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2025年8月

2025年8月31日 (日)

モスク周辺を見て歩く

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1809b-100_20250831154302不思議な空間。

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1809b-65_20250831154201礼拝の時間。一日五回。

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次回はモスクの中のドーム。

スーパーで

 暑くなる前に、と思って早めに近くのスーパーへ買い出しに行ったら、誰も考えることは同じらしくて混んでいた。その大きな理由が、いつになく夫婦で買い物に来ている人が多いということのように見えた。まだ現役の旦那、またはリタイアして間のない旦那を連れて、主婦があれこれ買い物の指図をしたり、亭主の方があれこれ自分の買いたいものなどを主張しているようである。主婦のほうは亭主を一人で買い物できるように仕込んだり、ものの値段がどのくらい上がっていてやりくりが大変であるかということを認識させようとしているとみたが、考えすぎか。

 

 どちらにしても買い物素人らしき亭主が人の通り道におかしな立ち方をしているから邪魔でしようがない。仕事先ではそれなりに周りに目配りもできていたはずだが、なれないところだと鈍感になるのだろうか。このままだと嫁さんにも邪魔にされてしまうぞ。

 

 ぶりの切り身とカボチャが安かったので購入。芸のないことであるが、両方とも帰ってさっそく煮付けにした。切り身の煮付けはあまり好きではなかったが、歳とともに美味しく感じるようになってきた。いつも薄味になってしまうので、今日は水を少なめにして砂糖と醤油を多めにして、焦げ付かないように注意して煮てみたらなかなか具合よくできた。

 

 そういえば、先日は真空パックのイワシの生姜煮を食べたところだ。濃いめの味付けのそれを酒の肴にした。私は九十九里浜の小魚を食べて育ったので、イワシやアジは大好物である。出来合いのものを買ったのは、この頃小魚の鮮魚があまり店頭にないからで、多分この時期は傷みやすいので置かないのだろう。真空パックのイワシは脂がのっているし圧力鍋で煮てあるから骨まで食べられる。試しに残りを炊き込みご飯にしてみた。イワシと煮汁を加えてご飯を炊いた。これだけではやや生臭さがあるので、白ネギをたっぷりと小口切りにして水でさらしておいたものを炊き上がりに絞って加えてイワシごとよくかき混ぜる。なかなか美味であった。また作ってみたい。

テレビは見所いっぱい

 本日の名古屋は最高気温40℃超えの予報である。昨日は39℃だった。自分の体温が40℃を超えていたらかなり危険な状態である。そういう気温だということである。スーパーへの買い出しは、なるべく早めに行っておこうと思う。古いアンプとその他二つほどの始末に困っていたものをようやく処分したら、とても気持ちがすっきりした。来週、天井のライトの電気工事とトイレの換気扇の交換をする。そのあとは泌尿器科の定期健診を済ませ、別にあと一つだけ処理したい案件が済めば、とりあえずの大きな懸案は片付くので、大変気持ちが楽になる。

 

 いろいろなことに見通しが立ったので、ようやく本が読めるようになってきたし、映画を見る気にもなった。昨晩は『わが大草原の母』という、ずいぶん昔に録画した内モンゴルが舞台の中国映画を見て大いに感激した。いい映画であった。

 

 Eテレや放送大学の番組を元にしたお勉強のほうも、三日坊主にならずに毎日少しずつやっている。高校講座はやさしすぎるが、意外なところに自分の盲点があることに気づかされてそれだけでも見る意味がある。放送大学の『初歩の化学』と『世界文学への招待』(ともに全十五回)はすべて見終わった。昨日は次の講義に移る前に、科学からの招待状という総題の番組のうちで『アインシュタイン旋風が駆け抜けた日本』と『ネコのマタタビ反応の謎』をみた。昨晩のブログのアインシュタインの言葉というのはこの番組のものをメモして書いたものだ。いまEテレで、『3ヶ月でマスターするアインシュタイン』(毎週一回ずつ)という番組を楽しんでいる。学生時代に、科学啓蒙のガモフの本などを呼んでいたので、こういう番組を見ると懐かしいし、多少は理解できる。

 

 猫がどうしてマタタビにあのような反応を示すのか、という理由が判明したというニュースをしばらく前に聞いていたが詳細は知らずにいた。『ネコのマタタビ反応の謎』では、実際に研究した研究者たちによって、化学的、そして生物学的に詳細に説明されていた。十分に納得しかねる部分がないではないが、まだ全容解明ではないらしいので、今後が期待される。

 

 テレビはつまらない、見るのは時間の無駄だ、とよく言われるし、民放を見ていればその通り(最近はNHKも)であるが、最近、Eテレや放送大学の番組を楽しみ始めたら、山のように興味が引かれるし中身のある番組があるのだ。テレビは見所いっぱいだ。

2025年8月30日 (土)

アインシュタインの言葉

 第一次世界大戦(1914-1918)が終わって間のない1922年に、アインシュタインが招請されて日本にやってきて、40日あまり滞在した。各地で観光と講演を行い大歓迎を受けた。歓迎されたからということもあるが、多くの人と出会い、日本人に大いに好感を持ったようだ。

 

 その日本滞在の後、彼の日記に書かれていた文章。

 

 日本人が持っている、個人に必要な謙虚さと質素さ
 日本人の純粋で静かな心
 
 それらすべてを純粋に保って忘れないでいて欲しい

 

 日露戦争の勝利、そして第一世界大戦でも戦勝国となって世界の五大国入りした日本は、そのあとおごりにおごり、謙虚さと静かな心を失ってしまったことは、歴史の示すとおり。

荷風の怒りと嘆き

 荷風の日記、『断腸亭日乗』を読んでいたらこんなくだりがあった。1日一行、ときに数語の時もあるが、この日は少し長い。

 

(昭和二年)正月五日
 晴れて暖なり、柳北先生の硯北日録七巻を写し終わりぬ、余すところ投閑日録日毎之塵其他十数巻あり、卒業の日猶遠しといふべし、

 

 昭和元年は、前年の十二月二十五日から(十二月二十四日までは大正十五年)で、一週間しかなかった。この頃は、借り出した成島柳北の日記や備忘録を連日熱心に書き写している。典籍や外国の本も購入しては読んでいる。荷風は英語もフランス語も問題なく原文で読める。読めるのが当たり前だと思っている。それなりに研鑽しているのだ。これに続いて驚くべき経験について書いている。

 

薄暮銀座に赴かむとて箪笥町崖下の小径を過るに、一群の児童あり余の行き過るを見て背後より一斉に余が姓名を連呼す、驚いて顧るや群童又一斉に拍手哄笑して逃走せり、其状さながら狂人或は乞食の来るを見て嘲罵するものと異る所なし、そもそも近隣の児童輩何が故に余の面貌姓名を識れるにや、是亦吾文筆浮誉の致す所にあらずして何ぞや、虚名の禍此に至つて全く忍ぶ可からざるものあり、世の雑誌新聞記者の毒筆の如きは余之を目にせざるを以て猶忍ぶことを得べし、近隣の児童が面罵に至つては避けむと欲するも其道なし、浩歎に堪えざるなり、余常に現代の児童の凶悪暴慢なることを憎めり、窃に余が幼時のことを回想するに、礫川の街上に於て余は屢吉野世経中村敬宇南摩羽峯等諸先生を見しことあり、余は猶文字を知らざる程の年齢なりしかど敬虔の情自ら湧来るを覚え首を垂れて路傍に直立するを常とせり、然るにいまの児輩の為す所は何ぞや、余は学識徳望両つながら当時の諸先生に比較すべきもの有るなし、近隣の児童に面罵せらるるも敢て怪しむに足らず、然りと雖苟も文筆に従事するの士を見て就学の児童等路頭に狂犬を罵るが如き行をなすに至つては一代の文教全く廃頽して又救ふべからざるに至れることを示すものにあらずや、是父兄の罪歟、国家教育の至らざるが故歟、余は之を知らず、余は唯老境に及んで吾が膝下に子孫なきを喜ばずんば非らざるなり、(後略)

 

 引用するだけでくたびれたので、いちいち注釈やふりがなは入れない。もし分からない字があれば、たまには漢和辞典でも引いてほしい。原文をなるべくそのまま引いたが、荷風独特の漢字があって、それだけは普通の漢字に直した。 文意はそれほど難解ではないはずだ。

 そういえば、たまたまいま読んでいる和辻哲郎(倫理学者で思想家)の対談集を読んでいたら、戦後直ぐの頃の谷崎潤一郎との対談で永井荷風が話題に上っている。

谷崎 いや実に若い。元気だ。元気といえば正宗白鳥もおなじ年だろう。白鳥が又元気だ。荷風も元気だが、歯が抜けて入れ歯も何もしない。それで独者だろうから洋服ですりきれた下駄をはいている。身体が丈夫なんだね。素足だよ。自分で炭をいじくっているから手でも足でも真黒だ(笑)。はがないし、実に不思議なんだ。けれども元気だ。

和辻 若いときはハイカラな人だったが。

続・バスの車窓風景

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ソビエト時代の建物だろうか。海外でよく感じるのは、建物の外観をきれいにしようとする意思があまりないことだ。

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綿花を摘んでいる人たち。

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ガスを採掘している工場らしい。

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自然のものなのか人工的なものなのか。

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かなり使い込んだトラクターらしきもの。

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子供は元気いっぱい。

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ランチで出たパン。ヒヴァのものとは全く違う。パンはどれも味も堅さも違うが美味しい。

2025年8月29日 (金)

多少は体がなれたのか

 愛知県西北部の当地(名古屋市内よりさらに少し気温が高いと思う)は連日の猛暑日で、しかも熱帯夜が40日以上続いており、エアコンなしでは暮らせない。エアコンなしの時代に生まれなくてよかったと思うが、エアコンがあるような豊かな暮らしだからこその地球温暖化でもあると思うとちょっと複雑だ。豊かさが快適を生んでいるようで、もしかすると実はそうではないのかもしれない。それは災害などでインフラが止まったときに実感させられる。

 

 それでも暑さに体が慣れたのか、それとも体調が回復したからなのか、何もする気が起きなかったのが、お勉強したり読書したりできるようになってきた。いま左横に読みかけの本が十冊あまり積んである。たいてい数冊を並行して読む。一日合わせて100ページから150ページ読めれば満足である。100ページ以下だと一ヶ月に十冊読むのがやっとで、少し残念である。若いときは200ページくらい読んだものだが、読んでいた本がミステリーや時代小説や文芸小説が多くて、読み飛ばせるものばかりだった。いまは読みながら考え、また少し前に戻って読み返ししたりするから正味はそれほど減っていないと言えないこともない。

 

 いまは永井荷風の『断腸亭日乗』第二巻(大正十五年から昭和三年)を読み進めている。それと、最近取り寄せた梨木香歩『やがて満ちてくる光の』という本をメインに読んでいる。気が向けばガルシア・マルケスの『百年の孤独』、呉智英『つぎはぎ仏教入門』、宮本常一『日本の村・海をひらいた人々』、『寺田寅彦随筆集』第二巻などを読む。あと数冊、巻をひらいて読み始めた何冊かがあり、それに今日配達されるはずのハン・ガンの本が参加するはずだ。『菜食主義』、『少年が来る』、『別れを告げない』の三冊を取り寄せた。どれから読むことにしようか。前にも書いたけれど、これはハン・ガンがノーベル賞をもらったからというのではなく、放送大学の『世界文学への招待』の講義で紹介されて面白そうだと思ったからである。そうでなければ縁がなかったはずだ。

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バスの車窓から

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バスの車窓からなので、遮光ガラスの影響がある。市街地から郊外に、そして砂漠地帯に向かう。

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こういうところで商売が成り立つものなのかどうかわからない。しかしこういう景色を眺めるのは大好きである。

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砂漠というより土漠である。

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馬ではなくて牛である。痩せている。

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向こうは鹹湖であろう。鹹湖とは干上がった湖である。ウクライナでは大小たくさんの鹹湖の近くを通った。塩をとっている場所もあった。

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人の住まない広々としたところを見ると国土の狭い日本人としてうらやましくなるが、水がなければ暮らすのは難しいであろう。

つり革

 電車に乗って、混んでいれば吊革につかまる。私は大きくて重いので、よろけると人に迷惑をかける。小柄な人はたいてい私を支えにする。電車の揺れに従ってつり革に体重をかけて私は揺れる。私を支えにしている人も一緒に揺れる。気がついて、足でなるべく揺れをこらえ、つり革はその補助であると思いながら立つことにした。吊革につかまる手の力が半減した。

 

 人は何かにつかまりながら生きている。気がつくと自力で生きられる部分まで何かにつかまって生きている。

 

 この頃立ち上がるのに何かにつかまらないとスムーズに立てない。一時期は床に座ることが面倒で椅子に座ることが多くなった。いまは多少体調も戻って、主に床に座るほうが普通の状態に戻っているが、それでも何かにつかまろうとする。それを極力自力で、主に足の力で立とうとするように意識すると、立てるのである。つかまることに頼り過ぎている自分を少し反省している。

2025年8月28日 (木)

ひとつずつ

 始末しかねて、しまったままだった粗大ゴミを三つほど処分するよう依頼した。それでとりあえず片付けたいものはなくなった(物置にはまだあるが、手をつけると収拾がつかなくなるので、すでに手前のものだけ捨ててスペースだけ確保してある)。本は前月、だいぶ処分した。さらに棒状の蛍光管(四本式)の天井ライトと、シャンデリア式の天井灯をシーリングライトにしてもらう工事を依頼した。これは電気工事を伴うので素人にはできない。それとトイレの換気扇がついたり消えたりし始めたので、交換してもらう。見積もりをしたら見込みより高いが、先延ばしするといつになるかわからないので依頼した。工事は来週以降になる予定。

 

 弟から送ってもらった梨のお裾分けを娘のところへ届けたら、お返しにウナギの蒲焼きを二尾、土産にもらった。柔らかいのが好みなので、蒸し器で少しだけ蒸してタレと山椒をたっぷりかけ、美味しくいただいた。今日もひたすらお勉強と、ちょっとだけ読書(永井荷風『断腸亭日乗』第二巻と梨木香歩『やがて満ちてくる光の』など)した。ハン・ガンの本を三冊、アマゾンに依頼した。けっこう忙しい。

  電気工事がすんだら少し遠出しようと思っている。

講義の効用

 いま、放送大学の『初歩の化学』と『世界文学への招待』の講義を毎日一時間ずつ見ていて、もうすぐ全15回の講義を終える。すでに二つ終了しているので、全部で四つ終えることになる。特別講義や、Eテレの高校講座なども興味のあるものを見ているので、けっこう忙しい。相変わらず『初歩の化学』は難しい。前回は学生時代最も単位を取るのに苦労した、難解な熱力学をベースにした講義だったので、よくまあ単位を取れたものだといまさらながら冷や汗が出た。

 

 世界文学のほうは毎回楽しくしかも興味深く見ている。読まずに積んだままだったガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読み始めたし、カレル・チャペックの『ロボット』も取り寄せて、これから読もうと思っている。また今日は、韓国のハン・ガンの小説を論じていて、これは読まなければと思った。ノーベル賞をもらったことで話題になっていたが、とくに興味をもつこともなく、縁のない作家だと思っていたが、この講義で俄然興味を持った。この講義は2022年のものをまとめて再放送しているので、この時点ではノーベル賞を取ることは予想されていない。しかし講義通りなら、ノーベル賞を取っても当然である気がした。それを知ったことは講義を見た効用である。

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韓国・済州島で見た鳥。多分鵲(かささぎ)。済州島はハン・ガンの『別れは告げない』の重要な舞台で4・3事件を扱っているらしい。この旅の時にガイドに頼んで事件の記念館を訪ねている。

ウズベキスタンの夜明け

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ヒヴァから移動した街で夜明けを迎える。

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朝日が差してきた。

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人が動き出す。

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ホテルの前にはバスがたくさん駐まっている。

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起き出してきた運転手だろうか。

この日は夜明け前からひどい下痢で何度も起きてあまり眠れず。何か食べたものが合わなかったのか。半日出かけずに一人で横になっていた。だから何という街だったのかがあまり記憶にない。

2025年8月27日 (水)

続・ヒヴァ寸景

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ヒヴァのカーペット工房の片隅にあったもの。果物の皮などが、捨ててあるのではなく干してあるのだ。そしてこれを草木染めの材料にする。

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様々な染料で染めた糸を織ってカーペットにする。

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これは綿花を摂った後の綿の枝。これはパンをパン釜で焼くときの燃料にする。

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場所によってパンの味やつけられる模様はいろいろある。ウズベキスタンのパンは美味しい。

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ヒヴァ寸景

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きれいな絵皿。欲しかったけれど、旅行中に割ってしまいそうで買わなかった。

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一枚の板から掘り出す。いろいろと変形する。

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ウズベキスタンの子供。

2025年8月26日 (火)

気が重いときこそ

 薄紙を剥ぐ程度に遅々としてではあるが、右肩の痛みは治まりつつあったのに、突然また痛みがひどくなった。可動域を広げようと負荷をかけたのがいけなかったのか、片付けのために重いものを持ったのがいけなかったのか、はたまた寝ている間にまた無理な力を加えてしまったのかわからない。

 

 昨日と今日はいろいろ雑用もあって出かけたり、人が来たりして忙しかった。工事を伴う電気関係の依頼をして見積もりをしてもらった。思ったより少し高いが、仕方がないと諦める。なるだけ今月中に工事をするように頼んだ。長年の懸案と、いま困ったこととが一度に片付くはずである。パソコンを買い換えたところであるし、この工事で出費が重なり、心細いことになりため息が出たが、放置したままでみすぼらしい思いをするのもいやだ。仕方のないことであると諦める。

 

 精神的にテンションが下がっているし、何をやってもうまくいかず、いろいろなことに集中できない。こういうときはあえて打って出るべきであろう。それで気分転換ができれば何よりだ。あと二つほど片付けなければと思うことが残っている。それを片付けて、来月初めに定期検診を受け、工事もすんだら少し出かけようかと思う。

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ウズベキスタン・ヒヴァの夕景

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異国での夕景はひとしお感慨が深い。

2025年8月24日 (日)

移動式住宅

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こういう移動式住宅を地域によって、ゲルとかパオとか言うが、ウズベキスタンではどう呼んでいたか忘れた。

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ラクダがお出迎え。

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中は思いのほか広く、天井も高い。ここで昼食を摂る。冷えたビールも飲めた。

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体験格差

 昨晩のニュースで、体験格差という言葉を初めて耳にした。親の収入の差により、夏休みに子供の体験格差が生じているというのだ。親の都合により、家族旅行に出かけられた子供もいれば、どこにも連れて行ってもらえなかった子供もいるという。ニュースでは、そういう、あまり体験ができなかった子供たちに、映画を見るという催しをしたという話が紹介されていた。けっこうなことである。

 

 格差は悪いものであり、是正されるべきものだ、というニュアンスを強く含む言葉なので、ニュースではそういうことを取り立てて言ってはいないものの、見た人間の多くはこういう格差は問題である、と考えたであろう。教育格差の問題が親の収入の多寡に大いに関係する、ということがよく言われる。同様の問題点の捉え方なのだろう。

 

 ではどうしたらそのあるべきではない、悪い「格差」を是正するというのだろう。親の収入の差をなくせというのだろうか。そんなことは「共産主義」の中国や北朝鮮でもできない話で、それなら豊かな親は、格差が生じないようにできるけれど我慢してあまり子供に体験をさせないようにし、貧しくて忙しい親は無理をしてでも子供に体験させてあげろ、というのだろうか。親の収入の差によって、子供の教育、食事、衣服などに違いが生ずる。それも格差というのだろう。

 

 そもそも体力、体格、健康状態、知能の差は厳然として存在する。生まれつきにハンディを背負って生まれる子供もいる。それを格差というのだろうか。それを是正すべきだというのだろうか。格差、という言い方の中に差別意識が内包されていないだろうか。そんな問題意識をあおらなければ、たいていの子供は、けなげにあるがままの現実を受け入れて、鍛えられて育つものだ。

2025年8月23日 (土)

鯛のアラ

 弟から、千葉の梨が送られてきた。毎年のことで、ありがたい。礼をしようと電話したら出ないので、息子の家族か娘の家族たちと、どこかへ出かけているのかもしれない。とても一人では食べきれないので、娘にお裾分けしようと電話したが、こちらも出ない。やはり出かけているのだろうか。みんな元気だなあ。けっこうなことである。

 

 魚が食べたくなったのでスーパーの鮮魚コーナーに行ったが、あまり種類がない。特に鮮魚が少ないのは、知多あたりの漁がないせいかも知れない。出来ればアジやイワシなどの小魚の活きのいいのがあれば、イワシなら開いて天ぷらに、小アジなら煮付けか唐揚げにして食べたいところなのだが・・・。鯛のアラのいいのがあったので、煮付けを作ることにした。むかしはアラといえば安くてありがたかったのに、いまは普通の切り身とあまり変わりがない。私はアラをとことんきれいに、しゃぶるように食べる。だからムダがないし値打ちもある。

 

 今晩は日本酒を晩酌にすることにしよう。

『異界を旅する能』

 暑いのでなかなか集中して本が読めない。そんな中で、保田登『異界を旅する能』(ちくま文庫)は思いのほか面白かったのでなんとか読了した。すでに少し前に紹介したが、前半部はもちろん能、とくに夢幻能についての多面的な紹介で、もし能に全く縁がなかった人でも、興味を持つようになるのではないか。お薦めの本である。ただ、こういう世界に多少なりとも感応する力が必要でもあり、もともと日本人に備わっていたそういう能力を、現代人はほとんど喪失しかけている。それを回復させてくれる本だ。後半は、異界を感応する人、この本では、ワキという存在の体現者として芭蕉が取り上げられている。彼が古来からの歌枕の場所を訪ね歩き、西行の跡を偲んで旅をしたこと、また、平家物語の跡を訪ね歩いたことなども、時空を超越した「ワキ」の役割の体現そのものであろう。

 

 旅というものを改めて考えさせてくれた。たまたま放送大学の特集番組で、北海道と北東北の縄文遺跡について取り上げられていた。主なものは私も旅のついでにすでに訪ねたことがあるが、それをメインテーマに訪ね直そうかと思って、いま地図を眺め直している。もちろん、まず青森の三内丸山遺跡からだろう。ただあそこには夏行ったことがあって、その広さと暑さに参ったことがある。もう少し涼しくなってからにしようか。いまルートを考慮中である。関連の博物館も訪ねたいと思っている。そういう気持ちになるほど体調が回復してきた。

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ウズベキスタンのカラ

猛暑続きで食欲があまりなく、食事がついて抜きになってしまう。こういうときこそ少し贅沢な、栄養価の高いものを食べなければと思う。今日はできればいい魚を食べたい。

ウズベキスタンには砂漠の中に多くの都城跡が残っている。カラという。多くがまだ詳しい調査発掘がなされていない。その一つに立ち寄る。

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手前が防御用の砦のようなもので上が都城だった。

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下から歩いて登る。エレベーターも階段もなく、砂地のところを歩くので思ったより疲れる。

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都城の城壁。右上の穴は埇道跡だと思われる。

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上から見下ろす。思ったより高くまで上った。

2025年8月22日 (金)

『写生紀行』

 寺田寅彦の随筆『写生紀行』の中にこんな一文があった。

 

 昔は命を的にしなければ、うっかり誤ってでも人の足も踏めず、悪口もむろん言われなかった。私の血縁の一人は夜道で誤って突き当たった人と切り合って相手を殺し自分は切腹した。それがいまでは法律に触れない限り、自分のめがねで見て気に入らない人間なら、足を踏みつけておいて、さかさまにののしるほうが男らしくていいのである。そういうことを道楽のようにして歩いている人格者もある。それで私は自分の子供らの行く末を思うなら、そういう風にいまから教育しなければさきで困るのではないかと思うこともしばしばある。

 

 私は、強いものが譲ればこの世は丸く収まるものだと思っている。いまは強いものが一方的に利益を得る時代で、強いものほど譲らない。寺田寅彦がこれを書いた時代もそんな時代だったのだろうか。それとも、そもそも世間とはそういうところなのだろうか。私も子供の行く末を思ったけれど、譲る側に立つようにそれとなく教えた。多少の損なら歯牙にもかけない強さを持ってもらいたいと願い、ほぼ望み通りに育った。

 

 文中の「私の血縁」とは、寺田寅彦の叔父(父の弟)であり、その切腹の介錯を寺田寅彦の父がした。そのことは以前ここに書いた。そういうすさまじい時代を生きたので、寅彦の父は寅彦を学者にした。

ヒヴァの城壁の外

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出入り口。隊商はここから出入りした。中には市場や宿泊所がある。人間だけではなく、ラクダのの宿泊する場所もある。

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くつろぐラクダ。立ち上がると大きい。そばに寄りすぎるとつばを吐きかけられる。

2025年8月21日 (木)

『ロボット』

 今日見た『世界文学への招待』の第七回の主要テーマは、チェコのカレル・チャペックの『ロボット』という戯曲であった。いまはどうか知らないが、私が若い頃はSFファンにとっての古典ともいえる作品で、20世紀の初めの頃に書かれている。とは言いながら、私はチャペックの代表作の『山椒魚戦争』共々内容は承知しているものの、きちんと読んでいない。だから今回の講義で物語の細部とそこに込められたチャペックの文明批評について知ることができて、大変勉強になった。すでに今日のAIの問題の先取りをしているところもあったのだ。

 

 これも是非読んでみたいところなのだが、手が回らない。

 

 映画も二本ほど見た。一本は『シリアナ』という2005年のアメリカ製作のエスピオナージ映画である。ジョージ・クルーニー、マット・デイモンが競演していて、細かい説明なしにどんどん物語が進んでいき、それを見ながら背景や経緯が次第にわかってくるという映画である。なかなか見応えがあった。

 

 もう一本は『クロワッサンで朝食を』というフランス・エストニア・ベルギー映画。主演は往年の大女優ジャンヌ・モロー。エストニアで、世話をしていた母が死に、することがなくなったアンヌ(ライネ・マギ)は、エストニア生まれで長年パリで暮らし、いまは一人暮らしの老女フリーダ(ジャンヌ・モロー)の世話をする仕事を持ちかけられる。迷った末に思い切ってパリに赴くアンヌだったが、想像を絶するわがままなフリーダに翻弄されることになる。もちろん次第に心が通い合うようになるというお決まりの話ではあるが、その辛辣さは見ていて切ない。フリーダもアンヌも切ないのだ。なかなかいい映画だった。ジャンヌ・モローが自分勝手な老女の醜さをことさらに表現していて、その勇気に敬服させられた。しかしそれでいてどこかかわいらしさをのぞかせる、やはり名優である。

読書と偏向

 ヒトラーには蔵書が約16000冊あったと言われているが、終戦時の混乱で多くが散逸した。そのヒトラーの持っていた書籍の研究をしている人を中心にドイツとベルギーの放送局が作成したドキュメントを見た。彼がその蔵書のどれだけを読んだかわからない。彼の考えに共感した著者からの献呈本も少なくないようなので、蔵書の傾向に偏向が見られるのは当然であろう。

 

 出だしのいくつかのコメントのなかに「読書しすぎると偏向するから、読書は必ずしもよいものとはいえないかもしれない」というような意味の言葉があった。読書とは何を読むか、どう読むかで、よいものか悪いものか大きく違ってくるということはある。だからこのコメントはあながち間違いではない。しかしヒトラーの蔵書がテーマである番組の中で語られると、あたかも読書は正しくないもののように聞こえたのが気になった。

 

 ヨーロッパの白人至上主義は根深い。特に北欧ゲルマンを源流とした民族にその傾向がある。そうこの番組では解析していた。ヨーロッパにはそのような人種差別的土壌があり、それがナチスのユダヤ人絶滅政策につながったという見立てはその通りなのだろう。だからドイツ国民はそのナチスを拍手喝采して支持した。さらに優生学が正しいものとして推進された。健康で知的水準が高いものだけを淘汰していくことが人類のためにはよいことである、という思想は当然のこととして受け止められていたのだろう。そしてアジア人、黒人などは本質的に劣等である、という彼らの常識とそれが結びついていた。

 

 あまりその話を突っ込んでいくと主旨と外れるし、日本だってその優生学的常識が当然だと思われていた時代があったし、日本人は世界に優れて優秀な民族だ、というのは子供の頃いろいろな形で聞かされていたものだ。

 

 確かに偏向した読書は、いくら数多く読んだところでその偏向を修正することにつながらない。自分が偏向しているかもしれないという疑問が持てるかどうか。偏向する人間は自分に疑問を持つことが大抵できない。ヒトラーを引き合いに出して、偏向と読書をつなげて論じているかのような番組の組み立て方に、読書好きの私としてはいささか面白くない気持ちになった。本を読まないトランプたちのような反知性主義の福音派たちを見ていれば、この番組の言いたいことの反論になるのではないか。

ウズベキスタン・ヒヴァの朝

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夜が明けてきた。ミナレットに朝日がさす。

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メドレセ(神学校)の入り口のタイル。美しい。

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未完の大ミナレット、カルタ・ミノルを遠望する。

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戻ってホテルで朝食を摂る。 

2025年8月20日 (水)

多様性と寛容性

 毎月20日前後に妻が長期入院している病院に行くことにしている。いつもは早めに軽く昼食を食べてから家を出て、午後一番くらいに病院に入るようにしているが、久しぶりに途中で外食した。現役時代は昼こそこってりとしてボリュームのあるものを食べたものだが、食欲があまりないから軽いものにした。病院まで往復30キロあまりで近いのだが、途中がとても混む市街地を走るので、片道四五十分かかる。その上今日は20日で特に混む日だし、さらにいちばんやってほしくない場所で工事している箇所があり、長い渋滞を抜けなければならなかった。

 

 尾張西部は連日の猛暑日で、これがまだまだ当分続くらしい。外へ出て直射日光を浴びるとクラクラする。それでも車はエアコンが効いているからありがたい。病院は寒いくらいであった。

 

 放送大学の受講を毎日続けている。今日は『初歩からの科学』第六回と、『世界文学への招待』第六回である。初歩からの科学では、物質と色についての極めて高度で専門的な話だった。その中で紅花の色素が取り上げられたので、珍しく眠らずに真面目に受講した。というのは私が大学四年で配属された講座が紅花の色素の抽出、分析、構造決定を研究していたからだ(私に与えられたテーマは別であったが)。五十数年前のことだ。いまは完全に構造とその発色のメカニズムもわかっているらしい。科学は進歩するのだなあ。

 

 『世界文学の招待』は批評、評論についてであった。これも特にいま興味を持って読んでいる分野なので集中して見た。私の思っていた内容とは全く違うものではあったが、考えさせられることがいろいろあった。

 

 古典をテクストとして読むときに、極端に言えば、現代の価値観で読む読み方と、その時代の価値観をなるべく意識して読む読み方とがあり得る。どちらが正しいなどというものではない。ただ、現代の価値観で読み過ぎると、民主的ではないとか、人権が尊重されていないとか言う非難が先立ってしまう可能性があり、そうなると古典を読むことそのことが不可能になってしまう。そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、マルクス史観にたつ文学の読み方はそれに似たものであった。中国では共産党の価値観によってテキストを評価するのが当たり前であるように見える。四人組時代だけのこととは思えない。

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 その辺を突き詰めると考えることが多すぎるが、価値観に正義を置くと、そうなりやすい。多様性を旗印にする人たちが、しばしば偏狭で寛容性に欠けることがあるのは不思議なことだと思う。多面的で複眼的、そして柔軟なテキストの読み込みが大事なことなのだと思った。寛容性のある解釈と評価に努めるように心がけなければと思う。

ウズベキスタン 綿花とタマリンド

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白いのは綿花。綿花は案外水を必要とする。ソビエト連邦時代、たくさんの運河がひかれて水が供給されたが、おかげで内水海は干上がり、もともと湖だったところは多くが鹹湖になってしまった。

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かねてから見たいと思っていたタマリンド。

2025年8月19日 (火)

新聞、週刊誌、月刊誌

 寺田寅彦の随筆を読んでいたら、新聞について批判的な文章があった。主旨は、じっくりと考えるべき事柄が日々次々に報じられるために、物事を時間をかけて丁寧に考えることがおろそかになってしまうところがある。記事をつきつぎに追いかけているうちに、考えることをおろそかにする習慣がついてしまう、というのである。

 

 確かにその通りなのだが、新聞というものの役割はそういうものでもあり、仕方のない面もあると思う。若いときに私もそう思ったことがある。そうして、ある程度その出来事の意味を時間経過や背景をもう少しまとめて報じるのが週刊誌で、さらに詳しくまとめて考察するのが月刊誌の役割であろうと考えていた。週刊誌まで読むのは手が回りかねるので、新聞である程度考えたいと思ったことについては、月刊誌で論じているものがあればそれを読むようにしたものである。

 

 最近はあまり月刊誌を読むことがなくなり、新聞も購読をやめてしまった。テレビのニュースとネットニュースで出来事をトレースしてこと足れりとしている。時系列で出来事を考えることが昔よりさらにおろそかになっている。いまの若い人も同様だろう。寺田寅彦が危惧したことが、さらに現代は極端になって、ものを考えることがおろそかになっているかもしれないな、と思った。人はすぐに忘れるようになった。

ウズベキスタン・露店にて

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ウズベキスタンの思い出

夜中に宿泊地について翌朝、夜明け前に目覚めた。
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宿のテラスから。ああ、イスラムの国へ来たのだな、と思った。

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泊まった宿。友人と散歩に出かける。

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ブログに書くことがないので写真にしました。

2025年8月18日 (月)

インプット中

 ブログを書くのはアウトプットだと思う。そのアウトプットをするためには、表出すべきなにものかの蓄積がなければならない。元々メモリーが足らないザル頭なので、日々のインプットが欠かせない。猛暑に恐れをなしての引きこもりと読書量の低下で、インプットが不足して、アウトプットするための内圧が足らなくなった。

 

 ということで、惰眠の合間にではあるが、しばし読書とお勉強に努めたいと思う。

2025年8月17日 (日)

初歩なのに難しすぎて・・・

 放送大学を知り、その中から興味のあるものを録画して、お勉強を始めたことは前にも書いた。いまは夏休み中だからであろうか、以前の講義をまとめて次々に再放送してくれているから、一講座15回分がたちまち録画できる。すでに『自然科学はじめの一歩』、そして『日本語リテラシー』の二講座各15回を一通り見終えた。よくわからないところもそのまま見過ごしているので、しばらく経ってからもう一度はじめから丁寧に見直すつもりである。いまは『初歩からの化学』と『世界文学への招待』という講座を一日一つずつ見ている。

 

 『世界文学への招待』では第一回でカミュ、第二回でフランスのウェルベック、アルジェリアのサンサール、第三回で南アフリカのクッツェーが取り上げられて論評されていた。カミュ以外は初めて知る名前ばかりである。カミュは読み直したい作家だとかねてから思っていたし、それぞれ作品を読みたくなったが、そうそうは手を広げきれないので、いまは講義を聴くだけにしている。

 

 『初歩からの化学』は初歩のはずだし、私も大学で化学を専攻していたから再勉強のつもりで見始めたらとんでもない。総論の後に原子内の電子の構造論、それに基づく周期表の成り立ち、化学結合の量子論的解釈の講義をどんどん進めていく。確かに私もこれを習ったけれど、理解しきれないまま卒業してしまった最も難解なところである。これが初歩かと絶句した。しかし現代の化学では最も根幹のところとして教える部分らしい。意地でもう少し理解したいと思っている。次かその次くらいから有機化学にいくので、そちらはもう少しわかるのではないかと期待しているのだがもっと難しかったりして・・・。

日本の若者

 池上彰の終戦についての番組(土曜の夜放映のもの)を今朝見た。ひな壇にいるのはカズレーザーを除いて二十代の若者たちで、それぞれ芸人やタレントらしいから、一般的な日本の若者の代表とまではいえないものの、ものを知らないことは嘆かわしいのを通り過ぎて、恐ろしいほどである(中では谷まりあだけがなかなかしっかりと答えていたのがかえって印象的だった)。繰り返しいいわけで言うのは、学校で教わっていないという言葉であった。教わった、という若者もいるにはいる。忘れているのだろう、そもそもまともに勉強しなかったのだろう、と思いながら、待てよ、と思った。

 

 私が高校生時代、日本史の授業は大正時代くらいまでは丁寧に授業があったが、昭和に入ると突然事件事実の羅列をさらりと流して終わりであった。どうして太平洋戦争に至ったのかの経緯はほとんどわからないまま終了した。近代史から現代史に入ると、政治的な立場で評価や受け取り方ががらりと変わるために、教師が回避したのだと思う。そのときに教師が言った言葉が忘れられない。「この辺は入試には出ません」。歴史で一番大事なのは、直近の戦争について学ぶこと、そこから教訓を得てどうすべきか考えることではないか。だから私は自分で勉強するしかないと思った。

 

 それから六十年近くたったいま、近現代史はどう教えられているのかよく知らない。ほとんど同じように、太平洋戦争について授業で教えられていないのかもしれない。教えられたり教えられなかったりがあるから、ある若者は「知らない」と言っていたのかもしれない。それにしても街頭インタビューで「八月十五日は何の日ですか?」とマイクを向けて問われた若者が次々に「知らない」と平然と答えていたのには唖然とした。そういう若者ばかりを編集していたのかもしれないが、それにしても日本の若者は・・・と慄然たる思いがする。

 

 世界中の終戦の日について各国の人々にインタビューしたものも数々報じられていた。若者の答えているものも多い。日本の若者よりも遙かにしっかりとしたものが多いように感じたのは、取り上げられた対象の違いだけだろうか。

 

 スタジオの若者たちが最後に、いままで不勉強だった、これからはもう少し勉強します、などと殊勝なことをつぎつぎに口にしていたが、スタジオを出た途端にすべて忘れてしまうだろうな、来年同じ特集でひな壇に座っても「知らなかった」と言うだろうなと思った。

2025年8月16日 (土)

大げさに言えば弾の飛び交う戦場にいるようなもの

 昨日は、突然パソコンがフリーズし、アクセスを受け付けなくなって、マイクロソフトから「トロイの木馬に侵入されました、下記の連絡先に直ちに連絡して対処してください」との表示が出た。電源を落としてから入れ直しても同じ状態が続いている。大変だと慌てたが、どうも不審なので、とにかく動いているプログラムを強制終了してみたら元に戻った。有料の対策ソフトを入れてあるので、それでスキャンをしてチェックをかけてみたが、ウイルスは検出されず問題ないとの報告である。そして一晩たった今日の時点でも何の異常もない。このまま収まってくれればありがたいのだが。

 

 手配していた新しいデスクトップは午前中に配達された。とりあえずセットアップだけは済ませたので、これから旧のデスクトップの常用のソフト類を入れ直し、必要最小限のデータを入れ戻していくつもりだ。無料の対策ソフトは添付されているが、使い慣れているウイルス対策ソフトを一番に組み込んだ。ネットにはスムーズにつながったし、新しいから動作は軽快である。

 

 自宅に固定電話を置いている。携帯の電話番号を知らせたくないところには固定電話番号だけ知らせているので、固定電話は必要である。ただし、固定電話は留守電にしてあり、原則として直接出ない。必要なら名を名乗り、用件を言ってくれる。失礼であるが、ほとんどが迷惑電話であるので出ると断るのに難儀してストレスが大きい。在宅していると一日二件ほど固定電話が鳴るが、アンケートが少しと、あとは無言で切れるものばかりである。今日の電話はひどかった。「カードの委託会社です。カードの不正使用により二時間以内に連絡がなければカードが使えなくなります」とデジタル音声が一方的に語っている。「対処のための連絡が必要な場合はなんとかのボタンを押してください」などと言う。こんなものに出たらどうなることやら恐ろしい。

 

 迷惑メールは日々増え続け、パソコンの方にもスマホの方にも巧妙なものがはいってくる。迷惑メールの仕分けをすり抜けるものも次第に増えている。心当たりがあるようなものもうっかりすると危ない。相手のアドレスやその文章、内容をよくよく見る必要がある。弾が飛び交う戦場にいるようなものだ。当たったら無傷ですまないかもしれない。一体世の中どうなってしまったのかと思う。どうしてこんなものが野放しのままなのか。何もかもが信用できなくなってきた。デジタルにどっぷりはまってはいるが、それから離れたらずいぶん心が安らぐだろう。昔の方がよかった。便利さと不快さを比べれば、不快の方がずっと大きい気がする。

『異界を旅する能』

 いま保田登『異界を旅する能』(ちくま文庫)という本を読んでいる。若い頃、梅原猛によって謡曲『隅田川』の面白さ、奥深さを教えられ、最近も古典全集の中の『謡曲集』を拾い読みしているところであり、実際に舞台の能を見たことはないが、この本に書かれていることが多少はわかるつもりで読んでいる。副題は『ワキという存在』であり、そのことについて、以下の小文がわかりやすい。

 

 さらに言えば、能のワキである聖なる旅人は、自分は無力であり、そして欠落している人間だということをただ感じているのではなく、深く身に沁みている人間だ。むろん名などはとうに捨てた、無名の旅人だ。彼は定住を自分に許さず旅に出る。そんな欠落した聖なる旅人が「ふと」ある旧跡に立ち止まったとき、そこに亡霊が残恨の魂をひっさげて出現する。それが能だ。

 

 まだ半分ほどしか読み進めていないが、能というものについてかなりディープな世界をわかりやすく解説してくれていて面白い。同時に「ワキ」という存在を通して、漂泊の旅人についての様々な思いを想像させてくれる。西行しかり、芭蕉しかり、山頭火などもそのような存在だろう。そういう旅人がなぜ漂泊するのか、そこで何を見ようとしているのか、見てしまうのか、そのことに強く心が引かれる。

 

 本日、新しいデスクトップPCが配達されてくる。それなのに、昨日ただ一台の現役のノートパソコンが異常を検知して動作しなくなるという事態となった。幸い復旧はしているが予断を許さない。慎重にセットアップするつもりである。Windows11に移行できない古いデスクトップから、必要と思われるデータなどはハードディスクにほぼバックアップすることができた。多分午前中に到着するようなので今日は新体制の確立に注力するつもりである。

2025年8月15日 (金)

トロイの木馬に汚染?

 niftyのクイズにチャレンジしていたら、ある広告が出たところで画面がフリーズし、ブザーとともに「トロイの木馬に汚染しました、至急下記のマイクロソフトの連絡先に連絡してください」という警告文が出て、どうにもならなくなった。有料の対策ソフトを使っているのにどうしたことかと思ったが、とにかく落ち着くために一度電源を強制的に落としてみた。そのあと立ち上げたら再び警告音とともに、前に出た画面が出て何も受け付けない。電源を落とすな、再起動するなという。

 表示されているマイクロソフトだという連絡先に電話しようと思ったが、どうも不審である。そこでコントロールキーとAltキーとDELキーを同時に押すというおなじみの手順で、いま動いているソフトらしきものを強制終了してみた。あーら不思議、警告画面は出なくなった。直ぐに対策ソフトを立ち上げてチェックをかけてみた。トロイの木馬に侵入されたという表示もなく、汚染されたという報告もなく、問題ありませんとのことである。

 それからしばらく経つが、今のところ問題はないようである。まだ分からないが、どこかに地雷があるのであろう。怪しいところには触らないように注意するつもりである。そもそも怪しいところには触っていないつもりなのだけれど、このごろ迷惑メールの猛攻がひどくなっていて、その辺も注意して扱おうと思う。

 二ヶ月ほど前にスマホが汚染してフリーズし、対策してもらったが、何らかのつながりをたどられているのかもしれない。スマホの方にもたくさんの迷惑メールが送られつづけている。 

終戦記念日

 今日は太平洋戦争の終戦記念日。終戦記念日ではなく、敗戦記念日だ、という人もいるが、その日に日本人が感じたことは人それぞれであって、受け取り方で「負けた」ということばかりを感じた人と、「やっと戦争が終わった、これで夜も明かりがつけられて安眠できる」と感じた人とで違うだろう。前者にとっては敗戦記念日で、後者であれば終戦記念日ということになる。

 

 母は終戦の時に19歳で、「やっと戦争が終わった」と思った口である。千葉市に家族で暮らしていて、東京大空襲の後しばらくして、千葉も空襲を受けた。爆弾と焼夷弾を市街地のぐるりから投下し、次第に中央へ追い詰めて「効率的に」「なるべく多数の市民」を殺傷するという方式の戦火のなかを両親、弟たちと逃げ惑いながら奇跡的に家族全員無事に生き延びた。もちろん住んでいた家も家具その他一切も灰燼となった。着の身着のままで逃げたので、アルバムすら持ち出せなかった。

 

 そのときの様子は地獄絵図で、黒焦げの死体の間を駆けたりなど、あまりの凄惨さに神経が麻痺して無感覚になったと母は語った。友人もたくさん失った。その後も通勤の列車が機銃掃射を受けて九死に一生を得たりしたようだ。子供の時から繰り返しそのときの様子を聞かされた。

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 父はそのとき兵士として中国北支の戦地にいた。ちょうど終戦の日からであろう、突然敵軍からの銃弾が飛んでこなくなり、「戦争が終わったから山を下りて投降せよ」というビラが繰り返しまかれたという。内心では本当だろうと思いながらも皆疑心暗鬼で、結局皆で投降したのは九月に入ってからだったという。降伏した相手が中国軍で、ロシア軍に引き渡されなかったので、翌年か二年後くらい(正確にいつだったか聞いていない)に帰国することができた。父の一番下の弟はシベリアに抑留され、私が生まれた頃にようやく帰国できた。父のすぐ下の弟は戦死している。

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 いまさらいわれなくても、戦争はしてはいけないことは誰でもわかっている。それなのにどうして戦争が起きてしまうのか。そのことを高校生くらいから真剣に考え続け、大学に入ってからは近現代史と太平洋戦争についての本をたくさん読んだ。背景を知るために時代をどんどん遡っていった。戦争の悲惨さを語り継ぐのもいい。しかしどうして戦争が起きるのか、もっとみんな真剣に考えてほしい。歴史に学んでほしい。わかっていても起きてしまう戦争というものを、特に若者には歴史から学んでほしいと思う。そこから、では自分はどうしたらいいのか考えることができると思う。

2025年8月14日 (木)

あるはずのものが

 新しいデスクトップパソコンが一週間早く配達されることになった。早ければ土曜日に配送される。その前にデータなどをハードディスクにコピーして、新しい方に移動する準備をした。ソフトやアプリも移さないといまと同様には使えない。何と何が必要なものなのかを書き出して、不要なものは廃棄する。写真などのファイルはNASのファイルにまとめているつもりだが、どうもいいかげんにまとめているので、同じものがいくつもあったり、あるはずのものがなかったりしている。

 

 古いハードディスクも含めて四五台のハードディスクにバラバラに写真データが保存されている。それをきちんと地域別、そして時系列順にファイル名を付け直しながらまとめていった。意識を集中していないとごちゃごちゃになってしまう。それでも半日がかりで何とか整理することが出来た。これでNASからいつでも読み出して写真を見直すことができる。大きめのハードディスク一台をバックアップ用にした。あとは初期化して別の用途に使えるようにした。

 

 それにしてもあるはずの写真がないのが気になるのだが、たぶんファイル名に問題があってどこかにまぎれているのだと思う。確認するには何千枚もの写真をいちいち見ていかないとならない。とてもそんな元気はないので今日はこれで良しとする。いまはOneDriveがあるから、ネットの設定やお気に入りは自動的に移行することが出来るはずだ。セキュリティソフトや一太郎の移行のやり方は、いまのノートパソコンを新しくしたときにメモしてあったので、それを参考にすればいいはずだ。あとはJTrimなどの無料ソフトで、これは手作業でまたダウンロードし直さなければならないだろう。

 

 それにしても昔と違って、設定を一からやり直さなくてよいのはありがたい。とはいえやってみなければほんとうにスムーズに行くかどうかは自信がない。とにかく写真整理だけで今日は精根尽き果てた。

なすすべなし

 伊豆・伊東市の市長の百条委員会でのやりとりを見ていると、その厚顔ぶりに見ていられない心持ちがする。それは、責められる市長の立場に多少なり自分を置きかえて想像してしまうからであろうか。それでも彼女が、内心はともかく、あのような答え方で平然としているように見えるのは私には理解しかねる。ところで責めている側にもなんとなく尋常でない、なんとなくの胡散臭さを感じてしまうのは私だけだろうか。善悪をただすというよりも、とにかく市長の非をならして引きずり下ろすことが目的、というように見える。それが念頭にあるから、市長も踏みとどまっているのかもしれない。互いに卒業証書なんてどうだっていいのであろう。

 

 過去、こういう厚顔無恥ぶりをさまざまに見ることがあった。まともな常識の持ち主なら、耐えられない状況に追い詰められれば白旗を揚げるものだが、誰もなるほどとは思わないような見苦しい言い訳を吐き出し続ける。それでも最終的にはさすがにしのぎきれず、そういう存在は排除されていく。そういう人間は社会の中に常に一定数いる。

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 問題はその割合が増えてはいないか、ということだ。どうもそういう人間に対しての社会的な排除圧が減少して、限度を超えた自己正当化人間が増えていないか。「人権、人権」とお念仏を唱えているうちに、そういう者がのさばってもなすすべなし、という社会になってしまったような気がして仕方がない。同時に、ターゲットにした人間を、匿名で正義の御旗を旗印にたたきまくる人種も同じ穴の狢であるように見える。

2025年8月13日 (水)

最悪の覚醒法

 右肩の痛みは一進一退で、ほんのわずかだが可動域が広くなった気がする日もあれば、腕の重さの負担だけで疼痛を感じ続けたりする日もある。とにかく夜寝ている間に右肩に体重を懸けてしまうことで、痛みの改善が進まないらしいと推察している。痛みで起きてしまうので睡眠が浅く、早めに寝て夜中の二時三時にに目が覚めてしまうという日が続いている。たいていそのまま起きてしまう。だから夜明け前に録画したドキュメントや高校講座、放送大学講座、プライムニュースを消化する。朝食を食べて片付けてしまったら、読書しようと本を広げるのだが、少し読むとうつらうつらし始める。夜中のほうを読書にあてるとそのときは本が読めて、かわりに朝食後の録画を見ている間に舟をこぎ出すことになる。

 

 私はよほどストレスのかかったとき以外はたいてい安眠出来るたちであって、寝不足が続くなどというのは尋常ではない。ただ、ひどく肥満していた頃に睡眠時無呼吸症候群になり、十分寝たつもりでも昼間眠い状態になった時期があった。運転中などに突然睡魔が襲ったりしたので、これは危ないと気がついて減量し、かなり改善した。完全ではないが、いまはその心配はほとんどなくなった。このときも夜中によく目が醒めた。死と隣り合わせの無呼吸状態から脱するために、無意識の私のとった対策が、口の中や舌を噛むことだった。無意識の反応なので容赦のない噛み方なのである。朝起きると口の中が血だらけだったりする。傷口がたまに口内炎になるので不快で困った。

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 いまの肩の痛みはそのときのことを思い出させる。私を起こすために無意識のうちに肩が痛いような身体の動きをしているのではないかと思う。肩に負荷をかけているときに、その方向に動かすと痛いばかりの、もっとも痛む方向に肩を引いたりしているようだ。激痛で目覚めた瞬間にそれを感じる。しばらく痛みにうめきながら、もう眠れないからどうしても起きだしてしまうことになる。身体は私を最悪の覚醒法で起床させる。いろいろ対策を自分なりに講じているので、全体としてはよい方向に向かいつつあると信じているが、当分の間はこの状態に耐えなければならないと覚悟している。

理解力

 前の晩のプライムニュースを録画しておいて翌朝見る。面白くなさそうなテーマのときには録画しない。反町理がキャスターのときは熱気もあり、ゲストとのやりとりも面白かった。ゲストの語る専門家としてのことばに対して反町理は理解力があるから、そのやりとりに中身がこもるのである。彼が残念な理由で退場して、その後を心配していたが、いまは長野美郷アナがメインで担当していて、見かけによらず(お人形さんみたいにかわいいのである)に奮闘していると思う。それは彼女に理解力があるからだと思うし、自分の先入観にとらわれないところが好感が持てる。彼女が聞き手であればたいてい心配ないので引き続き安心して見ている。

 

 補助役で、新人アナウンサーや若いアナウンサーが隣に座り、進行を手伝うのだが、しばしば話しについて行けずにぽかんとしているのが見て取れることがある。理解が出来ないのである。どうして理解出来ないのか、聞いたことを考えるための素養が多分ないのであろう。話が高度になると、ベースがないと理解することは不可能だ。アナウンサーになるくらいだから大学ぐらいは出ているであろう。大学で基礎的知識を身につけていればわからないはずがないと思うのはこちらの思い込みのようで、ぽかんとしている顔をチラチラ眺めて、哀れを感じる。知識があってもその知識をもとに考える、ということが出来ないらしい。素養というのはそういうことである。本人は慣れていないだけだと思っていることが顔に書かれている。そう思っている限り、理解力は身につかないだろう。願わくばもっとほんとうの勉強をしてくれ。

2025年8月12日 (火)

すでにAIによる侵略は始まっている

 イーロン・マスクを取り上げたドキュメントで、彼がDOGEという組織を使って行ったことを知り、恐ろしさを感じた。多数の政府系の組織をほぼ壊滅状態に追い込み、何万何十万の人間の雇用を失わせたのだが、そもそもそのDOGEのメンバーがどういう人物で構成されていたのかが明らかでないらしい。イーロン・マスクの会社の人間と、シリコンバレーの会社から来ている人間たちらしいことはわかっているのだが、全体像が未だに不明であり、イーロン・マスクがトランプ政権と離れたあともまだ活動しているらしいことに驚いた。

 

 ある日突然、数人のDOGEから来たというグループが、政府系の組織に乗り込み、一方的に組織の資料、データを回収し、すべての情報にアクセスしていく。そのデータはそもそもが極秘のもので、アクセス権を持つものはごく限られているはずなのに、それが流出してしまった可能性がある。流出したとして、そのデータがどこに持ち出されたのか誰にもわからない。極めて膨大な政府系のデータや個人情報にアクセスされた痕跡だけが残っているという。

 

 ここからは私の稚拙な陰謀論である。

 イーロン・マスクがトランプに近づいたのはそもそもその膨大なデータを入手するのが目的だったのではないか、というのは私の勝手な推測で、ドキュメントではそこまで言及していない。その目的が達成されたのであれば彼はトランプのもとにとどまる理由はない。愚かなトランプの利用は済んだ。だから離反した。そして得られたそれらのデータを元に彼が何をしようとしているのかどうかは今のところわからない。

 

 私の妄想はSF的で、そもそもそういうデータを入手するようにイーロン・マスクに思いつかせたのは、実はAIだったというものである。DOGEは一兆ドルの経費節減をしてみせると公言したが、報告によればその何分の一しか達成して居らず、しかもその値もかなりの水増しらしい。つまり目的は経費節減などではなかった可能性が大きい。

 

 アメリカはこうして機密情報を含む膨大な情報が一部の人間に握られることになった。そしてそれはAIによって管理されている。恐怖の時代が、中国より先にアメリカにやってくる。私の妄想でなければさいわいである。

科学者の喜び

 いままでとは桁違いに高精度の観測ができるジェームズウェッブ望遠鏡が二年前に宇宙に打ち上げられた。それにより従来の観測から得られたデータをもとにした仮説が次々に破られる観測データが得られている。それを若い研究者たちが嬉々として報告し、新しい仮説に取り組むために全力を傾けている。

 

 放送大学の講師の誰かが、研究と論文について語っていたことを思い出した。研究するときにはテーマを決める。そしてそれについて先人がどんな研究を重ねてきたのかを精査する。そして自分がそれにどのような新しい知見を加えられるかを確認し、仮説を立てる。その仮説を裏付けるデータを取っていく。そのとき、仮説通りではないデータが得られることがあたりまえに生じる。そのときに仮説が間違っていた、とがっかりするようでは科学者ではない、という。仮説が裏切られたら大いなる喜びだ、というのである。そうしてさらに研究を深めて仮説を修正補強していくことこそが科学するものの醍醐味なのだという。

 

 ジェームズウェッブ望遠鏡で得られた従来の仮説を覆すデータを前に、にこやかにその研究報告をする研究者たちの姿に科学者の喜びを見て、こちらも嬉しくなった。

 

 しばしば人文科学や社会科学などで、学閥の頂点の学者の唱えた、通説となっている学説に反する発見や研究が発表されそうになると、通説に反するからと排斥され、その弟子たちによって闇に葬られてきたといい、いまもそんな話が続いているというのを漏れ聞いている。そういう学者たちは、そもそも学者の名をかたる資格がない。もちろん自分の仮説に都合のよいようにデータをいじる、などというのは論外の上の論外である。

2025年8月11日 (月)

映画三昧・つづき

『ドミノ』
 2005年のアメリカ・フランス・イギリス映画。ベン・アフレックが主演した2023年の同名のSF映画(とても面白かった)とは全く別の映画である。逃亡犯や仮釈放中で行方をくらました犯罪者などを捕まえる現代の賞金稼ぎ、バウンティ・ハンターの女性・ドミノ(キーラ・ナイトレイ)が主人公である。彼女は三人組に属し、リーダーをミッキー・ロークが演じている。映画は倒叙的に語られていき、彼女の生い立ち、バウンティ・ハンターになるまでの経緯が、取調官(ルーシー・リュー)に取り調べを受けている現在の状況に回想として重ねられていく。そしてある男の拘束に向かったことで、事態は思わぬ凄惨な状況へ追い込まれていく。キーラ・ナイトレイもミッキー・ロークも好きな俳優だし芸達者なので、全編が迫力と緊張感、さらに倦怠感にあふれているという不思議な映画であった。クリストファー・ウォーケンが出演していたり、ドミノの母親役でジャクリーン・ビセットが出ていたりと、おまけ付きである。

 

『プリズナー』
 2008年のアメリカ映画。あたかも脱走映画みたいな題名だが、全く違う。子供を殺された母親(ミニー・ドライヴァー)と犯人(ジェレミー・レナー)が交錯するまでのいきさつが、セピア調のダークでかすれた映像を使って詳細に描かれていく。物語そのものは投げやりな救いのないものなのだが、それぞれに逃れようのない結末に向かって出会ってしまう。ラストはこの犯人に死刑が執行されるシーンで終わる。山場らしい山場もなく、ドラマチックな展開もないのに、少しもダレることなく最後まで画面から目が離せない。脚本、映像、俳優の演技、すべてが素晴らしいからであろう。

 

『修羅の剣士』
 2016年の中国武侠剣戟映画。二三年前にWOWOWで放映された中国剣戟ドラマになんとなく似ている(とても面白かった)。ドラマの名前は忘れた。細かい展開はまるで違うのだが、心棒になる部分が同じに思えるのだ。もしかしたら原作が同じかもしれない。主人公よりも、主人公と戦いたくて修羅の道を突き進み、顔に異様な入れ墨までした剣士・燕十三(エン・シサン)がよかった。それほど評判になった映画とも思えないし、少しダレるところがあるが、つまらない作品の多い武侠剣戟映画としては、私は悪くないと思う。

映画三昧

 この数日で見た映画

 

『インポッシブル』
 2012年スペイン映画。2004年、クリスマス休暇にやって来たスペイン人の家族が、リゾートホテルのビーチでスマトラ島沖の大地震による巨大津波に巻き込まれる。父親をユアン・マクレガー、母親をナオミ・ワッツが演じている。母親と長男、父親と次男と三男の二手に分かれてしまった彼等が、互いの消息もわからないままに、それぞれにどういう運命をたどっていったか、最後まで息もつかせないようなハラハラドキドキの展開を描いて見せる。津波の怖さをこれでもか、というほど描いているので、東日本大震災の津波にトラウマを持ってしまった人は見るのがつらいだろう。

 

『フライト・ゲーム』
 2014年のアメリカ・フランス・イギリス・カナダ映画。リーアム・ニーソン主演。航空保安官の主人公はある出来事で心に傷を負い、アルコールに溺れながらかろうじて仕事をこなしている。仕事でニューヨークからロンドンに向かう便に乗るのだが、そこで事件が起こる。権限を持たないとアクセス出来ないはずの彼の特別な携帯に、ある口座に一億五千万ドル振り込まないと、二十分に一人ずつ人が死ぬ、という殺人予告メールが送られてくる。そして主人公が関与したかたちで予期せぬ死者が発生する。そして次の二十分に思わぬ人物が死ぬ。限られた時間の中で主人公は必死に犯人を捜すのだが、犯人の仕掛けた罠は巧妙で、航空会社も乗客も次第に主人公こそが実はハイジャックの犯人ではないかと疑い出す。困難な状況の中、さらに次の死者が出て・・・。飛行機内のパニックドラマはたいてい面白い。そのうえリーアム・ニーソンの出る映画はたいてい面白い。

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 もっと見たので、次回に続ける。

まず二つ

 放送大学の自然科学の入門講座『自然科学はじめの一歩』と文章講座の『日本語リテラシー』、各十五回を見終えた。それぞれを一日に一つずつ見るつもりだったが、時間があって余裕もあったときには二つずつ見た日もある。

 

 『自然科学はじめの一歩』は、総論、宇宙論と地球科学、生物学、化学、物理学、数学、さらにそれぞれの学問と数学との関係、そして最後がそのまとめとして、それぞれの目指すものについての講義であった。どの分野も膨大な知識のボリュームを抱えた学問であるが、その中の一部、ごくごく初歩的なものをわかりやすく紹介してくれている。基礎のさらにその手前のところであり、この次に初めて入門編に至る。こんどはそれぞれの入門編を見るつもりである。

 

 『日本語リテラシー』は日本語の特徴、それをよくわきまえた上で、人に伝わりやすい文章の書き方を学んでいく。主観的な文章と客観的な文章、接続語や助詞の適切な使い方、文体など教えられることが多かった。普段無意識に使っていたことばを、もう少し意識的に使うように心がけなければと思った。自己添削、という視点の強化が必要だろう。

 

 次は『初歩からの化学』と『世界文学への招待』という講座を見ていく。これも各十五回である。

 

 ちょっとだけお勉強したので、そのおかげ(反動)でエンターテインメントの映画を見る意欲がわいて、このところ毎日映画を楽しんでいる。どんな映画を見たのか、次回報告する。

2025年8月10日 (日)

卒業証書の不安

 伊豆の伊東市の市長が大学を卒業していたかいなかったのか、それで大もめにもめているらしい。こんなもの、卒業証書があろうがなかろうが、大学に卒業したという記録があるかないか確認すればすぐわかることで、どうしていつまでも真偽が問われているのか不思議である。卒業証書なんて、私だって今どこに行ったかわからない。探してみようと思ったことがないから、探せばあるかもしれないし、実家にあったままで、引っ越しのときに失われているかもしれない。もちろん就職試験のときには卒業見込み証明書を会社に提出した記憶があるから、多分卒業したと思い込んでいるが、三月には早めに寮を引き払ってしまったので、実際に卒業式に出た記憶があるようでないようで曖昧なのである。

 

 若いころ、単位が足らずに実際には卒業出来ていなかった、という夢を何度か見た。足りない単位は、たいてい体育の単位が足りないというのであった。どうでもいいと思っていたので実際に出席したのはわずかで誰かに代返を頼んだりして、きちんと単位をもらえるだけの出席をしていない。ほかにもどうして単位が取れたのが不思議なものにドイツ語がある。最後までちんぷんかんぷんであった。それが不安のもとで、こちらがどうでもいいと思ったことを体育やドイツ語の先生もどうでもいいと思って、たぶん単位をくれたはずだが、自信がないのである。だからそんな夢を見る。夢から覚めると心からほっとする。

 

 ご心配なく。もちろん卒業はしている。古い手紙や書類を整理していたら、卒業証書はなかったが、卒業証明書と取得した単位の一覧は見つけた。成績は悪いがその代わり、取れるだけの単位を、講義を受けたのにあえて試験を受けなかった一部を除いてことごとくきちんと取得している。けっこう真面目だったようだが、勉強はあまりしなかった。

 

 その反省が今頃になって放送大学の、歴史や文学や自然科学の基礎の講座をぼんやりと見ることにつながっているのだろう。ときどき学生時代の記憶がよみがえることがないではない。苦しんだ物理化学など、案外覚えていたりするから不思議だ。不勉強が身にしみるが、少しは学んだ下地があるから、いまなんとか面白く学べるのだと思う。学んだ尻から忘れるから、徒労に思えることもあるが、何もしなければもっと早くさまざまなものを失うだろう。まだ向こう側には行きたくない。

面白いものに出会う

 今朝は雨。気温も最近の日々と比べれば低いのだが、窓を開け放つ天気ではない。今日から三四日は雨らしいので、買い出しもなしで完全引きこもりを続けるつもりだ。大雨で被害の出ている場所の人はお気の毒だが、こちらはマンションの五階なので被害の心配も身の危険も感じることなく、雨がいくら降っても中庭を眺め下ろすだけである。それでも、過去旅の最中に恐ろしいような豪雨に何度か出会ったり、氾濫しそうな川のそばを走った記憶がよみがえったりしている。そこに住んでいたらさぞ不安であろう。

 

 放送大学のクラシック版として、2000年に放映された『特別講義 清朝末期の事件帖 画報を読む』という番組をなんとなく録画しておいた。おかげで面白いものに出会うことが出来た。19世紀末、日清戦争前後の時代に発刊されていた画報を紹介したものである。ごく薄いものだが、上海の出版社から数百冊が発刊されたようで、散逸したものも多そうだ。見開きの絵と、その余白に文章の入ったもので、取り上げられているのは日清戦争関連のものもあり、日本や西洋のことを取り上げたものも多いが、目を惹くのは怪物やオカルト趣味のものも少なくないことだ。人々はこういう話が好きなのである。

 

 当時はまだ庶民は文盲の人が多かった。だからこの画報をみなで眺めながら、数少ない文字の読める人(科挙の試験を受けるために勉強したことのある人など)に読み聞かせてもらいながら楽しんだのだと想像される。写真より絵の方が想像力をかき立てる力がありそうだ。わざわざそういうものを自分も見てみたい、というほどのことはないけれど、その時代に生きていた人々が何に関心を持ち、どんな情報を得て何を考えていたのか、そういうことをこの講義で教えられて、ちょっと私も興味を感じて面白いと思った。

2025年8月 9日 (土)

同感

 寺田寅彦の随筆を読んでいたら、

 

 いわゆる輿論とか衆議の結果というようなものが実際に多数の意見を代表するかどうか疑わしい場合がはなはだ多いように思う。それから、志士や学者が言っているような「民衆」というような人間は探してみると存外容易に見つからない。飢えに泣いているはずの細民がどうかすると初鰹魚を食って太平楽を並べていたり、縁日で盆栽をひやかしている。

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はなはだ同感である。

 

 別のところには、発表されて間もない頃のアインシュタインの相対性理論などについての物理学者としての言及があり(このことを書いた随筆は大正時代に書かれている)、たまたまEテレの『三か月でマスターするアインシュタイン』(毎週水曜日)という番組を楽しんでいるところなので、面白く感じた。もちろん私には「マスター」するのは無理だが、ささやかに楽しむくらいは出来る。

もう少し面白いと思っていたが

 映画『峠 最後のサムライ』(2022年)を見た。『雨あがる』や『蜩ノ記』の小泉堯史監督作品であり、『蜩ノ記』で主演を務めた役所広司が主人公の河井継之助を演じているし、多少は期待して見始めたのだが、面白くなかった。原作は司馬遼太郎の『峠』という小説である。私は読んでいない。読んでいたらもう少し感情移入できたのだろうか。

 

 とにかく主演の役所広司に熱が感じられないのである。これでは河井継之助ではなくて役所広司であり、まるで木村拓哉並みである。松たか子、榎木孝明、仲代達矢、田中泯など、脇役はそこそこ熱演しているのだが、主演が締まらないから全体がバラバラである。俳優が悪いのか監督が悪いのか知らない。それとも私が悪いのか。

 先日見た白石和彌監督の『十一人の賊軍』は同じ戊辰戦争の中の、長岡藩の隣の小藩である新発田藩が舞台で、こちらの方が遙かに面白かった。

2025年8月 8日 (金)

オーバーツーリズムと不心得者

 海外からたくさんの人がやってきて、その人たちがあふれることで一般市民が生活に支障を来してしまう状態をオーバーツーリズムというのだと思う。同時に人口減による人手不足で、バスの運転手やホテルの従業員、そして食事処の従業員が不足して、たくさんの観光客を受け入れきれなくなってしまうのもオーバーツーリズムだ。副次的に地価が上がり、旧来の地元の商店が立ち行かなくなり、観光客だけを目当ての土産物店だらけになってしまい、元々のその土地ならではの良さが失われてしまう。地元の人が暮らしにくくなって逃げたしてしまえば、伝統も文化も持続出来なくなって、たとえば京都が京都ではなくなってしまう、などということになれば誰も来なくなるだろう。そうなれば取り返しがつかない。

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 海外からの観光客は日本の習慣を知らない。日本人にはあたりまえに身についているマナーの感覚を持たない観光客も多い。やはりしてはいけないこと、したら嫌われることを、観光関係の業者は客にきちんと伝えるべきだろう。それを怠っている場合はペナルティを科すことも必要だと思う。それは外国人ばかりではない。日本人に染みついた悪い観念である「お客様は神様」をまともに受け取る愚か者もいる。ようやく不心得者はきちんとお仕置きするように世の中が変わりつつあるのはさいわいである。これも人手不足で、客の言いなりではどこも成り立たなくなってのことであろう。かくも長い間放置されてきたか考えると、どれほどの人が不愉快と哀しみを我慢してきたか。

 

 人が過剰にひしめくときこそマナーが必要で、それを理解できない者は排除されるように、そろそろ世の中が変わらないと、生きづらくていけない。それこそが共存の道なのだから。

行くところがだんだんなくなっていく

 十五年ほど前にリタイアしたときは、愛車を駆使して全国を走り回ったし、友達と海外に行ったりした。それとは別に中国には一人で行った。当時は民主党政権時代が重なり、その施策の一つ、高速道路の大幅割引があって、これには大いに助けられた。記憶に残る唯一のよい政策だった。とはいえ少しずつ使うつもりだったささやかな蓄えや退職金は瞬く間に半減して、いい加減にしないと先が見えてしまう事態になって焦ったものだ。

 

 京都にもよく行った。朝早く出て一日歩き回り、夕方大阪の友人と待ち合わせて飲んで新大阪や天王寺に泊まり、元気がよければ翌日は大阪を少し歩いて名古屋に帰った。最初は京都巡りはとても楽しかったが、次第に観光客が増えてきて、大好きな哲学の道の散策も、人混みの中を歩くようになっていった。周りから聞こえるのは日本語ではなくて中国語である。日本人も多いけれど、中国人は声が大きいので、中国人だらけのように感じてしまう。彼等は周りに気を遣うという習慣がないから、人通りで立ち止まったりして邪魔になっても気にしない。行きたいところはほとんど歩いたし、バスも混み始めたし、渋滞もひどくなって時間が読みにくくなったので、京都歩きはやめることにした。それがオーバーツーリズムを実感した最初の経験だ。そのあとさらにひどくなったのだから、ますます行く気にならない。

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 そのあとは奈良を歩くようになった。行く場所を決めて、一日かけてその周辺を歩きとバスで訪ね歩いた。飛鳥路など、三回か四回歩き回って、いにしえを偲んだ。それもコロナ禍以来、足が遠のいてしまった。今年兄弟で久しぶりに訪ねて、やはり奈良はいいなあと改めて感じた。幸い奈良公園周辺以外はまだオーバーツーリズムにはなっていないが、多分時間の問題だろう。高山や白川郷など、以前はいくらでも車がおけてゆっくり散策出来たのに、今は観光バスがあふれかえり、人でごった返している。

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 だんだん行くところがなくなっていく。それはもう行ったことがあるからよりも、オーバーツーリズムによるところが大きい。思ってもいないところが混んでいて、宿が取れなかったり、泊まるのを逡巡するほど高くなったりしている。こういうことも外国人に反発を感じる一つの要因になっているかもしれない。

 

 なんとかそれでも観光地ではなくて、それなりに心にしみる場所を探して旅をしたいものだと地図を眺めている。

孤独と沈黙

 ムードメーカーなどという人があまり好きではない。やたらに賑やかな人も苦手である。タレントでバカ声を張り上げている人や浮き上がるほどはしゃぐ人も嫌いである。もとスポーツ選手だった人にそういう人が多い気がする。そういう人が嫌いだからといって、私は人嫌いというわけではない。

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 人は孤独に強い人と弱い人に分けられる気がする。(私にとって)うるさい人というのは、実は孤独に弱い人なのかもしれないと思っている。孤立することに耐えられずに周りに自分をアピールせずにはいられないのだと思う。必要なときに語り、必要でないときには沈黙する、そしてときに孤独の中に自らを見つめ直す。沈黙に耐えられない人はつまり孤独に耐えられない人であり、内省する力の弱い人ではないか、などと勝手に決めつけている。

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2025年8月 7日 (木)

片付ける

 ネットで手頃そうなプラスチックボックスを取り寄せた。これも卓上のマガジンラット同様組み立て式であるが、こちらは日本製らしく、組み立て図もわかりやすい。はめ込みは簡単できっちりしている。それに上からも横からも中のものが取り出せて便利である。これは食器棚の下の開き戸の中に使うつもりである。もらい物の食器など、たくさんの使わない食器があり、思い切って捨てるものは捨てることにしたが、まだ捨てきれないものも多い。それを箱の中で積み重ねて入れておけば、地震があっても転げて割れる心配がないし、スペースを確保出来る。

 

 けっこう時間をかけて二箱分を整理したが、なかなかすべては片付かない。一汗かいたら片付けに飽きてきた。三箱セットを購入したので、残りの一箱をどうするか考慮中。あまりきっちりしすぎると取り出すことが困難になってしまい、整理したことにならない。いつも中途半端だなあ。 

『みをつくし料理帖』

 ぼんやりと時間を空費していると、そのときには時間がゆっくりすぎているように感じるのに、過ぎてみれば何かをせっせとしていた一日の方が長く思われ、無為の日はあっという間に過ぎたように思われる。何かをしたという記憶、それがあるとないで時間の長さが違う気がする。ここのところ時間が過ぎるのが早い。そして怖くなるほど、どんどん早くなっている。

 

 映画の『みをつくし料理帖』をようやく見た。高田郁原作のこの物語は、NHKの連続ドラマで見た。黒木華主演で、忘れがたい記憶に残るドラマだった。共演の森山未來は背筋の伸びた演技をする、私の好きな俳優で、このドラマでも素晴らしかった。黒木華はもちろん魅力的で、この主人公を演じるのは黒木華しかいないと思わせた。

 

 だから映画化されたときに主演が黒木華ではなくて松本穂香であることで、イメージが損なわれてしまうのではないかと思い、録画してあったけれど見るのをためらっていた。だから「ようやく」見たのである。松本穂香はゆっくりしたところが魅力的な女優で、好きである。心配することはなかった。この映画はこの映画なりによく出来ていて、感情移入してときどきうるうるしながら楽しく見ることが出来た。

 

 ほんとうは主人公の澪が意地をむき出しにして激しく敵に立ち向かう(もちろん料理によってである)シーンが原作にはあって、ドラマではそれがよく描かれていた。黒木華がそのような場面を演じると、彼女の優しそうに見える概観から、意外な迫力が生まれる。自ら自分を窮地に追い込み、そしてそれをはねのけていくその強さ。それがこのドラマの魅力の一つなのである。痛快なのである。映画ではその辺は描かれていない。それを描き出すとそれぞれの話ごとの映画作品をつくらなければならなくなってしまうからだろう。

 

 ちょっとだけテンションが上がった。本はあまり読めていないけれど、映画はそこそこ見ている。つまらない映画は見ながらうつらうつらする。見直したりしないで消去する。

2025年8月 6日 (水)

どうしてあんなに嫌いだったのだろう

 暑くて引きこもり中でもあり、暇なので少しお勉強を始めたことは先日このブログに書いた。放送大学の基礎知識の講座から一つか二つを録画して(いまは自然科学の基礎と日本語リテラシー)、一つずつ毎日見ている。それとは別にEテレの高校講座から、日本史、世界史、地学を録画して見ている。こちらは一つ20分ほどだし、高校生向けでやさしい(少しやさしすぎる)。私は自分の高校生時代にもっとも苦手だったのが、英語と古典と世界史だった。特に西洋史は全く興味を持てなかったし、大嫌いだった。

 

 今日の講座で学んだのは、ルネサンス以後、神聖ローマ帝国が衰退し、プロテスタントの台頭とカトリックの宗教戦争のかたちで現在のドイツあたりを舞台に三十年戦争が起きたこと。最初は宗教戦争だったのが、デンマーク王やスウェーデン王(どちらもプロテスタント)がそれに介入し、さらにカトリックの大国フランスが介入して大きな戦争になったこと。それがウエストファリア条約が結ばれて収束し、スイスとオランダが国家として承認され、これ以後ヨーロッパは主権国家の時代となったことなど。

 

 三十年戦争やウエストファリア条約というのを聞いたことはあるが、いつのどんな戦争だったのか、どうして起きてそのあとどうなったのか、何も知らなかった。世界史の授業で習ったはずであるのに皆目記憶にない。苦手の前に、そもそもまるで学んでいなかったのだ。この後そのオランダにフランスが侵略を仕掛け、それをイギリスが応援して・・・という経緯も初めて知った。そのあとのフランス革命、ナポレオンの出現と続くのである。せめて概観だけでもつかめていれば、もう少し面白く世界史を学べただろうに、いったい私は授業中に何をしていたのだろうか。 

マップトラベル

 昨晩、寝床にドライブ用の地図を積んで、めぼしいところがないか物色した。そうして同時に自分が訪ねたことのある場所を見つけてはそこでの景色や出来事、そしてそこで感じたことなどを思い出したりしていた。思えばずいぶんあちこち行ったものだ。見たことのない何かを見る事が出来るのではないかという、そこへ行く前のときめきなども思い出しながら、いまはそのときめきが、ひところよりだいぶしぼんでしまったことを哀しく思った。

 

 旅に出れば行った先で歩き回りたい。見所は道路脇ばかりではない。いまの旅はどこへでも車で行くことが出来るとはいえ、体力はそこそこ必要だ。いまの体調ではその体力に自信がない。車窓からただ眺めてしみじみする、というのもそれはそれで悪くないが、持ち帰るものが(思い出)少なすぎる。

 

 この時期は人出の少ない地方へ遠出をすることが多かった。それなら東北の北部、四国、山陰などをディープに訪ね歩く、などという想定で行く。そう思いながら地図でそのコースをトレースする。マタギの里の打当温泉など、また行きたいところだ。四国もゆっくり旅をしたのは二回だけで、帰った後でここも行きたかった、というところがいろいろあるから、そこを今度は訪ねたい。山陰は好きなところで、何度でも行きたくなる。長旅をするなら、九州南部の宮崎や鹿児島をゆっくり訪ね歩きたいと思う。この辺は若いときに一度、その後は仕事で三度ほど行ったことがあるだけで、車で行く元気のあるうちにどうしても行きたいと思う。北海道への長期旅行はずっと前から考えていたのだが、人出の多い観光地ではなく、人の少ない場所を走りたい。当然熊の出そうなところばかりだ。前回はそういう場所にどんどん分け入っていたが、いま思えば「熊出没注意」の看板だらけだった。よく無事だったと思う。

 

 そんなことをしているうちに何時の間にか眠りについていた。

打ち出の小槌

 子供のころ、おとぎ話に出てくる願いのかなう打ち出の小槌にあこがれた。ファンタジー小説やファンタジー映画でも、そういう万能の道具や魔法へのあこがれは物語の面白さの主要な要素だろう。忍術で姿が消える、などという話や、超能力なども、自分に備わったらどれほど嬉しいかと思ったものだ。実は自分にも能力が眠っていて、強く強く念ずれば出現する、などと信じて心と力をこめてみたたものだが、残念ながら自分には備わっていないらしいことを思い知らされてひどく落ち込んだものだ。

 

 トランプは、関税という幻想の打ち出の小槌を振り回している。この打ち出の小槌を振り回せば、アメリカに富と繁栄が怒濤のように返ってくると信じているようだ。ただ、この打ち出の小槌はないところから何かが生ずるものではなく、アメリカに利があれば、誰かがその分損をするという打ち出の小槌である。損をする側は相手に恨みを持つ。利益を生み出せば生み出すほど、同時に恨みが振りまかれるという呪いが付随した魔法の道具である。

 

 トランプは魔法の道具を手に入れた子供のように、自分が神になったような陶酔の中にいる。そうして呪いが世界に振りまかれ、やがてその呪いは彼自身に、そしてアメリカにその報いをもたらす。それは使えば使うほど増大し、それを免れることは出来ない。

2025年8月 5日 (火)

寿命を縮める

 夜、眠りが浅いので、昼間たびたびうつらうつらする。それなのに夜の九時前から眠くなり、寝床に着くと、案外スムーズに眠りにつける。しかし、寝返りを打つたびに肩の痛みで目が覚めてしまうから、眠りが細切れになる。それで起きだして水を飲んだりトイレに行ったりしてしまう。そうして、細切れの睡眠による寝不足で昼間眠くなり、またうつらうつらする。延べの一日の睡眠時間が猫みたいに長くなっているが、よく寝たという気がしない。肩の痛みはひところの激しい痛みではないから、不愉快ではあるが耐えられないことはないものの、どうも身体のリズムを崩す原因になっている。

 

 北関東の群馬県伊勢崎では日本の最高気温の記録を塗り替えたらしい。桐生や前橋もそれに近い40℃超えという異常な暑さだ。この暑さはすべての人にこたえているけれど、特に高齢者と持病のある人にダメージを与え、寿命を縮めている。糖尿病の人の熱中症になる率は、そうでない人よりも高いらしいし、その身体へのダメージは回復しにくいものだと医師がテレビで語っていた。確かにそれは実感している。体調不良には理由があるのだ。肩の痛みも神経や関節の炎症によるもので、これは代謝能力の低下が関係しているのだそうだ。年寄りや病人を自然がまず淘汰しようとでもいうのか。その自然をこんなことにしたのは人間だけれど、無意識にそうして人口調節に加担させられているのかもしれない。

 

 それにしてもエアコンは万能ではない。やはり不自然なのだと思う。冷えると肩が痛いし、水分もせっせと摂るから身体がむくんだりする。涼しいところで過ごしたら良さそうだが、いまは自然に涼しいところがあまりない。家に引きこもっているから汗をかくことが少ない。これでは代謝が不十分になるのは当然だ。危険を冒して汗をかくか、ひたすら暑さが過ぎていくのを待つか。あさってあたりから雨降りの日が混じりだして気温も少し低下するらしい。少しはしのぎやすくなるだろうか。

大国インド

 トランプ大統領が、ロシアから石油を大量に輸入しているインドに対して、輸入をやめろ、やめないと懲罰を加えるぞ、と恫喝したが、インド政府は輸入を続けると発表した。懲罰とは何か具体的によくわからないが、どうせ関税を上げるぞとかインド人をアメリカから追い出すぞ、というところだろう。インドにしたら、アメリカの一方的な脅しに屈するよりも、安いロシアの石油を買い続ける方がずっと自国のためになると考えたのだろう。

 

 ロシアを経済的に支援することになってしまうことは問題だが、ロシアも、中国やインドしか売り先がなくて足下を見られており、かなり安く買いたたかれているらしく、必ずしもさほどの利益になってはいないともいわれる。

 

 アメリカの、つまりトランプの理不尽な恫喝に屈するしかない世界の国々は、このインドのアメリカに対する態度にうらやましさを覚えているのではないか。出来るならそうしたいと心から思っているだろう。中国などは、インドを見て心強く思ったのではないだろうか。アメリカとの貿易額が最も多く、アメリカから巨額の貿易による利益を得ている中国としては、ある程度アメリカに妥協せざるを得ないとは思っていても、アメリカだって中国抜きには成り立たない状態でもある。多少のダメージを受けても、アメリカに思い知らせてやりたいと思っていないはずはない。今のところカードはレアアースだけに見えるが、国民の犠牲を覚悟すればとことん強行に出ることもあり得る。そして中国という国は国民の利益は最優先事項ではないと考える国だ。

 

 経済、つまり金だけで世界とディールしようとするトランプにとって、損得だけではないのだ、と考える国は理解不能なのだろう。インドの態度に戸惑っているに違いない。トランプが強硬な態度に出ればどうなるのか、不謹慎ながら興味深い。インドも名実ともに大国になった。

 

 アメリカがインドに無視され、中国に反発され、みっともない姿をさらせば、世界は次第にアメリカを見くびるようになり、なるべくアメリカと関わらない方向に向かうだろう。アメリカは偉大な国から偉大だった国になっていく。日本は密かにアメリカ抜きのグループを形成して生き延びるという手もあるだろうが、いまのままアメリカにしがみついてばかりいては一緒に没落するだろう。仕方がないか。

2025年8月 4日 (月)

物議を醸しているそうだが

 ある韓国の高官が「慰安婦被害者は絶対善ではない」と発言したことが韓国で物議を醸しているそうである。ここで判断に迷うのが、「絶対善」ということばで、これは慰安婦であることは何が何でも善であるという意味なのであろうか。慰安婦であることは水戸黄門の印籠のようなものであって、神聖冒さざるものということか。世の中に絶対に善であるものなどない(多分)から、高官の発言はそれを「ではない」と否定したのだ。あたりまえに読める。

 

 それに対して、「頭は正常か」、「暴言にもほどがある」などと非難が相次いでいるらしい。しかしそこまで感情的に非難するのもどうかと思う。しかし非難があまりに激しいので、まさかとはおもうが、実はこのことばは「慰安婦被害者は、絶対、善ではない」という意味で受け取られているのだろうかとも思えてくる。これでは慰安婦は悪だ、といっていることになる。それなら「暴言にもほどがある」というのは頷けないことはない。

 

 こういう論争のある問題について、「絶対」ということばはなじまない。それなのにそれが使われるのは、韓国ではこういう使われ方が日常的な文化なのかもしれないと思ったりする。話が通じにくい文化に見える。

追記

 記事を背景からよくよく読んだら、上の文章には補足が必要なようだ。あの慰安婦を食い物にし続け、挙げ句の果てに国会議員になった尹美香を、五年前に慰安婦の一人である李容沫が告発した。その尹美香を擁護する意味で、告発した慰安婦の李容沫を「慰安婦だからといって絶対善ではない」「(この慰安婦の告発は)支離滅裂な話で、政権(文在寅政権)を傷つけようとしている」と発言した政府高官がいた。その発言内容がいま明らかになって「物議を醸している」のである。しかし尹美香に乗せられ、慰安婦問題で盛り上がり、反日を声高に叫んでいたその人たちこそ、今まさに騒いでいる人たちにも思える。勘ぐりすぎか。

思い切って購入する

 ノートパソコンが二台とデスクトップパソコンが一台現役稼働していたが、ノートブックのうちの一台が春先にご臨終になった。そしてデスクトップは十年ほど前に購入したWindows 10パソコンで、残念ながら古いので、11にバージョンアップが出来ない。万一生き残りのノートパソコンに何かあると、秋には万事が窮する。以前からデスクトップを物色していたのだが、帯に短したすきに流しで、迷いに迷っていた(迷うのも楽しいが)。

 

 そろそろ決めようと思っていたときに、なんとなくピンときた機種があった。スペックは必要よりも少し高いが、長く使うのだからそれでいいだろう。カスタマイズ出来る製品なので、不要なものは省き、必要なものを追加して注文をした。最短で三週間くらいかかるというので到着は月末だろうか。これだけかかるのは国内ではなくて海外で組み立てるのかもしれない。中国か?いまはそれも仕方のないことだ。

 

 体調不良でこの三ヶ月近く、遠出をせず、そのぶん散財も控えていたので、多少は出費の足しになるであろう。あと一月大きな出費の予定もない。デスクトップパソコン用に大画面のモニターがある。椅子に座って作業することになるが、文章を打ち込むのも画像処理にも大画面の方が楽だし、椅子なら立ったり座ったりが楽である。やってきたらせいぜい働いてもらうことにしよう。

先人を敬する

 ささやかながらお勉強をしていると、それぞれの学問がいまの体系化されたものになるまでに先人がどれほどの試行錯誤を重ねてきたのか、そのことを改めて教えられる。昔の人はこんなことも知らなかったのか、などと賢しらに言うような若者を見ると、少し腹が立つ。

 

 先人がいてこその自分だということを忘れるから、先人に対する敬意を忘れる。他者に対して敬意を示すことは虚礼だ、などと思い込んでいる。不要な虚礼がないではない、しかし敬意を知らずして虚礼とは何かを判別出来るわけがない。だから言葉遣いがぞんざいになり、誰に対しても友達ことばになる。

2025年8月 3日 (日)

語尾と論理

 日本語は結論がことばの最後に来ることが普通だから、語尾が不明瞭だと、言っていることがわかりにくくなってしまう。歌手でも、語尾がきれいに発声されていると聞き取りやすく歌詞の意味も伝わりやすい。私が高田みずえが好きなのも、とりわけ語尾が明瞭な歌手だからだ。剣道や空手など、気合いを発する格闘技をした人は声がよく通るから聞き取りやすい。呼吸が違うようで、語尾で声がへたれてしまうこともない。それでなくても耳が遠いので、語尾が不明瞭な人の言葉を聞いているとたいへんくたびれる。講義の先生にも聞き取りにくい人がいるし、気象予報士にもたまにいるし、海外ニュースの通訳の人にもしばしばいる。人にものを伝える仕事なら、そこにもう少し自覚を持ってほしいと思う。

 

 日本語リテラシーの講義で、「文章の論理はつながりにあり」として、接続語の大切さを教えられた。最初、何を言っているのだ、と思ったけれど、実際の文例をたくさん取り上げて説明されて最後はひどく得心がいった。つながり方が拙劣だと伝えたいことの筋が通らず、論理性を欠いてしまうのだ。自分がいかにぞんざいに文章を書いていたかを思い知った。とはいえ一朝一夕に良くなるとは思えない。とにかくきちんとした文章をもっと意識しながら読んで、そこから少しずつ身につけるしかない。さいわい手持ちの昭和文学全集には評論文が山のように収められているので、それを引き続き読んでいくことにしよう。小説より評論の方が参考になるはずである。

やってみたらいいじゃないか

 トランプがいいがかりをつけて統計局長を更迭した。次に統計局長になる人物は、トランプがよろこぶような統計数値を発表するような人が選ばれるのだろうか。トランプはそれを期待しているだろう。そしてアメリカの統計数字は信用されなくなり、誰も参考にしなくなるだろう。

 

 FRBの理事が二人辞めるそうだ。理事の任命権は大統領にあるから、トランプの意向に沿う理事が選ばれるだろう。パウエル議長はやめろコールに対してまだ頑張っている。金利は理事の多数決で決まるかどうか知らないが、もしそうならいまに衆寡敵せずということになるだろう。

 

 トランプのいうとおり、統計数字をいじって雇用は順調に拡大していると発表し続ければいい。FRBは金利をどんどん下げたらいい。その結果どうなるのか、専門家はほぼ確かな予測を立ててはいるが、世の中奇跡が起きないとは限らない。アメリカ経済は好転し、さらに繁栄し、偉大なアメリカが、アメリカだけが豊かな時代が再来しないとは限らない。

 

 専門家のいうとおりのアメリカ経済の取り返しのつかない破綻がやってきたら、アメリカだけでなく世界が困るけれど、アメリカのおかげで、していいことと悪いことを学習することが出来るかもしれない。勉強だと思ってやってみたらいいじゃないか。あとは知らない。

2025年8月 2日 (土)

書き方読み方

 少しずつ集中力が低下している気がする。一時的に集中出来ても、その持続力が低下している。自分で思うより傍で見たらもっとひどいかもしれない。私は、人生で一番大事なことは集中力だと思ってきた。ここ一番のときに力が発揮出来るかどうかが人生を左右するのだと思ってきた。肝心なときに底力が出せないのは、もともと力がないからなのだとさえ思う。そのためには、自分の中にそのための材料とエネルギーをため込んでおかなくてはならない。毎日が日曜日の、至福の(つまりだらけた)暮らしを続けていると、その蓄えが底をつき、とうぜん集中力が低下するのである。

 

 そういうわけでEテレの高校講座の中のいくつか(日本史、世界史、地学や化学)を拾い見していたのだが、以前書いたように、講座に高校生らしき男女が出て先生と会話する、その言葉遣いが気になって仕方がない。バカ丁寧ではなくてもいいけれど、少しは知らないことを知る手助けをする相手に対する敬意を示したら良かろうと思うが、お友達口調なのである。多少はお勉強になってありがたいけれど、物足らない。

 

 そういうわけで、もっとちゃんとお勉強をするために、放送大学にチャンネルを合わせ、いくつか録画している。大体一講座45分、全15回。けっこう中身がある。いまは録画した中から『日本語リテラシー』という講座と、『自然科学はじめの一歩』という講座をそれぞれ第四回までお勉強した(一日に各講座一回分ずつ、あわせて90分のお勉強)。このごろ睡眠が浅いので、集中出来ないと、すぐうつらうつらする。しかしありがたいことに録画だから、わからなかったり、寝ていて見損なったところはもう一度見ることができる。『自然科学・・・』の方は第一回が総論で、第二回から第四回が宇宙と地球についてであった。次回からは生物についての講義が始まる。

 

 『日本語リテラシー』のリテラシーとはそもそも読み書き能力のことだから、日本語の読み書きの講義で、講師の主なテーマは正しい文章を書くための基礎知識を身につけるということだという。前回の第三回では、日本語が漢字とかなとカタカナの三種類も文字を使うことについて、その使い分け、それぞれの成立の歴史的背景と役割、それによる日本語の特徴が面白く説明されていてたいへんためになった。今回の第四回は、読み方についてであった。講座の目指す目的は書く力をつけるためのものだが、書くということは読み手を想定しているわけで、書いた人が何を伝えたいのか、それを正しく読み取れなければ正しく書けるわけがないのである。そうして例文をいろいろ引用して、その解析をした。

 

 ブログを書いていても、読み手を意識して書く、ということをつい忘れている。だから面白くないし、間違った受け取り方をされたりするのであろう。反省する。ところでこの頃本を読むときには以前よりも著者のこと、なぜその文章を書いているのか、その背景は何か、そういうことにこだわって読むようになっている。自分なりに、ささやかながら進歩したと思っている。評論が面白いのは、そのような背景を詳しく調べて教えてくれるし、考察を加えてくれて大変参考になるからである。読みが立体的になる。

今朝の雑感

 昨日の名古屋の最高気温は38.9℃、今日の最高気温の予報は39℃である。なかなか厳しい。エアコンがあるからしのげているけれど、なかったら寿命を縮めるところである。しかし考えてみれば、そのように人類が自らの快適性のためにエネルギーを使っているから地球温暖化が加速しているのであって、これでは止めどがない。

 

 昨日のブログに、中国女性の観光客が日本の地下鉄で不愉快な目に遭ったと騒いでいて、それが中国のネット上で盛り上がっているらしいとのニュースを取り上げたが、今朝のニュースを見て驚いた。中国の蘇州市の地下鉄で、日本人の母子が襲われてけがをしたという。石のようなもので殴られたのだそうだ。幸い命に別状はないらしいが、昨日の今日のことで、同じ地下鉄での出来事である。まさか昨日のニュースで盛り上がった誰かが報復に出たというわけではないと思うが、中国は経済不調からいま社会不安が増大し、それを習近平は上から押さえ込んでいて、そのはけ口が日本人に向かった可能性が大きいように推察する。反日有理がまた頭をもたげ始めたなら怖いことだ。

 

 アメリカの五月の雇用統計が下方修正され、1ドル150円まで値下がりしていた円が147円台に戻った。そしてニューヨーク株式市場は500ドル以上の値下がりとなった。これをどう捉えるかはもう少し長いスパンで見ないとならないが、明らかにアメリカ経済がマイナス方向に動き出した兆しだと見られないことはない。

 

 それはトランプにとっては望ましいことではなく、不愉快だったのであろう、なんと労働統計局長を解任した。この労働局長は「大統領選の最中にカマラのために就業者数を偽装した人物だった」からだそうで、今回大幅に下方修正されたのは「大きなミスだ」と批判した。中国ならいざ知らず、そもそもアメリカで統計数字を勝手に偽装するなどということがまかり通るとも思えない。もしトランプのいうとおりなら、アメリカの信義は中国並みに凋落したということではないか。

 

 正しい統計数字と事実に基づく下方修正なら、それを不愉快だからミスであるなどというトランプは、いくら何でもひどすぎると思う。これではお花畑の住人ではないか。救いがたい。

2025年8月 1日 (金)

魔女狩り

 トランプが、ブラジルの現大統領が前大統領を告発したことを、魔女狩りだ!などと非難している。彼のハーバード大学に対する異常な仕打ちは、私などから見れば、そちら方がよほど魔女狩りに見えるが、そもそも魔女狩りというのはそういうものなのかもしれない。

 

 『現代の魔女狩り』という少し古い本を読んでいるが、前半は歴史的に、悪霊や魔女、憑きものなどが世界に普遍的な存在であったことが説明されている。日本でも「狐憑き」や「犬神」などの例がある。

 

以下はその一部の引用

 

 悪霊や魔女が、このようにほとんどあらゆる社会に普遍的な存在であるという事実は、彼らが・・・あるいは彼らの実在についての信念が・・・何らかの積極的な社会的機能を果たしていたことを、たとえば人間社会の秩序維持に役立っていたかもしれない、ということを示唆するものである。あらゆる存在が「合理的」であるかはともかくとしても、普遍的・持続的に存在するものは、それなりの「合理性」をもっていると考えた方がよいのであろう。あるいは、人間や社会は、普遍的・持続的に存在するものに対しては、その存在が自らにとって積極的な意味を持ち得るように(つまりそれが「合理性」を獲得するように)、自分自身を再組織し適応していく能力を持っている、と考えた方がよいのであろう。
 人間は、一生の間にさまざまな不幸に遭遇する。愛する人の死、貧困、疾病、失意等々。中でも、普通の人間に取ってとくに耐えがたいのは、他人と違って自分だけが特別の不幸に見舞われていると感じる場合であろう。また、幸福とか不幸といっても結局は自他の比較によって知られる相対的なものであることからすれば、自分と競争関係にある他人の誰かが特別に恵まれているように見えるときにも、人はしばしば痛切な挫折感を抱くであろう。したがって不幸は、単にそれに見舞われた(と感ずる)個人の内部に心理的な緊張を引き起こすだけでなく、彼を取り巻く社会関係にも緊張をもたらしがちである。
 こうした際に、自分の不幸の原因が除去可能なものとして納得的に説明できるのであれば、先に述べたような心理的・社会的緊張は大幅に緩和されるであろう。個人の心理的安定と社会の秩序維持のために、悪霊や魔女の存在が必要であった(あるいは少なくとも有用であり得た)。
 理由はその点に求められる。

 

 トランプは、アメリカに赤字をもたらし不幸にした、不公平で理不尽な存在として、世界を相手に関税という鉄槌を下そうとしている。アメリカの不幸な(だと思っている)人びとは、そのトランプに拍手喝采している。 

Dsc_0755

 世界には魔女と魔女狩りがひしめいているかのようだ。どちらがどちらか私にはもう区別がつかない。

雑感

 名古屋地区は本日から猛暑がさらに殺人的になるらしい。必要最小限の外出にとどめ、おとなしくしていることにするつもりだ。

 

 岩手県の公務員が、台湾でスカートの中を盗撮したとして有罪判決を受けたそうだ。こういうことをして捕まれば、どれほど恥ずかしいことになるのかわからないはずがないのに、自制出来ずにそれをしてしまうのは愚かなことだ。どうしても我慢出来ないから病気なのだ、などと言われることがあるけれど、被害者の不愉快さを思えば、病気だから仕方がないでは済まされない。岩手県はこの件について台湾に謝罪したそうだから、台湾での処分のあとには日本での処分も待っている。

Dsc_2058台湾士林夜市

 中国人女性が日本に観光に来て地下鉄車内で嫌がらせを受けたと主張し、中国の一部で盛り上がっているらしい。彼女の膝の上に乗ってきた女性がいるというのだが、日本ではそんなことをする人間は普通いない。ほんとうなら狂人である。その前後のいきさつもあるようだが、一部始終を見た人間にしか事実はわかりようがない。不愉快な経験をしたということなら二度と日本には来ない方がいいだろう。多分世界中どこへも行かない方がいいと思う。

 

 今回のテレビでの津波情報を過剰ではないかとブログに書いたが、中国のブロガーが日本の津波情報は丁寧でわかりやすく、海外の人も情報を入手出来て素晴らしいと褒めていて盛り上がっているそうだ。いいことなら中国もまねしたらいいだろう。しかし情報をなるべく伝えない、というのが中国当局の基本方針みたいなところもあるから、難しいのかもしれない。そのことを暗に皮肉ってのこのブロガーの話だろうか。それなら当局に、余計なことをいうな、と目をつけられたかもしれない。 

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