仕方がないし、必要なことでもあるのだろう。しかしスマホはセキュリティの問題もあるし、視力や姿勢への悪影響も指摘されているところである。幼児ならさらに影響を受け安いであろう。そもそも親が幼児にスマホを持たせようと思うその理由がよくわからない。スマホを扱いかねている私などは、ついそのような風潮に批判的になってしまう。ついて行けない者のひがみだろうか。

2025年6月26日 (木)

少しずつ片付ける

 好きな読書ですらする気が起きなかったぐらいであるから、嫌いな掃除や片付けが滞り、部屋の中が散らかったままである。ようやくその掃除や片付けをする気になった。寝室にしている部屋をざっと片付け、トイレを掃除し、部屋に散らばる本をまとめて、本棚に収め直したりした。冷蔵庫の中の古い瓶詰めやその他、食べられそうだけど食べる気にならないものなどを処分した。どうも今の冷蔵庫は収納力が不満である。一人暮らしだからたいした容量が必要なわけではないのに、それでも納めきれなくなるのは片付け下手もあるけれど、冷蔵庫にも問題があるのだろう。

 

 まだまだ片付け始めたばかりであるが、その気になっただけ良しとして嫌気がさす前にいい加減なところでおさめた。一時的なフレイルが治まったら、今のフレイル用のレイアウトを少し元に戻そうと思う。その方が生活がしやすい。つまり今は椅子生活にしているが、もとのように床に座る方式に戻そうというのだ。立ち上がるのが少し骨が折れるが、摑まれる物を脇に置いておけばなんとかなる。読書やテレビを見る視線がその方が楽なのである。

 

 部屋の隅にどかしてある大型で重い座椅子を元に戻すのが大変だが、なんとかなるだろう。若干の補助具をネットで調べて手配した。本当につらくて立ち上がれなくなったら、本格的なテーブルと椅子の生活に変更するつもりである。

 

 次は不要な物の処分を少しずつしよう。まずなにから手をつけるか考えることにする。

 

NTTファイナンスからのお知らせ、という電話が固定電話から入った。回線に問題があるから法的処置をします、オペレーターへおつなぎしますから1のボタンを押してください、などという。回線に問題があるのならNTTの問題で、私の問題ではない。それなのに法的処置をするとは何事か!ふざけるにもほどがある。いま二回目の同じ電話が入った。こちらの方がNTTに法的処置を執りたいぐらいだ。もちろんNTTからではないと思うが、こんなことを放置していて対処しないで繰り返されるなら、こちらが対処するしかない。怒っている。

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調整中

 今朝の室温は29℃、窓を開け放っても湿度が高くて蒸し暑い。昼前後から雷雨の予報。昨日は熱中症にならないよう気をつけながら、汗をかくように努めて、摂取する水分も普段より控えめにした。汗をかけば着替えるようにして、多少体重は減少し、足のむくみは加圧の靴下をはき続けたら、今朝見るとこちらも多少効果があったようだ。栄養バランスを考えながら食事の量も控えめにしてみている。肩の痛みは相変わらずだが、寝ているときより起きている方が楽である。何度も目が覚めるので安眠できないが、眠ければ昼寝すれば好いだけだ。

 

 身体の水分を減らすだけなら、多分二三日で三キロくらいはすぐ落ちるはずである。しばらく身体のメンテナンスに注力するつもりである。筋力を落とさずに減量して、酷暑の夏を乗り切らなければと思う。

150403-55元気に終活

2025年6月25日 (水)

元の木阿弥

 痛みの軽くなった右肩は、寝ているうちにその上でアルペン踊りでも踊ったのか、夜中に痛みで目覚めてみれば元の木阿弥である。もう一度荒療治をする勇気もなく、少しはましか、さらに悪化しているのか、痛みの程度を測っているところである。

 

 それとは別に、泌尿器科の医師にセッセと水分を摂れ、という指示に従っていたら、左足の膝から下がむくんできた。摂った水分がどんどん循環し、出て行くことが必要なのだが、エアコンの効いた部屋にいて汗をかかないから水がたまってしまったらしい。そもそもふくらはぎの部分は第二の膀胱と言われる。こちらの膀胱がため込みすぎているということで、それをどうしたら排出させるか。汗をかくしかない。

 

 今日は汗をかくことにする。

2025年6月24日 (火)

バキッといって

 肩の痛みが治まりそうで治まらず、いい加減嫌気がさしてきたので自己流の荒療治をしてみた。腹ばいになり、肘をついて思い切り肩甲骨を開きながら曲がらない肩を無理に曲げてみた。バキッという音がして、激痛が走った。しかしその激痛は瞬間的で、そのあと痛みがにわかに軽くなった。腕も少しなら後ろに動かせるようになった。何かがきちんと嵌まり直した感じである。これで直った、などと安心はまだ出来ないが、定常的に続いていた痛みがこれだけ軽くなると、気持ちが少し楽になった。

 

 こんな無茶なことは、取り返しのつかない結果になりかねないところだが、今回は結果オーライである。再び痛み出すかどうか様子を見ている。明日また泣き言を書いているかもしれない。

続けて映画を見る

 2022年のフランス映画『越境者たち』を見た。混乱のアフガニスタンから逃れてきた難民の女性が検問の騒ぎでギリシャで夫と生き別れになってしまい、単独で夫を探しながらイタリアへ、さらにフランスへと不法移民として困難な旅を続ける。それとは別に事故で妻を失い自身も大けがを負い、残された娘を抱えてリハビリ中のフランス人の男が、国境を越えたイタリア側の山小屋にこもって自らを見つめ直そうとしていた。

 

 不法移民狩りをする者たちと、それを庇護しようとする者たち、それぞれの正義が激しくぶつかり合う国境地帯で、男と女は出会う。軽装で過酷な冬の山岳地帯を越えようとする女を見かねて、男は助けようとするのだが・・・。それぞれの立場からの不法移民についての見方がそこに呈示されていて、それについてどう思うのか、改めて問われる映画となっている。たった一つの事例でも、これだけ重いのである。何十万、何百万という不法移民たちのことを思うとなにも言えなくなってしまう。命がけの彼等にどういう救いがあり得るのだろうか。不法移民を人ごとではないものとして考えさせられる好い映画だ。

2025年6月23日 (月)

映画を見る

 2017年の日本映画『氷菓』を見た。主演は山崎賢人で、広瀬アリスが共演している。『氷菓』は米澤穂信の同名のミステリー小説が原作である。彼の「古典部」シリーズの一つで、米澤穂信は好きな作家だから、この原作はもちろん読んでいる。「古典部」シリーズは些細な、しかし不思議な出来事の謎を、主人公がわずかなヒントから絵解きしてみせるという謎解き話がいくつか積み重ねられていき、無関係に見えたそれぞれが最後にはすべて関連していて大きな謎解きにつながるという構造になっており、その意外性に、なるほどそうだったのか、とうならせてくれるのである。最後のアナグラムによって解かれる真実は悲痛で、そこがこの物語の肝なのだが、すでに私はその答えを知っている。それでも面白いのは原作が優れているからだろう。

 

 2024年の日本映画『碁盤斬り』を見た。主演は草彅剛、共演は清原果耶、國村隼、斎藤工、小泉今日子、市村正親など。濡れ衣を着せられ、彦根藩を逃れた父(草彅剛)と娘(清原果耶)は貧しい浪人暮らしをしている。得意な囲碁が縁で両替商の主人(國村隼)と親しくなるが、経済的な援助は武士としての矜持が許さず、清い交際が続いていた。そんな中、たまたまその両替商宅で碁を打っている間に五十両の金が紛失するという事件が起きる。ここでまたあらぬ疑いを受けるのだが、ほぼそれと前後して、彼の元々の濡れ衣の疑いが晴れたという知らせが届く。そしてその濡れ衣を着せた真犯人は妻の死の原因を作った男(斎藤工)であったことも判明する。娘をカタに五十両の金を作り、彼はその真犯人を討つために旅立つ。期限は大晦日の晩まで。草彅剛の殺陣は見事で、見かけほどひょろひょろせずに十分迫力がある。できのよい時代劇であった。清原果耶は好い女優だ。市村正親は大貫禄。

雷雨

 朝からけだるく、治まっていた右肩の痛みがまた強くなった。寝ている間にまた痛めたらしい。耐えられない痛みではないものの、寝ていても起きていても痛いので身の置き所がない。朝は雨が降っていなかったが、岐阜県北部、特に高山あたりは激しい雨だという。また、伊良湖あたりも強い雨が降っているようだ。当地も昼近くなったら空がにわかに暗くなり遠雷が聞こえ、テレビでは愛知県西部に竜巻警報が出たと報じていた。そうして昼食の支度をしていたら強い雨が降り出した。

 

 その強い雨も一時的で、今は小雨である。気温は高くないようだが蒸すので、弱めにエアコンをかけている。昨日まで映画を何本か見たので、それをブログに書こうと思いながらぼんやりしている。

 

 それにしても都議選の結果もなんだか曖昧なことに終わり、アメリカのイランへの爆撃も、海外ニュースを見る限り、すでに予定の消化が終わったというような報じ方で、あとはイランの出方待ちらしい。何なのだこれは。それにしても核濃縮施設を爆撃したのに放射能漏れが検知されないというのはどういうことなのか。濃縮ウランはすでに別の場所に移動済みとイランは説明しているが、それにしても全く痕跡がないというのもおかしいのではないか。本当に濃縮ウランはあったのだろうか。爆撃終了後の映像(写真)が映していたのは、なんだかくたびれ果てて放心しているようなトランプの姿であった。私の勘違いか。

2025年6月22日 (日)

賽(さい)は投げられてしまった

 見るものがないので土日はあまりテレビをつけないのだが、たまたまつけたら、NHKの緊急ニュースとして、アメリカがイランの核施設を攻撃した、とトランプが発表したことが報じられていた。これからどうなるのか、イランがどう反応するのかがわからないけれど、最悪の場合は行くところまで行ってしまいかねない。一度参戦すれば引き返せない。少なくともイラクに侵攻した時のように、最終的にイランの体制を倒すまで戦争状態になるだろう。そうなればイランは無秩序の混乱状態になる。その前にホルムズ海峡封鎖が現実化し、石油の輸出入が困難になる可能性があるかも知れない。日本にとっては由々しき事態である。

 

 しかしテレビでは芸人たちがバカ笑いをしている。

 

 あのときが転換点だった、とあとで言われることになるか、そういう未来そのものがなくなるか、そういうときのように感じる私は大げさか。

混乱の先のあるのは

 梅雨の中休みが終わり、今晩あたりから再び雨になるらしい。元気なら天気の好い間にあちこち出かけたかったところだが、その気力がないので静養に務めていた。静養してますます衰える恐れもあり、内心焦りもあるが、今は我慢している。今朝は室温より開け放った外気の方が気温が低い。低いけれども湿度が高いので、身体の表面がべたつく気がする。

 

 トランプ大統領は、平和のためにこれだけ貢献しているのだから、どうして自分がノーベル平和賞がもらえないのか、と言っているらしい。冗談にしか聞こえないが、どうも本人は本気らしい。狂人のタワゴトである。彼が何か平和に貢献したのか、何か成果を上げたことがあるのか。平和とは何かをトランプは知っているのか。ところがパキスタンの大統領だか首相だったかが、トランプをノーベル平和賞に推薦するのだそうだ。計算ずくではあろうが、ノーベル平和賞を軽んずること同類である。そもそも平和とは無縁の、そういう意味で軽い賞なのであろう。欲しがっているならやればいい。名誉や貢献を伴わない無意味で軽い勲章になど何の値打ちもない。子供のおもちゃでしかない。もらってもトランプ狂の信者以外には敬意を表されることもない。

 

 そういう平和に貢献しているとうそぶくトランプのおかげで、世界の混乱は増大して、戦争の危機が増している。冗談でなしに大きな戦争の危機は増している。その混乱の先には何があるのか、もう誰にも予想できなくなってしまった。

 

 そういえば今日は都議会議員の選挙の日だ。その結果が来たるべき参議院議員選挙に大きく影響するというから興味津々だ。それにしても、今の政治家に、日本の国のこと、日本の国民のことを大きなビジョンの中で語る人間が見当たらないのが心配である。こういうことが続いているから政治離れが起きてしまうのであり、そうしてそれが突然全体主義的な独裁者を生む下地になるのだ、と先崎彰容が論じていた。私もそれが心配だ。

2025年6月21日 (土)

してはいけないこと

 人として、してはいけないことというのがあって、それは知らなかったでは許されない。そういうことをして、知らなかった、してはならないとは思わなかった、などという言い訳は通用しない。

 

 それなのにそういうことを、たいした理由もなしにしてしまう人間が一定数いる。必ずいる。だから「二度とこのようなことが起きないように・・・」などという言葉はむなしいのだ。してしまう人間がいることを想定して法律があり、罰則があり、社会的に処罰されることになる。

 

 それにしてもその一定数が増えてはいないか、という思いを持ってしまうのは、そういうニュースばかり見聞きさせられているからだろうか。実際に増えているのなら、どうしてなのだろう、どうしたらいいのだろう。

 

 こういうとき、必ず指摘されるのは、社会の基準は時代とともに変わるではないか、ということだ。その通りである。昔は当たり前にいけなかったことが、今は別にかまわないことになった、ということは山のようにあるし、逆のことも多い。そういう境界部分をつつき出せば話は混沌の中である。しかし、その時代、その状況でのしてはいけないことは現にあるはずだし、それを否定してしまえば世の中は無秩序になるだけだ。

 

 それはそれとして、社会のルール逸脱が増えているように感じるのは、甘えの蔓延だろう。例えば渋滞したら路側帯を走る輩がいる。自分だけだから良いだろうという精神的甘えである。同じことをみんながやり出せば収拾がつかなくなる。そういう人が少ないから世の中はなんとか治まっている。やはりしてはいけないことは、出来てもしない人間になりたいものだ。

 

 ところで、世の中のひずみを生み出している精神的な緩みの原因として、責任をとる、という当たり前のことがおろそかにされているからではないかなどと思う。無罪だから責任がない、というおかしなものを見せられ続ければ、世の中の箍(たが)は緩んでいく。するべきことをしなかった経営者には原発事故の責任はないそうだ。多数の人間を苦しめ、累計すれば何十兆円何百兆円の被害を国民にもたらして、責任はないという。責任をとるための存在が経営者ではないのか。頭は下げるけれど、責任はとらない、というのがまかり通っては、やはりおかしい。謝罪は謝罪として、頭を下げたことが責任をとったことになどならないのではないか。大川原化工機の違法告発についても、違法を実行した担当者がどのような処罰を受けたのか受けなかったのか、それを明らかにしなければ、責任をとったのかどうかわからないではないか。

 

 蛇足ながら、芸能人が果てしなくたたかれるのは、身から出た錆とはいえ、見ていて哀れな気もする。有名になることはときに恐ろしいことだ。有名になどなりたくてもなれないし、なりたいとも思わないけれど。

『安市城 グレート・バトル』

 2018年の韓国映画『安市城 グレート・バトル』という、七世紀の唐の時代の高句麗と唐との戦い、主に安市城という城を巡る攻防が描かれる。先日見た『墨攻』や以前見た『のぼうの城』など、攻め寄せる大軍に対して寡兵で城を守るという物語は大変面白いものになる。『のぼうの城』は実際の忍城(おしじょう)の攻防が描かれていてほぼ実話である。忍城は今の埼玉県の行田にあった。若い頃行田の隣町の熊谷に住んでいたので懐かしい場所である。楠木正成の千早城の攻防、やはり城にこもって徳川軍を苦しめた真田の戦いなど、戦いが巧みであれば少数で守ることが出来るのである。

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 できの良い特撮で、描かれる戦いの様子がとてもリアルであり、見応えがあった。韓国映画は最近あまり好みではないのだが、この映画は悪くなかった。こういう城主がもう何人かいたら、朝鮮半島ももう少し違った歴史をたどっただろう。

名文

 私は理科系の出身なので、文学的な文章の、学術的な評価をする素養も知識もないが、永井荷風の随筆集『日和下駄』約百ページ全十一篇は比類のない名文だと思う。一篇一篇を味わいながら、まだ半分ほどしか読んでいないけれど、読み終わってしまうのが惜しいと思いながら読み進めている。岩波書店の『荷風随筆』という全集の中にあり、旧漢字旧仮名遣いである。これを新漢字現代仮名遣いなどで読んだら、その味わいを失ってしまう。内田百閒の随筆を旺文社文庫の旧漢字旧仮名遣いで読み、同じものを福武文庫(現ベネッセ)の新漢字現代仮名遣いで読み比べて、その違いを実感した。若い人に、一部でも良いから旧漢字、旧仮名遣いの文章の面白さを知ってもらいたいと思う。

 

 第一篇が『日和下駄』という文章で、これなど高校の教科書に採用したら絶好の題材だと思う。短いけれど丁寧に読み込めば汲めどもつきぬ内容を知ることが出来るだろう。ただ、この文章をとことん読み込むためには書かれている時代背景や永井荷風そのものを知らねばならず、教師は大変かもしれない。しかしその程度のことが出来なければ国語の教師の看板は下ろした方がよい。

2025年6月20日 (金)

暗いけれど救いがある

 2017年の日本映画『追憶』を見た。名前から想像するようなロマンチックな物語ではなく、凄惨なシーンを含む暗い映画である。それなのに見応えがあり、最後に救いがあって、好い映画を見たという印象が残った。監督は降旗康男、主な出演は岡田准一、小栗旬、柄本佑、長澤まさみ、安藤サクラ、吉岡秀隆など。ほかに木村綾乃、安田顕、私の好きなリリィなども出演している。

 

 少年時代に経験した、誰にも言えない事件に関わった三人が、それぞれの人生を生きて25年、互いに交流をしないことにしていたのに関係が生じてしまい、再び事件が起こる。比較的に順調な者(小栗旬)、小さな事業所の維持経営に苦しむ者(柄本佑)、夫婦関係や母親とのこじれた関係で苦しむ刑事(岡田准一)の三人が関わったその日に事件が起きて、彼等は目を背けてきた過去と直面せざるを得なくなる。

 

 全員芸達者ばかりだし、降旗康男監督であるからわずかの緩みもなく、冗漫な部分もない好い映画に仕上がっている。見てよかった映画だ。

潜水艦映画は面白い

 ジェラルド・バトラー主演の、2018年のイギリス映画『ハンター・キラー 潜航せよ』を見た。ジェラルド・バトラーはハンサムというタイプではなく男臭い俳優で、彼が出演すると好い映画になる。彼が好きだからそうなのかもしれないし、彼が比較的に良い映画に恵まれていると言えるのかもしれないが、私は彼の存在感が出演映画を面白いものにしていると信じている。

 

 大体彼が出演する映画は、全く生き延びるのが不可能な状況に追い込まれて絶体絶命、というストーリーのものばかりだ。その状況をクリアするのはあまりに荒唐無稽といえばそうかもしれないが、彼なら出来てしまうのである。今回見た映画は珍しく彼がアメリカの潜水艦の艦長という役柄で、彼自身がドンパチとアクションをすることがない珍しい役どころだ。潜水艦はロシアの領海奥深くに、文字通り潜入して不可能に近いミッションに挑戦する。普段なら彼が演じそうな役どころは別グループの精鋭部隊で、同じくロシアの奥深くに潜入して最終的に合流することを目指す。

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 彼等は第三次世界大戦への一触即発の危機を切り抜けることが出来るかどうか。見方によればこんなことは不可能で、ご都合主義過ぎるかもしれないが、それを感じさせずにハラハラドキドキし続けることの出来る、私にとってはとても面白い映画だった。潜水艦映画は数々あって、たいていがとても面白い。潜水艦の中という最初から緊張状態の中という設定が面白くさせるのだろう。

資本主義の原点

 私の思う資本主義の原点は、自由な移動と交易である。これは様々な先賢の本を読んで考えたことで、そもそもそう考えるに至ったのは、宮崎市定の『アジア史概説』という本の中の、

 

 歴史の進行にとってもっとも重要な要素は民族、土地とともに相互間の交通ということがある。一地域に成立した民族はその血縁的あるいは歴史的に祖先から受け継いだ稟性(ひんせい)をもって行動し、これをめぐる自然的環境がまたかれらの行動を啓発し、制限することが多いものであるが、しかし歴史はそれだけによっては動かされない。むしろ外界との交通が重大な作用を及ぼすものである。民族と民族、もしくは国家と国家とが相接触し、相交通することは、同時に両者の間に生存競争が行われることを意味する。人類は競争によって、その文明が進歩したことは見逃すことの出来ない事実である。

 

という文章である。初めて読んだとき、この文章にしびれた。世界観が変わった、というより広がった。歴史は他者との関わりがあって初めて始まる。考古学と歴史の違いはそこにあるだろう。そういう意味で朝鮮半島や中国などとの関わりがあって相対的に日本という国が歴史的に意味を持つ。鎖国などのように存在するのに関わりを持たない、というのも一つの関係であろう。幕末はそういう関係が激変したときで、関わる国が西洋まで広がることになった。

 

 シルクロードに憧れるのは、エキゾチックな興味からだけではない。そこにある交易こそが人類の歴史そのものでもあるからではないかと思っている。

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 その交流や交易に制限を加えるということは、資本主義とは相容れないことで、歴史的にも愚挙だと私が思うゆえんである。

2025年6月19日 (木)

また終末

 無人で戦う戦闘機械の進化が著しいという。今までは遠隔操作で動作していたが、すでにAIの自己判断によって全く人間が介在せずに動作するものが開発されている。そうなると、AIの判断そのものに歯止めを加えておかないと、映画『ターミネーター』の世界が出現してしまうわけで、そのための共通の限度をもうけようという国際会議が提唱されているそうだ。ところが、無人戦闘機械の開発が最も進んでいるかもしれない中国が、参加を拒否しているという。それではなにを決めても意味がない。

 

 ある学者によれば、AIが人間の知能を超えるのは2040~2045年頃だそうだ。そのときにAIが人類やAI自身の敵を自ら判断して、その敵の絶滅に動き出す。その敵とは誰か。今の世界を見れば歴然たることではないか。人類の敵は人類である。テロリズムはニヒリズムと直結し、無秩序の果てとしての人類終末を生み出すことになるに違いない。残念ながらそれまで生きられそうもない。それとも、もし生きていたら、みんな一緒にご臨終か。

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終末

 朝起きて窓を開け放ち、外気を入れても室温は29℃もある。昨晩はエアコンをつけっぱなしで寝たら、足もとが冷えて夜中に足がつり、起こされてしまった。幸いつったのはごく短時間ですぐ修まったが、しばらく寝られなかった。今日も猛暑日らしい。これで名古屋は連続三日である。暑いのに腹を立てても仕方がないことで、これが日常なのだと思うしかない。

 

 あちこちの紛争が本格的な戦争にエスカレートしかけている。イスラエルはイランが核を持つことを阻止するために、徹底的にイランをたたき、本気で今のホメイニ体制を崩壊させるつもりのようだ。その後になにが起こるかといえば、イランがアフガニスタンやイラクのような無秩序な地域になるということだろう。民主国家が出現することなどあり得ない。今以上に人々は命を脅かされ、生活に困窮することになるだろう。イスラエルも無傷でいるとは思えない。無秩序な地域はテロリズムの温床である。イスラエルの周辺すべてがそういう国になっていく。今のイランのように、たたくべき頭の存在する国ならたたけるが、テロ集団は頭があってないようなものだから、イスラエルの未来も地獄だろう。

 

 我々はいま、分断が無秩序を生むという図式を見せられている。アメリカという国の強さは自己補修能力だ、という。もし愚かな大統領が出現しても(現に、過去何人も愚かな大統領が出現した)システムが堅固でその暴走を食い止める事が出来るようになっているという。しかも周辺をそれなりの人々が支えて、多少のことがあっても補正することが可能なのだという。今のトランプが愚かであることは、どんなにそれを糊塗するおかしげなこじつけの釈明や説明を聞かされても隠しようがない。しかもそれを止める議会システムも作動せず、周りはイエスマンだらけ、というのでは、自己補修は効かないのではないか。アメリカでもテロが日常的になってくるのではないか。

 

 次第に世界が無秩序化し、終末がやってくる・・・のかもしれない。そのことへの無意識の不安が、少子化の本当の原因ではないだろうか。

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2025年6月18日 (水)

フレイルにあらがう

 フレイルとは加齢による心身の衰えのことで、自分がもうろくしてよぼよぼじいさんになることであると認識している。兄弟での春の小旅行のあたりから、そのフレイル化が急激に襲ってきた。足の踏ん張りがきかずによろける、歩くのが極端に遅くなる、様々なことに興味がわきにくくなる、何かをする意欲が低下する、するべきことにすぐ取りかかれない。おまけに右肩痛、左膝の痛みが加わり、ますます身体の動きが鈍くなって、一気に十歳くらい年をとったようだ。戸惑いとともに自分の姿の情けなさにあきれているが、現に起きていることであってそんなはずはないと否定しても救いはない。

 

 不調を理由にほとんど引きこもり状態になっていたが、昨日思い切って琵琶湖までドライブに出かけた。長浜あたりから湖岸に出て、そこから北上して湖北、そして湖西を走り今津の浜を見て、おおざっぱに一回りして帰路についた。帰り道のナビはおかしな案内をして、栗東から新名神を通って三重県経由の道を指示された。大分遠回りした気もするが、地図を見直してみると、全く不合理という訳でもないようだ。

Dsc_3669霞む琵琶湖

Dsc_3673_20250618061601意外に近い竹生島

 

 昨晩と今朝、少し痛みが軽減しつつある肩を少しずつ動かすようにしてみている。痛いけれど、無理をした分だけ明らかに可動域が増えていて、少しだけ腕が後ろに動くようになった。このまま軽快化してくれれば安眠できる。安眠できれば気力も回復する。左膝が痛むのは古傷である。二十年ほど前に半月板を損傷して十日余り松葉杖をついていたことがあり、何かの拍子にその古傷が痛むのだ。身体のバランスが狂い、腰から肩、そして膝までひずみが及んでいるのだ。自己流でそのゆがみを直すべく身体を補正し始めた。

 

 身体を動かしていると、ほんのわずかずつだが楽になってくる。蟷螂の斧ではあろうが、フレイルにあらがってみようと思う。最初から白旗を揚げたくない。

2025年6月17日 (火)

少し動いてみる

 昨日、歩いて行ける近くの整形外科に行ってみた。待合室には人がたくさんいて、座るところがない。窓口で尋ねると、今日は特に受診の人の多い日で、これだと早くても最低二時間以上待つことになるでしょうと、気の毒そうにいう。診察を受ける気がしなくなった。不自由ではあるが、我慢できないほどではないと思う。

 いつも20日前後に行くことにしている妻の入院している病院に、少し早いけれども支払いだけしに行く。病院まで20キロ足らずの距離だが、途中に昨年から続いている道路工事区間があるために、信号待ちが多い。名古屋周辺は、道路が広いのは良いが、その分だけ信号が長い。おまけにトラックも多いので、渋滞し始めると時間が読めなくなる。なんだかイライラして気持ちが落ち着かない。それでも一つ仕事をして、帰り道では気持ちが修まった。あちこち不調だが、運転に差し支えるようなことはないようだ。

 ということで、今日は久しぶりに琵琶湖を見に行こうと思う。どこかを訪ねれば当然歩かなければならず、それには膝が痛いので、今日は車窓から湖面を見ながらただ走る、ということで気分転換しようと思う。朝早く出発し、行きは地道を使って高速代を倹約するつもりだ。国道22号で岐阜の手前まで北上し、途中で西へ向きを変えて国道21号で関ヶ原を抜け、琵琶湖を目指す。行き当たりばったりで、目的は特にない。引きこもりが続いているので、それを打破できれば十分である。

 今日は暑そうだ。

2025年6月16日 (月)

読みそびれていたと

 読みそびれていたと思っていた本を、類似の本を読んでいるついでに開いて読み出したら、ちゃんと以前読んでいた本だった。荒俣宏の『本朝幻想文学縁起』(集英社文庫)という本である。きちんと読んだとは言えないので、今回は丁寧に読み進めることにした。

 

こんなことが書かれていた。

 

 日本の幻想文学を考える場合、その短編小説の技巧として何よりも注目しなければいけないのは、謡曲である。この世界は、ほとんどすべてが幻想怪奇の短編世界だといっても、言い過ぎではない。このことは、実際、小町物と呼ばれる小野小町の物語を語るだけで十分に立証できる。小町伝説のうちでも不気味な曲(もの)を、今ここにいくつか例示してみよう。

 

とあって、『関寺小町』という謡曲がまず紹介されている。これは幸い私の手持ちの謡曲集の中に納められているので、後でじっくり読むつもりだ。

 

 その謡曲集を一日一つずつ読み進めているが、今日は『田村』という曲を読んだ。清水寺の縁起に関わる曲で、田村とはもちろん坂上田村麻呂のことである。東北で蝦夷を征伐に行き、アテルイを捕虜として都に連れ帰った田村麻呂は、朝廷にアテルイの助命を願ったが許されず、アテルイは殺されてしまう。清水寺にはあの清水の舞台の下にアテルイの墓もある。

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 記憶違いで、墓ではなくて顕彰碑であった。

 その田村麻呂が鈴鹿に住む逆賊を退治に向かい、観音菩薩の助けを受けて打ち払ったという話が謡曲『田村』のハイライトである。そういえば「あいの土山」で知られる土山宿の近くに田村神社があって、いつか行こうと思っていた。多分この謡曲『田村』と関係があるはずだ。

 

 小野氏といえば近江、琵琶湖の西岸に小野氏の里がある。小野妹子に始まり、小野篁、小野道風もすべて一族である。小野小町もその係累ではないかと勝手に想像している。小野小町の伝説はあちこちに残っている。

2025年6月15日 (日)

映画を見る

 久しぶりにここ数日映画を続けてみている。

 

 一本目は2010年の韓国映画『超能力者』。超能力者を描いた小説を読むのも映画を見るのも好きだが、どうしてそういう映画は凄惨なものになるのだろう。人は超能力者に対して不気味な思いがあるから、ことさらそういうものになるのかもしれない。魔眼により人を操る男と、その魔眼の効果がなく、驚異的な回復力の男との対決が描かれる。映像的には面白いが、ストーリー的にはいまひとつであった。

 

 二本目は2018年の中国映画『SHADOW 影武者』。チャン・イーモウ監督作品である。色彩のチャン・イーモウが、この映画では無彩色、白と黒を基調にした映像を見せてくれる。なんとなく、篠田正浩監督の『心中天網島』という映画(そちらは元々白黒映画だが)を思い出した。大がかりなセット、そして華麗な格闘シーンはチャン・イーモウらしいが、途中まで見て、一度見たことがあるのに気づいた。それでも最後まで見たのはできが悪くないからだ。ただ、あまりにも暗い映画なので、面白いとはいいにくい。

 

 三本目は2024年のイギリス・スペイン映画『パラベラム 殺し屋の流儀』。これはよかった。殺し屋が標的の住む島にやってきて、旅に出て不在の標的が帰るまでその島で過ごす日々が淡々と描かれていき、なかなか話が進んでいかないのだが、それなのに緊張感があって面白いのだ。主人公の殺し屋が渋くて、それを演じる俳優が好いし、台詞も良い。不思議な幻想的なシーンもあって、しかもそれに違和感がないのも素晴らしい。

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 最後は2012年の香港・中国映画『ライジングドラゴン』。主演はジャッキー・チェン。最初のつかみはそこそこ見ていられたが、その後は見るに堪えられなくなって打ち切り、消去した。こういう映画のどこが面白いのか、全く理解できない。

読んで考え、理解して考える

 若い頃は娯楽小説(ミステリーや時代小説、SFなど)を読むことが多かったから、読み飛ばせば、つまり面白ければそれでよかった。次第にそれだけでは物足らなくなって、考える必要のある本を読むことが増えた。ずいぶん前から読んだ本を手帳に書き留めているが、ときどき考えたことの断片がメモされている。せっかく考えたことを忘れてしまうのがもったいないと思っていたことを思い出す。

 

 リタイアした後しばらくして、ブログをしている先輩をまねてブログを始めた。旅に出かけたり、本を読んだり、映画やドラマを見て感じたこと、考えたことをブログに書き留めようと思って、そのことを書いてきた。おぼろげで形になっていない考えを、なんとかことばに変えようと思うと案外たいへんで、考えを深めることが必要である。ブログはそのための多少の訓練になる。今は読書手帳は書名と著者名だけしか記していない。

 

 古いブログは日付順に整理し直してアーカイブにしてある。それをたまに読み直したりすると、その中身の薄さに恥ずかしい思いがするけれど、自分が何を感じ、考えたのか思い出すことは出来る。多少は深く考えられるようになっているのかどうか・・・。ただ、考えることが以前より面白く感じられるようになったことは確かに思われる。

 

 読んで考え、理解して考えなければならない本を読むことが増えた。そうして、そういう本を時間をおいて読み直すと、全く気がつかなかった大事なことに気がついたりする。わかったつもりで読んでいたことが、実はちっともわかっていなかったことを知る。そして様々なことが不思議に関係していることも見えてくる。広く知るより深く知ることの方が大事なのだと、今頃ようやく気がついた。

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 本というのはそんなにたくさん必要ないのだと、この頃強く思うようになった。繰り返し読むに耐える、そういう本をそろえて、考える楽しみを楽しむということがちょっとだけわかるようになった。ただ、繰り返し読むに耐える本を選び、その値打ちを知るためには、その何十倍もの本を読まなければならないのだということも事実だ。だから今までは無駄ではなかったのだと思っている。そういう楽しみに気がつくのがいささか遅すぎたけれど。

2025年6月14日 (土)

健全でこそ

 ブログというのは心身に問題がない状態、ゆとりがある状態でこそ書き続けられるものであることを、このところ痛感させられている。右肩痛から始まって、右手首、左膝、腰が痛くなり、座っているのも立っているのも、ついには寝ていても身体がどこか悲鳴を上げていて、身の置き所がない。

150403-129_20250614101801痛い!

 どれも耐えられないほどひどい痛みという訳ではないのだが、常にどこかが痛いから、ものを考えたり楽しんだり出来ない。特に安眠できないことに参っている。寝ている間につい痛い左肩に体重をかけてしまい、それで目が覚めてしまうし、せっかく痛みが引き始めたのにまたその左肩を痛めてしまう。そうやって寝不足だから、昼間もうつらうつらしてしまう。

 

 本はなんとか少しずつ読み進めている。だからそれをネタにブログに書こうと思うことがないではないのだが、それなりの集中力が必要で、それが今は続かないで先送りになってしまう。全体としては最悪な状態から脱しつつあると思うのだが、安静を続けるのが好いのか、多少の負荷をかけて回復を早めるのが好いのか、それの判断がつかない。

分断

 韓国の今回の大統領選挙について、SNS(主にYouTube)との関わりを保守革新双方に取材したNHKのドキュメントを見た。そこでは敵か味方か、という単純化した考えへ人々が追い込まれ、必然的に分断が進行していく様子を見る事が出来た。これはアメリカとほぼ同じ図式で、他の国でもそういう分断が進んでいる例がありそうだ。

 

 日本はどうなのだろう。今のところそこまでの分断は見られていないが、SNSが選挙に大きく影響を与えつつある事から見れば、今後はわからない。白か黒かが感情的に問われて、白でも黒でもない現実の灰色が許されない世界は、実は恐ろしい世界なのだが、それを冷静に考える事のできない人が多数になりつつある。灰色は複雑で、単純に馴れるとその複雑さに耐えられなくなる。つまり知性の劣化である。

 

 どうして選挙にあれほど感情的になり、踊り狂う事が出来るのか。私には理解できない。

2025年6月13日 (金)

国語の教科書から

 国語の教科書を手がかりに、作家や評論家に興味を持った。今でも覚えているいくつかをあげれば、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、森鴎外の『高瀬舟』、『舞姫』、中島敦の『山月記』、保田與重郎の『日本の橋』、梅原猛の『隅田川』などがある。ほかにもたくさんあって、あげていけばきりがない。それほど国語の教科書には世話になったし、影響も大きく受けた。そういう出会いがなければ知らずに終わったものもあっただろう。

 

 保田與重郎については、昨年秋、近江に義仲寺を訪ねたとき、木曽義仲の墓と、そのそばの芭蕉の墓を見たあと、寺の裏手に保田與重郎の墓を見つけて、驚いた記憶がある。保田與重郎は、亀井勝一郎などと「日本浪曼派」を興し、後に檀一雄や太宰治も加わった評論家である。墓に手を合わせ、帰ってから彼の『日本の橋』を久しぶりに読み直した。この文章の最後の部分、名古屋の熱田に架かる裁断橋の銘文のことを記したところが教科書に掲載されていた。そのことはそのときにブログに書いた。

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 また、梅原猛にはずいぶん傾倒し、彼の本をずいぶん読んだ。そのきっかけが謡曲の『隅田川』について論じたもので、おおざっぱにいえば能の脚本でもある謡曲の、読み方、面白さ、世界観を教えられた。小学館の古典文学全集のうち、興味があって読みたいもの(全体の半分ほど)をそろえていて、折に触れて拾い読みしているが、そのうちの二冊が謡曲集である。

 

 それとは別に、鬼、妖怪、綺譚などについて書かれた本を読むのが好きで、日本だけではなく中国や西洋の本が少なからず棚に並んでいる。その日本の話についての評論には、しばしば謡曲が引用される。謡曲の世界では彼岸と此岸との境が曖昧で、その幽冥を当然のものとして受け入れるところに物語の深みが感じられるものばかりである。今読んでいる本に阿部正路の『日本の妖怪たち』があり、その中にも、謡曲の引用があり、久しぶりに『謡曲集』も脇に置いて読んでいるところだ。

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 一日一つずつ、謡曲を読んでいる。これで一週間、今日で七曲(恥ずかしながら、こういう数え方が正しいかどうか知らない)を読んだ事になる。読みながら、謡の声がわずかながら聞こえている。ト書きに所作も書き込まれているから、それも見えないかと思っている。

2025年6月12日 (木)

大蜥蜴が生き残った理由

 手持ちの團伊玖磨の本の最後、『九つの空』(朝日新聞社)という紀行文集を味わいながら楽しんでいたが、ついに読み終わってしまった。『南海紀行』では東京の南海の果ての無人島群、孀婦(そうふ)島などを、『石の歌』ではカンボジアのアンコール遺跡群を、『北の海で』ではスコットランドのスタッファ島にフィンガルの洞窟を、『燕窩行』ではタイで燕の巣を獲る場所を見に行き、『仙人掌(さぼてん)と爆弾と』ではアメリカの砂漠を訪ね歩き、『オラ』ではコモド島の大蜥蜴を見に行き、『スワニーの彼方』ではフォスターの足跡を歩き、『フォアグラ』ではフォアグラとトリュフの作られ、採られている現場を見に行き、『赤い岩』ではオーストラリアのエアーズ・ロックを見に行っている。

 

 1968年から1971年にかけて、周到な準備を重ねた後に現地を訪れ、そこで全身を持って感じたことを詳細に記している。優れた紀行文というべきである。特に印象に残った部分として、コモド島で感じたことを同行者に語った彼の言葉を引用する。

 

「ね、僕はこの島にあの大蜥蜴が生き残っていた理由が、ここの人達の優しい心にあった事を知ることが出来て、僕はとても、今、幸福なのです。あの昔噺にもあったように、ここの人たちはオラ(現地の人の大蜥蜴を呼ぶ名前)を兄弟と思って殺さなかったのですね、そして、回教徒である彼等が、大蜥蜴の餌として大切な野豚を殺さない偶然も重なり、その上、一九三一年以後の保護も上手に行われたために、コモドの大蜥蜴は、太古以来の生命を永らえる事が出来た訳でした。動物にとって最も恐ろしい天敵である人間が、ここでは、大蜥蜴を害なわず、逆に彼等を守りました。コモドの大蜥蜴が生き残った理由が、人間にあった事、それを知った事は、この旅の最大の収穫でした。然し、若しもこういった生物が、日本や、ヨーロッパや、アメリカでだったら、とうの昔に絶滅していたろう事を考えると、文明人というものが恐ろしくなりますね」

耐用年数

 午前中に、大分前に予約してあった愛車の六ヶ月点検のためにディーラーに行く。今朝は青空が見える。雨上がりで空気が爽やかだ。出かける日になると天気が好転するような気がして、つい晴れ男を自称したくなる。晴れた日に出かけるのではない、出かける日が晴れるのだ、などと思う。身体のあちこちが不調で出かける気にならず、しばらく長距離を走っていない。雨だし。車の調子は別に問題ないと思う。

 

 膝痛用のコンドロイチン錠や、肩こりや眼精疲労用のビタミンA剤などのサプリメントを常用していたが、気休め程度にしかならないと思って、やめてしばらくになる。結構いい値段の薬でもあった。いま肩こりがひどいし膝は痛くなる、という状態になっている。やはり効果があったのだろうか。また始めようと思っている。帰ってきたら薬屋へ行こう。

 

 五年前の春、追突されて首の骨を圧迫骨折して、死にかけるような思いをした。愛車は私の代わりにおだぶつになった。その後に購入した愛車がこれで五年半である。この車を最後の車にするつもりで、乗るのもあと四五年かと思っているが、耐用年数はもう少しあるだろう。自分自身の状態を確認しながら見極めるつもりだ。人によって違いはあると思うけれど、それにしても九十を過ぎて公道を運転し、事故を起こして他人に迷惑をかけている人の話をニュースで聞いて、いくら何でも身勝手に過ぎると思う。自分がなんだか危なくなってきたと気がついていないはずがない。それすらわからないなら、とっくに耐用年数オーバーではないか。

2025年6月11日 (水)

ちょっと違うのだけれど

 2011年の中国映画『項羽と劉邦』を見た。范增と張良というふたりの軍師を軸に、鴻門の会の様子をクライマックスとして項羽と劉邦の戦いを描いていく。史記に記されている史実を比較的に忠実になぞっているのだけれど、細部で私のイメージしているものと違うのは、物語だからしかたがないところか。何より韓信の描き方に違和感がある。それと燓噲(はんかい)の豪傑らしさが足らない。もっと大男でないと燓噲らしくない。

 

 そこそこおもしろかったのだが、期待したほどではないのが残念。

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 いつも中国の歴史スペクタクル映画を見ると思うのだが、日本人としての私と中国人とでは、歴史の受け取り方が違うような気がする。価値観の違いが影響しているのだろうか。それをきちんと考えると案外大事なことが分かる気もするが、私はどうもそこまで深く解析する能力に欠けているようだ。

雨で目覚める

 夜半にときどき強い雨音を聞いた。夜明け前にも雨樋を落ちる水音を聞いて目が覚めてしまった。窓を閉めているから普段は聞こえない音だ。雨はときどき強まり、また静かになったりしている。

 

 雨の日は特段の用事がなければ外出しない。読書もなかなか集中力が持続しない。身体のバランスが狂ったままなので、肩が異常にこっていて、本を読むと一層首や肩が痛くなる。しかたがないので大量にある録画した映画を見たりしている。

 

 昨日見たのは『無頼の群れ』というグレゴリー・ペック主演の1958年の西部劇映画だ。これは一種の復讐映画でもあり、その妄執が意外な結末を生む。それでも西部劇映画なのであまりウエットではなく、見た後の印象は悪くない。グレゴリー・ペックは大好きな俳優で、出演していれば必ず見てきた。この人には一般的なアメリカ人よりも、東洋的知性を感じる。脇役で、リー・バン・クリーフが出ている。

 

 もう一本、2014年の韓国映画の『マスター』を見た。イ・ビョンホンがマルチ商法などで巨額の金を稼ぐ天才詐欺師のリーダーを演じている。さすがにすごみがある。それを検挙しようと知的犯罪局の捜査官(カン・ドンウォン)が追う。ただ検挙するだけではなく、政財界にはびこるさまざまなしがらみごと検挙しようとするので、抵抗勢力による妨害や不気味な暗殺者などが跋扈する。

 

 事件は二段階になっていて、後半は舞台がフィリピンに移る。マニラ市内でのカーチェイスなど、盛りだくさんである。まあまあおもしろかったけれど、ちょっと長すぎる。

 

 本日も映画三昧の予定。

2025年6月10日 (火)

予報どおりに

 昨日は予報どおりに午後から雨。そのまま降り続いて、今朝も本降りの雨。今日は終日雨らしい。これほどわかりやすい梅雨入りは近年珍しいと思うが、本当にそうなのかは記憶が曖昧なので分からない。

 

 右肩痛は一時期ほどの激しい痛みは治まっているものの、寝ているとき無意識に右に寝返りを打つたびに、体重のかかったことによる右肩の痛みで目が覚めてしまう。何度も目覚めるので熟睡できない。寝不足なのだろう、昨日も昼間になってうつらうつらすることが多くて、持続して本も読めず、映画を見る気もしなかった。

 

 令和の米騒動について、いろいろな人がテレビであれこれ言っている。一般の人が居酒屋談義しているのなら何を言うのも勝手だが、人に影響力のある人が、あまりにも自分のみえていることだけから語るのはいささかイライラさせられる。もう少し頭でその背景も含めて考えてからものを言ったらどうかと思うからだ。見えているものしか信じない、という人がいる。見えているものだけが事実だと思い込んでいるらしい。それなら世の中はわかりやすいけれど、実際はそうではないことぐらい分からないものだろうか。米びつの米が少なくなったので、昨日銘柄米を買った。備蓄米も棚にたくさん積んであった。銘柄米を買っているのをみなが珍しそうにじろじろ見る、などということはなかった。

 

 アメリカは少しずつ混乱状態がひどくなっているように見えるが、騒ぎばかりが報道されるので、どれほどの広がりで騒ぎが起きているのかがよく分からない。野次馬気分だけで見ていれば、もっと騒ぎが大きくなる方がおもしろいけれど、子供ではないので少し冷静に見なければ、などと反省する。しかしトランプは常軌を逸しているようにしかみえないが、それはそう思わされているだけなのだろうか。これからいったいどうなるのだろう。

2025年6月 9日 (月)

今日あたり

 今日から雨模様の日が続くようだ。梅雨前線による雨であるから、たぶん東海地方も今日あたり、梅雨入りが告げられることになりそうだ。梅雨入り前に買い出しや散歩をしておこうと思ったが、ドラマ三昧に終始してしまった。

 

 イギリスミステリードラマ『ナイトトレイン』に続いて、『ロッカビー パンナム103便爆破事件』(全五回)という、やはりイギリスの、実話を元にしたミステリードラマを一気見した。1988年にイギリスヒースロー空港からアメリカに飛び立ったパンナム機が、仕掛けられた爆弾によってロッカビーという街の上空で爆発し、墜落して乗客全員、そして墜落した機体とその破片によって地上でも多数の犠牲者を出した実際の事件である。

 

 その飛行機に娘が乗っていたイギリス人医師、ジム・スワイヤ(コリン・ファース)がこの事件の真相を追っていくという話であり、そのスワイヤの原作に基づいたドラマである。映像はリアルで、並みの映画ではとても太刀打ちできないほどの素晴らしいドラマとなっている。スワイヤの執念は凄まじく、そのために時に周囲の強い反感を受けることになり、家族もそれに振り回されてしまう。やがてリビアの男ふたりが犯人とされ、交渉の末、引き渡されるのだが・・・。国際的な謀略、そして真実の隠蔽が二重三重に行われているために、不審な事実が明らかであるのに無視されて行く様子が怒りとむなしさをもたらす。出来の好い映画を二本見たくらいの見応えがあった。

 

 アカデミー賞を七部門も受賞した、『エブリシング・エブリウエア・オール・アット・ワンス』という、ミシェル・ヨー主演の映画を見始めたのだが、どうも私の好みに合わない。シュール、コメディ、SFという分類の映画で、そこに中国移民問題なども絡んで盛りだくさんなのだが、一時期の香港映画ふうの猥雑さが耐えられなくて途中で見るのをやめ、消去した。どうしてこれがアカデミー賞なのか私には分からない。

 

 やはり録画してあったWOWOWの『I,KILL』という、時代劇でゾンビドラマという異色のドラマを見た。第三回までで、昨晩第四回が放映されたから、これから見る。全六回らしい。木村文乃が主演している。吸血鬼ドラマやゾンビドラマはあまり好みではないのだが、時代劇であり、リアルでありながらリアルではないという、つまり怖さがあまりないので見続けている。田中樹という、私は初見の俳優も木村文乃とともに主演している。富田靖子や山本耕史もなかなかおもしろい役回りで怪演していて、それを見られるのも楽しい。田牧そらもそこそこ好演していて見違えた。

 

 右肩の痛みはわずかずつ治まってきたのだが、それをかばうために負荷のかかる左肩に違和感が出てきたし、膝も痛くなり、うんざりしている。

2025年6月 8日 (日)

存在理由

 米の流通業者が五次店まであるというのに驚いた。すべてが五次店までということはないだろうけれど、多分、二次店、三次店は当たり前なのだろうな、と想像される。それぞれの店が成り立つにはそれだけのマージンを受け取っているわけで、それぞれがどうしても必要な存在なのかどうか、今回の米騒動を機にメスが入ることを期待したい。

 

 もし何も役割を担っておらず、存在の必然性がないのであれば、いままで米をただ食い物にしてきたことになる。何らかの役割があったとしても、それを統合してルートを短縮することは可能であろう。消費者は高い米を買わされ、生産者は採算の合わない苦役を強いられてきたことの原因がそんなところにあったのなら、米にたかる害虫ではないか。いままでがそうだったから、といってこれからもそれでいいということがないのが世の中というもので、小泉大臣にはパフォーマンスでも何でもいいから、実態をさらけ出して大いに蛮勇をふるってもらいたいものだ。

何から処分するか

 右肩痛もあって、寝床から起き上がるのに苦労していた。自分の姿を他人の目で想像してみると、けっこう情け無い。だからベッドにしようと思った。思ったけれど、そのスペースがない。だから簡易式で折りたたみのベッドを考えたが、長く使うことになるのだから、本格的なベッドの方がいい、というコメントをいただき、それもそうだと思った。そうなるとそのスペースの確保が問題で、そうこう迷っているうちに起き上がる方法を自分なりに工夫して、しかも右肩の痛みも少しずつ治まって、起き上がり、立ち上がるのにそれほど苦労しないで済むようになってきた。

 

 スペースの問題もあり、ベッド導入のことはペンディングしたが、やめたわけではない。遠からず導入するのは不可避だと思っている。そのためには何をすべきか考えた。不用品の処分で、今までよりも一段階レベルを上げた終活への準備である。今四畳半に満たない洋間を納戸にして、箪笥やその他の少し大きなものをすべてそこに放り込んでいる。箪笥は妻が結婚するときに持ってきた洋箪笥、整理箪笥と和箪笥で、普通より一回り大きくもっとも場所を塞いでいる。そして洋箪笥と和箪笥はほとんど使用していない。これを処分したらかなりのスペースが確保できるのである。

 

 和箪笥の中の和服は、妻の母親に処分してもらおうと、ずいぶん昔に引き出しから取り出してすべて託しておいたのだが、義母が亡くなって、義兄が邪魔だからと再びこちらに送り返してきた。妻がその和服を着る可能性は全くなく、娘も要らないという。もう処分するしかない。洋箪笥に私の背広、礼服や妻の服が若干ぶら下がっているが、これも礼服以外は今後着用する可能性はない。ドレッサーを整理してそこへ収めてしまえば片付くことである。だからこの箪笥二棹は処分可能なのである。

 

 いつ見切りをつけて業者に処分を依頼するか、あとはそれだけのことである。ただ、それに付随していろいろと動かさなければならず、始めたら途中でやめられなくなる。それを決心するのにしばらくかかりそうだ。

2025年6月 7日 (土)

大衆

 今の世界に思いをめぐらせながら、大衆、ということを考えていたら、先崎彰容の本の中に、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』という本について言及しながら、以下のように書いているのに出会った。

 

『大衆の反逆』を書きながら、オルテガは思いをめぐらす・・・・伝統的な精神が跡形もなく消え去った時代、これが私たちの生きている時代である。では伝統と手を切ることで何を私たちは失ったのだろうか。
 それは第一に、過去からの声を、つまりは規範と私たちが手を切ったということである。社会秩序をつくりあげるルールや規範は、時間の積み重ねによってなじんでいくものであるが、それをここでは「慣習」と呼ぶことにしよう。その慣習を失ってからというもの、日常生活から芸術、政治にいたるまで、あらゆる分野で起こる事件に、私たちは素手で取り組まねばならなくなった。参照すべきモノサシが何もないからだ。「ヨーロッパ人は、まったく一人ぼっちなのだ。彼の傍らには生ける死者がいないのだ」。私たち大衆は、時間の積み重なりから切り離され、死者からの教訓を聞く機会を失ったこと、これを一人ぼっちだとオルテガは言っているのである。それはたとえば、柳田国男であれば盆と祖霊の消滅に見いだすはずの現象である。
 古くは私たちの傍らに寄り添うように、死者たちの霊魂はとどまり見守っていたのだった。この国土に長らくとどまっていた霊魂を、しかし私たちは殺してしまった。家から祭壇が消える。多くの先祖たちが翁と媼に扮して子孫をたすけ、護ろうと還ってくる場所、「盆に平和の家に還ってくる祖霊」たちの居場所を私たちは家から奪った。それは音もなくある日、静かにこの国から死者が葬られた瞬間である。悲鳴も、物音一つもせず、死者は私たちのまわりから姿を消す。
 もちろんこれは柳田の見た日本の姿である。だがオルテガもまた気がついたのだ、私たちが「一人ぼっち」だということに。群れ集う大衆であるにもかかわらず、つねに孤独感に苛まれていることに。

 

また第二に、一人の人間としても私たちは一人ぼっちである。過去と現在が断絶したことによる孤独だけではない。空間的にも私たちは断絶している。現代社会を生きる私たちは、きわめて自閉的であって他人との関係は希薄になっているのだ。なぜなら他人との合意と承認によって、はじめて基準や意味はできあがるものなのだが、自分の中に閉じこもっている限り、世界を理解し物事を判断する基準は曖昧で、その時の気分で評価はコロコロ変わってしまうからである。こういった自閉的な人間たちが生きている時代、すなわちきわめて強い自負心をもってみたり、「同時に自分自身の運命に確信の持てない時代」が現代なのである。

 

 この基準の喪失と、それに翻弄される人びとの群れが大衆社会であるといってよい。

 

*オルテガ・イ・ガセット・・・1883-1955 スペインの哲学者。

 

 大衆とは根無し草ということか。都市に吹き寄せられた根無し草の孤独と不安が世界を揺らめかせているのか。

フレイルを畏れる

 後期高齢者の仲間入りをしたからといって、まだまだ元気に日々を過ごせる、と自信を持っていたのに、気がつくと歩くときに腰が曲がり、背中が丸くなり、しばらく歩くと身体にひずみがあるためらしく、あちこちが痛い。意識して背筋を伸ばし、胸を張るのだが長続きしない。歩く速度もますます遅くなってきた。元に戻すことは無理だけれど、せめてこれ以上年寄り臭くならないようにしようと、気持ちだけが焦ってもどうしようもない。

 

 右肩痛が多少軽快化しつつあるのが救いで、そのために起き上がるのも立ち上がるのも、だいぶ楽になってきた。よぼよぼになるのをフレイルと言うらしい。かかりつけの病院でもフレイル検査やフレイル防止療法などの教室がある。リハビリとしてプール教室もあるようだ。その症状を見ると、まさに自分に当てはまるものばかりで、そのことに愕然とする。やがて来ることと覚悟していたとはいえ、もう少し先のことと思っていたのに。

 

 筋力維持に努めようという気持ちはあるが、持続しない。本気で対処しなければ、とあらためて思う。それとともに、生活全般のメリハリを今まで以上に維持する必要も感じている。今はほぼ完全な自炊をしているが、その食事内容、料理のレパートリーが次第にお粗末になっている気がする。新しい料理を取り入れて、食の楽しみを思い出さなければと思う。食事の片付けはほぼきちんと出来ている。流しに使った食器が放置されるようになったらおしまいだと思っている。洗濯もこまめに出来ているが、掃除が苦手である。何しろ本が床に散らばっているのでまず片付けないと掃除が出来ないし、その片付けが苦手なのである。それが生活リズムの崩壊の入り口になりかねない恐れがある。何か抜本的な気持ちの転換が必要な気がする。

朝起きても

 朝起きて直ぐ窓を開け放ち、外の空気を入れるのだが、昨日までは爽やかだったその外気が、今日はほとんど室内の温度と変わらない。マンションはコンクリートの駆体がバッファになって、初夏は気温が高くても案外しのげる。代わりに残暑は長引く。今はそういう意味では心地よい時期である。

 

 天気予報によれば、来週から梅雨に入るようだ。いつもは境目がわかりにくい梅雨入りだが、今年はわかりやすい。梅雨、といっても雨ばかりではなくて晴れる日もある。それをむかしは五月晴れといった。その五月晴れがしばらく期待できないらしい。雨の中を出かけなくていいように、出来る所用と買い出しは昨日と今日で済ませておくことにした。

 

 少しオーバーヒート気味だったので、息切れし、昨日はクールダウンのために音楽を聴きながらぼんやりとしていた。とはいえ、夕方からは英国ミステリードラマ『ナイトトレイン 破滅へのカウントダウン』(全六回)を風呂にも入らずに一気見したりしたので、夜なかなか寝付けなかった。英国ドラマはたいてい期待以上におもしろい。おかげで、先日見た『ある用務員』という日本映画の、あまりにひどい出来にうんざりしたのを吹き飛ばしてくれた。この映画は時間の無駄としか思えず、紹介する気にもならない。こういうのが好きな人もいるらしいから、人は様々だと思う。

2025年6月 6日 (金)

回復の兆し

 今朝起きたら右肩の痛みが心持ち軽減している。可動域も少しだけ大きくなった気がする。これが回復の兆しであれば嬉しい。過去の肩痛の経験では、時間はかかるものの、痛みが少しずつ軽減し始め、気がつくと治っていたものだ。それを期待していたのだ。とにかく今は無理のない範囲で少しずつ動かすようにしようと思う。

 

 昨日は在宅して待っていた人が来ないし、配達されるはずのものが配達されなかった。理由があってのことだろうが、私は段取りが狂うのが人一倍嫌いだから、イライラする。

 

 本ばかり読んでいたら肩がバリバリにこって、目もしょぼしょぼしてきた。しばし書を置いて、音楽でも聴くことにするつもりだ。久しぶりに昭和の歌謡曲でも聴いてみようか。

2025年6月 5日 (木)

限界医療

 地方の病院が経営難で、存続が危ぶまれたり、なくてはならないのに閉鎖に追い込まれていると、ずいぶん前から報じられていた。昨晩、NHKのドキュメントで『限界医療』という番組を見て、実際の医療の現場の実情の深刻さを痛感させられた。医療過誤の問題も、単に義憤で語るだけでは解決しないのだと思った。能力の低い問題医師がいる。地方の病院では医師がいないために、そういう問題医師も員数としていないと成り立たないのだ。

 

 ここでもこうなることが分かっていて、それなのにそうなっていったという実態がある。教育現場、農業の現場、それぞれに大事なことで、そのまま放置すれば危機的状態になることが分かっているのにその対策が出来ずにいる。そして、これは直接関係はないけれど、教育現場と医療現場というのが、いわゆるクレーマーのターゲットになっている場所だということに気づく。クレーマーのターゲットになるとその現場から人は立ち去る。逃避したくなるのは当然である。報酬の問題とは別に嫌気が差してしまう。それを助長してきた社会だったのではないのか。

 

 先生や医師のなり手が足りない。これはくりかえすが報酬の問題ではなく、激務なのにそれが正当に社会に評価されないから、その仕事に誇りが持てなくなっているということも大いにあるのではないか。つまり、社会にその仕事に対する敬意というものが失われると、その職業が崩壊していくということだろうと私は思う。他者に敬意を払う、なくてはならない仕事を担っている人に敬意を払うという当たり前の美徳を失わせつづけてきたのは誰か。我々は、そのツケを今こういうかたちで支払うことになっているのだと思う。そもそも躾や教育にかかわることであり、もう手遅れ、という気がする。日教組の百年の亡国の謀計ここになれり、と思うのは考えすぎか。

初夏の風

 かかりつけの病院まで歩いて二十分足らず。我が家のマンションから病院までは、四十年ほど前に転勤でここに移り住んだ頃は田んぼが多かったが、今は病院周辺だけになった。ちょうど田植え時で、農業用水の流れる側溝は溢れんばかりで、田んぼには水が張られている。カエルの鳴き声がするが、どこにいるのか分からない。しばらく散歩をしていないので、歩くのがつらい。腰が定まらない感じで、腰から背中が痛い。情け無いことである。これから梅雨時で、ますます散歩の機会が減るのだ。歩けるときに歩いておかなければと思う。

 

 昨日午後は泌尿器科の定期検診だった。待ち時間を待合室ではなく、コーヒーを飲みながら喫茶室で過ごす。ぼんやり眺める窓の外には強い日差しに輝く新緑がみえる。初夏の風が吹き渡り、その新緑を揺らす。道路のアスファルトは照り返しで暑そうだが、こちらはエアコンが効いて快適だ。

 

 泌尿器科の医師は大学病院からの派遣で、しばしば交替する。今回も新しい若い先生だった。インターンかもしれない。私のカルテを読みながら、検尿検査の結果を参考に私に問診する。残念ながら耐性菌は棲みついたままだという。「耐性菌が前立腺の方で繁殖すると、排尿困難、排尿痛や発熱を起こします」。(二度ほど体験しているのでよく知ってます)「排尿は順調ですか?」「水分をせっせと摂って、常に洗い流すように心がけてください」。(分かってます)「もし排尿痛、排尿困難になったら直ちに病院に来てください」。(そうします)

 

 ということで、今回は終了。珍しく予約時間どおりに診察があったので、いつもより時間を食わずに帰宅することが出来た。激しく疲労したり、風邪やコロナなどで体力が低下すると耐性菌が暴れ出すのはよく承知している。だから今は手洗いやマスク着用を怠らないようにしている。とにかく体力を維持しておかなければならない。病院からの帰り道は行くときより少し近かった。

 

 夜、ワインを少し飲み過ぎた。夜中に目が覚めてしまって、眠れなくなる。右肩は昼は意識して無理をさせていないから大丈夫だが、寝ているときは無意識に負荷をかけているらしく痛い。温泉に行きたいなあ。

高い

 二三泊の小温泉旅行に行きたいと思って、行きつけではない地区の、目新しい宿を探してみたのだが、みな、思いのほか高い。ひところよりも、二割から三割は高くなった気がする。温泉でないのなら、ビジネスホテルにでも泊まるのだが、今は肩の痛みを癒やしてくれそうなところでゆっくりゴロゴロして、読書三昧したいのである。なじみの鳴子温泉なら、湯治をしながら安くあげることが出来るけれど、それなら一週間以上滞在したいところだ。しかし今はいくつか在宅しなければならない用事もぽつりぽつりとあって、それがかなわない。

 

 いつもの下呂郊外か、それとも先日行った昼神あたりの温泉宿なら気軽にいけるけれど、あまりにも代わり映えしない。奥飛騨にもいい宿があるのだが、見るたびに値上がりしている。格安の宿もいくつか行って、そこは今も安いけれど、居心地も含めてまた行きたくなるようなところではない。

 

 高くなるのは、物価も人件費も上がっているからしかたのないことだと分かっていても、私のささやかな蓄えは増えることはなく目減りしつづけているから、いけるところがどんどんなくなっていく。あとは回数を減らすだけ、というのも哀しいことだ。

2025年6月 4日 (水)

『よき時を思う』

 宮本輝『よき時を思う』(集英社)を読了した。主人公綾乃の、九十歳の祖母徳子が、自分の愛する者たちを招いて晩餐会をする。物語の前半は、凜として気高く強く賢く美しいその祖母徳子の人生を、綾乃が様々な人から聞き取ったことを縦軸にして語られていき、さらにその徳子に関わった人たちを含めての人生と人間関係が描かれていく。

 

 後半はほとんどがその豪華な晩餐会の様子、特に料理についての描写、その味、その素晴らしさが延々と描かれる。それを楽しみ、想像する想像力がないと、この物語の楽しさ面白さは味わうことが出来ないだろう。夢のような晩餐会を読みながら、どうしてそれにここまでしみじみと心を衝たれるのか、不思議である。

 

 最後にサイドストーリーが一つ添えられて、物語は終わる。

 

 若いとき(むかしむかし)満漢全席という中国の宮廷料理を食べたいと思ったことがある。中国まで行き、一泊二日で豪華な料理を食べ続けるという。その経費は約百万から百五十万円で、十人から十五人くらいで食べるツアーがあるというのを知って、それに参加する人を友人や得意先の人の中からつのったら、面白がる人もそこそこいて、本気で実施案を考え、月々積み立てを集めたりした。残念ながら私の転勤もあり、その積み立てを返却して計画は実行することはかなわなかった。中国まで行って、互いに知らない人もいるけれど、私の好きな人ばかりが集まって、大いに食べ、飲み、語り合うという夢を思い出した。  

風が強い

 今年は風が強い日が結構あるように思う。洗濯物がベランダではためいている。今日は午後から泌尿器科の定期検診なので、これから出かける。ずっと足がむくみ気味で、体重も少し普段よりも多いままであったが、昨日くらいから身体から少し水が脱けたらしく、むくみがほぼ引いて体重も落ちた。尿検査の結果はどうだろうか。

 

 調子が悪いときほど異常に間食が欲しくなる。たぶん血糖値が上がっているのだろう。糖分が吸収できずに血液中に過剰に流れ出しているのが糖尿病で、糖分が足らないから間食をもとめるのだ。そこに食べるものがあれば無性に欲しくなるから、間食になるようなものは置かないようにしている。渇きが収まると別に間食など欲しいと思わないのだから不思議だ。油断すると奈落の底である。知人で、糖尿病で命を縮めた人たちからその怖さを聞いているので、辛くも踏みとどまっている。実感的に糖尿病と泌尿器系の不調は連動する。

 

 自己管理というのは、言うは易く行うは難し、なのだ。

予測通り

 事前の予測通り、韓国の新大統領は李在明に決まったようだ。この人はポプュリストで、大衆受けを最優先に、言うことをさまざまに変える人だという話を聞いたことがある。だから、彼が過去に語ったことから彼の考えを決めつけない方がいいだろう。とはいえ革新系の大統領であるから、支持層の意向に沿う政策展開をすることになるだろう。

 

 心配なのはもちろん日韓関係で、都合によって歴史問題を蒸し返すだろうことは覚悟しなければならない。韓国経済が順調であれば居丈高に、不調であれば恨みの気持ちを日本にぶつけてくるのは変わらないと思うが、日本側もそれをまともに相手にするのにうんざりして久しいから、親韓国の日本の国会議員もおかしな行動は安易に出来ないだろうと思いたい。親韓国とはつまり韓国と親しくすることで甘い汁が吸えると踏んでいる人びとのことである。

 

 トランプが革新系の大統領の韓国に対して、どのように対応してくるか、それに応えられる韓国側の有能な外交官がいるのかどうか、それによって韓国経済の行方も大きく影響を受けるだろう。まさか中国寄りに方針転換するなんてことはないだろうが、宿命的に得意の、やじろべえ外交を目指すのではないかと思っている。

 

 それはともかく、裁判をいくつも抱えている大統領らしいから、任期終了後にはまた牢屋に行くことになるかもしれないということだけは私にも予測できる。

2025年6月 3日 (火)

『ハルカの陶』

 ここでは陶は「すえ」と読む。漫画を原作とした同名の2019年の映画。備前焼に魅せられて備前にやってきた主人公小山はるかを奈緒が演じている。自分が本当にやりたいことに出会うというしあわせはめったにないことであるが、陶芸家になるということは大変なことである。熱意だけでなれるものではない。この人しかいないと弟子入りした陶芸家は、若いけれど人付き合いが嫌いな偏屈な男(平山浩行)だった。それでも弟子入りがかなったのは、たまたま知り合った人間国宝の老人(笹野高史)の口添えがあったからだ。

 

 様々な人の一言が、実は深い意味があることに気づく感性を持っているはるかは少しずつ成長し、レベルアップしていく。技術よりも人間として修行するという意味が、ことばだけではないことをこの映画はさりげなく教えてくれる。受信機の出来が悪い人間は成長できない。主人公と一緒に一喜一憂しながら、次第に感情移入していき、胸が温かくなっていく。こういうまじめな映画、成長映画は好いなあ。

 

 昨夜から読み始めた宮本輝の『よき時を思う』はもうすぐ読了する。読み疲れたのと、一気に読み終わるのが惜しくなったのとで、本を置いて同じく宮本輝の『花の降る午後』を原作とした同名の映画があるはずだと思って、最近再放送されたものを録画したものを探して見てみた。残念ながら配役が気に入らない。映画の冒頭からの流れが原作の雰囲気とはまったくかけ離れているように感じて、少し見たところで消去した。そのかわりに見たのがこの『ハルカの陶』であった。

訃報

 長嶋茂雄が今朝亡くなったことを知った。私は千葉県生まれで、子供の時は長嶋は郷土の英雄だと思っていた。佐倉の、長嶋の生家を弟と見に行ったこともある。巨人ファンであることはあたりまえのことだと思っていた。

 

 まだ小学生くらいの時に、父が、巨人軍の練習場の近くで長嶋とすれ違った、と言った。思ったほど大きくはなかったけれど、腰回りが凄かったなあ、と言った。父も大正生まれの男としては大男だったから、自分と比べたのだろう。なんとなくうらやましく思ったものだ。野球になどまったく興味のない父が、長嶋だけは知っていた。

 

 思い入れが強かったから、長嶋が監督としてそれなりの成績を上げていたのに、二年か三年巨人の成績がふるわなくなったというだけで監督を降ろされたのが非常に腹立たしい思いがした。もともとそれ程野球が好きではなかったけれど、それ以来野球に興味が失せ、アンチ巨人の思いだけが強烈に胸の底にわだかまりとして残った。

 

 とにかく巨人が負けると嬉しい、というのは、たぶん子供心に醸成されていた長嶋への憧れや尊敬の裏返しの気持ちだったのだと思う。今もアンチ巨人であるが、長嶋は私にとって輝く星だった。冥福を祈る。

大根の種

 今朝は雨。終日雨らしい。昨日は読書三昧で、集中して本が読めるのはいいのだが、それ以外のことがおろそかになってしまう。度が過ぎるのも困りものだ。書見台に本を置いて、なるべく前向きに本を読むように姿勢を正しているつもりだが、背中がバリバリに固まってしまい、首や肩や背中が痛い。宮本輝の、『よき時を思う』(集英社)という新しい本を読み始めている。今日中には読み終えるだろう。

 

 昨日は大根の種を収穫した。サヤのままの種をたくさん採ったが、まだ少し湿ったものもある。十分乾燥させて袋にしまうことにする。大根は太い茎になって、根の部分は栄養をとられてスカスカになっている。枝を切り分けてゴミ袋に入れた。パクチーの種も出来ているので、次はそれを採るつもりだ。これで鉢が四つほど空く。根が鉢の中に充満しているので、土が乾いたら鉢の土をふるいにかけて、根を取り除くつもりだ。それに腐葉土を混ぜて鉢に戻し、また種を蒔く。

 

 今日は梅雨の走りだろうか。数日暑い日が続いて、そのあとは本格的な梅雨に入るようだ。ささやかな晴耕雨読か。それより部屋を片付けなければ・・・。温泉にでも行きたいが、いろいろ金のかかることが続いているし、これから買い換えなければならないものもたくさんある。少し自重することにする。本ならたくさんあって、読書している分には新しく本を買いさえしなければ金はあまりかからない。

2025年6月 2日 (月)

『三千枚の金貨』

 宮本輝『三千枚の金貨』(上下巻・光文社文庫)を一気読みした。文具メーカーの役員の一人である、主人公斉木光生は、五年前、「メープルリーフ金貨を三千枚、和歌山県のある場所の桜の根元に埋めた。それを見つけることが出来たらおまえにやる」、と見ず知らずの男から告げられる。それは彼が手術で入院していた病院での深夜のことだった。そんな話があるはずがないと、彼はそれを一笑に付していたが、ある旅先で、忘れかけていたその話がしきりに思い出されてくる。帰国後に意外な人物から、彼にその話を告げた人物が、彼にその話をしてすぐに亡くなったことを知る。

 

 例によって意外な発端から話が展開していき、なるほどそういういきさつが背景にあったのか、ということが次第に明らかになっていく。その男の悲惨で数奇な運命についての詳細が様々の人から語られていき、その男の多面性もみえてくる。

 

 ある人物の人生をたどる旅、そしてそれに関連する人たちの人生も語られ、同時に主人公のシルクロードからパキスタンへの旅の話が重なって、人間というものについての深い感慨を受ける。人はただ必死に生きていくのだが、それらのことが影響し合い、何かが伝えられていく。その伝承というものの不思議さを感じるのは、宮本輝の小説を読むいつもの醍醐味だ。

 

 久しぶりに集中して娯楽小説が一気読みできているが、いささか読み疲れた。

疑心暗鬼

 つい十年くらい前までは、金さえあれば世界中どこでも自由に出かけられると思っていた。旅行会社から送られてくるパンフレットでも、世界中の国々へのパック旅行の案内がふんだんに載っていた。今は自分の収入や体力面などの懸念だけではなく、そもそも安心して出かけられる国がどんどん少なくなっている気がする。パンフレットにあまり載らなくなった国が増えている。

 

 アメリカに出かけることに不安があったり入国が面倒になったりすることなど、少し前なら思いも寄らないことだった。中国だって結構自由に行きたいときにいけたし、一人であちこち歩いていても不安などなかった。今はもし金もあり、体力もあったとしても何があるか心配で出かける気にならない。もちろんどこに行ったって何かが起こらないという保証はないが、それなりに注意をすれば大丈夫だと思えたものだが、今はそんなふうには思えない。世界中がそうだ。何より日本だってどんどんおかしな犯罪が横行していて、油断がならない。

 

 お人好しが生きにくい世の中というのは善くない世の中である。

 

 あげます、あげます、差し上げます、とそこら中で声をかけられる。差し上げたものの見返りはいただきますよ、の声が同時に語られているはずなのだが、その声は小さすぎて聞こえない。

 

 手を替え品を替え、さまざまにCMが氾濫している。今朝のニュースでも洗面所の鏡にCMが浮かび上がる方法だの何だのというのが報じられていた。スマホなんかその典型だ。こうして人の心の隙間にどんどん宣伝が侵入してくる。そんなことは些細なことで、いくら宣伝されても欲しいものを欲しいときに買うから心配ない、と思っていても、実は巧妙に仕組まれたものには、人は心理的な影響を受けるものだ。

 

 いったい世の中はどうなってしまったのだろう。そう思う私が心配のしすぎなのだろうか。どんどん疑心暗鬼になっていく。

『ザ・リバー』

 右肩、右肘、右手首が痛くて、寝ている状態から起き上がり、立ち上がるのに右側の手が支えとして使えない。右をついて立つのが私の立ち方だったから、立ち上がるまで痛みをこらえて、もがく日々だった。仰向けの亀の子に似たその姿は人に見られたくないもので、自分でも情け無い思いがしていた。だからベッドが必要だと考えていたのだが、左側の手を使って立ち上がる方法をいろいろ試してみて、ようやく右にほとんど負荷をかけずに立ち上がる方法を見いだし、それに慣れてきた。やればできるのだ。

 

 左肩の痛みは、負担をかけずにいるとあまり気にならない程度になっているのだが、つい意識せずに負荷をかけてしまい、また痛くなる。シャツをズボンにたくし込むときに右腕が後ろに回らないからやりにくい。背中を洗ったり拭いたりするときにタオルを回せない。うんざりしている。むかしひどい四十肩、五十肩を経験していて、整形外科に通ったこともあり、どういう経過で治っていくのか体験している。とにかく時間がかかるが、必ず治っていくものだと信じている。上に手を挙げるのは結構できるのだが、手を後方に動かそうとすると痛いのだ。

 

 今朝は久しぶりに足がつった。ふくらはぎがつる正しいこむら返りであったが、短い時間で治まってほっとした。

 

 一昨日と昨日にかけて、録画していたノルウェーのミステリードラマ『ザ・リバー 隠蔽された事件』(全八回)を一気見した。北欧のミステリーは、そのダークな色調が醸し出す陰鬱な雰囲気が好きである。極寒の地であるノルウェーの北部が舞台で、その地理的な場所そのものが歴史的に抱えている重いものが底流にある。ロシアとの関係である。そこには軍事基地が置かれ、舞台となった街の警察と軍は一体化している。その警察署に主人公のトーマスが勤務している。彼は南部のオスロ警察に勤務していたが、地元出身者であるのにこの街ではよそ者扱いである。

 

 すべてが闇から闇に片付けられているような違和感を感じながら、彼は自らの正義を貫こうとする。彼の両親は飛行機事故で死んでいるのだが、その死について疑念を抱えていて、その真相を追求しつづけている。そんなとき、川べりで少女が人間の手首を発見する。少女に詳しい話を聞こうと彼女の家を訪ねるが、自閉症気味の彼女からはほとんど話を聞くことができない。彼女の部屋から彼女の描いた絵や、川で拾った品物を見て、何かがおかしいと感じるトーマスだったが、なぜなのか分からない。

 

 そしてその晩少女が失踪した。街を挙げて捜索にあたるのだが、翌日軍の基地で少女の凍死体が発見される。

 

 事態は深刻の度を増し、何が隠されているのか、誰が支持しているのか、どういう背景があるのか、それが次第に明らかになるにつれ、トーマスは驚愕の事実を知ることになる。北欧ドラマらしい面白さだった。

2025年6月 1日 (日)

『荒野に生きる』

 『荒野に生きる』は1971年のアメリカ映画。実話を元に作られた映画である。毛皮猟のグループの一人、ジャック・バス(リチャード・ハリス)はリーダーのヘンリーに一目置かれていたが、熊に襲われて瀕死の重傷を負う。毛皮の商売のためには足手まといになるし、生きのびるとは思えない重傷でもあり、彼は荒野に置き去りにされる。武器も道具もなく、身動きも出来ない状態の彼の凄まじいサバイバルが始まる。

 

 サバイバル映画が好きならば、レオナルド・ディカプリオが主演した『レヴェナント:蘇りし者』という2016年の映画を見ているかもしれない。凄まじい迫力のサバイバル映画であり、復讐映画で、傑作といっていい。あまり好みでないディカプリオだが、この映画での彼は素晴らしかった。この映画も、実は主人公のモデルはおなじ実在の人物である。人間の生命の炎というのは、恨みを晴らす一念があると燃え上がるもののようだ。

 

 身体を回復させながら、少しずつ手に入れたあり合わせのもので道具を作り、ついには立ち上がり、歩けるようになり、狩りができるようになっていく。さいわい川のそばに捨てられていたために、もっとも肝心の水が容易に手に入ったことも幸運だった。予期せぬ先住民との邂逅、それがラストに大きな影響をもたらす。彼が追いかけ復讐しようとしたリーダーたちに追いついたとき、彼らは先住民に襲われていた。彼はどんな行動をとったか。そして彼は何に向かって再び歩き出したか。

 

 なかなか見応えのある映画だった。

列ぶ

 ネットやマスコミで評判になった店の前に行列が出来る。私は行列に加わるのが好きではないから、そういう人たちの気持ちがよく分からない。どうしても必要なもの、見たいもの、欲しいものを手に入れるために列ばなければならないのなら、私でも列ぶのはもちろんである。ただ、ほんとうにそこまでほしくて列んでいるのか、列ぶほど有名なものを手に入れたのだと他人に自慢したいから列んでいるのかよく分からない。そんなもの、評判に乗せられているだけではないか、などと思ってしまう。

 

 そういう意味で、今回の古古米だか古古古米だかが安く手に入るからといって行列して待つ、甚だしい人は前日から列んで待ったなどというニュースを見ると、その思考回路が理解不能である。一番で手に入れた五キロ入りの米袋を嬉しそうにかかげて喜んでいるところをテレビに映し出されていたのを見たが、何がそれほど嬉しいのだろうか。徹夜で待った甲斐があった、といっていたが、どんな甲斐があったというのか。テレビに映ったことだろうか。二千円そこそこの米を手に入れたことだろうか。米が手に入らないというならいざ知らず、古古古米がそれほど手に入れたくなるようなものだろうか。よほど困っているのだろうか。まさか。

こちら側とあちら側

 先崎彰容の『違和感の正体』からの引用の続き、

 

 人は誰でも殺し合うべきではないし、紛争は起きない方がよいと思っています。しかしこの「当然の正義」が、場合によってはつうじないときがある。なぜでしょうか。なぜ誰でも頷くはずの簡単なことが実現しないのか。
 答えはきわめて簡単です。こちら側とあちら側で考える「正義」や「平和」の意味が全く違うからです。
(中略)
 人によって「あるべき世界観」は違う。「華の都」は別の眼から見れば、欲望と堕落に満ちた唾棄すべき腐敗の象徴と映る。そこに紛争が生じ、他者抹殺の欲望までが生まれる。日常生活の瑣末な喧嘩が、実は国際関係にまで関係しているかも知れません。
 だとすれば、自らの善意だけを信じて平和を、防衛を、国際秩序を語るわけにはいかない。国際関係もまた二百近い他国と、その間を縫うようにうごめく原理主義集団が集う安らぎなき世界です。秩序は常に動揺し、流動と停滞をくりかえしています。壁を叩いて向こう側の意志を確認しあうように、理解困難な他者と、交渉を続けなければならない。

 

 さらに別のところには

 

 自分の考えは正しい、この健康食品は絶対に効く、だから飲んでみよ。私の信仰している宗教は絶対に君のためになる、世界平和に資する、だから信じよ--こうした自己絶対化、自己普遍化こそ、もっとも恐ろしいものではないですか。

 

さらに別のところでくりかえされる、

 

 私たちが正しいことを言っているのに、なぜ異論を唱えるのだ。こういう批判こそもっとも恐ろしい。

 

私が「正義の味方」がしばしば嫌いなのは、それが自ら自分の正義を疑わない人が叫ぶ正義だからである。

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